戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ホシノ先輩は、その日ずっと窓の外を見ていた。
いつものことだと言えば、いつものことだった。ホシノ先輩はよく眠そうにしているし、よく外を眺めているし、よく仕事を避けようとしてアヤネさんに怒られている。
でも、今日は違った。
眠そうなのではなく、遠かった。
窓の外に何かがあるわけではない。校庭と砂、倒れかけたフェンス、遠くの校門。何度も見た景色。それなのに、ホシノ先輩はずっとそこを見ていた。
まるで、もうここではない場所を見ているみたいに。
「ホシノ先輩」
声をかけると、ホシノ先輩はゆっくり振り返った。
「ん〜? どうしたの、レナちゃん」
いつもの声だった。
でも、返事が少し遅い。
私の声が届いてから、こちらへ戻ってくるまでに、一拍だけ間がある。
その一拍が怖かった。
「資料、見ないんですか」
「おじさん、難しい字を見ると眠くなっちゃうんだよねぇ」
「昨日も、それ言ってました」
「昨日も今日も、難しいものは難しいからねぇ」
「でも、ホシノ先輩は知らないわけじゃないですよね」
部屋の空気が止まった。
アヤネさんの指が端末の上で止まる。セリカさんがコップを置く。シロコさんが壁際からこちらを見る。ノノミさんの笑顔が少しだけ静かになる。
ホシノ先輩は、困ったように笑った。
「レナちゃんは、本当に手厳しいねぇ」
「そう言って流すの、ずるいです」
自分でも、強い言い方だと思った。
でも、もう引っ込めたくなかった。
「ホシノ先輩がそうやって笑うと、何も聞けなくなります」
「うへぇ。そんなつもりは――」
「なくても、そうなってる」
言い切ったあと、胸が少し痛くなった。
少し前の私なら、こんな言い方はできなかったと思う。もっと丁寧に、もっと遠慮して、傷つけないように言葉を丸めていた。
でも、今は違う。
アビドスに来て、セリカさんに怒られて、シロコさんに見られて、ノノミさんに甘やかされて、アヤネさんと資料を見て、ホシノ先輩に何度もはぐらかされて。
少しだけ、言葉が近くなった。
だから、怖くても言えた。
「カイザーのこと、少しでも知ってるなら、教えてほしいです。全部じゃなくてもいい。言えないことがあるなら、言えないって言ってください。でも、笑って遠くへ置かれるのは……嫌です」
最後だけ、声が小さくなった。
嫌です。
その言葉が幼くて、少し恥ずかしかった。
でも、それが一番近かった。
嫌だった。
ホシノ先輩がここにいるのに、いなくなりそうなのが。
笑っているのに、一人だけ遠いところへ行こうとしているのが。
ホシノ先輩は、しばらく私を見ていた。
それから、窓に背を預けた。
「……昔の話だよ」
声が少しだけ低くなった。
「カイザーがアビドスに興味を持ってるのは、前から知ってた。砂漠とか、土地とか、借金とか、そういう話も少しはね。でも、おじさんだって全部知ってたわけじゃないよ。そんなに物知りじゃないから」
「誰から聞いたんですか」
アヤネさんが聞いた。
声が震えていた。
でも、逃げなかった。
ホシノ先輩は目を伏せる。
「変な大人」
先生の表情が、ほんの少し変わった。
「黒い服を着た、気味の悪い大人だよ。こっちが忘れたい時に限って現れて、アビドスの借金とか、土地とか、そういうものを大人の言葉で並べてくるんだ」
黒い服。
その言葉だけで、部屋が少し冷えた気がした。
私はその人を、まだちゃんとは知らない。
でも、ホシノ先輩の声で分かった。
その人は、ホシノ先輩に何かを持ちかけた。
ホシノ先輩が一人で抱えてしまうような、嫌な何かを。
「なんで……」
セリカさんが立ち上がった。
「なんでそんな大事なこと、今まで言わなかったんですか」
怒っている。
でも、責めたいだけじゃない。
置いていかれたくない声だった。
「言ったら、どうにかなったかなぁ」
ホシノ先輩は笑った。
その笑い方が痛かった。
「おじさんたち、借金だけで手一杯だったでしょ。砂漠化も止まらない。生徒も減っていく。学校を維持するだけで精一杯。そこに、カイザーがどうとか、怪しい大人がどうとか言ってもさぁ……みんなを余計に不安にするだけだと思ったんだよねぇ」
「それ、勝手に決めないでください」
アヤネさんの声が震えた。
「私たちは、そんなに頼りないですか」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、どうして」
アヤネさんの目が赤くなっていた。
「どうして、ホシノ先輩だけが知っている形にしたんですか。私たちが知って苦しむより、ホシノ先輩が一人で抱える方がいいって、そう思ったんですか」
ホシノ先輩は答えなかった。
答えないことが、答えみたいだった。
ノノミさんが、ゆっくり口を開いた。
「ホシノ先輩」
声は優しい。
でも、いつものふわっとした柔らかさだけではなかった。
「私たちは、ホシノ先輩に守られているだけの後輩ではありません。もちろん、ホシノ先輩にたくさん守ってもらいました。でも……守られるだけだと、寂しいです」
寂しい。
その言葉が、部屋に沈んだ。
ホシノ先輩の指が、ほんの少しだけ動いた。
シロコさんは黙っていた。
でも、目を逸らさない。
「ホシノ先輩」
シロコさんが言った。
「一人で行かないで」
短い言葉だった。
でも、その一言で、胸が痛くなる。
シロコさんは、もう気づいているのかもしれない。ホシノ先輩がどこかへ行こうとしていることを。言葉にしたら本当になってしまう気がして、今まで言わなかっただけなのかもしれない。
ホシノ先輩は、困ったように笑った。
「みんな、今日は厳しいねぇ」
「今日だけじゃない」
シロコさんが返す。
「ずっと見てた」
ホシノ先輩の笑顔が、今度こそ揺れた。
私は、その静けさの中で、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
言わないと。
今、言わないと。
「ホシノ先輩」
「ん?」
「私は、アビドスのことを全部知ってるわけじゃないです。カイザーのことも、借金のことも、昔のことも、まだ少ししか分かりません」
「うん」
「でも、ホシノ先輩が一人で何かを決めようとしてるのは、少し分かる」
ホシノ先輩は何も言わない。
「救護騎士団で、何度も言われました。自分を救護対象から外しちゃいけないって。誰かを助けたい時ほど、自分のことを数に入れないといけないって」
ミネ先輩の声を思い出す。
厳しくて、優しくて、逃がしてくれない声。
「ホシノ先輩は、みんなを守る話をします。でも、その中にホシノ先輩がいないです。さっきも、言ったらみんなを不安にするって言いました。でも、ホシノ先輩が一人で抱えたら、ホシノ先輩が苦しいです」
「おじさんは、大丈夫だよ」
その言葉が出た瞬間、胸が痛くなった。
大丈夫。
私も何度も言った言葉。
大丈夫じゃない時ほど、口から出る言葉。
「それ、信じません」
言った。
ホシノ先輩が私を見る。
「ホシノ先輩の大丈夫は、今は信じない」
部屋がさらに静かになる。
怖い。
でも、もう止まれなかった。
「大丈夫なら、こっちを見て言ってください。窓の外じゃなくて、先生でもなくて、みんなでもなくて、私でもいいから。誰かを見て言ってください」
ホシノ先輩は、ゆっくり私を見る。
目が合う。
眠そうな目ではなかった。
ずっと遠くを見てきた人の目だった。
ホシノ先輩は、口を開きかけた。
でも、言わなかった。
大丈夫、と言わなかった。
それだけで、喉の奥が詰まりそうになった。
「……レナちゃん」
ホシノ先輩の声が、少しだけ掠れていた。
「困るなぁ」
「困ってください」
私は言った。
「困って、迷って、それでもここにいてください」
ホシノ先輩の顔が歪んだ。
ほんの少しだけ。
すぐに笑顔で隠そうとしたけれど、隠しきれていなかった。
「レナちゃんは、ほんとに強くなったねぇ」
「強くないです」
「強いよ」
「強くない。怖いから言ってます」
それは本当だった。
私は怖い。
ホシノ先輩がいなくなるのが怖い。
アビドスのみんなの顔が壊れるのが怖い。
セリカさんがまた怒りながら泣けない顔をするのが怖い。
シロコさんが静かに銃を握るのが怖い。
ノノミさんの笑顔が消えるのが怖い。
アヤネさんの手が震えるのが怖い。
だから、言っている。
ホシノ先輩は、長い間黙っていた。
それから、少しだけ息を吐いた。
「……今日は、ここにいるよ」
また、同じ言葉。
今度は「今は」ではなく、「今日は」。
少しだけ近づいた。
でも、明日が抜けていた。
それに気づいてしまって、胸が冷たくなる。
セリカさんも気づいたのか、顔を上げた。
アヤネさんの手が止まる。
シロコさんの目が細くなる。
ノノミさんの笑顔が薄くなる。
先生だけが、静かにホシノ先輩を見ていた。
ホシノ先輩は、ゆっくり椅子へ戻った。
「さ、資料の話に戻ろうか。おじさんの昔話ばっかりしてても、借金は減らないしねぇ」
軽い声。
でも、誰もすぐには乗れなかった。
それでもアヤネさんは資料へ戻った。セリカさんは黙って座った。シロコさんは壁にもたれたまま目を伏せた。ノノミさんは冷めかけた飲み物を温め直すために立った。先生はシッテムの箱を確認した。
私は、ホシノ先輩を見ていた。
ホシノ先輩は資料を見ているふりをしていた。
でも、目は紙の上を滑っているだけだった。
その日の午後、アビドスに小さな砂嵐が来た。
外に出るには危ないほどではない。けれど、窓の外が白く濁って、校庭の端が見えにくくなるくらいには強い風だった。対策委員会室の窓ががたがた鳴り、セリカさんが「また砂が入るじゃない」と文句を言いながら隙間に布を詰めた。
私は旧視聴覚室の物資を確認しに行くことになった。
一人ではない。
シロコさんがついてきた。
「見回り」
「うん。ありがとうございます」
「ん」
短い会話。
でも、歩いていると分かる。
シロコさんは私だけを見ているわけではない。廊下、窓、砂の入り方、床の状態、全部見ている。その中に私の位置も入っている。
旧視聴覚室へ着くと、物資は無事だった。
水。包帯。布。簡易ライト。
ノノミさんと一緒に運んだ箱。
その箱を見ると、少しだけ息が楽になった。
ちゃんとここにある。
まだ使えるものがある。
戻る場所がある。
「ホシノ先輩のこと」
シロコさんが突然言った。
私は振り返る。
「シロコさんも、気づいてますか」
「うん」
シロコさんは棚の足元を見ながら答えた。
「前から。最近、もっと」
「……止められるかな」
「分からない」
正直な答えだった。
だから、痛かった。
「でも、見てる」
シロコさんは続けた。
「ホシノ先輩も、レナも」
「私も?」
「うん。レナ、また自分を責めそうだから」
胸の奥に、ぐっと何かが刺さった。
「まだ何も起きてないよ」
「起きる前から、そういう顔してる」
何も言えなかった。
シロコさんは、やっぱり見ている。
私がホシノ先輩を見ていることも。
その奥で、もう止められなかった時のことを怖がっていることも。
「シロコさん」
「ん」
「もし、私が自分を責めそうになったら、止めてください」
「分かった」
即答だった。
少しだけ笑いそうになった。
「早い」
「決めてたから」
「そっか」
「レナも、止めて」
「誰を?」
「私」
シロコさんは私を見た。
「私も、たぶん走るから」
その言葉で、胸が冷えた。
ホシノ先輩がいなくなったら。
シロコさんは走る。
考えるより先に、探しに行く。
止める声より先に、足が出る。
それが分かっているから、今、私に言っている。
「うん」
私は頷いた。
「止める。たぶん、全力で」
「ん。お願い」
短い約束だった。
でも、とても重かった。
対策委員会室へ戻る途中、窓の外の砂が少し弱まっていた。
部屋へ戻ると、ホシノ先輩の姿がなかった。
心臓が嫌な音を立てた。
「ホシノ先輩は?」
声が少し上ずった。
セリカさんが振り返る。
「え? さっきまでそこに――」
椅子が空いている。
誰もすぐに動かなかった。
一瞬だけ、部屋の全員が凍った。
その一瞬が、怖かった。
「外」
シロコさんが言った。
駆け出そうとする前に、先生の声が飛ぶ。
「待って。全員で確認するわ。単独行動はしない」
シロコさんの足が止まる。
でも、呼吸が少しだけ速い。
私は自分の胸に手を当てた。
落ち着いて。
まだ決まったわけじゃない。
まだ、いなくなったわけじゃない。
ただ、部屋にいないだけ。
でも、怖い。
ホシノ先輩の「今日は、ここにいるよ」が、耳の奥で繰り返される。
今日。
今。
ここ。
どれも、明日を約束していなかった。
先生と一緒に校舎を出る。
砂嵐の名残で、校庭は白くぼやけていた。
その向こう、校門近くに、ホシノ先輩はいた。
一人で立っていた。
どこかへ行ったわけではない。
でも、こちらに背を向けていた。
その背中を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。
近くにいる。
まだ、ここにいる。
なのに、遠い。
ホシノ先輩は振り返って、いつものように手を振った。
「うへぇ、みんな揃ってどうしたの? おじさん、ちょっと風を見てただけだよ〜」
セリカさんが息を吐く。
「紛らわしいことしないでくださいよ!」
「ごめんごめん。砂嵐が落ち着いたか気になってねぇ」
ホシノ先輩は笑っている。
でも、足元に小さな紙片が落ちているのが見えた。
先生が拾う。
何かの封筒の切れ端。
黒い、細い線。
印刷された文字の一部。
差出人は分からない。
ホシノ先輩の顔が、ほんの少しだけ変わった。
ほんの少しだけ。
でも、私は見た。
「ホシノ先輩」
声が震えた。
「それ、何ですか」
ホシノ先輩は、笑った。
「さあねぇ。風で飛んできたんじゃない?」
嘘だ。
そう思った。
誰も言わなかった。
でも、みんな同じことを思った気がした。
先生は封筒の切れ端を見つめ、静かにホシノ先輩を見た。
「ホシノ」
「先生」
ホシノ先輩の声は、いつも通りだった。
「今日は、ここにいるって言ったでしょ」
今日は。
また、その言葉。
私は指先が冷たくなっていくのを感じた。
ホシノ先輩は、まだここにいる。
でも、その背中の向こうに、もう別の道が見えている。
そんな気がした。
その日の夜、対策委員会室の灯りは遅くまで消えなかった。
アヤネさんは資料をまとめ続けた。
セリカさんは何度も柴関ラーメンの様子を確認しに行こうとして、先生に止められた。
ノノミさんは温かい飲み物を配ってくれたけれど、自分の分を飲むのを忘れていた。
シロコさんは窓際に立って、外を見ていた。
先生はシッテムの箱を確認しながら、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。
ホシノ先輩は、いつもの椅子に座っていた。
眠そうに目を閉じている。
でも、眠っていない。
私はそれを、もう知っている。
「ホシノ先輩」
小さく呼ぶ。
「ん〜?」
「寝てるふりですか」
「おじさん、寝てる時もあるよ〜」
「今は?」
「……半分くらい」
「じゃあ、半分は聞いてください」
ホシノ先輩が片目を開けた。
「レナちゃん、だんだん強くなってない?」
「アビドスに来たからかも」
「それは責任重大だねぇ」
少しだけ笑えそうだった。
でも、笑えなかった。
「ホシノ先輩」
「うん」
「いなくならないでください」
また言ってしまった。
今度は、もっと小さな声だった。
ホシノ先輩は、しばらく何も言わなかった。
それから、自分の帽子のつばを少し下げた。顔を隠すみたいに。
「……レナちゃんは、真っ直ぐすぎるねぇ」
「困りますか」
「困るよ」
即答だった。
でも、少しだけ優しかった。
「すごく困る」
「じゃあ、困ってください」
ホシノ先輩が目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「うへぇ。これは本当に困った」
その笑いは、少しだけ本物に近かった。
だから、余計に怖かった。
本物に近い笑顔を見せてくれるのに、ホシノ先輩の背中はまだ遠い。
夜が深くなって、先生が「今日はここまでにしましょう」と言った。みんな、少しずつ片づけを始める。私は最後に救護バッグを確認した。包帯の残り、水、消毒液、発煙弾。必要なものが、必要な場所にあることを何度も確かめる。
確かめても、不安は消えなかった。
ホシノ先輩はいつの間にか、椅子で眠っていた。
今度は、本当に眠っているように見えた。
私は近づいて、少しだけ迷った。
帽子がずれている。
前に直した時のことを思い出す。
「触れても?」
小さく聞いた。
返事はない。
眠っているから。
だから、触れなかった。
代わりに、薄い布をそっと近くに置いた。寒くなったら、自分で取れるように。
それだけにした。
翌朝。
対策委員会室に入った瞬間、空気が違った。
窓は閉まっている。机はそのまま。資料も、昨日の場所にある。救護バッグも、椅子も、コップも、全部ある。
でも、ホシノ先輩がいなかった。
昨日眠っていた椅子が、空いていた。
最初に動いたのはシロコさんだった。
何も言わず、部屋を出ようとする。
「シロコ!」
先生の声が飛ぶ。
シロコさんの足が止まる。
でも、止まっただけだった。
体はもう外へ向いている。
「……いない」
シロコさんの声が、低かった。
セリカさんが立ち上がる。
「え、何? どこ行ったんですか、ホシノ先輩。ちょっと外見てるだけでしょ? 昨日もそうだったし、また紛らわしいこと――」
言葉が途中で止まった。
机の上に、封筒があった。
アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。
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百合って綺麗だから綺麗に終わって
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曇らせドロドロ依存エンド希望