戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
数日が過ぎた。最初の日、私はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、白い光が瞼の裏に浮かんだ。映像の粗いざらつき。床に近い視界。泣き声。記録しておけ、という声。飛び起きるほどではない時も、胸が詰まって息が浅くなった。起きているのか眠っているのか分からないまま、アヤネさんの手を探してしまったこともある。
二日目、私は自分のカップを持てなかった。
白いカップは机の上にあった。セリカさんが洗って、いつも通りの場所に置いてくれたものだった。けれど、それを見ると胸が痛んだ。第20話の前、私はそのカップでお茶を飲んでいた。アビドスに帰ってきたと思っていた。その直後に、あれが流れた。
カップは悪くない。
分かっている。
でも、指が伸びなかった。
セリカさんは何も言わず、別の小さなコップに水を入れてくれた。
三日目、シロコさんが私に背を向ける時間が少し減った。
最初は、私が見られるのを怖がるたび、シロコさんはすぐに背を向けてくれた。扉の前に立って、窓の外を見て、誰も入れないようにしてくれた。けれど、少しずつ、私はシロコさんの横顔を見ても震えなくなった。
シロコさんは、見ないことも、見ることも、どちらも選んでくれた。
四日目、私はノノミさんに毛布をかけてもらった。
触れる前に、ノノミさんは必ず聞いた。毛布、かけてもいいですか。近くに座ってもいいですか。お茶を置いてもいいですか。どれも少しずつだった。ノノミさんは、抱きしめたい気持ちをずっと我慢しているように見えた。けれど、その我慢が、私にはとても優しかった。
五日目、ホシノ先輩の袖を掴まずに、長椅子から立てた。
足は震えた。
でも、立てた。
ホシノ先輩は、何も言わずに笑った。うへぇ、すごいねぇ、といつもの調子で言いかけて、途中でやめて、ただ「うん」とだけ言った。その「うん」が、少し嬉しかった。
映像は、まだ消えていない。
頭の中から、完全には。
でも、ずっと同じ強さではなくなってきた。
怖い。
恥ずかしい。
見られたことは、今でも胸を刺す。
けれど、アビドスのみんなは、何度も同じことをしてくれた。
急がなかった。
触れる前に聞いてくれた。
見ないでほしい時は見なかった。
見てほしい時は、今の私を見てくれた。
そして六日目の朝、先生が言った。
「校庭に行ってみる?」
その言葉に、部屋の中が静かになった。
校庭。
白い光が立ち上がった場所。
巨大なスクリーンが開いて、私の見られたくないものが流された場所。
私の帰る場所を、黒服が踏みにじった場所。
私はカップを持つ手に力を入れた。
そのカップは、昨日からまた持てるようになった。まだ少し怖い。でも、持てる。中にはセリカさんが用意してくれた温かいお茶が入っている。甘さは少し控えめで、喉に優しい。
「無理にとは言わないわ」
先生は続けた。
「今日じゃなくてもいい。明日でも、一週間後でもいい。ただ、レナがここで少しずつ戻ってきたように、あの場所も、少しずつ取り戻せるかもしれないと思ったの」
取り戻す。
その言葉が胸に落ちた。
私はまだ、校庭を避けていた。
窓の外も、長くは見られない。白い光がまた立ち上がる気がする。何もないと分かっていても、あの場所だけが別の色に見える。
でも、ずっと避けていたら。
あの場所は、ずっと黒服のものになってしまう気がした。
アビドスの校庭なのに。
みんなが歩く場所なのに。
私がただいまと言った校門の近くなのに。
それは、嫌だった。
「……行きます」
声は少し掠れた。
でも、出た。
ノノミさんが、静かに立ち上がった。
「今日は、私が隣を歩いてもいいですか」
私はノノミさんを見る。
ノノミさんは微笑んでいた。
でも、いつものように全部を包み込む笑顔ではなかった。緊張している。心配している。けれど、その上で、隣に立とうとしてくれている。
「急かしませんし、引っ張りません。レナちゃんが止まりたくなったら、一緒に止まります。戻りたくなったら、一緒に戻ります。校庭まで行けなくても、今日は廊下まででいいです」
「ノノミさん」
「はい」
「お願いします」
ノノミさんの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「はい。隣にいます」
対策委員会室を出る。
廊下はいつも通りだった。
砂の匂い。古い掲示物。窓から入る光。遠くで軋む音。何も変わっていない。なのに、校庭へ向かう道だけが少し長く感じた。足が重い。膝が少し震える。
ノノミさんは、隣を歩いていた。
近すぎず、遠すぎず。
触れない。
でも、倒れたらすぐに支えられる距離。
途中で一度、私は足を止めた。
窓の外に、校庭が見えたから。
胸が詰まる。
白い光はない。
分かっている。
それでも、窓の端に何かが揺れた気がして、呼吸が浅くなった。
「止まりますね」
ノノミさんが言った。
本当に止まった。
何も聞かない。
まだ行けますか、とも言わない。
ただ、隣で止まってくれる。
「……怖いです」
私は言った。
「はい」
「何もないのに、何かある気がします」
「はい」
「もう消えてるのに、また映る気がして」
「はい」
ノノミさんは、全部受け取った。
「怖いままで大丈夫です。怖くなくなってから歩くのではなく、怖いまま、少しだけ歩いてみる日でもいいと思います。でも、怖すぎたら戻りましょう。今日は、レナちゃんが負けたかどうかを決める日ではありません」
その言い方が、少しだけ救いだった。
勝たなくていい。
克服しなければいけない日ではない。
ただ、少しだけ歩く日。
私は頷いた。
また歩く。
校舎の外へ出る扉が近づく。
セリカさんが先に扉を開けた。
外の光が入る。
私は反射的に目を細めた。
白くない。
夕方の冷たい光ではない。
朝の光だ。
砂の色は薄く、風は弱い。
校庭には何も立っていなかった。
スクリーンもない。
投影機もない。
あの光もない。
それでも、一歩踏み出した瞬間、心臓が大きく鳴った。
足元の砂が鳴る。
床ではない。
砂だ。
でも、身体はまだ少し混乱する。
膝が折れそうになる。
その時、アヤネさんが横に来た。
何も言わずに近づくのではなく、少しだけ先に声を置く。
「レナさん。袖なら、掴んでも大丈夫です。肩でも構いません。倒れそうになった時だけではなく、怖い時に使ってください」
アヤネさんは、自分の袖を少しだけ差し出していた。
この前は手を握ってくれた。
今日は、袖。
触れる場所を、私が選べるようにしてくれている。
「……袖、お願いします」
「はい」
私はアヤネさんの袖を掴んだ。
強く掴みすぎないようにしたつもりだった。
でも、指に力が入っていた。
「痛くないですか」
「大丈夫です。むしろ、ちゃんと掴んでください。今の私は、レナさんに使われるためにここにいます」
「使うって」
「言い方が少し変でしたね」
アヤネさんは小さく息を吐いた。
「支えにしてください。私が倒れないように立ちますから」
それが、アヤネさんらしかった。
理屈の形をしているのに、根っこはとても感情的だった。
校庭の中央へ近づく。
そこが、映像が一番大きく見えた場所だった。
今は、何もない。
何もないのに、私は立ち止まった。
喉が詰まる。
視界の端が少し白くなる。
手が髪へ伸びそうになる。
羽根が強張る。
その瞬間、セリカさんの声がした。
「ここは校庭」
強くも、優しくもない。
ただ、真っ直ぐな声だった。
「スクリーンはない。投影機もない。音もない。黒服もいない。いるのは、私たちとレナ。あと砂と、校舎と、朝の光」
セリカさんが、一つずつ言う。
事実を。
感情ではなく、今ここにあるものを。
「昨日までに、装置は全部撤去した。アヤネがログも確認してる。シロコが校庭の周りも見た。先生もいる。ここに、あの映像はない」
私は、息を吸った。
浅い。
でも入る。
セリカさんの声は続く。
「あれが流れた場所ではある。でも、それだけじゃないでしょ。ここ、あんたが最初にアビドスへ来た時に通った場所でもある。帰ってきた時、ただいまって言った場所の近くでもある。私たちが見送った場所でもある」
セリカさんの声が、ほんの少しだけ震えた。
それでも、言い切った。
「黒服に、ここが何の場所か全部決められるの、私は嫌」
胸の奥に、何かが落ちた。
黒服に決められる。
それは嫌だった。
この場所が、ただ映像が流れた場所になるのは嫌だ。
あの光だけの場所になるのは嫌だ。
「……私も」
声が出た。
小さかった。
でも、出た。
「私も、嫌です」
足が震える。
アヤネさんの袖を握る手に力が入る。
ノノミさんが隣で待っている。
セリカさんが、事実を言ってくれた。
私は、校庭を見る。
砂。
校舎。
朝の光。
みんな。
ここは、あの映像が流れた場所です。
そう思うと、まだ怖い。
胸が痛い。
でも、それだけではない。
「ここは……」
私は、ゆっくり言った。
「ここは、あの映像が流れた場所です」
喉が痛む。
でも、言えた。
「でも、それだけじゃないです。私がただいまって言った場所でもあります。シロコさんが迎えに来てくれた場所で、セリカさんが布を結んでくれたバッグを持って立った場所で、ノノミさんが隣を歩いてくれて、アヤネさんが袖を貸してくれて、ホシノ先輩が……」
言いかけて、ホシノ先輩を見た。
ホシノ先輩は、少し後ろにいた。
来ない。
急かさない。
ただ、そこにいる。
私が見ると、ホシノ先輩はゆっくり口を開いた。
「レナちゃん」
「はい」
「待っててもいい?」
その言葉は、静かだった。
ホシノ先輩が、待ってもいいかを聞いている。
前に一人で行こうとした人が。
遠くなる背中を見せた人が。
今は、待つ許可を求めている。
「レナちゃんが自分で歩き出せるまで、おじさんここで待っててもいい? 急かさないし、置いていかない。今日は、待つ側でいさせて」
胸が痛くなった。
でも、温かかった。
「……はい」
私は頷いた。
「待っていてください」
「うん」
ホシノ先輩は、少しだけ笑った。
「待ってるよ」
私は、もう一度校庭を見た。
怖い。
まだ怖い。
でも、今は怖いだけではなかった。
私の隣にノノミさんがいる。
袖にはアヤネさんの温度がある。
セリカさんの声が、今ある事実を並べてくれた。
ホシノ先輩が、待ってくれている。
先生が見ている。
そして、シロコさんは少し離れたところで、校庭の端を見ていた。
警戒しているのだと思った。
でも違った。
シロコさんは、戻る道を見ていた。
「レナ」
シロコさんが言った。
「戻ろう」
「え?」
「お茶、冷める」
あまりにもいつも通りの声だった。
一瞬、拍子抜けした。
校庭。克服。怖さ。映像。そんな言葉でいっぱいだった頭に、お茶、という日常の言葉が入ってくる。
お茶。
カップ。
対策委員会室。
戻る場所。
私は、ほんの少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
「……はい。戻ります」
「ん」
シロコさんが頷く。
それ以上は言わない。
でも、それで十分だった。
私は一歩、歩いた。
校庭の中央から、校舎へ向かって。
足はまだ震えている。
アヤネさんの袖はまだ掴んでいる。
ノノミさんは隣にいる。
セリカさんは少し前を歩き、時々振り返る。
ホシノ先輩は後ろから、ちゃんと待ちながらついてくる。
先生は何も言わず、最後尾にいた。
校舎へ入る直前、私は一度だけ振り返った。
校庭には、何もなかった。
砂。
校舎。
朝の光。
それだけだった。
怖くない、とまでは言えない。
でも、あの場所ではなかった。
それだけは、分かった。
◇
対策委員会室に戻ると、シロコさんの言った通り、お茶は少し冷めかけていた。
セリカさんが慌ててカップを取る。
「だから言ったじゃない。冷めるって」
「言ったのはシロコさんです」
「細かいことはいいの。温め直すから待ってなさい」
セリカさんはそう言って、いつものように動き始めた。
その背中を見ていると、胸の奥が少しずつ落ち着いていく。
ノノミさんが私の隣に座る。
「お疲れさまでした、レナちゃん」
「途中までしか、行けてないかもしれません」
「十分です。今日は、戻ってこられましたから」
アヤネさんが自分の袖を見る。
私がかなり強く掴んでいたせいで、少し皺になっていた。
「すみません、袖」
「構いません。むしろ、役に立ったならよかったです」
アヤネさんは少し照れたように言った。
ホシノ先輩は長椅子に腰を下ろす。
「おじさん、待つのもなかなか悪くないねぇ」
「ホシノ先輩が言うと重みがありますね」
「うへぇ。アヤネちゃん、手厳しい」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
セリカさんが温め直したカップを持ってくる。
「はい」
私はカップを受け取った。
白いカップ。
数日前、持てなかったカップ。
今日は、持てる。
手は少し震えている。
でも、持てる。
温かい。
アビドスの味がした。
「……おいしいです」
そう言うと、セリカさんは目を逸らした。
「知ってる」
シロコさんが、窓際からこちらを見た。
今度は、見られても怖くなかった。
シロコさんは短く言う。
「日常に戻った」
私はカップを両手で持ったまま、頷いた。
「はい」
完全に戻ったわけではない。
怖さが消えたわけではない。
黒服の映像は、まだ頭の奥に残っている。見せられたことも、見られたことも、なかったことにはならない。これからも、急に苦しくなる日があるかもしれない。校庭を見るたびに、胸が痛むこともあると思う。
でも。
それだけではなくなった。
校庭は、映像が流れた場所。
それだけではなく、私が帰ってきた場所。
対策委員会室は、私が泣いた場所。
それだけではなく、ここにいていいと言ってもらった場所。
カップは、怖くて持てなかったもの。
それだけではなく、今、こうして温かさを受け取れるもの。
黒服に、全部を決めさせない。
そのことを、私は少しだけ分かった。
「先生」
私はカップを置いて、先生を見た。
「はい」
「次の依頼、行けます」
部屋の空気が、また少し止まった。
セリカさんが振り返る。
ノノミさんが私を見る。
アヤネさんの手が端末の上で止まる。
シロコさんの目が細くなる。
ホシノ先輩が、ゆっくり顔を上げる。
「無理してない?」
先生が聞いた。
私は少し考えた。
怖くない、と言ったら嘘になる。
完全に大丈夫、とも言えない。
でも、行ける。
助けに行くために。
自分が壊れていないことを、誰かに証明するためではなく。
私は私のまま、また歩けると、少しだけ分かったから。
「無理は、少しあるかもしれません。でも、行けないほどではありません。怖い時は言います。苦しい時も、今度はちゃんと伝えます。だから……行きたいです」
先生は、長く私を見た。
それから、静かに頷いた。
「分かったわ。ただし、条件つき。無理を隠さないこと。休む予定を先に入れること。アビドスにも、救護騎士団にも、シャーレにも連絡をつなげること」
「はい」
セリカさんが腕を組んだ。
「あと、帰ってくること」
私はセリカさんを見る。
セリカさんは真っ赤になりながら、でも目を逸らさなかった。
「それ、条件だから。どこ行くのか知らないけど、ちゃんと帰ってきなさいよ。遅れるなら連絡。無理なら迎えに行く。これは決定」
「はい」
ノノミさんが微笑む。
「帰ってきたら、お茶にしましょうね。怖かったことも、楽しかったことも、話せる範囲で聞かせてください」
「はい」
アヤネさんが端末を開く。
「では、次回帰還予定を設定します。今度は、予定だけではなく、休養時間も入れておきます」
「お願いします」
シロコさんが言う。
「迎えに行く」
「またですか?」
「うん。帰る場所だから」
ホシノ先輩が、眠そうに笑った。
「行ってらっしゃい、はまだ早いかなぁ」
「たぶん、もう少しだけ」
「そっか。じゃあ、その時まで待ってるよ」
待ってる。
その言葉が、今は怖くなかった。
私はカップをもう一度持った。
温かい。
手の震えは、少しだけおさまっていた。
黒服に見せられたものは消えない。
でも、それだけが私ではない。
床に近い場所で泣いた私も、映像の中で切り取られた私も、ここでカップを持っている私も、全部を抱えたまま、それでも私は歩ける。
アビドスは、それを見てくれた。
見ないでいてくれた。
待ってくれた。
日常へ戻してくれた。
だから、次へ行ける。
次へ行って、また帰ってこられる。
そう思えたことが、今は何より大きかった。
ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?
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