戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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16話 1人にしない

 

 ホシノ先輩の手紙は、机の上に置かれたままだった。

 

 先生が読み終えて、セリカさんが椅子を倒して、シロコさんが銃を取って、アヤネさんが端末を握り直して、ノノミさんの笑顔が消えても、その紙だけは最初からそこにあったみたいな顔で、机の真ん中に残っていた。

 

 “ごめんね。みんなには迷惑ばかりかけた。アビドスのことは、みんなに任せる。先生がいるから大丈夫。

 シロコも、ノノミも、セリカも、アヤネも、きっとやっていける。

 レナちゃんも、無理しないで。自分を救護対象に入れるの、忘れないでね。

 おじさんは、ちょっと用事を済ませてくるよ。”

 

 何度読んでも、戻るとは書いていなかった。

 

 いってきますとも、ただいまとも、待っててとも、怒られる覚悟をしているとも、何も書いていなかった。いつもの軽い言い方で、いつもの眠そうな笑顔が見えるような文字なのに、その文字の向こうには、こっちへ戻ってくる道がどこにも残されていなかった。

 

 ずるい、と思った。

 

 自分を救護対象に入れてと私に書いた人が、自分だけを数から外して行ってしまうなんて、そんなのずるい。

 

「……位置情報、出ません」

 

 アヤネさんの声が、部屋の中に落ちた。

 

 端末を操作する指は速かった。でも、速いのに何度も同じ場所へ戻っている。画面を切り替えて、履歴を開いて、地図を拡大して、また戻る。冷静に調べようとしているのに、手だけが、ホシノ先輩のいない椅子へ追いつけていないみたいだった。

 

「通信機も切られています。最後に反応があったのは、今朝の早い時間です。校外へ出た後、西側の旧市街地方面に向かった可能性が高いですが、その先は砂嵐の影響で記録が途切れています」

 

「じゃあ、西に行けばいいでしょ」

 

 セリカさんが言った。

 

 声が荒かった。怒っている時の声だった。でも、昨日柴関ラーメンの前で聞いた怒りとは違う。壊した相手へ向ける怒りではなく、置いていかれたことを認めたくない人の声だった。

 

「西側なんでしょ。砂漠なんでしょ。だったら行けばいいじゃない。ここで画面見てても、ホシノ先輩は戻ってこないでしょ」

 

「セリカちゃん、落ち着いてください。何の準備もなく砂漠へ出るのは危険です。ホシノ先輩がどこまで行ったかも分からないんです」

 

「分かってる!」

 

 セリカさんが叫んだ。

 

 叫んだあと、すぐに唇を噛んだ。怒鳴りたかった相手はアヤネさんじゃない。そんなことは、セリカさん自身が一番分かっている。それでも言葉が荒くなるくらい、胸の中がぐちゃぐちゃなのだと思った。

 

「分かってるけど……じゃあ何すればいいのよ。待つの? また? また、いなくなった人を待つだけなの?」

 

 待つ。

 

 その言葉で、部屋の空気が沈んだ。

 

 アビドスにとって、待つという言葉はたぶん痛い。生徒が減るのを待つ。砂に街が呑まれていくのを待つ。借金の通知が来るのを待つ。誰かが帰ってこないことに、少しずつ慣れてしまう日を待つ。

 

 そんなものを、もう誰も待ちたくないのだと思った。

 

「待たないわ」

 

 先生が言った。

 

 静かな声だった。でも、その声は机の上の手紙よりも、倒れた椅子よりも、シロコさんの握った銃よりも、ずっとはっきり部屋の中心に置かれた。

 

「探しに行く。ただし、無闇には走らない。ホシノが一人で行ったなら、私たちは一人では追わない。全員で行く」

 

 シロコさんの足が、ほんの少しだけ止まった。

 

 止まった、というより、床に戻ってきたように見えた。体はまだ扉の方を向いている。今すぐ走りたいのは分かる。でも、先生の言葉が、ぎりぎりその足を部屋の中に繋ぎ止めていた。

 

「アヤネ、最後の通信反応と、ヒナから共有されたカイザー関連の情報を照合して。カイザーPMCの管理区域、資材保管施設、警備部隊の出入りが増えている場所を優先して」

 

「はい」

 

「シロコ、ホシノが使いそうな道に心当たりは?」

 

「ある」

 

 即答だった。

 

「人目につきにくい道。古い市街地を抜けて、砂漠に出る道。車両の跡が残りにくい場所もある」

 

「それをアヤネに伝えて。セリカ、ノノミは水と弾薬、移動用の備品を準備。長引く可能性もあるわ」

 

「分かりました」

 

「……分かってるわよ」

 

 ノノミさんはすぐに頷いた。セリカさんは少し遅れて、でも強く頷いた。ノノミさんは椅子の背に置かれた薄い布を見て、そっと手に取る。昨日、ホシノ先輩が眠っているように見えた時、私が近くに置いた布だった。

 

「これも、持っていきますね」

 

「砂漠で布?」

 

 セリカさんが言った。

 

 いつもの突っ込みみたいだった。でも、声は少し弱い。

 

「念のためです。ホシノ先輩、寒がるかもしれませんし」

 

「……あの人が?」

 

「はい」

 

 ノノミさんはそう言って、布を丁寧に畳んだ。

 

 誰もそれ以上言わなかった。

 

 先生の視線が、最後に私へ向く。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「救護バッグの確認をお願い。暑さ対策、負傷時の処置、脱水、拘束痕、搬送まで考えて。ホシノがどんな状態で見つかるか分からない」

 

 喉が少しだけ鳴った。

 

 ホシノ先輩がどんな状態で見つかるか分からない。

 

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に嫌な想像がいくつも浮かんで、私は救護バッグの肩紐を握りしめた。怖い。怖いけど、怖いからこそ、確認しないといけない。何も考えずに行って、必要なものがない方がずっと怖い。

 

「はい。確認します」

 

 救護バッグを机に置く。

 

 包帯。止血材。消毒液。冷却材。経口補水用の粉末。水。携帯食。手袋。布。発煙弾。小型ライト。予備リボン。飴。救護騎士団の団員さんたちが真顔で詰めてくれたものが、昨日までは少しだけ過保護に思えていた。

 

 でも今は、どれも必要に見えた。

 

 指先が震えている。

 

 それでも、一つずつ数える。足りないものを足して、奥に入っていたものを取り出しやすい場所へ移す。拘束具があった場合、皮膚を傷つけずに外した後の処置がいる。脱水があれば少しずつ水分を取らせる。意識が曖昧なら無理に飲ませない。移動中は呼吸と脈を見る。

 

 救護対象。

 

 ホシノ先輩は、救護対象だ。

 

 誰より強く見えても。いつも笑っていても。おじさんだから大丈夫だよ、と言っても。自分を数に入れずに行ってしまった人だからこそ、こちらが数に入れないといけない。

 

 

 準備は早かった。

 

 早かったけれど、雑ではなかった。アヤネさんは端末の中に地図を重ね、先生がシッテムの箱を確認する。ノノミさんは水と弾薬をまとめ、セリカさんは何度もホシノ先輩の空いた椅子を見て、そのたびに顔をしかめた。

 

 誰も泣かなかった。

 

 泣けなかったのだと思う。

 

 泣いたら、ホシノ先輩が本当にいなくなったことを認めるみたいで。泣いている間に、もっと遠くへ行かれてしまいそうで。

 

「先生」

 

 アヤネさんが顔を上げた。

 

「照合できました。西側の旧市街地から砂漠へ抜けるルート上に、カイザーPMCの管理区域があります。登録上は資材保管施設ですが、ヒナさんの資料では最近になって警備部隊の出入りが増えています」

 

「ホシノが向かった可能性は?」

 

「……高いです」

 

 アヤネさんの声が震えた。

 

 でも、言い直さなかった。

 

「高いと思います」

 

「分かったわ。そこへ向かう」

 

 先生が言うと、全員が動いた。

 

 対策委員会室を出る前、私は一度だけ振り返った。

 

 ホシノ先輩の椅子がある。机の上には、もう先生が回収した手紙はない。でも、そこにあった重さだけは残っている。昨日まで、あの椅子にはホシノ先輩が座っていた。寝ているふりをして、片目だけ開けて、うへぇと笑っていた。

 

 今は、いない。

 

 その事実が、背中を押す。

 

「ホシノ先輩」

 

 声には出さなかった。

 

 出したら、喉が詰まりそうだった。

 

 砂漠へ向かう道は、昨日より乾いていた。

 

 日差しは強く、風はあるのに涼しくない。砂を巻き上げるだけの風が、靴の中へ入り込んでくる。シロコさんが先頭で道を選び、先生とアヤネさんが端末を確認しながら進む。セリカさんは何度も先へ出そうになって、そのたびに自分で足を止めていた。

 

 私は少し後ろを歩いた。

 

 遅れているわけではない。全員が見える場所にいた。誰の呼吸が浅くなっているか、誰の足取りが乱れているか、誰が水を飲み忘れているか。歩きながら救護地点を作るなら、ここが一番いい。

 

「セリカさん、水」

 

「今いい」

 

「今飲んで」

 

「……分かったわよ」

 

 セリカさんは不満そうに水を受け取った。

 

 でも、飲んだ。

 

 前なら、もっと言い返されていたかもしれない。今も怒っている顔はしている。でも、私の言葉を聞いてくれる。それが少しだけ嬉しくて、嬉しいと思ってしまった自分が、今の状況に合わなくて胸が痛くなった。

 

 水を返す時、セリカさんが小さく言った。

 

「あんたも飲みなさいよ」

 

「うん」

 

「うんじゃなくて、今」

 

「はい」

 

「なんで急に敬語に戻るのよ」

 

「怒られたから……?」

 

「怒ってない」

 

 怒っている顔だった。

 

 でも、今のは怒っていないのだと思った。

 

 水を飲むと、喉の奥が少しだけ戻ってくる。けれど、胸の重さは変わらない。ホシノ先輩の手紙は先生が持っているのに、文字だけが私の背中に貼りついているみたいだった。

 

 レナちゃんも、無理しないで。

 

 自分を救護対象に入れるの、忘れないでね。

 

 忘れない。

 

 だから、連れて帰る。

 

 歩いているうちに、シロコさんが足を止めた。

 

 砂の上に膝をつき、指先で地面をなぞる。私にはただの砂にしか見えない場所を、シロコさんはしばらく見ていた。

 

「車両の跡。新しい」

 

「カイザー?」

 

 先生が聞く。

 

「たぶん。重い車両が複数。こっちに向かってる」

 

「ホシノ先輩は?」

 

 セリカさんの声が急ぐ。

 

 シロコさんは少しだけ黙った。

 

「足跡は消えてる。でも、方向は同じ」

 

「じゃあ、早く――」

 

「セリカ」

 

 先生が呼ぶ。

 

 セリカさんの足が止まった。

 

「分かってる。分かってるけど……!」

 

「急ぐわ。でも、焦って倒れたらホシノを連れて帰れない」

 

 先生の声は厳しかった。

 

 セリカさんは唇を噛んだ。噛んで、目を逸らして、それでも一歩だけ後ろへ戻った。走りたいのを止めている。その足元だけで、どれだけ苦しいか分かった。

 

 ノノミさんが、そんなセリカさんの隣に並ぶ。

 

「セリカちゃん」

 

「何」

 

「一緒に行きましょう」

 

「……分かってる」

 

「はい」

 

「置いていかれたくないのは、私だけじゃないし」

 

 セリカさんの声は小さかった。

 

 ノノミさんは何も言わず、少しだけ頷いた。

 

 施設が見えたのは、それからしばらく歩いた後だった。

 

 砂の中に埋まるように建つ、灰色の建物。登録上は資材保管施設だとアヤネさんは言っていた。でも、遠くから見ても分かるくらい警備が多い。カイザーPMCの機械兵が巡回し、装甲車が何台も止まっている。砂漠の中に、そこだけ冷たい金属の箱が置かれているみたいだった。

 

「……いる」

 

 シロコさんが言った。

 

 確信の声だった。

 

「たぶん、ここ」

 

 セリカさんが銃を握る。

 

 ノノミさんは布を入れた鞄を抱え直した。アヤネさんは端末を見つめたまま、顔色を悪くしている。でも、目は逸らしていない。

 

「内部の構造図、取れました。ただし古い資料です。実際とは異なる可能性があります」

 

「入口は?」

 

「正面は厳しいです。裏手に搬入口があります。警備は正面より薄いですが、砂地を大きく回り込む必要があります」

 

「回る」

 

 シロコさんが言った。

 

「正面は危ない」

 

「回りましょう」

 

 先生が頷いた。

 

 その時、遠くで爆発音がした。

 

 砂の向こう、施設の別方向から煙が上がる。カイザーPMCの部隊が一斉にそちらへ動いた。何かが起きた。偶然ではない。そう思った瞬間、先生の通信機がざらついた音を立てた。

 

『先生、聞こえるかしら』

 

 陸八魔アルさんの声だった。

 

『ふふ……どうやら、悪の巨大企業カイザーPMCに立ち向かう時が来たようね。アウトローとして、これほど相応しい舞台もなかなかないわ』

 

『社長、今の言い方だと正義の味方っぽいよ〜』

 

『違うわムツキ。正義よりも少し危険で、少し格好いいのがアウトローなのよ』

 

『つまり、行き当たりばったりってこと?』

 

『カヨコ!』

 

 通信の向こうで、いつもの声が聞こえる。

 

 こんな時なのに、少しだけ息が戻った気がした。柴関ラーメンの前で別れた時とは違う。あの時は、怒りも罪悪感も全部ぐちゃぐちゃだった。でも今、あの人たちはこっちの道を開けようとしている。

 

『あ、あの、すみません! 勝手に来てしまってすみません! でも、私たちも、返さなきゃいけないものがあるので……!』

 

 ハルカさんの声が震えていた。

 

 セリカさんが通信機を睨むように見た。

 

「何しに来たのよ、あんたたち」

 

『...借りを返しに来たのよ』

 

 アルさんの声が、少しだけ真面目になる。

 

『柴関ラーメンのことを、これで帳消しにできるなんて思っていない。でも、あなたたちの大事な人を取り戻す邪魔はしない。むしろ、道くらいは開けてみせるわ』

 

 セリカさんは黙った。

 

 怒っている。まだ許していない。それは変わらない。でも、今その声を切り捨てることもできない。セリカさんはしばらく通信機を見て、それから低い声で言った。

 

「あとで、ちゃんと謝りなさいよ」

 

『もちろんよ』

 

「柴大将にも」

 

『ええ』

 

「逃げたら許さないから」

 

『社長の言葉は重いのよ。覚えておきなさい』

 

『社長、それ自分で言うと軽くなるよ』

 

『ムツキ!』

 

 セリカさんは少しだけ顔を歪めた。

 

「……勝手に死なないでよ」

 

 通信の向こうが、一瞬だけ静かになった。

 

『ええ。そちらもね』

 

 それだけ言って、通信は切れた。

 

 外周の部隊が便利屋68の方へ引かれていく。完全に安全になったわけではない。でも、裏手へ回る道に、今だけ隙ができた。

 

「行くわ」

 

 先生の声で、私たちは走った。

 

 砂に足を取られながら、建物の影へ入る。銃声が遠くで響いて、爆発音が砂を震わせる。私は救護バッグの肩紐を握り直した。全員の背中を見る。シロコさんが先頭。先生が中央。セリカさんとノノミさんが左右。アヤネさんが端末を握りしめて進路を示している。

 

 搬入口の警備は、薄いと言っても無人ではなかった。

 

 機械兵が二体、こちらを見つける。

 

 シロコさんが先に動いた。短い銃声。セリカさんが続き、ノノミさんが押さえ込む。戦闘は一瞬だった。でも、倒れた機械兵の腕が床に落ちる時、その金属の指が私の羽根の近くをかすめた。

 

「っ」

 

 体が止まりかけた。

 

 冷たい手。押さえつけられる感覚。髪を踏まれた痛み。床に近い視界。息が詰まって、世界が一瞬だけ白くなる。

 

 違う。

 

 今じゃない。

 

 ここじゃない。

 

「レナ」

 

 シロコさんの声がした。

 

 短い声だった。

 

 でも、戻ってこい、と言われた気がした。

 

 私は息を吸った。喉が少し震えた。でも、足は動いた。

 

「……少し怖かった。でも、歩ける」

 

 大丈夫、と言いかけて、やめた。

 

 シロコさんが頷く。

 

「正直でいい」

 

 最初に会った時と同じ言葉だった。

 

 それだけで、少しだけ息がしやすくなった。

 

 施設の中は、外よりずっと冷たかった。

 

 砂の匂いが薄れて、機械油と金属の匂いが鼻に刺さる。照明は白く、廊下は無駄に広い。資材保管施設というより、何かを隠すための箱みたいだった。足音が壁に反響して、自分たちがどこまで進んでいるのか分からなくなる。

 

「地下方向に強い通信反応があります」

 

 アヤネさんが端末を見ながら言う。

 

「正確な位置は掴めませんが、奥に管理区画があるはずです。ホシノ先輩がいるとすれば、そこだと思います」

 

「行く」

 

 シロコさんが言った。

 

 セリカさんも前へ出かける。

 

 でも、止まった。

 

「……分かってる。勝手に走らない」

 

 その声は、先生に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあるように聞こえた。

 

 私たちは奥へ進んだ。

 

 途中で何度もカイザーPMCの機械兵と遭遇した。シロコさんが射線を切り、セリカさんが前へ出すぎないように撃つ。ノノミさんは火力を抑えながら道を開け、アヤネさんが次の通路を示す。先生は全員の位置を見ながら指示を出していた。

 

 私は戦闘の後ろで、怪我と呼吸を見た。

 

「セリカさん、腕」

 

「かすっただけ」

 

「見せて」

 

「今?」

 

「今」

 

 セリカさんは一瞬だけ睨んだ。

 

 でも、腕を出した。

 

 浅い擦過傷。すぐに処置できる。私は布で押さえて、短く包帯を巻いた。セリカさんはその間も、通路の奥から目を離さなかった。

 

「……ありがと」

 

「うん」

 

「ホシノ先輩にも、そうやって怒って」

 

「怒る?」

 

「無理しないでって。大丈夫を信じないって。また言って」

 

 セリカさんの声は低かった。

 

「私が言ったら、たぶん怒鳴っちゃうから」

 

 胸が痛くなった。

 

「うん。言う」

 

「絶対」

 

「うん」

 

 セリカさんは頷いて、前へ戻った。

 

 奥へ進むほど、敵の数は増えた。

 

 でも、増えたのは敵だけではなかった。遠くで便利屋68が引きつけてくれている音がする。通信の向こうで、ヒナさんたち風紀委員会が外側のカイザー部隊を牽制しているという先生の声も聞こえた。誰かが道を作っている。ホシノ先輩を連れて帰るために、ここにいない人たちまで動いている。

 

 ホシノ先輩は一人で行った。

 

 でも、帰り道は一人じゃない。

 

 そう思った瞬間、奥の扉が開いた。

 

 広い空間だった。

 

 倉庫のようで、でも中央だけが不自然に開けている。床には黒いケーブルが這い、壁際には見慣れない機械が並んでいる。白い照明が冷たくて、そこだけ砂漠の中ではなく、別の場所みたいだった。

 

 その中央に、拘束装置のような椅子があった。

 

 そして、そこに。

 

 ホシノ先輩がいた。

 

 時間が止まった気がした。

 

 ホシノ先輩は座らされていた。腕を固定され、体を少し傾けたまま、目を閉じている。制服は乱れていて、髪も少し崩れていた。大きく血が出ているわけではない。けれど、顔色が悪い。いつもの眠そうな顔ではなかった。

 

 疲れている。

 

 削られている。

 

 それが、見ただけで分かった。

 

「ホシノ先輩!」

 

 セリカさんの叫びが響いた。

 

 ホシノ先輩の瞼が、少しだけ動く。

 

「……あれ」

 

 かすれた声だった。

 

「みんな……来ちゃったんだ」

 

 その言い方が、いつもと同じで。

 

 同じすぎて、痛かった。

 

「来ちゃった、じゃないでしょ!」

 

 セリカさんが叫ぶ。

 

「何してるんですか! 何でこんなところにいるんですか! 手紙だけ置いて、勝手にいなくなって、何が用事よ! ふざけないでよ!」

 

「セリカちゃん、声大きいなぁ」

 

「大きくもなるわよ!」

 

 セリカさんが前へ出ようとした瞬間、左右の扉からカイザーPMCの部隊が現れた。

 

 銃口が向く。

 

 先生が叫ぶ。

 

「全員、散開!」

 

 戦闘が始まった。

 

 音が爆ぜた。床が揺れて、照明がちらつく。シロコさんが最短でホシノ先輩へ向かおうとする。でも、敵がその前を塞いだ。ノノミさんが火力で押し返し、セリカさんが叫びながら撃つ。アヤネさんが敵の位置を読み上げる。

 

 私はホシノ先輩を見ていた。

 

 拘束具。腕。肩。呼吸。意識。

 

 救護対象。

 

 ホシノ先輩は、救護対象だ。

 

「先生!」

 

「レナ、行ける?」

 

「行きます」

 

 先生の目が一瞬だけ私を見る。

 

 止められるかと思った。でも、先生は止めなかった。

 

「シロコ、レナの道を開けて。セリカ、ノノミ、援護。アヤネ、射線を見て」

 

「ん」

 

「分かった!」

 

「はい!」

 

「了解です!」

 

 道が開く。

 

 私は走った。

 

 足が重い。怖い。白い照明も、金属の匂いも、拘束具も、全部嫌だった。敵の腕が視界の端に入るたびに、体が硬くなりそうになる。

 

 でも、ホシノ先輩がいる。

 

 だから、走った。

 

「レナ!」

 

 セリカさんの声が飛ぶ。

 

「前!」

 

 シロコさんの銃声が敵を止める。

 

「右は任せてください!」

 

 ノノミさんの声が響く。

 

「そのまま進めます!」

 

 アヤネさんの声が背中を押す。

 

 私はホシノ先輩の前に膝をついた。

 

「ホシノ先輩」

 

「……レナちゃん」

 

 ホシノ先輩が目を開けた。

 

 焦点が合うまで、少し時間がかかった。

 

 その目が私を見つけた瞬間、ほんの少しだけ困ったように細くなる。

 

「来ちゃったんだ」

 

「来ました」

 

「無理しないでって、書いたのに」

 

「読みました」

 

「じゃあ、なんで」

 

「無理しないで来ました」

 

 自分でも変な言い方だと思った。

 

 でも、今はそれでよかった。

 

「みんなで来ました。先生と、シロコさんと、セリカさんと、ノノミさんと、アヤネさんと。便利屋68の人たちも、外で道を作ってくれてます。風紀委員会の人たちも、カイザーを止めてくれてます」

 

 拘束具を見る。

 

 ロックが複雑だった。医療器具ではない。人を守るための固定ではなく、動かさないための拘束だった。それが嫌で、指が少し震えた。

 

 でも、構造は見える。

 

 救護騎士団で、機材を外す訓練は何度もした。怪我を増やさないように、慌てず、順番を見て、体を支えながら外す。違うものでも、考え方は同じだ。

 

「外します」

 

「レナちゃん」

 

「外します」

 

「おじさんは――」

 

「大丈夫は信じません」

 

 言葉が先に出た。

 

 ホシノ先輩が黙る。

 

「前にも言いました。今も信じません。ここにいるホシノ先輩は、大丈夫じゃないです」

 

 一つ目のロックを外す。

 

 指が震えている。でも、動く。

 

「それに、手紙もずるいです」

 

「……手紙?」

 

「自分を救護対象に入れてって、私に書きました」

 

 二つ目のロック。

 

「ホシノ先輩は、自分を外したのに」

 

 ホシノ先輩の目が、少しだけ揺れた。

 

「……おじさんは、みんなを守るために」

 

「その“みんな”に、ホシノ先輩も入ってます」

 

 言った瞬間、胸が痛くなった。

 

 何度も言ったことだった。

 

 でも、まだ届いていなかったことだった。

 

「シロコさんも、セリカさんも、ノノミさんも、アヤネさんも、先生も。ホシノ先輩がいないと大丈夫じゃないです」

 

 最後のロックに手をかける。

 

「私も、嫌です」

 

 声が小さくなった。

 

「ホシノ先輩がいないのは、嫌です」

 

 ロックが外れた。

 

 ホシノ先輩の体が前へ傾く。

 

 私は受け止めた。

 

 思っていたより重くて、思っていたより軽かった。重いのは、ホシノ先輩がずっと背負ってきたもの。軽いのは、その体が限界まで削られていたから。両方が腕に来て、喉の奥が詰まった。

 

「レナちゃん、危ないから……離れて」

 

「離れません」

 

「おじさん、迷惑かけちゃうよ」

 

「かけてください」

 

 即答だった。

 

 ホシノ先輩が少しだけ目を見開く。

 

「困らせてください。迷惑もかけてください。怒られてください。謝ってください。帰ってから、ちゃんとみんなに全部言われてください」

 

 視界が滲みかける。

 

 でも、泣いている場合ではなかった。

 

「だから、帰ります」

 

 ホシノ先輩は何も言わなかった。

 

 ただ、私の肩にかかる力が、ほんの少しだけ抜けた。

 

 その瞬間、横からシロコさんが来た。

 

 敵を撃ち倒しながら、無言でホシノ先輩の反対側に肩を入れる。手つきは慎重だった。壊れものに触れるみたいで、それなのに絶対に離さない力があった。

 

「シロコちゃん」

 

「帰る」

 

 短い言葉。

 

「説教はあと」

 

「……うへぇ」

 

「たくさんする」

 

「それは困るなぁ」

 

「困って」

 

 シロコさんの声が、少しだけ震えた。

 

 ホシノ先輩はそれ以上、笑えなかった。

 

 セリカさんが前方で叫ぶ。

 

「早く! こっち!」

 

「セリカちゃん、そんなに怒らないでよ〜」

 

「怒るに決まってるでしょ! 帰ったらもっと怒りますからね!」

 

「今も十分怒ってるよぉ」

 

「足りない!」

 

 セリカさんの声は、涙で滲んでいた。

 

 ノノミさんが私たちの前に立つ。

 

「ホシノ先輩、少し我慢してくださいね」

 

「ノノミちゃんまで怖いなぁ」

 

「はい。怖いですよ」

 

 ノノミさんは笑っていなかった。

 

「すごく、怖かったですから」

 

 ホシノ先輩の顔が歪んだ。

 

 アヤネさんが扉の方で叫ぶ。

 

「脱出ルート、確保しました! ですが、増援が来ます!」

 

 先生が指示を飛ばす。

 

「全員撤退! ホシノを中心に固まって動いて!」

 

 私たちは走り出した。

 

 走ると言っても、ホシノ先輩を支えながらだから速くはない。シロコさんが片側を支え、私がもう片側を支える。ホシノ先輩の呼吸が耳元で聞こえる。浅い。熱もある。意識はあるけれど、長くは持たない。

 

「ホシノ先輩、眠らないでください」

 

「おじさん、眠いのはいつもだよ〜」

 

「今はだめです」

 

「厳しいなぁ」

 

「師匠が厳しいので」

 

 そう言うと、ホシノ先輩が小さく笑った。

 

「レナちゃんの師匠に、怒られちゃうかなぁ」

 

「怒られると思います」

 

「それは怖いねぇ」

 

「はい。すごく」

 

 会話を続ける。

 

 意識を繋ぐために。

 

 それと、ホシノ先輩がまた遠くへ行かないように。

 

 廊下の途中で、敵の増援が出た。ノノミさんが撃ち、セリカさんが横から押さえる。シロコさんはホシノ先輩を支えたまま、それでも片手で敵の動きを止める。アヤネさんが叫ぶ。

 

「右の通路、閉鎖されます! 左へ!」

 

「左!」

 

 先生の声で、全員が曲がった。

 

 その時、背後から重い足音がした。大型の機械兵。銃口がこちらを向く。逃げきれない。そう思った瞬間、施設の壁の一部が外側から吹き飛んだ。

 

 ムツキさんが楽しそうに手を振った。

 

「やっほ〜。迎えに来たよ〜」

 

 セリカさんが叫ぶ。

 

「あんたたち、派手すぎ!」

 

「文句はあとで受け付けるわ!」

 

 アルさんが胸を張る。

 

「今は、その人を連れて逃げなさい!」

 

 その言葉に、セリカさんは一瞬だけ黙った。

 

 それから、乱暴に言う。

 

「借りにしとくから!」

 

「ええ。高くつくわよ!」

 

「こっちの借りの方が高いわよ!」

 

「それもそうね!」

 

 ムツキさんが笑い、カヨコさんがため息をつき、ハルカさんが何度も頭を下げる。その横を、私たちは抜けた。

 

 外の光が見える。

 

 砂の光。

 

 暑くて、眩しくて、乾いている。

 

 でも、外だ。

 

 外へ出た瞬間、風が顔に当たった。砂が痛い。でも、息ができる。施設の中の冷たい匂いから抜け出せたことに、体の方が先に気づいて、膝から力が抜けそうになる。

 

「ホシノ!」

 

 先生がすぐに駆け寄る。

 

 私はホシノ先輩を砂の上に直接座らせないよう、シロコさんと一緒に支えた。ノノミさんが持ってきていた布を広げる。そこへホシノ先輩を横たえる。

 

「応急処置します」

 

 声が自然に出た。

 

 手袋をつける。

 

 呼吸。脈。意識。外傷。拘束痕。脱水。疲労。

 

 確認することは多い。でも、手は動いた。さっきまで震えていた指が、今は必要な場所へ動く。怖くないわけではない。ただ、怖さより先に、やることがある。

 

「ホシノ先輩、聞こえますか」

 

「……うん」

 

「名前、言えますか」

 

「小鳥遊ホシノ……おじさんです」

 

「よかった」

 

「そこは、つっこまないんだねぇ」

 

「今はつっこみません」

 

「後で?」

 

「後で」

 

 ホシノ先輩が少しだけ笑った。

 

 その笑顔を見た瞬間、セリカさんが膝をついた。

 

「ばか」

 

 小さな声だった。

 

「ほんとに、ばか」

 

「セリカちゃん」

 

「名前呼ばないでください。今、呼ばれたら泣くから」

 

 でも、もう泣きそうだった。

 

 ホシノ先輩は何か言おうとして、やめた。セリカさんの手が、ホシノ先輩の袖を掴む。強く。強く。もう離さないみたいに。

 

「帰ったら、怒りますから」

 

「うん」

 

「全部聞きますから」

 

「うん」

 

「勝手に終わったことにしないでください」

 

「……うん」

 

 その返事だけ、少し遅かった。

 

 ノノミさんは、持ってきた布をホシノ先輩の肩にかけた。

 

「寒くないですか?」

 

「砂漠だよぉ?」

 

「でも、持ってきました」

 

「そっかぁ」

 

「はい」

 

 ノノミさんの手が、布の端を整える。笑っていない。でも、とても丁寧だった。昨日の夜、私が触れられなくて近くに置いた布を、今日はノノミさんがホシノ先輩の肩にかけている。

 

「ホシノ先輩が、自分で取れるように置いてあった布です。でも、今日は私がかけますね」

 

 ホシノ先輩の目が揺れた。

 

「……ノノミちゃん」

 

「はい」

 

「ごめんね」

 

 ノノミさんは、少しだけ目を伏せた。

 

「後で、ちゃんと聞きます」

 

「うん」

 

「今は、帰りましょう」

 

 アヤネさんは少し離れたところに立っていた。

 

 端末を持ったまま、動けないみたいだった。ホシノ先輩がそちらを見る。

 

「アヤネちゃん」

 

 アヤネさんの肩が跳ねる。

 

「……はい」

 

「ごめん」

 

 たったそれだけ。

 

 アヤネさんの顔が崩れた。

 

「謝るなら」

 

 声が震える。

 

「謝るなら、もっとたくさんあります。手紙のことも、カイザーのことも、黙っていたことも、今日のことも。全部、全部あります」

 

「うん」

 

「だから、今ここで一言だけで終わらせないでください」

 

「うん」

 

「帰ってから、ちゃんと話してください」

 

 アヤネさんの手が震えている。

 

 でも、端末を落とさなかった。

 

「私たちは、ホシノ先輩の後輩です。置いていかれるだけの子どもじゃありません」

 

 ホシノ先輩は目を閉じた。

 

「……うん」

 

 シロコさんは、ずっとホシノ先輩の手を握っていた。

 

 何も言わない。

 

 ただ、握っている。

 

 ホシノ先輩が少しだけ指を動かす。

 

「シロコちゃん」

 

「ん」

 

「痛いかも」

 

「我慢して」

 

「うへぇ」

 

「離さない」

 

 短い言葉だった。

 

 でも、それで十分だった。

 

 ホシノ先輩は目を伏せた。

 

「……うん」

 

 先生が全員を見た。

 

「撤退するわ。便利屋68が外周を引きつけてくれているうちに車両まで戻る。ヒナにも連絡を入れるから、ここでは長く止まらない」

 

「ヒナさんに?」

 

 私が聞くと、先生は頷いた。

 

「外側でカイザーPMCの動きを牽制してくれている。全員が帰るための道を作ってくれているのよ」

 

 そう言われて、遠くの方で別の銃声が聞こえた。

 

 風紀委員会。

 

 便利屋68。

 

 先生。

 

 対策委員会。

 

 いろんな人が、ホシノ先輩を連れて帰る道を作ってくれている。

 

 ホシノ先輩は、一人でここへ来た。

 

 でも、帰り道は一人ではなかった。

 

「レナ」

 

 先生が呼ぶ。

 

「ホシノの状態は?」

 

「意識はあります。拘束による痕と、疲労、脱水傾向があります。すぐに命に関わる状態ではないと思います。でも、休ませる必要があります。移動中も様子を見ます」

 

「分かった。お願い」

 

「はい」

 

 ホシノ先輩を支え直す。

 

 今度は、みんなで。

 

 シロコさんが片側にいる。ノノミさんが布を押さえる。セリカさんが前を警戒しながら、何度も振り返る。アヤネさんが帰路を確認する。先生が全員を見ている。

 

 私は救護バッグを背負い直した。

 

 重い。

 

 でも、来た時とは違う重さだった。

 

 ホシノ先輩が、私を見た。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「……困らせちゃったねぇ」

 

「はい」

 

 即答した。

 

 ホシノ先輩が少しだけ目を丸くする。

 

「そこは否定してくれないんだ」

 

「困りました」

 

「そっかぁ」

 

「すごく困りました」

 

「うん」

 

「だから、帰ったらホシノ先輩も困ってください」

 

 ホシノ先輩は、少しだけ笑った。

 

 弱い笑いだった。

 

 でも、今度は遠くなかった。

 

「……うへぇ。レナちゃんは本当に手厳しい」

 

「困ってください」

 

「うん」

 

 ホシノ先輩は小さく頷いた。

 

「困るよ」

 

 その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 

 安心したわけではない。

 

 全部が終わったわけではない。

 

 カイザーのことも、借金のことも、黒い服の大人のことも、壊れた柴関ラーメンのことも、何も終わっていない。ホシノ先輩が何を抱えていたのかも、まだ聞けていない。置いていかれた朝の痛みも、たぶんすぐには消えない。

 

 でも、ホシノ先輩はここにいる。

 

 今度は「今は」でも、「今日は」でもなかった。

 

 ここにいる。

 

 その体温を、支える腕で確かめながら、私たちは砂の上を歩き出した。

 

 遠くで、便利屋68の声が聞こえる。

 

 風の向こうで、風紀委員会の足音が響く。

 

 先生のシッテムの箱が淡く光る。

 

 アヤネさんの端末が帰路を示す。

 

 セリカさんが何度も振り返る。

 

 ノノミさんが布を押さえる。

 

 シロコさんがホシノ先輩の手を離さない。

 

 そして、ホシノ先輩は少しだけ目を閉じた。

 

「ホシノ先輩」

 

「ん〜?」

 

「眠るのは、帰ってからです」

 

「厳しいなぁ」

 

「はい」

 

「……じゃあ、帰らないとねぇ」

 

 その声は小さかった。

 

 でも、確かに聞こえた。

 

 帰る。

 

 その言葉が、砂の中に落ちる。

 

 置いていかれた朝から、ずっと胸に刺さっていた痛みが、少しだけ形を変えた。

 

 置いていかれたままでは終わらせない。

 

 一人で行かせたままにはしない。

 

 自分を救護対象から外した人を、もう一度、みんなの中に戻すために。

 

 私たちは、アビドスへ帰る。

 

 ホシノ先輩を連れて。

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