戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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23話 怒る理由を無くさないで

 

 

 柴関ラーメンの暖簾が、風に揺れていた。

 

 前に見た時より、少しだけ色が鮮やかに見える。もちろん、新品みたいになったわけではない。端はまだ少し擦れているし、布地には長く使われてきた跡がある。それでも、焦げた匂いではなく、スープの匂いが店先まで漂っているだけで、胸の奥がゆっくりほどける気がした。

 

 湯気。

 

 出汁の匂い。

 

 カウンターの向こうで動く柴大将の気配。

 

 そして、その前で腕を組んでいるセリカさん。

 

「遅い」

 

「予定より三分早いです」

 

「私が待ってたから遅いの」

 

「基準がセリカさんすぎません?」

 

 口からそんな言葉が出て、自分で少しだけ驚いた。

 

 前なら、たぶんすぐに謝っていた。すみません、急いだつもりだったんですけど、とか、次はもっと早く来ます、とか。けれど今は、セリカさんの眉がきゅっと寄るのを見ると、少しだけ安心してしまう。

 

 怒られる。

 

 それが怖くない。

 

 むしろ、ちゃんとここに着いたのだと分かる。

 

 セリカさんは私をじっと見てから、ふん、と顔を逸らした。

 

「まあいいわ。今日は時間ないんだから、さっさと着替えて」

 

「着替え?」

 

「バイトするんでしょ」

 

「手伝いです。バイトって言うと、急に責任が重くなるんですけど」

 

「責任持って手伝いなさいよ」

 

「言い換えた意味がない……」

 

 柴大将が奥で笑った。

 

 その声も、前より少し元気に聞こえる。もちろん、全部元通りではないのだと思う。壊れたものは直しても跡が残る。店の壁の一部はまだ新しい材で補修されていて、前からある場所と少し色が違っていた。けれど、その違いも今は、ここがまた動いている証みたいだった。

 

 セリカさんは店の奥から、布を一枚取り出した。

 

 薄い色のエプロン。

 

 柴関ラーメンの店でよく見るものより、ほんの少しだけ小さい。新品らしく、折り目がきっちり残っている。ポケットの端には、淡い糸で小さく刺繍が入っていた。

 

 レナ。

 

 私は、思わず固まった。

 

「……セリカさん」

 

「何」

 

「これ、私の名前入ってません?」

 

「入ってるわね」

 

「入ってるわね、じゃなくて。いつ作ったんですか?」

 

「必要になると思ったから」

 

「私、今日初めて手伝うんですけど」

 

「だから今日必要でしょ」

 

 あまりにも当然みたいに言われて、私は一瞬返せなかった。

 

 エプロンの名前をもう一度見る。小さい。目立つわけではない。けれど、確かに私の名前だ。店の備品というより、もう最初から私のために用意されたものに見える。

 

 というか、私のために用意されている。

 

「これ、私以外に着る人いないですよね?」

 

「いないから入れたの」

 

 セリカさんは、さらっと言った。

 

 その声があまりに自然で、少しだけ胸の奥が変な音を立てた。

 

 いないから入れた。

 

 それは、ただの備品管理の言葉のはずだった。名前がないと分からなくなるから、ではなく、他の誰も着ないから。私だけのものだから。そういう意味が、何でもない顔でそこに置かれた。

 

 セリカさんはすぐに目を逸らす。

 

「な、何よ。変な顔しないでよ。店の物なんだから、誰のか分かるようにしただけでしょ」

 

「いや、でも私専用……」

 

「うるさい。ほら、着る」

 

「はいはい……」

 

「はいは一回」

 

「はい」

 

 エプロンに袖を通すと、布が少し硬かった。新品の匂いがする。柴関ラーメンのスープの匂いとは違う、まだ誰のものにもなっていない布の匂い。けれど胸元に名前があるだけで、それが少しずつ私のものになっていくようで、落ち着かない。

 

 紐を後ろで結ぼうとしたら、セリカさんがすぐに眉を寄せた。

 

「待って。緩い」

 

「え、自分でできますって」

 

「できてないから言ってるの。皿運ぶ途中で引っかけたら危ないでしょ」

 

「今日の私、皿を運ぶ前から信用ないですね」

 

「信用したいから確認してるの」

 

 そう言って、セリカさんが私の後ろへ回った。

 

 背中側で、紐に触れられる。

 

 一瞬だけ肩が強張った。

 

 でも、すぐに力を抜いた。

 

 セリカさんの指は、怒っている声よりずっと優しかった。紐を一度結んで、少し引いて、またほどく。長さを揃えて、もう一度結び直す。そんなに丁寧にしなくてもいいはずなのに、結び目がほどけない理由を一つずつ増やしているみたいだった。

 

「きつくない?」

 

「大丈夫です」

 

「動いた時に苦しくなったら言いなさいよ。勝手に我慢しない」

 

「はい」

 

「あと、熱いものを持つ時は両手。走らない。床濡れてたら踏まない。カウンター内で急に振り返らない。注文聞き返すのは恥ずかしくないから、分からなかったら聞く」

 

「セリカさん、説明が本格的です」

 

「本格的にやるんだから当たり前でしょ」

 

「私、今日でクビにならないですかね」

 

「初日からクビの心配しないの」

 

 セリカさんは結び目を最後に軽く叩くと、私の背中から離れた。

 

 少しだけ、背中が温かい。

 

 エプロンの紐が、私をこの店につないでいるみたいだった。

 

「はい、これ」

 

 次に渡されたのは、手拭いだった。

 

 セリカさんが使っているものと同じ柄。少し色違いだけど、並べたら同じ店のものだとすぐ分かる。

 

「これも私用ですか?」

 

「汗拭いたり、熱い器触る時に使ったりするの。持ってなさい」

 

「同じ柄ですね」

 

「店で使うものだから当然でしょ」

 

「セリカさんとお揃いっぽいです」

 

「ぽいとか言わない!」

 

 セリカさんの顔が少し赤くなった。

 

 私は手拭いをエプロンのポケットに入れる。ポケットの中で、布が少し膨らんだ。小さな重さ。でも、その重さがあるだけで、私は今日この店の中で何か役割をもらった気がした。

 

 柴大将がカウンターの奥から声をかけてくる。

 

「レナちゃん、よろしく頼むよ。セリカちゃんは厳しいけど、ちゃんと見てくれるからね」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「大将、余計なこと言わないでください」

 

「いやぁ、頼もしいねぇ」

 

「もう……!」

 

 セリカさんは少しむくれた顔で、私に水の入ったピッチャーを渡した。

 

「まずは水。席にお客さんが来たら、これを持っていく。こぼさない。勢いよく置かない。カップの縁は持たない。分かった?」

 

「分かりました。水、こぼさない、勢いよく置かない、縁は持たない」

 

「復唱できるならよし」

 

「訓練みたいですね」

 

「実際訓練みたいなものでしょ」

 

「ラーメン屋の訓練……」

 

 そんなことを話しているうちに、最初のお客さんが入ってきた。

 

 私は少しだけ背筋を伸ばす。

 

 水。

 

 水を持つ。

 

 歩く。

 

 落ち着いて。

 

「いらっしゃいませ」

 

 声が少し裏返った。

 

 セリカさんの視線が横から飛んでくる。

 

 失敗した、と思ったけれど、お客さんは気にせず席に座った。私はピッチャーとコップを持って近づく。足元を見る。床は濡れていない。カップの縁は持たない。水を注ぐ。勢いをつけない。

 

 注げた。

 

 カップを置く。

 

 少しだけ音が大きかった。

 

 セリカさんが後ろから小さく言う。

 

「惜しい。次もう少し静かに」

 

「はい」

 

 怒鳴られなかった。

 

 というか、すごく見られている。

 

 私は次のカップを持つ。今度はもっと静かに置けた。

 

 セリカさんが、ほんの少しだけ頷いた。

 

 それだけなのに、なんだか嬉しくなる。

 

「セリカさん、今のは?」

 

「まあまあ」

 

「厳しい」

 

「調子に乗らない」

 

「はい」

 

 注文を聞くのは、思ったより難しかった。

 

 ラーメンの種類だけならまだいい。麺の硬さ、味の濃さ、追加の具、セットの有無。お客さんは慣れているから当然みたいに言うけれど、私は頭の中で必死に並べ直す。

 

「えっと、味噌ラーメン、麺硬め、ネギ多め、餃子セット……で、合ってますか?」

 

「うん」

 

「ありがとうございます」

 

 振り返った瞬間、セリカさんとぶつかりそうになった。

 

「待って、急に振り返らない!」

 

「す、すみませ……じゃなくて、気をつけます」

 

「謝る前に止まる。あと今の注文、ちゃんと書いた?」

 

「はい!」

 

「見せて」

 

 メモを渡す。

 

 セリカさんは目を通して、少しだけ眉を上げた。

 

「合ってる」

 

「やった」

 

「やったじゃないの。次もやるの」

 

「セリカさん、褒める時一瞬ですね」

 

「褒められるために働いてるんじゃないでしょ」

 

「でも褒められると嬉しいです」

 

「……っ」

 

 セリカさんが一瞬黙った。

 

 それから、ぷいっと顔を背ける。

 

「じゃあ、次もちゃんとできたら考える」

 

「考えるんだ」

 

「うるさい」

 

 昼時に近づくと、店は少しずつ忙しくなった。

 

 水を出す。注文を聞く。カウンターを拭く。空いた器を下げる。お客さんが立った後の席を整える。簡単そうに見えて、全部に順番がある。水を補充しようとすれば別のお客さんに呼ばれ、器を下げようとすれば足元の箱に気をつけないといけない。

 

 私は何度か危なっかしい動きをして、そのたびにセリカさんに止められた。

 

「レナ、そっち熱い!」

 

「わっ、はい!」

 

「器は下から持たない! 手拭い使って!」

 

「あ、これですね!」

 

「そう! あと返事はいいから手元見て!」

 

「はい!」

 

「返事してる!」

 

「難しい!」

 

 柴大将がまた笑う。

 

 セリカさんは怒っているけれど、どこか楽しそうにも見えた。いや、本人に言ったら絶対に怒られる。でも、怒る声に少しだけ弾みがある。忙しい店の中で、私を見て、注意して、呆れて、また指示を出す。その流れが、思ったより自然だった。

 

 私は水をこぼしかけた。

 

 しかけただけで済んだ。

 

 セリカさんが、すごい速さでピッチャーを支えたから。

 

「危なっ」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

「だから謝る前に持ち直す!」

 

「持ち直しました!」

 

「じゃあよし!」

 

「よしなんですか!?」

 

「こぼしてないから!」

 

 セリカさんはそう言って、私の手元を確認した。

 

 指が一瞬触れる。

 

 支えるための接触。

 

 それだけだった。

 

 でも、セリカさんの指はすぐに離れなかった。ピッチャーの持ち方を直すみたいに、私の指の位置を一つずつ整える。ここを持つ。親指はこっち。手首を少し内側。そう言われるたび、私は小さく頷いた。

 

「こう?」

 

「そう。力入れすぎない。怖がって固く持つと逆に危ないから」

 

「はい」

 

「……大丈夫。今の持ち方なら、ちゃんとできる」

 

 最後の声だけ、少し柔らかかった。

 

 私はセリカさんを見る。

 

 セリカさんはすぐに顔を逸らした。

 

「何見てるの。次、水」

 

「はい」

 

 忙しい時間が過ぎると、店の中に少しだけ静けさが戻った。

 

 お客さんが減り、柴大将が奥で仕込みを確認し、私はカウンターを拭いていた。セリカさんは隣でテーブルを拭いている。二人で黙って布を動かす音だけが続く。

 

 手拭いはもう少し湿っていた。

 

 エプロンにも、少しだけ水の跡がついている。

 

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 自分がここで動いた跡みたいだった。

 

「セリカさん」

 

「何」

 

「私、今日けっこう働けてません?」

 

「自分で言う?」

 

「言わないと褒めてくれなさそうなので」

 

「……まあ、最初にしては」

 

「しては?」

 

「悪くなかった」

 

 私は思わず笑った。

 

「やった。セリカさんから“悪くなかった”をもらいました」

 

「なにそれ」

 

「けっこう高評価ですよね?」

 

「調子に乗ると減点するわよ」

 

「採点制だったんですか」

 

 セリカさんはテーブルを拭きながら、少しだけ口元を緩めた。

 

 私はその横顔を見て、つい言ってしまった。

 

「でも、私がここで働いたら、毎日セリカさんに怒られそうですね」

 

「当たり前でしょ。あんた、絶対何かやらかすし」

 

「じゃあ、私はセリカさんに怒られるために通わないとですね」

 

 冗談のつもりだった。

 

 セリカさんもすぐに、何よそれ、って怒ると思った。

 

 でも、セリカさんは黙った。

 

 布を持つ手が、テーブルの上で止まる。

 

 店の奥から、スープの小さな音が聞こえた。

 

 セリカさんは、テーブルを見たまま言った。

 

「……怒る理由、なくならないでほしい」

 

 声が、さっきまでと違った。

 

 私は何も返せなかった。

 

 セリカさんは、こちらを見ない。

 

「水飲みなさいとか、危ないとか、また変な持ち方してるとか、遅いとか、そういうの言える相手って、ずっといるわけじゃないでしょ。いなくなったら、言えないでしょ」

 

 胸の奥が、静かに重くなる。

 

 セリカさんの声は震えていなかった。

 

 だから、余計に怖いくらい深かった。

 

「私、たぶん怖いの。あんたに怒れなくなる日が来るのが。怒る相手がいなくなって、カップだけ残って、エプロンだけ残って、あんたが座ってた席だけ見てるのが、怖い」

 

 セリカさんの手が、エプロンの端を握った。

 

 私のではなく、自分の。

 

 でも、その指先は白くなっていた。

 

「だから、ちゃんと通いなさいよ。怒られる義務があるんだから」

 

「義務なんですか……?」

 

「義務よ」

 

 セリカさんは、ようやく顔を上げた。

 

 目元が少し赤い。

 

 でも、怒っている顔をしていた。

 

「アビドスでバイトしたら終身雇用だから」

 

「労働契約が怖すぎます!」

 

「怖くないでしょ。福利厚生は水とまかない」

 

「まかないにつられそうな自分がいます」

 

「つられなさいよ」

 

 ギャグみたいに戻った。

 

 でも、さっきの言葉は消えなかった。

 

 怒る理由、なくならないでほしい。

 

 その言葉が、エプロンの紐みたいに背中へ残っている。

 

 私は、自分の胸元の刺繍に触れた。

 

 レナ。

 

 この店のどこかに、私の名前がある。

 

 それは嬉しい。

 

 少し怖いくらいに。

 

「セリカさん」

 

「何よ」

 

「私、また来ます」

 

 セリカさんが、一瞬だけ目を丸くした。

 

「そりゃ来るでしょ。エプロン作ったんだから」

 

「エプロン基準なんですね」

 

「そうよ。名前まで入れたんだから、放置したら許さない」

 

「許されないんだ」

 

「当たり前」

 

 セリカさんは、私のエプロンの結び目をもう一度見た。

 

 そして、少しだけ眉を寄せる。

 

「ちょっと曲がってる」

 

「え、さっき完璧に結んでくれたのに」

 

「動いたからでしょ。こっち向かないで、そのまま」

 

「また直すんですか?」

 

「悪い?」

 

「悪くないです」

 

 セリカさんは私の後ろへ回った。

 

 また紐に触れる。

 

 今度は最初より少しだけ長く感じた。

 

 結び目をほどく音。

 

 布が擦れる音。

 

 セリカさんの息。

 

 店の匂い。

 

 ラーメンの湯気。

 

 手拭いの湿った重さ。

 

 全部が混ざって、ここにいる感覚になる。

 

「セリカさん」

 

「動かないで」

 

「はい」

 

「何」

 

「怒られるの、嫌じゃないです」

 

 背中側で、セリカさんの指が止まった。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「もちろん、本気で怒られるのは怖いですけど。でも、セリカさんに危ないとか、水飲めとか、遅いとか言われると、なんか……帰ってきた感じがします」

 

「……そう」

 

 声が小さかった。

 

 次の瞬間、紐がきゅっと締められた。

 

「ちょ、少し強いです」

 

「うるさい。ほどけないようにしてるだけ」

 

「今、照れ隠しで締めましたよね?」

 

「してない!」

 

「してますって」

 

「レナ、今日のまかない減らすわよ」

 

「権力の使い方が雑です!」

 

 セリカさんはようやく結び終えると、私の背中を軽く叩いた。

 

「はい、終わり」

 

「ありがとうございます」

 

「次来た時もこれ着るのよ。別に、店に置いていってもいいし、持って帰ってもいいけど」

 

「持って帰っていいんですか?」

 

「……好きにしなさいよ」

 

 私は少し迷った。

 

 店に置いていけば、次に来た時、この店に私のものがある。持って帰れば、アビドスの匂いを少しだけ救護騎士団の部屋へ持っていける。

 

 どちらも嬉しい。

 

 どちらも少しだけ困る。

 

「じゃあ、今日は持って帰ります」

 

「なんで?」

 

「ミネ先輩に見せたいので」

 

「……そう」

 

 セリカさんは一瞬だけ、何かを考える顔をした。

 

 それから、手拭いをもう一枚取り出した。

 

「これも持って帰りなさい」

 

「え、いいんですか?」

 

「洗い替え。次来る時に忘れたら困るでしょ」

 

「セリカさん、準備が良すぎます」

 

「誰かさんが忘れそうだからでしょ」

 

「信用が戻らない」

 

「戻す努力をしなさい」

 

 渡された手拭いは、さっきのものと同じ柄だった。

 

 私はそれを受け取って、エプロンのポケットに入れる。

 

 二枚分の布の重さ。

 

 軽いはずなのに、妙に存在感があった。

 

 閉店後、まかないを出してもらった。

 

 小さめのラーメン。

 

 セリカさんいわく、初日だから特別、らしい。

 

 私はカウンターに座って、両手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 スープを一口飲む。

 

 熱くて、優しい。

 

 鼻の奥が少しだけつんとした。

 

「どう?」

 

 セリカさんが聞く。

 

 声は平静を装っていたけど、目はかなり真剣だった。

 

「おいしいです」

 

「当たり前でしょ」

 

「セリカさんが作ったんですか?」

 

「大将に見てもらいながらね。変だったら言いなさい」

 

「変じゃないです。すごくおいしいです」

 

「……そう」

 

 セリカさんは、少しだけ安心した顔をした。

 

 それから、自分の分を持って隣に座る。

 

「レナ、熱いからゆっくり食べない」

 

「分かってます」

 

「本当にわかってるんでしょうね。さっき器の持ち方危なかったから、信用はしてない」

 

「食事中まで管理されてる」

 

「初日だから」

 

「二回目からは?」

 

「たぶんする」

 

「正直ですね」

 

 セリカさんは小さく笑った。

 

 私も笑った。

 

 店の中は、もうお客さんがいない。柴大将は奥で片付けをしている。外では砂が少しだけ流れている。カウンターの上には二人分の湯気。私の膝には、レナと刺繍されたエプロン。

 

 怖いくらい、普通だった。

 

 でも、その普通が嬉しかった。

 

「ねえ、レナ」

 

「はい」

 

「あんた、今日のこと忘れないでよ」

 

「バイト初日の失敗をですか?」

 

「それも」

 

「それもなんだ……」

 

 セリカさんは箸を止めた。

 

 湯気の向こうで、少しだけ目を伏せる。

 

「この店で水出して、怒られて、まかない食べたこと。エプロン着たこと。手拭い持って帰ること。そういうの、ちゃんと覚えてて」

 

 声が静かだった。

 

「アビドスに来る理由、怖いこととか、救護とか、そういうのだけじゃなくていいから。ここで怒られるとか、ラーメン食べるとか、そういう理由でも来て」

 

 私は箸を握ったまま、しばらく黙った。

 

 重い。

 

 でも、嫌じゃない。

 

 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。

 

「……はい」

 

 私は言った。

 

「じゃあ、また怒られに来ます」

 

「だから、怒られる前提なのやめなさいよ」

 

「セリカさんが怒る理由なくならないでほしいって言ったので」

 

「言ったけど!」

 

「じゃあ、私は怒られる義務を果たします」

 

「その言い方だと私がすごく悪い人みたいじゃない!」

 

「大丈夫です。まかない付きなので」

 

「待遇で判断しないで」

 

 セリカさんは顔を赤くして怒った。

 

 私は笑った。

 

 笑いながら、スープをもう一口飲む。

 

 エプロンの紐は、まだ背中できちんと結ばれている。手拭いはポケットに入っている。私の名前は、胸元に小さく刺繍されている。

 

 これはただのバイト体験。

 

 ただのお手伝い。

 

 ただの、柴関ラーメンの日常。

 

 でも、その中にセリカさんの手が残っていた。

 

 結び目に。

 

 手拭いに。

 

 水を持つ指の位置に。

 

 遅いと怒る声に。

 

 怒る理由をなくさないでほしい、という少し怖いくらい真っ直ぐな願いに。

 

 食べ終わる頃には、外の砂の色が少し変わっていた。

 

 帰る時間だ。

 

 エプロンを脱ごうとしたら、セリカさんがすぐに言った。

 

「待って。畳み方、教える」

 

「エプロンにも畳み方が?」

 

「あるわよ。次着る時に変な皺ついてたら嫌でしょ」

 

「セリカさん、もしかしてこのエプロンかなり大事にしてます?」

 

「はあ!? 大事にしない理由ある!?」

 

「いや、ないとは言ってないです」

 

「じゃあ黙って畳み方覚える」

 

「はい、先生」

 

「先生って呼ばない!」

 

 結局、エプロンの畳み方も、手拭いのしまい方も、細かく教えられた。

 

 ポケットは内側に。

 

 名前の刺繍が潰れないように。

 

 紐はまとめて、変に絡まないように。

 

 私は途中で笑ってしまった。

 

「何笑ってるの」

 

「セリカさん、やっぱり厳しいなって」

 

「嫌ならやめる?」

 

「やめません」

 

 即答だった。

 

 セリカさんが、少しだけ黙る。

 

 私は畳んだエプロンを抱えた。

 

「また来ますから」

 

「……うん」

 

 セリカさんは、いつもより小さく返事をした。

 

 そのあと、すぐに顔を上げる。

 

「次はもっとちゃんと働いてもらうからね。今日みたいに危なっかしい動きしたら、倍怒るから」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

「そこは嫌がりなさいよ」

 

「嫌じゃないので」

 

「……ほんと、調子狂う」

 

 セリカさんはそう言って、店の暖簾を直した。

 

 私は柴大将に挨拶して、店の外へ出る。

 

 砂の風が少しだけ頬を撫でた。ポケットには手拭い。腕の中には畳んだエプロン。胸の奥には、まかないの温かさ。

 

 セリカさんが店先まで出てくる。

 

「帰り、転ばないでよ」

 

「転びません」

 

「前もそんなこと言ってた気がする」

 

「信用が本当にない」

 

「信用したいから言ってるの」

 

 また、それ。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、ちゃんと帰ったら連絡します」

 

「絶対よ」

 

「はい」

 

「あと、水飲みなさい」

 

「今ですか?」

 

「帰る前」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

「はい」

 

 私は水を飲んだ。

 

 セリカさんはそれを確認して、ようやく満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

「褒められました?」

 

「確認しただけ」

 

「厳しい」

 

「次来たら褒めてあげるかもね」

 

「本当ですか?」

 

「ちゃんと働けたら」

 

「頑張ります」

 

 セリカさんは、ほんの少しだけ笑った。

 

 怒る理由をなくさないでほしい。

 

 その言葉はまだ重い。

 

 でも、その重さごと、私はエプロンを抱きしめた。

 

 アビドスに来る理由が、また一つ増えた。

 

 救護でも、依頼でも、怖い記憶を取り戻すためでもない。

 

 水を出して、怒られて、まかないを食べて、エプロンを畳むため。

 

 セリカさんに「遅い」と言われるため。

 

 それだけの理由で、またここへ来てもいい。

 

 そう思えることが、今は少しだけ誇らしかった。

ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?

  • レナが最強格の世界線
  • 甘え上手で小悪魔な世界線
  • 物理的に食べられる世界線
  • 好かれすぎて殺されそうになる世界線
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