戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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15話 置いて行かれた朝

 

 

 ホシノ先輩は、その日ずっと窓の外を見ていた。

 

 いつものことだと言えば、いつものことだった。ホシノ先輩はよく眠そうにしているし、よく外を眺めているし、よく仕事を避けようとしてアヤネさんに怒られている。

 

 でも、今日は違った。

 

 眠そうなのではなく、遠かった。

 

 窓の外に何かがあるわけではない。校庭と砂、倒れかけたフェンス、遠くの校門。何度も見た景色。それなのに、ホシノ先輩はずっとそこを見ていた。

 

 まるで、もうここではない場所を見ているみたいに。

 

「ホシノ先輩」

 

 声をかけると、ホシノ先輩はゆっくり振り返った。

 

「ん〜? どうしたの、レナちゃん」

 

 いつもの声だった。

 

 でも、返事が少し遅い。

 私の声が届いてから、こちらへ戻ってくるまでに、一拍だけ間がある。

 

 その一拍が怖かった。

 

「資料、見ないんですか」

 

「おじさん、難しい字を見ると眠くなっちゃうんだよねぇ」

 

「昨日も、それ言ってました」

 

「昨日も今日も、難しいものは難しいからねぇ」

 

「でも、ホシノ先輩は知らないわけじゃないですよね」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 アヤネさんの指が端末の上で止まる。セリカさんがコップを置く。シロコさんが壁際からこちらを見る。ノノミさんの笑顔が少しだけ静かになる。

 

 ホシノ先輩は、困ったように笑った。

 

「レナちゃんは、本当に手厳しいねぇ」

 

「そう言って流すの、ずるいです」

 

 自分でも、強い言い方だと思った。

 

 でも、もう引っ込めたくなかった。

 

「ホシノ先輩がそうやって笑うと、何も聞けなくなります」

 

「うへぇ。そんなつもりは――」

 

「なくても、そうなってる」

 

 言い切ったあと、胸が少し痛くなった。

 

 少し前の私なら、こんな言い方はできなかったと思う。もっと丁寧に、もっと遠慮して、傷つけないように言葉を丸めていた。

 

 でも、今は違う。

 

 アビドスに来て、セリカさんに怒られて、シロコさんに見られて、ノノミさんに甘やかされて、アヤネさんと資料を見て、ホシノ先輩に何度もはぐらかされて。

 

 少しだけ、言葉が近くなった。

 

 だから、怖くても言えた。

 

「カイザーのこと、少しでも知ってるなら、教えてほしいです。全部じゃなくてもいい。言えないことがあるなら、言えないって言ってください。でも、笑って遠くへ置かれるのは……嫌です」

 

 最後だけ、声が小さくなった。

 

 嫌です。

 

 その言葉が幼くて、少し恥ずかしかった。

 でも、それが一番近かった。

 

 嫌だった。

 

 ホシノ先輩がここにいるのに、いなくなりそうなのが。

 笑っているのに、一人だけ遠いところへ行こうとしているのが。

 

 ホシノ先輩は、しばらく私を見ていた。

 

 それから、窓に背を預けた。

 

「……昔の話だよ」

 

 声が少しだけ低くなった。

 

「カイザーがアビドスに興味を持ってるのは、前から知ってた。砂漠とか、土地とか、借金とか、そういう話も少しはね。でも、おじさんだって全部知ってたわけじゃないよ。そんなに物知りじゃないから」

 

「誰から聞いたんですか」

 

 アヤネさんが聞いた。

 

 声が震えていた。

 でも、逃げなかった。

 

 ホシノ先輩は目を伏せる。

 

「変な大人」

 

 先生の表情が、ほんの少し変わった。

 

「黒い服を着た、気味の悪い大人だよ。こっちが忘れたい時に限って現れて、アビドスの借金とか、土地とか、そういうものを大人の言葉で並べてくるんだ」

 

 黒い服。

 

 その言葉だけで、部屋が少し冷えた気がした。

 

 私はその人を、まだちゃんとは知らない。

 でも、ホシノ先輩の声で分かった。

 

 その人は、ホシノ先輩に何かを持ちかけた。

 ホシノ先輩が一人で抱えてしまうような、嫌な何かを。

 

「なんで……」

 

 セリカさんが立ち上がった。

 

「なんでそんな大事なこと、今まで言わなかったんですか」

 

 怒っている。

 

 でも、責めたいだけじゃない。

 置いていかれたくない声だった。

 

「言ったら、どうにかなったかなぁ」

 

 ホシノ先輩は笑った。

 

 その笑い方が痛かった。

 

「おじさんたち、借金だけで手一杯だったでしょ。砂漠化も止まらない。生徒も減っていく。学校を維持するだけで精一杯。そこに、カイザーがどうとか、怪しい大人がどうとか言ってもさぁ……みんなを余計に不安にするだけだと思ったんだよねぇ」

 

「それ、勝手に決めないでください」

 

 アヤネさんの声が震えた。

 

「私たちは、そんなに頼りないですか」

 

「そうじゃないよ」

 

「じゃあ、どうして」

 

 アヤネさんの目が赤くなっていた。

 

「どうして、ホシノ先輩だけが知っている形にしたんですか。私たちが知って苦しむより、ホシノ先輩が一人で抱える方がいいって、そう思ったんですか」

 

 ホシノ先輩は答えなかった。

 

 答えないことが、答えみたいだった。

 

 ノノミさんが、ゆっくり口を開いた。

 

「ホシノ先輩」

 

 声は優しい。

 

 でも、いつものふわっとした柔らかさだけではなかった。

 

「私たちは、ホシノ先輩に守られているだけの後輩ではありません。もちろん、ホシノ先輩にたくさん守ってもらいました。でも……守られるだけだと、寂しいです」

 

 寂しい。

 

 その言葉が、部屋に沈んだ。

 

 ホシノ先輩の指が、ほんの少しだけ動いた。

 

 シロコさんは黙っていた。

 

 でも、目を逸らさない。

 

「ホシノ先輩」

 

 シロコさんが言った。

 

「一人で行かないで」

 

 短い言葉だった。

 

 でも、その一言で、胸が痛くなる。

 

 シロコさんは、もう気づいているのかもしれない。ホシノ先輩がどこかへ行こうとしていることを。言葉にしたら本当になってしまう気がして、今まで言わなかっただけなのかもしれない。

 

 ホシノ先輩は、困ったように笑った。

 

「みんな、今日は厳しいねぇ」

 

「今日だけじゃない」

 

 シロコさんが返す。

 

「ずっと見てた」

 

 ホシノ先輩の笑顔が、今度こそ揺れた。

 

 私は、その静けさの中で、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。

 

 言わないと。

 

 今、言わないと。

 

「ホシノ先輩」

 

「ん?」

 

「私は、アビドスのことを全部知ってるわけじゃないです。カイザーのことも、借金のことも、昔のことも、まだ少ししか分かりません」

 

「うん」

 

「でも、ホシノ先輩が一人で何かを決めようとしてるのは、少し分かる」

 

 ホシノ先輩は何も言わない。

 

「救護騎士団で、何度も言われました。自分を救護対象から外しちゃいけないって。誰かを助けたい時ほど、自分のことを数に入れないといけないって」

 

 ミネ先輩の声を思い出す。

 

 厳しくて、優しくて、逃がしてくれない声。

 

「ホシノ先輩は、みんなを守る話をします。でも、その中にホシノ先輩がいないです。さっきも、言ったらみんなを不安にするって言いました。でも、ホシノ先輩が一人で抱えたら、ホシノ先輩が苦しいです」

 

「おじさんは、大丈夫だよ」

 

 その言葉が出た瞬間、胸が痛くなった。

 

 大丈夫。

 

 私も何度も言った言葉。

 大丈夫じゃない時ほど、口から出る言葉。

 

「それ、信じません」

 

 言った。

 

 ホシノ先輩が私を見る。

 

「ホシノ先輩の大丈夫は、今は信じない」

 

 部屋がさらに静かになる。

 

 怖い。

 

 でも、もう止まれなかった。

 

「大丈夫なら、こっちを見て言ってください。窓の外じゃなくて、先生でもなくて、みんなでもなくて、私でもいいから。誰かを見て言ってください」

 

 ホシノ先輩は、ゆっくり私を見る。

 

 目が合う。

 

 眠そうな目ではなかった。

 

 ずっと遠くを見てきた人の目だった。

 

 ホシノ先輩は、口を開きかけた。

 

 でも、言わなかった。

 

 大丈夫、と言わなかった。

 

 それだけで、喉の奥が詰まりそうになった。

 

「……レナちゃん」

 

 ホシノ先輩の声が、少しだけ掠れていた。

 

「困るなぁ」

 

「困ってください」

 

 私は言った。

 

「困って、迷って、それでもここにいてください」

 

 ホシノ先輩の顔が歪んだ。

 

 ほんの少しだけ。

 

 すぐに笑顔で隠そうとしたけれど、隠しきれていなかった。

 

「レナちゃんは、ほんとに強くなったねぇ」

 

「強くないです」

 

「強いよ」

 

「強くない。怖いから言ってます」

 

 それは本当だった。

 

 私は怖い。

 

 ホシノ先輩がいなくなるのが怖い。

 アビドスのみんなの顔が壊れるのが怖い。

 セリカさんがまた怒りながら泣けない顔をするのが怖い。

 シロコさんが静かに銃を握るのが怖い。

 ノノミさんの笑顔が消えるのが怖い。

 アヤネさんの手が震えるのが怖い。

 

 だから、言っている。

 

 ホシノ先輩は、長い間黙っていた。

 

 それから、少しだけ息を吐いた。

 

「……今日は、ここにいるよ」

 

 また、同じ言葉。

 

 今度は「今は」ではなく、「今日は」。

 

 少しだけ近づいた。

 でも、明日が抜けていた。

 

 それに気づいてしまって、胸が冷たくなる。

 

 セリカさんも気づいたのか、顔を上げた。

 アヤネさんの手が止まる。

 シロコさんの目が細くなる。

 ノノミさんの笑顔が薄くなる。

 

 先生だけが、静かにホシノ先輩を見ていた。

 

 ホシノ先輩は、ゆっくり椅子へ戻った。

 

「さ、資料の話に戻ろうか。おじさんの昔話ばっかりしてても、借金は減らないしねぇ」

 

 軽い声。

 

 でも、誰もすぐには乗れなかった。

 

 それでもアヤネさんは資料へ戻った。セリカさんは黙って座った。シロコさんは壁にもたれたまま目を伏せた。ノノミさんは冷めかけた飲み物を温め直すために立った。先生はシッテムの箱を確認した。

 

 私は、ホシノ先輩を見ていた。

 

 ホシノ先輩は資料を見ているふりをしていた。

 

 でも、目は紙の上を滑っているだけだった。

 

 その日の午後、アビドスに小さな砂嵐が来た。

 

 外に出るには危ないほどではない。けれど、窓の外が白く濁って、校庭の端が見えにくくなるくらいには強い風だった。対策委員会室の窓ががたがた鳴り、セリカさんが「また砂が入るじゃない」と文句を言いながら隙間に布を詰めた。

 

 私は旧視聴覚室の物資を確認しに行くことになった。

 

 一人ではない。

 

 シロコさんがついてきた。

 

「見回り」

 

「うん。ありがとうございます」

 

「ん」

 

 短い会話。

 

 でも、歩いていると分かる。

 シロコさんは私だけを見ているわけではない。廊下、窓、砂の入り方、床の状態、全部見ている。その中に私の位置も入っている。

 

 旧視聴覚室へ着くと、物資は無事だった。

 

 水。包帯。布。簡易ライト。

 ノノミさんと一緒に運んだ箱。

 

 その箱を見ると、少しだけ息が楽になった。

 

 ちゃんとここにある。

 まだ使えるものがある。

 戻る場所がある。

 

「ホシノ先輩のこと」

 

 シロコさんが突然言った。

 

 私は振り返る。

 

「シロコさんも、気づいてますか」

 

「うん」

 

 シロコさんは棚の足元を見ながら答えた。

 

「前から。最近、もっと」

 

「……止められるかな」

 

「分からない」

 

 正直な答えだった。

 

 だから、痛かった。

 

「でも、見てる」

 

 シロコさんは続けた。

 

「ホシノ先輩も、レナも」

 

「私も?」

 

「うん。レナ、また自分を責めそうだから」

 

 胸の奥に、ぐっと何かが刺さった。

 

「まだ何も起きてないよ」

 

「起きる前から、そういう顔してる」

 

 何も言えなかった。

 

 シロコさんは、やっぱり見ている。

 

 私がホシノ先輩を見ていることも。

 その奥で、もう止められなかった時のことを怖がっていることも。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「もし、私が自分を責めそうになったら、止めてください」

 

「分かった」

 

 即答だった。

 

 少しだけ笑いそうになった。

 

「早い」

 

「決めてたから」

 

「そっか」

 

「レナも、止めて」

 

「誰を?」

 

「私」

 

 シロコさんは私を見た。

 

「私も、たぶん走るから」

 

 その言葉で、胸が冷えた。

 

 ホシノ先輩がいなくなったら。

 

 シロコさんは走る。

 

 考えるより先に、探しに行く。

 止める声より先に、足が出る。

 それが分かっているから、今、私に言っている。

 

「うん」

 

 私は頷いた。

 

「止める。たぶん、全力で」

 

「ん。お願い」

 

 短い約束だった。

 

 でも、とても重かった。

 

 対策委員会室へ戻る途中、窓の外の砂が少し弱まっていた。

 

 部屋へ戻ると、ホシノ先輩の姿がなかった。

 

 心臓が嫌な音を立てた。

 

「ホシノ先輩は?」

 

 声が少し上ずった。

 

 セリカさんが振り返る。

 

「え? さっきまでそこに――」

 

 椅子が空いている。

 

 誰もすぐに動かなかった。

 

 一瞬だけ、部屋の全員が凍った。

 

 その一瞬が、怖かった。

 

「外」

 

 シロコさんが言った。

 

 駆け出そうとする前に、先生の声が飛ぶ。

 

「待って。全員で確認するわ。単独行動はしない」

 

 シロコさんの足が止まる。

 

 でも、呼吸が少しだけ速い。

 

 私は自分の胸に手を当てた。

 

 落ち着いて。

 

 まだ決まったわけじゃない。

 まだ、いなくなったわけじゃない。

 ただ、部屋にいないだけ。

 

 でも、怖い。

 

 ホシノ先輩の「今日は、ここにいるよ」が、耳の奥で繰り返される。

 

 今日。

 

 今。

 

 ここ。

 

 どれも、明日を約束していなかった。

 

 先生と一緒に校舎を出る。

 

 砂嵐の名残で、校庭は白くぼやけていた。

 

 その向こう、校門近くに、ホシノ先輩はいた。

 

 一人で立っていた。

 

 どこかへ行ったわけではない。

 

 でも、こちらに背を向けていた。

 

 その背中を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。

 

 近くにいる。

 

 まだ、ここにいる。

 

 なのに、遠い。

 

 ホシノ先輩は振り返って、いつものように手を振った。

 

「うへぇ、みんな揃ってどうしたの? おじさん、ちょっと風を見てただけだよ〜」

 

 セリカさんが息を吐く。

 

「紛らわしいことしないでくださいよ!」

 

「ごめんごめん。砂嵐が落ち着いたか気になってねぇ」

 

 ホシノ先輩は笑っている。

 

 でも、足元に小さな紙片が落ちているのが見えた。

 

 先生が拾う。

 

 何かの封筒の切れ端。

 

 黒い、細い線。

 印刷された文字の一部。

 差出人は分からない。

 

 ホシノ先輩の顔が、ほんの少しだけ変わった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 でも、私は見た。

 

「ホシノ先輩」

 

 声が震えた。

 

「それ、何ですか」

 

 ホシノ先輩は、笑った。

 

「さあねぇ。風で飛んできたんじゃない?」

 

 嘘だ。

 

 そう思った。

 

 誰も言わなかった。

 

 でも、みんな同じことを思った気がした。

 

 先生は封筒の切れ端を見つめ、静かにホシノ先輩を見た。

 

「ホシノ」

 

「先生」

 

 ホシノ先輩の声は、いつも通りだった。

 

「今日は、ここにいるって言ったでしょ」

 

 今日は。

 

 また、その言葉。

 

 私は指先が冷たくなっていくのを感じた。

 

 ホシノ先輩は、まだここにいる。

 

 でも、その背中の向こうに、もう別の道が見えている。

 

 そんな気がした。

 

 その日の夜、対策委員会室の灯りは遅くまで消えなかった。

 

 アヤネさんは資料をまとめ続けた。

 セリカさんは何度も柴関ラーメンの様子を確認しに行こうとして、先生に止められた。

 ノノミさんは温かい飲み物を配ってくれたけれど、自分の分を飲むのを忘れていた。

 シロコさんは窓際に立って、外を見ていた。

 先生はシッテムの箱を確認しながら、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。

 

 ホシノ先輩は、いつもの椅子に座っていた。

 

 眠そうに目を閉じている。

 

 でも、眠っていない。

 

 私はそれを、もう知っている。

 

「ホシノ先輩」

 

 小さく呼ぶ。

 

「ん〜?」

 

「寝てるふりですか」

 

「おじさん、寝てる時もあるよ〜」

 

「今は?」

 

「……半分くらい」

 

「じゃあ、半分は聞いてください」

 

 ホシノ先輩が片目を開けた。

 

「レナちゃん、だんだん強くなってない?」

 

「アビドスに来たからかも」

 

「それは責任重大だねぇ」

 

 少しだけ笑えそうだった。

 

 でも、笑えなかった。

 

「ホシノ先輩」

 

「うん」

 

「いなくならないでください」

 

 また言ってしまった。

 

 今度は、もっと小さな声だった。

 

 ホシノ先輩は、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、自分の帽子のつばを少し下げた。顔を隠すみたいに。

 

「……レナちゃんは、真っ直ぐすぎるねぇ」

 

「困りますか」

 

「困るよ」

 

 即答だった。

 

 でも、少しだけ優しかった。

 

「すごく困る」

 

「じゃあ、困ってください」

 

 ホシノ先輩が目を丸くした。

 

 それから、小さく笑った。

 

「うへぇ。これは本当に困った」

 

 その笑いは、少しだけ本物に近かった。

 

 だから、余計に怖かった。

 

 本物に近い笑顔を見せてくれるのに、ホシノ先輩の背中はまだ遠い。

 

 夜が深くなって、先生が「今日はここまでにしましょう」と言った。みんな、少しずつ片づけを始める。私は最後に救護バッグを確認した。包帯の残り、水、消毒液、発煙弾。必要なものが、必要な場所にあることを何度も確かめる。

 

 確かめても、不安は消えなかった。

 

 ホシノ先輩はいつの間にか、椅子で眠っていた。

 

 今度は、本当に眠っているように見えた。

 

 私は近づいて、少しだけ迷った。

 

 帽子がずれている。

 

 前に直した時のことを思い出す。

 

「触れても?」

 

 小さく聞いた。

 

 返事はない。

 

 眠っているから。

 

 だから、触れなかった。

 

 代わりに、薄い布をそっと近くに置いた。寒くなったら、自分で取れるように。

 

 それだけにした。

 

 翌朝。

 

 対策委員会室に入った瞬間、空気が違った。

 

 窓は閉まっている。机はそのまま。資料も、昨日の場所にある。救護バッグも、椅子も、コップも、全部ある。

 

 でも、ホシノ先輩がいなかった。

 

 昨日眠っていた椅子が、空いていた。

 

 最初に動いたのはシロコさんだった。

 

 何も言わず、部屋を出ようとする。

 

「シロコ!」

 

 先生の声が飛ぶ。

 

 シロコさんの足が止まる。

 

 でも、止まっただけだった。

 体はもう外へ向いている。

 

「……いない」

 

 シロコさんの声が、低かった。

 

 セリカさんが立ち上がる。

 

「え、何? どこ行ったんですか、ホシノ先輩。ちょっと外見てるだけでしょ? 昨日もそうだったし、また紛らわしいこと――」

 

 言葉が途中で止まった。

 

 机の上に、封筒があった。

 

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