戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
数字には、重さがある。
紙の上に並んでいるだけなら、ただの線と点のはずだった。けれど、アヤネさんが一つずつ読み上げるたびに、その数字は机の上へ落ちて、乾いた音を立てるみたいだった。返済額。利息。維持費。補修費。弾薬費。水道設備の修繕に必要な見積もり。食料備蓄の残量。紙の端に書かれた小さな数字まで、全部がこの学校を少しずつ押し潰している。
私はメモを取っていた。
取っているつもりだった。
でも、途中からペン先が遅くなった。アヤネさんの声は落ち着いている。落ち着いているからこそ、余計につらい。慌てたり、泣き出したり、怒鳴ったりしてくれた方が、まだその場の感情として受け取れたかもしれない。でもアヤネさんは、何度も確認した数字を、何度も使ってきた資料を、今日もきちんと説明している。
慣れているのだ。
借金という言葉を口にすることに。
毎月の返済予定を見ることに。
学校が少しずつ削られているのを、表にして、資料にして、報告できる形に整えることに。
それが、胸の奥にざらりと残った。
「現在、アビドス高等学校が抱えている債務は、この通りです。もちろん、一度に全額を返済する必要があるわけではありませんが、毎月の返済額だけでも学校運営を圧迫しています。生徒数の減少に伴って収入も大きく減っているため、返済と維持費を両立するのは……正直、かなり厳しい状況です」
アヤネさんのペン先が、資料の同じ行を二度なぞった。
ほんの少しだけ。
でも、その動きが目に残る。
セリカさんは椅子の背にもたれ、腕を組んでいた。足先が床を小さく叩いている。苛立っているのだとすぐ分かる。でも、その苛立ちはアヤネさんに向けられているわけではない。資料にも、先生にも、私にも、たぶん全部に向いていて、でも本当はどこにもぶつけられないものだった。
ノノミさんは微笑んでいる。
いつもの柔らかい笑顔。けれど、返済額の話に入ったあたりから、目元だけが少し動かなくなっていた。口元は笑っているのに、机の下で重ねた指が、ゆっくりと握り込まれている。
シロコさんは黙って資料を見ている。表情はほとんど変わらない。けれど、地図の端に書かれた通行不能区域を見る時だけ、視線が少し長く止まった。
ホシノ先輩は、頬杖をついて眠そうにしていた。
でも、眠ってはいない。
返済予定の数字が読み上げられた瞬間、半分閉じていたまぶたが、ほんの少しだけ持ち上がった。その小さな動きが、かえって怖かった。普段だらしなく見える先輩が、どこを聞き流して、どこを聞き流していないのか、急に分からなくなる。
「……つまり」
セリカさんが低く言った。
「普通に返してたら終わらないってことでしょ」
「セリカちゃん、言い方……」
「だってそうじゃない。節約して、バイトして、襲撃の後片付けして、壊れたところ直して、それで返済日にお金払って、また足りなくなって、次の月も同じことして。これでどうにかなるなら、とっくにどうにかなってるわよ」
言葉は荒い。
でも、誰もすぐには否定しなかった。
できないのだと思った。
セリカさんの言葉は乱暴だけど、乱暴なだけではない。ここに残っている人たちが、何度も考えて、何度も行き詰まって、それでも毎朝この学校へ来ていることを知っている声だった。
先生は静かに資料を見ていた。机の上に置かれたシッテムの箱が、薄く光っている。アロナさんからの通知なのか、内部の計算なのか、私には分からない。先生の指は端末の縁に添えられていて、その顔は落ち着いている。けれど、軽く見ているわけではないことだけは分かった。
「支出の中で、すぐ削れるものはある?」
「すでにかなり削っています」
アヤネさんが答える。
「食費、備品、修繕、弾薬、通信費……必要最低限に近いです。もちろん、ノノミ先輩が一部を負担してくださっているものもありますが、それに頼りきるわけにはいきません」
「ううん、私は大丈夫ですよ〜。みんなでお茶できる分くらいなら、いつでも」
「その“いつでも”が問題なんです。ノノミ先輩のお金を学校運営の前提にするわけにはいきません」
アヤネさんの声は真面目だった。
ノノミさんは困ったように笑う。
その笑顔に、少しだけ影が差した気がした。
お金がある人が払えばいい、という話ではないのだ。学校を残すために、誰か一人の優しさを使い続ける。それはきっと、別の形でその人を削る。救護騎士団で教わったことと似ている。誰か一人だけを救護対象から外して、そこに全部を乗せてはいけない。
ペンを握る指に力が入った。
「じゃあ、もう手っ取り早く稼ぐしかない」
シロコさんが言った。みんなの視線が向く。シロコさんは真顔だった。
「銀行を襲う」
「だめよ」
先生の返事は速かった。
大人の声だった。迷いがない。けれど、セリカさんが即座に机を叩く。
「当たり前でしょ! なんで真顔で言うんですか、シロコ先輩!」
「でも、効率はいい」
「効率で犯罪を選ばないでください!」
「計画名は必要。アビドス再建作戦」
「作戦名つける段階まで進めないでください!」
私は一瞬、反応が遅れた。
銀行を襲う。
今、さらっと言った。
冗談なのか本気なのか分からない。いや、シロコさんの顔を見る限り、少なくとも半分くらいは本気に見える。先生は冷静に止めている。セリカさんは先輩相手なのに、敬語を保ちきれないぎりぎりのところで全力で突っ込んでいる。アヤネさんは頭を抱えかけている。ノノミさんは「シロコちゃんらしいですね〜」と言いそうな顔をしている。ホシノ先輩は眠そうに笑っている。
アビドス、怖い。
そう思った直後、先生が少しだけ口元へ手を当てた。
「ただ、作戦名の響きだけは少し格好いいわね」
「先生!?」
セリカさんの声が裏返った。
「そこ褒めるところじゃないでしょ!」
「もちろん実行はしないわ。犯罪だから」
「当たり前です!」
「でも、作戦名を考えるのは嫌いじゃないのよ。昔から、こういう名前をつける遊びは少し楽しくて」
先生は真面目な顔で言っている。
大人の女性として、犯罪はきっぱり止める。なのに、作戦名の響きには少し心を動かされている。なんというか、先生にもそういうところがあるのだと、妙に安心してしまった。いつも落ち着いていて、こちらを見守ってくれる大人の人。でも、少しだけ子どもみたいな感性が覗く瞬間がある。
セリカさんは頭を抱えた。
「シャーレ、大丈夫なの……?」
「先生は時々こうです」
私が小さく言うと、セリカさんがこっちを見た。
「あんた、知り合いなんだっけ」
「はい。前に少し、お世話になりました」
「ふーん」
それだけだった。
でも、さっきまでの棘とは少し違う。興味がないふりをしながら、ほんの少しだけ引っかかっている声。まだ聞かない。聞くほど親しくない。でも、完全に流すほど無関心でもない。
その小さな変化が、少し胸に残った。
「銀行強盗案は却下です」
アヤネさんが、改めてきっぱりと言った。
「当然だねぇ」
ホシノ先輩がのんびり頷く。
「でも、お金がないのは本当だしねぇ。おじさん、地道に働くのは嫌いじゃないけど、さすがに限界ってものがあるよねぇ」
軽い声だった。
でも、その言葉の後ろにあるものは軽くなかった。
限界。
それをホシノ先輩が言うと、なぜか違う響きになる。自分の限界を言っているようで、学校の限界を言っているようで、でも本当に限界が来た時、この人は自分のことだけ外してしまいそうな気がした。
まだ、何も知らない。
ホシノ先輩のことも、アビドスのことも。
なのに、その予感だけが喉の奥に残る。
「アビドス高等学校の名前を残すためには、返済を続けながら、学校として機能していることを示し続ける必要があります」
アヤネさんの説明が続く。
名前を残す。
その言葉で、 ほんの少しだけペン先が止まった。
名前が残るというのは、どういうことなのだろう。
呼ばれ続ける場所があるというのは、どれくらい強いことなのだろう。
そこにいた誰かの席がなくなっても、名前が残っていれば、その場所はまだそこにあると言えるのだろうか。逆に、名前を呼ばれなくなったら、そこにいたことまで消えてしまうのだろうか。
余計なことを考えている。
今は、アビドスの話を聞く時だ。
慌ててメモへ視線を戻した。
けれど、シロコさんの視線が一瞬だけこちらへ向いたのが分かった。何に気づいたのかは分からない。ペンが止まったことか、リボンを握りかけた指か、それとも私の呼吸がほんの少し変わったことか。
シロコさんは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
水を飲んだかどうかではない。もっと別の、言葉になっていない小さな揺れを拾われた気がした。
「すみません、続けてください」
小さく言うと、アヤネさんは一度だけ頷いて、説明へ戻った。
資料の数字は、まだ続く。
返済。維持費。襲撃被害。修繕。足りない物資。削れない支出。削り続けた結果、もう削る場所がほとんど残っていない現実。
話を聞くほど、部屋の中の空気が乾いていく気がした。
砂漠の暑さとは違う。
何度も考えた末に、それでも出口が見つからなかった人たちの息苦しさだった。
「……ちょっと、空気悪すぎ」
セリカさんが立ち上がった。
「セリカちゃん?」
「外、見てくるだけ。襲撃の後片付けも残ってるし」
「それなら私も――」
「いい。アヤネは先生に説明続けて。ノノミ先輩は物資確認。シロコ先輩は……好きにしてください」
「ん」
シロコさんは短く返した。
セリカさんはそれ以上何も言わず、部屋を出ていく。扉が閉まる音は乱暴ではなかった。でも、静かでもなかった。
私は思わず、セリカさんの出ていった扉を見た。
追いかけていいのか。
まだ、そんな関係ではない。むしろさっきまで「今さら」と言われていた相手だ。外から来たばかりの私が、分かったような顔で追いかけても、きっと嫌なだけだと思う。
でも、あの背中をそのまま見送るのも、何か違う気がした。
先生を見る。
先生はすぐに答えをくれなかった。ただ、穏やかな目で私を見ている。
自分で決めなさい。
そう言われている気がした。
「……先生」
「ええ」
「少し、セリカさんの様子を見てきてもいいですか。邪魔にならない範囲で」
「行ってらっしゃい。ただし、一人で遠くまでは行かないこと」
「はい」
立ち上がると、シロコさんも壁から背を離した。
「私も行く」
「え、でも……」
「道、まだ知らないでしょ」
「あ……はい」
理由は道案内。
たぶん、それは本当。
でもそれだけではない気もした。シロコさんは私を見ている。さっきのペン先の止まり方も、セリカさんを追うか迷ったことも、席を立つ時に救護バッグへ手を伸ばしかけてやめたことも、全部までは分からなくても、何かを拾っている。
見られていることが、落ち着かない。
でも、不思議と嫌ではない。
「レナさん」
アヤネさんが声をかけた。
「セリカちゃん、言い方はきついですけど……その、本当に怒っている相手が誰なのか、本人にも分からなくなっている時があるので」
「はい」
「無理に慰めようとしなくて大丈夫です。たぶん、慰められると余計に怒ります」
「分かりました。慰めません」
「……ありがとうございます」
アヤネさんの声は、少しだけ疲れていた。
セリカさんのことをよく知っている人の声だった。怒りっぽいところも、強がるところも、放っておけないところも、全部分かっているからこそ、どうにもできない時がある。そういう声。
私は頷いて、部屋を出た。
廊下は、夕方の色になっていた。
砂を含んだ光が窓から差し込んで、床の上へ薄く広がっている。使われていない教室の扉が並んでいた。閉じた扉。古い名札。剥がれかけた掲示物。きっと、昔はここにも声があったのだと思う。誰かが遅刻しそうになって走ったり、友達を呼んだり、先生に怒られたりしていたのだと思う。
今は、足音が二人分しかない。
私と、シロコさん。
「セリカさんは、いつもあんな感じなんですか」
「うん」
「そうですか」
「でも、悪い子じゃない」
「はい。そんな気がします」
シロコさんが、ほんの少しだけこちらを見た。
「分かるの?」
「分かるというほどではないです。ただ……本当に嫌いなら、あんなに怒れないと思ったので」
アビドスを嫌いなら、もっと冷たくできる。
諦めているなら、もっと楽に笑える。
でもセリカさんは怒る。机を叩く。言葉を刺す。刺した後に、自分の指が痛くなるみたいな顔をする。
たぶん、好きだから痛い。
好きだから、許せない。
シロコさんは少しだけ黙った。
「セリカは、アビドスが好き」
「はい」
「だから、怒る」
「……はい」
短い言葉。
でも、その中にシロコさんなりの信頼があった。セリカさんを説明する声は、相変わらず淡々としている。でも、雑ではない。セリカさんの怒りを、ただ面倒なものとして片付けていない。
校舎の外へ出ると、セリカさんは校門近くにいた。
戦闘でずれたバリケードを一人で直している。誰かに頼まれたわけではないのだろう。動きが少し荒い。けれど、壊れた部分を見逃さない。砂を蹴り、倒れた看板を起こし、曲がった金具を力任せに戻そうとしている。
「セリカさん」
「……何」
振り向かない。
でも、返事はした。
「手伝ってもいいですか」
「いらない」
「分かりました。じゃあ、見てます」
「なんでよ!」
今度は振り向いた。
セリカさんの顔には、苛立ちと困惑が混ざっている。拒否したのに残られるとは思っていなかったのかもしれない。
「手伝うなって言われたので」
「見てるのも邪魔!」
「じゃあ、邪魔にならない場所にいます」
「あんたねぇ……!」
セリカさんは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。視線が私の後ろ、シロコさんへ向く。
「シロコ先輩まで、何しに来たんですか」
「道案内」
「校内で迷うほどじゃないでしょ、さすがに」
「レナはまだ分からない」
「……まあ、それはそうですけど」
セリカさんが小さく舌打ちする。
でも、追い返す言葉は続かなかった。
私は少し離れた場所に立った。邪魔にならない位置。けれど、何かあれば手を伸ばせるくらいの距離。救護騎士団で教わった立ち位置を思い出す。近すぎれば相手の動きを邪魔する。遠すぎれば届かない。大事なのは、必要になった時にすぐ動ける距離。
セリカさんは黙ってバリケードを直し始めた。
金具が少し歪んでいる。力任せに戻そうとして、手が滑りかけた。
「あ」
声が出た瞬間、セリカさんが睨む。
「何」
「手、挟みそうだったので」
「挟んでない」
「はい」
「……挟みそうではあったけど」
「はい」
「その返事、なんか腹立つ」
「すみません」
「謝らないで」
難しい。
セリカさんとの会話は、足元に砂がある道を歩くみたいだった。踏み込むと沈む。避けすぎると進めない。正解が分からない。でも、少しずつ感触を確かめながら進むしかない。
結局、セリカさんは工具を取りに戻るのが面倒だったのか、私に金具の端を押さえるよう指示した。
「そこ持って。違う、もっと下。そう。指挟まないようにしてよ」
「はい」
「なんで私が心配してるみたいになってんのよ……」
「してくれてるんですか?」
「違う!」
即答だった。
でも、私の指の位置をもう一度確認してから作業を続けた。
少しだけ、胸が温かくなる。
仲良くなったわけではない。
セリカさんはまだ私を信用していない。私も、セリカさんの痛みを分かったつもりにはなれない。けれど、さっきまで突きつけられていた「今さら」の距離とは、ほんの少しだけ違う場所にいる気がした。
作業が終わる頃には、空が赤くなっていた。
砂が夕陽を受けて、校門の影を長く伸ばす。セリカさんは手についた砂を払い、ふいに言った。
「あんたさ」
「はい」
「本当に、しばらくいるつもりなの?」
声は、さっきより低かった。
「はい。できることがある間は」
「……ふーん」
それだけだった。
でも、さっきまでの「今さら」とは少し違う声だった。信じたわけじゃない。許したわけでもない。けれど、すぐ帰る相手を見る目では、少しだけなくなっていた。
シロコさんが横で黙っている。
何も言わない。
ただ、私とセリカさんの間にできた小さな沈黙を、見ていた。
「期待はしないから」
セリカさんが言った。
「はい」
「でも......途中で勝手にいなくなったら怒る」
その言葉に、返事が少し遅れた。
怒る。
それは、まだ優しさではない。
でも、完全な無関心でもない。
「……はい。勝手には、いなくなりません」
セリカさんは顔を逸らした。
「ならいい」
夕方の砂が、足元で小さく鳴った。
アビドスの空は広い。
広すぎて、少し寂しい。
でもその広さの中で、今、ほんの細い線が一本だけ引かれた気がした。まだ簡単に切れてしまう線。触れれば痛むかもしれない線。それでも、最初の拒絶だけではなかった線。
私は胸元のリボンに触れかけて、やめた。
今は、ここに立っている自分の指で、砂を払ったばかりの金具の冷たさを覚えていたかった。
アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。
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百合って綺麗だから綺麗に終わって
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曇らせドロドロ依存エンド希望