戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
借金の数字を見たあとで食べ物の話をするのは、少しだけ不思議な感じがした。
でも、だからこそ必要なのかもしれない。
人は、借金だけで生きているわけではない。戦闘だけで一日が終わるわけでもない。どれだけ学校が砂に削られていても、どれだけ返済額が紙の上で重くのしかかっていても、お腹は空くし、喉も渇くし、明日のために何かを食べなければいけない。
アヤネさんの説明が一区切りついた頃、窓の外は夕方の色になっていた。砂を含んだ光が対策委員会室へ斜めに入り、机の上の資料を薄く赤く染めている。数字の列まで夕陽に照らされているのが、なんだか嫌だった。少し綺麗に見えてしまうのが、もっと嫌だった。
「……で、結局今日はもう解散でいいんじゃない?」
セリカさんが椅子から立ち上がった。
さっきまで机に片肘をついて、いかにも退屈そうな顔をしていたのに、立つ動きだけはやけに早い。帰る、というより、次の予定へ急ぐ人の動きだった。
「セリカちゃん、今日もバイトですか?」
アヤネさんが確認する。
「そうよ。時間ギリギリ。だから、あとは先生に説明しといて」
「分かりました。でも、無理はしないでくださいね。今日も襲撃があったばかりですし……」
「無理してない。いつも通り」
その“いつも通り”が、あまり軽く聞こえなかった。
いつも通り、学校で戦って、後片付けをして、借金の話を聞いて、それからバイトに行く。そういう意味なのだと気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ詰まる。私だったら、できるだろうか。救護騎士団の訓練でへとへとになったあと、ミネ先輩の膝で眠ってしまった自分を思い出して、少しだけ情けなくなった。
「柴関ラーメンですね〜」
ノノミさんがにこにこと言う。
「それなら、夕食も兼ねてみんなで行きませんか? 先生も、レナちゃんも、アビドスに来たばかりですし」
「はあ!?」
セリカさんの声が裏返った。
「なんでそうなるんですか、ノノミ先輩!」
「だって、せっかくですし〜。柴関ラーメンはアビドスの大事なお店ですから。先生たちにも知ってもらうのはいいことですよ」
「私、仕事中なんですけど!」
「じゃあ、私たちはお客さんですね〜」
「そういう問題じゃない!」
セリカさんが頭を抱える。
でも、完全に拒絶している感じではなかった。困っている。恥ずかしがっている。もしかすると、バイト先を見られるのが少し嫌なのかもしれない。学校でのセリカさんと、店で働くセリカさん。それはきっと、同じ人だけど、少し違う顔なのだ。
先生が静かに微笑んだ。
「迷惑でなければ、私も行ってみたいわ。現地の食事を知るのも大事なことだもの」
「先生まで……」
「それに、ラーメンは好きよ」
その言い方が妙に真剣で、私は思わず先生を見た。
先生は大人の女性らしく落ち着いた顔をしている。しているのに、目が少しだけ楽しそうだった。シッテムの箱を扱っている時や、作戦の話をしている時とは違う、もっと普通の、好きなものを前にした人の目。
「先生、ラーメンお好きなんですか?」
「ええ。特に、変わった名前の限定メニューがあると少し気になるわ」
「変わった名前……?」
「“極限砂漠横断スペシャル”とか」
「それ、名前だけで胃が疲れそうです」
「でも、名前が強いでしょう?」
「強ければいいんですか……?」
思わずそう返すと、先生は少しだけ笑った。
「大人になっても、そういうものが気になる時はあるのよ」
大人。
でも、少し子どもっぽい。
先生は先生なのに、こういうところだけ、アビドスの生徒たちと同じ机に座って笑えそうな空気がある。だから生徒たちは先生に話せるのかもしれない。頼れる大人で、でも遠すぎない人。
「……好きにすれば」
セリカさんが諦めたように言った。
「ただし、店で変なことしないでよ。あと、忙しい時間に邪魔したら本気で追い出すから」
「分かったわ。お客さんとして、きちんといただくわね」
「先生は普通にしてればいいです。問題はそっち」
セリカさんの視線が私に向いた。
「私、ですか?」
「あんた、すぐ何か手伝おうとしそう」
言葉に詰まった。
否定できなかった。
「……座っています」
「絶対よ」
「はい」
「絶対だからね」
「はい」
念を押されるたびに、アヤネさんが少しだけ苦笑していた。ノノミさんは楽しそうに微笑んでいて、シロコさんは何も言わずに立ち上がる。ホシノ先輩だけが椅子に沈んだまま、眠そうな声を出した。
「おじさんはどうしようかなぁ。ラーメンは魅力的だけど、動くのがねぇ」
「ホシノ先輩も来てください。全員で行動した方が安全です」
アヤネさんの声が少し強くなる。
「はいはい。アヤネちゃんは真面目だねぇ」
「真面目にしていないと、ホシノ先輩がすぐサボりますから」
「信用がないなぁ」
「日頃の行いです」
そのやり取りは自然だった。
アヤネさんはホシノ先輩をちゃんと先輩として扱っている。でも、遠慮だけではない。何度も同じことを言ってきた人の言い方だった。ホシノ先輩もそれを受け流しているようで、ちゃんと聞いている。アビドスの中にしかない距離感。まだ私はその輪の外に立っていて、でも、少しずつその形を覚え始めている。
柴関ラーメンは、学校から少し歩いた場所にあった。
道中、シロコさんは私の横より少し前を歩いた。道案内というには、近すぎず遠すぎない位置。砂が深い場所に入る前に自然と歩幅が遅くなり、人が通りにくい細道へ入ると、私がついてきているかだけを短く確認する。
今日は水を飲んだかは聞かれなかった。
代わりに、角を曲がる時だけ、シロコさんの視線が一度こちらへ戻る。私が遅れていないか。救護バッグの肩紐がずれていないか。砂に足を取られていないか。言葉ではなく、視線だけで確認されている。
見られている。
でも、責められているわけではない。
その距離感が、まだ少し分からない。
「ここ」
シロコさんが短く言った。
小さな店だった。
看板は古く、暖簾の端は少し色褪せている。けれど、扉の隙間から漏れる湯気と香りだけは、砂の多い通りの中で妙にしっかりしていた。醤油と出汁、熱いスープの匂い。お腹が空いていたのだと、その時になって気づく。
「いらっしゃいま――って、もう来たの!?」
店に入ると、エプロン姿のセリカさんが振り向いた。
学校にいる時とは少し違う。髪の揺れ方も、声の通し方も、手の動きも。怒っている時のセリカさんより、ずっと静かに、ずっと早く動いていた。水を置く。注文を聞く。テーブルを拭く。厨房へ声を通す。ひとつひとつが早いのに、雑じゃない。
ここでも、何度も何度も同じことを繰り返してきた手だった。
「来るって言ったでしょ」
「言ったけど! こんなすぐ来るとは思わないじゃない!」
「お腹が空いていたから」
シロコさんが淡々と言う。
「シロコ先輩、そういうところだけ行動早いですよね……」
「ラーメンは大事」
「まあ、大事ですけど!」
セリカさんは文句を言いながらも、人数分の席を確認している。混んでいるわけではないが、店内は狭い。先生とホシノ先輩、ノノミさん、アヤネさん、シロコさん、私。六人が入ると、それだけで少し賑やかになる。
「レナはこっち」
シロコさんが、入口から少し奥の席を指した。
「え?」
「人がぶつかりにくい。荷物も置ける」
「あ……ありがとうございます」
「ん」
それだけ言って、シロコさんは自分も近くの席に座った。
偶然ではない気がした。
入口に近い席なら、誰かが通るたびに救護バッグが邪魔になる。奥なら荷物を横に置けるし、体を休めやすい。そういうことを、何も言わずに選ばれていた。
まだ、優しさと呼んでいいのか分からない。
でも、見ている。
シロコさんは、見ている。
「はい、お冷」
セリカさんが水を置く。
その手つきは慣れていた。トン、と置く音が小気味いい。学校で机を叩く時よりずっと軽い音だった。
「あんたは、辛いやつやめときなさいよ」
水を置きながら、セリカさんが私を見る。
「え?」
「砂漠で倒れかけた後でしょ。刺激強いの食べて気分悪くなっても知らないから」
「覚えてたんですか」
「覚えてない。見たら分かるだけ」
それ、覚えているのでは。
そう思ったけれど、口には出さなかった。言ったら怒られそうだったから。
「おすすめはありますか?」
「柴崎スペシャル。初めてならそれでいい」
「じゃあ、それにします」
「……素直すぎるのも調子狂うわね」
セリカさんは少しだけ顔を逸らして、厨房へ注文を通した。
その横顔が、さっきより少しだけ柔らかく見えたのは、たぶん気のせいではないと思う。でも、そう思ったことを悟られたら怒られそうなので、私は静かに水を飲んだ。
先生はメニューを真剣に見ていた。
本当に真剣だった。
「先生、決まりましたか?」
アヤネさんが尋ねる。
「この“砂漠横断スタミナ盛り”が気になるわね」
「先生、それ量が多いと思います」
「名前が強いのよ」
「また名前で選ぼうとしてる……」
私が小さく呟くと、セリカさんが遠くから「やめといた方がいいですよ」と声を飛ばした。
「それ、現場仕事終わりのおじさんたちが食べるやつです。先生、見た目より食べるタイプなら止めませんけど」
「挑戦したくなる言い方ね」
「挑戦しないでください。うちの店で倒れられても困ります」
「では、私も柴崎スペシャルにするわ」
「最初からそうしてください!」
先生は少し残念そうだった。
大人なのに。
先生なのに。
でも、こういう時の先生は少しだけ可愛いと思ってしまう。もちろん口には出さない。先生に対して可愛いなんて言ったら、たぶん自分の方が恥ずかしくなる。
「先生、領収書は必要ですか?」
アヤネさんが真面目に聞いた。
「シャーレの経費にできるかは確認が必要ね」
「できなかった場合、どなたが支払うことに?」
「……私かしら」
「先生、少し遠い目をしないでください」
「大人にも現実はあるのよ、アヤネ」
「分かりますが、今ここでそんなに実感を込めないでください」
アヤネさんの真面目なツッコミに、ノノミさんが楽しそうに笑う。ホシノ先輩は頬杖をついて「おじさんはノノミちゃんの奢りに期待しちゃおうかなぁ」と言い、アヤネさんに「ホシノ先輩」と即座に咎められていた。
賑やか。
でも、賑やかすぎない。
この店の中だけ、砂の音が少し遠い。
ラーメンが来るまでの間、セリカさんは忙しそうに働いていた。お客さんは多くない。それでも、厨房とのやり取り、片付け、補充、注文確認、全部を一人でよく見ている。学校で怒っている時とは違う顔。怒りが消えたわけではなく、仕事の手順の中に折り畳まれているみたいだった。
何かしたい。
そう思ってしまった。
テーブルの端に空いたグラスがある。隣の席の調味料が少し倒れている。セリカさんが厨房へ入った隙に、手を伸ばせば直せる。忙しそうだし、それくらいなら――
「座ってなさいって言ったでしょ!」
飛んできた声に、指先が止まった。
セリカさんが、いつの間にかこちらを見ていた。
「でも、忙しそうで……」
「客が勝手に店員の仕事しようとしない!」
「す、すみません」
「謝るくらいならやらない!」
「はい……」
完全に怒られた。
シロコさんが横で、少しだけこちらを見ている。ノノミさんは口元を押さえて笑いを堪えている。アヤネさんは「セリカちゃんの言う通りです」と真面目に頷いている。ホシノ先輩は眠そうに「レナちゃん、働き者だねぇ」と言った。
先生だけが、少し優しい目で私を見ていた。
「何もしないでいるのが、少し苦手?」
先生に言われて、胸の奥を軽く押された気がした。
「……はい」
小さく答える。
「見ているだけだと、落ち着かなくて。何かできることがあるなら、した方がいい気がしてしまって」
言ってから、セリカさんの動きが少し止まったことに気づいた。
厨房の前で、セリカさんがこちらを見ている。怒った顔のまま。でも、その怒りが少しだけ形を変えていた。
「……そういうの、分からなくはないけど」
セリカさんは低く言った。
「でも、店では座って食べるのが客の仕事。分かった?」
「はい」
「本当に分かった?」
「分かりました」
「ならよし」
それだけ言って、セリカさんは厨房へ戻っていった。
怒られた。
でも、突き放された感じではなかった。
何もしないでいるのが苦手。
たぶん、セリカさんもそうなのだと思った。だから学校に残って、戦って、バイトをして、怒って、手を動かし続けている。止まったら、何かが追いついてきてしまうから。
ラーメンが来た。
湯気が立ち上る。出汁の香りが、さっきまでの重たい数字を少しだけ遠ざける。器の縁を持とうとした瞬間、横から手首を掴まれた。
「触るなって、熱いから!」
セリカさんの手だった。
強くはない。
でも、急だった。
手首に触れられた瞬間、体が小さく跳ねる。ミネ先輩の団長室での訓練が、ほんの少しだけ胸の奥をよぎった。怖い、まではいかない。けれど、急に掴まれると、身体が先に反応してしまう。
セリカさんも、それに気づいたのだと思う。
すぐに手が離れた。
「……悪かったわね。急だった」
声が少し小さかった。
セリカさんは目を逸らしている。怒っているわけではない。どうして私が跳ねたのか、まだ分かっていない。でも、自分の掴み方が急だったことだけは分かった顔だった。
私は息を整える。
「いえ、大丈夫です。止めてくれて、ありがとうございます」
「……熱いもの触ろうとしたあんたが悪い」
「はい」
「だから、その素直な返事やめて。調子狂う」
「すみません」
「謝るなってば」
同じようなやり取りなのに、さっきより少しだけ近い気がした。
手首には、まだセリカさんの手の感触が残っている。乱暴ではなかった。強くもなかった。ただ急だっただけ。止めるための手。熱い器に触れる前に引き戻す手。
怖くない手は、ミネ先輩の手だけではないのかもしれない。
そう思ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
「冷める前に食べなさいよ」
「はい。いただきます」
ラーメンはおいしかった。
熱くて、少ししょっぱくて、砂の中を歩いた後の体に染みた。豪華ではない。特別な食材が入っているわけでもない。でも、ちゃんとおいしい。ちゃんと温かい。ここで働くセリカさんが、ここで食べる対策委員会のみんなが、この味を何度も食べてきたのだと思うと、ただのラーメンではなくなる。
ノノミさんが「おいしいですね〜」と笑い、アヤネさんが「領収書は後で確認します」と言い、ホシノ先輩が「おじさん、替え玉いけるかなぁ」と呟く。シロコさんは黙々と食べている。先生はスープを一口飲んで、穏やかに目を細めた。
「いい味ね」
セリカさんは厨房の前で、それを聞こえないふりをしていた。
でも、耳が少しだけ赤かった。
食事が終わる頃、店の外はすっかり暗くなりかけていた。
会計のことで先生とアヤネさんが少し真面目に話し込み、ノノミさんが「今日は私が〜」と言いかけてアヤネさんに止められ、ホシノ先輩が「ごちそうさまぁ」とのんびり手を振る。シロコさんは扉の外で周囲を確認している。
私は店の前で、少しだけ立ち止まった。
セリカさんが暖簾を直している。仕事終わりの顔だった。疲れているはずなのに、手はまだきびきび動いている。声をかけるべきか迷っていると、セリカさんの方から言った。
「あんたさ」
「はい」
「明日も来るの?」
「アビドスに、ですか?」
「他に何があるのよ」
「来ます。できることがある間は」
「……ふーん」
それだけ。
でも、この前夕方に聞いた「本当に、しばらくいるつもりなの?」とは少し違った。確認というより、予定を聞かれた気がした。
明日もいるのか。
明日も来るのか。
それを、セリカさんは否定しなかった。
「なら、道くらい覚えときなさいよ。毎回シロコ先輩に案内させてたら迷惑でしょ」
「はい。頑張って覚えます」
「頑張るほど複雑じゃないわよ」
「でも、今日迷ったので」
「それは先生が悪いんじゃないの?」
「……先生には言わないでおきます」
セリカさんが、ほんの少しだけ笑いそうになった。
本当に少しだけ。
すぐに顔を逸らされたから、見間違いかもしれない。でも、私はその一瞬を見なかったことにはできなかった。
「帰るわよ」
セリカさんが言う。
それは、私に向けた言葉ではなかったのかもしれない。対策委員会のみんなに向けた、いつもの言葉だったのかもしれない。
それでも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
帰る。
この人たちには、まだ帰る場所がある。
失いかけていても、砂に埋もれかけていても、今日もそこへ帰ると言える場所がある。
私は胸元のリボンに触れかけて、やめた。
今は、柴関ラーメンの湯気の匂いと、手首に残ったセリカさんの慌てた手の感触と、明日の道を覚えろと言われたことを、そのまま胸の中に置いておきたかった。
明日も来る。
その言葉を、セリカさんは否定しなかった。
受け入れたわけじゃない。信じたわけでもない。まだ、仲良くなったなんて言える距離ではない。
それでも、明日の道の話をしてくれた。
それだけで、今日の砂は少しだけ軽くなった気がした。
アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。
-
百合って綺麗だから綺麗に終わって
-
曇らせドロドロ依存エンド希望