戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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14話 遠くなる背中

 

 風紀委員会の足音が遠ざかっても、柴関ラーメンの前にはまだ熱が残っていた。

 

 爆発の熱ではない。

 火はもう消えている。煙も、先生とシロコさんが確認してくれた。柴大将の搬送も済んだ。残っているのは、焦げた匂いと、割れた看板と、何度見ても受け入れられない黒い入口。

 

 それから、みんなの中に残った怒り。

 

 セリカさんはまだ座り込んだままだった。手には私が巻いた布。怪我というほどではない。けれど、銃を握りしめすぎて赤くなった指を、そのままにしておきたくなかった。

 

「……逃げたわね」

 

 セリカさんが言った。

 

 声は小さかった。

 でも、便利屋68が去っていった方角をずっと見ている。

 

「うん」

 

 私は隣で頷いた。

 

「許したわけじゃないから」

 

「うん」

 

「でも、あそこで風紀委員会に連れて行かれたら、それはそれで腹立った」

 

「うん」

 

「……また、うんしか言わない」

 

「聞いてるから」

 

 そう言うと、セリカさんは少しだけ顔を歪めた。

 

 泣きそう、というより、泣く場所を見つけられない顔だった。怒る相手はいる。壊された場所もある。けれど、怒りを全部ぶつけるには、便利屋68の顔を知ってしまっている。ハルカさんが震えていたことも、アルさんが「ごめん」と言ったことも、見てしまっている。

 

 だから、怒りが真っ直ぐ飛ばない。

 

 胸の中で跳ね返って、自分まで傷つけている。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

「怒ってるの、変じゃないよ」

 

「……当たり前でしょ」

 

「うん。当たり前。でも、迷ってるのも、変じゃないと思う」

 

 セリカさんが黙った。

 

 怒られるかと思ったけれど、怒られなかった。

 その代わり、少しだけうつむいた。

 

「ほんと、あんたってさ」

 

「うん」

 

「そういうところ、ずるい」

 

「また言われた」

 

「言うわよ。ずるいんだから」

 

 それ以上は続かなかった。

 

 シロコさんは少し離れたところで、便利屋68が消えた方角を見ていた。風紀委員会の足跡も、便利屋68の足跡も、砂の上では長く残らない。それでもシロコさんは見ている。消えてしまう前に、何かを覚えようとしているみたいだった。

 

 ノノミさんは、柴関ラーメンの割れた看板を拾い上げようとして、途中で手を止めていた。触れていいのか分からない。壊れたものに触れた瞬間、本当に壊れたのだと認めることになる。そんなふうに見えた。

 

 アヤネさんは端末を抱えて立っている。風紀委員会とのやり取り、柴大将の搬送、便利屋68の逃走経路、全部を記録しようとしているのに、指が何度か止まっていた。

 

 そして、ホシノ先輩は先生とヒナさんの方にいた。

 

 風紀委員会は撤退しかけていたけれど、ヒナさんだけはまだ残っていた。アコさんもいる。イオリさんとチナツさんは少し離れて待機している。

 

 ヒナさんは、壊れた店をもう一度見た。

 

「……今回の件は、こちらの不手際もある」

 

 ヒナさんの声は小さかった。

 

 でも、はっきり聞こえた。

 

 アコさんが目を見開く。

 

「委員長、それは――」

 

「アコ」

 

 それだけで、アコさんは言葉を飲み込んだ。

 

 ヒナさんは先生を見る。

 

「風紀委員会の動きが、アビドスに余計な混乱を招いた。便利屋68を追っていたとはいえ、被害者であるあなたたちの前で、こちらの都合を優先しすぎた」

 

 アコさんの表情が苦しくなる。

 

 ヒナさんはアコさんを責めているわけではない。

 でも、責任をなかったことにはしていない。

 

 先生は静かに頷いた。

 

「そう言ってくれるなら助かるわ。アビドスのみんなも、今はかなり傷ついているから」

 

 ヒナさんの目が、セリカさんへ向いた。

 

 セリカさんは顔を上げなかった。

 でも、聞いているのは分かった。

 

「柴関ラーメンの被害については、ゲヘナ側でも確認する。便利屋68の追跡も続ける」

 

「……追いかけるの?」

 

 セリカさんが言った。

 

 ヒナさんが少しだけ目を伏せる。

 

「風紀委員会としては、そうなる」

 

「そっか」

 

 セリカさんはそれ以上言わなかった。

 

 たぶん、言いたいことはたくさんあった。

 捕まえてほしい。

 でも、勝手に終わらせないでほしい。

 謝らせてほしい。

 柴大将の前に立たせてほしい。

 

 その全部を、今は飲み込んだのだと思う。

 

 ヒナさんは先生へ視線を戻した。

 

「それと、先生。便利屋68だけを見ていても、この件は終わらないと思う」

 

 その言葉で、空気が変わった。

 

 先生の目が少し細くなる。

 

「心当たりがあるの?」

 

「確証ではない。でも、最近カイザーコーポレーションがアビドス自治区周辺で妙な動きをしている。特に、捨てられた砂漠地帯で何かを探っているらしい」

 

 カイザー。

 

 その名前が出た瞬間、胸の奥に嫌なものが落ちた。

 

 前見つけた、削られたロゴ。

 ヘルメット団だけでは用意しにくい部品。

 配管の近くにあった観測機器みたいな残骸。

 先生が「企業か、資金を持った誰か」と言った声。

 

 それらが、ばらばらだった点が、急に線になっていくような気がした。

 

 アヤネさんが端末を握り直す。

 

「カイザーコーポレーション……ですか」

 

「知っているの?」

 

 先生が尋ねる。

 

「もちろんです。金融、建設、警備、様々な分野に関わっています。アビドスの債務にも無関係ではありません。ですが……」

 

 アヤネさんの声が少し震えた。

 

「まさか、こんな形で」

 

 ホシノ先輩は、何も言わなかった。

 

 その沈黙が、一番気になった。

 

 驚いていない。

 

 そう見えた。

 

 ホシノ先輩は、いつものように「うへぇ、面倒だねぇ」と言うこともできたはずだ。

 冗談にして流すこともできたはずだ。

 でも、今は言わなかった。

 

 ただ、少し遠くを見ている。

 

 まるで、その名前がいつか出ることを、ずっと前から知っていたみたいに。

 

「ヒナ」

 

 先生が静かに言った。

 

「その情報、共有してもらえる?」

 

「できる範囲でなら。カイザーはゲヘナの管轄外でも動いている。風紀委員会としても全容を掴めているわけじゃない。ただ……」

 

 ヒナさんが少しだけ言葉を切った。

 

「アビドスの問題は、ただの借金だけではないと思う」

 

 その言葉は、柴関ラーメンの焦げた匂いの中で、やけに重く響いた。

 

 借金だけではない。

 

 襲撃だけでもない。

 

 砂漠化だけでもない。

 

 もっと大きなものが、アビドスの上に乗っている。

 

 それが、少しずつ姿を見せ始めている。

 

「……ありがとうございます」

 

 アヤネさんが小さく頭を下げた。

 

 ヒナさんは頷く。

 

「詳しい資料は、後で先生に送る。アコ、手配して」

 

「承知しました」

 

 アコさんはまだ少し悔しそうだったけれど、今度は反論しなかった。

 

 風紀委員会が今度こそ去っていく。

 

 ヒナさんは最後に、壊れた柴関ラーメンを見た。

 

「……早く、直るといいわね」

 

 セリカさんの肩が少し動いた。

 

 返事はしなかった。

 

 でも、聞こえていた。

 

 ヒナさんたちの姿が砂の向こうに消えると、柴関ラーメンの前にはまたアビドスだけが残った。

 

 便利屋68もいない。

 風紀委員会もいない。

 残ったのは、壊れた店と、私たちだけ。

 

 静かになったのに、楽にはならなかった。

 

「……学校に戻りましょう」

 

 アヤネさんが言った。

 

「柴大将の容態も確認しないといけませんし、カイザーの件も調べる必要があります。ここにいても、今すぐできることは限られています」

 

「分かってる」

 

 セリカさんが立ち上がる。

 

 少しふらついた。

 

 私は手を伸ばしかけたけれど、セリカさんが自分で踏ん張った。

 

「大丈夫」

 

「……うん」

 

「ほんとに大丈夫だから」

 

「うん。見てるだけ」

 

「見てるだけって、逆に落ち着かないんだけど」

 

 セリカさんが少しだけ顔をしかめた。

 

 でも、怒鳴らなかった。

 

 そのまま、私たちは学校へ戻った。

 

 歩く道は同じなのに、来た時よりずっと長く感じた。砂に足を取られるたび、柴関ラーメンの焦げた匂いがまだ服についている気がした。セリカさんは何度か振り返りそうになって、振り返らなかった。シロコさんはそのたびに少しだけ歩幅を落とした。ノノミさんはセリカさんへ何か言いたそうにして、言わなかった。

 

 ホシノ先輩だけが、いつもより少し後ろを歩いていた。

 

 私はそれに気づいて、何度か振り返った。

 

 そのたびにホシノ先輩は、いつもの顔で笑う。

 

「どうしたの、レナちゃん。おじさん、ちゃんと歩いてるよ〜」

 

「……うん。歩いてるのは分かります」

 

「じゃあ問題ないねぇ」

 

「でも、遠いです」

 

 言ってから、自分でも驚いた。

 

 ホシノ先輩も少しだけ目を丸くした。

 

「遠い?」

 

「はい。さっきから、少し遠いです」

 

 風が吹いた。

 

 ホシノ先輩の髪が少し揺れる。

 いつもの眠そうな目。

 いつものゆるい笑顔。

 

 でも、そこにいるのに、少し遠い。

 

「うへぇ、レナちゃんは厳しいなぁ。おじさん、歩くのが遅いだけだよ」

 

「それなら、横に来てください」

 

 自分の声が思ったよりまっすぐで、少し怖くなった。

 

 でも、引っ込めなかった。

 

 ホシノ先輩はしばらく私を見ていた。

 

 それから、笑った。

 

「はいはい。じゃあ、おじさんも若い子たちに置いていかれないように頑張ろうかなぁ」

 

 そう言って、少しだけ歩幅を上げる。

 

 私の隣ではない。

 

 でも、さっきより近い。

 

 それだけで安心しそうになって、嫌な感じがした。安心するには、まだ早い。ホシノ先輩は近くに来ただけで、戻ってきたわけじゃない。

 

 学校に戻ると、アヤネさんはすぐに資料室へ向かった。

 

 地籍図。土地台帳。債務関連の書類。古いデータ。先生がヒナさんから受け取った情報と照合するために、机の上にはすぐ紙と端末が積み上がった。

 

 私は救護バッグを置いて、アヤネさんの横に立つ。

 

「手伝う」

 

 自然にそう言っていた。

 

 アヤネさんが少しだけこちらを見る。

 

「ありがとうございます、レナさん。では、この地域名と所有者の欄を確認していただけますか」

 

「うん」

 

 返事が、前より軽くなった気がした。

 

 でも、アヤネさんはそれを不自然には思わなかったようだった。少しだけ安心した顔をして、また端末へ視線を戻す。

 

 作業は静かに進んだ。

 

 静かすぎて、紙をめくる音が怖いくらいだった。

 

 アビドス高等学校本館。

 周辺校地。

 旧市街地。

 砂漠化地域。

 所有者。

 譲渡履歴。

 抵当権。

 カイザーコンストラクション。

 カイザーローン。

 カイザーコーポレーション系列。

 

 同じ名前が、何度も出てくる。

 

 最初は見間違いだと思った。

 でも、違った。

 紙をめくっても、端末を切り替えても、その名前は消えない。

 

 カイザー。

 

 カイザー。

 

 カイザー。

 

 アヤネさんの指が止まった。

 

「……そんな」

 

 声が小さすぎて、聞き逃しそうだった。

 

「アヤネさん?」

 

「本館と周辺の一部を除いて……アビドスの土地の多くが、カイザー系列の会社名義になっています」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 セリカさんが椅子を蹴るように立ち上がる。

 

「は? 何それ。どういうこと?」

 

「分かりません。いえ、記録上は手続きがあります。でも……こんな広範囲を、いつの間に……」

 

 アヤネさんの声が震えていた。

 

 ノノミさんが口元に手を当てる。

 

「そんなに、ですか」

 

「はい。旧校区、砂漠化した周辺区域、使われなくなった施設跡地……ほとんどが」

 

 シロコさんは黙っていた。

 

 けれど、銃のベルトに触れる指が少しだけ沈んでいる。

 

「つまり」

 

 セリカさんの声が掠れる。

 

「うちは、学校の周りまで取られてたってこと?」

 

「まだ、そう断定するには確認が必要です」

 

 アヤネさんは言った。

 

 でも、その声はもう、断定を避けるためだけの言い方に聞こえた。

 

「確認って何よ! ここに書いてあるんでしょ!」

 

「セリカちゃん」

 

「分かってる! アヤネに怒ってるんじゃない! でも……でも何なのよ、これ!」

 

 セリカさんの声が裏返った。

 

 壊れた柴関ラーメン。

 便利屋68。

 風紀委員会。

 カイザー。

 土地。

 

 今日一日で、全部が押し寄せすぎていた。

 

 先生は資料を受け取り、静かに目を通した。

 

 その横顔は険しい。

 

「アヤネ、これをまとめてくれる? ヒナからの情報とも照合しましょう。すぐに判断はしない。でも、かなり深刻な状況よ」

 

「はい……」

 

 アヤネさんは返事をした。

 

 でも、顔色が悪い。

 

 私は小さく声をかけた。

 

「アヤネさん、座って」

 

「いえ、私は――」

 

「座って。今、顔色悪い」

 

 アヤネさんが言葉を止める。

 

 少し前なら、もっと丁寧に言ったと思う。

 でも今は、その余裕がなかった。

 

 アヤネさんは一度だけ息を吸って、椅子に座った。

 

「……すみません」

 

「謝らなくていいよ」

 

 そう言って、水を渡す。

 

 アヤネさんは両手で受け取った。手が少し震えていた。

 

 ノノミさんが、アヤネさんの背中へそっと手を添えようとして、止めた。

 触れていいか迷ったのだと思う。

 それから、静かに聞いた。

 

「アヤネちゃん、背中、さすってもいいですか?」

 

 アヤネさんは驚いたように顔を上げる。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……お願いします」

 

 ノノミさんの手が、アヤネさんの背中に触れる。

 

 ゆっくり、優しく。

 

 その様子を見て、胸が少し痛くなった。

 

 アビドスは、みんなで支えている。

 でも、支えている手が、もう限界に近い。

 

 そう感じた。

 

「ホシノ」

 

 先生の声がした。

 

 ホシノ先輩は窓際に立っていた。

 

 資料を見ていない。

 

 見ようとしていないわけではない。

 たぶん、見る前から分かっている。

 

「何かなぁ、先生」

 

 いつもの声。

 

 でも、少し遅い。

 

「この件について、何か知っている?」

 

 部屋の空気がまた止まった。

 

 セリカさんがホシノ先輩を見る。

 シロコさんも。

 ノノミさんも。

 アヤネさんも。

 

 私も、見た。

 

 ホシノ先輩は、少しだけ笑った。

 

「うへぇ。先生、いきなり鋭いねぇ」

 

「答えて」

 

 先生の声は柔らかいけれど、逃がさなかった。

 

 ホシノ先輩は窓の外を見る。

 

 砂が流れている。

 

「……昔から、ちょっとね」

 

「ホシノ先輩?」

 

 セリカさんが立ち上がりかける。

 

 ホシノ先輩は、手をひらひら振った。

 

「そんな怖い顔しないでよ。おじさんだって全部知ってるわけじゃないよ。ただ、カイザーがアビドスに興味を持ってるのは、前から知ってたってだけ」

 

「それを、なんで今まで言わなかったんですか」

 

 アヤネさんの声が震えた。

 

 責めたいのに、責めきれない声だった。

 

 ホシノ先輩は笑っている。

 

 でも、その笑顔が少しずつ遠くなる。

 

「言っても、どうにもならなかったからね」

 

「そんなこと――」

 

「あるよ」

 

 ホシノ先輩の声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

 部屋の全員が黙った。

 

 ホシノ先輩はすぐに、いつもの声へ戻す。

 

「……なんてね。まあ、昔の話だよ。今は先生もいるし、みんなもいる。ちゃんと考えようか」

 

 軽い。

 

 軽すぎる。

 

 重いものを、軽い言葉で包んで遠くへ投げたみたいだった。

 

 私は胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 このまま流したら、いけない。

 

「ホシノ先輩」

 

 声が出た。

 

 ホシノ先輩が私を見る。

 

「何かな、レナちゃん」

 

「また、自分を外しました」

 

 言った瞬間、自分の心臓が強く鳴った。

 

 でも、言った。

 

「今、先生もいるし、みんなもいるって言いました。ホシノ先輩も、いるのに」

 

 ホシノ先輩の笑顔が、少しだけ止まった。

 

 ほんの少しだけ。

 

「うへぇ。レナちゃんは、本当に手厳しいねぇ」

 

「手厳しくしてるつもりじゃないです」

 

「じゃあ?」

 

「怖いです」

 

 部屋が静かになった。

 

 ホシノ先輩の目が、ほんの少しだけ開く。

 

「ホシノ先輩が、また遠くなるのが怖い」

 

 言ってしまった。

 

 胸が痛い。

 

 でも、止まらなかった。

 

「さっき、帰り道でも遠かった。今も遠いです。笑ってるのに、ここにいるのに、少しずつ一人でどこかへ行こうとしてるみたいに見えます」

 

 セリカさんが息を飲んだ。

 

 アヤネさんの手が水のカップを握る。

 シロコさんの視線がホシノ先輩から離れない。

 ノノミさんの手が、アヤネさんの背中で止まる。

 

 ホシノ先輩は、困ったように笑った。

 

「レナちゃんは、本当に困った子だねぇ」

 

「困らせたいわけじゃないです」

 

「うん。分かってるよ」

 

「じゃあ、戻ってきてください」

 

 自分でも、何を言っているのか分からなかった。

 

 でも、そう言うしかなかった。

 

「ホシノ先輩、今ここにいるなら、ちゃんとここにいてください」

 

 ホシノ先輩は黙った。

 

 いつもの「うへぇ」が出ない。

 眠そうな冗談も出ない。

 ただ、私を見ている。

 

 その沈黙が長くて、怖くなる。

 

 やっぱり踏み込みすぎたのかもしれない。

 まだ、言っていい距離じゃなかったのかもしれない。

 

 そう思った時、ホシノ先輩が小さく笑った。

 

「……うん」

 

 短い返事だった。

 

「今は、ここにいるよ」

 

 今は。

 

 その言葉を聞いた瞬間、安心より先に、不安が来た。

 

 今は、ということは。

 

 いつかは。

 

 そう思ってしまった。

 

 でも、誰もそこを聞けなかった。

 

 先生だけが、ホシノ先輩を静かに見ていた。

 

 その夜、対策委員会室の灯りは遅くまで消えなかった。

 

 アヤネさんは資料をまとめ続けた。

 セリカさんは何度も柴関ラーメンへ行こうとして、そのたびにシロコさんに止められた。

 ノノミさんはみんなに温かい飲み物を配ったけれど、自分の分を飲むのを忘れていた。

 先生はシッテムの箱を確認しながら、誰にも聞こえないように小さく息を吐いた。

 

 ホシノ先輩は、いつもの椅子に座っていた。

 

 眠そうに目を閉じている。

 

 でも、眠っていない。

 

 私はそれを、もう知っている。

 

 近づいて、少し迷ってから声をかけた。

 

「ホシノ先輩」

 

「ん〜?」

 

「寝てるふりですか」

 

「おじさん、寝てる時もあるよ〜」

 

「今は?」

 

「……半分くらい」

 

「じゃあ、半分は聞いてください」

 

 ホシノ先輩が片目を開けた。

 

「レナちゃん、だんだん強くなってない?」

 

「アビドスに来たからかも」

 

「それは責任重大だねぇ」

 

 私は少しだけ笑いそうになった。

 

 でも、笑えなかった。

 

「ホシノ先輩」

 

「うん」

 

「いなくならないでください」

 

 また、言ってしまった。

 

 今度はもっと小さな声だった。

 

 ホシノ先輩は、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、私の頭ではなく、帽子のつばを少しだけ下げた。自分の顔を隠すみたいに。

 

「……レナちゃんは、真っ直ぐすぎるねぇ」

 

「困りますか」

 

「困るよ」

 

 即答だった。

 

 でも、少しだけ優しかった。

 

「すごく困る」

 

「じゃあ、困ってください」

 

 自分でも、驚くくらい自然に出た。

 

 ホシノ先輩が目を丸くする。

 

 それから、小さく笑った。

 

「うへぇ。これは本当に困った」

 

 その笑いは、少しだけ本物に近かった。

 

 だから、余計に怖かった。

 

 本物に近い笑顔を見せてくれるのに、ホシノ先輩の背中はまだ遠い。

 

 部屋の隅で、アヤネさんが資料をめくる音がする。

 

 紙の上には、カイザーの名前が何度も並んでいる。

 

 カイザー。

 

 土地。

 

 借金。

 

 黒い影。

 

 それらが、ホシノ先輩の背中へ少しずつ伸びているように見えた。

 

 私は見ていた。

 

 見ていたのに。

 

 その時の私はまだ、ホシノ先輩が何を決めかけているのか、最後までは分かっていなかった。

アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。

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