戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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20話 帰る場所に傷

 

 

 アビドスへ戻る道を、私は前より少しだけ迷わず歩けるようになっていた。

 

 砂に半分埋もれた標識。風で向きが変わる看板ではなく、壁のひびを目印にすること。右へ曲がると少し遠回りになる角。左側の道は午後になると日差しが強くなること。校門へ近づくにつれて、砂の色が少しだけ変わること。

 

 最初に来た時は、どこまでも同じに見えた道だった。

 

 今は違う。

 

 まだ完全に覚えたわけではない。アビドスの砂は、風が吹けばすぐに形を変える。昨日見えた足跡も、今日はもうない。けれど、分かるものが少しずつ増えている。ここを通った。ここで水を飲んだ。ここでシロコさんが待っていた。ここでセリカさんに、迷ったら怒ると言われた。

 

 そういう記憶が、道に重なっている。

 

 救護バッグの紐には、セリカさんが結んでくれた淡い青の布が揺れていた。

 

 救護騎士団のバッグに、アビドスの布。

 

 最初は少し不思議だったその組み合わせも、今は見慣れてきた。ミネ先輩はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。何か言われると思って身構えたけれど、ミネ先輩は布の結び目を確認してから、ただ一言だけ言った。

 

 きちんと結ばれていますね。

 

 それだけだった。

 

 その言葉が、許されたみたいで嬉しかった。

 

 アビドスへ帰る。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

 帰る、と言っていいのか、まだ少し照れる。でも、この前私は言った。アビドスも、私にとって帰る場所だと。言った以上は、ちゃんと帰りたい。帰って、ただいまと言って、みんなに見られて、少し恥ずかしくなって、それでも席に座りたい。

 

 校門が見えた。

 

 その前に、白い髪があった。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

 シロコさんは、いつも通りそこにいた。

 

 でも、今日は見回りとは言わなかった。言わずに、私の方へ歩いてきた。目が合う。短い沈黙。私は少しだけ息を吸った。

 

「……ただいま、でいいんでしょうか」

 

 言ってから、顔が熱くなった。

 

 でも、シロコさんは笑わなかった。

 

 ただ、少しだけ瞬きをした。

 

「いい」

 

 短い声。

 

 けれど、迷いはなかった。

 

「おかえり、レナ」

 

 胸の奥が、ぎゅっとなった。

 

 たったそれだけだった。

 

 でも、その言葉は、アビドスの砂よりもずっと深く足元へ沈んだ。

 

「……ただいま、シロコさん」

 

「ん」

 

 シロコさんは頷いて、私の横に並んだ。

 

 いつもなら半歩前を歩くのに、今日は隣だった。校門をくぐる時、青い布が風で揺れる。シロコさんの視線がそれを一度だけ見て、それから私を見る。

 

「結び目、残ってる」

 

「はい。セリカさんが結んでくれたので」

 

「ん。よかった」

 

「ほどけたら、セリカさんに怒られそうです」

 

「怒ると思う」

 

 シロコさんは淡々と言った。

 

「でも、結び直すと思う」

 

 それがセリカさんらしくて、私は少しだけ笑った。

 

 対策委員会室へ向かう廊下は、今日は少しだけ明るく見えた。窓から入る砂の光、古い掲示板、昨日アヤネさんが貼り直していた注意書き。何も特別なものはない。それでも、私が帰ってきたことを、廊下そのものが知っているような気がした。

 

 扉の前で、シロコさんが少しだけ立ち止まる。

 

「言う?」

 

「え?」

 

「ただいま」

 

 心臓が跳ねた。

 

 シロコさんは真顔だった。

 

 でも、その目は少しだけ期待しているようにも見えた。

 

「……言います」

 

「ん」

 

 扉が開く。

 

 中には、みんながいた。

 

 セリカさんは机の上の書類を整理していた。ノノミさんはお茶の準備をしている。アヤネさんは端末を持って、こちらを見る前にすでに予定表を開いていた。ホシノ先輩は長椅子に座って、いつものように眠そうにしている。

 

 全員の視線が、私に向いた。

 

 逃げたくなるくらい、温かかった。

 

「……ただいま、です」

 

 声が少し震えた。

 

 部屋の空気が、ふわりと揺れた。

 

 セリカさんが、一瞬だけ口を開けて、それから慌てて顔を逸らす。

 

「遅い」

 

「予定より五分早いです」

 

「そういう問題じゃないの」

 

 セリカさんはそう言いながら、私の席に置いてあったカップを取った。

 

「お茶、もう出せるから。座りなさい」

 

 ノノミさんが微笑む。

 

「おかえりなさい、レナちゃん。今日は少し風が強かったでしょう? 砂、入っていませんか?」

 

「大丈夫です。シロコさんが迎えに来てくれたので」

 

「約束でしたからね」

 

 ノノミさんの目が柔らかく細くなる。

 

 アヤネさんは端末を見る。

 

「帰還予定、予定通りです。次回以降もこの経路で問題なさそうですね。……おかえりなさい、レナさん」

 

 真面目な声の最後だけ、少し優しかった。

 

 ホシノ先輩が、長椅子から手を振る。

 

「おかえり、レナちゃん。うへぇ、ちゃんと帰ってきてくれると、おじさんたちの心臓に優しいねぇ」

 

「心臓に、ですか?」

 

「うん。アビドスの子たちは、待つのが下手だからねぇ」

 

 軽い声だった。

 

 でも、誰も否定しなかった。

 

 私は自分の席へ向かう。

 

 白いカップが置かれる。

 

 救護バッグをいつもの場所に置く。

 

 青い布が棚の下で小さく揺れる。

 

 それだけで、帰ってきたのだと思えた。

 

 アビドスへ。

 

 この部屋へ。

 

 自分の席へ。

 

「レナちゃん、今日は報告のお話を聞かせてもらってもいいですか?」

 

 ノノミさんがカップを差し出しながら言った。

 

「ミネさん、何かおっしゃっていましたか?」

 

「はい。皆さんによろしくと。あと、救護用品の補充については、正式に連携できるよう手配すると言っていました」

 

「正式に……」

 

 アヤネさんの目が少しだけ開く。

 

「それは助かります。物資管理表を更新しないといけませんね」

 

「アヤネさん、嬉しそうです」

 

「嬉しいです。必要な物資の見通しが立つことは、非常に重要ですから」

 

 アヤネさんは真面目に言った。

 

 でも、少しだけ口元が緩んでいた。

 

 セリカさんが、私の救護バッグをちらりと見る。

 

「ミネさん、あの布のこと何か言ってた?」

 

「きちんと結ばれていますね、と」

 

「そ、そう」

 

「あと、ほどけにくい結び方だとも言っていました」

 

「へえ」

 

 セリカさんはそっぽを向いた。

 

「まあ、当然だけど」

 

 私は笑いそうになって、カップに口をつけた。

 

 温かい。

 

 アビドスの味だった。

 

 その味を覚えていることが、今は嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 校舎の外から、低い音がした。

 

 最初は風かと思った。砂が金属板を叩いた時の音に似ていたから。でも、違う。音は一度では終わらなかった。低く、長く、校舎全体を震わせるように響いて、窓の向こうの光が一瞬だけ不自然に揺れた。

 

 シロコさんが立ち上がる。

 

 セリカさんがカップを置く。

 

 ノノミさんの笑顔が消える。

 

 アヤネさんが端末を開く。

 

 ホシノ先輩の目が、眠そうではなくなった。

 

「何……?」

 

 私が言うより早く、外から光が差し込んだ。

 

 夕方の光ではない。

 

 白く、冷たい光。

 

 校庭の方から、巨大なスクリーンのようなものが立ち上がっていた。校舎の壁面にも、窓にも、壊れかけた掲示板にも、同じ映像が投影されていく。機械の羽音。複数の小型投影機が空中に浮かび、砂の上に細い影を落としていた。

 

「カイザーの装置……?」

 

 アヤネさんの声が硬くなる。

 

 画面が明滅した。

 

 そこに、黒い服の男が映る。

 

 黒服。

 

 先生から話は聞いていた。ホシノ先輩に何かを持ちかけた、大人。アビドスの借金や土地の後ろにいた、気味の悪い存在。

 

 でも、私はその顔を見ても、体が固まるほどの反応はしなかった。

 

 ただ気持ち悪い。

 

 そうは思った。

 

 でも、それだけだった。

 

『ご機嫌よう、アビドスの皆様。そして、シャーレの先生』

 

 黒服は、画面の中で丁寧に頭を下げた。

 

 その声が、校舎中に響く。

 

『本日は、皆様にぜひ知っていただきたいものがありまして、このような形でお邪魔いたしました。どうかご容赦を。直接伺うと、少々過激な歓迎を受けそうでしたので』

 

「ふざけんな……!」

 

 セリカさんが叫びかける。

 

 シロコさんはすでに銃を構えていた。

 

 先生が素早くシッテムの箱を確認する。

 

「アヤネ、投影元を」

 

「探しています! ですが複数です。校庭、屋上、外壁側にも信号があります。妨害も入っています!」

 

『さて』

 

 黒服の声が続く。

 

『先日、皆様は彼女を“帰る場所”として迎え入れたようですね。実に美しい。実に尊い。ですが、美しいものを愛するには、その傷も、その壊れかけた姿も、知っておくべきではありませんか』

 

 彼女。

 

 誰のことを言っているのか。

 

 最初は、分からなかった。

 

 分かりたくなかったのかもしれない。

 

 黒服の映像の横に、別の画面が開いた。

 

 ざらついた映像。

 

 古い記録のような、揺れる画面。

 

 音が割れていた。

 

 そして。

 

 そこに、私がいた。

 

 時間が、止まった。

 

 最初、理解できなかった。

 

 画面の中にいる子が、誰なのか分からなかった。制服が乱れている。髪が床に広がっている。羽根が震えている。顔は伏せられている。誰かに押さえつけられて、腕がうまく動いていない。

 

 知らない。

 

 そう思いたかった。

 

 知らない。

 

 違う。

 

 でも、画面の端に映った制服。

 

 その色。

 

 髪の長さ。

 

 羽根の形。

 

 泣き声。

 

 私だった。

 

 息が、止まった。

 

 画面が切り替わる。

 

 床に近い視界。冷たい床。誰かの靴。押さえ込まれる肩。動こうとして、動けない腕。羽根を庇おうとしても、腕が届かない。髪が広がって、その上に影が落ちる。

 

 次の瞬間、髪が踏まれた。

 

 画面の中の私は声を上げた。

 

 短く、潰れた声。

 

 私は、今の私の喉で、その声を聞いた。

 

「え……」

 

 声が出なかった。

 

 画面の中の私は、泣いていた。

 

 泣いているのに、泣き声を抑えようとしていた。抵抗しようとして、力で負けて、また床に押し戻される。羽根が乱暴に引かれ、体がびくりと跳ねる。袖が引っ張られ、制服の襟元が乱れる。誰かが笑っている。画面の外から、記録しておけ、という声が聞こえる。

 

 やめて。

 

 やめて。

 

 見ないで。

 

 見ないで。

 

 見ないで。

 

 言葉が頭の中で叫んでいるのに、口から出ない。

 

 映像は、親切なほど悪意を持って編集されていた。

 

 私が抵抗しているところではなく、抵抗が折れた瞬間。

 

 立ち上がろうとして失敗するところ。

 

 膝をついてしまうところ。

 

 泣きながら首を振るところ。

 

 羽根を庇えず、髪を踏まれて動けなくなるところ。

 

 制服を乱され、身体を丸めて必死に隠そうとするところ。

 

 誰かに助けを求める声が、声にならないところ。

 

 全部。

 

 全部、見られたくないところだけ。

 

 切り取られていた。

 

 アビドスの校庭に。

 

 アビドスの壁に。

 

 私の帰る場所になった場所に。

 

 映されていた。

 

「止めろ!」

 

 セリカさんの叫び声がした。

 

「今すぐ消せ! こんなの、流すな! 見るな、誰も見るなぁぁぁ!」

 

 銃声。

 

 シロコさんが投影機を撃った。

 

 一つが砕ける。

 

 でも、映像は止まらない。

 

 別の壁に切り替わる。校舎の窓に。校庭の仮設スクリーンに。空中の投影に。黒服の声が、どこからでも響く。

 

『おや、乱暴ですね。ですが記録は複数ございます。映像とは、保存されている限り何度でも現れるものです』

 

 記録。

 

 保存。

 

 その言葉が、頭に刺さった。

 

 私は見ていた。

 

 見ているのに、見ていなかった。

 

 目の前の映像と、記憶の中の床が重なる。

 

 足元がなくなる。

 

 私は対策委員会室にいるはずだった。

 

 カップがあって、私の席があって、救護バッグの場所がある部屋。シロコさんがいて、セリカさんがいて、ノノミさんがいて、アヤネさんがいて、ホシノ先輩がいて、先生がいる。

 

 なのに、床が近い。

 

 頬に冷たいものが触れる。

 

 髪が引かれる。

 

 羽根が痛い。

 

 体が動かない。

 

 息ができない。

 

 喉が閉じる。

 

 誰かが笑っている。

 

 画面の向こうではなく、耳元で。

 

「ちが……」

 

 やっと出た声は、声になっていなかった。

 

「ちが、う……見ないで……」

 

 自分の手が、髪に伸びた。

 

 踏まれていない。

 

 今は踏まれていない。

 

 分かっているはずなのに、髪の根元が痛い。頭皮が引きつる。足元に影が落ちる気がして、私は反射的に頭を抱えた。

 

 羽根。

 

 羽根を隠さないと。

 

 見られる。

 

 掴まれる。

 

 引かれる。

 

 私は羽根を庇おうとして、腕がうまく動かなかった。

 

 手が震えている。

 

 指が冷たい。

 

 呼吸が、浅い。

 

 浅いというより、入ってこない。

 

 吸っているのに、空気が喉の手前で止まる。吐けない。吐けないから吸えない。胸の奥が硬くなって、心臓だけが変な速さで鳴る。

 

「レナ!」

 

 誰かが呼んだ。

 

 シロコさんかもしれない。

 

 セリカさんかもしれない。

 

 でも、届かない。

 

 画面の中の私が、泣いている。

 

 屈服している。

 

 力で負けている。

 

 立てない。

 

 動けない。

 

 隠せない。

 

 服を掴まれて、必死に丸くなって、震えている。

 

 あんな姿。

 

 あんな声。

 

 あんな顔。

 

 見られた。

 

 アビドスに。

 

 シロコさんに。

 

 セリカさんに。

 

 ノノミさんに。

 

 アヤネさんに。

 

 ホシノ先輩に。

 

 先生に。

 

 見られた。

 

「や、だ……」

 

 喉が焼けるみたいだった。

 

「見ないで……見ないで、ください……やだ、やだ、やだ、違う、違うの、私、あれ、私じゃ、ない、違う……」

 

 違わない。

 

 分かっている。

 

 私だ。

 

 あれは私だ。

 

 でも、認めたら壊れる。

 

 アビドスに帰ってきた私と、床で泣いている私が同じだと認めたら、もうここに座れない。カップを持てない。セリカさんの布をつけたバッグを持てない。ノノミさんに抱きしめてもらえない。アヤネさんの予定表に名前を入れてもらえない。シロコさんに迎えに来てもらえない。ホシノ先輩にいってらっしゃいと言ってもらえない。

 

 帰る場所が、汚れていく。

 

 私が、汚している。

 

 そんなはずない。

 

 でも、そう思ってしまう。

 

 喉の奥が、引き攣った。

 

 悲鳴より先に、息が壊れた。

 

「あ゛、あ゛……あ゛あ゛あああ゛っ……!」

 

 喉の奥が裂けたみたいな声だった。

 

 悲鳴というより、身体が壊れる音に近かった。自分で出した声なのに、自分のものだと分からない。言葉にしたかったものはたくさんあった。見ないで。消して。違う。お願い。助けて。けれど、その全部が喉の奥で潰れて、掠れた叫びだけになって外へ出た。

 

「み、な……見な、いで……っ、見ないで、くださ……あ゛っ、やだ、やだ、やだぁ……!」

 

 声は途中で裏返り、すぐに枯れた。

 

 それでも止まらなかった。止め方が分からなかった。叫べば映像が消えるわけではない。泣けば時間が戻るわけでもない。分かっているのに、叫ぶ以外に身体の中の恐怖を外へ逃がす方法がなかった。

 

 画面の中の私が、また泣き声を上げる。

 

 それに今の私の喉が引っ張られる。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛っ、あ、あ゛……っ!」

 

 喉が焼ける。

 

 息を吸おうとすると、胸の奥がひゅっと鳴って、空気より先に涙がこぼれた。口を開けても、入ってくるのは息ではなく、過去の床の匂いだった。冷たい床。押さえ込まれた肩。髪の根元が引き攣る痛み。羽根を庇おうとして、届かなかった腕。

 

 今じゃない。

 

 今じゃないのに。

 

 身体だけが、あの時へ戻っていく。

 

 膝が折れた。

 

 床が近づく。

 

 それだけで、身体がばらばらになりそうだった。

 

 床は嫌だ。

 

 床はだめだ。

 

 近づきたくない。

 

 なのに足に力が入らない。手をついた瞬間、冷たさが掌から腕へ走って、映像の中の床と今の床が重なった。

 

「や、だ……床、やだ、やだ……っ」

 

 私は手を引こうとした。

 

 けれど、引いた手をどこに置けばいいのか分からなかった。胸元を掴む。髪を押さえる。羽根を庇う。全部を同時に隠そうとして、何一つ隠せなかった。

 

 恥ずかしい、という言葉では足りなかった。

 

 苦しい、でも足りなかった。

 

 身体ごと消えてしまいたいほどなのに、消えたらあの映像だけが残ってしまう気がして、それがまた怖かった。私がいなくなっても、あの映像だけが残る。私がここにいなくなっても、床で泣いている私だけが、誰かの手の中で何度も再生される。

 

 そんなのは嫌だ。

 

 でも、見られたままここにいるのも嫌だった。

 

「死に、たい……」

 

 掠れた声が、勝手に落ちた。

 

 自分で言ったのに、自分の言葉じゃないみたいだった。

 

「やだ、もう、やだ……見られた、見られた、全部……あ゛、あ゛……死にたい、消して、私ごと、消して……っ」

 

 部屋の空気が、凍った。

 

 その言葉が、アビドスのみんなに何をしたのか、分かる余裕はなかった。

 

 でも、誰かの息が止まる音がした。

 

 誰かが一歩踏み出して、止まる気配がした。

 

 私は頭を抱えたまま震えていた。

 

 画面の中の私は、泣いている。

 

 泣いているのに、止まらない。

 

 記録されている。

 

 保存されている。

 

 見せられている。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい、汚して、ごめんなさい……」

 

「違う!」

 

 セリカさんの声が近くで爆ぜた。

 

 でも、私に怒っている声ではなかった。

 

「違うでしょ! レナのせいじゃない! あんたが謝ることじゃない! 消せ、今すぐ消せよ! 誰がこんなもの持ってていいって言ったのよ! 誰がレナのこんな顔、勝手に見せていいって言ったのよ!」

 

 セリカさんの声が震えていた。

 

 銃声。

 

 投影機がまた一つ壊れる。

 

 でも、映像は消えない。

 

 校舎の別の壁に移る。

 

 音だけが残る。

 

 アヤネさんの声が聞こえた。

 

「信号が分散しています! 主装置がありません、複数の中継から同期して……だめです、壊しても別の装置が引き継いでいます!」

 

「なら全部壊す!」

 

「セリカちゃん、待ってください! レナさんが――!」

 

 アヤネさんの声が途切れた。

 

 たぶん、私を見たのだと思う。

 

 私は床に近いところで震えていた。

 

 床に触れた手を、胸元へ引き寄せて、羽根を庇って、髪を押さえて、息を吸えずにいた。

 

 見ないで。

 

 でも、見て。

 

 助けて。

 

 でも、見ないで。

 

 矛盾した言葉が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まる。

 

 誰かの手が近づいた。

 

 優しい手だったのかもしれない。助けようとしてくれたのかもしれない。けれど、私の身体はそれを判断する前に弾いた。

 

「さわ、らな……っ、あ゛っ、いや……!」

 

 叫んだ瞬間、今度はその言葉に自分で傷ついた。

 

 違う。

 

 違う。

 

 触らないでほしいわけじゃない。

 

 助けてほしい。

 

 そばにいてほしい。

 

 だけど、手が近づくと、誰の手なのか分からなくなる。優しい手と、押さえつけた手の区別がつかなくなる。守ってくれる手と、床に戻す手の違いが分からなくなる。

 

「ちが、違う……ごめ、なさ……私、違うの……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 ノノミさんの声がした。

 

「レナちゃん……」

 

 笑顔が消えているのが、見なくても分かった。

 

「レナちゃん、私は、今すぐ抱きしめたいです。でも、今触れたら怖いかもしれません。だから、ここにいます。触れません。でも、ここにいます。どこにも行きません」

 

 ノノミさんの声が震えていた。

 

「だから、お願いです。映像じゃなくて、声だけでも、今の声だけでも、少しだけ聞いてください」

 

 聞きたい。

 

 でも、映像の音が入ってくる。

 

 私の泣き声。

 

 過去の私の泣き声。

 

 今の私の泣き声。

 

 重なって、どれがどれか分からなくなる。

 

 ホシノ先輩の声がした。

 

「先生」

 

 低かった。

 

 眠そうではなかった。

 

 軽さが一切なかった。

 

「装置の位置、分かる?」

 

「今アロナが追ってる。でも分散が多い。完全停止には少し時間がかかる」

 

「そっか」

 

 それだけだった。

 

 ホシノ先輩は怒鳴らなかった。

 

 銃を構えた音もしなかった。

 

 でも、その静けさが一番怖かった。

 

 見上げられない。

 

 ホシノ先輩の顔を見たら、何かが壊れる気がした。

 

 それなのに、ホシノ先輩は私の前にしゃがんだ。

 

 距離を空けて。

 

 触れない場所に。

 

「レナちゃん」

 

 声が低い。

 

 でも、優しかった。

 

「今、触らないよ。近づきすぎない。だから、声だけ置くね。ここはアビドス。君が帰ってきた場所。画面じゃない。床じゃない。あの場所じゃない」

 

 あの場所じゃない。

 

 その言葉が、少しだけ耳に残った。

 

「見なくていい。目を閉じていい。耳を塞いでもいい。レナちゃんが見たくないものを、これ以上見なくていいように、おじさんたちが止める。すぐに止めるから」

 

 止まっていない。

 

 まだ止まっていない。

 

 でも、ホシノ先輩の声は、私のすぐ前にあった。

 

 私は喉を鳴らした。

 

 声は出なかった。

 

 シロコさんの銃声がまた響いた。

 

「シロコ、無理に追わないで!」

 

 先生の声。

 

「でも、止まらない」

 

 シロコさんの声は低かった。

 

「止める」

 

「止めるわ。だけど今、レナが――」

 

 短い沈黙。

 

 シロコさんがこちらを見たのだと思う。

 

 銃声が止まった。

 

 足音が近づく。

 

 シロコさんが、私の少し横に膝をついた。

 

 触れない。

 

 でも、近い。

 

「レナ」

 

 短い声。

 

 私は反応できない。

 

 シロコさんは、もう一度言った。

 

「レナ」

 

 その声は、撃つよりも、走るよりも、ずっと苦しそうだった。

 

「見ない。私は、あれを見ない。今のレナを見る」

 

 今の、私。

 

 今の私って何。

 

 床で震えている。

 

 泣いている。

 

 息ができない。

 

 髪を押さえて、羽根を庇って、触らないでと叫んで、謝って、汚したと言っている。

 

 死にたいと、言ってしまった。

 

 そんな私を、見られたくない。

 

 でも、シロコさんは続けた。

 

「映像じゃない。今ここにいるレナを見る。怖いなら、怖いままでいい。泣くなら、泣くままでいい。消えなくていい」

 

 消えなくていい。

 

 その言葉で、喉の奥がひゅっと鳴った。

 

 息が少し入る。

 

 苦しい。

 

 でも、少しだけ入った。

 

 その瞬間、画面が揺れた。

 

 映像が乱れる。

 

 先生のシッテムの箱が強く光っていた。アヤネさんが端末を操作し、ホシノ先輩が低い声で指示を出し、シロコさんが最後の投影機を撃ち落とす。

 

 画面が途切れる。

 

 黒服の映像が、最後に映った。

 

『皆様の愛情が、より正しい形へ向かうことを願っています。傷を知ることは、所有の形を変える。どうぞ、彼女を大切に』

 

 最低な言葉だった。

 

 その言葉を最後に、映像は消えた。

 

 音が消える。

 

 校庭から、白い光が消える。

 

 窓に映っていた映像も消える。

 

 でも、私の頭の中では消えなかった。

 

 床。

 

 髪。

 

 羽根。

 

 泣き声。

 

 押さえつけられる肩。

 

 記録しておけ、という声。

 

 見られた。

 

 見られた。

 

 見られた。

 

 私は崩れたまま、動けなかった。

 

 喉は痛くて、声が出ない。

 

 涙だけが落ちる。

 

 誰もすぐには近づかなかった。

 

 たぶん、みんな触れたかったのだと思う。抱きしめたかったのだと思う。隠したかったのだと思う。私の目を塞いで、耳を塞いで、もう何も見せないようにしたかったのだと思う。

 

 でも、誰もすぐに触れなかった。

 

 さっき私が、触らないでと叫んだから。

 

 そのことを、みんな覚えていた。

 

 覚えてくれていた。

 

「レナ」

 

 先生の声がした。

 

「ここにいるわ。誰も勝手に触らない。息を、少しずつでいい」

 

 息。

 

 吸う。

 

 入らない。

 

 吸う。

 

 少しだけ入る。

 

 吐く。

 

 吐けない。

 

 また詰まる。

 

 私は震えながら、床から手を離そうとした。

 

 手が動かなかった。

 

 床が怖い。

 

 でも、床から離れられない。

 

「……や、だ」

 

 掠れた声が出た。

 

「床、やだ……」

 

 その瞬間、セリカさんが動きかけて、止まった。

 

 ノノミさんの手が胸の前で震えている。

 

 アヤネさんが、泣きそうな顔で唇を噛んでいる。

 

 ホシノ先輩が、少しだけ息を吸った。

 

「レナちゃん」

 

 ホシノ先輩が聞いた。

 

「触れてもいい?」

 

 その言葉で、胸が痛くなった。

 

 触れてもいい?

 

 ミネ先輩の声を思い出す。

 

 怖くない手。

 

 触れる前に聞いてくれる手。

 

 私はすぐには頷けなかった。

 

 怖かった。

 

 でも、床も怖かった。

 

 ここにいるのも怖い。

 

 一人でいるのはもっと怖い。

 

 私は震える指を、ほんの少しだけ伸ばした。

 

 誰に向けて伸ばしたのか、自分でも分からなかった。

 

 でも、シロコさんが一番近かった。

 

 シロコさんは、すぐには掴まなかった。

 

 私の指先の少し前で、自分の手を止めた。

 

「私?」

 

 短く聞く。

 

 私は小さく頷いた。

 

 頷けたのかどうかも分からないくらい、ほんの少しだった。

 

 でも、シロコさんは分かってくれた。

 

 指先に、温度が触れた。

 

 強く握らない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 その手だった。

 

「レナ」

 

 シロコさんが言う。

 

「ここ。今、ここ」

 

 私は息を吸った。

 

 少しだけ。

 

 痛い。

 

 でも、入った。

 

「映像じゃない。床じゃない。ここ」

 

 シロコさんの手が、少しだけ私の指を包む。

 

 その手に引っ張られるように、私は今の部屋を見た。

 

 セリカさんがいる。

 

 顔がぐちゃぐちゃだった。泣いているのか怒っているのか分からない顔で、でも私から目を逸らしていなかった。

 

「見たくて見たんじゃない」

 

 セリカさんが言った。

 

 声が震えていた。

 

「でも、見ちゃった。だから、もう忘れたふりはできない。でも、あれだけがレナだなんて、絶対に言わせない。あんな切り取られ方で、あんたのことを決めさせたりしない」

 

 セリカさんは拳を握っていた。

 

「レナは、ここにいる。今、ここにいる。私、そっちを見る。そっちしか見ない」

 

 ノノミさんが、一歩近づいた。

 

 でも、触れない距離で止まった。

 

「レナちゃん」

 

 声は柔らかかった。

 

 けれど、今までよりずっと低い場所から出ていた。

 

「私は、今すぐレナちゃんを隠したいです。誰の目にも触れない場所へ連れていって、もう二度とあんなふうに見られないようにしたいです。でも、それは私がしたいことで、レナちゃんが望んだことかは分かりません。だから、今は聞きます。ここにいてもいいですか。少し近くにいても、いいですか」

 

 私は、ノノミさんを見た。

 

 視界が滲んでいる。

 

 それでも、ノノミさんが泣いているのが分かった。

 

 笑っていない。

 

 笑おうともしていない。

 

 ただ、私を見ていた。

 

 私は、小さく頷いた。

 

 ノノミさんは近づいた。

 

 でも、触れない。

 

 すぐそばに膝をつく。

 

 それだけで、少しだけ部屋が狭くなった。

 

 怖くない狭さだった。

 

 アヤネさんが、端末を床に置いた。

 

 いつも離さない端末を。

 

 両手を空けて、でも触れずに、私の前に座る。

 

「レナさん」

 

 声が震えている。

 

「私は、記録が好きです。正確に残すことは、必要なことだと思っています。でも、あれは違います。あんなものは記録ではありません。レナさんを傷つけるために切り貼りされた暴力です。保存されていたことも、編集されたことも、見せられたことも、全部、間違っています」

 

 アヤネさんの目から、涙が落ちた。

 

「だから、私が消します。探します。複製も、信号も、全部。今すぐ全部は無理でも、必ず追います。二度と、あんな形でレナさんを使わせません」

 

 ホシノ先輩は、最後に口を開いた。

 

 表情は、まだ消えていた。

 

 でも、声は少しだけ戻っていた。

 

「レナちゃん」

 

「……」

 

「おじさん、今すごく怒ってる」

 

 静かな声だった。

 

「怒鳴れないくらい怒ってる。何かを壊しに行きたいくらい怒ってる。でも、今一番見たいのは、あの映像じゃない。黒服でもない。ここにいるレナちゃんだよ」

 

 ホシノ先輩は、触れないまま続ける。

 

「あれを見たからって、レナちゃんが汚れたわけじゃない。ここが汚れたわけでもない。汚したのは、あれを撮って、残して、見せたやつだよ。レナちゃんじゃない」

 

 その言葉で、私はまた泣いた。

 

 声は出なかった。

 

 ただ、喉の奥で壊れた音がした。

 

「……ごめ、なさ」

 

「謝らない」

 

 ホシノ先輩の声が、少しだけ強くなった。

 

「今だけは、謝らないで。謝るのは、レナちゃんじゃない」

 

 シロコさんの手が、ほんの少しだけ強くなる。

 

「謝らない」

 

 セリカさんも言った。

 

「謝ったら怒る」

 

 ノノミさんが、涙を拭わずに言った。

 

「謝らないでください。お願いですから」

 

 アヤネさんが頷いた。

 

「謝罪対象ではありません。絶対に」

 

 先生が、静かに息を吐いた。

 

「レナ、聞こえる? あなたはここにいる。今はそれだけでいい」

 

 ここにいる。

 

 その言葉を、私は何度も頭の中で繰り返した。

 

 ここ。

 

 アビドス。

 

 対策委員会室。

 

 帰る場所。

 

 映像じゃない。

 

 床じゃない。

 

 あの場所じゃない。

 

 ここ。

 

 私はシロコさんの手を握り返そうとした。

 

 力はほとんど入らなかった。

 

 でも、少しだけ指が動いた。

 

 シロコさんが、それを受け取ってくれた。

 

「ん」

 

 短い声。

 

 いつもの声。

 

 それだけで、また少しだけ息が入った。

 

 アビドスのみんなの愛は、この日、形を変えた。

 

 好きでも、大事でも、守りたいでも足りなかった。

 

 もう誰にも見せたくない。

 

 もう誰にも触れさせたくない。

 

 もう二度と、レナが床に近い場所で震えることを許したくない。

 

 けれど、その感情のまま抱きしめれば、今のレナを怖がらせるかもしれない。

 

 だから、全員が踏みとどまっていた。

 

 触れたい手を止めて。

 

 叫びたい声を飲み込んで。

 

 壊しに行きたい足を、床に縫い止めて。

 

 映像ではなく、ここにいるレナを見るために。

 

 私は泣いていた。

 

 まだ震えていた。

 

 喉は枯れて、呼吸は浅くて、髪も羽根も怖くて、消えたいと思った感覚はすぐには消えなかった。

 

 でも、シロコさんの手があった。

 

 セリカさんの怒った声があった。

 

 ノノミさんの触れない優しさがあった。

 

 アヤネさんの震える決意があった。

 

 ホシノ先輩の静かな怒りがあった。

 

 先生の声があった。

 

 私は、まだここにいた。

 

 見せられたものに、全部を奪われたわけではない。

 

 そう思えるまでには、きっとまだ時間がかかる。

 

 でも、今は。

 

 今だけは。

 

 この手を、離さないでほしかった。

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