戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
柴関ラーメンの暖簾が、風に揺れていた。
前に見た時より、少しだけ色が鮮やかに見える。もちろん、新品みたいになったわけではない。端はまだ少し擦れているし、布地には長く使われてきた跡がある。それでも、焦げた匂いではなく、スープの匂いが店先まで漂っているだけで、胸の奥がゆっくりほどける気がした。
湯気。
出汁の匂い。
カウンターの向こうで動く柴大将の気配。
そして、その前で腕を組んでいるセリカさん。
「遅い」
「予定より三分早いです」
「私が待ってたから遅いの」
「基準がセリカさんすぎません?」
口からそんな言葉が出て、自分で少しだけ驚いた。
前なら、たぶんすぐに謝っていた。すみません、急いだつもりだったんですけど、とか、次はもっと早く来ます、とか。けれど今は、セリカさんの眉がきゅっと寄るのを見ると、少しだけ安心してしまう。
怒られる。
それが怖くない。
むしろ、ちゃんとここに着いたのだと分かる。
セリカさんは私をじっと見てから、ふん、と顔を逸らした。
「まあいいわ。今日は時間ないんだから、さっさと着替えて」
「着替え?」
「バイトするんでしょ」
「手伝いです。バイトって言うと、急に責任が重くなるんですけど」
「責任持って手伝いなさいよ」
「言い換えた意味がない……」
柴大将が奥で笑った。
その声も、前より少し元気に聞こえる。もちろん、全部元通りではないのだと思う。壊れたものは直しても跡が残る。店の壁の一部はまだ新しい材で補修されていて、前からある場所と少し色が違っていた。けれど、その違いも今は、ここがまた動いている証みたいだった。
セリカさんは店の奥から、布を一枚取り出した。
薄い色のエプロン。
柴関ラーメンの店でよく見るものより、ほんの少しだけ小さい。新品らしく、折り目がきっちり残っている。ポケットの端には、淡い糸で小さく刺繍が入っていた。
レナ。
私は、思わず固まった。
「……セリカさん」
「何」
「これ、私の名前入ってません?」
「入ってるわね」
「入ってるわね、じゃなくて。いつ作ったんですか?」
「必要になると思ったから」
「私、今日初めて手伝うんですけど」
「だから今日必要でしょ」
あまりにも当然みたいに言われて、私は一瞬返せなかった。
エプロンの名前をもう一度見る。小さい。目立つわけではない。けれど、確かに私の名前だ。店の備品というより、もう最初から私のために用意されたものに見える。
というか、私のために用意されている。
「これ、私以外に着る人いないですよね?」
「いないから入れたの」
セリカさんは、さらっと言った。
その声があまりに自然で、少しだけ胸の奥が変な音を立てた。
いないから入れた。
それは、ただの備品管理の言葉のはずだった。名前がないと分からなくなるから、ではなく、他の誰も着ないから。私だけのものだから。そういう意味が、何でもない顔でそこに置かれた。
セリカさんはすぐに目を逸らす。
「な、何よ。変な顔しないでよ。店の物なんだから、誰のか分かるようにしただけでしょ」
「いや、でも私専用……」
「うるさい。ほら、着る」
「はいはい……」
「はいは一回」
「はい」
エプロンに袖を通すと、布が少し硬かった。新品の匂いがする。柴関ラーメンのスープの匂いとは違う、まだ誰のものにもなっていない布の匂い。けれど胸元に名前があるだけで、それが少しずつ私のものになっていくようで、落ち着かない。
紐を後ろで結ぼうとしたら、セリカさんがすぐに眉を寄せた。
「待って。緩い」
「え、自分でできますって」
「できてないから言ってるの。皿運ぶ途中で引っかけたら危ないでしょ」
「今日の私、皿を運ぶ前から信用ないですね」
「信用したいから確認してるの」
そう言って、セリカさんが私の後ろへ回った。
背中側で、紐に触れられる。
一瞬だけ肩が強張った。
でも、すぐに力を抜いた。
セリカさんの指は、怒っている声よりずっと優しかった。紐を一度結んで、少し引いて、またほどく。長さを揃えて、もう一度結び直す。そんなに丁寧にしなくてもいいはずなのに、結び目がほどけない理由を一つずつ増やしているみたいだった。
「きつくない?」
「大丈夫です」
「動いた時に苦しくなったら言いなさいよ。勝手に我慢しない」
「はい」
「あと、熱いものを持つ時は両手。走らない。床濡れてたら踏まない。カウンター内で急に振り返らない。注文聞き返すのは恥ずかしくないから、分からなかったら聞く」
「セリカさん、説明が本格的です」
「本格的にやるんだから当たり前でしょ」
「私、今日でクビにならないですかね」
「初日からクビの心配しないの」
セリカさんは結び目を最後に軽く叩くと、私の背中から離れた。
少しだけ、背中が温かい。
エプロンの紐が、私をこの店につないでいるみたいだった。
「はい、これ」
次に渡されたのは、手拭いだった。
セリカさんが使っているものと同じ柄。少し色違いだけど、並べたら同じ店のものだとすぐ分かる。
「これも私用ですか?」
「汗拭いたり、熱い器触る時に使ったりするの。持ってなさい」
「同じ柄ですね」
「店で使うものだから当然でしょ」
「セリカさんとお揃いっぽいです」
「ぽいとか言わない!」
セリカさんの顔が少し赤くなった。
私は手拭いをエプロンのポケットに入れる。ポケットの中で、布が少し膨らんだ。小さな重さ。でも、その重さがあるだけで、私は今日この店の中で何か役割をもらった気がした。
柴大将がカウンターの奥から声をかけてくる。
「レナちゃん、よろしく頼むよ。セリカちゃんは厳しいけど、ちゃんと見てくれるからね」
「はい、よろしくお願いします」
「大将、余計なこと言わないでください」
「いやぁ、頼もしいねぇ」
「もう……!」
セリカさんは少しむくれた顔で、私に水の入ったピッチャーを渡した。
「まずは水。席にお客さんが来たら、これを持っていく。こぼさない。勢いよく置かない。カップの縁は持たない。分かった?」
「分かりました。水、こぼさない、勢いよく置かない、縁は持たない」
「復唱できるならよし」
「訓練みたいですね」
「実際訓練みたいなものでしょ」
「ラーメン屋の訓練……」
そんなことを話しているうちに、最初のお客さんが入ってきた。
私は少しだけ背筋を伸ばす。
水。
水を持つ。
歩く。
落ち着いて。
「いらっしゃいませ」
声が少し裏返った。
セリカさんの視線が横から飛んでくる。
失敗した、と思ったけれど、お客さんは気にせず席に座った。私はピッチャーとコップを持って近づく。足元を見る。床は濡れていない。カップの縁は持たない。水を注ぐ。勢いをつけない。
注げた。
カップを置く。
少しだけ音が大きかった。
セリカさんが後ろから小さく言う。
「惜しい。次もう少し静かに」
「はい」
怒鳴られなかった。
というか、すごく見られている。
私は次のカップを持つ。今度はもっと静かに置けた。
セリカさんが、ほんの少しだけ頷いた。
それだけなのに、なんだか嬉しくなる。
「セリカさん、今のは?」
「まあまあ」
「厳しい」
「調子に乗らない」
「はい」
注文を聞くのは、思ったより難しかった。
ラーメンの種類だけならまだいい。麺の硬さ、味の濃さ、追加の具、セットの有無。お客さんは慣れているから当然みたいに言うけれど、私は頭の中で必死に並べ直す。
「えっと、味噌ラーメン、麺硬め、ネギ多め、餃子セット……で、合ってますか?」
「うん」
「ありがとうございます」
振り返った瞬間、セリカさんとぶつかりそうになった。
「待って、急に振り返らない!」
「す、すみませ……じゃなくて、気をつけます」
「謝る前に止まる。あと今の注文、ちゃんと書いた?」
「はい!」
「見せて」
メモを渡す。
セリカさんは目を通して、少しだけ眉を上げた。
「合ってる」
「やった」
「やったじゃないの。次もやるの」
「セリカさん、褒める時一瞬ですね」
「褒められるために働いてるんじゃないでしょ」
「でも褒められると嬉しいです」
「……っ」
セリカさんが一瞬黙った。
それから、ぷいっと顔を背ける。
「じゃあ、次もちゃんとできたら考える」
「考えるんだ」
「うるさい」
昼時に近づくと、店は少しずつ忙しくなった。
水を出す。注文を聞く。カウンターを拭く。空いた器を下げる。お客さんが立った後の席を整える。簡単そうに見えて、全部に順番がある。水を補充しようとすれば別のお客さんに呼ばれ、器を下げようとすれば足元の箱に気をつけないといけない。
私は何度か危なっかしい動きをして、そのたびにセリカさんに止められた。
「レナ、そっち熱い!」
「わっ、はい!」
「器は下から持たない! 手拭い使って!」
「あ、これですね!」
「そう! あと返事はいいから手元見て!」
「はい!」
「返事してる!」
「難しい!」
柴大将がまた笑う。
セリカさんは怒っているけれど、どこか楽しそうにも見えた。いや、本人に言ったら絶対に怒られる。でも、怒る声に少しだけ弾みがある。忙しい店の中で、私を見て、注意して、呆れて、また指示を出す。その流れが、思ったより自然だった。
私は水をこぼしかけた。
しかけただけで済んだ。
セリカさんが、すごい速さでピッチャーを支えたから。
「危なっ」
「ご、ごめんなさい!」
「だから謝る前に持ち直す!」
「持ち直しました!」
「じゃあよし!」
「よしなんですか!?」
「こぼしてないから!」
セリカさんはそう言って、私の手元を確認した。
指が一瞬触れる。
支えるための接触。
それだけだった。
でも、セリカさんの指はすぐに離れなかった。ピッチャーの持ち方を直すみたいに、私の指の位置を一つずつ整える。ここを持つ。親指はこっち。手首を少し内側。そう言われるたび、私は小さく頷いた。
「こう?」
「そう。力入れすぎない。怖がって固く持つと逆に危ないから」
「はい」
「……大丈夫。今の持ち方なら、ちゃんとできる」
最後の声だけ、少し柔らかかった。
私はセリカさんを見る。
セリカさんはすぐに顔を逸らした。
「何見てるの。次、水」
「はい」
忙しい時間が過ぎると、店の中に少しだけ静けさが戻った。
お客さんが減り、柴大将が奥で仕込みを確認し、私はカウンターを拭いていた。セリカさんは隣でテーブルを拭いている。二人で黙って布を動かす音だけが続く。
手拭いはもう少し湿っていた。
エプロンにも、少しだけ水の跡がついている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
自分がここで動いた跡みたいだった。
「セリカさん」
「何」
「私、今日けっこう働けてません?」
「自分で言う?」
「言わないと褒めてくれなさそうなので」
「……まあ、最初にしては」
「しては?」
「悪くなかった」
私は思わず笑った。
「やった。セリカさんから“悪くなかった”をもらいました」
「なにそれ」
「けっこう高評価ですよね?」
「調子に乗ると減点するわよ」
「採点制だったんですか」
セリカさんはテーブルを拭きながら、少しだけ口元を緩めた。
私はその横顔を見て、つい言ってしまった。
「でも、私がここで働いたら、毎日セリカさんに怒られそうですね」
「当たり前でしょ。あんた、絶対何かやらかすし」
「じゃあ、私はセリカさんに怒られるために通わないとですね」
冗談のつもりだった。
セリカさんもすぐに、何よそれ、って怒ると思った。
でも、セリカさんは黙った。
布を持つ手が、テーブルの上で止まる。
店の奥から、スープの小さな音が聞こえた。
セリカさんは、テーブルを見たまま言った。
「……怒る理由、なくならないでほしい」
声が、さっきまでと違った。
私は何も返せなかった。
セリカさんは、こちらを見ない。
「水飲みなさいとか、危ないとか、また変な持ち方してるとか、遅いとか、そういうの言える相手って、ずっといるわけじゃないでしょ。いなくなったら、言えないでしょ」
胸の奥が、静かに重くなる。
セリカさんの声は震えていなかった。
だから、余計に怖いくらい深かった。
「私、たぶん怖いの。あんたに怒れなくなる日が来るのが。怒る相手がいなくなって、カップだけ残って、エプロンだけ残って、あんたが座ってた席だけ見てるのが、怖い」
セリカさんの手が、エプロンの端を握った。
私のではなく、自分の。
でも、その指先は白くなっていた。
「だから、ちゃんと通いなさいよ。怒られる義務があるんだから」
「義務なんですか……?」
「義務よ」
セリカさんは、ようやく顔を上げた。
目元が少し赤い。
でも、怒っている顔をしていた。
「アビドスでバイトしたら終身雇用だから」
「労働契約が怖すぎます!」
「怖くないでしょ。福利厚生は水とまかない」
「まかないにつられそうな自分がいます」
「つられなさいよ」
ギャグみたいに戻った。
でも、さっきの言葉は消えなかった。
怒る理由、なくならないでほしい。
その言葉が、エプロンの紐みたいに背中へ残っている。
私は、自分の胸元の刺繍に触れた。
レナ。
この店のどこかに、私の名前がある。
それは嬉しい。
少し怖いくらいに。
「セリカさん」
「何よ」
「私、また来ます」
セリカさんが、一瞬だけ目を丸くした。
「そりゃ来るでしょ。エプロン作ったんだから」
「エプロン基準なんですね」
「そうよ。名前まで入れたんだから、放置したら許さない」
「許されないんだ」
「当たり前」
セリカさんは、私のエプロンの結び目をもう一度見た。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「ちょっと曲がってる」
「え、さっき完璧に結んでくれたのに」
「動いたからでしょ。こっち向かないで、そのまま」
「また直すんですか?」
「悪い?」
「悪くないです」
セリカさんは私の後ろへ回った。
また紐に触れる。
今度は最初より少しだけ長く感じた。
結び目をほどく音。
布が擦れる音。
セリカさんの息。
店の匂い。
ラーメンの湯気。
手拭いの湿った重さ。
全部が混ざって、ここにいる感覚になる。
「セリカさん」
「動かないで」
「はい」
「何」
「怒られるの、嫌じゃないです」
背中側で、セリカさんの指が止まった。
私は少しだけ笑った。
「もちろん、本気で怒られるのは怖いですけど。でも、セリカさんに危ないとか、水飲めとか、遅いとか言われると、なんか……帰ってきた感じがします」
「……そう」
声が小さかった。
次の瞬間、紐がきゅっと締められた。
「ちょ、少し強いです」
「うるさい。ほどけないようにしてるだけ」
「今、照れ隠しで締めましたよね?」
「してない!」
「してますって」
「レナ、今日のまかない減らすわよ」
「権力の使い方が雑です!」
セリカさんはようやく結び終えると、私の背中を軽く叩いた。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
「次来た時もこれ着るのよ。別に、店に置いていってもいいし、持って帰ってもいいけど」
「持って帰っていいんですか?」
「……好きにしなさいよ」
私は少し迷った。
店に置いていけば、次に来た時、この店に私のものがある。持って帰れば、アビドスの匂いを少しだけ救護騎士団の部屋へ持っていける。
どちらも嬉しい。
どちらも少しだけ困る。
「じゃあ、今日は持って帰ります」
「なんで?」
「ミネ先輩に見せたいので」
「……そう」
セリカさんは一瞬だけ、何かを考える顔をした。
それから、手拭いをもう一枚取り出した。
「これも持って帰りなさい」
「え、いいんですか?」
「洗い替え。次来る時に忘れたら困るでしょ」
「セリカさん、準備が良すぎます」
「誰かさんが忘れそうだからでしょ」
「信用が戻らない」
「戻す努力をしなさい」
渡された手拭いは、さっきのものと同じ柄だった。
私はそれを受け取って、エプロンのポケットに入れる。
二枚分の布の重さ。
軽いはずなのに、妙に存在感があった。
閉店後、まかないを出してもらった。
小さめのラーメン。
セリカさんいわく、初日だから特別、らしい。
私はカウンターに座って、両手を合わせる。
「いただきます」
スープを一口飲む。
熱くて、優しい。
鼻の奥が少しだけつんとした。
「どう?」
セリカさんが聞く。
声は平静を装っていたけど、目はかなり真剣だった。
「おいしいです」
「当たり前でしょ」
「セリカさんが作ったんですか?」
「大将に見てもらいながらね。変だったら言いなさい」
「変じゃないです。すごくおいしいです」
「……そう」
セリカさんは、少しだけ安心した顔をした。
それから、自分の分を持って隣に座る。
「レナ、熱いからゆっくり食べない」
「分かってます」
「本当にわかってるんでしょうね。さっき器の持ち方危なかったから、信用はしてない」
「食事中まで管理されてる」
「初日だから」
「二回目からは?」
「たぶんする」
「正直ですね」
セリカさんは小さく笑った。
私も笑った。
店の中は、もうお客さんがいない。柴大将は奥で片付けをしている。外では砂が少しだけ流れている。カウンターの上には二人分の湯気。私の膝には、レナと刺繍されたエプロン。
怖いくらい、普通だった。
でも、その普通が嬉しかった。
「ねえ、レナ」
「はい」
「あんた、今日のこと忘れないでよ」
「バイト初日の失敗をですか?」
「それも」
「それもなんだ……」
セリカさんは箸を止めた。
湯気の向こうで、少しだけ目を伏せる。
「この店で水出して、怒られて、まかない食べたこと。エプロン着たこと。手拭い持って帰ること。そういうの、ちゃんと覚えてて」
声が静かだった。
「アビドスに来る理由、怖いこととか、救護とか、そういうのだけじゃなくていいから。ここで怒られるとか、ラーメン食べるとか、そういう理由でも来て」
私は箸を握ったまま、しばらく黙った。
重い。
でも、嫌じゃない。
胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
「……はい」
私は言った。
「じゃあ、また怒られに来ます」
「だから、怒られる前提なのやめなさいよ」
「セリカさんが怒る理由なくならないでほしいって言ったので」
「言ったけど!」
「じゃあ、私は怒られる義務を果たします」
「その言い方だと私がすごく悪い人みたいじゃない!」
「大丈夫です。まかない付きなので」
「待遇で判断しないで」
セリカさんは顔を赤くして怒った。
私は笑った。
笑いながら、スープをもう一口飲む。
エプロンの紐は、まだ背中できちんと結ばれている。手拭いはポケットに入っている。私の名前は、胸元に小さく刺繍されている。
これはただのバイト体験。
ただのお手伝い。
ただの、柴関ラーメンの日常。
でも、その中にセリカさんの手が残っていた。
結び目に。
手拭いに。
水を持つ指の位置に。
遅いと怒る声に。
怒る理由をなくさないでほしい、という少し怖いくらい真っ直ぐな願いに。
食べ終わる頃には、外の砂の色が少し変わっていた。
帰る時間だ。
エプロンを脱ごうとしたら、セリカさんがすぐに言った。
「待って。畳み方、教える」
「エプロンにも畳み方が?」
「あるわよ。次着る時に変な皺ついてたら嫌でしょ」
「セリカさん、もしかしてこのエプロンかなり大事にしてます?」
「はあ!? 大事にしない理由ある!?」
「いや、ないとは言ってないです」
「じゃあ黙って畳み方覚える」
「はい、先生」
「先生って呼ばない!」
結局、エプロンの畳み方も、手拭いのしまい方も、細かく教えられた。
ポケットは内側に。
名前の刺繍が潰れないように。
紐はまとめて、変に絡まないように。
私は途中で笑ってしまった。
「何笑ってるの」
「セリカさん、やっぱり厳しいなって」
「嫌ならやめる?」
「やめません」
即答だった。
セリカさんが、少しだけ黙る。
私は畳んだエプロンを抱えた。
「また来ますから」
「……うん」
セリカさんは、いつもより小さく返事をした。
そのあと、すぐに顔を上げる。
「次はもっとちゃんと働いてもらうからね。今日みたいに危なっかしい動きしたら、倍怒るから」
「はい。よろしくお願いします」
「そこは嫌がりなさいよ」
「嫌じゃないので」
「……ほんと、調子狂う」
セリカさんはそう言って、店の暖簾を直した。
私は柴大将に挨拶して、店の外へ出る。
砂の風が少しだけ頬を撫でた。ポケットには手拭い。腕の中には畳んだエプロン。胸の奥には、まかないの温かさ。
セリカさんが店先まで出てくる。
「帰り、転ばないでよ」
「転びません」
「前もそんなこと言ってた気がする」
「信用が本当にない」
「信用したいから言ってるの」
また、それ。
私は少しだけ笑った。
「じゃあ、ちゃんと帰ったら連絡します」
「絶対よ」
「はい」
「あと、水飲みなさい」
「今ですか?」
「帰る前」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
私は水を飲んだ。
セリカさんはそれを確認して、ようやく満足そうに頷いた。
「よし」
「褒められました?」
「確認しただけ」
「厳しい」
「次来たら褒めてあげるかもね」
「本当ですか?」
「ちゃんと働けたら」
「頑張ります」
セリカさんは、ほんの少しだけ笑った。
怒る理由をなくさないでほしい。
その言葉はまだ重い。
でも、その重さごと、私はエプロンを抱きしめた。
アビドスに来る理由が、また一つ増えた。
救護でも、依頼でも、怖い記憶を取り戻すためでもない。
水を出して、怒られて、まかないを食べて、エプロンを畳むため。
セリカさんに「遅い」と言われるため。
それだけの理由で、またここへ来てもいい。
そう思えることが、今は少しだけ誇らしかった。
ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?
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レナが最強格の世界線
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甘え上手で小悪魔な世界線
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物理的に食べられる世界線
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好かれすぎて殺されそうになる世界線