戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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10話 アウトローは名乗らない

 

 柴関ラーメンの暖簾を見ると、少しだけ安心するようになっていた。

 

 まだ、何度も来たわけではない。道だって、シロコさんに教えてもらった目印を一つずつ思い出しながら歩いているくらいだ。右に傾いた看板は風で向きが変わるから信用しない。壁のひびを見る。砂に半分埋もれたバス停を越えたら、柴関ラーメンへ続く細い道に入る。

 

 それでも、店から漏れてくる湯気の匂いを感じると、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 

 アビドスの砂は、どこにでも入り込む。靴の中にも、袖口にも、物資棚の隙間にも、地図の端にも。けれど、この店の中だけは、砂よりも先にスープの匂いが来る。醤油と出汁と、熱い湯気。ここに来ると、アビドスの人たちがちゃんとご飯を食べて、ちゃんと疲れて、ちゃんと明日のことを考えているのだと分かる。

 

 借金の数字だけではない。

 

 襲撃の記録だけでもない。

 

 ここには、日常がある。

 

「先生、今日は変な名前のメニューを選ばないでくださいね」

 

 アヤネさんが真面目な顔で言った。

 

 先生は暖簾をくぐる直前で、少しだけ視線を逸らす。

 

「変な名前というより、印象に残る名前と言うべきだと思うわ」

 

「つまり気になっているんですね」

 

「少しだけ」

 

「先生」

 

「大丈夫。今日は普通の醤油にするわ」

 

 先生の声は落ち着いていた。

 

 でも、メニューを見る前から少し名残惜しそうだった。

 

 セリカさんが店の奥からこちらを見つけて、すぐに眉を寄せる。

 

「来るの早くない?」

 

「夕食時ですから」

 

 アヤネさんが答える。

 

「いや、それはそうだけど。なんでそんな団体で当たり前みたいに来るのよ」

 

「柴関ラーメンはアビドスの大切なお店ですから〜。先生とレナちゃんにも、もっと知ってもらわないと」

 

 ノノミさんがにこにこと言う。

 

「ノノミ先輩、そうやってすぐ人数増やすんだから……」

 

 セリカさんは文句を言いながらも、水を用意してくれた。動きは早い。学校で怒っている時とは違う、手慣れた店員さんの動きだった。

 

 ホシノ先輩は入口の近くで大きく伸びをする。

 

「うへぇ、ラーメンの匂いってずるいよねぇ。おじさん、何もしてなくてもお腹空いちゃうなぁ」

 

「ホシノ先輩は今日も物資確認の途中で寝ていました」

 

 アヤネさんの声が冷たい。

 

「寝てないよ〜。目を閉じて在庫の気配を感じてただけ」

 

「在庫は気配で数えられません」

 

「アヤネちゃん、正論が鋭いねぇ」

 

 いつものやり取り。

 

 それだけで、さっきまで胸に残っていた不穏な影が少し薄くなる。昨日見つけた不審な部品。削られたロゴ。観測機器らしい残骸。あれが消えたわけではない。でも、ここにはラーメンの湯気がある。セリカさんの声がある。先生がメニュー名に少し負けそうになって、アヤネさんに止められている。

 

 そういうものが、ちゃんとある。

 

「レナ、こっち」

 

 シロコさんが席を指した。

 

 奥側。荷物を置きやすくて、人が通ってもぶつかりにくい場所。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「ん。バッグ、大きいから」

 

 シロコさんはそれだけ言って、自分も近くに座った。

 

 水を飲んだかは聞かれない。

 

 でも、私の救護バッグが邪魔にならない場所を、先に見てくれている。

 

 そのことに気づいて、少しだけ胸が温かくなった。

 

「はい、お冷」

 

 セリカさんが私の前に水を置く。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

「今日は辛いやつ頼まないわよね」

 

「はい。普通の醤油にします」

 

「よろしい」

 

「セリカさん、先生みたいです」

 

「誰が先生よ!」

 

 怒られた。

 

 でも、前より怖くない。セリカさんの怒り方が少しずつ分かってきたからかもしれない。怒っていても、全部が拒絶ではない。声が大きくても、そこに心配が混ざっていることがある。

 

 その時、店の扉が開いた。

 

「……いらっしゃい」

 

 セリカさんが反射的に声を出して、それから少し固まった。

 

 入ってきたのは、四人の生徒だった。

 

 先頭に立つ赤い髪の人は、妙に堂々としていた。堂々としている、というより、堂々として見える立ち方を一生懸命している感じがした。背筋を伸ばし、口元に笑みを浮かべ、いかにも自信ありげに店内を見回す。

 

 その後ろで、黒髪の人が面倒そうにため息をついていた。隣では、楽しそうな笑顔の人が店の中をきょろきょろ見ている。最後に入ってきた小柄な人は、緊張しているのか、やたらと背筋が伸びていて、今にも「すみません」と言い出しそうだった。

 

「ふふ……ここが噂の柴関ラーメンね」

 

 赤い髪の人が、低めの声を作って言った。

 

「噂っていうか、アルちゃんが“600円以内で満腹になれる店を探しなさい”って言ったから来ただけだけどね〜」

 

 楽しそうな人が、あっさり言った。

 

「ムツキ!」

 

 赤い髪の人――たぶん社長さんらしい人が、すぐ振り向く。

 

「そういう現実的な事情を最初から言わない! 私たちはもっとこう、風の噂に導かれて荒野の名店へ辿り着いた、みたいな感じで……」

 

「財布の中身の風向きは最悪だけどね〜」

 

「ムツキ!」

 

 黒髪の人が、だるそうにメニューを見る。

 

「社長、入口で目立たないで。食べに来ただけでしょ」

 

「カヨコまで……!」

 

「あ、あの、社長! 私がもっと稼げていれば、このような金銭的危機には……! 必要なら今すぐこの店の床を舐める勢いで働いて――」

 

「舐めなくていい! ハルカ、お願いだから普通に座って!」

 

 何だろう。

 

 すごい人たちが来た。

 

 悪い人、なのだろうか。

 

 たぶん、そういう雰囲気で入ってきたのだと思う。少なくとも先頭のアルさんという人は、悪そうに見せようとしている。けれど、後ろの人たちに一言ずつ崩されて、もう半分くらい崩れている。

 

 セリカさんが、じとっとした目で見る。

 

「……何あの人たち」

 

「ゲヘナの生徒」

 

 シロコさんが短く言った。

 

「たぶん、ただの客」

 

「たぶん?」

 

「今のところは」

 

 今のところ。

 

 シロコさんの言い方が少しだけ引っかかった。けれど、店の中の空気はそこまで緊張していない。むしろ、あの四人のやり取りが騒がしすぎて、警戒の形が少し崩れてしまう。

 

 アルさんは店内の視線に気づいたのか、咳払いをした。

 

「ふ、ふふ。そんなに見つめなくてもいいわ。私たちはただの通りすがり……そう、名乗るほどの者ではないわ」

 

「アルちゃん、さっき外で“私の名を知らしめる機会ね”って言ってなかった?」

 

「ムツキ!」

 

「社長、いいから座って。名前を出さない方がいい時もある」

 

 カヨコさんが低く言った。

 

 名前を出さない方がいい時。

 

 その言葉だけ、少し浮いて聞こえた。

 

 アルさんも一瞬だけ動きを止めた。でもすぐに、また格好つけた笑顔へ戻る。

 

「と、とにかく、私たちは食事をしに来ただけよ。そこに他意はないわ。まったくないわ。むしろ食事というのは、人類に許された平和的行為であり――」

 

「アルちゃん、言えば言うほど怪しいよ」

 

「ムツキ!」

 

 セリカさんが呆れた顔で水を置く。

 

「注文は?」

 

「普通のラーメンを四つ……いえ、待ちなさい。アウトローとしてここは堂々と――」

 

「普通のでいい」

 

 カヨコさんが切った。

 

「普通のラーメン四つで」

 

「あっ、はい! 普通のラーメン四つでお願いします! すみません、普通で! 普通の私たちで本当にすみません!」

 

「普通に謝らないで、ハルカ!」

 

 セリカさんが厨房へ注文を通す。

 

 ノノミさんが楽しそうに微笑んだ。

 

「にぎやかな方たちですね〜」

 

「にぎやかっていうか、うるさいだけじゃないですか?」

 

 セリカさんが戻ってきながら言う。

 

 ムツキさんがそれを聞いて、にこっと笑った。

 

「店員さん、辛口〜」

 

「客に対しては普通に接客します」

 

「じゃあ、お水おかわり〜」

 

「はいはい」

 

 セリカさんが水を注ぐ。

 

 そのやり取りが自然すぎて、さっきまで怪しいと思っていた四人が、少しだけ本当にただのお客さんに見えてきた。

 

 けれど、カヨコさんだけは違った。

 

 席に座ってから、店内を一度だけ見回した。先生。シロコさん。ノノミさん。ホシノ先輩。アヤネさん。セリカさん。そして私。その視線は短いのに、必要なものだけを拾っているようだった。

 

 シロコさんと少し似ている。

 

 見ている人だ。

 

 そう思った瞬間、カヨコさんの目が一瞬だけ細くなった。

 

 何かに気づいた顔だった。

 

「……社長」

 

 カヨコさんが低く呼ぶ。

 

「何よ、カヨコ。今度は何?」

 

「ちょっと」

 

「今は空腹という重大な問題に向き合っているところなのだけれど」

 

「いいから」

 

 カヨコさんの声が、さっきより低い。

 

 アルさんは不満そうにしながらも、顔を寄せた。カヨコさんが何かを小声で言う。聞こえない。けれど、アルさんは最初、きょとんとして、それから目を丸くした。

 

 次の瞬間。

 

「げほっ」

 

「社長、まだ食べてないのにむせた」

 

「む、むせてないわ!」

 

 むせていた。

 

 明らかにむせていた。

 

 ハルカさんが震え始める。

 

「し、社長……! やはりこれは、非常に、その、まずい状況なのでは……!」

 

「ハルカ、声が大きい」

 

 カヨコさんがすぐ止める。

 

 ムツキさんだけが、にこにこと笑っている。

 

「へぇ〜。そうなんだ。店員さんたち、そうなんだ〜」

 

 何かを知っている顔だった。

 

 私は首を傾げる。

 

「どうかしたんでしょうか」

 

「さあ」

 

 シロコさんが短く答える。

 

 でも、その目はもうカヨコさんたちを見ていた。

 

 セリカさんは何も気づいていないのか、ラーメンを運ぶ準備をしている。

 

 その時、柴大将が厨房から大きな器を四つ出した。

 

 湯気が立ち上る。

 

 明らかに普通盛りではない。

 

「……え?」

 

 アルさんが固まる。

 

「ちょ、ちょっと待って。私たち、普通のラーメンを頼んだはずでは」

 

 柴大将は何も言わず、どん、と器を置いた。

 

 特盛。

 

 そうとしか言えない量だった。

 

 ムツキさんが目を輝かせる。

 

「わぁ、すごーい。社長、これ600円で足りる?」

 

「足りるわけ……」

 

 アルさんが財布を取り出しかけて、顔を青くする。

 

 カヨコさんがぼそっと言う。

 

「足りないね」

 

「ひぃっ、社長! 私が皿洗いでも床磨きでも、必要なら店の外壁を磨きすぎて新品同様に――」

 

「外壁は磨かなくていい! ハルカ、落ち着いて!」

 

 セリカさんが即座に叫んだ。

 

「この店で物騒なこと言わないで! というか、なんで食事するだけでそんな追い詰められてるのよ!」

 

 柴大将は、ただ黙って腕を組んでいた。

 

 その顔は怖いのに、なんだか優しかった。

 

 先生が静かに言う。

 

「いただいたらどうかしら。店主さんの厚意だと思うわ」

 

「厚意……」

 

 アルさんの顔が揺れた。

 

 格好つけていた表情が、少しだけ崩れる。お腹が空いているのかもしれない。財布が寂しいのかもしれない。たぶん両方だと思う。

 

「ふ、ふふ……いいでしょう。この私、陸八魔アル――」

 

「社長、名前」

 

 カヨコさんが小声で止める。

 

「……こ、この私、ただの通りすがりの者として、このラーメンに敬意を払い、ありがたくいただいてあげるわ」

 

「素直にいただきますでいいじゃん」

 

「ムツキ!」

 

 でも、アルさんはちゃんと手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 その声は、小さかったけれど、さっきまでの格好つけた声ではなかった。

 

 少しだけ、本当の声だった。

 

 四人が食べ始めると、店の中が一気に賑やかになった。

 

 ムツキさんは楽しそうに麺をすすり、ハルカさんは感動しすぎて泣きそうになっている。カヨコさんは静かに食べているけれど、箸の進み方は早い。アルさんは最初こそ優雅に食べようとしていたのに、途中から完全に空腹に負けていた。

 

「おいしい……」

 

 ぽつりとこぼれた声に、アルさん自身が一番驚いた顔をする。

 

 それを聞いたセリカさんが、少しだけ得意そうに胸を張った。

 

「当然でしょ。柴関ラーメンなんだから」

 

「セリカさんが作ったわけではないですよね?」

 

「レナ、そこは黙ってて」

 

「はい」

 

 怒られた。

 

 でも、少し笑いが混ざっていた。

 

 アルさんがセリカさんを見る。

 

「あなた、この店の人なの?」

 

「バイト。あと、アビドスの生徒」

 

 セリカさんは何でもないように答えた。

 

 その瞬間、便利屋側の空気が固まった。

 

 アルさんの箸が止まる。

 

 ハルカさんが麺をすすりかけたまま硬直する。

 

 カヨコさんは、目を伏せて小さく息を吐いた。

 

 ムツキさんだけが、面白そうに目を細めている。

 

「……アビドス?」

 

 アルさんの声が、少し裏返った。

 

「そうだけど」

 

 セリカさんが不思議そうに返す。

 

「私たち、アビドス廃校対策委員会。こっちは先生。こっちはレナ。救護騎士団から来てる子」

 

 言ってから、セリカさんは少し眉を寄せた。

 

「何よ。その反応」

 

「な、なんでもないわ!」

 

 アルさんが勢いよく背筋を伸ばした。

 

「アビドス! ええ、アビドスね! 砂漠! 学校! 廃校対策! とても……その、立派だと思うわ!」

 

「急に雑な褒め方しないでくれる?」

 

「雑ではないわ! 私は心からそう思っているのよ! 学校を守るというのは、実に……ええと……アウトローではないけれど、とてもハードボイルドな行為だわ!」

 

「何言ってるの、この人」

 

 セリカさんが本気で困惑していた。

 

 私は、アルさんの手元を見た。

 

 箸を持つ指が止まっている。さっきまでお腹を空かせて夢中で食べていた人の手ではない。動揺している。隠そうとして、隠せていない。

 

 カヨコさんが小さく言う。

 

「社長、落ち着いて。逆に怪しい」

 

「分かっているわ、カヨコ。私は落ち着いている。とても落ち着いているわ」

 

「アルちゃん、顔に出すぎ〜」

 

「ムツキ、あなたは少し黙っていなさい!」

 

 ハルカさんは青ざめた顔で震えている。

 

「あ、あの、社長……私は今、どうすれば……謝りますか? 土下座しますか? それとも記憶を消すために私がこの場の空気を――」

 

「空気をどうするつもりなの!? 何もしなくていい! 何もしないことが今の最善よ!」

 

 セリカさんが半目になる。

 

「本当に何なのよ、あんたたち」

 

「ただの通りすがりよ!」

 

「通りすがりがそんなに動揺する?」

 

「する時もあるわ!」

 

「ないでしょ」

 

 セリカさんとアルさんの言い合いが始まった。

 

 けれど、険悪ではなかった。セリカさんは怪しんでいるけれど、まだ敵を見る目ではない。アルさんは必死にごまかしているけれど、どこか抜けている。ムツキさんはそれを楽しそうに見ていて、カヨコさんは頭が痛そうで、ハルカさんは今にも自爆しそう。

 

 私は、その光景を見て少し不思議な気持ちになった。

 

 昨日、アビドスの外に何か嫌な影を見た。

 

 誰かがアビドスを削っているかもしれないと思った。

 

 でも、今ここでは、アビドスの人たちとゲヘナの四人が、同じ店でラーメンを食べている。セリカさんが怒り、アルさんが格好つけそこね、ムツキさんが笑い、カヨコさんがため息をつき、ハルカさんが慌てている。

 

 敵に見えない。

 

 少なくとも、今は。

 

「レナちゃん」

 

 ノノミさんが小さく声をかけてきた。

 

「はい」

 

「不思議ですね〜」

 

「……はい。悪い人たちなのか、いい人たちなのか、よく分からないです」

 

「ふふ、世の中には、どちらかだけでは分けられない人もいますから」

 

 ノノミさんの声は柔らかい。

 

 でも、その言葉は少しだけ重かった。

 

 先生も、四人をただ怪しむだけではなく、静かに見ていた。楽しそうな場面では微笑む。けれど、カヨコさんが先に気づいた瞬間や、アルさんが動揺した一瞬を、見逃していない気がした。

 

 大人の目。

 

 私も、見ようと思った。

 

 ラーメンを食べ終えた頃には、店の中はかなり賑やかになっていた。

 

 セリカさんとアルさんは、なぜか「どっちがより大変か」で張り合っている。

 

「こっちは学校の借金背負ってるのよ!」

 

「こちらだって資金繰りには苦労しているわ! 上に立つ者として、部下たちの生活を守る責任があるの!」

 

「じゃあ、まず財布の中身くらい把握しなさいよ!」

 

「ぐっ……!」

 

「アルちゃん、そこ弱いよね〜」

 

「ムツキ!」

 

 アヤネさんが頭を抱える。

 

「なんだか、話している内容は深刻なはずなのに、全然建設的ではありません……」

 

「でも、少し楽しそう」

 

 シロコさんが言った。

 

 珍しく、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。

 

「シロコ先輩まで……」

 

 アヤネさんがため息をつく。

 

 ホシノ先輩は、眠そうに笑っている。

 

「まあまあ、たまにはこういうのもいいんじゃない? おじさん、若い子たちが元気なのはいいことだと思うなぁ」

 

「ホシノ先輩も若いです」

 

「おじさんは心が老けてるからねぇ」

 

「そういう問題ではありません」

 

 いつもの調子。

 

 でも、ホシノ先輩の目は時々、カヨコさんの方へ向いていた。カヨコさんがアルさんを止める時。アルさんが鞄の中の封筒らしきものを慌てて押し込んだ時。ムツキさんがそれを見て、面白そうに笑った時。

 

 私は、その封筒を見た。

 

 分厚くはない。

 

 けれど、ただの紙ではない気がした。

 

「レナ?」

 

 シロコさんが私を見る。

 

「いえ……」

 

 うまく言えない。

 

 楽しい空気の中に、ほんの少しだけ硬いものが混ざっている。ラーメンの湯気の向こうに、薄く影が差したような感じ。

 

 でも、今それを言葉にしたら、この場の空気を壊してしまいそうだった。

 

 食事が終わると、四人は柴大将へ深々と頭を下げた。

 

 主にハルカさんが、地面に額をつけそうなくらい下げていた。

 

「このご恩、一生忘れません……! 必要であれば、私が命をかけてこの店を――」

 

「だから物騒なこと言わないでってば!」

 

 セリカさんが止める。

 

 アルさんは胸を張った。

 

「柴関ラーメン。この味と恩義、私の記録に刻ませてもらうわ」

 

「アルちゃん、それただの食レポっぽい」

 

「ムツキ、余韻を壊さない!」

 

 カヨコさんが店の外へ出ながら、先生の方へ一度だけ視線を向けた。

 

「……先生も、大変だね」

 

「あなたたちもね」

 

 先生が返す。

 

 カヨコさんは少しだけ目を細めた。

 

「まあ、否定はしない」

 

 それだけ言って、四人は店を出ていった。

 

 アルさんは最後まで格好つけた歩き方をしていたけれど、店の外でムツキさんに何か言われて、すぐに崩れていた。ハルカさんが慌てて追いかけ、カヨコさんが面倒そうに後ろからついていく。

 

 見送っていると、アルさんが鞄から封筒を取り出した。

 

 ムツキさんが覗き込む。

 

 カヨコさんの顔が、少しだけ険しくなった。

 

 ハルカさんが何か言おうとして、アルさんが慌てて止める。

 

 遠くて、声は聞こえない。

 

 でも、さっきまでラーメンを食べていた時とは違う空気だった。

 

 アルさんが、封筒を握りしめる。

 

 悪そうに笑おうとして、少しだけ失敗したように見えた。

 

「……レナ」

 

 セリカさんの声で、私は我に返った。

 

「何見てるの?」

 

「あ……いえ。あの人たち、少し不思議だなって」

 

「不思議っていうか、変な人たちでしょ」

 

「はい。変な人たちです」

 

「そこは素直に言うんだ……」

 

 セリカさんが呆れたように言った。

 

 でも、少し笑っていた。

 

 その笑いが残っているうちに、私はもう一度外を見る。

 

 あの四人は、敵には見えなかった。

 

 少なくとも、今は。

 

 ラーメンを食べて、騒いで、笑って、柴大将に頭を下げていた。アルさんは格好つけるのが下手で、ムツキさんは楽しそうで、カヨコさんは冷静で、ハルカさんは危なっかしいけれど一生懸命だった。

 

 でも、封筒を見た時の顔だけが、胸に残っている。

 

 砂の向こうの影は、まだ遠い。

 

 けれど、その影が誰かの背中を押して、こちらへ歩かせている。

 

 そんな気がした。

 

 柴関ラーメンの湯気は、まだ温かかった。

 

 なのに、店の外へ流れていく風は、少しだけ冷たかった。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

  • 百合って綺麗だから綺麗に終わって
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