戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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13話 風紀委員会

 

 柴関ラーメンの前に立っていると、時間の感覚が少しずつ壊れていく気がした。

 

 さっきまで処置をしていた。

 柴大将の火傷を冷やして、煤のついた服に触れないよう気をつけて、煙を吸った喉の状態を先生と確認した。アヤネさんが搬送の連絡を取り、ノノミさんが水と布を持ってきて、シロコさんが周囲を見て、ホシノ先輩が壊れた看板の前で黙っていた。

 

 それなのに、目を少し横へ動かすだけで、昨日の店内が見えてしまう。

 

 セリカさんが水を置いてくれたカウンター。

 アルさんが特盛ラーメンを見て固まった席。

 ムツキさんが笑っていた声。

 カヨコさんの低い「社長」。

 ハルカさんが何度も頭を下げて、セリカさんに止められていた場所。

 

 全部、同じ場所だった。

 

 同じ場所だったはずなのに、今は黒く焦げている。

 

「……許せない」

 

 セリカさんが呟いた。

 

 大きな声ではなかった。

 でも、その声は風に流されなかった。

 

 セリカさんはずっと柴関ラーメンの入口を見ている。銃を握る手が震えていた。怒っている。間違いなく怒っている。でも、それだけじゃない。昨日の四人を思い出してしまっているのだと思う。完全に憎めたら、たぶんもっと楽だった。なのに、アルさんの困った顔も、ハルカさんの震えた声も、覚えてしまっている。

 

 だから怒りきれない。

 怒りきれないことが、余計に怒りを深くしている。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

「手、痛くなる」

 

「……分かってる」

 

 分かってる、と言いながら、セリカさんの指は銃から離れなかった。

 

 私はそれ以上言えなかった。

 

 無理にほどくことはできるかもしれない。でも、今その手から怒りまで奪ってしまったら、セリカさんが立っていられなくなる気がした。だから、隣にいるだけにした。近すぎず、でも離れすぎず。救護騎士団で何度も教わった距離。

 

 柴大将は搬送の準備が整うまで、少し離れた安全な場所に座っていた。命に関わる状態ではない。先生がそう言ってくれた時、みんな少しだけ息を吐いた。でも、それで終わりではなかった。

 

 店は壊れている。

 

 壊した誰かがいる。

 

 その誰かを、たぶん私たちは知っている。

 

「……来た」

 

 シロコさんの声で、空気が変わった。

 

 砂の向こうから、足音が近づいてくる。人数は少なくない。軽い足音ではない。揃っている。訓練された部隊の足音だった。

 

 シロコさんが銃を構え、アヤネさんが端末を握り直す。ノノミさんが私の少し前へ出た。ホシノ先輩は、目が開いていた。

 

 先生が静かに言う。

 

「全員、構えすぎないで。相手を確認してから」

 

 その言葉が終わるより少し早く、砂の向こうから黒い制服の一団が現れた。

 

 ゲヘナの風紀委員会。

 

 そう分かったのは、先頭に立つ生徒の雰囲気が、今まで見た不良やヘルメット団とはまるで違ったからだ。規律。圧力。こちらに弁解を許さない空気。銃口が向いているわけではないのに、もう包囲されているような感じがした。

 

 その中心に、きっちりとした態度の生徒がいた。

 

 見たことがある。確か...アコさん、だったと思う。

 

 その隣には、風紀委員たちが並んでいる。

 そして、一番奥。

 小柄な生徒が立っていた。

 

 ゲヘナの風紀委員会委員長、空崎ヒナ。

 

 小さい人だった。

 

 でも、小さく見えなかった。

 

 その人が一歩前へ出ただけで、砂の音まで遠くなる気がした。壊れた柴関ラーメンも、便利屋68への怒りも、風の匂いも、一瞬だけ全部止まる。誰も「強い」と口にしていないのに、そこにいる全員が分かってしまう。

 

 この人は、強い。

 

 たぶん、とても。

 

「こちらはゲヘナ学園風紀委員会です」

 

 アコさんの声が響いた。

 

 丁寧だった。

 丁寧だけれど、柔らかくはなかった。

 

「現在、ゲヘナ学園所属の問題生徒、陸八魔アル、鬼方カヨコ、浅黄ムツキ、伊草ハルカを追跡中です。彼女たちは重大な規律違反、器物損壊、ならびに複数の騒乱行為に関与している疑いがあります。速やかに身柄の引き渡しにご協力ください」

 

「は?」

 

 セリカさんの声が低く落ちた。

 

 アヤネさんがすぐに視線を向ける。

 

「セリカちゃん」

 

「だって、今この状況でそれ言う?」

 

 セリカさんが一歩前へ出た。

 

 私は反射的に手を伸ばしかけて、止めた。

 

「うちの店が壊されたの。柴大将が怪我したの。あいつらがやったかもしれなくて、こっちはまだ何も聞けてない。それをいきなり来て、“ゲヘナの問題だから引き渡せ”って? ふざけないでよ」

 

 アコさんの眉がわずかに動いた。

 

「お気持ちは理解します。ですが、彼女たちはゲヘナ学園所属の生徒です。処分および拘束の権限は本校風紀委員会にあります」

 

「お気持ちって何よ」

 

 セリカさんの声が震えた。

 

「気持ちの話だけじゃないでしょ。ここはアビドスよ。うちの場所で、うちの店が壊されたの。そっちの都合で勝手に連れて行かれて、はい終わりにできるわけないじゃない」

 

「セリカ」

 

 先生が静かに呼んだ。

 

 でも、止める声ではなかった。

 怒りを形に戻すための声だった。

 

 セリカさんは唇を噛んだ。

 それでも、下がらなかった。

 

「……柴関ラーメンは、ただの店じゃないの」

 

 その声は、少しだけ掠れていた。

 

「うちにとって、大事な場所なの。そういうの、分かってない人に、勝手に持っていかれたくない」

 

 アコさんはすぐには答えなかった。

 

 その時、後方から別の声がした。

 

「アコ。言い方を選んで」

 

 ヒナさんだった。

 

 たった一言。

 

 それだけで、アコさんの背筋が少し伸びた。風紀委員たちの銃口も、わずかに下がる。

 ヒナさんは壊れた柴関ラーメンを見て、それからセリカさんを見た。

 

「……被害者は、あなたたちね」

 

 セリカさんが黙る。

 

 その言葉には、さっきのアコさんとは違う重さがあった。慰めではない。同情でもない。ただ、事実を見ている声だった。

 

「風紀委員会として、便利屋68の身柄は確保する。でも、あなたたちの被害を無視するつもりはない」

 

「なら――」

 

 セリカさんが言いかけた瞬間、横の瓦礫の陰から音がした。

 

 かしゃん、と何かが落ちる音。

 

 全員がそちらを見る。

 

「ひっ」

 

 聞き覚えのある声。

 

 ハルカさんだった。

 

 瓦礫の向こうから、便利屋68の四人が現れた。隠れていた、というより、出るに出られなくなっていたような顔をしている。アルさんは真っ青で、ムツキさんは笑っているけれど目だけが忙しく動いている。カヨコさんは最悪だ、という顔をしていた。

 

 ハルカさんは、完全に泣きそうだった。

 

「す、すみません……すみません、すみません、すみません……!」

 

「ハルカ、今は謝るタイミングじゃ――」

 

「謝るタイミングでしょ!」

 

 セリカさんが叫んだ。

 

 アルさんの肩が跳ねる。

 

 ハルカさんはその場で崩れそうになった。

 膝が折れかける。カヨコさんがすぐに腕を掴んだ。

 

「立って。ここで崩れたら、本当に終わる」

 

「でも、でも、私が……私が……!」

 

 ハルカさんの声はぐちゃぐちゃだった。

 

 さっきまで怒りで固まっていた胸が、別の痛みを覚える。

 

 許せない。

 

 それは変わらない。

 

 でも、目の前のハルカさんは、勝ち誇っている犯人には見えなかった。自分が何を壊したのか、今になってようやく全身で受け取ってしまった人に見えた。手が震えて、目が泳いで、息が浅い。

 

 セリカさんも、それを見てしまったのだと思う。

 

 怒鳴ろうとした口が、一瞬だけ止まった。

 

「あなたたち」

 

 アコさんの声が鋭くなる。

 

「ようやく姿を現しましたね。陸八魔アル、ならびに便利屋68の各員。これ以上の抵抗は無意味です。速やかに武装を解除し、風紀委員会の指示に従いなさい」

 

「ふ、ふふ……」

 

 アルさんが笑おうとした。

 

 失敗した笑みだった。

 

「さすがに、なかなか豪華なお出迎えね。風紀委員会の皆さんにここまで歓迎されるとは、私も有名になったものだわ」

 

「社長、声震えてるよ」

 

「ムツキ、今それ言わないで!」

 

「アル」

 

 カヨコさんが低く呼ぶ。

 

 アルさんは一瞬だけ目を閉じた。

 

 それから、銃を構え直す。

 

「……私たちは、簡単に捕まるわけにはいかない。まだ、終わっていないのよ」

 

「終わってない?」

 

 セリカさんの声が掠れる。

 

「何が終わってないって言うのよ。店壊して、大将怪我させて、まだ何か続けるつもりなの?」

 

 アルさんの顔が歪んだ。

 

 言葉が出ない。

 

 その顔を見た瞬間、セリカさんの怒りがまた燃えたのが分かった。

 

「何か言いなさいよ!」

 

「……ごめん」

 

 アルさんの口から、小さな声が落ちた。

 

 驚いた。

 

 セリカさんも、アビドスのみんなも、たぶん便利屋68の三人も、一瞬だけ止まった。

 

 アルさんはすぐに顔を上げた。

 

「でも、私は社長だから。私の部下がやったことは、私の責任よ。だから、謝るだけで終わらせるつもりはない。けれど……今、ここで風紀委員会に捕まって終わるわけにもいかない」

 

「意味分かんない」

 

 セリカさんが言った。

 

「謝るなら逃げないでよ」

 

「逃げたいわけじゃない!」

 

 アルさんの声が初めて崩れた。

 

「でも、ここで捕まったら、何も返せないじゃない! 私は……私は、柴関ラーメンにだって、あなたたちにだって、まだ何も返せていない!」

 

 その言葉が、砂の上に落ちた。

 

 セリカさんの顔が歪む。

 

 許せない。

 でも、今の言葉も嘘には聞こえない。

 

 それが一番、苦しい。

 

 アコさんが一歩前に出る。

 

「感傷的なやり取りはそこまでです。風紀委員会の任務は、対象の確保。アビドス高等学校の皆さん、繰り返します。速やかに身柄の引き渡しにご協力ください」

 

「……渡せません」

 

 言ったのは、アヤネさんだった。

 

 アコさんが目を向ける。

 

「理由をお聞きしても?」

 

「私たちは、柴関ラーメンの被害者です。便利屋68を許したわけではありません。ですが、事情聴取も、被害状況の確認も、まだ終わっていません。ここでゲヘナ側に一方的に連れて行かれれば、私たちは何も聞けないままになります」

 

 アヤネさんの声は震えていなかった。

 

 でも、端末を持つ指は少し白かった。

 

「それに、先ほどそちらの部隊は、事前の確認もなくこの場を包囲しました。ここはアビドス自治区です。こちらの被害状況を無視して武装部隊を展開されては、到底協力できません」

 

「……なるほど」

 

 アコさんの目が細くなる。

 

「つまり、便利屋68を庇うと?」

 

「庇うのではありません」

 

 アヤネさんは言った。

 

「私たちが怒る相手を、私たちから取り上げないでください」

 

 その言葉に、セリカさんが顔を上げた。

 

 私も胸がぎゅっとなった。

 

 怒りを取り上げないで。

 

 それは、すごくアビドスらしい言葉に聞こえた。

 

 先生が静かに頷いた。

 

「私も、今の段階で一方的な引き渡しには反対よ。風紀委員会の立場は理解する。でも、ここで起きた被害について、アビドス側にも確認する権利がある」

 

「先生」

 

 アコさんの声が少し変わった。

 

 その一言で、ヒナさんがわずかにアコさんを見る。

 

「……失礼しました。ですが、シャーレの先生がここにいる以上、事態を長引かせるわけにはいきません」

 

「どういう意味?」

 

 先生の声が静かに低くなる。

 

 アコさんはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙の間に、カヨコさんが小さく笑った。笑ったというより、息を吐いた。

 

「なるほど。そういうこと」

 

「カヨコ?」

 

 アルさんが見る。

 

「風紀委員会がここまで大きく動いた理由。便利屋68だけが目的なら、やり方が派手すぎる。……先生もまとめて確認したいんでしょ」

 

 アコさんの表情が、ほんの少しだけ固まった。

 

 ヒナさんは目を閉じた。

 

「アコ」

 

「……申し訳ありません、委員長」

 

 ヒナさんはゆっくり目を開けた。

 

「先生を拘束するつもりはない」

 

 アコさんが何か言おうとして、飲み込んだ。

 

「でも、便利屋68は確保する必要がある。アビドス側の事情も分かった。……それでも、ここで見逃すわけにはいかない」

 

 ヒナさんの声は静かだった。

 

 だからこそ、誰も軽く受け取れない。

 

 アルさんが銃を構える。

 

 セリカさんも構える。

 

 アコさんの合図で風紀委員たちが展開する。

 

 空気が一気に張り詰めた。

 

「先生」

 

 私は小さく呼んだ。

 

 先生は私を見る。

 

「レナは救護地点を維持。無理に前へ出ないこと」

 

「うん……はい。でも、みんなが戻る場所は作ります」

 

 少しだけ言葉が崩れた。

 

 でも、先生は咎めなかった。

 

「お願い」

 

 その一言で、私はバッグを開いた。

 

 手袋。包帯。水。布。火傷用の処置がまだ残っている。柴大将の処置で使ったものもある。残量を確認する。足りる。ギリギリだけど、足りる。

 

 ノノミさんが私の横に来た。

 

「レナちゃん、私も手伝います」

 

「ノノミさんは前を見て」

 

「でも」

 

「お願い。私はここにいるから。戻る場所は、作っておくから」

 

 ノノミさんの目が少し揺れた。

 

 その目を見ると、胸が痛くなる。

 この人は、私を後ろに置きたいのだと思う。守りたいのだと思う。でも、私もただ守られる場所にいたいわけじゃない。

 

 ノノミさんは少しだけ迷って、頷いた。

 

「……分かりました。無理は、しないでくださいね」

 

「うん。ノノミさんも」

 

 ノノミさんは、少しだけ笑った。

 

 でも、目はまだ笑っていなかった。

 

 戦闘は、混乱から始まった。

 

 風紀委員会の動きは速い。統制されている。ヘルメット団とも、便利屋68とも違う。誰かが飛び出せば別の誰かが穴を埋める。火力で押すだけではなく、確保するための動きだった。

 

「うわ、きっちりしてるね〜」

 

 ムツキさんが笑いながら爆発を置く。

 

「ムツキ、やりすぎないで」

 

 カヨコさんが撃ちながら言う。

 

「言われなくても分かってるよ〜。たぶん」

 

「その“たぶん”が怖いんだけど」

 

 アルさんは風紀委員会の包囲を突破しようとして、すぐにセリカさんと鉢合わせた。

 

「ちょっと、どこ行くのよ!」

 

「ここで捕まるわけにはいかないと言ったでしょう!」

 

 イオリさんが鋭く前へ出た。

 

「そこ、邪魔!」

 

 銃声が砂を弾く。

 

 シロコさんがすぐに応じる。

 

「こっちも、通さない」

 

「あなたたち、便利屋を庇うつもり!?」

 

「庇ってない」

 

 シロコさんの声は短い。

 

「でも、勝手に持っていかせない」

 

 その言葉に、私は手を止めそうになった。

 

 シロコさんらしい。

 

 短いけれど、今の全部が入っていた。

 

 庇っていない。許していない。でも、勝手に持っていかせない。

 

 チナツさんは後方で風紀委員たちへ指示を出していた。負傷者への対応も見ている。戦闘中でも視線が落ち着いていて、ただ制圧するだけの人ではないと分かった。

 

 ヒナさんは、まだ本格的には動いていなかった。

 

 でも、それが一番怖かった。

 

 ホシノ先輩が前へ出る。

 

「うへぇ、ゲヘナの風紀委員会って、やっぱり元気だねぇ」

 

「あなたが小鳥遊ホシノね」

 

 ヒナさんが言った。

 

 ホシノ先輩の笑顔が、ほんの少しだけ変わった。

 

「おじさんのこと知ってるの?」

 

「名前くらいは」

 

「そっかぁ。有名人ってつらいねぇ」

 

 軽い声。

 

 でも、二人の間だけ空気が違う。

 

 ヒナさんとホシノ先輩。

 

 どちらも、普通の生徒ではない。

 私でも分かる。二人が本気でぶつかったら、今の場の形が変わってしまう。

 

 先生がすぐに声を上げた。

 

「ホシノ、深追いしないで。ヒナも、ここで全面戦闘をするつもりはないはずよ」

 

 ヒナさんが先生を見る。

 

「先生。あなたがいると、話がややこしくなる」

 

「よく言われるわ」

 

「自覚があるなら、少し困る」

 

 ヒナさんは少しだけ息を吐いた。

 

 その横でアコさんが、先生へ向かって言う。

 

「先生、これはゲヘナの問題です。シャーレが介入する理由は――」

 

「ここはアビドスよ」

 

 先生が遮った。

 

 静かな声だった。

 

「ゲヘナの問題でもあり、アビドスで起きた被害でもある。どちらか一方の言い分だけで終わらせることはできないわ」

 

 アコさんが口を閉じる。

 

 先生の声が少しだけ強くなる。

 

「そして私は、ここにいる生徒たち全員が、これ以上取り返しのつかないことをしないように止めるためにいる」

 

 全員。

 

 アビドスだけではない。

 便利屋68だけでもない。

 風紀委員会も含めて。

 

 先生はやっぱり、大人だった。

 

 私は救護地点から、全員の動きを追った。

 

 セリカさんが右へ走る。

 シロコさんが左の射線を切る。

 ノノミさんが校舎側を守る。

 アヤネさんが声を飛ばす。

 ホシノ先輩が危ない場所にいる。

 便利屋68は逃げようとしながらも、アビドス側へ完全に背を向けない。

 風紀委員会は確保のために圧を強める。

 

 複雑すぎる。

 

 でも、救護は複雑な時ほど線を引かないといけない。

 

 誰が戻る場所を失っているか。

 誰が無理に前へ出そうとしているか。

 誰の呼吸が崩れているか。

 

 セリカさんがこちらを見た。

 

「レナ!」

 

「分かってる。前には出ない」

 

「ならいい!」

 

 それだけで会話が終わった。

 

 少し前なら、もっと硬いやり取りをしていたかもしれない。今は、短くても通じる。セリカさんが怒っていても、私の声を聞いてくれる。それが少しだけ嬉しくて、でも今は嬉しがっている場合じゃない。

 

 戦闘の流れが変わったのは、ヒナさんが一歩動いた時だった。

 

 本当に、一歩だけだった。

 

 それだけで、風紀委員会の動きが一気に整う。便利屋68の退路が塞がれ、アビドス側の動きも少し止まる。ヒナさん自身が何をしたのか、私には全部追えなかった。ただ、気づいた時には場がヒナさんの方へ傾いていた。

 

 強い。

 

 怖いくらいに。

 

 ホシノ先輩が前に出ようとした。

 

 でも、先生が視線だけで止めた。

 

 ホシノ先輩は一瞬、笑った。

 

「うへぇ。先生は厳しいねぇ」

 

「あなたが無理をしようとするからよ」

 

「そんなつもりないんだけどなぁ」

 

「ある」

 

 先生の声が即答だった。

 

 レナは、胸が少し詰まった。ホシノ先輩が無理をする。それを先生も見ている。

 私も、見逃したくない。

 

 その時、カヨコさんが叫んだ。

 

「アル、左! 今なら抜けられる!」

 

「分かったわ!」

 

 アルさんが走り出す。

 

 その前に、セリカさんが立った。

 

「行かせない」

 

「そこをどきなさい!」

 

「嫌よ」

 

 セリカさんの声は、さっきより静かだった。

 

「私、あんたたちを許してない。柴関ラーメンのこと、絶対忘れない。でも、風紀委員会に勝手に連れて行かれて、よく分からないまま終わるのも嫌」

 

 アルさんが息を飲む。

 

「だから、逃げるなら勝手に逃げなさい。でも、いつかちゃんと戻ってきなさいよ。謝るなら、私たちに言いなさい。柴大将にも言いなさい。風紀委員会の書類の中で終わらせるんじゃなくて、ちゃんと顔見て言いなさいよ!」

 

 アルさんの目が揺れた。

 

 ムツキさんの笑顔が、ほんの少し薄くなる。

 カヨコさんが目を伏せる。

 ハルカさんが泣きそうな顔でセリカさんを見る。

 

「……分かったわ」

 

 アルさんは言った。

 

 さっきまでの格好つけた声ではなかった。

 

「必ず、返しに来る。謝罪も、借りも、全部」

 

「言ったわね」

 

「ええ。社長の言葉よ」

 

「じゃあ覚えとく」

 

 セリカさんが道を完全に開けたわけではない。

 でも、ほんの少しだけ隙ができた。

 

 その瞬間、ムツキさんが煙幕を投げる。

 

「じゃ、今のうち〜」

 

「ムツキ!」

 

「社長、感動的な空気は三秒で十分だよ〜」

 

「もう少し余韻を――」

 

「捕まるよ」

 

「走るわよ!」

 

 便利屋68が動き出す。

 

 風紀委員会が追う。

 アコさんの声が飛ぶ。

 

「逃がさないでください!」

 

 アヤネさんが端末を見て叫んだ。

 

「右側、砂が深いです! 風紀委員会の隊列が崩れます!」

 

「シロコ、左の射線を切って。ノノミ、正面は抑えるだけ。追撃しないで」

 

 先生の指示が飛ぶ。

 

 対策委員会は、便利屋68を逃がすために動いているようで、完全にそうでもなかった。風紀委員会を傷つけないように、便利屋68が逃げる余地だけを作る。ぎりぎりの線だった。

 

 私も煙の流れを見て、玄関側の救護地点を守った。

 

 誰かが倒れたらすぐ動く。

 でも前には出すぎない。

 

 それを繰り返しているうちに、便利屋68の姿が砂の向こうへ消えていった。

 

 ムツキさんの笑い声が遠くなる。

 

 ハルカさんの「すみません!」が最後に聞こえた。

 

 アルさんは振り返らなかった。

 

 カヨコさんだけが、一度こちらを見た気がした。

 

 風紀委員会の追撃は、ヒナさんの一言で止まった。

 

「そこまで」

 

「委員長!」

 

 アコさんが声を上げる。

 

「深追いしない。ここはアビドス自治区。これ以上の衝突は、こちらにも不利になる」

 

「ですが――」

 

「アコ」

 

 ヒナさんの声が静かに落ちる。

 

 アコさんは唇を噛み、頭を下げた。

 

「……承知しました」

 

 場に、ようやく静けさが戻ってきた。

 

 でも、それは安心の静けさではなかった。

 壊れた店の前に、風紀委員会とアビドスが立っている。便利屋68は逃げた。柴関ラーメンは戻らない。柴大将は怪我をしたまま、搬送を待っている。

 

 何も解決していない。

 

 ただ、これ以上壊れるのを、今だけ止めた。

 

 ヒナさんが先生を見る。

 

「先生。今回の件は、こちらでも調査する」

 

「ええ。アビドス側の被害についても、共有してもらえるかしら」

 

「できる範囲で」

 

 短いやり取り。

 

 でも、ヒナさんは壊れた店へもう一度目を向けた。

 

「……被害者への対応は、風紀委員会としても行う」

 

 セリカさんが顔を上げる。

 

 ヒナさんはセリカさんを見る。

 

「便利屋68を捕まえるだけで、この件が終わるわけじゃない。そこは、理解している」

 

 セリカさんは、すぐには返事をしなかった。

 

 怒りはまだある。

 風紀委員会への不満もある。

 でも、ヒナさんの言葉だけは、まっすぐ受け取っているように見えた。

 

「……なら、ちゃんとやってください」

 

「ええ」

 

 ヒナさんは短く頷いた。

 

 アコさんは少し悔しそうだったけれど、何も言わなかった。

 

 風紀委員会が引き上げていく。

 

 砂の上に、規則正しい足音が残る。

 

 その音が遠くなってから、セリカさんはその場に座り込んだ。

 

「セリカさん!」

 

「大丈夫」

 

 セリカさんはすぐに言った。

 

 でも、その声は大丈夫じゃなかった。

 

「ちょっと、足に力入らなくなっただけ」

 

「それ、大丈夫じゃない」

 

「うるさい」

 

 いつもの返し。

 

 でも弱い。

 

 私は隣にしゃがんだ。

 

 セリカさんが少しだけこちらを睨む。

 

 それでも私は、セリカさんの手をつかむ。

 

 指の付け根が赤くなっている。爪の跡が少しだけ残っていた。私はそっと布で包んだ。大げさな処置ではない。でも、何かしていないと、セリカさんの手がまた怒りを握り潰しそうだった。

 

「……許したわけじゃないから」

 

「うん」

 

「でも、あそこで連れて行かれたら、もっと腹立ってた」

 

「うん」

 

「私が怒る相手なのに、勝手に持っていかれるの、嫌だった」

 

「うん」

 

「うんしか言わないじゃない」

 

「今は、聞いてる」

 

 セリカさんの目が少し揺れた。

 

「……そう」

 

 それだけ言って、セリカさんは壊れた店の方を見た。

 

 ノノミさんが静かに立っている。笑顔はまだ戻っていない。アヤネさんは端末を抱えたまま、風紀委員会の残した足跡を見ている。シロコさんは校門の方ではなく、便利屋68が消えた方角を見ていた。ホシノ先輩は柴大将の近くにいて、先生と何かを話している。

 

 今日、たくさんのものが動いた。

 

 便利屋68は逃げた。

 風紀委員会は去った。

 柴関ラーメンは壊れた。

 セリカさんは、許せない相手を、それでもその場では渡さなかった。

 

 それが正しかったのかは、まだ分からない。

 

 でも、セリカさんは自分の怒りを他人に預けなかった。

 

 そのことだけは、分かった。

 

 私はセリカさんの手に巻いた布を整えた。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

「ちゃんと怒れてたと思う」

 

「……何それ」

 

「分からないけど。でも、そう思った」

 

 セリカさんは一瞬だけ、泣きそうな顔をした。

 

 すぐに怒った顔へ戻した。

 

「ほんと、意味分かんない」

 

「うん。私も、ちょっと分かんない」

 

「そこは分かっときなさいよ」

 

 少しだけ、セリカさんが笑った。

 

 本当に少しだけ。

 

 壊れた店の前で、笑うにはあまりにも小さな笑みだった。

 でも、消えなかった。

 

 遠くで、救急搬送の音が近づいてくる。

 

 柴関ラーメンの湯気は、まだ戻らない。

 

 でも、セリカさんの手は、ほんの少しだけ開いていた。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

  • 百合って綺麗だから綺麗に終わって
  • 曇らせドロドロ依存エンド希望
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