戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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12話 湯気の消えた店

 

 次の日、セリカさんは朝から少し機嫌が悪かった。

 

 いつも悪いと言ったら怒られる。たぶん怒られる。

 でも、今日のそれはいつもの「うるさいわね」とか「余計なことしないで」とは少し違っていた。

 

 言葉が少ない。

 

 怒鳴る前に、黙ってしまう。

 

 校門の前で便利屋の四人と撃ち合ったあとから、セリカさんはずっとそんな感じだった。銃の点検をしている時も、アヤネさんの報告を聞いている時も、柴関ラーメンの方角へ目が向くことが何度かあった。

 

 昨日の客。

 

 今日の敵。

 

 あの言葉にならない重さが、まだ校門の砂に残っている気がした。

 

「セリカちゃん、今日はバイトですよね?」

 

 アヤネさんが端末を見ながら聞いた。

 

「そうだけど」

 

「襲撃の後ですし、少し休んでも……」

 

「休まない」

 

 返事が早かった。

 

 セリカさんは銃の手入れを終えて、立ち上がる。

 

「休んでどうするのよ。借金が減るわけでもないし、店も忙しいし。昨日あんなことがあったからって、何もしないで座ってたら、余計に腹立つだけ」

 

「セリカちゃん……」

 

「大丈夫。いつも通りよ」

 

 いつも通り。

 

 その言葉が、今日は少し痛かった。

 

 いつも通り戦って、いつも通り怒って、いつも通りバイトに行く。そうしないと、昨日のことが変な形で追いついてくるのかもしれない。

 

「私も、一緒に行っていいですか」

 

 気づいたら、そう言っていた。

 

 セリカさんがこっちを見る。

 

「は?」

 

「お店までです。邪魔はしません」

 

「あんた、また手伝う気でしょ」

 

「……ちょっとだけ」

 

「ちょっとだけじゃないでしょ、絶対」

 

 少しだけ、いつものセリカさんに戻った。

 

 そのことにほっとしてしまって、顔に出たのかもしれない。セリカさんが眉を寄せる。

 

「何、その顔」

 

「いえ。怒られたなって思って」

 

「怒られて嬉しそうにするのやめなさいよ。調子狂うから」

 

「うん……じゃなくて、はい」

 

 言い直すと、セリカさんが少しだけ目を瞬かせた。

 

 自分でも、少しだけ変な感じがした。

 アビドスに来たばかりの頃なら、きっと最初から「はい」と言っていた。今も丁寧に話したい気持ちはある。でも、セリカさんと話していると、ほんの少しだけ言葉が近くなる。近くなってから、慌てて戻す。

 

 それを、嫌だとは思わなかった。

 

「……まあ、来るなら勝手にすれば。道覚えたんでしょ」

 

「たぶん」

 

「そこは自信持ちなさいよ」

 

「じゃあ、覚えました」

 

「急に強気になるな」

 

 セリカさんがため息をつく。

 

 でも、追い返されなかった。

 

 シロコさんが壁際からこちらを見ていた。

 

「私も行く」

 

「シロコ先輩まで?」

 

「見回り。あと、昨日のことがある」

 

 シロコさんの声は短い。

 でも、その短さの中に、ちゃんと理由が入っていた。

 

 昨日のこと。

 

 便利屋68がアビドスを襲ったこと。

 その裏に、まだ見えない依頼主がいること。

 それから、柴関ラーメンで一緒に食べた相手だったこと。

 

「先生は?」

 

 アヤネさんが聞く。

 

 先生は少し考えてから頷いた。

 

「私も行くわ。柴関ラーメンは、アビドスにとって大事な場所でしょう?」

 

「そうです」

 

 セリカさんが即答した。

 

 少し強すぎるくらいの声だった。

 

「大事な場所です」

 

 その一言で、胸がぎゅっとした。

 

 柴関ラーメンへ向かう道は、昨日と同じだった。

 

 同じはずだった。

 

 壁のひび。砂に埋もれたバス停。細い道。店へ続く角。シロコさんに教えてもらった目印は、ちゃんとそこにある。セリカさんは少し前を歩いていて、足取りは早い。早すぎるくらいだった。

 

「セリカさん、少しだけ速いです」

 

「遅いよりいいでしょ」

 

「うん。でも、砂が深いところで足を取られます」

 

 また「うん」と言ってしまった。

 

 セリカさんは振り返って、少しだけ変な顔をした。怒るかなと思ったけれど、怒らなかった。

 

「……分かったわよ」

 

 歩幅が少しだけ落ちた。

 

 それが、なぜか嬉しかった。

 

 柴関ラーメンの暖簾が見えるはずの角に近づいた時、最初に違和感に気づいたのはシロコさんだった。

 

 足が止まる。

 

「煙」

 

「え?」

 

 顔を上げた。

 

 鼻の奥に、焦げた匂いが入ってきた。

 

 ラーメンの匂いではない。

 

 醤油でも、出汁でも、湯気でもない。

 金属と木と、焼けた何かの匂い。胸の奥が一瞬で冷たくなる。

 

 セリカさんが走り出した。

 

「セリカさん!」

 

 呼んでも止まらなかった。

 

 シロコさんがすぐに追う。先生も走る。私も救護バッグを抱え直して走った。砂に足を取られそうになる。息が乱れる。嫌な匂いが近づいてくる。

 

 角を曲がった瞬間、視界が止まった。

 

 柴関ラーメンが、壊れていた。

 

 暖簾がない。

 

 看板が割れている。

 

 店の入口だった場所が、黒く焦げている。

 

 昨日、湯気が出ていた場所。

 セリカさんが「辛いやつやめときなさいよ」と言って、水を置いてくれた場所。

 アルさんが特盛ラーメンを前に固まって、ムツキさんが笑って、ハルカさんが頭を下げて、カヨコさんがため息をついていた場所。

 

 そこが、壊れていた。

 

「……嘘」

 

 セリカさんの声が、砂に落ちた。

 

 誰も返せなかった。

 

 セリカさんは一歩、前に出る。

 もう一歩。

 足元に落ちていた木片を踏んで、小さな音がした。

 

「なんで」

 

 声が震えている。

 

「なんで、ここなのよ」

 

 胸が痛い。

 

 言葉が出ない。

 

 セリカさんの背中が、いつもより小さく見えた。怒っているはずなのに、怒鳴る声が出てこない。怒る前に、壊れた店を見てしまった。大事な場所が壊れていることを、先に受け取ってしまった。

 

「柴大将は?」

 

 先生の声で、体が動いた。

 

 そうだ。

 

 店だけじゃない。人がいる。

 

「確認します!」

 

 私は救護バッグを開きかけて、すぐ閉じた。ここでは邪魔になる。まず周囲。煙。火の残り。崩れそうな場所。足元のガラス。爆発の中心。人影。

 

 シロコさんが低く言う。

 

「奥。人の気配」

 

 セリカさんが弾かれたように動こうとした。

 

「待って」

 

 シロコさんが腕を出して止める。

 

「まだ崩れるかもしれない」

 

「離して!」

 

「危ない」

 

「柴大将がいるかもしれないでしょ!」

 

「だから、危ない」

 

 シロコさんの声が少しだけ強くなった。

 

 セリカさんの肩が震える。

 

「じゃあ、どうすんのよ……!」

 

 その声が痛かった。

 

 怒っているのに、泣きそうだった。

 

 先生が前に出る。

 

「私とシロコで確認するわ。レナはここに救護場所を作って。セリカは――」

 

「私も行く!」

 

「セリカ」

 

 先生の声は静かだった。

 

 でも、そこでセリカさんは止まった。

 

「今、あなたが怪我をしたら、柴大将を助ける手が一つ減る。怒っていい。焦っていい。でも、今は動ける形にして」

 

 セリカさんの唇が震えた。

 

 何か言い返そうとして、言葉が出なかった。

 

 私は近づいた。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

 声が荒い。

 

 でも、こちらを見てくれた。

 

「ここ、手伝って。救護場所を作るの、一人だと遅い」

 

 自分でも少し驚いた。

 

 いつもなら「手伝っていただけますか」と言っていたかもしれない。今は、そんな言い方を探している余裕がなかった。

 

 セリカさんが、ぐっと息を飲む。

 

「……何すればいいの」

 

「そこの椅子、まだ使えると思う。焦げてないやつだけ。あと、床のガラスを避けたいから、布を敷く場所を空けたい」

 

「分かった」

 

 セリカさんは動いた。

 

 怒りを、手の動きに変えた。

 

 焦げた椅子を避け、使えるものだけを引きずってくる。手が震えている。でも、止まらない。止まったら、きっと壊れた店を見てしまうから。

 

 私はバッグを開いた。

 

 手袋。包帯。消毒液。水。布。シート。

 

 指が震える。

 

 昨日の湯気が、頭の中で消えてくれない。

 

 アルさんの「いただきます」が耳に残っている。ハルカさんが「このご恩、一生忘れません」と言っていた。忘れていないはずなのに。忘れていないはずなのに、どうして。

 

 だめ。

 

 今は考えない。

 

 柴大将。怪我人。救護場所。火傷。擦過傷。衝撃。煙を吸っている可能性。

 

 考えるなら、助けるための順番を。

 

 シロコさんと先生が奥へ入った。

 

 数秒が長い。

 

 セリカさんが壊れた入口を見つめている。銃を持っていない手が、ぎゅっと握られていた。爪が食い込んでいそうで、私は声をかけようとして、でも言葉を飲み込んだ。

 

 今「大丈夫」とは言えない。

 

 大丈夫かどうか、まだ分からない。

 

 だから嘘は言えない。

 

 代わりに、手元の布を渡した。

 

「セリカさん、これ持ってて」

 

「……うん」

 

 セリカさんが布を握る。

 

 ほんの少しだけ、呼吸が整った気がした。

 

 奥から、先生の声がした。

 

「レナ、柴大将を運ぶわ。意識はある。軽い火傷と、打撲。煙も少し吸っている」

 

「はい!」

 

 シロコさんと先生が、柴大将を支えながら戻ってくる。

 

 柴大将の服は煤で汚れていた。腕に火傷。額に擦り傷。表情は相変わらず渋い。でも、意識はある。そこだけで、膝の力が抜けそうになった。

 

「柴大将!」

 

 セリカさんが駆け寄ろうとして、寸前で止まった。

 

 私を見た。

 

「ここ」

 

 私は敷いたシートを示す。

 

「座ってもらって。セリカさん、背中支えて」

 

「分かった」

 

 セリカさんが柴大将の背中へ手を添える。

 

 その手が震えている。

 

 でも、優しかった。

 

「大将、聞こえる? ここ座って。ねえ、大丈夫? どこ痛い? ちょっと、何か言ってよ……!」

 

 最後の方は、ほとんどお願いだった。

 

 柴大将は、ゆっくり頷いた。

 

 そのたった一つの動きで、セリカさんの目元が少し歪んだ。

 

「レナ、火傷」

 

 シロコさんが短く言う。

 

「うん」

 

 私は頷いた。

 

 消毒。冷却。火傷の範囲。深さ。呼吸。煙を吸ったなら喉の状態。会話できるか。意識の混濁はないか。

 

 手順を追う。

 

 でも、完全には冷静になれなかった。

 

 柴大将の腕に触れる前、私は一瞬止まった。

 

「処置します。触れます」

 

 柴大将が頷く。

 

 その無言の頷きで、私は動いた。

 

 火傷を冷やす。焦げた布を無理には剥がさない。傷に砂が入らないように覆う。呼吸を見る。先生が横で確認してくれる。シロコさんは周囲を見ている。セリカさんは柴大将の背を支えたまま、ずっと黙っていた。

 

 黙っているのが、一番つらそうだった。

 

「……誰が」

 

 処置の途中、セリカさんが小さく言った。

 

「誰がやったの」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 でも、答えはたぶん、みんなの胸に浮かんでいた。

 

 昨日の四人。

 

 そう思いたくない。

 

 思いたくないのに、思ってしまう。

 

 セリカさんも、それを分かっている顔だった。

 

「違うって言ってよ」

 

 声が、震えた。

 

「ねえ、違うって言ってよ。昨日のあいつらじゃないって。あんな、変で、うるさくて、ラーメン食べて、柴大将に頭下げてたやつらが、こんなことするわけないって……誰か言ってよ」

 

 胸が詰まった。

 

 言えなかった。

 

 言いたかった。

 

 でも、分からない。

 

 分からないことを、違うとは言えない。

 

 セリカさんの顔が歪む。

 

「なんでよ」

 

 今度の声は、怒りだった。

 

「なんで、ここなのよ。学校ならまだ分かる。分かりたくないけど、敵なら学校を狙うのは分かる。でもここは違うじゃない。柴関ラーメンは関係ないじゃない。大将は関係ないじゃない!」

 

 セリカさんの声が大きくなる。

 

 でも、途中で詰まる。

 

「昨日、食べてたじゃない……」

 

 小さな声だった。

 

「おいしいって、言ってたじゃない……」

 

 その言葉で、私の中にも何かが崩れた。

 

 アルさんの声が蘇る。

 

 おいしい。

 

 あの時の声は、嘘には聞こえなかった。

 

 だから余計に痛い。

 

「セリカさん」

 

 私は処置の手を止めずに言った。

 

「怒っていいと思う」

 

 セリカさんがこちらを見る。

 

「私も、怒ってる」

 

 言葉が少し震えた。

 

 でも、止めなかった。

 

「昨日のこと、私も覚えてる。アルさんがラーメン見て困ってたことも、ハルカさんが何度も謝ってたことも、ムツキさんが笑ってたことも、カヨコさんがずっと周りを見てたことも。全部覚えてる。だから……余計に、嫌です」

 

 セリカさんの目が揺れる。

 

 私は、火傷に布を当てる手を慎重に動かした。

 

「でも、今は柴大将を先に助けたい。怒るのは、そのあと一緒にやりたい」

 

「……一緒に?」

 

「うん。私も、怒る」

 

 セリカさんが、何か言おうとして口を閉じた。

 

 それから、布を握る手に力を入れる。

 

「……じゃあ、ちゃんと怒りなさいよ」

 

「うん」

 

「途中で、変に許したりしないでよ」

 

「今は、しない」

 

「今は?」

 

「あとで何が分かるかは、まだ分からないから。でも、今ここを壊されたことには、ちゃんと怒る」

 

 セリカさんは、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、顔を伏せた。

 

「……ほんと、調子狂う」

 

 その声は、泣きそうだった。

 

 遠くで足音がした。

 

 アヤネさんとノノミさん、ホシノ先輩が駆けてくる。アヤネさんの顔は青い。ノノミさんは笑っていない。ホシノ先輩はいつもよりずっと目が開いていた。

 

「セリカちゃん!」

 

 アヤネさんが駆け寄る。

 

「柴大将は……!」

 

「意識はあります。火傷と打撲、煙を少し吸っています。先生にも確認してもらっています」

 

 自分の声が、思ったよりしっかり出た。

 

 アヤネさんは小さく息を吐いた。

 

 でも、その安心はすぐに壊れた店へ向く。

 

「これは……」

 

 言葉が出てこないみたいだった。

 

 ノノミさんは口元に手を当てていた。

 

 笑顔がない。

 

 いつもなら何か言って、空気を少し柔らかくしてくれる人が、今は何も言えずに壊れた店を見ている。その姿が、妙に怖かった。

 

「ひどいですね」

 

 ノノミさんの声は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

「こんなの、あんまりです」

 

 ホシノ先輩は黙っていた。

 

 壊れた店を見ている。柴大将を見ている。セリカさんを見ている。私の手元を見ている。

 

 その顔は眠そうではなかった。

 

「……うへぇ」

 

 ようやく出た声は、いつもの口癖だった。

 

 でも、軽くなかった。

 

「これは、ちょっと笑えないねぇ」

 

 その瞬間、背筋が冷えた。

 

 ホシノ先輩が笑えないと言う。

 

 それだけで、この出来事がどれだけ重いのか、改めて分かってしまった。

 

 先生が立ち上がる。

 

「まず、柴大将を安全な場所へ移しましょう。詳しい話はそのあと。アヤネ、救急搬送の手配を。ノノミ、清潔な布と水を追加で。シロコ、周囲の確認を続けて。セリカは――」

 

「ここにいる」

 

 セリカさんが言った。

 

「私、ここにいる。大将のそばにいる」

 

 先生は一瞬だけ黙った。

 

 それから頷く。

 

「分かったわ。レナ、セリカと一緒にお願いできる?」

 

「はい」

 

 返事をして、セリカさんの隣に座った。

 

 瓦礫の匂いがする。

 

 焦げた匂い。

 

 煙の残り。

 

 ラーメンの匂いは、もうほとんどしなかった。

 

 それが、一番つらかった。

 

 柴関ラーメンは、湯気の場所だった。

 

 砂の中で、温かいものがある場所だった。

 

 セリカさんが働く場所で、アビドスのみんながご飯を食べる場所で、昨日は便利屋の四人も笑っていた場所だった。

 

 そこから湯気が消えている。

 

 セリカさんが、ぽつりと言った。

 

「レナ」

 

「うん」

 

「あいつらだったら、私、たぶん許せない」

 

 返事に迷った。

 

 許せない。

 

 その言葉は重い。

 

 でも、今のセリカさんからそれを取り上げることはできない。

 

「うん」

 

 私は頷いた。

 

「今は、それでいいと思う」

 

「……今は?」

 

「うん。今は」

 

 セリカさんが私を見る。

 

 泣いてはいなかった。

 

 でも、泣くより苦しそうな顔だった。

 

「レナって、たまにずるい言い方する」

 

「そうかな」

 

「そうよ。否定しないのに、全部決めつけもしない」

 

「……まだ、分からないから」

 

「分からないの、むかつく」

 

「うん」

 

「でも、あんたが一緒に怒るって言ったのは……ちょっとだけ、助かった」

 

 最後の声は、すごく小さかった。

 

 聞き間違いかと思った。

 

 でも、聞き間違いにしたくなかった。

 

「うん」

 

 それだけ返した。

 

 それ以上言ったら、セリカさんがまた怒りそうだったから。

 

 少し離れた場所で、シロコさんが周囲を見ている。いつもより視線の動きが速い。敵を探しているというより、もう二度と同じことを起こさせないように、壊れた場所を全部目に焼きつけているようだった。

 

 アヤネさんは端末を操作している。指が震えていた。何度か打ち間違えて、唇を噛んでいる。

 

 ノノミさんは水を持ってきてくれた。笑っていないのに、声だけは柔らかくしようとしていた。

 

「レナちゃん、これ、使ってください」

 

「ありがとうございます」

 

「セリカちゃんも、お水を」

 

「いらない」

 

「飲んでください」

 

 ノノミさんの声が、少しだけ強くなった。

 

 セリカさんが驚いたように顔を上げる。

 

 ノノミさんは、笑っていなかった。

 

「お願いします。今は、飲んでください」

 

「……分かった」

 

 セリカさんは水を受け取った。

 

 ノノミさんの手も、少し震えていた。

 

 ホシノ先輩は壊れた看板の前に立っていた。

 

 いつものだらけた空気がない。背中だけで、何かを考えているのが分かった。たぶん、アビドスのこと。カイザーのこと。便利屋のこと。私にはまだ分からない、もっと奥のこと。

 

 先生がホシノ先輩に近づく。

 

 二人は何か小さく話していた。

 

 声は聞こえない。

 

 でも、ホシノ先輩が一度だけ目を伏せたのは見えた。

 

 胸の奥がざわつく。

 

 柴関ラーメンが壊れた。

 

 それだけでは終わらない気がした。

 

 これは、アビドスの日常が壊された音だった。

 

 そして、その音に引っ張られるように、もっと大きな何かが近づいている。

 

 そう感じた。

 

 処置が一段落した頃、セリカさんがもう一度、壊れた店を見た。

 

 黒く焦げた入口。

 

 割れた看板。

 

 湯気のない厨房。

 

 セリカさんの目が、また揺れる。

 

「……昨日、ここで笑ってたのに」

 

 小さな声。

 

「私も」

 

 私は言った。

 

「覚えてる」

 

「忘れないでよ」

 

「忘れない」

 

「絶対」

 

「うん。絶対」

 

 セリカさんは頷いた。

 

 それから、壊れた店の方へ向き直る。

 

 怒りは消えていない。

 

 悲しみも消えていない。

 

 でも、さっきみたいにぐちゃぐちゃのままではなかった。少しだけ、形を持ち始めていた。

 

 私も、同じ方向を見る。

 

 便利屋さんたちがやったのか。

 誰かにやらされたのか。

 どこまで知っていて、どこまで知らなかったのか。

 

 まだ分からない。

 

 でも、壊れた店はここにある。

 

 怪我をした柴大将もここにいる。

 

 セリカさんの震えた声も、ノノミさんの笑わない顔も、アヤネさんの震える指も、シロコさんの速すぎる視線も、ホシノ先輩の笑えない声も、全部ここにある。

 

 だから、忘れない。

 

 柴関ラーメンの湯気が消えた日のことを。

 

 その代わりみたいに、胸の奥で熱くなった怒りのことを。

 

 ちゃんと、覚えておく。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

  • 百合って綺麗だから綺麗に終わって
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