戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
レナ用のカップが、対策委員会室に置かれるようになった。
最初は、本当に偶然だと思っていた。ノノミさんが飲み物を配る時、私の前にだけ少し小さな白いカップが置かれて、セリカさんが「それ、余ってただけだから」と早口で言った。次に来た時も、その次に来た時も同じカップで、欠けていた縁がいつの間にか滑らかになっていて、誰かが直してくれたのだと気づいた時には、もう何も言えなかった。
救護バッグの置き場所も決まっていた。
入口から見て右側、棚の下。取り出しやすくて、足を引っかけにくくて、窓から入る砂も届きにくい場所。そこに小さな札が貼られていたのを見つけた時、私はしばらく動けなかった。
救護用品。
その下に、小さく。
レナさん用。
アヤネさんの字だった。
私の席も、たぶん決まっている。
窓から少し離れていて、出入口が見える椅子。最初はたまたま座っただけだった。でも、別の場所に座ろうとすると、シロコさんが「そこは眩しい」と言い、セリカさんが「そこ、砂が来るわよ」と言い、ノノミさんが「こっちの方が背中が楽ですよ」と笑い、アヤネさんが「動線上、こちらが適切です」と真面目に言う。
ホシノ先輩はそれを見て、いつも眠そうに笑う。
「レナちゃん、すっかり指定席だねぇ」
指定席。
その言葉が、少しだけくすぐったかった。
数週間。
ホシノ先輩を連れ戻してから、アビドスの空気は少しずつ変わった。借金が消えたわけではない。砂漠化が止まったわけでもない。柴関ラーメンの修理も、カイザーの影も、まだ完全には片づいていない。
それでも、部屋の中に戻ってきたものがあった。
ホシノ先輩が長椅子でうとうとする時間。セリカさんが怒りながらお茶を出す声。ノノミさんがみんなにお菓子を配る手。アヤネさんが端末に向かって、時々ため息をつく音。シロコさんが窓際や入口を見ている気配。
その中に、私のカップがあった。
私のバッグの場所があった。
私の席があった。
嬉しい。
嬉しいと思う。
でも、その嬉しさは少し重かった。救護騎士団には帰る場所がある。ミネ先輩がいて、団員さんたちがいて、リボンの角度を確認される場所がある。そこへ帰る自分を、私は今も当然のように思っている。
なのに、アビドスにも私のためのものが増えていく。
そのことが、胸の奥で静かに場所を取っていた。
今日は、いつもより少し早くアビドスへ着いた。
校門の前で足を止める。朝の砂はまだ熱を持ちきっていなくて、風も少しだけ軽い。昨日のうちに先生から、今日は無理をしないようにと言われていたけれど、救護用品の確認くらいはできると思っていた。旧視聴覚室に置いた水と包帯も見たいし、玄関横の救護地点の布も畳み直したい。
そう考えながら歩き出そうとした時だった。
「レナ」
白い髪が、校門の影から出てきた。
シロコさんだった。
「おはようございます、シロコさん。今日も見回りですか?」
「ん」
短い返事。
でも、シロコさんは校門の外ではなく、中から来た。私を待っていたと言ってもいいくらいの場所だったけれど、たぶん本人は認めない。
「今日は早い」
「少し早く着きました。救護用品を確認したくて」
「今日はしない」
「え?」
シロコさんは私の救護バッグを見た。
「バッグ、持つ」
「あ、大丈夫です。今日はそこまで重くないので」
「重さの問題じゃない」
シロコさんの手が、肩紐の近くで止まった。
勝手には取らない。
でも、持つつもりではある。
「今日、レナは運ばない。持たない。走らない」
「……何か決まってます?」
「決まってる」
「私、聞いてないです」
「今言った」
言い方はいつも通りだった。
なのに、少しだけ不安になる。
私は救護バッグの肩紐を握ったまま、シロコさんを見る。シロコさんもこちらを見る。しばらく沈黙が続いた。先に目を逸らしたのは、私だった。
「……分かりました。お願いします」
「ん」
シロコさんはバッグを受け取った。
私の救護バッグが、シロコさんの肩にかかる。アビドスの砂の上で、救護騎士団の印が小さく揺れる。それを見ていると、自分の一部を預けているみたいで落ち着かなかった。
「シロコさん、重くないですか?」
「重くない」
「本当に?」
「これより重いもの、いろいろ持ったことある」
さらっと言われた。
たぶん事実なのだと思う。
だからこそ、胸の奥が少し痛くなった。
「……今日は、何をするんですか?」
「レナを休ませる」
「私を?」
「うん」
「私、今日は手伝いに来たんですけど」
「だから、休む」
理屈がつながっていないようで、シロコさんの中ではつながっているらしい。
対策委員会室へ向かう廊下は、いつもより少し静かだった。砂の音と、私たちの足音だけが響く。シロコさんは半歩前を歩く。けれど、以前のように道案内をする距離ではなく、私が立ち止まればすぐに気づく距離だった。
対策委員会室の扉の前で、シロコさんが少しだけこちらを見た。
「驚かないで」
「え、驚くことがあるんですか?」
「たぶん」
「それ、先に言われると余計に驚くんですけど……」
扉が開いた。
中を見て、私は本当に驚いた。
机の上には、私用の白いカップがすでに置かれていた。中身はまだ湯気を立てている。私の席には、いつものクッションに加えて、柔らかそうな毛布が畳まれていた。小さなお皿には焼き菓子が並んでいる。救護バッグの置き場所は空けられていて、横には水筒と予備の布まで用意されていた。
そして、机の端に置かれたアヤネさんの端末には、大きな文字でこう表示されていた。
本日のレナさん休養予定。
「……あの」
扉のところで固まっていると、セリカさんがこちらを見た。
腕を組んでいる。
怒っている時の顔だった。
でも、怒りの向きは私ではない気がした。
「遅い」
「すみません、まだ予定の時間よりは早いと思うんですけど」
「早く来るなら連絡しなさいよ。準備の時間がずれるでしょ」
「準備?」
「何でもない!」
セリカさんが顔を赤くしてそっぽを向いた。
ノノミさんがその横でにこにこと笑っている。
「おはようございます、レナちゃん。今日は何もしなくていい日です。座って、お茶を飲んで、好きなお菓子を食べて、眠くなったら眠ってくださいね」
「何もしなくていい日……」
「はい」
「そんな日、あるんですか?」
「今日作りました」
アヤネさんが真面目な顔で言った。
端末を持って立ち上がる。
「レナさんは、自分が疲れている時ほど作業量を増やそうとする傾向があります。本人の申告だけでは休養が不足する可能性が高いため、本日は対策委員会側で予定を管理します」
「私の予定を、ですか?」
「はい。本人の自己判断による変更は不可です」
「不可……」
「異議申し立ては受け付けますが、採用される可能性は低いです」
「それ、ほとんど受け付けてないのと同じじゃないですか?」
「はい」
即答だった。
ホシノ先輩が長椅子の上で手を振った。
最近のホシノ先輩は、だいぶ元に戻ってきている。それでも、無理をしようとすると全員に止められるので、今日は最初から長椅子にいるらしい。
「うへぇ、レナちゃん。今日は諦めた方がいいよぉ。おじさんも最初は反対しようかと思ったけど、みんなの圧がすごくてねぇ」
「ホシノ先輩も賛成してるんですか?」
「まあねぇ。おじさんが言うのも変だけどさ、レナちゃんはもう少し困らせる側になってもいいと思うんだよ。困らせても、ここの子たちは逃げたりしないから」
軽い声だった。
でも、最後だけ少し近かった。
困らせても、逃げない。
その言葉に、私は返事をし損ねた。
シロコさんが私の救護バッグをいつもの場所へ置く。丁寧に、札の横に収める。それから私の席を指した。
「座って」
「でも、救護用品の確認だけでも」
「確認した」
「え?」
「昨日、アヤネとした。足りないものは棚に入れた」
「私がやるつもりだったのに」
「だから、先にした」
シロコさんは少しも悪びれなかった。
セリカさんが私の背中を軽く押す。
「ほら、座る。今日はあんたに仕事を渡さないって決めたの。こっちが隙を見せると、すぐ『少しだけ』って言い出すんだから」
「そんなに言いますか?」
「言うわよ。しかもその『少しだけ』が全然少しじゃないの。ちょっと物資見るだけ、ちょっと書類見るだけ、ちょっと手当てするだけって、結局ずっと動いてるじゃない」
否定できなかった。
私は席に座る。
椅子のクッションが、いつもより柔らかかった。もしかしてこれも新しく用意されたのだろうか。そう思って見下ろしたら、セリカさんがなぜか先に言った。
「それも余ってただけだから」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあったの!」
「ありがとうございます」
「だから、お礼を言うところじゃないってば」
セリカさんはそう言いながら、毛布を手に取った。
膝にかけられる。
少し乱暴に見えて、布の端はきちんと足元まで届くように整えられた。
「寒くないです」
「知ってるわよ。でも、こうすると動きにくいでしょ」
「目的、そっちですか?」
「半分は」
「もう半分は?」
「……冷えたら困るから」
小さな声だった。
私が聞き返す前に、セリカさんはカップを私の前へ押した。
「飲みなさい。今日のは、あんたが前に飲みやすいって言った甘さにしてあるから」
「覚えてくれてたんですか?」
「覚えてない!」
「今、自分で言いましたよね」
「うるさい。飲む」
カップを両手で持つ。
温かい。
甘すぎない。ほんの少し苦味が残っていて、後味だけ柔らかい。前に私が、甘すぎると眠くなると言ったことがある。何気なく言っただけだった。きっと、言った私の方は忘れかけていた。
「おいしいです」
そう言うと、セリカさんは一瞬だけ目を逸らした。
「……ならいい」
短い声。
でも、その横顔は少し嬉しそうだった。
ノノミさんが焼き菓子の皿を近づける。
「こちらもどうぞ。昨日、セリカちゃんと一緒に選んだんです。レナちゃんは紅茶に合う焼き菓子が好きだと聞いていたので、今日は少し軽めのものにしました」
「ノノミ先輩!」
「あら、内緒でしたか?」
「内緒というか、わざわざ言うことじゃないです!」
セリカさんが慌てる。
私は焼き菓子を一つ取った。
小さくて、崩れやすそうで、でも香りがいい。口に入れると、ほろっと溶ける。甘さは控えめで、温かい飲み物にちょうど合った。
「……おいしいです」
今度はノノミさんが嬉しそうに笑った。
「よかったです。レナちゃんがここで何かを食べてくれると、少し安心します。ちゃんとこの部屋のものを受け取ってくれているんだなって思えるので」
「食べるだけで、そんなふうに?」
「はい」
ノノミさんは、迷わず頷いた。
「レナちゃんが頑張ってくれるのも嬉しいです。でも、頑張っていないレナちゃんもここにいていいんだって、私たちが先に覚えたいんです。レナちゃんに覚えてもらう前に、私たちがそう扱えるようになりたいんです」
優しい言葉だった。
でも、ふわふわしていなかった。
ノノミさんの言葉は、いつも柔らかい。けれど時々、その柔らかさの下に深いものが見える。包み込むために腕を広げているのに、その腕の中へ入れたものを簡単には外へ出したくないような、そんな静かな重さ。
私は焼き菓子を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「……私、そんなに頑張ってるつもりは」
「そういうところです」
アヤネさんが言った。
端末を操作しながら、でも目はこちらに向いている。
「レナさんは、自分の行動を『少しだけ』『これくらい』と表現することが多いです。しかし実際には、それが積み重なって疲労になります。今回の休養予定は、それをこちらで止めるためのものです」
「本当に真面目に計画されてるんですね」
「はい。真面目に計画しました」
アヤネさんはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「それに、これはレナさんだけのためではありません。レナさんがここで休んでいるのを見ると、私たちも確認できるんです。レナさんが、ここで気を抜いてもいいと思ってくれていることを」
胸の奥が、静かに揺れた。
私は休まされている。
でも、それだけではない。
アビドスのみんなは、私を休ませることで、自分たちも何かを確かめようとしている。私がここでお茶を飲むこと。焼き菓子を食べること。椅子に座って、毛布を膝にかけられて、それを嫌がらないこと。
それが、みんなにとって何か意味を持っている。
「……嫌じゃないです」
気づいたら、そう言っていた。
部屋の中の空気が少しだけ止まる。
「こうやって休ませてもらうのは、少し慣れないですし、なんだか落ち着かないです。でも、嫌じゃないです。ちゃんと見てもらえている感じがして……その、少しだけ安心します」
言い終えた後で、急に恥ずかしくなった。
カップへ視線を落とす。
誰もすぐには答えなかった。
沈黙が長い。
私のために用意されたカップ。席。毛布。お菓子。休養予定。バッグの置き場所。どれも優しい。でも、その優しさの奥には、帰ってほしくないという気持ちが混ざっている。
言葉にされなくても、分かる。
それは怖いほど重い。
でも。
「だから今は、ここにいてもいいって思えます」
そう続けた瞬間、シロコさんが小さく息を吐いた気がした。
聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな音だった。
でも、確かにあった。
「じゃあ」
セリカさんが立ち上がる。
少しだけ声が上ずっていた。
「次は仮眠。予定表にも書いてあるし、もうお茶も飲んだし、お菓子も食べたし、あんたも嫌じゃないって言ったから、寝る」
「今の流れで寝るんですか?」
「今の流れだから寝るの!」
「でも、昼間ですし、みんないますし」
「いるから寝るんでしょ。誰も見てないところで勝手に倒れられる方が嫌なの。ここなら、誰かがいる。起きた時も、誰かがいる」
最後の声が、少しだけ弱くなった。
セリカさんはすぐに顔を逸らした。
「……まあ、そういうことだから」
ノノミさんが一歩近づく。
「レナちゃん」
「はい」
「少しだけ、抱きしめてもいいですか?」
突然ではなかった。
でも、心臓が大きく鳴った。
ノノミさんは、すぐには動かない。両手を軽く前で合わせて、私が答えるのを待っている。優しいけれど、遠慮だけではない表情だった。抱きしめたいという気持ちを隠していない。でも、それを私に押しつけないようにしている。
「羽根には触れません。嫌ならすぐにやめます。ただ、今日はレナちゃんに、言葉だけじゃなくて、ちゃんと温かいものを渡したいんです。休んでいいと言うだけでは足りないくらい、私たちはレナちゃんに休んでほしいので」
ノノミさんの言葉は長かった。
その一つ一つが、逃げ道を塞ぐのではなく、私が選べるように置かれていく。
私は少しだけ迷った。
抱きしめられるのは、まだ緊張する。けれど、ノノミさんの手は怖い手ではない。ミネ先輩が何度も教えてくれた。触れる前に聞いてくれる手は、こちらを無視する手ではない。
「……少しだけなら」
そう言うと、ノノミさんは本当に嬉しそうに笑った。
「はい。少しだけ」
ノノミさんの腕が、ゆっくり私を包んだ。
背中に触れる手は、羽根を避けている。髪にも触れない。肩と背中を包むだけ。なのに、そこに入った瞬間、対策委員会室の音が少し遠くなった。砂の音も、窓の鳴る音も、机の上の端末の小さな通知音も、全部が腕の外側へ置かれていく。
温かい。
柔らかい。
でも、それだけではなかった。
ノノミさんの腕の中は、外の世界から少し隠されているみたいだった。カイザーの冷たい施設も、壊れた店の匂いも、砂の熱も、私がまた立ち上がろうとする癖も、この中では少しだけ遠い。
「レナちゃん」
ノノミさんの声が近い。
「ここでは、何もしないレナちゃんも大事です。助けてくれるからじゃなくて、ここで息をしてくれることが、もう嬉しいんです」
言葉が胸に沈む。
私はノノミさんの服を少しだけ握った。
「……あったかいです」
「はい」
「ちょっと、力が抜けます」
「それでいいんです」
ノノミさんの腕が、ほんの少しだけ強くなった。
強すぎない。
でも、離したくないのだと分かるくらいには。
「ノノミ先輩」
セリカさんが横から声をかけた。
「そろそろ。レナ、顔真っ赤だから」
「あら、本当です」
「見ないでください……」
「かわいいですね」
「見ないでください……」
ノノミさんは笑いながら、ゆっくり離れた。
離れた瞬間、少しだけ寒いと思ってしまった。
それを顔に出さないようにしたのに、シロコさんが毛布を肩までかけ直した。
「冷えた?」
「……少しだけ」
「ん」
何も言わず、シロコさんが隣に座った。
肩が触れそうな距離だった。
前なら、こんなに近いと緊張して固まっていたと思う。今も緊張はする。でも、離れてほしいとは思わない。シロコさんの近さは、見張られているというより、私がふいに立ち上がってどこかへ行かないよう、静かに結び目を作られているようだった。
「眠れそう?」
「少しだけ」
「寝ていい」
「みんなが見てると思うと、逆に眠れないかもしれません」
「じゃあ、見ないふりをする」
「それは見てるのと同じでは……?」
「同じ。でも、レナが起きるまでここにいる。目を開けた時、知らない場所に一人でいるのは嫌だと思うから」
シロコさんの声は静かだった。
長い言葉ではなかったけれど、いつもより少しだけ多い。
「レナがここで寝るなら、起きた時もここにいる。そうしたら、次も少し寝やすくなる」
「次もある前提なんですね」
「ある」
「決まってるんですか?」
「今決めた」
シロコさんは真顔だった。
私は思わず小さく笑ってしまった。
その瞬間、セリカさんが少しだけほっとした顔をした。
すぐに怒った顔へ戻したけれど、遅かった。
「……笑えるなら、少しは落ち着いたでしょ。じゃあ、長椅子行くわよ。椅子で寝たら首痛くなるし、そうなったらまた手当てだの何だの言い出すんだから」
「セリカさん、そこまで考えて」
「考えるわよ!」
セリカさんの声が少し大きくなる。
「考えるに決まってるでしょ。あんた、放っておくと何でも『平気です』って言うし、痛くなってから言うし、言った後にまた動こうとするし。だから先に考えるしかないの。……もう、誰かが何も言わずに限界まで行くのは嫌なのよ」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
ホシノ先輩が目を伏せる。
セリカさんはしまった、という顔をした。でも、取り消さなかった。
私は立ち上がろうとして、少しだけ足元が揺れた。
ノノミさんの抱擁と温かい飲み物と、部屋の空気のせいで、体の力が思ったより抜けていた。倒れるほどではない。でも、立ち上がった瞬間に少しふらついた。
「レナ」
セリカさんの腕が伸びた。
支えられる。
そのまま、体が少しセリカさんの方へ傾いた。セリカさんは肩と背中に手を回して、私を支えた。すぐ離れると思った。けれど、少しだけそのままだった。
「……今のは、あんたがふらついたからだから」
「はい」
「支えてるだけだから」
「はい」
「だから、ちょっと動かないで」
「……はい」
セリカさんの腕は、不器用だった。
ノノミさんみたいに包むのではなく、倒れないように支える腕。だけど、支えるには少しだけ強い。どこかへ行きそうなものを引き戻す力が混ざっていた。
「セリカさん」
「何」
「怖かったんですか?」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。
でも、セリカさんは怒らなかった。
ただ、私の肩を支えたまま少しだけ俯く。
「怖かったわよ」
声が近かった。
「ホシノ先輩がいなくなった朝も、あんたが施設の中で走った時も、帰ってきてから平気そうに動こうとした時も、全部怖かった。大丈夫って言う人が大丈夫じゃないの、もう見たくないの。だから、今日くらい私たちの前で休んで。勝手に一人で平気な顔しないで」
胸が詰まった。
セリカさんの腕の中は、優しいだけではなかった。怒りも、怖さも、照れも、全部混ざっている。でも、その全部が私を離したくない方へ向いていた。
「……はい。休みます」
「最初からそう言えばいいのよ」
セリカさんはようやく離れた。
顔が赤い。
でも、私の方がもっと赤い気がした。
長椅子へ向かうと、ホシノ先輩が少し体を起こして、隣を軽く叩いた。
「レナちゃん、こっち。おじさんもまだ完全復帰ってわけじゃないし、一緒に休めば、レナちゃんも逃げにくいでしょ」
「逃げるつもりはないです」
「そうかなぁ。レナちゃん、休んでって言われるとすぐ別の仕事を探すからねぇ」
「……否定しづらいです」
「でしょ」
ホシノ先輩は困ったように笑った。
それから少しだけ声を落とす。
「それにね、おじさんも一人で寝るより、誰かが隣にいてくれる方が今日は楽なんだよ。目を閉じると、まだちょっと面倒なことを考えちゃうからさ。レナちゃんが隣にいたら、ちゃんとここへ戻ってきたって思える気がする」
部屋が静かになった。
ホシノ先輩は、何気なく言ったつもりなのかもしれない。
でも、その言葉は本音に近かった。
ホシノ先輩が、自分でここへ戻ってきたと思うために、私が隣で眠る。
そんなことを言われたら、断れなかった。
「……邪魔じゃないですか」
「邪魔じゃないよぉ。レナちゃんが隣にいたら、おじさんが変なことをしない見張りにもなるしねぇ」
「変なこと、しないでください」
「しないよ。たぶん」
「たぶん?」
「冗談だよぉ」
セリカさんがすぐに言った。
「レナ、見張ってて。ホシノ先輩がまた変なこと考えたら、すぐ起こして」
「私が見張るんですか?」
「そう。で、あんたが動こうとしたら私たちが止める。お互い様でしょ」
理屈は強引だった。
でも、誰も反対しなかった。
私はホシノ先輩の隣に座る。長椅子は広くはない。でも、二人で横になるくらいならなんとかなる。ホシノ先輩は少し端へ寄ってくれた。私は毛布を抱えたまま、どこに腕を置けばいいのか分からなくなる。
「緊張してる?」
「します」
「正直でいいねぇ」
ホシノ先輩は小さく笑う。
「大丈夫。何もしないよ。嫌だったらすぐ起きる。嫌じゃなかったら、少しだけ目を閉じて。アビドスで眠っても、ちゃんと起きられるって分かった方が、次に来る時も楽でしょ」
次に来る時。
当然のように言われた。
「……嫌じゃないです」
そう答えると、ホシノ先輩は目を細めた。
「そっか」
短い声だった。
でも、すごく嬉しそうだった。
私はホシノ先輩の隣に横になった。
近い。
近いけれど、怖くはなかった。
ホシノ先輩の体温が毛布越しに伝わる。病み上がりで、まだ少し頼りない温度。けれど、ちゃんとここにいる温度だった。
ノノミさんが、私たち二人に毛布をかけてくれる。
「はい。これで二人とも動けませんね」
「ノノミちゃん、ちょっと楽しそうだねぇ」
「はい。楽しいです。ホシノ先輩もレナちゃんも、今日はちゃんと休んでくれるので」
アヤネさんが照明を少し落とした。
「仮眠時間は二十分から三十分を目安にします。体調に変化があれば、すぐに言ってください。特にホシノ先輩は隠さないこと。レナさんも、眠れない場合は無理に眠ろうとしなくて構いません」
「私も対象なんですね」
「当然です」
アヤネさんは、そこで少しだけ声を柔らかくした。
「眠れなくても、横になっているだけで休養になります。だから、目を閉じていてください。私たちはここにいます」
セリカさんは長椅子の近くの椅子に座った。
「私はここ。何かあったらすぐ言って」
「セリカちゃん、そんな近くにいなくても」
「います」
「うへぇ」
「文句あるんですか」
「ないです」
シロコさんは扉の近くを一度確認してから、私の席の近くに座った。出入口と長椅子の両方が見える位置だった。
誰も、私たちを一人にはしない。
私は目を閉じる。
最初は、眠れないと思った。
部屋の中には人がいる。セリカさんが椅子に座り直す音。ノノミさんがカップをそっと片づける音。アヤネさんが端末を操作する小さな音。シロコさんの静かな気配。隣のホシノ先輩の呼吸。
でも、それらはだんだん、気になる音ではなくなっていった。
いる。
みんな、いる。
そのことを確認する音に変わっていく。
「レナちゃん」
隣でホシノ先輩が小さく呼んだ。
「はい」
「ここ、怖くない?」
「……怖くないです」
「そっかぁ」
少しだけ間があった。
「それなら、よかった」
ホシノ先輩の声が、すごく小さくなる。
「レナちゃんがここで目を閉じてくれるなら、おじさんたちはまだ、ちゃんと怖くない場所を作れてるって思えるから」
返事をしようとした。
でも、眠気が少しずつ体を引いていく。
言葉がうまく出なかった。
代わりに、私は毛布の端を少しだけ握った。
ホシノ先輩はそれ以上何も言わなかった。
部屋の音が遠くなる。
誰かが毛布を少し整えた。
たぶん、ノノミさん。
誰かがカップを机に置く音を、できるだけ小さくした。
たぶん、セリカさん。
端末の光が、瞼の裏から遠ざかった。
たぶん、アヤネさん。
出入口の方で、わずかに床が鳴った。
たぶん、シロコさんが扉を確認した。
私は、眠った。
アビドスの部屋で。
ホシノ先輩の隣で。
私のカップと、私の席と、私の救護バッグの置き場所がある部屋で。
◇
目を開けた時、最初に見えたのは毛布だった。
次に、長椅子の端。少しだけ視線を動かすと、隣でホシノ先輩が目を閉じている。寝たふりなのか、本当に眠っているのか分からない。でも、呼吸は穏やかだった。昨日や救出直後に見た浅い呼吸ではなく、少しだけ深い。
私は起き上がろうとして、途中で止まった。
見られていた。
シロコさんが、扉の近くからこちらを見ている。
セリカさんは椅子に座ったまま、腕を組んでいた。寝ていない。たぶんずっと起きていた。ノノミさんはお茶のおかわりを用意している途中で、手を止めている。アヤネさんは端末を持ったまま、画面ではなく私の方を見ていた。
「……私、寝てました?」
「寝てた」
シロコさんが言った。
「結構ぐっすり」
セリカさんが続ける。
「かわいかったですよ」
ノノミさんが笑う。
「仮眠としては十分な効果があったと思います。次回以降も予定に組み込む価値があります」
アヤネさんが真面目に言う。
私は毛布を少し引き上げた。
「見ないでください……」
「もう見た」
シロコさんはいつも通りだった。
「起きるまで確認した。ちゃんと起きたから、よかった」
よかった。
その一言が、思ったより深かった。
ただ眠って、起きただけ。
それだけなのに、みんなの顔が少し違う。セリカさんは怒ったような顔をしている。でも、目元の力がさっきより柔らかい。ノノミさんは笑っている。でも、笑顔の奥に何かが満ちている。アヤネさんは記録するふりをしている。でも、端末を持つ手が少しだけ震えている。
ホシノ先輩が、隣で片目を開けた。
「レナちゃん、ちゃんと寝てたねぇ」
「ホシノ先輩も起きてたんですか?」
「少しだけねぇ。でも、途中からおじさんも寝てたよ。レナちゃんが隣にいると、変に考えすぎないで済むみたいだねぇ」
「それなら、よかったです」
「うん」
ホシノ先輩は、少しだけ笑った。
「……ちゃんと、ここで寝てくれるんだね」
小さな声だった。
でも、部屋の中に落ちた。
私には、その言葉の重さをすぐには掴めなかった。ただ眠っただけだと思っていたから。休養計画だから、横になって、目を閉じて、少しだけ眠った。それだけのはずだった。
でも、アビドスのみんなにとっては、そうではなかったのだと思う。
私がここで目を閉じたこと。
呼吸を預けたこと。
起きた時に、ここを怖がらなかったこと。
それは、ただの仮眠ではなかった。
セリカさんが立ち上がって、私のカップを持ってきた。
「寝起き。飲みなさい。急に立つのは禁止。今日はもう作業も禁止。さっき寝られたからって、休養計画が終わったわけじゃないからね」
「まだ続くんですか?」
「続くわよ。あんたがここで寝られるって分かったんだから、次からもっとちゃんと休ませるに決まってるでしょ」
決まっている。
セリカさんはそう言った。
私がここで眠ることに、次があるみたいに。
カップを受け取る。
温かい。
さっきより、少しだけ甘い。寝起きだから飲みやすいように変えられている。誰が調整したのか、聞かなくても分かった気がした。
「おいしいです」
「知ってる」
セリカさんが小さく言った。
「……あんたが、こういう時は少し甘い方が飲みやすいって、前に言ってたから」
「覚えてくれてたんですね」
「だから、そういうのを真っ直ぐ言うなってば」
セリカさんは顔を赤くして、少し離れた椅子に戻った。
ノノミさんが、毛布の端を直す。
「次は、もう少し長く眠れるようにしましょうね。レナちゃんがここで休めるなら、私たち何度でも準備します。カップも、毛布も、お菓子も、ちゃんと置いておきますから」
「そんなに準備してもらうのは」
「したいんです」
ノノミさんは、にこりと笑った。
「レナちゃんのために何かを用意できるのが、嬉しいんです。だから、遠慮されると少し困ります」
嬉しい。
その言葉が、少しだけ重い。
ノノミさんは私を甘やかしている。
でも、ただ甘やかしているのではない。私のために用意したものを、私が受け取る。そのこと自体が、ノノミさんにとって安心になっている。
アヤネさんが端末を操作する。
「今後の予定に、休養時間を追加します。名称は……そうですね、『対策委員会室内休養』としておきましょうか」
「すごく正式ですね」
「正式にしておけば、レナさんが遠慮しても実行できます」
「遠慮する前提ですか?」
「はい」
アヤネさんは少しだけ笑った。
「ですが、これはレナさんだけのためではありません。レナさんが安心して眠っている様子を見ると、私たちも少し安心します。ですから、これは対策委員会側にも必要な時間です」
私たちにも必要。
その言葉で、胸がぎゅっとなる。
私は甘やかされている。
でも、それだけではなかった。
アビドスのみんなは、私を休ませているようで、自分たちも休もうとしている。私がここで眠ることが、みんなにとっての手当てにもなっている。
そんなふうに言われたら、断りにくい。
断りたくないと思ってしまう。
「……じゃあ」
私はカップを持ったまま、少しだけ迷った。
「また、休みに来てもいいですか」
言ってから、自分で驚いた。
部屋が静かになった。
シロコさんの視線がまっすぐこちらに向く。
セリカさんが目を丸くする。
ノノミさんが口元に手を当てる。
アヤネさんの端末を打つ指が止まる。
ホシノ先輩が、ほんの少しだけ笑った。
「レナちゃん」
ホシノ先輩が言う。
「それ、アビドスで言うと大変だよぉ」
「え?」
「ここにいる子たち、そういうの本気にするからねぇ」
軽い声だった。
でも、誰も否定しなかった。
シロコさんが言う。
「本気にする」
短く、まっすぐに。
セリカさんが顔を赤くして、でも目を逸らさずに言う。
「自分で言ったんだから、ちゃんと来なさいよ。休みに来るって言ったなら、こっちはそのつもりで待つから。来ないなら来ないで、ちゃんと連絡しなさい」
ノノミさんが微笑む。
「はい。いつでも来てください。レナちゃんがここで休むためのものは、ちゃんと用意しておきます。来た時に、すぐ座れるようにしておきますね」
アヤネさんが、ゆっくり端末へ入力を始める。
「では、次回来訪予定に休養時間を設定します。レナさんの負担にならない範囲で、定期的に組み込みましょう。無理に来る必要はありませんが、来る場所があることは覚えておいてください」
みんなが、自然に受け取った。
私がまた来ることを。
私がここで休むことを。
それが、もう当たり前みたいに。
「……はい」
私はカップを両手で持ったまま、小さく頷いた。
「また来ます」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
柔らかくて、温かくて、でも重い。
何かが、また一つ増えた気がした。
ただ眠っただけだった。
ただ、また来ると言っただけだった。
でも、アビドスのみんなの中で、それはただの約束ではなかったのだと思う。
私がここで眠る。
ここで起きる。
ここにまた来る。
その一つ一つが、少しずつ部屋の中に根を張っていく。
窓の外で、砂が鳴った。
私はカップに口をつける。
温かい。
甘い。
アビドスの味がした。
その味を覚えてしまったことを、まだ少し怖いと思う。
でも、嫌じゃなかった。
嫌じゃないまま、私はもう一度、毛布を膝に引き寄せた。
シロコさんが、私の救護バッグの置き場所を確認している。
セリカさんが、照れ隠しみたいに腕を組んでいる。
ノノミさんが、おかわりを用意している。
アヤネさんが、私の次の予定を端末に書き込んでいる。
ホシノ先輩が、長椅子の上で眠そうに笑っている。
帰る時間のことを、誰もまだ言わなかった。
私も、言わなかった。
もう少しだけ。
この部屋で、休んでいたかった。
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百合って綺麗だから綺麗に終わって
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曇らせドロドロ依存エンド希望