戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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17話 帰ってきた人と、帰ってきた子

 

 

 アビドス高等学校の廊下に戻ってきた時、最初に聞こえたのは砂の音だった。

 

 窓の隙間から入り込んだ細かな砂が、床の上を薄く擦っている。いつもならセリカさんが「また掃除しなきゃいけないじゃない」と文句を言って、アヤネさんが換気のタイミングを調整して、ノノミさんが笑いながら箒を持ってくる。その後ろでシロコさんが黙って手伝って、ホシノ先輩が「おじさんは応援係でいいかなぁ」と言って怒られる。

 

 そんな音だったはずなのに、今日は違って聞こえた。

 

 帰ってきた音。

 

 まだ全部は終わっていないけれど、それでもここまで戻ってこられた音。

 

 ホシノ先輩は、ノノミさんとシロコさんに支えられながら対策委員会室へ運ばれた。歩けないわけではなかった。でも、歩かせたくなかった。ホシノ先輩は何度か「おじさん、自分で歩けるよぉ」と言ったけれど、そのたびにシロコさんの手が少しだけ強くなって、ノノミさんの笑顔が少しだけ消えた。

 

「歩けるのと、歩かせるのは別です」

 

 ノノミさんの声は優しかった。

 

 優しいのに、逃がさない声だった。

 

「今は、私たちに運ばれてくださいね」

 

「うへぇ、ノノミちゃんまで厳しくなっちゃったなぁ」

 

「はい。厳しくします」

 

 ノノミさんはそう言って、ホシノ先輩の肩にかけた布をもう一度整えた。

 

 ホシノ先輩は困ったように笑ったけれど、それ以上は言わなかった。言えなかったのかもしれない。シロコさんが反対側の腕を支えていて、セリカさんが前を歩きながら何度も振り返っていて、アヤネさんが端末を抱えたまま、足元と帰路とホシノ先輩の顔を交互に見ていた。

 

 誰も、ホシノ先輩を一人にしなかった。

 

 対策委員会室の扉が開く。

 

 昨日までと同じ部屋だった。

 

 机があって、椅子があって、資料が積まれていて、窓際に少し砂が溜まっている。昨日の夜、ホシノ先輩が座っていた椅子も、手紙が置かれていた机も、そのままそこにある。何も変わっていないように見えるのに、部屋の空気だけが違った。

 

 ホシノ先輩がいる。

 

 それだけで、部屋の形が戻った気がした。

 

「そこ、寝かせます」

 

 私は救護バッグを下ろして、長椅子の上に布を敷いた。

 

 ホシノ先輩を横にする。シロコさんの手が最後まで離れなかった。ホシノ先輩の指先が布の上に落ちても、シロコさんはしばらくその手を握ったままだった。

 

「シロコちゃん」

 

 ホシノ先輩が小さく呼ぶ。

 

「ん」

 

「手、そろそろ痛いかも」

 

「我慢して」

 

「うへぇ」

 

「もう少し」

 

 シロコさんはそう言って、本当にもう少しだけ握っていた。

 

 その横で、セリカさんが水を持ってきた。置き方が少し乱暴で、コップの中身が揺れる。でも、こぼさなかった。乱暴なのに、ちゃんとホシノ先輩の手が届きやすい位置に置いている。

 

「水」

 

「ありがと、セリカちゃん」

 

「お礼言う前に飲んでください」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

「はい」

 

 ホシノ先輩が少しだけ笑う。

 

 その笑い方が、いつものものに近くて、でもまだ少し遠くて、セリカさんの眉がぎゅっと寄った。

 

「……笑ってごまかさないでください」

 

「ごまかしてないよぉ」

 

「ごまかしてます」

 

「そうかなぁ」

 

「してます」

 

 セリカさんの声が震えた。

 

 ホシノ先輩は、今度は何も言わなかった。

 

 私はその横で、手袋をつけ直した。ホシノ先輩の手首を見る。拘束の痕が赤く残っている。大きな傷ではない。でも、そこに誰かが無理に留めた時間が残っていた。消毒して、冷やしすぎないように布を当てる。ホシノ先輩は何も言わずに手を預けてくれた。

 

 それが少し、嬉しかった。

 

 でも、嬉しいと思った瞬間に、胸が痛くなった。

 

 こんなふうに手当てをさせてくれるなら、最初からそうしてほしかった。苦しいなら苦しいと言ってほしかった。大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃない顔をしてほしかった。そう思ってしまう自分がいて、その気持ちが責める言葉になりそうで、私は少しだけ唇を噛んだ。

 

「レナちゃん」

 

 ホシノ先輩が呼んだ。

 

「はい」

 

「怒ってる?」

 

 手が止まりかけた。

 

 セリカさんも、アヤネさんも、ノノミさんも、シロコさんも、少しだけこちらを見た。

 

「……怒ってます」

 

 言うと、ホシノ先輩は小さく笑った。

 

「そっかぁ」

 

「でも、今は処置が先です」

 

「うん」

 

「帰ってきてから、ちゃんと怒ります」

 

「それは怖いねぇ」

 

「怖がってください」

 

 自分で言って、少し驚いた。

 

 でも、ホシノ先輩は困ったように目を細めた。遠くへ逃げる目ではなかった。ちゃんと、ここで困っている顔だった。

 

「うん。怖がるよ」

 

 その返事を聞いて、セリカさんが小さく息を吐いた。

 

 アヤネさんが端末を置く。

 

「ホシノ先輩、現在の状態を記録します。レナさん、処置内容を確認してもよろしいですか」

 

「うん。拘束痕は両手首と腕にあります。深い傷はありません。でも、皮膚が擦れているので消毒して保護します。脱水傾向があるので、水分は少しずつ。しばらく横になって、急に動かない方がいいです」

 

「分かりました。記録します」

 

 アヤネさんの声は仕事の声だった。

 

 でも、端末を打つ指が、時々止まる。そのたびにホシノ先輩の方を見る。見て、いることを確かめて、また画面へ戻る。数字を記録しているのに、視線だけは、ホシノ先輩が消えないように何度も部屋に縫い止めているみたいだった。

 

「アヤネちゃん」

 

 ホシノ先輩が呼ぶ。

 

 アヤネさんの指が止まった。

 

「……何ですか」

 

「後で、ちゃんと話すよ」

 

 アヤネさんはすぐには返事をしなかった。

 

 画面を見たまま、唇を少し噛む。

 

「後で、ではなく、必ずです」

 

「うん。必ず」

 

「約束です」

 

「うん」

 

「破ったら、今度こそ許しません」

 

 その声は静かだった。

 

 でも、今まで聞いたアヤネさんの声の中で、一番強かった。

 

 ホシノ先輩は、少しだけ目を伏せた。

 

「……うん。約束」

 

 約束。

 

 その言葉が部屋に落ちる。

 

 誰もすぐには動かなかった。

 

 昨日、ホシノ先輩は「今日は、ここにいる」と言った。今は、とも言った。そこには明日がなかった。でも、今度の約束には、後があった。帰った後。話す後。怒られる後。ここにいることを前提にした、後だった。

 

 それだけで、少しだけ部屋の空気が変わった。

 

「レナちゃん」

 

 ノノミさんが声をかける。

 

 振り返ると、いつの間にか温かい飲み物が用意されていた。ホシノ先輩の分だけではなく、先生の分、セリカさんの分、シロコさんの分、アヤネさんの分。そして、私の分も。

 

「レナちゃんも、飲んでくださいね」

 

「あ、私は後で――」

 

「今です」

 

 柔らかい声だった。

 

 でも、有無を言わせない声だった。

 

 私は少しだけ固まった。

 

「でも、ホシノ先輩の処置が」

 

「今、手は止められますよね」

 

「それは、そうですけど」

 

「じゃあ、飲めます」

 

 ノノミさんはにこっと笑った。

 

 いつもの笑顔だった。

 

 でも、目が笑っていなかった。

 

「レナちゃんも、帰ってきた人ですから」

 

 その言葉に、胸が詰まった。

 

 帰ってきた人。

 

 ホシノ先輩だけじゃなくて。

 

 私も。

 

 私はホシノ先輩を連れて帰ってきたつもりだった。救護騎士団として、アビドスのみんなの戻る場所を支えるつもりだった。だから、自分が帰ってきた側に入っているなんて、あまり考えていなかった。

 

「……私は、大丈夫です」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

 シロコさんが私を見る。

 

 セリカさんが眉を寄せる。

 

 アヤネさんの端末を打つ音が止まる。

 

 ノノミさんの笑顔が、ほんの少しだけ深くなる。

 

「レナちゃん」

 

 ノノミさんが、すごく優しく呼んだ。

 

「その大丈夫は、信じません」

 

 ホシノ先輩が小さく笑った。

 

「うへぇ、言われちゃったねぇ」

 

「ホシノ先輩もです」

 

「はい」

 

 セリカさんが私の前に来た。

 

 手には、ノノミさんが用意した飲み物がある。乱暴に渡されるかと思った。でも、差し出されたコップは、ちゃんと両手で受け取りやすい角度だった。

 

「飲みなさい」

 

「はい」

 

「あと座る」

 

「でも」

 

「でもじゃない。あんた、さっきからずっと立ってるでしょ。ホシノ先輩の処置して、移動中も見て、戻ってからも動いて。自分を救護対象に入れるって言ったの誰よ」

 

 言い返せなかった。

 

 言ったのは私だった。

 

 シロコさんが、隣の椅子を引いた。

 

「座って」

 

「……はい」

 

 座るしかなかった。

 

 椅子に腰を下ろした瞬間、体が思っていたより重いことに気づいた。足がじんわり痛い。肩が救護バッグの重さを覚えている。手袋を外した指先が少し冷たい。ずっと動いていたから分からなかった疲れが、止まった途端に追いついてきた。

 

 セリカさんが、私の膝に薄い布をかけた。

 

「え」

 

「何よ」

 

「いや、あの」

 

「寒そうだったから」

 

「寒いとは言ってないです」

 

「言う前にかけたの」

 

 セリカさんはそう言って、顔を逸らした。

 

「文句ある?」

 

「ないです」

 

「ならいい」

 

 布は、ホシノ先輩にかけていたものとは別のものだった。少し古くて、端がほつれている。でも、ちゃんと洗ってあって、アビドスの砂の匂いがした。なぜかそれが、すごく安心した。

 

 シロコさんが私の隣に立っている。

 

 見下ろしているわけではない。ただ、近くにいる。私が立ち上がったらすぐ分かる距離。逃がさない距離。でも、怖い距離ではなかった。

 

「飲んだ?」

 

「今から」

 

「見てる」

 

「見られてると飲みにくいです」

 

「ん。飲んで」

 

「聞いてました?」

 

「聞いてた」

 

 でも動かない。

 

 私は諦めて、コップに口をつけた。温かい。甘い。少しだけ紅茶に似ているけれど、救護騎士団で飲むものとは違う。アビドスの部屋で、ノノミさんが入れてくれた味だった。

 

 喉を通る。

 

 体の奥が少し緩む。

 

 それを見届けるように、シロコさんが頷いた。

 

「飲めてる」

 

「はい」

 

「よかった」

 

 短い言葉だった。

 

 でも、その「よかった」が思ったより深くて、私は少しだけ目を伏せた。

 

 アヤネさんが端末を持って近づいてくる。

 

「レナさん、念のため確認します。めまいはありますか」

 

「今はないです」

 

「手の震えは?」

 

「少しだけ」

 

「痛む場所は?」

 

「足と肩が少し。でも動けます」

 

「動けるかどうかは聞いていません」

 

 アヤネさんの声が、思ったより鋭かった。

 

 私は目を瞬かせる。

 

 アヤネさん自身も驚いたように、一瞬だけ口を閉じた。でも、すぐに端末を握り直す。

 

「……すみません。でも、今は動けるかどうかではなく、休む必要があるかどうかです」

 

「はい」

 

「休む必要があります」

 

「……はい」

 

「では、記録します。レナさん、休養。最低三十分」

 

「記録するんですか?」

 

「します」

 

 アヤネさんは真面目な顔だった。

 

「記録に残せば、レナさんが勝手に動こうとした時に止められます」

 

「そんな使い方あるんですか」

 

「あります。今作りました」

 

 セリカさんが少しだけ笑った。

 

「アヤネ、強引」

 

「必要な措置です」

 

「まあ、今回は賛成」

 

「私も賛成です」

 

 ノノミさんがにこにこと頷く。

 

「ん。賛成」

 

 シロコさんも頷いた。

 

 ホシノ先輩まで、長椅子から小さく手を上げる。

 

「おじさんも賛成かなぁ」

 

「ホシノ先輩は寝ててください」

 

 全員に言われた。

 

 ホシノ先輩は「うへぇ」と言って、少しだけ肩をすくめた。その仕草が痛そうで、私は反射的に立ち上がりかけた。

 

 その瞬間、シロコさんの手が私の袖をつまんだ。

 

 本当に、つまむだけだった。

 

 強く引くわけでもない。止めるというより、ここにいて、と言われたみたいな触れ方だった。

 

「レナ」

 

「……はい」

 

「座って」

 

「でも、ホシノ先輩が」

 

「私が見る」

 

 シロコさんはホシノ先輩の方を見た。

 

「レナは、今、座る」

 

 私は袖をつままれたまま、椅子に戻った。

 

 その手が、少しだけ離れない。

 

 シロコさんは、私が座ったのを確認してから、ようやく袖から指を離した。離した後も、そこに小さな温度が残っている気がした。

 

「レナちゃん」

 

 今度はホシノ先輩が呼んだ。

 

「はい」

 

「おじさんのこと、見てくれてありがとね」

 

 部屋が静かになった。

 

 さっきまで少しだけ笑える空気になっていたのに、その一言で、また救出直後の砂の冷たさが戻ってくる。

 

 ホシノ先輩は、長椅子に横になったまま私を見ていた。

 

 眠そうではない。

 

 逃げていない。

 

 困ったように、でもちゃんとここを見ている目だった。

 

「レナちゃんが、あそこで怒ってくれなかったら、おじさん、また変なこと言ってたかもしれない」

 

「変なことって」

 

「大丈夫とか、先に行ってとか、そういうやつ」

 

「言いそうでした」

 

「うん。言いそうだった」

 

 ホシノ先輩は小さく笑う。

 

「だから、ありがと」

 

 私はコップを握った。

 

 温かいはずなのに、指先が少し震える。

 

「……怒ってます」

 

「うん」

 

「まだ、許してないです」

 

「うん」

 

「でも、帰ってきてくれて、よかったです」

 

 言った瞬間、視界が滲みそうになった。

 

 私は慌てて目を伏せる。

 

 泣きたくなかった。

 

 泣いたら、ホシノ先輩がまた困ったように笑う気がしたから。そうしたら、また許したくなってしまう。まだ怒っていたい。怒って、困らせて、ちゃんとここに繋ぎ止めていたい。

 

 でも、ホシノ先輩は笑わなかった。

 

「うん」

 

 短く、そう言った。

 

「帰ってきたよ」

 

 その言葉で、セリカさんが顔を背けた。

 

 ノノミさんの手が止まる。

 

 アヤネさんが端末を胸に抱える。

 

 シロコさんはホシノ先輩の手を、またそっと握った。

 

 帰ってきた。

 

 その言葉が、やっと部屋の中に置かれた。

 

 先生は少し離れたところで、その様子を見ていた。シッテムの箱は机の上で淡く光っている。先生は何も言わない。言わなくてもいいことを分かっているみたいに、ただ静かに、全員が同じ部屋にいることを見守っていた。

 

 しばらくして、ホシノ先輩の呼吸が少し落ち着いた。

 

 眠ってはいない。けれど、さっきより目の開き方が緩い。私は確認しに立とうとして、シロコさんに見られていることに気づいた。セリカさんも見ている。ノノミさんも、アヤネさんも。

 

「……確認だけ」

 

「座ったまま聞いてください」

 

 アヤネさんが言った。

 

「ホシノ先輩、気分は悪くありませんか」

 

「うん。大丈夫――」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 ホシノ先輩も、言ってから気づいたみたいに口を閉じた。

 

「……じゃなくて、少しだるいかなぁ」

 

 シロコさんが頷いた。

 

「正直でいい」

 

「シロコちゃん、それレナちゃんにも言ってたやつ?」

 

「うん」

 

「おじさんにも適用されるんだ」

 

「される」

 

「うへぇ」

 

 少しだけ、みんなが笑った。

 

 本当に少しだけ。

 

 でも、その笑いはさっきまでより楽だった。

 

「レナちゃんも」

 

 ノノミさんが、私の空になりかけたコップを見た。

 

「もう少し飲みますか?」

 

「はい。少しだけ」

 

「はい、少しだけですね」

 

 ノノミさんは嬉しそうに微笑んで、私のコップに少しだけ注ぎ足した。本当に少しだけ。私がそう言ったから、ちゃんと少しだけにしてくれた。囲い込むように優しいのに、こちらの言葉も聞いてくれる。

 

 それが、余計に胸を柔らかくした。

 

「レナちゃんは、もう救護騎士団に戻るの?」

 

 ホシノ先輩が何気なく聞いた。

 

 何気なく。

 

 たぶん、そのつもりだった。

 

 でも、その一言で部屋の空気が少しだけ変わった。

 

 シロコさんの視線がこちらに向く。

 

 セリカさんが布の端を握る。

 

 ノノミさんの笑顔が、少しだけ静かになる。

 

 アヤネさんが端末の画面を消す。

 

 私は、その反応に一拍遅れて気づいた。

 

「すぐに帰るってわけではないと思います……先生と相談してからです。ホシノ先輩の状態も見たいし、ミネ先輩にも報告しないといけないので」

 

「そっかぁ」

 

 ホシノ先輩は軽く言った。

 

「レナちゃんには、帰る場所があるもんねぇ」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 優しいはずだった。

 

 でも、なぜか胸の奥が冷えた。

 

 帰る場所。

 

 救護騎士団。ミネ先輩。あの部室。紅茶の匂い。毛布。団員さんたちの声。私が戻れば、きっとミネ先輩はリボンの角度を確認して、それから「無事で何よりです」と言う。そこは、私の帰る場所だ。

 

 でも、今この部屋も。

 

 砂の匂いがして、窓が鳴って、セリカさんが怒って、シロコさんが見ていて、ノノミさんがお茶を入れて、アヤネさんが記録を取って、ホシノ先輩が困ったように笑うこの部屋も。

 

 帰ってきた、と感じてしまった。

 

「……はい」

 

 私はコップを握ったまま、小さく頷いた。

 

「でも、アビドスにもまた来ます」

 

 言った瞬間、みんなの視線が少しだけ変わった。

 

 シロコさんは瞬きをした。

 

 セリカさんは「当たり前でしょ」と言いそうな顔をして、でも言わなかった。

 

 ノノミさんの笑顔が、今度は少しだけ本物に近づいた。

 

 アヤネさんは端末を開きかけて、たぶん予定を確認しようとして、途中で手を止めた。

 

 ホシノ先輩は、目を細める。

 

「そっかぁ」

 

 軽い声。

 

 でも、さっきより少し近い。

 

「また来るんだ」

 

「はい」

 

「約束?」

 

 シロコさんが聞いた。

 

 短い声だった。

 

 でも、思ったより重かった。

 

 約束。

 

 その言葉が、さっきのアヤネさんとホシノ先輩の約束と重なる。

 

 私はシロコさんを見た。

 

「約束です」

 

「ん」

 

 シロコさんは頷いた。

 

 それだけだった。

 

 でも、その一言で、私の袖をつまんでいた時よりも強く、何かが繋がれた気がした。

 

「じゃあ、次に来る日は決めておきましょう」

 

 アヤネさんがすぐに言った。

 

「え、今ですか」

 

「今です。口約束だけでは不安ですので、予定として共有します」

 

「アヤネ、早い」

 

 セリカさんが言う。

 

「必要です」

 

「まあ、必要だけど」

 

「セリカちゃんも確認しますよね」

 

「……するけど」

 

 セリカさんは顔を逸らした。

 

 ノノミさんが楽しそうに笑う。

 

「では、レナちゃん用の予定表を作りましょうか」

 

「私用の予定表?」

 

「はい。アビドスに来る日、休む時間、お茶の時間、救護バッグを置く場所も書いておくと便利です」

 

「それ、便利なんですか……?」

 

「便利です」

 

 ノノミさんはにこにこと言った。

 

 シロコさんも頷く。

 

「便利」

 

「シロコさんまで」

 

「レナがいついるか分かる」

 

 短い言葉。

 

 でも、その中にあまりにもまっすぐなものが入っていて、私は何も返せなくなった。

 

 レナがいついるか分かる。

 

 それが便利だから。

 

 それが安心だから。

 

 それが必要だから。

 

「……そんなに、私が来る日って大事ですか」

 

 思わず聞いてしまった。

 

 部屋が少しだけ静かになる。

 

 聞いてから、恥ずかしくなった。自分で聞くことではなかったかもしれない。自意識過剰みたいに聞こえたかもしれない。慌てて取り消そうとした時、セリカさんが先に口を開いた。

 

「大事に決まってるでしょ」

 

 怒ったような声だった。

 

 でも、怒っているのは私にではなかった。

 

「来るって言った人が来なかったら、嫌だし。いつ来るか分かんないと、落ち着かないし。あんた、放っておくと無理するし。あと、来るなら来るで準備とかあるし」

 

「準備?」

 

「お茶とか、救護用品とか、掃除とか!」

 

 最後は少し声が大きかった。

 

 セリカさんはすぐに顔を赤くして、そっぽを向く。

 

「別に、変な意味じゃないから」

 

「変な意味とは思ってないです」

 

「ならいい」

 

 ノノミさんが小さく笑った。

 

「セリカちゃん、レナちゃん用のカップも洗っていましたもんね」

 

「ノノミ先輩!」

 

「え」

 

 私は目を瞬かせた。

 

「私用のカップ、あるんですか」

 

「あるわよ!」

 

 セリカさんがなぜか怒った。

 

「だって、毎回来るたびに適当なコップ出すのも変でしょ。救護騎士団の子なんだから、衛生的にも決まってた方がいいし!」

 

「救護騎士団、関係ありますか?」

 

「ある!」

 

 セリカさんが言い切った。

 

 アヤネさんが咳払いをする。

 

「実際、個人用のカップを用意するのは衛生面でも合理的です」

 

「アヤネさんまで」

 

「それに、レナさんが来た時に探す手間が省けます」

 

 アヤネさんは真面目な顔で言った。

 

「レナさんの席も、できれば固定した方がいいかもしれません。救護バッグの位置も含めて、動線を整理できます」

 

「席まで?」

 

「はい」

 

 シロコさんが私を見る。

 

「窓から遠い席がいい」

 

「どうして?」

 

「砂が入りにくい。あと、出入口が見える」

 

「出入口?」

 

「レナが急に出ていったら分かる」

 

「急に出ていかないです」

 

「念のため」

 

 シロコさんは真面目だった。

 

 私は言い返そうとして、でも何も言えなかった。

 

 みんなが、私の場所を作ろうとしている。

 

 カップ。席。救護バッグの置き場所。予定表。

 

 それは優しさだった。

 

 でも、ただの優しさより少し重かった。

 

 ここにいていいよ、ではなく。

 

 ここにいるよね、と言われているみたいだった。

 

 嫌ではなかった。

 

 嫌ではないのに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。

 

「レナちゃん」

 

 ホシノ先輩が呼んだ。

 

 長椅子に横になったまま、少しだけこちらを見ている。

 

「アビドス、ちょっと重いでしょ」

 

 その言葉に、全員が止まった。

 

 セリカさんが「ホシノ先輩!」と言いかける。ノノミさんが少しだけ目を伏せる。アヤネさんが端末を握りしめる。シロコさんは黙ってホシノ先輩を見た。

 

 ホシノ先輩は困ったように笑っていた。

 

 でも、その笑いには自嘲だけではないものが混じっていた。

 

「おじさんたち、なくすの下手だからねぇ。なくしそうになると、ちょっと握る力が強くなるんだよ」

 

 部屋が静かになった。

 

 なくすの下手。

 

 その言葉は、軽く聞こえたのに、すごく重かった。

 

 アビドスは、たくさんなくしてきた場所だ。

 

 生徒も、街も、店も、日常も、学校の未来も。なくしたくなくて、でもなくしてしまったものが多すぎて、今あるものをどう握ればいいのか、時々分からなくなるのかもしれない。

 

 私は自分の膝にかかった布を見た。

 

 セリカさんがかけてくれた布。

 

 シロコさんが袖をつまんで止めてくれたこと。

 

 ノノミさんの温かい飲み物。

 

 アヤネさんの休養記録。

 

 ホシノ先輩の、重いでしょ、という言葉。

 

「……重いです」

 

 正直に言った。

 

 誰かが息を飲んだ気がした。

 

 でも、私は続けた。

 

「でも、嫌じゃないです」

 

 顔を上げる。

 

 みんなが私を見ていた。

 

「私、まだアビドスのことを全部知ってるわけじゃないです。失くしたものも、背負っているものも、きっと少ししか分かってません。でも、ここにいると、ちゃんと見られてる感じがします。無理しようとすると止められて、大丈夫って言うと疑われて、勝手に動こうとすると袖をつままれて」

 

 シロコさんが少しだけ瞬きをした。

 

「それは、少し重いです」

 

 セリカさんが唇を噛む。

 

「でも、あったかいです」

 

 ノノミさんの目が、少しだけ揺れた。

 

「だから、嫌じゃないです」

 

 言い終えると、部屋がしばらく静かになった。

 

 静かすぎて、外の砂の音が聞こえた。

 

 最初に動いたのは、セリカさんだった。

 

「……ほんと、そういうところ」

 

「え?」

 

「ずるい」

 

「また言われた」

 

「何回でも言うわよ。ずるいんだから」

 

 セリカさんはそう言って、私の膝の布を少しだけ直した。

 

 直す必要は、たぶんなかった。

 

 でも、その手は丁寧だった。

 

「寒くない?」

 

「大丈夫……じゃなくて、寒くないです」

 

「よろしい」

 

 シロコさんが頷く。

 

「正直でいい」

 

「はい」

 

 ノノミさんが私のコップをそっと持ち上げる。

 

「もう少しだけ飲みましょうね」

 

「はい」

 

 アヤネさんが端末に何かを入力する。

 

「レナさんの休養時間、延長します」

 

「えっ」

 

「今の発言内容を踏まえると、精神的疲労も考慮すべきです」

 

「そんな理由で」

 

「あります」

 

「あるんですか」

 

「今作りました」

 

 また少しだけ、みんなが笑った。

 

 ホシノ先輩も笑っていた。

 

 その笑いは、まだ弱かった。

 

 でも、遠くなかった。

 

 やがて、ホシノ先輩は本当に眠った。

 

 最初は寝たふりかと思った。けれど、呼吸の深さが違った。肩の力が抜けて、眉間の小さな皺も少しだけ消えている。私は確認しようとして、今度はシロコさんに止められる前に自分で座ったまま見た。

 

「眠ってます」

 

 小さく言うと、全員がほっとしたように息を吐いた。

 

 セリカさんはホシノ先輩の袖をまだ掴んでいた。眠ったことに気づいても、離さなかった。ノノミさんは布がずれていないか何度も確認している。アヤネさんは端末に記録を残しながら、時々画面ではなくホシノ先輩を見る。シロコさんは長椅子の近くに座り、ホシノ先輩の手が動くたびに目を向けた。

 

 私は、その全部を見ていた。

 

 アビドスの重さ。

 

 なくすのが下手な人たちの、握る力。

 

 少し重くて、でも温かいもの。

 

 気づけば、私の体も少しだけ椅子に沈んでいた。温かい飲み物のせいか、疲れのせいか、まぶたが重い。眠るつもりはなかった。ホシノ先輩の状態を見ないといけないし、先生への報告もあるし、ミネ先輩にも連絡しないといけない。

 

 そう思ったのに、肩に何かがかかった。

 

 見ると、ノノミさんが別の布を私にかけていた。

 

「あ、ノノミさん、私は」

 

「しー、です」

 

 ノノミさんが人差し指を口元に当てる。

 

「今は、少しだけ休みましょう」

 

「でも」

 

「レナちゃん」

 

 ノノミさんの声が、とても優しくなる。

 

「帰ってきた子は、休んでいいんですよ」

 

 帰ってきた子。

 

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 

 ホシノ先輩は帰ってきた人。

 

 私は帰ってきた子。

 

 そう言われたみたいで、なんだか少し恥ずかしくて、でも逃げられなかった。

 

 シロコさんが隣に座る。

 

 セリカさんが小さく言う。

 

「寝たら? ちょっとだけ」

 

「セリカさんまで」

 

「ちょっとだけよ。ホシノ先輩が起きたら、またあんたが見るんでしょ。だったら今寝とかないと困るじゃない」

 

「困るんですか」

 

「困るわよ」

 

 セリカさんは即答した。

 

「レナが倒れたら、困る」

 

 まっすぐな言葉だった。

 

 何も飾っていない。

 

 でも、それが一番効いた。

 

 アヤネさんが端末を見る。

 

「休養時間、現在から最低二十分。レナさん、これは記録済みです」

 

「記録済みなら、仕方ないですね……」

 

「はい。仕方ありません」

 

 先生が少し離れたところで笑った。

 

「みんなに看病されるのも、救護の勉強かもしれないわね」

 

「先生まで……」

 

「いい機会よ、レナ。救護する側が救護される感覚も、覚えておきなさい」

 

 その言葉に、ミネ先輩の声を思い出した。

 

 あなた自身も、救護対象です。

 

 私はコップを机に置いて、膝の布を少しだけ握った。

 

「……少しだけ、休みます」

 

「ん」

 

 シロコさんが頷く。

 

「見てる」

 

「それ、安心するような落ち着かないような……」

 

「安心して」

 

「はい」

 

 セリカさんが小さく笑った。

 

 ノノミさんが布をもう少し整える。

 

 アヤネさんが照明を少し落とす。

 

 ホシノ先輩の呼吸が、長椅子の方から聞こえる。

 

 先生のシッテムの箱が、机の上で淡く光っている。

 

 私は目を閉じた。

 

 眠るつもりは、本当になかった。

 

 でも、閉じた瞼の裏で、今日の砂漠の光が少しずつ遠くなる。カイザーの施設の冷たい照明も、拘束具の嫌な形も、ホシノ先輩の「来ちゃったんだ」という声も、全部まだ残っている。

 

 でも、その上から、別のものが重なっていく。

 

 セリカさんがかけてくれた布の重さ。

 

 シロコさんが袖をつまんだ指先。

 

 ノノミさんの温かい飲み物。

 

 アヤネさんの休養記録。

 

 ホシノ先輩の「帰ってきたよ」。

 

 重い。

 

 でも、あったかい。

 

 その感覚に包まれながら、意識がゆっくり沈んでいく。

 

 眠りに落ちる直前、誰かが小さく言った気がした。

 

「……帰ってきてくれて、よかった」

 

 それが誰の声だったのか、分からなかった。

 

 セリカさんかもしれない。

 

 シロコさんかもしれない。

 

 ノノミさんかもしれない。

 

 アヤネさんかもしれない。

 

 もしかしたら、眠っているはずのホシノ先輩だったのかもしれない。

 

 でも、確かに聞こえた。

 

 帰ってきてくれて、よかった。

 

 その言葉を最後に、私は少しだけ眠った。

 

 アビドスの砂の音がする部屋で。

 

 ホシノ先輩が帰ってきた部屋で。

 

 私のためのカップと、私のための席が、いつの間にか用意され始めている場所で。

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