戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
「帰る」、と言った瞬間、部屋の空気が少しだけ止まった。
それは、誰かが大きく息を呑んだとか、椅子を鳴らしたとか、そういう分かりやすい変化ではなかった。セリカさんが持っていた布巾を畳む手を止めて、ノノミさんがお茶の缶に伸ばしていた指を少しだけ浮かせたままにして、アヤネさんの端末を打つ音が一拍遅れて、シロコさんの視線が窓から私へ移って、ホシノ先輩が長椅子の上で片目を開けた。
それだけ。
それだけなのに、私は自分が言った言葉の大きさを、遅れて理解した。
「今日の夕方には、一度トリニティに戻ります。ミネ先輩に正式な報告をしないといけませんし、アビドスで使わせてもらっている救護用品の補充も相談したいので」
言い終えてから、少しだけカップを持つ指に力が入った。
別に、もう来ないと言ったわけではない。
アビドスからいなくなると言ったわけでもない。
ただ、一度戻るだけだ。救護騎士団には救護騎士団の仕事がある。ミネ先輩にも報告しないといけない。あの人はきっと、私の話を最後まで聞いたあとで、まずリボンの角度を見て、それから「よく戻りました」と言うのだと思う。
それは大切な場所だ。
私が帰る場所だ。
だからこそ、普通に言ったつもりだった。
でも、アビドスの部屋の中では、その言葉が普通の重さでは落ちなかった。
「……そっか」
最初に言ったのは、セリカさんだった。
声はいつも通りにしようとしていた。でも、ほんの少しだけ遅かった。言葉を選んだのではなく、口に出すまでに胸の奥で引っかかったみたいな間だった。
「まあ、そりゃそうよね。あんた、救護騎士団だし。こっちにずっといるわけじゃないし」
「はい。でも、また来ます」
「それは分かってる」
セリカさんはすぐに言った。
少し強かった。
「分かってるけど、分かってるのと、はいそうですかってできるのは別でしょ」
そこまで言ってから、セリカさんは自分の言葉に気づいたみたいに目を逸らした。
ノノミさんが柔らかく笑った。
「夕方まで、まだ時間はありますね」
「はい。少しだけですけど」
「少しだけ、ですか」
ノノミさんの笑顔はいつも通りだった。
けれど、その言い方だけが少しだけ違った。少しだけという言葉を、指先で摘まんで、そんなに小さくしなくてもいいのに、と見つめているみたいだった。
「では、その少しだけを、ちゃんと使いましょう」
「使う?」
「はい。レナちゃんを送り出すための時間です」
送り出す。
その言葉は優しかった。
優しかったのに、胸の中でなぜか少し重く響いた。
アヤネさんが端末を置いた。
「レナさん、帰還予定時刻と経路を確認させてください。トリニティへ戻るのでしたら、シャーレ経由ですか。それとも救護騎士団へ直接?」
「えっと、先生に連絡して、途中まではシャーレ側の車両を使わせてもらえると思います。その後はトリニティへ」
「では、予定表に入れます」
「予定表に?」
「はい。帰宅予定と次回来訪予定は、対で管理した方が安全です」
アヤネさんは真面目に言った。
でも、その目は端末ではなく私を見ていた。
「次回来訪予定が空欄のままだと、こちらとしても確認がしづらいです。安全管理上、予定を入れておく必要があります」
「安全管理上……」
「はい」
嘘ではないのだと思う。
でも、全部でもないのだと思った。
シロコさんが立ち上がった。
「ルート、見る」
「シロコさん?」
「帰る道。確認する。危ない場所があるなら、変える」
「大丈夫です。先生もいますし、私も前より道は覚えましたから」
「歩けるのは知ってる」
シロコさんは短く言った。
「でも、歩けることと、見送れることは違う」
部屋が、また静かになる。
その言葉は、シロコさんにしては長かった。だからこそ、重かった。私が一人で歩けることを疑っているわけではない。弱いと思っているわけでもない。ただ、見えなくなることを、そのまま受け入れられるかは別だと言っている。
「……分かりました。あとで一緒に確認しましょう」
「今」
「今?」
「帰る準備は、先にする」
シロコさんはそう言って、私の救護バッグの方へ歩いた。
いつもの場所。
レナさん用、と書かれた札の下。
そこに置かれたバッグに、シロコさんが手を伸ばす。勝手に開ける前に、一度だけ私を見た。確認する目だった。
「開けていい?」
「あ、はい。お願いします」
シロコさんが救護バッグを開ける。
中に入っている包帯、水、布、救護用の小物を一つずつ確認する。手つきは丁寧だった。でも、どこか淡々としている。感情を隠しているわけではなく、感情があるからこそ手順に逃がしているみたいだった。
「水、一本足りない」
「え、そうですか?」
「帰り道用。予備。アビドスを出た後、すぐ飲める場所に入れる」
「そこまでしなくても」
「する」
シロコさんは、机の上に置いてあった予備の水を取った。
それをバッグの外ポケットに入れる。
「ここ。すぐ取れる」
私のバッグなのに、アビドスの手で中身が整えられていく。
その光景を見ていると、少しだけ息がしづらかった。
帰る準備をしているはずだった。
なのに、帰るための荷物の中に、アビドスが少しずつ入っていく。
「セリカちゃん、包みは?」
「今持ってくるってば」
ノノミさんに言われて、セリカさんが棚の方へ向かった。
戻ってきた手には、小さな布包みがあった。茶色の布で、端がきれいに折られている。セリカさんはそれを私に渡す前に、なぜか一度自分で握り直した。
「これ。途中で食べる用」
「ありがとうございます。でも、私、さっきお昼もいただいたので」
「途中でお腹空くかもしれないでしょ。あと、ミネ先輩に渡してもいいし。……別に、あんたにだけ持たせるつもりじゃないから」
「ミネ先輩に?」
「そうよ。いつもレナがお世話になってますっていうか、アビドスでもちゃんと見てますっていうか、そういう……そういうやつよ」
後半になるほど、セリカさんの声が小さくなっていく。
私は布包みを両手で受け取った。
少し温かい。
焼き菓子だろうか。包みの隙間から、ほんのり甘い匂いがした。
「セリカさんが作ってくれたんですか?」
「違う!」
即答だった。
でも、ノノミさんが微笑む。
「セリカちゃん、朝から焼き加減を気にしていましたよね」
「ノノミ先輩!」
「焦がさないように、何度も見ていました」
「言わなくていいです!」
セリカさんは真っ赤になった。
私は布包みを見つめる。
たぶん、ここで笑うと怒られる。
でも、胸の中が柔らかくなって、どうしても口元が緩みそうになった。
「ありがとうございます。大事に食べます」
「大事にしすぎて食べないのはなしだから。今日中。遅くても明日。湿気るとおいしくなくなるし」
「はい」
「あと、途中で一人で全部食べないで。ちゃんと座れる場所で、水飲みながら食べること。歩きながら食べたら怒るから」
「そこまで確認しますか?」
「するわよ!」
セリカさんは布包みを私のバッグに入れようとして、途中で止まった。
それから、少しだけ迷った顔をして、バッグの紐に小さな布を結んだ。
アビドスでよく見かける、砂除けに使う薄い布だった。色は淡い青。端がきれいに畳まれている。
「これは?」
「目印」
「目印?」
「アビドスで預かったもの、って分かるでしょ。……別に深い意味はないから」
深い意味はない。
そう言いながら、セリカさんは布の結び目を少し強くした。
私の救護バッグに、アビドスの色が増える。
胸の奥が、また少し重くなる。
「セリカさん」
「何」
「嬉しいです」
「だから、真っ直ぐ言うなって言ってるでしょ……」
セリカさんは顔を逸らした。
でも、布はほどかなかった。
ノノミさんは机の上に、小さな袋をいくつも並べていた。
お菓子。予備の布。日差し除けの薄いスカーフ。冷却材。小さなメモ。あまりにも数が多くて、私は思わず瞬きをした。
「あの、ノノミさん」
「はい」
「これは全部……?」
「全部持たなくてもいいんです。選んでくださいね」
「選ぶ前に、かなり多いです」
「はい。分かっています」
ノノミさんは笑っていた。
でも、その笑顔に少しだけ困ったような色が混ざる。
「レナちゃんに持っていってほしいものを考えていたら、少しずつ増えてしまいました。困らせたいわけではないんです。でも、これがあったら帰りに楽かなとか、これはミネさんたちに渡せるかなとか、これは次に来る時までレナちゃんのそばに置いてもらえるかなとか、そう考えていたら、手が止まらなくなってしまって」
言葉は柔らかい。
でも、その内容は少し重かった。
次に来る時まで。
私のそばに。
ノノミさんは、アビドスにいない時間の私のことまで考えている。私がトリニティへ戻った後、救護騎士団の部室にいる時、ミネ先輩へ報告する時、バッグの中から取り出す時。そこに、アビドスの何かが一緒にあればいいと思っている。
「……全部は持てませんけど」
「はい」
「でも、少し選びます」
ノノミさんの笑顔が、少しだけ深くなった。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方です」
「いいえ。受け取ってもらえるのが、嬉しいんです」
ノノミさんはそう言って、小さな袋を一つ手に取った。
「これは、日差しが強い時に使ってください。レナちゃん、日差しで少し顔色が悪くなる時がありますから」
「そんなところまで見ていたんですか?」
「見ていますよ」
ノノミさんは当たり前みたいに言った。
「レナちゃんがここに来るようになってから、見るものが増えました。お茶を飲む速度とか、疲れた時のまばたきとか、帰る時間が近づいた時に少しカップを握る癖とか」
私は思わず自分の手を見た。
カップは持っていない。
でも、言われると心当たりがある気がした。
「……そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすいところもありますし、分かりにくいところもあります。だから、もっと見たいんです」
ノノミさんは、さらっと言った。
もっと見たい。
その言葉が、思ったより近くに来た。
「レナちゃん、少しだけいいですか?」
「はい」
ノノミさんは、私の肩にかかっていた救護騎士団のリボンを見た。
触れる前に、手を止める。
「リボン、少しだけ整えてもいいですか? 羽根にも髪にも触れません。リボンだけ」
「あ……はい。お願いします」
ノノミさんの指が、リボンに触れる。
とても丁寧だった。
トリニティのリボン。救護騎士団の証。ミネ先輩なら一目で角度のずれを指摘するそれを、ノノミさんが静かに整えている。アビドスの部屋で、アビドスの人の手で、私の帰る場所の印が直されている。
変な感じがした。
でも、嫌ではなかった。
「はい。きれいになりました」
「ありがとうございます」
「ミネさんに、アビドスでも大事に整えていましたって伝えてくださいね」
ノノミさんは笑った。
その言葉は冗談みたいだった。
でも、冗談だけではなかった。
救護騎士団のレナを否定するのではなく、そのままアビドスの中へ入れようとしている。
私はそのことに気づいて、少しだけ胸が詰まった。
アヤネさんは、端末を見ていた。
ずっと何かを入力している。帰還予定。次回来訪予定。補充物資。連絡先。たぶんそういうものだろうと思っていたけれど、画面を覗くと、項目の数が思っていたより多かった。
「アヤネさん」
「はい」
「その予定表、少し細かくないですか?」
「細かいです」
「自覚ありなんですね」
「はい。自覚した上で細かくしています」
アヤネさんは端末から目を上げた。
「次に来る日を、仮でもいいので入れておきたいです。帰る予定だけがあって、戻ってくる予定が空欄のままだと、落ち着かないので」
声は落ち着いていた。
でも、内容は落ち着いていなかった。
「もちろん、レナさんを縛りたいわけではありません。救護騎士団の予定も、先生の都合も、アビドス側の状況もあります。変更が必要なら変更します。ただ、予定表にレナさんの名前がない日が続くのを想像すると……少し、怖いんです」
アヤネさんの指が、端末の端を押さえる。
「レナさんが来る日は、部屋の空気が少し違います。私が勝手にそう感じているだけかもしれません。でも、その日が予定表にあるだけで、そこまで頑張れる気がするんです」
私は何も言えなかった。
アヤネさんは理性的だ。数字を見て、記録を取り、状況を整理する。そのアヤネさんが、予定表に私の名前がないと不安になると言っている。
それは、管理ではなく、祈りに近い気がした。
「……では、仮で入れてください」
私は言った。
「来週の同じ曜日。先生とミネ先輩にも確認しますけど、たぶん来られると思います」
アヤネさんの目が、少しだけ見開かれる。
「来週の同じ曜日ですね」
「はい」
「仮予定として登録します。変更があれば、必ず連絡してください。連絡がないまま予定が消えるのは……少し、困ります」
「はい。必ず連絡します」
アヤネさんは端末に入力した。
その指先が、さっきより少しだけ落ち着いて見えた。
シロコさんは、帰路を確認していた。
地図を机に広げ、赤い線で危険な場所を消し、青い線で安全な道を示している。私が見ても分かるように、短いメモがついていた。砂が深い。標識倒壊注意。日陰あり。水分補給地点。シロコさんの字は少しだけ硬くて、でも読みやすかった。
「この道」
シロコさんが指で示す。
「途中まで送る」
「そこまでしてもらわなくても」
「送る」
「でも、先生もいますし」
「送る」
「……はい」
同じ言葉でも、今回は押し切られたというより、もう決まっていることを伝えられている感じだった。
シロコさんは、地図から目を上げる。
「レナが一人で歩けるのは知ってる。でも、見えなくなるまで何もしないでいるのは、少し難しい。途中までなら、見える。見えるところまでなら、我慢できる」
シロコさんの声は静かだった。
でも、その静けさの中に、はっきりした独占欲があった。
見えるところまで。
我慢できるところまで。
それ以上は、まだ難しい。
「……ありがとうございます」
「ん」
「でも、シロコさんも無理はしないでくださいね」
「無理じゃない」
「本当に?」
「送らない方が、無理」
返事ができなかった。
シロコさんはそれだけ言って、地図を畳んだ。
帰る準備は進んでいる。
進んでいるはずだった。
けれど、進むたびに私の荷物はアビドスのもので少しずつ満たされていく。水。焼き菓子。日差し除け。メモ。予定表。小さな布。帰路の地図。リボンを整えてもらった感触。
私を送り出すための準備。
でも、まるで私がアビドスから完全に離れてしまわないように、いくつもの小さな糸を結ばれているみたいだった。
それは、怖いほど甘かった。
◇
夕方が近づくと、対策委員会室の光が少し変わった。
窓から入る日差しが傾いて、机の上のカップや端末の角に薄い影を落としている。昼間より少しだけ砂の色が濃く見えた。帰る時間が近づいていることを、誰も言わなくても全員が分かっていた。
先生からも連絡が来ていた。
もう少しで迎えの車両が来る。
それを聞いた瞬間、部屋の中の動きがゆっくりになった。
セリカさんが、もう確認したはずのバッグをもう一度確認する。ノノミさんが、もう十分入れたはずのお菓子の包みを見ている。アヤネさんが、もう登録したはずの予定表を何度も開く。シロコさんが、畳んだ地図を手に持ったまま離さない。ホシノ先輩は長椅子に座って、眠そうにしているふりをしていた。
ふりだと分かった。
目が、眠くない。
「そろそろ、行かないと」
私は言った。
その瞬間、セリカさんの手が伸びた。
袖を掴まれる。
強くはない。
でも、はっきり止める力だった。
「まだ」
「セリカさん?」
「まだ、飲み物残ってるでしょ」
「もうほとんど」
「ほとんど残ってる」
「それは少し無理が」
「荷物の確認も、最後にもう一回する」
「さっきしましたよ」
「帰るなら、私たちがちゃんと送り出すまで待ちなさいよ」
セリカさんの声が少し震えた。
袖を掴む指に、ほんの少し力が入る。
「……勝手にいなくなられるの、嫌なの。ホシノ先輩だけで十分。あんたまで、気づいたらいないみたいなのは嫌」
部屋が静かになる。
セリカさん自身も、自分の言葉に少し驚いた顔をした。でも、袖は離さなかった。
私は袖を見た。
掴まれている。
帰るのを止められている。
でも、怖くなかった。
「セリカさん」
「何」
「勝手にはいなくなりません」
「……本当?」
「本当です。帰る時は言います。遅れる時は連絡します。次に来る日も、アヤネさんの予定表に入っています」
「予定表だけじゃ足りない」
セリカさんは小さく言った。
「ちゃんと、あんたの口からも言って」
胸の奥が、きゅっとなる。
私はセリカさんを見る。
「また来ます」
はっきり言った。
「アビドスに、また来ます」
セリカさんの顔が歪んだ。
泣きそうな顔だった。
でも、泣かなかった。
「……ならいい」
袖を離す。
でも、その指先が名残惜しそうに布を滑ったことに、気づかないふりをした。
ノノミさんが近づいてくる。
「レナちゃん」
「はい」
「最後に、もう一度だけ。抱きしめてもいいですか」
声は穏やかだった。
でも、前よりも重かった。
何度も聞いてくれる。嫌なら言える。逃げ道はある。なのに、その問いかけの奥に、今離したら本当に帰ってしまうという不安が透けていた。
「……はい」
私が頷くと、ノノミさんはゆっくり腕を伸ばした。
前よりも長かった。
少しだけ。
でも、確かに長かった。
腕の中に入る。羽根には触れない。髪にも触れない。ただ肩と背中を包まれる。優しくて、温かくて、苦しくない。なのに、私が息を吸うたびに、ここにいることを確かめられているみたいだった。
「ごめんなさい」
ノノミさんが小さく言った。
「離さなきゃいけないのは分かっています。レナちゃんには帰る場所があって、待っている人がいて、私たちはそれを大事にしたいんです。でも、今離したら、本当に帰ってしまうんだって思ったら、少しだけ手が遅くなりました」
「ノノミさん」
「はい」
「また来ます」
「はい」
「帰ってきた時も、また……その、こうしてもらっても、大丈夫です」
ノノミさんの腕が、ほんの少し震えた。
「本気にしますよ」
「はい」
「私たち、本当に本気にしてしまいますよ」
「はい」
ノノミさんは、ようやくゆっくり離れた。
でも、離れた後も、手が私の肩の近くに残っていた。
すぐに離れられないみたいに。
アヤネさんが、端末を抱えて立っていた。
「レナさん」
「はい」
「次回来訪予定、仮登録ではなく、確定にしてもいいでしょうか。もちろん、後から変更はできます。ただ、今だけは……仮のままでは、少し落ち着かないので」
アヤネさんの声はいつも通り丁寧だった。
でも、言葉が少しだけ震えていた。
「確定でお願いします」
私が言うと、アヤネさんは一瞬だけ目を閉じた。
それから、端末を操作する。
「確定しました」
「はい」
「……レナさん」
「はい」
「予定表に名前があるだけで安心する、というのは、本当は少し変だと思います。予定は変わるものですし、記録に感情を預けるべきではないとも思います。でも、それでも、次に会える日が見えると、息がしやすくなるんです」
アヤネさんは、端末を胸に抱えた。
「だから、ありがとうございます。来ると言ってくれて。帰っても、次があると言ってくれて」
私は言葉に詰まった。
アヤネさんの言葉は、予定表の形をしている。
でも、その中身は、帰ってほしくないという気持ちだった。
「こちらこそ」
私はなんとか言った。
「待っていてくれるの、嬉しいです」
アヤネさんの目が、少しだけ潤んだ気がした。
シロコさんは、扉の近くに立っていた。
逃げ道を塞いでいるみたいにも見える。
でも、たぶん違う。
見送るために、そこにいる。
「途中まで送る」
「はい」
「それ以上は、先生に任せる」
「はい」
「でも、次は迎えに行く」
シロコさんの声は短かった。
けれど、次という言葉がしっかり入っていた。
「約束ですか?」
「約束」
「じゃあ、待ってます」
「ん」
シロコさんは頷いた。
それから、少しだけ視線を下げた。
「レナが見えなくなるのは、まだ慣れない。でも、次に見える日があるなら、少し待てる」
その言葉は、まっすぐだった。
胸に刺さるくらい。
ホシノ先輩が長椅子からゆっくり立ち上がった。
セリカさんがすぐに「無理しないでください」と言おうとしたけれど、ホシノ先輩は手で制した。
「大丈夫、って言うと怒られるから言わないけど、少し立つくらいはできるよ」
「……ならいいですけど」
ホシノ先輩は私の前まで来た。
いつもの眠そうな顔。
でも、目は笑っていなかった。
「レナちゃん」
「はい」
「おじさんたちは、レナちゃんの帰る場所を奪うつもりはないよ。救護騎士団も、ミネさんも、トリニティも、レナちゃんが帰る大事な場所なんだって分かってる」
ホシノ先輩の声は穏やかだった。
穏やかすぎて、少し怖いくらいだった。
「でもさ、アビドスに置いていったものがあるってことは、忘れないでほしいかなぁ。カップとか、席とか、毛布とか。セリカちゃんが結んだ布とか、アヤネちゃんの予定表とか、シロコちゃんが描いた帰り道とか、ノノミちゃんが用意したお菓子とか」
少しだけ笑う。
「あと、おじさんたちの落ち着かなさとかね」
落ち着かなさ。
軽く言ったはずなのに、その言葉だけで胸が締めつけられた。
ホシノ先輩は続ける。
「レナちゃんがいない間、この部屋はたぶん少し広くなる。カップがあるのに手が伸びないとか、席が空いてるのに誰も座らないとか、そういう小さいことが増えると思う。でも、それはレナちゃんを困らせたいわけじゃなくて……うーん、何て言えばいいのかなぁ」
ホシノ先輩は困ったように笑った。
「おじさんたち、レナちゃんがここにいたことを忘れたくないんだと思う」
誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
私はホシノ先輩を見た。
セリカさんが私の袖を離せなかったこと。
ノノミさんの腕が少し遅く離れたこと。
アヤネさんが予定表に私の名前を欲しがったこと。
シロコさんが見えなくなるのに慣れないと言ったこと。
ホシノ先輩が、部屋が広くなると言ったこと。
全部が、一つの場所に集まっていく。
好き、とは違う気がした。
大事、とも少し違う。
もっと重くて、もっと静かで、もっと逃げ道がなくて。
でも、怖くない。
怖いくらい甘いのに、嫌ではない。
「あの」
私は、ゆっくり言った。
「私は、救護騎士団に戻ります。ミネ先輩にも報告しますし、トリニティにも帰ります。そこは、私にとって大事な場所です」
みんなが私を見ていた。
空気が止まっている。
けれど、今度は怖くなかった。
「でも、アビドスからいなくなるわけじゃないです。ここにも、私のカップがあります。救護バッグの場所もあります。来る予定もあります。私が休める席も、眠れる毛布も、待っていてくれる人たちもいます」
言葉が、少し震えた。
でも、止めなかった。
「だから」
私は息を吸う。
「アビドスも、私にとって帰る場所です」
その瞬間。
部屋の中の時間が、完全に止まった。
シロコさんの目が、ほんの少しだけ開いた。
セリカさんの手が、胸の前で止まった。
ノノミさんの笑顔が、ゆっくり崩れそうになる。
アヤネさんの端末が、指先から落ちそうになって、それでも落ちなかった。
ホシノ先輩の眠そうな目から、軽さが消えた。
誰も、すぐには息をしなかった。
言ってしまった。
そう思った。
でも、撤回したいとは思わなかった。
「……帰る場所」
シロコさんが、ぽつりと言った。
確認するみたいに。
初めて聞いた言葉みたいに。
「レナの、帰る場所」
「はい」
シロコさんは一歩近づいた。
いつもより近い。
でも、触れない。
触れたら、自分でも止まれなくなると分かっているみたいに。
「じゃあ、迎えに行く」
「シロコさん」
「帰る場所なら、迎えに行ってもいい。待ってもいい。探してもいい。レナが帰ってくる道を、私が覚えていてもいい」
短い言葉ではなかった。
シロコさんの声は静かなのに、どこか必死だった。
「……うん。覚える」
それは、私への返事ではなく、自分へ刻む言葉みたいだった。
セリカさんが、口を開いた。
でも、何も言えなかった。
怒った顔を作ろうとして、失敗していた。泣きそうな顔を怒りで隠そうとして、その怒りがうまく形になっていない。
「そういうこと」
ようやく出た声は、震えていた。
「そういうこと、簡単に言わないでよ。こっちは本気にするんだから。帰る場所って言われたら、待つし、席も空けるし、カップも洗うし、来なかったら心配するし、遅れたら怒るし……本当に、本気にするんだから」
「はい」
「分かってるの?」
「分かってます」
「分かってない顔してる」
「すみません」
「謝るところじゃない!」
セリカさんの目に、少しだけ涙が浮かんだ。
でも、落ちなかった。
「……もう。ほんと、ばか」
その声は、すごく優しかった。
ノノミさんは、ゆっくり私の手を取った。
指先が温かい。
両手で包まれる。
さっきの抱擁よりも静かで、でも、逃げにくい温度だった。
「はい。本気にします」
ノノミさんの声は、震えていた。
「レナちゃんがそう言ってくれたこと、私たちはきっと、ずっと覚えています。たぶん、レナちゃんが思っているよりもずっと深く、ずっと長く。だから、忘れないでくださいね。今ここで、アビドスも帰る場所だと言ったことを」
「忘れません」
「本当に?」
「はい」
「では、私も忘れません」
ノノミさんは笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「レナちゃんが帰ってくる場所を、ちゃんと温かくして待っています。お茶も、お菓子も、毛布も、席も、全部。帰ってきた時に、ここはまだレナちゃんの場所だって分かるようにします」
アヤネさんは、端末を見ていなかった。
画面はついたままなのに、指が動かない。
「記録……」
小さく呟いた。
「記録しておきます。いえ、違いますね。これは、記録しなくても忘れられないと思います」
アヤネさんの声が震えた。
「レナさんが、アビドスを帰る場所だと言ってくださった。それを聞いた今の部屋の空気も、セリカちゃんの顔も、シロコ先輩の声も、ノノミ先輩の手も、ホシノ先輩が黙ったことも、たぶん全部、忘れられません」
アヤネさんは端末を胸に抱えた。
「でも、それでも予定表に入れます。次に帰ってくる日として。来訪予定ではなく、帰還予定として」
帰還予定。
その言葉に、胸が熱くなった。
ホシノ先輩は、しばらく黙っていた。
長かった。
ホシノ先輩が何も言わない時間は、時々とても怖い。でも、今の沈黙は逃げるためのものではなかった。言葉を軽くしないように、いつもの冗談で流さないように、何かを探している沈黙だった。
「うへぇ」
やっと、ホシノ先輩が言った。
いつもの口癖。
でも、声が少し掠れていた。
「レナちゃん、それはちょっと、おじさんたちには効きすぎるなぁ」
「効きすぎる……?」
「うん。たぶんね、今の言葉だけで、しばらくアビドスはおかしくなるよ。カップ一つでも、席一つでも、帰ってくるって言葉一つでも、全部大事になっちゃう。もう前みたいに、ただの外から来た子には戻せない」
ホシノ先輩は、私を見る。
眠そうではなかった。
「それでもいい?」
その質問は、すごく重かった。
アビドスの内側に入るということ。
待たれるということ。
帰ってくると思われること。
席を空けられること。
カップを洗われること。
遅れたら心配され、来なかったら胸を痛められ、帰ると言えば袖を掴まれること。
それでもいいか。
ホシノ先輩は、軽く聞いていない。
私は、少しだけ息を吸った。
「はい」
答えた。
「それでも、いいです」
誰かが、息を吐いた。
それが誰だったのか、分からなかった。
もしかしたら全員だったのかもしれない。
その瞬間、アビドスの部屋の中に、何かが決まった気がした。
言葉にできないもの。
約束よりも甘くて、約束よりも重いもの。
私がアビドスへ帰ってくる。
アビドスが私を待つ。
そのことが、もうただの予定ではなくなった。
◇
校門まで、みんなで歩いた。
最初にアビドスへ来た時、私は砂の道で迷いかけて、シロコさんに水を渡された。校舎へ案内されて、扉の向こうで「今さら」と言われた。あの時の私は、アビドスの痛みを何も知らなかった。ここに帰る場所があるなんて、思うはずもなかった。
今は、全員がいる。
先生の車両が少し離れたところで待っている。夕方の砂が柔らかく光っていた。風は強くない。けれど、校門を出ればアビドスの外へ続く道が見える。その道を行けば、シャーレへ、トリニティへ、救護騎士団へ戻る。
帰る場所へ。
そして、また戻ってくる場所から離れる。
シロコさんが、私の救護バッグを肩から下ろして渡してくれた。
バッグには、セリカさんが結んだ淡い青の布が揺れている。
「次は、迎えに行く」
シロコさんが言った。
「はい。待ってます」
「ん」
短い返事。
でも、目が離れない。
セリカさんが一歩前に出る。
「迷ったら怒るから。迷う前に連絡しなさい。あと、着いたらちゃんと連絡。途中で変な人に声かけられてもついていかない。水も飲む。包みも今日中に食べる」
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
「……ならいい」
セリカさんはそう言って、少しだけ目を逸らした。
「行ってらっしゃい、って言うから。ちゃんと帰ってきなさいよ」
行ってらっしゃい。
その言葉が、胸に入ってくる。
ノノミさんが私の手をもう一度握った。
「帰ってきたら、またお茶にしましょうね。今度は、レナちゃんが好きなものをもっと用意しておきます。多すぎたら、ちゃんと多いって言ってくださいね」
「はい」
「でも、少しは受け取ってください」
「はい。受け取ります」
ノノミさんは満足そうに笑った。
アヤネさんが端末を見てから、私を見る。
「次回帰還予定、確定済みです。変更があれば連絡してください。連絡がなくても、こちらから確認する可能性があります」
「確認されるんですね」
「はい。帰る場所ですので」
その言い方が真面目で、でも少しだけ照れていて、私は小さく笑った。
「はい。お願いします」
ホシノ先輩は、最後まで少し後ろにいた。
そして、ゆっくり近づいてきた。
「レナちゃん」
「はい」
「いってらっしゃい」
たった一言だった。
でも、その一言には、今までの全部が入っていた。
最初の距離。
遠くなる背中。
置いていかれた朝。
連れ戻した日。
看病した部屋。
眠った長椅子。
今日、帰る場所だと言ったこと。
その全部を受け取った上で、ホシノ先輩は笑っていた。
「……行ってきます」
私は答えた。
声が少し震えた。
でも、ちゃんと言えた。
行ってきます。
さようならではなく。
また来ますでもなく。
帰る場所へ向かう時の言葉。
その言葉を、アビドスに向けて言えた。
車両へ向かって歩き出す。
数歩進んで、振り返った。
みんなが見ていた。
シロコさんはまっすぐに。
セリカさんは怒ったような顔で。
ノノミさんは泣きそうなくらい優しく。
アヤネさんは端末を胸に抱えて。
ホシノ先輩は、眠そうな笑顔で。
その全員が、私が見えなくなるまで見送るつもりなのだと分かった。
私は胸元のリボンに触れそうになって、やめた。
代わりに、救護バッグの紐に結ばれた淡い青の布をそっと押さえた。
救護騎士団へ帰る。
ミネ先輩へ報告する。
それから、またここへ帰ってくる。
そう思うと、胸の奥に温かくて重いものが満ちていった。
車両の扉が閉まる。
窓の向こうで、アビドスのみんながまだ見ている。
私は手を振った。
全員が、それぞれの仕方で返してくれた。
砂の道がゆっくり遠ざかる。
校門が小さくなる。
それでも、さっきの言葉は消えなかった。
いってらっしゃい。
行ってきます。
アビドスが、私の帰る場所になった日。
その幸せが、胸の奥であまりにも甘くて。
だから私はまだ知らなかった。
そんなふうに温められた場所ほど、壊そうとするものの手が、冷たく見えることを。