戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

47 / 106
25話 ノノミさんの大作戦

 

 

 ノノミさんが「今日は泊まっていきませんか?」と言った時、私はカップを落としそうになった。

 

 場所は、アビドスの校舎の奥にある小さな休憩室だった。もともとは来客用か仮眠用だったらしいけれど、今はほとんど使われていない部屋で、ノノミさんが少しずつ掃除して整えていると聞いていた。

 

 夕方の光が、窓の端から淡く差し込んでいる。机の上には、ノノミさんが用意してくれたお茶と、焼き菓子が並んでいた。量は、いつもより控えめだった。控えめ、のはずだった。皿が三枚ある時点で、私の感覚では少し多いけれど、ノノミさん基準ではきっと控えめなのだと思う。

 

 私はカップを持ったまま、ノノミさんを見た。

 

「……今、泊まっていきませんかって言いました?」

 

「言いました。明日の朝、先生との確認が少し早いでしょう? 夜に無理に帰るより、その方が安全かなと思いまして」

 

「理由がしっかりしてる……」

 

「ちゃんと考えましたから」

 

「でも、なんか今の言い方、前から準備してた感じがしました」

 

「ええ。準備していました」

 

「隠す気がない」

 

 ノノミさんは、にこにこと笑っていた。

 

 その笑顔があまりにも自然で、私は逆に不安になる。ノノミさんの自然さは、時々ものすごく強い。強すぎて、気づいた時には逃げ道がふわふわした毛布で塞がれているような気分になる。

 

「えっと、泊まるって、どこにですか?」

 

「こちらです」

 

 ノノミさんは立ち上がり、部屋の奥にある扉を開けた。

 

 私は何気なく覗き込んだ。

 

 そして、固まった。

 

 そこには、部屋があった。

 

 いや、部屋があるのは当たり前だ。扉の向こうなのだから。でも、私が思っていた「空き部屋」ではなかった。きちんと整えられた小さな寝室みたいな空間がそこにあった。

 

 ベッド。枕。柔らかそうな毛布。小さな机。ナイトライト。足元にはスリッパ。棚にはカップとティーポット。壁際には小さな引き出し。そして机の上には、綺麗に畳まれたパジャマと、湯上がり用の柔らかい上着まで置かれていた。

 

 私は振り返った。

 

「ノノミさん」

 

「どうしました?」

 

「これ、いつ準備したんですか?」

 

「少しずつです」

 

「少しずつでここまで揃うんですか?」

 

「揃ってしまいましたね」

 

「怖いくらい自然に言いましたね」

 

 ノノミさんは、頬に手を当てて微笑んだ。

 

「怖くないですよ。寝具は全部洗ってありますし、窓の隙間も確認済みです。砂も入らないようにしてあります。ナイトライトは明るさを三段階で調整できますし、枕も高さ違いで用意してあります」

 

「そこまで聞くとホテルみたいです」

 

「ホテルではありませんよ。レナちゃんのお部屋です」

 

「今、すごいこと言いませんでした?」

 

「言いましたか?」

 

「言いました」

 

 私はもう一度部屋を見る。

 

 レナちゃんのお部屋。

 

 さらっと言われた言葉が、部屋の中で妙に響いた。

 

 もちろん、ノノミさんに悪気はない。むしろ、悪気がなさすぎる。ここまで整えられているのに、押しつけがましさはない。全部が柔らかくて、温かくて、選んでいい形をしている。

 

 だからこそ、少し怖い。

 

 逃げ道を塞がれているのではない。

 

 帰らなくてもいい理由を、丁寧に積み上げられている。

 

「このスリッパ……」

 

「レナちゃん用です」

 

「このカップは?」

 

「それもレナちゃん用です」

 

「この枕も?」

 

「もちろん。合わなければ別のものもありますよ」

 

「予備があるんですか!?」

 

「低め、普通、少し高めがあります」

 

「枕の選択肢が本気すぎます」

 

 私はそろそろ笑うしかなくなってきた。

 

 ノノミさんは本当に嬉しそうだった。何かを押しつけたいというより、自分が用意したものを見てもらえて嬉しい、という顔。けれど、その一つ一つが私用だと思うと、胸の奥がむずむずする。

 

 棚の下にある小さな引き出しが目に入った。

 

 私は嫌な予感と一緒に指差す。

 

「ノノミさん、この引き出し……まさか」

 

「レナちゃん用です」

 

「予想通りすぎて逆に怖いです」

 

「空っぽだと寂しいので、少しずつ置いていってくださいね」

 

「置いていく前提なんですね」

 

「ふふ。置いてもらえたら嬉しいな、というお願いです」

 

「言い方が柔らかくなっただけで、方向は変わってないです」

 

「ばれてしまいました」

 

 引き出しを開けると、中は本当に空っぽだった。

 

 綺麗に拭かれていて、小さな香り袋が隅に置かれている。強い香りではない。ノノミさんのお茶の匂いに少し似た、柔らかい匂いだった。

 

 私は引き出しを見つめた。

 

 空っぽなのに、もう何かが入っているみたいに見える。

 

 私が置いていくものを待っている場所。

 

 ハンカチでも、リボンでも、予備の手袋でも、何でもいい。ここに何かを置いたら、次に来た時、私のものがこの部屋にあることになる。

 

 アビドスに、私のものが。

 

「……ノノミさん、本当に住む準備みたいです」

 

「住めますよ?」

 

 ノノミさんは笑顔で言った。

 

 私は固まった。

 

「……冗談ですよね?」

 

「半分くらいです」

 

「半分は本気なんですか?」

 

「そこは、ご想像にお任せします」

 

「任されたくないです」

 

 柔らかい声だった。

 

 なのに、その声だけ、部屋の温度を少し下げた。

 

 ノノミさんは笑顔のまま、でも少しだけ静かに続ける。

 

「もちろん、閉じ込めたいわけではありません。レナちゃんが帰りたい場所に帰るのは、ちゃんと分かっています。救護騎士団にも、シャーレにも、レナちゃんには大切な場所がありますから」

 

 ノノミさんの視線が、部屋の中をゆっくり巡る。

 

 ベッド。

 

 枕。

 

 ナイトライト。

 

 空の引き出し。

 

「でも、帰らなくてもいい場所も、持っていてほしいんです」

 

 その言葉に、息が少し止まった。

 

「どこかに戻るのが怖い夜があるなら、ここに来てください。誰にも言いたくない日があるなら、ここで眠ってください。朝になっても帰りたくなければ、帰らなくていいです。私が、理由を作ります」

 

 静かな声だった。

 

 優しい。

 

 でも、怖いくらいに深い。

 

「理由を……作るんですか?」

 

「作ります。寝具の安全確認、翌朝の朝食評価、室内環境調査、休養経過観察。いろいろありますから」

 

「全部私を泊めるための口実ですよね?」

 

「ばれてしまいました」

 

 ノノミさんは、いつもの調子で微笑んだ。

 

 空気が少しだけ戻る。

 

 けれど、さっきの言葉は消えなかった。

 

 帰らなくてもいい場所。

 

 ここに来ればいい。

 

 帰りたくなければ、帰らなくていい。

 

 そんなふうに言われると、安心するより先に、胸の奥がぎゅっと痛くなる。嬉しいのに、少し怖い。怖いのに、拒めない。

 

「それで、レナちゃん」

 

「はい」

 

「泊まるなら、先にお風呂に入りませんか?」

 

「お風呂」

 

 また、固まった。

 

 ノノミさんは自然に頷く。

 

「浴室も使えるようにしてあります。砂も汗も落とせますし、温まった方が眠りやすいと思いますから」

 

「そこまで準備済みなんですね」

 

「ええ。そこまで準備済みです」

 

「自分で言うと迫力があります」

 

 私は少しだけ迷った。

 

 お風呂自体はありがたい。アビドスの砂は、気づかないうちに髪や服に入り込む。夜に帰らず泊まるなら、湯を使えるのは助かる。

 

 ただ、ノノミさんの表情を見ると、まだ何かある気がした。

 

「……ちなみに、私一人で入る感じですか?」

 

 聞くと、ノノミさんは少しだけ目を細めた。

 

「レナちゃんが嫌でなければ、一緒に入りたいです」

 

 カップを持つ手が止まった。

 

「一緒に?」

 

「無理にとは言いません。湯着も用意してありますし、勝手に触れたりもしません。ただ……レナちゃんが大丈夫なら、髪を洗うのを手伝ったり、湯加減を見たりしたいなと思って」

 

 ノノミさんは、そこで少し声を落とした。

 

「お風呂は、夜の前に少し心をほどく場所ですから。そこに、私も一緒にいていいなら嬉しいです」

 

 私はすぐには答えられなかった。

 

 一緒にお風呂。

 

 言葉だけ聞くと、すごく近い。

 

 近すぎる。

 

 でも、ノノミさんはちゃんと逃げ道を残してくれている。湯着。確認。勝手に触れない。髪を洗うのも、私が許せば。そういう線を、最初から引いてくれている。

 

 だから、怖さより先に、照れが来た。

 

「……恥ずかしいです」

 

「恥ずかしいだけなら?」

 

「またその聞き方……」

 

「ずるいでしょうか」

 

「ずるいです」

 

 ノノミさんは楽しそうに笑った。

 

 私はカップを置き、少しだけ視線を落とす。

 

「でも、ノノミさんなら……大丈夫、だと思います」

 

 ノノミさんの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 嬉しそうで、泣きそうで、それを笑顔の形に戻そうとしている顔だった。

 

「ありがとうございます」

 

 その声は、とても大事そうだった。

 

 浴室は、思ったより広くはなかった。

 

 でも、きちんと掃除されていて、湯気が柔らかく満ちていた。床は滑りにくいようにマットが敷かれていて、棚には二人分のタオルと、淡い色の湯着が用意されている。湯の匂いと、ノノミさんの部屋にあった香り袋に似た匂いが、ほんの少し混ざっていた。

 

 湯着に着替えて浴室に入ると、肩の力が少し抜けた。

 

 身体の線を見せるためのものではなく、安心して湯を使うためのもの。そう分かるだけで、だいぶ違った。

 

 ノノミさんも同じような湯着を着ていた。

 

 それだけで少し笑いそうになる。

 

「ノノミさん、準備が本当に完璧ですね」

 

「レナちゃんが怖くならないように考えました」

 

「考えすぎです」

 

「足りないよりはいいかなと思って」

 

「足りなさすぎる心配は全然なかったです」

 

 ノノミさんは湯加減を見てから、私を振り返った。

 

「熱すぎませんか?」

 

「大丈夫そうです」

 

「足元、滑らないように気をつけてくださいね」

 

「はい。……あ、違った。気をつけます」

 

「今の言い直し、可愛かったです」

 

「そこ拾わないでください」

 

 まず髪を洗うことになった。

 

 私が自分でやるつもりだったけれど、ノノミさんが横に座って、少しだけ首を傾げる。

 

「髪、洗うのを手伝ってもいいですか?」

 

 私は迷う。

 

 浴室の湯気。

 

 水音。

 

 ノノミさんの声。

 

 後ろから触られるのは、まだ少し緊張する。でも、ノノミさんは私の横にいて、私の顔が見える位置にいる。手を伸ばす前に、ちゃんと待っている。

 

「……お願いします。でも、急に触らないでください」

 

「もちろん。触る前に声をかけます」

 

「あと、引っ張られるのは少し苦手です」

 

「引っ張りません。痛かったらすぐ止めます」

 

「怖くなったら言います」

 

「言えなくなったら、手を上げてください。私、すぐ離れます」

 

 そこまで言われて、ようやく頷けた。

 

 ノノミさんの指が、髪に触れる。

 

 ゆっくり。

 

 最初は、濡れた髪をほどくように。

 

 それから、泡を作って、地肌ではなく髪の流れを確かめるみたいに優しく洗ってくれる。湯気で少し視界がぼやけているのに、ノノミさんの手の動きだけは、とてもはっきり分かった。

 

「痛くないですか?」

 

「大丈夫です」

 

「強すぎませんか?」

 

「ちょうどいいです」

 

「怖くなっていませんか?」

 

 少しだけ間が空いた。

 

「……今は、大丈夫です」

 

 ノノミさんの手が、一瞬だけ止まった。

 

「今は、で十分です。次の瞬間に怖くなったら、その時に止めます」

 

「ノノミさん」

 

「何でしょう」

 

「優しすぎて、逆にちょっと泣きそうです」

 

「では、泣いてもいいですよ。ここなら、お湯で少し分かりにくくなります」

 

「その気遣い、すごいけど変です」

 

「変でしたか?」

 

「少し」

 

 私は笑った。

 

 湯気の中で、ノノミさんも笑った。

 

 髪を流す時、ノノミさんは私の顔に湯がかからないように、手でそっと庇ってくれた。タオルを渡す時も、触れる前に「目元、押さえてもいいですか」と聞いてくれる。

 

 近い。

 

 近いけれど、怖くない。

 

 怖くないことが、嬉しかった。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「今、私に髪を任せてくれているのが、とても嬉しいです」

 

「髪だけですよ?」

 

「髪だけでも、です」

 

 ノノミさんの声は、湯気の中で少しだけ深くなった。

 

「髪を洗うのは、ただ綺麗にするためだけではありません。今日の砂を落として、怖かったことではなく、眠る前の温かさを残すためでもあります。レナちゃんが夜に思い出すものが、少しでもお湯の音や、髪を乾かした後の匂いであってほしいんです」

 

 私は、膝の上のタオルを握った。

 

 重い。

 

 ノノミさんの言葉は、いつも柔らかいのに、時々とても重い。

 

 身体に残るものまで、夜に思い出すものまで、ノノミさんは私の中に安心として残そうとしている。

 

「ノノミさん、それ……かなり重いです」

 

「そうですね」

 

「認めるんですね」

 

「否定しても、きっとばれてしまいますから」

 

「ばれます」

 

「では、正直に言います」

 

 ノノミさんは、濡れた私の髪をタオルで包む。

 

「私は、レナちゃんが眠れない夜に、私の用意した何かを思い出してほしいんです。この部屋でも、お茶でも、カップでも、今のお湯の音でも。ほんの一つでいいので、苦しい夜の中に、私が用意した灯りが残っていたら、私は少し安心できます」

 

 浴室の中は温かい。

 

 なのに、その言葉だけ、少し暗いところから届いたみたいだった。

 

「レナちゃんがどこかで苦しくなった時、救護騎士団でも、シャーレでもなく、ここを思い出してくれたら嬉しい。もちろん、一番でなくても構いません。最後でも、端っこでも。けれど、忘れられたくはないんです」

 

 忘れられたくない。

 

 ノノミさんの声は、そこでほんの少し震えた。

 

「レナちゃんの夜の中から、私の場所が消えたら、たぶん寂しくて仕方なくなります」

 

 私は何も言えなかった。

 

 湯気が、ゆっくり流れる。

 

 水音が、小さく響く。

 

 その中で、ノノミさんの愛情だけが、怖いくらい濃かった。

 

「……忘れません」

 

 私は、ようやく言った。

 

「このお風呂も、この部屋も、ノノミさんが髪を洗ってくれたことも。たぶん、忘れないです」

 

 ノノミさんは、すぐには返事をしなかった。

 

 それから、柔らかく笑う。

 

「それなら、今日は大成功です」

 

「作戦だったんですか?」

 

「寝かせる作戦ですから」

 

「タイトルついてそうですね」

 

「ありますよ?」

 

「あるんですか!?」

 

「レナちゃん安眠計画・第一段階です」

 

「第一段階って言いました?」

 

「言いました」

 

「続くんですか?」

 

「もちろん」

 

「怖い」

 

「怖くないですよ〜」

 

 また、笑いが戻った。

 

 その後、湯船に少しだけ浸かった。

 

 ノノミさんは隣にいるけれど、近づきすぎない。肩が触れるほどではなく、でも声をひそめれば届く距離。湯着越しでも、湯の温かさが体に入ってきて、少しずつ眠気が近づいてくる。

 

「レナちゃん、眠そうです」

 

「お風呂が気持ちよくて……」

 

「嬉しいです」

 

「でもここで寝たら危ないですよね」

 

「その時は起こします」

 

「ノノミさん、見張る気ですね」

 

「見守りです」

 

「言い方」

 

「では、入浴中安全確認」

 

「急に業務っぽい」

 

 湯から上がると、ノノミさんはバスタオルと上着を用意してくれていた。私は自分で髪を拭こうとしたけれど、ノノミさんが「乾かすところまでが作戦です」と言って、結局部屋で髪を乾かしてくれることになった。

 

 パジャマに着替えると、サイズは悔しいくらいぴったりだった。

 

「ノノミさん、サイズ合ってます……」

 

「よかったです」

 

「どうやって分かったんですか?」

 

「見ていれば、なんとなく」

 

「その“なんとなく”、ちょっと怖いです」

 

「怖くないですよ」

 

「ノノミさんの怖くないは、最近あまり信用できません」

 

「あら」

 

 髪を乾かしてもらう間、私は椅子に座っていた。

 

 ノノミさんは横からドライヤーを当ててくれる。浴室の時と同じで、後ろから急に触れたりはしない。髪を持ち上げる時は必ず声をかけて、熱くないか何度も聞いてくれる。

 

 風の音。

 

 夜の静けさ。

 

 ノノミさんの手。

 

 お風呂の温かさがまだ残っているせいか、眠気がかなり近い。

 

「レナちゃん、もう眠れそうですね」

 

「たぶん……」

 

「では、寝る前のお茶は少なめにしましょう」

 

「お茶もあるんですか」

 

「あります。もちろん」

 

「本当に全部ある……」

 

 寝る前のお茶は、カフェインの少ないものだった。

 

 カップは、棚にあった私用のもの。

 

 初めて使うのに、もう私用と決められているカップ。

 

 私はそれを両手で持って、ベッドの端に座った。

 

 ノノミさんは、少し離れた椅子に座っている。

 

 近すぎない。

 

 でも、部屋の外へは行かない距離。

 

「ノノミさんは、今日はどうするんですか?」

 

「この部屋の隣にいます。何かあれば、すぐ呼んでください」

 

「隣?」

 

「念のためです」

 

「念のため……」

 

 机の上に、小さなベルが置いてあるのを見つけた。

 

 私はそれを指差す。

 

「これ、まさか」

 

「怖くなった時に押すベルです」

 

「本当に用意してた……」

 

「音は控えめですが、隣なら聞こえます。声で呼んでもらっても大丈夫ですし、壁を叩いても気づきます」

 

「ノノミさん、私を完全に夜間保護対象として見てますよね」

 

「そのつもりです」

 

「やっぱり否定しない」

 

「否定した方がいいですか?」

 

「いえ……もうここまで来たら、正直な方が安心します」

 

 ノノミさんは嬉しそうに笑った。

 

 その表情を見て、私はカップの中を見下ろす。

 

 お茶の表面に、ナイトライトの柔らかい光が映っていた。

 

「ノノミさん」

 

「何でしょう」

 

「この部屋、すごく安心します」

 

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

 

 でも、本当だった。

 

 怖いくらい準備されている。私用のものが多すぎる。引き出しまである。泊める気がありすぎる。一緒にお風呂まで入って、髪まで洗われて、夜の準備を全部されている。

 

 でも、安心する。

 

 帰らなくてもいいと言われることが、こんなに胸の力を抜くものだとは思わなかった。

 

 ノノミさんは、すぐには答えなかった。

 

 ただ、ゆっくりと目を細める。

 

「よかったです」

 

 声が、とても小さかった。

 

「レナちゃんの夜の中に、私が用意した灯りが一つでも残っていたら、私は少し安心できます」

 

 私は、カップを握る手に少し力を入れた。

 

 夜の中に、ノノミさんの灯り。

 

 その言葉が、静かに重かった。

 

「レナちゃんが眠れない夜に、ここを思い出してくれたら嬉しいです。ノノミさんの部屋なら、少し眠れるかもしれない。あのカップでお茶を飲めるかもしれない。あのお風呂の湯気を思い出せるかもしれない。あの引き出しに置いたものを取りに行くだけでもいいかもしれない。そんなふうに、選択肢の一つになれたら」

 

 ノノミさんは、微笑んでいる。

 

 でも、その笑顔の奥にあるものは、少しだけ暗いほど深かった。

 

「私は、レナちゃんの全部になりたいわけではありません。でも、夜の逃げ道の一つにはなりたいです。苦しくなった時、最初ではなくてもいいです。最後でもいいです。ここを思い出してくれたら、それだけで」

 

 胸が痛い。

 

 愛情が深すぎて、少し息が詰まる。

 

 でも、苦しくはなかった。

 

「ノノミさん」

 

「ええ」

 

「それ、かなり重いです」

 

「分かっています」

 

「自覚あるんですね」

 

「少しずつ、隠せなくなってきました」

 

「少しずつじゃないと思います」

 

「では、かなり」

 

「認め方が素直」

 

 ノノミさんは少しだけ笑った。

 

 私はカップを置き、部屋を見回した。

 

 ベッド。

 

 カップ。

 

 ナイトライト。

 

 スリッパ。

 

 空の引き出し。

 

 怖いくらい、私のためのものが揃っている。

 

 でも、それが嫌ではない。

 

「……じゃあ」

 

 私は、自分のバッグを引き寄せた。

 

 中から、予備のハンカチを一枚取り出す。

 

 小さく畳んだ、白いハンカチ。

 

 それを、引き出しの中に入れた。

 

 ノノミさんが、息を止めたのが分かった。

 

「レナちゃん」

 

「一枚だけです」

 

 私は少し照れながら言った。

 

「置いていきます。空っぽだと寂しいって言ってたので」

 

 ノノミさんは、しばらく何も言わなかった。

 

 ただ、引き出しの中のハンカチを見ている。

 

 まるで、とても大事なものを見つけたみたいに。

 

「……ありがとうございます」

 

 ノノミさんの声が、少し震えていた。

 

「大切に、置いておきます」

 

「使うものなので、大切にしすぎなくても大丈夫です」

 

「それでも、大切にします」

 

「そこは譲らないんですね」

 

「譲れません」

 

 ノノミさんは、引き出しをそっと閉めた。

 

 その仕草が、あまりにも丁寧で、私は少しだけ胸が熱くなった。

 

 私のものが、アビドスに一つ残った。

 

 ノノミさんが用意した部屋に。

 

 ノノミさんが帰らなくてもいいと言ってくれた場所に。

 

 その事実が、思っていたより大きかった。

 

 ベッドに入ると、毛布は軽かった。

 

 でも温かい。

 

 ナイトライトの光は、強すぎず、暗すぎない。部屋の隅をほんのり照らしていて、影が怖くならないように考えられている気がした。

 

 ノノミさんは、扉の近くに立っていた。

 

「眠れそうですか?」

 

「たぶん」

 

「怖くなったら、ベルでも、声でも、壁を叩いても大丈夫です」

 

「壁を叩くのは最終手段すぎません?」

 

「どれでも聞こえるようにします」

 

「寝る気あります?」

 

「ありますよ。少しだけ」

 

「少しだけ……」

 

 私は毛布を握って、少し笑った。

 

「ノノミさん」

 

「何でしょう」

 

「おやすみなさい」

 

 その言葉を言った瞬間、ノノミさんの表情が少しだけ崩れた。

 

 嬉しそうで、泣きそうで、それを隠すみたいに笑う。

 

「おやすみなさい、レナちゃん」

 

 扉が少しだけ閉まる。

 

 完全には閉まらない。

 

 細い隙間から、隣の部屋の光が少しだけ見える。

 

 それもきっと、ノノミさんが考えたのだと思う。閉じ込められている感じがしないように。でも、一人きりでもないように。

 

 私は目を閉じた。

 

 少しだけ怖い。

 

 けれど、怖さがすぐに大きくなることはなかった。

 

 髪には、ノノミさんが洗って乾かしてくれた時の柔らかい匂いが残っている。カップは机の上。スリッパは足元。引き出しの中には、私のハンカチ。

 

 帰らなくてもいい場所。

 

 その言葉が、ゆっくり胸の奥に落ちていく。

 

 救護騎士団にも帰れる。

 

 シャーレにも行ける。

 

 アビドスにも戻れる。

 

 そして、どうしても帰ることが怖い夜には、この部屋がある。

 

 ノノミさんが作ってしまった、少し怖いくらい優しい部屋。

 

 私は毛布の端を握りながら、小さく息を吐いた。

 

 眠れそうだった。

 

 そう思った時、扉の向こうから、ほんの小さな声が聞こえた。

 

「……帰らなくても、いいですからね」

 

 独り言みたいだった。

 

 私に聞かせるつもりだったのか、それとも自分に言い聞かせたのか、分からない。

 

 でも、その声は、夜の中でまっすぐ届いた。

 

 重い。

 

 深い。

 

 少し暗いくらいに。

 

 けれど、私は目を閉じたまま、小さく答えた。

 

「……うん」

 

 扉の向こうで、ノノミさんが息を呑む気配がした。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「今日は、帰りません」

 

 それだけ言うと、もう喉が眠気に沈んでいく。

 

 ノノミさんの声が、震えないように頑張っているみたいに、そっと返ってきた。

 

「ここにいてください」

 

 その夜、私は何度か目を覚ました。

 

 でも、叫ばなかった。

 

 天井を見て、ナイトライトを見て、机の上のカップを見て、扉の隙間から漏れる光を見た。

 

 ここは、あの場所ではない。

 

 ここは、私のために用意されすぎた部屋。

 

 少し過保護で、少し怖くて、少し笑ってしまうくらい丁寧で。

 

 でも、眠れる部屋だった。

 

 朝、目が覚めると、扉の向こうから小さな物音がした。

 

 ノノミさんが、朝食の準備をしているのだと思う。

 

 私は起き上がり、引き出しを開けた。

 

 白いハンカチが、そこにあった。

 

 昨日置いたもの。

 

 たった一枚。

 

 でも、それがあるだけで、この部屋が昨日より少し私の場所になっている気がした。

 

 私はハンカチを見て、小さく笑った。

 

 扉を開けると、ノノミさんが振り返った。

 

「おはようございます、レナちゃん」

 

「おはようございます、ノノミさん」

 

 ノノミさんの目が、私の顔を見て、それから少しだけ髪を見る。

 

「眠れましたか?」

 

「途中で起きましたけど、また眠れました」

 

「よかったです」

 

 その声は、本当に嬉しそうだった。

 

 私は少しだけ迷ってから言った。

 

「ノノミさん」

 

「ええ」

 

「この部屋、また使ってもいいですか」

 

 ノノミさんは、一瞬だけ動きを止めた。

 

 それから、ゆっくり微笑んだ。

 

「もちろんです。いつでも。帰りたくない夜でも、ただ泊まりたい夜でも、理由がない日でも。ここは、レナちゃんのために空けてありますから」

 

「理由がない日でもいいんですか?」

 

「理由は、あとから私が作ります」

 

「やっぱり作るんですね」

 

「得意ですから」

 

「頼もしいような怖いような……」

 

 ノノミさんは楽しそうに笑った。

 

 私はその笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 帰らなくてもいい部屋。

 

 その言葉は、やっぱり重い。

 

 でも、その重さごと、私はこの部屋を少し好きになってしまった。

 

 机の上には、私用のカップ。

 

 足元には、私用のスリッパ。

 

 引き出しには、私のハンカチ。

 

 髪には、ノノミさんが残してくれた柔らかい匂い。

 

 そして扉の向こうには、ノノミさんの灯り。

 

 また一つ、アビドスに置いていくものが増えた。

 

 それは、ただのお泊まり。

 

 ただの休養。

 

 ただの、ノノミさんの少し過剰なおもてなし。

 

 でも、その奥には、夜の中にまで私を迎え入れようとする、信じられないくらい深い愛情があった。

ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?

  • レナが最強格の世界線
  • 甘え上手で小悪魔な世界線
  • 物理的に食べられる世界線
  • 好かれすぎて殺されそうになる世界線
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。