戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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9話 砂の向こうの影

 

 アヤネさんのペン先が、また止まった。

 

 細い影が、紙の上で少しだけ揺れる。止まって、動いて、また同じ場所へ戻る。何度も書き直しているわけではない。たぶん、アヤネさんの中で何かが引っかかっているのだ。言葉にするにはまだ早くて、でも見なかったことにはできないものが、地図の上に置かれている。

 

 最初は、救護導線の確認をしていただけだった。

 

 玄関横の一時救護地点。旧視聴覚室に置いた予備物資。校門から戻る時に砂が深くなる場所。襲撃があった時、誰がどこへ下がって、どこで処置をして、どこから物資を取るか。そういう線を、アヤネさんと一緒に地図へ足していた。

 

 それなのに、昨日までの襲撃記録を重ねた瞬間、地図の見え方が変わった。

 

 赤い印が、嫌な場所ばかりに集まっている。

 

 物資搬入口。水道設備に近い配管。校舎裏の倉庫。修理予定だった壁。逃げ道に使える細い路地。どれも、派手な場所ではない。ニュースになるような大きな破壊でもない。けれど、壊されたら困る場所ばかりだった。

 

 胸の奥が、すっと冷える。

 

 怪我を見た時とは違う冷たさだった。血が流れているわけではない。誰かが倒れているわけでもない。でも、このままにしておいたら悪くなると分かる時の、嫌な冷たさ。小さな傷に見えても、そこから熱が出ることがある。見えないところで、じわじわ広がる痛みがある。

 

「……偶然にしては、少し嫌な場所ばかり狙われています」

 

 アヤネさんの声は落ち着いていた。

 

 でも、落ち着かせようとしている声だった。ペンを持つ指が、少しだけ白い。

 

「最初は、ヘルメット団の襲撃が単純に増えているだけだと思っていました。もちろん、それだけでも十分問題です。でも、こうして地点を重ねると……ただ暴れやすい場所を選んでいる、という説明では足りません。物資の搬入口、水道設備、修理予定箇所。こちらが時間をかけて維持している場所が、妙に多いんです」

 

 私は地図を見た。

 

 ヘルメット団の襲撃は、乱暴だった。大声で突っ込んできて、砂を巻き上げて、銃声をばらまいて去っていく。だから、ただ荒いだけの相手だと思っていた。

 

 でも、残った傷だけを見ると違う。

 

 どこを壊せば、アビドスが困るか。

 

 どこを削れば、次に立ち上がるまで時間がかかるか。

 

 その場所を、誰かが知っているみたいだった。

 

「何かを一気に壊すというより……直す余裕を奪うため、みたいに見えます」

 

 口に出した瞬間、自分の言葉なのに嫌になった。

 

 直す余裕を奪う。

 

 それは、ただ怪我をさせることよりもずっと陰湿に聞こえた。倒すのではなく、起き上がる力を削る。治る前に、また次の傷をつける。回復しようとしている場所に、わざと砂を入れる。

 

 アビドスは、そうやって削られているのかもしれない。

 

「直す余裕、ですか」

 

 アヤネさんが、少し低い声で繰り返す。

 

「はい。倉庫が壊れたら物資を移動しないといけません。配管が壊れたら水の確認が必要になります。搬入口が使いにくくなったら、補給も遅れます。大きな怪我が出なくても、そのたびに時間と人手を取られて……次に備える力が減っていきます」

 

 言葉にすると、ますます嫌な感じが強くなった。

 

 ミネ先輩が教えてくれた救護は、傷を塞ぐことだけではなかった。救護対象を増やさないこと。回復する力を残すこと。倒れた人だけではなく、倒れそうな場所を見ること。

 

 地図の上の赤い印は、まるでその逆だった。

 

 助かる力を、わざと削る印。

 

「最悪じゃない」

 

 低い声がして、顔を上げた。

 

 セリカさんが扉のところに立っていた。いつから聞いていたのか分からない。腕を組んで、眉を寄せている。でも、すぐ怒鳴り出す感じではなかった。

 

 その方が、少し怖かった。

 

「つまり、うちが弱ってるのを分かってて、わざと面倒なところばっかり狙ってるってこと? 物資とか水とか、直したばっかりのところとか、そういうのを狙ってるかもしれないってこと?」

 

「まだ断定はできません」

 

 アヤネさんが答える。

 

 けれど、セリカさんはすぐに食い下がった。

 

「断定はできないって、それは分かってる。でも、そう見えるんでしょ。アヤネがそんな顔してる時って、大体よくない時じゃない」

 

「……はい。偶然として片付けるには、偏りがあります」

 

「ほんっと、最低」

 

 セリカさんの声は、机を叩く時みたいに硬かった。

 

 ただ荒いだけじゃない。怒っていないと、何かがこぼれてしまうみたいな声だった。アビドスが大事だと言う代わりに、怒っている。そんなふうに聞こえて、胸の奥が少し痛くなる。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

「私も、嫌です」

 

 思ったより、まっすぐ声が出た。

 

 セリカさんの目が、少しだけ丸くなる。

 

「……そりゃ、嫌でしょ。普通」

 

「はい。でも、普通に嫌というより……腹が立ちます」

 

 ここは私の学校ではない。

 

 それは分かっている。私は外から来た。まだ何日も経っていない。アビドスの砂の熱も、借金の重さも、五人だけで守ってきた時間も、全部を知っているわけじゃない。

 

 でも、嫌だった。

 

 玄関横に作った救護地点。旧視聴覚室へ運んだ箱。セリカさんが直したバリケード。アヤネさんが何度も引き直した地図の線。ノノミさんと半分ずつ持った重さ。シロコさんが覚えている道。ホシノ先輩が眠るふりをしていた日陰。

 

 そういうものを、どこを壊せば困るか分かった上で狙われているかもしれない。

 

 それが、嫌だった。

 

 ちゃんと腹が立った。

 

「……ふーん」

 

 セリカさんは顔を逸らした。

 

「外から来たわりには、怒るじゃない」

 

「すみません」

 

「だから、謝るところじゃないって。怒っていいところよ、そこは。むしろ、これで怒らなかったら、そっちの方が嫌だし」

 

 その言い方が少しだけ優しく聞こえて、返事が遅れた。

 

 セリカさんに優しくされた、と言ったら絶対に怒られる。だから口にはしない。でも、さっきの言葉は冷たくなかった。

 

 壁際で、シロコさんが地図を見ていた。

 

 ずっと黙っていた。

 

 赤い印を一つずつ目で追っている。校門裏、倉庫、配管、搬入口。視線が動くたびに、シロコさんの指が銃のベルトへ沈んでいく。

 

 声はない。

 

 表情もあまり変わらない。

 

 でも、空気が冷たい。

 

「見てくる」

 

 シロコさんが言った。

 

 短い。

 

 でも、その短さで、もう決めているのだと分かってしまった。

 

「待ってください、シロコ先輩」

 

 アヤネさんがすぐ止める。

 

「一人で確認に行くのは危険です。シロコ先輩の索敵能力を疑っているわけではありません。ただ、相手が意図的にこちらの弱点を探っている可能性があるなら、単独での確認は相手の思う壺になるかもしれません。今は情報を増やすことと、無事に戻ることを同じくらい重視すべきです」

 

「一人の方が早い」

 

 シロコさんは、少しも迷わず返した。

 

「外にあるものは、外に行かないと分からない。ここで地図を見てても、相手がどこから見てたかは分からない」

 

「だからって、一人で行く必要はないでしょう!」

 

 セリカさんが一歩前に出る。

 

「シロコ先輩、そういうところです! すぐ一人で行こうとする! 今の話を聞いたあとで“すぐ戻る”って言われて、はいそうですかって送り出せるわけないでしょ!」

 

「突っ走らない。確認するだけ」

 

「それが突っ走ってるって言ってるんです! シロコ先輩の“確認するだけ”は、全然確認だけじゃ済まない時があるんですよ!」

 

 セリカさんの声が刺さる。

 

 でも、それは怒りだけではなかった。怖いのだと思う。シロコさんが一人で行って、戻ってこなかったら。何かがあったら。そういう想像を、怒鳴り声に変えている。

 

 私は一歩前へ出た。

 

「シロコさん」

 

 シロコさんがこっちを見る。

 

 静かな目。

 

 だけど、砂漠で水を渡してくれた時の静けさとは違う。もっと冷たい。もっと奥に沈んでいる。

 

「一人で確認に行くと、戻る人を確認する人がいません」

 

「……?」

 

「シロコさんが無事でも、こちらはずっと心配します。シロコさんは、いつも周りの位置を見てくれています。でも、シロコさん自身の位置を見ている人がいないと、戻ってくるまで分からないままになります」

 

 うまく言えているか分からない。

 

 でも、言わないといけない気がした。

 

 シロコさんは私の位置を確認してくれる。道を間違えないように見てくれる。危ない棚に手を伸ばせば、袖を引いて止めてくれる。なら、シロコさんが危ない場所へ行く時、誰かが見ていないといけない。

 

 シロコさんだけが、見る側でい続けるのは違う。

 

「一緒に行く人が必要です。あと、先生の判断も」

 

 シロコさんは、すぐには答えなかった。

 

 短い沈黙。

 

 その間に、対策委員会室の扉が開いた。

 

 先生が入ってくる。

 

 手にはシッテムの箱。少しだけ状況を聞いていたのか、先生の目はもう落ち着いた大人のものになっていた。優しいけれど、甘くはない。今、何を止めて、何を進めるべきかを考えている目。

 

「その通りね」

 

 先生が言った。

 

「今の段階で単独行動は避けましょう。シロコ、確認したい気持ちは分かるわ。でも、相手がこちらを観察している可能性を考えるなら、こちらも“見える範囲”で動く必要がある。見に行くこと自体は必要。でも、一人で抱える必要はないわ」

 

「……分かった」

 

 シロコさんは短く返した。

 

 納得したのか、飲み込んだのかは分からない。でも、扉から手を離した。それだけで、部屋の空気が少しだけ戻ってくる。

 

 先生は地図を覗き込んだ。

 

 シッテムの箱が薄く光る。先生が画面へ視線を落とし、静かに呼びかけた。

 

「アロナ、襲撃地点の記録と地図情報を重ねられる?」

 

 小さな通知音。

 

 画面の中までは見えない。けれど、先生の表情がほんの少し引き締まったのは分かった。

 

「……やっぱり、気になるわね」

 

「先生」

 

 アヤネさんの声が硬くなる。

 

「断定はしない。でも、誰かがアビドスの体力を削るように動いている可能性はあるわ。ヘルメット団が偶然そういう場所ばかり選んでいるのか、それとも誰かにそう動かされているのか。そこを見極める必要がある」

 

「先生、それって……ヘルメット団だけじゃないかもしれない、ということですか」

 

「その可能性はあるわ」

 

 先生は、言葉を選んでいた。

 

「ただ、今ここで名前を出せる段階ではない。まずは近い地点だけ確認しましょう。深追いはしない。目的は戦闘ではなく、痕跡の確認よ」

 

 先生の指が地図を示す。

 

「シロコ、セリカ、レナ、私で行く。アヤネは校内で情報整理。ノノミとホシノには校舎側と物資の確認をお願いできる?」

 

「はい。ノノミ先輩とホシノ先輩にも伝えます。先生、無理はしないでください。レナさんも」

 

「はい」

 

「セリカちゃんもです」

 

「分かってるわよ! 私だけ毎回念押しされてない!?」

 

「セリカちゃんは怒ると前に出やすいので」

 

「アヤネ!?」

 

 少しだけ、空気が揺れた。

 

 笑えるほど軽くはない。でも、そのやり取りで息がしやすくなる。怖い話をしている時ほど、いつもの調子が少し戻るだけで救われる。

 

「レナは後方。記録と救護準備」

 

 シロコさんが言う。

 

 命令というより、確認だった。

 

「はい。でも、必要な時は前に出ます」

 

「出る前に言って。あと、校門裏は砂が深い。足を取られると、戻るのが遅くなる」

 

「分かりました」

 

「煙幕は、風を見る。今日は横に流れる」

 

「はい」

 

 セリカさんが横でため息をつく。

 

「あんたたち、真面目すぎて逆に怖いんだけど。出る前に打ち合わせが細かいのよ」

 

「セリカさんも真面目です」

 

「私は普通!」

 

「普通の人は、襲撃記録を聞いてすぐバリケードの状態を確認しに行かないと思います」

 

「うるさいわね! あれは気になっただけ!」

 

「気になる時点で真面目です」

 

「レナ、あんた意外としつこいわね……」

 

 セリカさんが怒る。

 

 でも、その声で少しだけ呼吸がしやすくなった。怖さを怒りに変えて、前に進める形にしている。セリカさんの怒りは、やっぱりアビドスを守るためのものなのだと思う。

 

 外に出ると、風が強かった。

 

 砂が足元を流れていく。いつもと同じ景色のはずなのに、何かが違って見える。折れた看板も、崩れた壁も、砂に埋もれたタイヤ跡も、ただ古いだけではなく、誰かに見られていた跡かもしれない。

 

 そう思った途端、首の後ろが冷たくなる。

 

「こっち」

 

 シロコさんが先に進む。

 

 セリカさんが少し後ろ。私は先生の近くでメモを持つ。何も起きていない道ほど怖い。敵がいるなら、まだいい。どこを見ればいいか分かるから。でも、何も見えないまま、誰かの手だけが残っている場所は、どこから怖がればいいのか分からない。

 

 校門裏の倉庫は、思ったより小さかった。

 

 古い扉の端が曲がっている。鍵の周辺に、新しい傷。砂を被っているのに、その傷だけがまだ生々しく見えた。セリカさんがすぐに眉を寄せる。

 

「これ、最近の傷じゃない?」

 

「うん。砂がまだ入りきってない。風が強い日が続いたら、もっと埋まるはず」

 

 シロコさんがしゃがむ。

 

 私は少し離れた場所から見る。近づきすぎない。足元を確認する。メモを開く。救護ではないけれど、記録も必要な仕事だ。

 

 傷の下に、小さな金属片が落ちていた。

 

 ただの破片にしては、妙に綺麗だった。ヘルメット団が使うような安っぽいものではない。そう思ってしまうくらいには、質が違って見えた。

 

「触らない方がいいですか?」

 

「ええ、まずは位置だけ記録しましょう」

 

 先生が答える。

 

 倉庫扉、新しいこじ開け跡。

 

 金属片。高品質。要確認。

 

 そう書いて、嫌な気分になる。

 

 高品質。

 

 こんなところに、そんな言葉があるのが嫌だった。

 

「先生、これも変じゃない?」

 

 セリカさんが地面を指す。

 

 拾わず、指で示した先に、小さな弾薬ケースがあった。砂を被っている。でも傷み方が少ない。端には、削られたロゴのような跡。完全には読めない。読めないように削られたみたいにも見える。

 

 先生の顔が、少しだけ変わった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 でも、私には分かった。

 

「……ヘルメット団が普段使うものとは違うわね」

 

「じゃあ、やっぱり誰かが裏にいるってこと?」

 

 セリカさんの声が低い。

 

「断定はしない。でも、少なくともヘルメット団だけで用意したとは考えにくいものが混ざっている。企業か、資金を持った誰かが関わっている可能性はあるわ」

 

「企業って……借金だけでも最悪なのに、こんなことまで? こっちが直してる場所を狙って、物資を削って、それでまた返済だ修理だって追い詰めるとか、そんなの――」

 

 セリカさんの声が詰まった。

 

 怒りすぎて、言葉が追いついていないみたいだった。

 

「セリカ」

 

 先生の声がやわらかくなる。

 

「怒っていいわ。でも、今は怒りだけで動かないこと。相手がいるなら、こちらの怒りも利用される」

 

「……分かってます」

 

 セリカさんが唇を噛む。

 

「分かってますけど、腹立つものは腹立つんです。こっちは毎日ちょっとずつ直して、ちょっとずつ節約して、それでも足りなくて……なのに、どこを壊せば困るか分かってるみたいにやられたら、黙ってられるわけないじゃないですか」

 

「ええ。黙っていなくていい。ただ、怒りを向ける先を間違えないようにしましょう」

 

 先生は短く言った。

 

「ありがとう、セリカ。ちゃんと怒ってくれて」

 

 ありがとう、と言われたセリカさんが、少しだけ困った顔で目を逸らした。

 

 先生は、怒りを否定しない。セリカさんの怒りを悪いものにしない。そのまま使える形に戻してくれる。大人の人だと思った。ちゃんと大人で、でもラーメンの作戦名に少し惹かれる人。遠すぎないから、みんなが言葉を飲み込まずにいられるのかもしれない。

 

 配管の方へ向かうと、もっと嫌なものが見つかった。

 

 水道設備のそばに、小型の機械の残骸が落ちていた。砂に半分埋もれている。観測機器、だと思う。詳しいことは分からない。でも、少なくともヘルメット団が大騒ぎしながら落としていくようなものには見えなかった。

 

 シロコさんが黙る。

 

 その沈黙が冷たい。

 

「……見られてたかもしれない」

 

 シロコさんが言った。

 

「ここを。通る人。直す人。どこが弱いか。配管の位置も、倉庫の扉も、見ないと分からない」

 

 銃のベルトにかかった指が、少し深く沈む。

 

 声を荒げるより、ずっと怖かった。

 

 シロコさんの怒りは、砂の下に残った熱みたいだった。表面は静かなのに、近づいたら火傷しそうな熱がある。

 

「最低じゃない……!」

 

 セリカさんの声が震えた。

 

「うちを、ずっと見てたってこと? どこが壊れたら困るか、どこを直そうとしてるか、そういうの全部?」

 

「可能性よ」

 

 先生が言う。

 

「でも、かなり高いと思う」

 

 私は機械の残骸から目を離せなかった。

 

 これは、ただ暴れて散らかった跡じゃない。

 

 誰かが、どこを壊せば一番困るのかを知っていて、そこへ手を伸ばした跡に見えた。

 

 アビドスが疲れていることを知っている。

 

 人手が少ないことを知っている。

 

 直すだけで一日が削れることを知っている。

 

 それを知った上で、削っている。

 

 胸の中に、熱いものが溜まっていく。怒りなのに、すぐには燃えない。喉の奥で詰まって、吐き出せないまま熱だけが残る。

 

「レナ?」

 

 シロコさんの声で、自分がメモを握りしめていたことに気づいた。紙の端が曲がっている。

 

「……すみません」

 

「怒ってる?」

 

「はい」

 

「ん」

 

 それだけだった。

 

 でも、シロコさんの視線が少しだけやわらいだ気がした。

 

「私も」

 

 短い言葉。

 

 同じではない。

 

 シロコさんの怒りと、私の怒りが同じ重さのはずがない。ここはシロコさんの学校で、私はまだ来たばかりだ。

 

 それでも、その一言で、同じ方向を向いた気がした。

 

 先生はシッテムの箱に情報を記録していた。アロナさんへ何かを確認している。画面の内容までは見えない。ただ、先生の声は静かだった。

 

「企業系の装備か、資金を持つ誰か……まだはっきりとは言えないわね。アロナ、該当しそうな装備の照合だけお願い」

 

 小さな通知音。

 

 セリカさんが先生を見る。

 

「先生、それ、調べたら分かるんですか?」

 

「分かることもあるし、分からないこともあるわ。ただ、ここにあるものは全部手がかりになる。焦って追いかけるより、確実に持ち帰る方がいい」

 

「……分かりました」

 

「戻りましょう。これ以上は深入りしない方がいい」

 

 先生の判断で、私たちは学校へ戻った。

 

 帰り道、シロコさんはほとんど喋らなかった。セリカさんも黙っていた。私はメモを抱えたまま、足元の砂を見ていた。

 

 壊されるのは、建物だけじゃない。

 

 時間も、人手も、気力も、次に立ち上がる力も削られていく。

 

 それは怪我と同じだ。

 

 見えにくいだけで、放っておけば悪くなる。

 

 対策委員会室に戻ると、ノノミさんとアヤネさんがすぐに顔を上げた。ホシノ先輩は窓際の椅子に座って、頬杖をついていた。眠そうな顔。いつもの顔。けれど、私たちが入った瞬間、まぶたが少しだけ動く。

 

「おかえり〜。何か見つかった?」

 

 軽い声。

 

 先生が、見つけたものを簡潔に説明した。倉庫の傷。弾薬ケース。削られたロゴ。配管近くの観測機器らしい残骸。ヘルメット団だけでは用意しにくい装備が混ざっている可能性。

 

 アヤネさんの顔色が悪くなっていく。

 

「つまり……襲撃の裏に、資金や装備を提供している存在がいるかもしれない、ということですか」

 

「可能性の段階よ」

 

 先生が言う。

 

「でも、今後はその前提も含めて警戒した方がいいわ。アヤネ、襲撃記録と被害箇所の整理を続けて。装備の痕跡も、分かる範囲で別にまとめましょう」

 

「はい。……分かりました。正直、考えたくはありませんが、見ないわけにはいきませんね」

 

 ノノミさんは笑顔を保っている。けれど、手元のカップを持つ指が止まっていた。

 

「誰かが、アビドスを狙っているかもしれないんですね〜。困りましたね……ふふ、困りました、で済めばいいんですけど」

 

 その笑顔が少しだけ痛かった。

 

 セリカさんは何度も舌打ちしそうになって、そのたびに飲み込んでいる。

 

 シロコさんは壁際で黙っている。

 

 そして、ホシノ先輩は。

 

「うへぇ、嫌な感じだねぇ」

 

 いつも通りに言った。

 

 いつも通りの、眠そうな声。

 

 でも先生が「企業か、資金を持った誰かが関わっている可能性もある」と言った瞬間、空気がほんの少しだけ変わった。

 

 ホシノ先輩のまぶたが、完全に開いた。

 

 本当に、一瞬だけ。

 

 それだけだった。

 

 でも、私は見てしまった。

 

 驚いた顔ではなかった。

 

 知らない話を聞いた顔でもなかった。

 

 ずっと前から来ると分かっていたものが、とうとう扉の前に立ったのを見たような顔だった。

 

 次の瞬間には、もういつものホシノ先輩に戻っていた。

 

「まあまあ、先生が調べてくれるなら安心だねぇ。おじさんたちは、できることからやっていこうか。怖い顔してても、借金が減るわけじゃないしねぇ」

 

 軽い声。

 

 眠そうな笑顔。

 

 でも、さっきより少し遠い。

 

 椅子に座っているのに、同じ部屋にいるのに、ホシノ先輩だけが、砂の向こう側に立っているみたいに見えた。

 

 聞けない。

 

 まだ、その距離じゃない。

 

 でも、見なかったことにはできない。

 

 アビドスの砂の向こうに、何かがいる。

 

 そしてホシノ先輩はたぶん、その影を私たちより先に知っている。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

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