戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
アビドスへ戻る道を、私は前より少しだけ迷わず歩けるようになっていた。
砂に半分埋もれた標識。風で向きが変わる看板ではなく、壁のひびを目印にすること。右へ曲がると少し遠回りになる角。左側の道は午後になると日差しが強くなること。校門へ近づくにつれて、砂の色が少しだけ変わること。
最初に来た時は、どこまでも同じに見えた道だった。
今は違う。
まだ完全に覚えたわけではない。アビドスの砂は、風が吹けばすぐに形を変える。昨日見えた足跡も、今日はもうない。けれど、分かるものが少しずつ増えている。ここを通った。ここで水を飲んだ。ここでシロコさんが待っていた。ここでセリカさんに、迷ったら怒ると言われた。
そういう記憶が、道に重なっている。
救護バッグの紐には、セリカさんが結んでくれた淡い青の布が揺れていた。
救護騎士団のバッグに、アビドスの布。
最初は少し不思議だったその組み合わせも、今は見慣れてきた。ミネ先輩はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。何か言われると思って身構えたけれど、ミネ先輩は布の結び目を確認してから、ただ一言だけ言った。
きちんと結ばれていますね。
それだけだった。
その言葉が、許されたみたいで嬉しかった。
アビドスへ帰る。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
帰る、と言っていいのか、まだ少し照れる。でも、この前私は言った。アビドスも、私にとって帰る場所だと。言った以上は、ちゃんと帰りたい。帰って、ただいまと言って、みんなに見られて、少し恥ずかしくなって、それでも席に座りたい。
校門が見えた。
その前に、白い髪があった。
「シロコさん」
「ん」
シロコさんは、いつも通りそこにいた。
でも、今日は見回りとは言わなかった。言わずに、私の方へ歩いてきた。目が合う。短い沈黙。私は少しだけ息を吸った。
「……ただいま、でいいんでしょうか」
言ってから、顔が熱くなった。
でも、シロコさんは笑わなかった。
ただ、少しだけ瞬きをした。
「いい」
短い声。
けれど、迷いはなかった。
「おかえり、レナ」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
たったそれだけだった。
でも、その言葉は、アビドスの砂よりもずっと深く足元へ沈んだ。
「……ただいま、シロコさん」
「ん」
シロコさんは頷いて、私の横に並んだ。
いつもなら半歩前を歩くのに、今日は隣だった。校門をくぐる時、青い布が風で揺れる。シロコさんの視線がそれを一度だけ見て、それから私を見る。
「結び目、残ってる」
「はい。セリカさんが結んでくれたので」
「ん。よかった」
「ほどけたら、セリカさんに怒られそうです」
「怒ると思う」
シロコさんは淡々と言った。
「でも、結び直すと思う」
それがセリカさんらしくて、私は少しだけ笑った。
対策委員会室へ向かう廊下は、今日は少しだけ明るく見えた。窓から入る砂の光、古い掲示板、昨日アヤネさんが貼り直していた注意書き。何も特別なものはない。それでも、私が帰ってきたことを、廊下そのものが知っているような気がした。
扉の前で、シロコさんが少しだけ立ち止まる。
「言う?」
「え?」
「ただいま」
心臓が跳ねた。
シロコさんは真顔だった。
でも、その目は少しだけ期待しているようにも見えた。
「……言います」
「ん」
扉が開く。
中には、みんながいた。
セリカさんは机の上の書類を整理していた。ノノミさんはお茶の準備をしている。アヤネさんは端末を持って、こちらを見る前にすでに予定表を開いていた。ホシノ先輩は長椅子に座って、いつものように眠そうにしている。
全員の視線が、私に向いた。
逃げたくなるくらい、温かかった。
「……ただいま、です」
声が少し震えた。
部屋の空気が、ふわりと揺れた。
セリカさんが、一瞬だけ口を開けて、それから慌てて顔を逸らす。
「遅い」
「予定より五分早いです」
「そういう問題じゃないの」
セリカさんはそう言いながら、私の席に置いてあったカップを取った。
「お茶、もう出せるから。座りなさい」
ノノミさんが微笑む。
「おかえりなさい、レナちゃん。今日は少し風が強かったでしょう? 砂、入っていませんか?」
「大丈夫です。シロコさんが迎えに来てくれたので」
「約束でしたからね」
ノノミさんの目が柔らかく細くなる。
アヤネさんは端末を見る。
「帰還予定、予定通りです。次回以降もこの経路で問題なさそうですね。……おかえりなさい、レナさん」
真面目な声の最後だけ、少し優しかった。
ホシノ先輩が、長椅子から手を振る。
「おかえり、レナちゃん。うへぇ、ちゃんと帰ってきてくれると、おじさんたちの心臓に優しいねぇ」
「心臓に、ですか?」
「うん。アビドスの子たちは、待つのが下手だからねぇ」
軽い声だった。
でも、誰も否定しなかった。
私は自分の席へ向かう。
白いカップが置かれる。
救護バッグをいつもの場所に置く。
青い布が棚の下で小さく揺れる。
それだけで、帰ってきたのだと思えた。
アビドスへ。
この部屋へ。
自分の席へ。
「レナちゃん、今日は報告のお話を聞かせてもらってもいいですか?」
ノノミさんがカップを差し出しながら言った。
「ミネさん、何かおっしゃっていましたか?」
「はい。皆さんによろしくと。あと、救護用品の補充については、正式に連携できるよう手配すると言っていました」
「正式に……」
アヤネさんの目が少しだけ開く。
「それは助かります。物資管理表を更新しないといけませんね」
「アヤネさん、嬉しそうです」
「嬉しいです。必要な物資の見通しが立つことは、非常に重要ですから」
アヤネさんは真面目に言った。
でも、少しだけ口元が緩んでいた。
セリカさんが、私の救護バッグをちらりと見る。
「ミネさん、あの布のこと何か言ってた?」
「きちんと結ばれていますね、と」
「そ、そう」
「あと、ほどけにくい結び方だとも言っていました」
「へえ」
セリカさんはそっぽを向いた。
「まあ、当然だけど」
私は笑いそうになって、カップに口をつけた。
温かい。
アビドスの味だった。
その味を覚えていることが、今は嬉しかった。
その時だった。
校舎の外から、低い音がした。
最初は風かと思った。砂が金属板を叩いた時の音に似ていたから。でも、違う。音は一度では終わらなかった。低く、長く、校舎全体を震わせるように響いて、窓の向こうの光が一瞬だけ不自然に揺れた。
シロコさんが立ち上がる。
セリカさんがカップを置く。
ノノミさんの笑顔が消える。
アヤネさんが端末を開く。
ホシノ先輩の目が、眠そうではなくなった。
「何……?」
私が言うより早く、外から光が差し込んだ。
夕方の光ではない。
白く、冷たい光。
校庭の方から、巨大なスクリーンのようなものが立ち上がっていた。校舎の壁面にも、窓にも、壊れかけた掲示板にも、同じ映像が投影されていく。機械の羽音。複数の小型投影機が空中に浮かび、砂の上に細い影を落としていた。
「カイザーの装置……?」
アヤネさんの声が硬くなる。
画面が明滅した。
そこに、黒い服の男が映る。
黒服。
先生から話は聞いていた。ホシノ先輩に何かを持ちかけた、大人。アビドスの借金や土地の後ろにいた、気味の悪い存在。
でも、私はその顔を見ても、体が固まるほどの反応はしなかった。
ただ気持ち悪い。
そうは思った。
でも、それだけだった。
『ご機嫌よう、アビドスの皆様。そして、シャーレの先生』
黒服は、画面の中で丁寧に頭を下げた。
その声が、校舎中に響く。
『本日は、皆様にぜひ知っていただきたいものがありまして、このような形でお邪魔いたしました。どうかご容赦を。直接伺うと、少々過激な歓迎を受けそうでしたので』
「ふざけんな……!」
セリカさんが叫びかける。
シロコさんはすでに銃を構えていた。
先生が素早くシッテムの箱を確認する。
「アヤネ、投影元を」
「探しています! ですが複数です。校庭、屋上、外壁側にも信号があります。妨害も入っています!」
『さて』
黒服の声が続く。
『先日、皆様は彼女を“帰る場所”として迎え入れたようですね。実に美しい。実に尊い。ですが、美しいものを愛するには、その傷も、その壊れかけた姿も、知っておくべきではありませんか』
彼女。
誰のことを言っているのか。
最初は、分からなかった。
分かりたくなかったのかもしれない。
黒服の映像の横に、別の画面が開いた。
ざらついた映像。
古い記録のような、揺れる画面。
音が割れていた。
そして。
そこに、私がいた。
時間が、止まった。
最初、理解できなかった。
画面の中にいる子が、誰なのか分からなかった。制服が乱れている。髪が床に広がっている。羽根が震えている。顔は伏せられている。誰かに押さえつけられて、腕がうまく動いていない。
知らない。
そう思いたかった。
知らない。
違う。
でも、画面の端に映った制服。
その色。
髪の長さ。
羽根の形。
泣き声。
私だった。
息が、止まった。
画面が切り替わる。
床に近い視界。冷たい床。誰かの靴。押さえ込まれる肩。動こうとして、動けない腕。羽根を庇おうとしても、腕が届かない。髪が広がって、その上に影が落ちる。
次の瞬間、髪が踏まれた。
画面の中の私は声を上げた。
短く、潰れた声。
私は、今の私の喉で、その声を聞いた。
「え……」
声が出なかった。
画面の中の私は、泣いていた。
泣いているのに、泣き声を抑えようとしていた。抵抗しようとして、力で負けて、また床に押し戻される。羽根が乱暴に引かれ、体がびくりと跳ねる。袖が引っ張られ、制服の襟元が乱れる。誰かが笑っている。画面の外から、記録しておけ、という声が聞こえる。
やめて。
やめて。
見ないで。
見ないで。
見ないで。
言葉が頭の中で叫んでいるのに、口から出ない。
映像は、親切なほど悪意を持って編集されていた。
私が抵抗しているところではなく、抵抗が折れた瞬間。
立ち上がろうとして失敗するところ。
膝をついてしまうところ。
泣きながら首を振るところ。
羽根を庇えず、髪を踏まれて動けなくなるところ。
制服を乱され、身体を丸めて必死に隠そうとするところ。
誰かに助けを求める声が、声にならないところ。
全部。
全部、見られたくないところだけ。
切り取られていた。
アビドスの校庭に。
アビドスの壁に。
私の帰る場所になった場所に。
映されていた。
「止めろ!」
セリカさんの叫び声がした。
「今すぐ消せ! こんなの、流すな! 見るな、誰も見るなぁぁぁ!」
銃声。
シロコさんが投影機を撃った。
一つが砕ける。
でも、映像は止まらない。
別の壁に切り替わる。校舎の窓に。校庭の仮設スクリーンに。空中の投影に。黒服の声が、どこからでも響く。
『おや、乱暴ですね。ですが記録は複数ございます。映像とは、保存されている限り何度でも現れるものです』
記録。
保存。
その言葉が、頭に刺さった。
私は見ていた。
見ているのに、見ていなかった。
目の前の映像と、記憶の中の床が重なる。
足元がなくなる。
私は対策委員会室にいるはずだった。
カップがあって、私の席があって、救護バッグの場所がある部屋。シロコさんがいて、セリカさんがいて、ノノミさんがいて、アヤネさんがいて、ホシノ先輩がいて、先生がいる。
なのに、床が近い。
頬に冷たいものが触れる。
髪が引かれる。
羽根が痛い。
体が動かない。
息ができない。
喉が閉じる。
誰かが笑っている。
画面の向こうではなく、耳元で。
「ちが……」
やっと出た声は、声になっていなかった。
「ちが、う……見ないで……」
自分の手が、髪に伸びた。
踏まれていない。
今は踏まれていない。
分かっているはずなのに、髪の根元が痛い。頭皮が引きつる。足元に影が落ちる気がして、私は反射的に頭を抱えた。
羽根。
羽根を隠さないと。
見られる。
掴まれる。
引かれる。
私は羽根を庇おうとして、腕がうまく動かなかった。
手が震えている。
指が冷たい。
呼吸が、浅い。
浅いというより、入ってこない。
吸っているのに、空気が喉の手前で止まる。吐けない。吐けないから吸えない。胸の奥が硬くなって、心臓だけが変な速さで鳴る。
「レナ!」
誰かが呼んだ。
シロコさんかもしれない。
セリカさんかもしれない。
でも、届かない。
画面の中の私が、泣いている。
屈服している。
力で負けている。
立てない。
動けない。
隠せない。
服を掴まれて、必死に丸くなって、震えている。
あんな姿。
あんな声。
あんな顔。
見られた。
アビドスに。
シロコさんに。
セリカさんに。
ノノミさんに。
アヤネさんに。
ホシノ先輩に。
先生に。
見られた。
「や、だ……」
喉が焼けるみたいだった。
「見ないで……見ないで、ください……やだ、やだ、やだ、違う、違うの、私、あれ、私じゃ、ない、違う……」
違わない。
分かっている。
私だ。
あれは私だ。
でも、認めたら壊れる。
アビドスに帰ってきた私と、床で泣いている私が同じだと認めたら、もうここに座れない。カップを持てない。セリカさんの布をつけたバッグを持てない。ノノミさんに抱きしめてもらえない。アヤネさんの予定表に名前を入れてもらえない。シロコさんに迎えに来てもらえない。ホシノ先輩にいってらっしゃいと言ってもらえない。
帰る場所が、汚れていく。
私が、汚している。
そんなはずない。
でも、そう思ってしまう。
喉の奥が、引き攣った。
悲鳴より先に、息が壊れた。
「あ゛、あ゛……あ゛あ゛あああ゛っ……!」
喉の奥が裂けたみたいな声だった。
悲鳴というより、身体が壊れる音に近かった。自分で出した声なのに、自分のものだと分からない。言葉にしたかったものはたくさんあった。見ないで。消して。違う。お願い。助けて。けれど、その全部が喉の奥で潰れて、掠れた叫びだけになって外へ出た。
「み、な……見な、いで……っ、見ないで、くださ……あ゛っ、やだ、やだ、やだぁ……!」
声は途中で裏返り、すぐに枯れた。
それでも止まらなかった。止め方が分からなかった。叫べば映像が消えるわけではない。泣けば時間が戻るわけでもない。分かっているのに、叫ぶ以外に身体の中の恐怖を外へ逃がす方法がなかった。
画面の中の私が、また泣き声を上げる。
それに今の私の喉が引っ張られる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ、あ、あ゛……っ!」
喉が焼ける。
息を吸おうとすると、胸の奥がひゅっと鳴って、空気より先に涙がこぼれた。口を開けても、入ってくるのは息ではなく、過去の床の匂いだった。冷たい床。押さえ込まれた肩。髪の根元が引き攣る痛み。羽根を庇おうとして、届かなかった腕。
今じゃない。
今じゃないのに。
身体だけが、あの時へ戻っていく。
膝が折れた。
床が近づく。
それだけで、身体がばらばらになりそうだった。
床は嫌だ。
床はだめだ。
近づきたくない。
なのに足に力が入らない。手をついた瞬間、冷たさが掌から腕へ走って、映像の中の床と今の床が重なった。
「や、だ……床、やだ、やだ……っ」
私は手を引こうとした。
けれど、引いた手をどこに置けばいいのか分からなかった。胸元を掴む。髪を押さえる。羽根を庇う。全部を同時に隠そうとして、何一つ隠せなかった。
恥ずかしい、という言葉では足りなかった。
苦しい、でも足りなかった。
身体ごと消えてしまいたいほどなのに、消えたらあの映像だけが残ってしまう気がして、それがまた怖かった。私がいなくなっても、あの映像だけが残る。私がここにいなくなっても、床で泣いている私だけが、誰かの手の中で何度も再生される。
そんなのは嫌だ。
でも、見られたままここにいるのも嫌だった。
「死に、たい……」
掠れた声が、勝手に落ちた。
自分で言ったのに、自分の言葉じゃないみたいだった。
「やだ、もう、やだ……見られた、見られた、全部……あ゛、あ゛……死にたい、消して、私ごと、消して……っ」
部屋の空気が、凍った。
その言葉が、アビドスのみんなに何をしたのか、分かる余裕はなかった。
でも、誰かの息が止まる音がした。
誰かが一歩踏み出して、止まる気配がした。
私は頭を抱えたまま震えていた。
画面の中の私は、泣いている。
泣いているのに、止まらない。
記録されている。
保存されている。
見せられている。
「ごめんなさい……ごめんなさい、汚して、ごめんなさい……」
「違う!」
セリカさんの声が近くで爆ぜた。
でも、私に怒っている声ではなかった。
「違うでしょ! レナのせいじゃない! あんたが謝ることじゃない! 消せ、今すぐ消せよ! 誰がこんなもの持ってていいって言ったのよ! 誰がレナのこんな顔、勝手に見せていいって言ったのよ!」
セリカさんの声が震えていた。
銃声。
投影機がまた一つ壊れる。
でも、映像は消えない。
校舎の別の壁に移る。
音だけが残る。
アヤネさんの声が聞こえた。
「信号が分散しています! 主装置がありません、複数の中継から同期して……だめです、壊しても別の装置が引き継いでいます!」
「なら全部壊す!」
「セリカちゃん、待ってください! レナさんが――!」
アヤネさんの声が途切れた。
たぶん、私を見たのだと思う。
私は床に近いところで震えていた。
床に触れた手を、胸元へ引き寄せて、羽根を庇って、髪を押さえて、息を吸えずにいた。
見ないで。
でも、見て。
助けて。
でも、見ないで。
矛盾した言葉が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まる。
誰かの手が近づいた。
優しい手だったのかもしれない。助けようとしてくれたのかもしれない。けれど、私の身体はそれを判断する前に弾いた。
「さわ、らな……っ、あ゛っ、いや……!」
叫んだ瞬間、今度はその言葉に自分で傷ついた。
違う。
違う。
触らないでほしいわけじゃない。
助けてほしい。
そばにいてほしい。
だけど、手が近づくと、誰の手なのか分からなくなる。優しい手と、押さえつけた手の区別がつかなくなる。守ってくれる手と、床に戻す手の違いが分からなくなる。
「ちが、違う……ごめ、なさ……私、違うの……ごめんなさい、ごめんなさい……」
ノノミさんの声がした。
「レナちゃん……」
笑顔が消えているのが、見なくても分かった。
「レナちゃん、私は、今すぐ抱きしめたいです。でも、今触れたら怖いかもしれません。だから、ここにいます。触れません。でも、ここにいます。どこにも行きません」
ノノミさんの声が震えていた。
「だから、お願いです。映像じゃなくて、声だけでも、今の声だけでも、少しだけ聞いてください」
聞きたい。
でも、映像の音が入ってくる。
私の泣き声。
過去の私の泣き声。
今の私の泣き声。
重なって、どれがどれか分からなくなる。
ホシノ先輩の声がした。
「先生」
低かった。
眠そうではなかった。
軽さが一切なかった。
「装置の位置、分かる?」
「今アロナが追ってる。でも分散が多い。完全停止には少し時間がかかる」
「そっか」
それだけだった。
ホシノ先輩は怒鳴らなかった。
銃を構えた音もしなかった。
でも、その静けさが一番怖かった。
見上げられない。
ホシノ先輩の顔を見たら、何かが壊れる気がした。
それなのに、ホシノ先輩は私の前にしゃがんだ。
距離を空けて。
触れない場所に。
「レナちゃん」
声が低い。
でも、優しかった。
「今、触らないよ。近づきすぎない。だから、声だけ置くね。ここはアビドス。君が帰ってきた場所。画面じゃない。床じゃない。あの場所じゃない」
あの場所じゃない。
その言葉が、少しだけ耳に残った。
「見なくていい。目を閉じていい。耳を塞いでもいい。レナちゃんが見たくないものを、これ以上見なくていいように、おじさんたちが止める。すぐに止めるから」
止まっていない。
まだ止まっていない。
でも、ホシノ先輩の声は、私のすぐ前にあった。
私は喉を鳴らした。
声は出なかった。
シロコさんの銃声がまた響いた。
「シロコ、無理に追わないで!」
先生の声。
「でも、止まらない」
シロコさんの声は低かった。
「止める」
「止めるわ。だけど今、レナが――」
短い沈黙。
シロコさんがこちらを見たのだと思う。
銃声が止まった。
足音が近づく。
シロコさんが、私の少し横に膝をついた。
触れない。
でも、近い。
「レナ」
短い声。
私は反応できない。
シロコさんは、もう一度言った。
「レナ」
その声は、撃つよりも、走るよりも、ずっと苦しそうだった。
「見ない。私は、あれを見ない。今のレナを見る」
今の、私。
今の私って何。
床で震えている。
泣いている。
息ができない。
髪を押さえて、羽根を庇って、触らないでと叫んで、謝って、汚したと言っている。
死にたいと、言ってしまった。
そんな私を、見られたくない。
でも、シロコさんは続けた。
「映像じゃない。今ここにいるレナを見る。怖いなら、怖いままでいい。泣くなら、泣くままでいい。消えなくていい」
消えなくていい。
その言葉で、喉の奥がひゅっと鳴った。
息が少し入る。
苦しい。
でも、少しだけ入った。
その瞬間、画面が揺れた。
映像が乱れる。
先生のシッテムの箱が強く光っていた。アヤネさんが端末を操作し、ホシノ先輩が低い声で指示を出し、シロコさんが最後の投影機を撃ち落とす。
画面が途切れる。
黒服の映像が、最後に映った。
『皆様の愛情が、より正しい形へ向かうことを願っています。傷を知ることは、所有の形を変える。どうぞ、彼女を大切に』
最低な言葉だった。
その言葉を最後に、映像は消えた。
音が消える。
校庭から、白い光が消える。
窓に映っていた映像も消える。
でも、私の頭の中では消えなかった。
床。
髪。
羽根。
泣き声。
押さえつけられる肩。
記録しておけ、という声。
見られた。
見られた。
見られた。
私は崩れたまま、動けなかった。
喉は痛くて、声が出ない。
涙だけが落ちる。
誰もすぐには近づかなかった。
たぶん、みんな触れたかったのだと思う。抱きしめたかったのだと思う。隠したかったのだと思う。私の目を塞いで、耳を塞いで、もう何も見せないようにしたかったのだと思う。
でも、誰もすぐに触れなかった。
さっき私が、触らないでと叫んだから。
そのことを、みんな覚えていた。
覚えてくれていた。
「レナ」
先生の声がした。
「ここにいるわ。誰も勝手に触らない。息を、少しずつでいい」
息。
吸う。
入らない。
吸う。
少しだけ入る。
吐く。
吐けない。
また詰まる。
私は震えながら、床から手を離そうとした。
手が動かなかった。
床が怖い。
でも、床から離れられない。
「……や、だ」
掠れた声が出た。
「床、やだ……」
その瞬間、セリカさんが動きかけて、止まった。
ノノミさんの手が胸の前で震えている。
アヤネさんが、泣きそうな顔で唇を噛んでいる。
ホシノ先輩が、少しだけ息を吸った。
「レナちゃん」
ホシノ先輩が聞いた。
「触れてもいい?」
その言葉で、胸が痛くなった。
触れてもいい?
ミネ先輩の声を思い出す。
怖くない手。
触れる前に聞いてくれる手。
私はすぐには頷けなかった。
怖かった。
でも、床も怖かった。
ここにいるのも怖い。
一人でいるのはもっと怖い。
私は震える指を、ほんの少しだけ伸ばした。
誰に向けて伸ばしたのか、自分でも分からなかった。
でも、シロコさんが一番近かった。
シロコさんは、すぐには掴まなかった。
私の指先の少し前で、自分の手を止めた。
「私?」
短く聞く。
私は小さく頷いた。
頷けたのかどうかも分からないくらい、ほんの少しだった。
でも、シロコさんは分かってくれた。
指先に、温度が触れた。
強く握らない。
ただ、そこにいる。
その手だった。
「レナ」
シロコさんが言う。
「ここ。今、ここ」
私は息を吸った。
少しだけ。
痛い。
でも、入った。
「映像じゃない。床じゃない。ここ」
シロコさんの手が、少しだけ私の指を包む。
その手に引っ張られるように、私は今の部屋を見た。
セリカさんがいる。
顔がぐちゃぐちゃだった。泣いているのか怒っているのか分からない顔で、でも私から目を逸らしていなかった。
「見たくて見たんじゃない」
セリカさんが言った。
声が震えていた。
「でも、見ちゃった。だから、もう忘れたふりはできない。でも、あれだけがレナだなんて、絶対に言わせない。あんな切り取られ方で、あんたのことを決めさせたりしない」
セリカさんは拳を握っていた。
「レナは、ここにいる。今、ここにいる。私、そっちを見る。そっちしか見ない」
ノノミさんが、一歩近づいた。
でも、触れない距離で止まった。
「レナちゃん」
声は柔らかかった。
けれど、今までよりずっと低い場所から出ていた。
「私は、今すぐレナちゃんを隠したいです。誰の目にも触れない場所へ連れていって、もう二度とあんなふうに見られないようにしたいです。でも、それは私がしたいことで、レナちゃんが望んだことかは分かりません。だから、今は聞きます。ここにいてもいいですか。少し近くにいても、いいですか」
私は、ノノミさんを見た。
視界が滲んでいる。
それでも、ノノミさんが泣いているのが分かった。
笑っていない。
笑おうともしていない。
ただ、私を見ていた。
私は、小さく頷いた。
ノノミさんは近づいた。
でも、触れない。
すぐそばに膝をつく。
それだけで、少しだけ部屋が狭くなった。
怖くない狭さだった。
アヤネさんが、端末を床に置いた。
いつも離さない端末を。
両手を空けて、でも触れずに、私の前に座る。
「レナさん」
声が震えている。
「私は、記録が好きです。正確に残すことは、必要なことだと思っています。でも、あれは違います。あんなものは記録ではありません。レナさんを傷つけるために切り貼りされた暴力です。保存されていたことも、編集されたことも、見せられたことも、全部、間違っています」
アヤネさんの目から、涙が落ちた。
「だから、私が消します。探します。複製も、信号も、全部。今すぐ全部は無理でも、必ず追います。二度と、あんな形でレナさんを使わせません」
ホシノ先輩は、最後に口を開いた。
表情は、まだ消えていた。
でも、声は少しだけ戻っていた。
「レナちゃん」
「……」
「おじさん、今すごく怒ってる」
静かな声だった。
「怒鳴れないくらい怒ってる。何かを壊しに行きたいくらい怒ってる。でも、今一番見たいのは、あの映像じゃない。黒服でもない。ここにいるレナちゃんだよ」
ホシノ先輩は、触れないまま続ける。
「あれを見たからって、レナちゃんが汚れたわけじゃない。ここが汚れたわけでもない。汚したのは、あれを撮って、残して、見せたやつだよ。レナちゃんじゃない」
その言葉で、私はまた泣いた。
声は出なかった。
ただ、喉の奥で壊れた音がした。
「……ごめ、なさ」
「謝らない」
ホシノ先輩の声が、少しだけ強くなった。
「今だけは、謝らないで。謝るのは、レナちゃんじゃない」
シロコさんの手が、ほんの少しだけ強くなる。
「謝らない」
セリカさんも言った。
「謝ったら怒る」
ノノミさんが、涙を拭わずに言った。
「謝らないでください。お願いですから」
アヤネさんが頷いた。
「謝罪対象ではありません。絶対に」
先生が、静かに息を吐いた。
「レナ、聞こえる? あなたはここにいる。今はそれだけでいい」
ここにいる。
その言葉を、私は何度も頭の中で繰り返した。
ここ。
アビドス。
対策委員会室。
帰る場所。
映像じゃない。
床じゃない。
あの場所じゃない。
ここ。
私はシロコさんの手を握り返そうとした。
力はほとんど入らなかった。
でも、少しだけ指が動いた。
シロコさんが、それを受け取ってくれた。
「ん」
短い声。
いつもの声。
それだけで、また少しだけ息が入った。
アビドスのみんなの愛は、この日、形を変えた。
好きでも、大事でも、守りたいでも足りなかった。
もう誰にも見せたくない。
もう誰にも触れさせたくない。
もう二度と、レナが床に近い場所で震えることを許したくない。
けれど、その感情のまま抱きしめれば、今のレナを怖がらせるかもしれない。
だから、全員が踏みとどまっていた。
触れたい手を止めて。
叫びたい声を飲み込んで。
壊しに行きたい足を、床に縫い止めて。
映像ではなく、ここにいるレナを見るために。
私は泣いていた。
まだ震えていた。
喉は枯れて、呼吸は浅くて、髪も羽根も怖くて、消えたいと思った感覚はすぐには消えなかった。
でも、シロコさんの手があった。
セリカさんの怒った声があった。
ノノミさんの触れない優しさがあった。
アヤネさんの震える決意があった。
ホシノ先輩の静かな怒りがあった。
先生の声があった。
私は、まだここにいた。
見せられたものに、全部を奪われたわけではない。
そう思えるまでには、きっとまだ時間がかかる。
でも、今は。
今だけは。
この手を、離さないでほしかった。