戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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幕間 先生の怒り

 

 

 先生は、怒鳴らなかった。

 

 怒鳴ってはいけなかった。

 

 対策委員会室の床に、レナが崩れている。シロコがその手を握っている。セリカは泣いているのか怒っているのか分からない顔で歯を食いしばり、ノノミは触れたい手を胸の前で止めたまま、アヤネは端末を握りしめて、今にも画面を割りそうなほど指先に力を入れている。ホシノは静かだった。あまりに静かで、先生はそれが一番危険だと分かっていた。

 

 誰も、壊れていないわけではなかった。

 

 全員が、壊れかけていた。

 

 だから先生は、怒鳴らなかった。

 

 怒鳴った瞬間、きっと誰かが走る。シロコは止まらなくなる。セリカは銃を取る。ノノミは笑顔のないまま、何かを抱え込もうとする。アヤネは手元の端末から目を離せなくなる。ホシノはたぶん、何も言わずに一人で出ていく。

 

 それだけは、させられなかった。

 

 先生はシッテムの箱に指を走らせる。

 

 アロナの声が、いつもより少し遠く聞こえた。投影装置の発信源。中継地点。記録媒体の断片。校庭にばらまかれた小型機器の通信ログ。追えるものはある。けれど、黒服本人には届かない。届かないようにしてある。最初から、そういう仕掛けだった。

 

 挑発。

 

 暴露。

 

 破壊。

 

 それを全部、映像越しに行って、自分だけは安全な場所にいる。

 

 大人が、生徒相手に。

 

 先生の奥歯が、静かに鳴った。

 

 噛みしめすぎていた。

 

「先生」

 

 アヤネの声がした。

 

 泣いているのに、無理やり仕事の声を作っていた。

 

「ログ、取れています。完全ではありませんが、投影装置の一部にカイザー系列の識別情報があります。映像データは……一部、キャッシュが残っています。どうしますか」

 

 どうしますか。

 

 その言葉が、先生の胸の中を深く抉った。

 

 消したい。

 

 今すぐ、すべて消したい。

 

 あんなものは残してはいけない。存在してはいけない。誰かの端末に、誰かの記憶媒体に、誰かの悪意の中に、レナのあんな姿を置いておいていいはずがない。

 

 でも。

 

 消しただけでは、また出てくる。

 

 残っている場所を探すには、証拠が要る。追跡するには、ログが要る。黒服を追い詰めるには、あの映像が流されたという事実を、記録として扱わなければならない。

 

 吐き気がした。

 

 先生は、感情を飲み込んだ。

 

「隔離して。誰にも見えない形で、解析用に封じる。複製は作らない。アクセス権限は私とアロナだけ。アヤネも、これ以上中身を見なくていい」

 

「ですが、私は――」

 

「見なくていい」

 

 少しだけ声が強くなった。

 

 アヤネがびくりと肩を揺らした。

 

 先生はすぐに息を整える。

 

「ごめん。責めているんじゃないの。あなたが背負う必要がないと言っているのよ」

 

 アヤネの唇が震えた。

 

「……でも、消さないと」

 

「消すわ。必ず。でも、順番を間違えない。どこに残っているか調べて、二度と出せないようにしてから消す」

 

 アヤネは端末を見下ろした。

 

「はい」

 

 小さな返事だった。

 

 その指が、まだ震えている。

 

 先生は、そっとアヤネの端末画面を閉じさせた。

 

「今は、レナを見る時間よ」

 

 アヤネは泣きそうな顔で頷いた。

 

 先生は視線をレナへ戻す。

 

 レナは、まだ床に近い場所にいた。シロコの手を握っている。握っているというより、指先を預けているだけだった。呼吸は浅い。時々、喉がひゅっと鳴る。声はもうほとんど出ていない。叫びすぎた喉は、きっと痛むだろう。

 

 死にたい。

 

 さっき、レナはそう言った。

 

 その声が、先生の耳から離れない。

 

 あれは本当の願いではない。そう分かっている。あの瞬間、レナは消えたいほど追い詰められただけだ。あの映像と、見られたという羞恥と恐怖と、保存されていたというおぞましさに、心が押し潰されただけだ。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに。

 

 生徒に、そんな言葉を言わせた。

 

 大人が。

 

 また、大人が。

 

 先生は、黒服の最後の言葉を思い出す。

 

 愛情が、より正しい形へ向かうことを願っています。

 

 所有の形。

 

 彼女を大切に。

 

 反吐が出る。

 

 言葉を丁寧に並べているだけで、その中身は腐っていた。生徒の傷を、研究材料みたいに扱う。誰かの尊厳を、他人の感情を揺さぶる道具にする。見せる。保存する。反応を見る。人の痛みを、盤上の駒みたいに動かす。

 

 先生は、拳を握った。

 

 爪が掌に食い込む。

 

「先生」

 

 今度はホシノだった。

 

 声が低い。

 

「おじさん、出ていい?」

 

 先生はホシノを見た。

 

 ホシノの顔から、いつもの眠たげな薄い笑みが消えている。怒鳴っていない。震えていない。だからこそ危なかった。静かな怒りは、熱い怒りよりも長く燃える。ホシノは今、何かをしようと思えば、誰にも言わずに一人で動ける顔をしていた。

 

「だめ」

 

 先生は即答した。

 

 ホシノは目を細める。

 

「まだ何も言ってないよ」

 

「言わなくても分かる」

 

「先生は厳しいねぇ」

 

 いつもの言い方に似せていた。

 

 けれど、声が少しも笑っていなかった。

 

「厳しくするわ。今ここで誰かが出ていったら、レナはまた自分のせいだと思う。あなたたちが怒って傷ついた分まで、自分のせいにする」

 

 ホシノは黙った。

 

 その沈黙で、先生は正しいところを突いたのだと分かった。

 

「先生」

 

 セリカが立ち上がった。

 

 目が真っ赤だった。

 

「じゃあ、どうするんですか。あんなもの流されて、レナがあんなふうになって、それでもここでじっとしてろって言うんですか。黒服は笑って消えたのに、こっちは何もできないんですか」

 

 声が震えていた。

 

 怒りで。

 

 悔しさで。

 

 泣きそうなのを怒りで押さえている声だった。

 

 先生は、セリカの言葉を正面から受け止めた。

 

「じっとしていろとは言わない」

 

「じゃあ――」

 

「でも、今すぐ撃ちに行くのは違う」

 

「っ……!」

 

「あなたたちの怒りは正しい。私だって、今すぐあの男の前に行きたい。二度と誰かの前に立てないくらい、全部奪い返したいと思っている」

 

 言った瞬間、部屋が静かになった。

 

 先生がそこまで言うと思っていなかったのだろう。

 

 セリカの目が揺れた。

 

 ノノミが先生を見る。

 

 シロコも、レナの手を握ったまま、わずかに顔を上げた。

 

 先生は、自分の声が低くなっていることに気づいていた。

 

 それでも、止めなかった。

 

「でも、私は大人だから。あなたたちの前で、その怒りに全部任せるわけにはいかない。今最優先するのは、レナの安全。次に、映像の拡散防止。次に、黒服の追跡。順番を間違えたら、あの男の思う壺よ」

 

 あの男は、怒らせたかったのだ。

 

 アビドスを。

 

 先生を。

 

 レナを。

 

 見せて、壊して、怒らせて、形を変える。その反応すら、観察しようとしていた。

 

 それが分かるから、余計に腹が立つ。

 

 先生は、黒服の用意した舞台の上で怒り狂うわけにはいかなかった。

 

 それは、レナのためではない。

 

 黒服のためになってしまう。

 

「……先生も、怒ってるんですね」

 

 ノノミが小さく言った。

 

 先生はノノミを見た。

 

 ノノミの顔に、笑顔はなかった。

 

 ただ、悲しそうだった。

 

「ええ」

 

 先生は答えた。

 

「怒っているわ。たぶん、あなたたちが思っているよりずっと」

 

「じゃあ、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」

 

 ノノミの声は責めていなかった。

 

 ただ、分からないという声だった。

 

 先生は、少しだけ息を吐いた。

 

「落ち着いてなんかいないわ」

 

 自分でも驚くくらい、静かな声だった。

 

「落ち着いているふりをしているだけ。今私が崩れたら、あなたたちはもっと崩れる。だから立っている。大人って、そういう役目でしょう」

 

 大人。

 

 その言葉は、時々とても重い。

 

 先生は、自分が万能ではないことを知っている。すべての生徒を救えるわけではない。すべての悪意を事前に止められるわけではない。いつも間に合うわけでもない。

 

 でも、それでも。

 

 生徒の前で、最初に折れるわけにはいかない。

 

「私は、怒っている」

 

 先生はもう一度言った。

 

「でも、怒りは後で使う。今ここで爆発させるんじゃなくて、あの男に届く形にして返す。そのために、今は飲み込む」

 

 セリカが唇を噛んだ。

 

 シロコの手が、レナの指を包んだまま少しだけ強くなる。

 

 ホシノが目を伏せる。

 

 アヤネが、涙を拭わずに端末を見た。

 

「……先生」

 

 アヤネが言った。

 

「私、解析します。中身は見ません。でも、発信経路、装置の型番、通信ログは追えます。感情的にならずにできるかは分かりませんが、やります」

 

「無理はしないで」

 

「無理ではありません」

 

 アヤネは首を振った。

 

「やらない方が、無理です。あれを記録として扱うことが、すごく嫌です。でも、あれを記録のまま残される方がもっと嫌です」

 

 先生はしばらくアヤネを見た。

 

 止めるべきか迷った。

 

 でも、アヤネの目は逃げていなかった。傷ついている。震えている。それでも、自分の役割を選ぼうとしている。

 

「分かった。中身にはアクセスしない。メタデータだけ。少しでも苦しくなったら、すぐ離れること」

 

「はい」

 

「約束よ」

 

「約束します」

 

 先生は頷いた。

 

 それから、シロコを見る。

 

「シロコ」

 

「ん」

 

「レナのそばにいて。今はそれが一番必要」

 

「いる」

 

 即答だった。

 

 先生はセリカを見る。

 

「セリカ」

 

「……何ですか」

 

「水と、喉を痛めないものを。レナはかなり叫んだ。すぐ飲めなくても、近くに置いて」

 

 セリカは目元を乱暴に拭った。

 

「分かりました」

 

 ノノミを見る。

 

「ノノミ」

 

「はい」

 

「毛布を。レナが許可したら、床から移動する。許可が出るまでは、近くに置くだけ」

 

「はい。触れる前に、必ず聞きます」

 

 ホシノを見る。

 

「ホシノ」

 

「うん」

 

「出ていかないで」

 

 ホシノは、一瞬だけ黙った。

 

 それから、小さく笑った。

 

 少しだけ、いつものホシノに近い笑い方だった。

 

「先生は本当に厳しいねぇ」

 

「約束して」

 

 ホシノは、レナを見た。

 

 床に近い場所で震えているレナを。

 

 そして、静かに頷いた。

 

「約束するよ。今は、行かない」

 

 今は。

 

 先生はその言葉に引っかかった。

 

 でも、今はそれ以上詰めない。

 

 今は、全員をここに留めることが先だった。

 

 先生はもう一度、シッテムの箱を見る。

 

 アロナからの解析結果が少しずつ届いている。カイザー系の中継。匿名化された経路。ダミー信号。黒服らしい、周到で、悪趣味で、人の痛みを試すような仕掛け。

 

 先生は画面を見つめた。

 

 黒服。

 

 あなたは、線を越えた。

 

 その言葉を、口には出さなかった。

 

 出せば、生徒たちが聞いてしまう。

 

 だから、胸の中だけで言った。

 

 レナは教材じゃない。

 

 観察対象じゃない。

 

 感情を測るための道具でも、誰かの所有を試すための餌でもない。

 

 あの子は、生徒だ。

 

 泣いて、叫んで、息ができなくなって、それでも今ここにいる、一人の生徒だ。

 

 先生は、指先でシッテムの箱の縁を押さえた。

 

 怒りは、まだ消えない。

 

 消すつもりもない。

 

 ただ、形を変える。

 

 レナを支える手に。

 

 映像を消す手順に。

 

 黒服へ届く追跡に。

 

 生徒たちを踏みとどまらせる声に。

 

 先生は、ゆっくり顔を上げた。

 

 レナの呼吸が、少しだけ整い始めている。シロコの手を離していない。セリカが水を持って戻ってくる。ノノミが毛布を抱えて、触れずに待っている。アヤネが端末の画面を暗くして、解析用の別モードへ移る。ホシノは出入口ではなく、レナの視界を遮る位置に座った。

 

 まだ、何も終わっていない。

 

 黒服は消えた。

 

 映像の残滓はまだある。

 

 レナの傷は、今開かれたばかりだ。

 

 アビドスの感情も、きっとこれから歪む。重くなる。守りたい、隠したい、誰にも触れさせたくないという気持ちが、彼女たちの中で形を変えていく。それを先生は見守らなければならない。止めるべきところは止め、許すべきところは許し、レナが押し潰されないようにしなければならない。

 

 それも、大人の役目だった。

 

「先生」

 

 レナの掠れた声がした。

 

 小さすぎて、聞き逃しそうだった。

 

 先生はすぐに近づいた。

 

 近づきすぎない距離で、膝をつく。

 

「ここにいるわ」

 

 レナの目は赤く、焦点はまだ不安定だった。

 

 それでも、先生を探していた。

 

「ごめ……なさ……」

 

「謝らない」

 

 先生は静かに言った。

 

「あなたは謝らなくていい。今は、息をするだけでいい」

 

 レナの唇が震える。

 

「せん、せ……あれ、消えますか……」

 

 先生の胸が痛んだ。

 

 それでも、迷わず答えた。

 

「消すわ」

 

 嘘ではない。

 

 約束だった。

 

「全部、追う。全部、消す。あなたを傷つけるために残されたものを、そのままにはしない」

 

 レナの目から、また涙が落ちた。

 

 先生は触れなかった。

 

 触れたかった。

 

 頭を撫でて、抱きしめて、もう大丈夫だと言いたかった。

 

 でも、それは今のレナが選ぶことだ。

 

 先生は大人だから。

 

 怒りも、優しさも、押しつけてはいけない。

 

「レナ」

 

 先生は、声だけを置いた。

 

「あなたは、ここにいていい。アビドスにも、シャーレにも、救護騎士団にも。どこか一つに決めなくていい。見せられたものが、あなたの居場所を奪うことはない」

 

 レナは答えられなかった。

 

 ただ、少しだけ息を吸った。

 

 それで十分だった。

 

 先生は立ち上がる。

 

 シッテムの箱が、手の中で淡く光った。

 

 怒りは、まだ胸の奥にある。

 

 静かに、硬く、燃えている。

 

 先生はそれを抱えたまま、アビドスの生徒たちを見た。

 

「ここから先は、私たちの仕事よ」

 

 誰も反論しなかった。

 

 先生は続けた。

 

「レナを一人にしない。映像を追う。黒服を追う。でも、順番を間違えない。まずは、ここにいるレナを守る」

 

 その言葉に、アビドスのみんなが頷いた。

 

 泣きながら。

 

 怒りながら。

 

 震えながら。

 

 それでも、頷いた。

 

 先生は、もう一度だけ校庭の方を見た。

 

 さっきまで白い光が暴れていた場所。

 

 レナの帰る場所を、汚そうとした光。

 

 そこにはもう、何も映っていない。

 

 けれど先生の中には、黒服の声が残っている。

 

 皆様の愛情が、より正しい形へ向かうことを願っています。

 

 先生は、静かに目を細めた。

 

 正しい形かどうかを、あなたが決めるな。

 

 その言葉だけは、胸の奥で冷たく光っていた。

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