戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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8話 お金では変えないもの

 

 物資棚の前に立つと、アビドスの苦しさは数字よりも近く見えた。

 

 包帯の箱はある。でも、底が見える。消毒液は並んでいる。でも、同じ種類ばかりではなく、少しずつ違う容器が混ざっていた。どこかでまとめて買ったというより、足りないたびに、その時手に入るものを集めてきた棚だった。弾薬や工具、修理用の部品、非常食、水。どれも必要で、どれも足りなくて、でも全部を買えるわけではない。

 

 救護騎士団の棚とは違う。

 

 あそこにも不足はあるし、いつも余裕があるわけではない。けれど、何をどこに置くか、次に何を補充するか、誰かがきちんと決めている安心があった。アビドスの棚には、安心より先に工夫がある。隙間を埋めるように置かれた小箱。ラベルを貼り替えた容器。使いかけのテープ。捨てずに残してある部品。

 

 足りないことに、慣れた棚。

 

 そう思ってしまって、胸の奥が少し痛くなった。

 

「レナさん、この辺りが昨日お話しした救護用の備品です」

 

 アヤネさんが、端末と物資表を照らし合わせながら説明してくれる。

 

「一応、種類ごとに分けてはいるのですが、襲撃のたびに移動したり、補充のタイミングがずれたりしていて……正直、整理しきれていません」

 

「いえ、かなり分かりやすいです。限られた物資でここまで分けてあるなら、すごいと思います」

 

「そう言っていただけると助かります。ただ、実際に使う時に迷うようでは意味がありませんから。昨日レナさんが言っていた仮置き場所と合わせて、少し見直したいんです」

 

「はい。私でよければ」

 

 返事をすると、アヤネさんの表情が少しだけ緩んだ。

 

 まだ、完全な信頼ではない。

 

 でも、必要な相談をしてもらえることが嬉しい。嬉しいと思ってしまってから、少し怖くなる。頼られることに喜んで、できないことまで引き受けてしまわないように。ミネ先輩なら、きっとそこを見逃さない。

 

 自分も救護対象に含める。

 

 胸の奥で、その言葉を小さく繰り返した。

 

「じゃあ、包帯と消毒液はこっちへ移しましょうか。使用頻度が高いものは手前で、旧視聴覚室へ持っていく分は別にまとめて……」

 

「はい。では、この箱を――」

 

「あ、それは私が持ちますね〜」

 

 柔らかな声と一緒に、ノノミさんが重そうな箱へ手を伸ばした。

 

 大きな箱だった。中身は飲料水と非常食、それに簡易処置用の布が入っているらしい。箱の角が少し潰れていて、持ち上げるには両腕を使わないといけない。ノノミさんはいつもの笑顔のまま、その箱を軽々と持ち上げようとした。

 

 でも、持ち上げる直前、肩がほんの少しだけ沈んだ。

 

 笑顔は変わらない。

 

 声も変わらない。

 

 けれど、手首の角度と、肘の入り方が少しだけ無理をしている。見なければ通り過ぎてしまうくらい小さな変化。でも、救護騎士団で何度も言われた。痛みを隠す人ほど、動きの端に出る。大丈夫と言う人ほど、肩や指に先に出る。

 

「ノノミさん」

 

「はい?」

 

「私も一緒に持たせてください」

 

 ノノミさんの手が止まった。

 

 箱を持ち上げる前の姿勢のまま、にこりと笑う。

 

「大丈夫ですよ〜。これくらい、私が運びますから」

 

「大丈夫でも、半分です」

 

 自分でも少し驚くくらい、きっぱり言えた。

 

 ノノミさんが瞬きをする。

 

 アヤネさんも、端末から顔を上げた。少し離れたところで工具箱を確認していたセリカさんが、ちらっとこちらを見る。シロコさんは壁際で箱の数を数えていた手を止めずに、視線だけをこちらへ向けた。

 

 急に注目されて、少しだけ喉が詰まる。

 

 でも、ここで引っ込めたら違う気がした。

 

「救護騎士団では、重い物を一人で持つのはあまり推奨されません。腰と肩を痛めます。特に、こういう持ちにくい箱は、二人で運んだ方が安全です」

 

「ふふ、急に救護騎士団さんですね〜」

 

「はい」

 

 ノノミさんが笑っている。

 

 けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ困った色が混ざった。

 

「でも、レナちゃんはお客様ですし、昨日も今日もたくさん手伝ってくれていますから。こういう重いものは、私が――」

 

「ノノミさんも、救護対象です」

 

 言った瞬間、空気が少し止まった。

 

 大きな沈黙ではない。誰かが驚いて声を上げるようなものでもない。ただ、ノノミさんの笑顔が、その形のまま動かなくなった。

 

「……私も、ですか?」

 

「はい」

 

「私は、大丈夫ですよ?」

 

「大丈夫な人こそ、救護対象から外せません」

 

 ミネ先輩の言葉を、自分の声で言っている。

 

 そのことが少しだけ不思議だった。

 

 救護騎士団の部室で、何度も私に向けられていた言葉。自分を外すな。あなたも救護対象です。守られることを恥じるな。誰かを救うなら、自分が倒れない方法も選びなさい。

 

 その言葉を、今度は私が、ノノミさんに渡している。

 

「支える人も、差し出す人も、対象から外れません。ノノミさんが痛めたら、ノノミさんを救護する人が必要になります」

 

 ノノミさんは、何も言わなかった。

 

 笑っている。

 

 でも、目元が少しだけ揺れている。

 

 いつも誰かに差し出す側の人。お茶も、お菓子も、お金も、柔らかい言葉も、当然みたいに出してくれる人。その人が、自分も支えられる側だと言われて、どこに手を置けばいいか分からなくなったみたいに見えた。

 

 やがて、ノノミさんは小さく息を吐いた。

 

「……レナちゃんは、優しいですね」

 

「ミネ先輩の受け売りです」

 

「でも、今私に言ってくれたのはレナちゃんです」

 

 その言葉が、胸に落ちた。

 

 ノノミさんは箱の片側を持ち直す。

 

「では、そっちお願いします。二人で運べば、救護騎士団さん的にも安心ですものね」

 

「はい」

 

 箱の底へ手を入れる。

 

 重い。

 

 思ったより、ずっと。

 

 ノノミさんはこれを一人で持とうとしていたのだ。笑顔で、大丈夫ですよと言って、いつも通りの声で。箱の反対側を支えるノノミさんの手が近い。触れたわけではない。でも、同じ重さを受けているのが分かる。

 

 ノノミさんの手は、いつも誰かに渡す側の手をしている。

 

 お菓子を差し出す手。水を置く手。柔らかく背中を押す手。

 

 でも今だけは、その手が私と同じ箱の重さを受けていた。

 

「ゆっくりで大丈夫です」

 

「はい。レナちゃんも、無理しないでくださいね」

 

「ノノミさんもです」

 

「……はい」

 

 返事が、少しだけ遅れた。

 

 ただの物資運びなのに、妙に胸に残る。ノノミさんの笑顔はすぐに戻った。でも、さっきの一瞬が消えたわけではなかった。私はそれを、忘れないようにした。

 

 旧視聴覚室へ箱を運び終える頃には、腕が少し疲れていた。

 

 ノノミさんは「ありがとうございました〜」といつも通りに笑い、アヤネさんは物資表へ新しい配置を書き込んだ。セリカさんは「だからいつも一人で持たないでくださいって言ってるでしょ」とぶつぶつ言いながら、別の軽い箱を持ってくる。シロコさんは棚の足元を確認し、ぐらつきがないか一度だけ押した。

 

 少しずつ、場所が変わっていく。

 

 空き部屋だった旧視聴覚室に、救護用の物資が置かれていく。水、包帯、布、簡易ライト。全部が揃ったわけではない。でも、何もなかった部屋に、戻ってくるための場所ができていく。

 

 使われていなかった場所が、誰かを助ける場所になる。

 

 それが、少し嬉しかった。

 

「レナさん、ここまでで一度休憩にしましょう」

 

 アヤネさんが言う。

 

「はい。私は大丈夫です」

 

 そう答えてから、すぐに自分の腕を確認した。

 

 少し疲れている。でも、痛みはない。呼吸も乱れていない。大丈夫、と言っていい状態だと思う。

 

 アヤネさんはその様子を見て、少しだけ笑った。

 

「今、ちゃんと自分で確認しましたね」

 

「はい。確認しないと、あとで怒られるので」

 

「ミネさんに、ですか?」

 

「はい。あと、たぶん救護騎士団の団員さんたちにも」

 

「良い環境ですね」

 

 良い環境。

 

 その言葉に、胸元が少し温かくなる。

 

「はい。私の、帰る場所です」

 

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 

 でも、取り消したいとは思わなかった。

 

 アヤネさんは何も茶化さず、静かに頷いた。

 

 休憩中、私はノノミさんが持ってきてくれた小さな飲み物を受け取った。高級かどうかを考える前に、手のひらに伝わる冷たさがありがたかった。ノノミさんは私の隣に座り、さっき運んだ箱の方を見ている。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「さっきの言葉、少しびっくりしました」

 

「すみません。踏み込みすぎましたか」

 

「いいえ。……ただ、私、自分がそう言われる側だとはあまり思っていなかったので」

 

 ノノミさんの声は柔らかい。

 

 でも、いつものふわりと包むような明るさより、少しだけ低かった。

 

「みんな、大変ですから。セリカちゃんも、アヤネちゃんも、シロコちゃんも、ホシノ先輩も。だから、私にできることがあるならしたいなって思うんです。お金で済むことなら、それで少し楽になるなら、私は……」

 

 そこで、ノノミさんは言葉を切った。

 

 笑顔は消えていない。

 

 でも、その笑顔の奥にあるものが、ほんの少し見えた気がした。

 

 お金があるから大丈夫。

 

 そう言われ続けた人の顔。

 

 お金を出せるから、役に立てる。お金を出しても、全部は救えない。それでも出さずにはいられない。たぶん、ノノミさんの優しさは柔らかいだけではない。自分の中にあるものを、削ってでも差し出す優しさだ。

 

「ノノミさん」

 

「はい?」

 

「お金で助かることは、たぶんたくさんあると思います。でも、ノノミさんが一緒に持ってくれたから、さっきの箱は運べました」

 

 ノノミさんが、ゆっくりこちらを見る。

 

「私一人でも、ノノミさん一人でもなくて、二人で持ったからです。だから……お金だけじゃないと思います。ノノミさんがいること自体が、きっとアビドスを支えています」

 

 言ってから、顔が熱くなる。

 

 何を言っているのだろう。

 

 こんなこと、外から来たばかりの私が言っていいのだろうか。まだアビドスのことも、ノノミさんのことも、少ししか知らないのに。

 

 でも、言いたかった。

 

 ノノミさんは、しばらく黙っていた。

 

 それから、いつもより少しだけゆっくり笑った。

 

「レナちゃんは、本当に不思議な子ですね」

 

「不思議、ですか」

 

「はい。甘やかしたくなるのに、時々、こちらが手を取られてしまうみたいです」

 

 その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。

 

 ノノミさんは立ち上がり、いつもの明るい声に戻る。

 

「では、次も重い箱は二人で持ちましょうね〜」

 

「はい」

 

「でも、軽いお菓子は私が持ちます」

 

「それは……はい」

 

「ふふ、そこは譲りません」

 

 柔らかく笑っている。

 

 でも、さっきとは少しだけ違う。

 

 ノノミさんの笑顔の中に、私を甘やかしたいだけではない何かが、小さく増えた気がした。まだ形にはならない。けれど、確かに何かが置かれた。

 

 午後の作業が一段落した頃、ホシノ先輩の姿が見えないことに気づいた。

 

「ホシノ先輩なら、たぶん中庭の方です」

 

 アヤネさんが、端末を確認しながら言った。

 

「物資確認をお願いしたはずなのですが、途中から姿が見えなくなりまして」

 

「サボり?」

 

 シロコさんが短く言う。

 

「可能性は高いです」

 

 アヤネさんの声が、少しだけ冷たかった。

 

「私、探してきます」

 

「あ、レナさん一人では――」

 

「中庭までです。遠くには行きません。見つけたら戻ります」

 

 アヤネさんは少し迷ってから頷いた。

 

「分かりました。もし何かあれば、すぐ呼んでください」

 

「はい」

 

 中庭へ向かう廊下は、午後の熱がこもっていた。

 

 窓から差し込む光が床に伸びている。人の少ない校舎に、私の足音だけが響いた。ホシノ先輩を探しながら、さっきのノノミさんの言葉を思い出す。

 

 甘やかしたくなるのに、手を取られてしまう。

 

 私は誰かの手を取れているのだろうか。

 

 救護騎士団にいた時は、いつも手を取ってもらってばかりだった。ミネ先輩に、団員さんたちに、先生に。怖い時、止まった時、動けなくなった時、誰かが待ってくれた。触れていいか確認してくれた。帰ってきていいと言ってくれた。

 

 今度は、私が少しでも誰かへ返せているのなら。

 

 そう思うと、胸の奥が温かくて、少し怖い。

 

 中庭の日陰に、ホシノ先輩はいた。

 

 ベンチに横になって、帽子を顔の上に乗せている。いかにも昼寝中、という姿だった。でも、近づく前から分かる。たぶん寝ていない。空気が違う。力が抜けているようで、どこにも隙がない。

 

「レナちゃん」

 

 帽子の下から声がした。

 

「足音、ちょっと真面目すぎるねぇ」

 

「……起きていたんですか?」

 

「まぁね〜」

 

 ホシノ先輩は帽子を少しずらして、片目だけこちらを見た。

 

「アヤネちゃんに言われて来たの?」

 

「いえ、私が気になって来ました」

 

「うへぇ、直球だねぇ」

 

 ホシノ先輩は起き上がらない。

 

 私は少し迷ってから、持ってきた小さな冷却用の布を見せた。

 

「暑い場所で寝ていると危ないので。これ、使いますか?」

 

「おじさんのことまで気にしなくていいよ〜。レナちゃんは、今日もいっぱい働いてるんだからさぁ」

 

「気になります」

 

 言葉が、思ったよりまっすぐ出た。

 

 ホシノ先輩の片目が、ほんの少し開く。

 

「ホシノ先輩は、気にならないように振る舞うのが上手いので、余計に気になります」

 

 言ってから、踏み込みすぎたと思った。

 

 でも、もう遅い。

 

 ホシノ先輩は帽子を顔から外し、ゆっくりと起き上がった。眠そうな表情は変わらない。でも、さっきまで中庭の空気に溶けていた何かが、少しだけ輪郭を持つ。

 

「レナちゃん、そういうのは疲れちゃうよ」

 

「疲れても、見たいと思いました」

 

「何を?」

 

「アビドスのことも、ホシノ先輩のことも」

 

 風が吹いた。

 

 砂が少しだけ舞って、ベンチの脚元に小さな音を立てる。

 

 ホシノ先輩は笑った。

 

「うへぇ。おじさん、そういうの弱いなぁ」

 

 いつもの軽い声。

 

 でも、軽く流すための声にも聞こえた。

 

「レナちゃんみたいな子は、あんまりここに長くいると疲れちゃうよ。ここはねぇ、砂が多いんだよ。靴にも、服にも、気づいたら心にも入ってくる。払っても払っても、どこかに残る。真面目な子ほど、そういうのを全部拾おうとしちゃうからさぁ」

 

「拾ってはいけませんか」

 

「拾わなくていいものもあるってこと」

 

「でも、落ちているのを見たら、気になります」

 

「やっぱり真面目だねぇ」

 

 ホシノ先輩は困ったように笑った。

 

 でも、私はその笑い方を見て、少しだけ苦しくなる。

 

 ホシノ先輩の言葉には、いつも自分だけが少し遅れている気がした。みんなが疲れないように。後輩たちが傷つかないように。学校が残るように。そういう話の中に、ホシノ先輩自身の席がない。

 

 気のせいかもしれない。

 

 まだ、何も知らないのに。

 

 それでも、気になった。

 

「ホシノ先輩」

 

「ん〜?」

 

「帽子、落ちそうです」

 

 言ってから、自分でも少し変な話題の変え方だと思った。

 

 ホシノ先輩の帽子は、起き上がった拍子に少しずれていた。髪に引っかかって、つばが斜めになっている。

 

「じゃあ、直してくれる?」

 

 ホシノ先輩は軽く言った。

 

 私は一度、手を止める。

 

「触れても?」

 

 その言葉に、ホシノ先輩が瞬きをした。

 

 ほんの少しだけ。

 

「……いいよ〜」

 

 声は変わらない。

 

 でも、その一拍を私は見逃せなかった。

 

 帽子のつばへ手を伸ばす。直接頭に触れないように、端だけを持つ。少し整えて、落ちない位置へ戻す。それだけなのに、ホシノ先輩の近くへ手を伸ばしていることに、少し緊張した。

 

 ホシノ先輩は笑っている。

 

 目も細く、肩の力も抜けている。

 

 でも、笑っている人の近くにあるはずの隙が、どこにもない。力を抜いているのに、油断していない。眠そうなのに、眠っていない。

 

 帽子を直し終えて、手を離す。

 

「できました」

 

「ありがとねぇ。レナちゃんは丁寧だねぇ」

 

「急に触るのは、あまりよくないので」

 

「救護騎士さんだ」

 

「はい」

 

 ホシノ先輩はしばらく私を見ていた。

 

 眠そうな目。

 

 でも、奥が見えない目。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「ここにいる間、無理しすぎないこと。おじさんたちの問題は、おじさんたちのものだからねぇ」

 

「でも、先生と一緒に来ました。できることがあるなら、したいです」

 

「そういうところだよ」

 

 ホシノ先輩は小さく笑う。

 

「そういうところが、ちょっと危ない」

 

 危ない。

 

 その言葉は、叱るようでも、心配するようでもあった。

 

 私は返事を探した。

 

 うまく見つからなかった。

 

 だから、正直に言う。

 

「ホシノ先輩も、少し危ないです」

 

 ホシノ先輩の笑顔が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

「まだ、分かりません。でも……ホシノ先輩は、みんなの話をする時、自分のことをあまり入れていない気がします」

 

 言ってしまった。

 

 胸の中で、心臓が少し強く鳴る。

 

 踏み込みすぎた。

 

 絶対にそうだ。

 

 でも、ホシノ先輩は怒らなかった。

 

 怒らずに、いつもの眠そうな顔へ戻る。

 

「レナちゃんはよく見てるね」

 

「まだ、見ようとしているだけです」

 

「そっかぁ」

 

 ホシノ先輩は空を見上げた。

 

 アビドスの空は広い。

 

 広すぎて、どこまでも逃げられそうで、どこにも隠れられなさそうだった。

 

「見すぎると、疲れるよ」

 

「それでも、見ないまま救護はできません」

 

「……ほんと、厳しい師匠に育てられたんだねぇ」

 

「はい」

 

 胸元のリボンが、少しだけ揺れた。

 

 ホシノ先輩はそのリボンを見て、また笑う。

 

 今度の笑みは、少しだけ寂しかった。

 

「じゃあ、おじさんも、倒れそうになったらレナちゃんに救護してもらおうかなぁ」

 

「はい。必ず言ってください」

 

「うんうん。覚えておくよ〜」

 

「本当にです」

 

「レナちゃん、押しが強いねぇ」

 

「ホシノ先輩が軽く流すので」

 

「うへぇ、手厳しい」

 

 軽い会話に戻った。

 

 でも、戻りきってはいない。

 

 ホシノ先輩の笑い方の奥に、さっき触れた帽子の感触みたいなものが残っている。近づきすぎてはいない。けれど、ただ遠くから見るだけでもなくなった。

 

 中庭を出る前、ホシノ先輩はもう一度ベンチに寝転がった。

 

「アヤネちゃんには、あと五分で戻るって言っておいて〜」

 

「三分にしておきます」

 

「うへぇ」

 

 冗談みたいな声を背中に受けて、私は廊下へ戻った。

 

 戻る途中、少しだけ手を見た。

 

 ノノミさんと一緒に箱を持った手。

 

 ホシノ先輩の帽子を直した手。

 

 同じ手なのに、触れたものの重さが全然違った。

 

 ノノミさんは、笑って差し出す。

 

 ホシノ先輩は、笑って隠す。

 

 どちらも優しい。

 

 でも、どちらも少し危ない。

 

 対策委員会室へ戻ると、物資棚の前でアヤネさんが端末を確認していた。シロコさんは校門側の窓から外を見ている。セリカさんは新しく置いた箱のラベルを見て、「字、綺麗すぎない?」と小さく呟いた。ノノミさんは私に気づくと、いつものように微笑む。

 

 この学校は、五人で支えられている。

 

 でも、その五人が、自分の重さを少しずつ見ないふりをしている。

 

 ノノミさんが、重い箱を笑って持つみたいに。

 

 ホシノ先輩が、日陰で眠るふりをするみたいに。

 

 アヤネさんが、疲れた声を資料の中に畳むみたいに。

 

 セリカさんが、怒りながら手を動かし続けるみたいに。

 

 シロコさんが、黙って全部を見続けるみたいに。

 

 だから、私は見たいと思った。

 

 まだ許されていなくても。

 

 まだ踏み込むには早すぎても。

 

 見ないまま、救護はできないから。

 

 物資棚の一番下に、さっきノノミさんと運んだ箱が置かれている。

 

 そこに貼られた新しいラベルには、アヤネさんの字で「救護用・旧視聴覚室分」と書かれていた。

 

 お金では買えないものがある。

 

 きっと、そういう言葉は簡単すぎる。

 

 お金がなければ買えないものも、この学校にはたくさんある。水も、包帯も、弾薬も、修理部品も。綺麗事だけで、この棚は埋まらない。

 

 でも、同じ箱を半分持つこと。

 

 暑い中で眠るふりをしている先輩へ、冷たい布を持っていくこと。

 

 触れる前に、ちゃんと尋ねること。

 

 そういうものも、たぶんこの学校には必要なのだと思った。

 

 私は救護バッグをそっと置いて、もう一度物資表を見た。

 

 足りないものは、まだ多い。

 

 でも、今日増えたものもある。

 

 それは数字にはしにくくて、表にも書きにくい。

 

 だからせめて、忘れないように胸の中で名前をつける。

 

 ノノミさんも、救護対象。

 

 ホシノ先輩も、救護対象。

 

 そして、私も。

 

 それを忘れないまま、明日もここに来ようと思った。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

  • 百合って綺麗だから綺麗に終わって
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