戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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26話 転ぶなら私の方へ

 

 

 シロコさんが自転車を押して現れた時、私は嫌な予感がした。

 

 アビドスの校庭は、朝からよく晴れていた。砂の色はまだ白っぽく、日差しも強すぎない。風も穏やかで、外に出るには悪くない日だった。だから、今日は校舎周辺の軽い点検だと聞いて、私は救護バッグを少し軽めにして来ていた。

 

 包帯、水、消毒液、予備の手袋。

 

 そこまではいい。

 

 問題は、シロコさんの横にある自転車だった。

 

 いや、一台ではない。

 

 二台あった。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「その自転車、二台ありますね」

 

「ある」

 

「一台はシロコさん用ですよね」

 

「うん」

 

「もう一台は?」

 

「レナ用」

 

 答えが早かった。

 

 早すぎて、逃げ道がなかった。

 

 私は、シロコさんが押している二台目の自転車を見た。小さめで、フレームも軽そうで、サドルの高さも明らかに私に合わせて調整されている。ハンドルには小さな布が巻かれていて、ブレーキも新しく見えた。

 

 つまり、準備済みだった。

 

「……今日、私、自転車に乗るんですか?」

 

「乗る」

 

「聞いてないです」

 

「今言った」

 

「事前に言ってほしかったです」

 

「言ったら逃げると思った」

 

「判断が正確すぎる」

 

 シロコさんは小さく頷いた。

 

 褒められたと思っている顔ではない。事実確認が終わった、という顔だった。

 

「シロコさん、私は救護騎士団です。移動手段の訓練までは、たぶん範囲外です」

 

「範囲内」

 

「どの辺がですか?」

 

「早く移動できる。荷物も運べる。逃げる時にも使える。倒れた人のところへ早く行ける」

 

「急に正論を並べないでください」

 

「あと、私が教えたい」

 

「最後だけ個人的でしたね」

 

 シロコさんは否定しなかった。

 

 私はその沈黙を見て、少しだけ諦めた。

 

 校庭の端には、なぜか簡易コースまで作られていた。砂に線が引かれ、倒れた看板を避けるように小さなカーブが作られている。水分補給用のボトルもある。工具箱もある。予備のタオルもある。

 

 完全に訓練だった。

 

「シロコさん、これ一人で準備したんですか?」

 

「うん」

 

「いつから?」

 

「昨日の夜」

 

「夜に何してるんですか」

 

「レナが転ばないように」

 

「転ぶ前提の訓練なんですね」

 

「転ぶかもしれない。だから準備した」

 

 シロコさんは、私用らしい自転車のハンドルに手を置いた。

 

「最初はゆっくり。危なくなったら止まる。無理に走らない。ブレーキは右と左で効き方が違う。砂の上では急に切らない」

 

「もう説明が本格的……」

 

「レナ、聞いてる?」

 

「聞いてます」

 

「じゃあ復唱」

 

「えっ」

 

「ブレーキ」

 

「右と左で効き方が違う。砂の上では急に切らない」

 

「ん。いい」

 

 シロコさんが頷く。

 

 少しだけ嬉しくなるのが悔しい。

 

 ヘルメットを渡された。

 

 これも、私用だった。

 

 サイズが合っている。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「ヘルメットまで用意してますね」

 

「必要」

 

「また必要」

 

「頭、大事」

 

「それはそうです」

 

「レナの頭は特に」

 

「私、そんなに転びそうですか?」

 

「うん」

 

「即答しないでください」

 

 シロコさんは、ヘルメットを私の頭に乗せようとして、途中で止まった。

 

「つけていい?」

 

 その確認で、少しだけ胸が温かくなった。

 

「はい。お願いします」

 

 シロコさんの指が、顎紐を整える。

 

 近い。

 

 でも、前のような照れとは少し違った。今日は、シロコさんの目が完全に真剣だった。髪飾りや小物を選ぶ時の真剣さではなく、命に関わる装備を確認している目。

 

 顎紐を指一本分だけ緩めて、耳の下の位置を直し、ヘルメットの傾きを確認する。

 

「苦しくない?」

 

「大丈夫です」

 

「動かない?」

 

「たぶん」

 

「たぶんはだめ」

 

「動きません」

 

「ん」

 

 シロコさんは、最後にヘルメットの前を軽く押さえた。

 

 そこに、自分の手を一瞬だけ残す。

 

「これで、少し安心」

 

「シロコさんが?」

 

「私が」

 

「私じゃなくて?」

 

「レナも」

 

「ついでみたいに言わないでください」

 

「両方」

 

 シロコさんは、そこで小さな反射材のついたバンドを取り出した。

 

 淡い青色。

 

 私の腕に巻くものらしい。

 

「これは?」

 

「反射バンド」

 

「昼ですよ?」

 

「遠くから見える」

 

「昼ですよ?」

 

「私が見つけやすい」

 

 私はバンドを見た。

 

「それ、目的変わってません?」

 

「変わってない。安全」

 

「シロコさんの安全ですか?」

 

「レナの安全。あと私の安心」

 

 あまりにも自然に言われて、私は少しだけ返事に困った。

 

 シロコさんは、私の手首ではなく、袖の上から腕にバンドを巻いた。締めすぎない。けれど、落ちない。指先で長さを確かめて、少しだけ位置を直す。

 

 それは、目印だった。

 

 分かる。

 

 安全のため。

 

 もし離れた時に見つけやすいように。

 

 でも、その青いバンドが私の腕にあるだけで、シロコさんの印をつけられたみたいだった。

 

「……シロコさん、これマーキングじゃないですよね?」

 

「違う」

 

「本当に?」

 

「......安全装備」

 

「ちょっと間がありました」

 

「安全装備。兼、目印」

 

「兼ねた」

 

「レナが見えなくなると困る」

 

 シロコさんは、当たり前のように言った。

 

 その声は軽くなかった。

 

「砂の中で、レナがどこにいるか分からなくなるのは嫌。探す時間が増える。その時間、嫌い」

 

 私は、青いバンドに触れた。

 

 少しだけ胸が詰まる。

 

「……今日は校庭ですよ?」

 

「校庭でも、嫌」

 

「シロコさん」

 

「転ぶなら、私の方へ」

 

 息が止まった。

 

 シロコさんは、私の腕のバンドを見ていた。

 

「止める。支える。間に合う位置にいる。だから、転ぶなら私の方へ倒れて」

 

 声は静かだった。

 

 あまりにも静かで、逆に深かった。

 

 助ける、ではなく。

 

 支える、でもなく。

 

 転ぶなら、自分の方へ。

 

 私が倒れる未来を、最初から自分の腕の中へ引き寄せようとしているみたいだった。

 

 重い。

 

 今までのどの「安全確認」よりも、ずっと重い。

 

 でも、シロコさんは真顔だった。

 

 私は、少しだけ笑うしかなかった。

 

「シロコさん、それ、訓練前に言う言葉としてはだいぶ重いです」

 

「重い?」

 

「重いです」

 

「自転車は軽い」

 

「そういう意味じゃないです」

 

「....レナも軽い」

 

「私の重さの話でもないです!」

 

 シロコさんは、少しだけ首を傾げた。

 

 私はため息をつきながらも、自転車の横に立つ。

 

「分かりました。転ぶならシロコさんの方へ……じゃなくて、まず転ばないように頑張ります」

 

「それが一番」

 

「なら先にそう言ってください」

 

 最初の一周は、ゆっくりだった。

 

 シロコさんは私の横を歩く。

 

 自転車にはまたがったものの、足はすぐ地面につけられる高さに調整されている。ペダルに足を置き、少し漕ぐ。ふらつく。止まる。シロコさんが横で頷く。

 

「視線、前」

 

「はい」

 

「肩、力入りすぎ」

 

「自転車ってこんなに難しかったですっけ」

 

「慣れ」

 

「慣れるまでに何回転ぶんですかね」

 

「転ばせない」

 

「シロコさん、さっきから決意が強い」

 

「強い」

 

 私が少しふらつくたび、シロコさんの手が近くに来る。

 

 触れない。

 

 でも、届く場所にある。

 

 ハンドルを握る私の手が固くなっているのを見て、シロコさんが言う。

 

「握りすぎ」

 

「怖いので」

 

「握りすぎると、曲がれない」

 

「人生みたいなこと言いました?」

 

「自転車の話」

 

「そうですよね」

 

 次のカーブで、私は少しだけ曲がれた。

 

 ほんの少し。

 

 でも、曲がれた。

 

 シロコさんが横で言う。

 

「今の、いい」

 

「本当ですか?」

 

「うん」

 

「やった」

 

「でも、次も同じように」

 

「褒めて終わりじゃない」

 

「訓練だから」

 

「厳しい……」

 

 何周かするうちに、少しだけ感覚が分かってきた。

 

 ペダルを漕む。

 

 前を見る。

 

 ハンドルを急に切らない。

 

 砂の深いところでは力を抜く。

 

 それでも時々ふらつく。けれど、最初ほど怖くはなくなっていた。シロコさんが横にいる。少し離れても、青いバンドを見るたびに視線が合う。

 

 私の目印。

 

 シロコさんの安心。

 

 それを思い出すと、腕が少しだけ熱い。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「次、私も乗る」

 

「横で?」

 

「うん。並走」

 

「速度、合わせてくださいね」

 

「合わせる」

 

「本当に?」

 

「善処する」

 

「不安な返事が来た」

 

 シロコさんが自分の自転車に乗ると、急に空気が変わった。

 

 似合いすぎている。

 

 校庭の端から端まで、シロコさんは滑るように進む。速いのに無駄がない。砂の上でもふらつかない。風を読むみたいに身体を傾けて、当然のように曲がる。

 

 私は思わず見とれた。

 

 そのせいで、ハンドルが少しずれた。

 

「レナ、前」

 

「わっ」

 

 慌てて戻す。

 

 シロコさんがすぐ横に来る。

 

「見すぎ」

 

「だって、シロコさんが速すぎるので」

 

「まだ遅い」

 

「それで遅いんですか?」

 

「レナに合わせてる」

 

「合わせてこれ……」

 

 私は必死にペダルを漕いだ。

 

 シロコさんは本当に速度を落としてくれているのだと思う。思うけれど、余裕が違いすぎた。私は校庭の小さな段差に怯えながら進んでいるのに、シロコさんは私の呼吸と腕の角度まで見ている。

 

「息、止まってる」

 

「止まってないです」

 

「止まってた」

 

「ちょっとだけ」

 

「呼吸」

 

「はい」

 

「水はあとで」

 

「今じゃないんですね」

 

「止まると転ぶ」

 

「怖いこと言わないでください」

 

 そう言った瞬間、前輪が砂に少し取られた。

 

 ぐらり、と身体が傾く。

 

 あ、と思った。

 

 右。

 

 右に倒れる。

 

 でも、その前にシロコさんの自転車が近づいた。

 

 シロコさんは自分の自転車をほとんど投げるみたいに止めて、私のハンドルではなく、背中側の服を軽く支えた。引っ張らない。押さえない。ただ、倒れる角度を止める。

 

 私は足をついて、ぎりぎり転ばずに済んだ。

 

 心臓がばくばくしている。

 

「……危なかった」

 

「ん」

 

 シロコさんの声は短い。

 

 でも、手がまだ私の背中の近くにあった。

 

 触れているか、触れていないか。

 

 その境目みたいな距離。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」

 

「怪我は?」

 

「してないです」

 

「痛いところ」

 

「ないです」

 

「怖い?」

 

 私は、少しだけ息を整えた。

 

「少し」

 

「休む」

 

「はい」

 

 シロコさんはすぐに水を取ってきた。

 

 私は自転車を降りて、校庭の端に座る。

 

 青いバンドが、まだ腕にある。

 

 シロコさんは隣に座らず、少し前に立っていた。

 

 私と自転車の間。

 

 もしまた倒れるなら、間に入れる位置。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「さっき、支えてくれてありがとうございます」

 

「間に合った」

 

「すごかったです」

 

「もっと早くてもよかった」

 

「今のでも十分早かったと思いますけど」

 

「レナが怖い顔する前に止めたかった」

 

 私は、水筒を持つ手を止めた。

 

 シロコさんは校庭を見ている。

 

「転ぶ前の顔、嫌」

 

「私の?」

 

「うん」

 

「そんな顔してました?」

 

「してた。怖いって分かる顔」

 

 シロコさんは、少しだけ目を伏せた。

 

「それを見ると、間に合わなかった時のことを考える。だから嫌」

 

 言葉は短い。

 

 でも、奥が暗かった。

 

 私は、何を返せばいいか分からず、水筒を見た。

 

「でも、今日は間に合いました」

 

「うん」

 

「転ばなかったです」

 

「うん」

 

「シロコさんの方に倒れなかったですけど」

 

「次は私の方へ」

 

「次がある前提やめましょう」

 

「訓練だから」

 

「訓練って便利ですね」

 

 シロコさんは、ほんの少しだけ目元を緩めた。

 

 私はそれを見て、ようやく少し笑えた。

 

 休憩後、もう一度乗った。

 

 今度は、シロコさんが少し後ろを走る。

 

「後ろなんですね」

 

「後ろから見る」

 

「また見られる……」

 

「姿勢。タイヤ。足の動き。全部見る」

 

「言い方が本格的すぎて緊張します」

 

「あと、危なくなったら追いつく」

 

「シロコさんが言うと本当に追いつきそうです」

 

「追いつく」

 

「言い切った」

 

 走り始める。

 

 後ろにシロコさんがいるのは、少し落ち着かなかった。

 

 でも、不思議と怖くはない。

 

 自分の背中を預けているような感じがした。見られている。けれど、品定めではない。監視でもない。私が転ばないように、そして転びそうになったら間に合うように、シロコさんの目が背中にある。

 

 そう思うと、少しだけ前を見やすくなった。

 

「レナ、今のいい」

 

「本当ですか?」

 

「うん。さっきより力が抜けてる」

 

「シロコさんが後ろにいるからかも」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 

 シロコさんのペダルの音が、一瞬だけ変わった気がした。

 

「そう」

 

「はい。なんか、後ろにいてくれると、前を見やすいです」

 

「……そう」

 

 短い返事。

 

 でも、声が少しだけ低かった。

 

「じゃあ、後ろにいる」

 

「ずっとですか?」

 

「レナが前を見られるなら」

 

「シロコさん、それも結構重いです」

 

「自転車の話」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

 校庭を一周できた。

 

 止まった時、私は思わず小さく声を上げた。

 

「できた」

 

「できた」

 

 シロコさんが頷く。

 

 その顔は、いつも通り静かだった。

 

 でも、目が少しだけ嬉しそうだった。

 

「レナ、上手」

 

「やった。褒められた」

 

「でもまだ危ない」

 

「褒めてすぐ落とす」

 

「次も練習」

 

「ですよね」

 

 シロコさんは、自転車を降りて私の腕の青いバンドを見た。

 

「ずれてる」

 

「え、本当ですか?」

 

「直す」

 

「お願いします」

 

 シロコさんの指が、バンドに触れる。

 

 汗と砂で少しずれたそれを、ゆっくり巻き直す。袖の上からだから肌には触れない。けれど、シロコさんの指の圧が布越しに伝わった。

 

 丁寧。

 

 少しだけ、名残惜しそうに。

 

「これ、返した方がいいですか?」

 

 私が聞くと、シロコさんは手を止めた。

 

「返す?」

 

「訓練用なら、終わったら」

 

「持ってて」

 

「いいんですか?」

 

「レナ用だから」

 

「また増えた……」

 

 シロコさんは、バンドを整え終える。

 

「自転車に乗らない日も、使っていい」

 

「いつ使うんですか?」

 

「暗い道。砂が多い日。アビドスに来る日」

 

「結局アビドス用ですね」

 

「うん」

 

 シロコさんは、私の腕を見たまま言う。

 

「それが見えると、少し安心する」

 

 また、静かな声。

 

「レナがどこにいるか、すぐ分かる。見えなくても、見つける目印がある。だから、安心する」

 

 私は、青いバンドに触れた。

 

「じゃあ、持ってます」

 

「ん」

 

「でも、シロコさんが不安になりすぎない程度にしてくださいね」

 

「不安はする」

 

「言い切った」

 

「でも、レナが持ってるなら少し減る」

 

「少しなんですね」

 

「少しでも、大事」

 

 重い。

 

 深い。

 

 でも、シロコさんは本当にそれで安心するのだと思った。

 

 私がアビドス色の何かを身につけるたび、シロコさんの中の広すぎる砂漠が、ほんの少し狭くなる。そういうことなのかもしれない。

 

 私はバンドを軽く叩いた。

 

「じゃあ、これは私が預かります。迷子防止兼、安全装備兼、シロコさんの安心用で」

 

「うん」

 

「用途が多いですね」

 

「便利」

 

「便利で済ませるんだ……」

 

 最後に、シロコさんが自分の自転車を差し出した。

 

「乗る?」

 

「え、シロコさんのですか?」

 

「うん。少しだけ」

 

「怖いです」

 

「私が支える」

 

「それ、さっきも聞いた気がします」

 

「支える」

 

 私は迷った。

 

 シロコさんの自転車は、私用のものより少し大きい。乗るだけなら危なくないようにしてくれると思う。でも、シロコさんのものに触れるというのが、少しだけ緊張した。

 

「……少しだけなら」

 

「ん」

 

 シロコさんは、サドルの高さを少し調整してくれた。

 

 私がまたがると、いつもの自転車より少し高い。ハンドルの感触も違う。シロコさんの使っているもの。そう思うと、妙に背筋が伸びた。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「これは、私の」

 

「分かってます」

 

「でも、今はレナが使っていい」

 

 静かな言葉だった。

 

 私はハンドルを握る。

 

 シロコさんが横に立つ。

 

「借ります」

 

「うん」

 

 少しだけ漕ぐ。

 

 怖い。

 

 けれど、シロコさんが横にいる。

 

 いつもより少し高い視界。風が頬を通る。校庭が少し広く見える。私はゆっくり進んだ。ほんの数メートル。すぐに止まる。

 

「できた」

 

「うん」

 

「シロコさんの自転車、少し怖いです」

 

「慣れ」

 

「これも慣れなんですね」

 

「でも、今日はここまで」

 

「珍しく止めてくれる」

 

「レナ、疲れてる」

 

「ばれてる」

 

「分かる」

 

 自転車を返す時、シロコさんはハンドルを受け取って、少しだけそこを見る。

 

 私が触れていた場所。

 

 シロコさんは何も言わない。

 

 でも、少しだけ満足そうだった。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「私が乗ったからって、何か変わりました?」

 

「変わった」

 

「え」

 

「私の自転車に、レナが乗った」

 

「それはそうですけど」

 

「それだけで、変わった」

 

 また、重い。

 

 でも今度は、ほんの少し笑ってしまった。

 

「シロコさん、そういうの、さらっと言うからずるいです」

 

「ずるい?」

 

「ずるいです」

 

「覚えた」

 

「また覚えた」

 

 校庭の片付けを終える頃には、私の足は少し疲れていた。

 

 けれど、悪い疲れではなかった。

 

 シロコさんは自転車を並べて置き、私用のヘルメットを棚へしまう。青い反射バンドだけは、私の腕に残したまま。

 

「これは持ち帰り?」

 

「うん」

 

「洗った方がいいですか?」

 

「汚れたら洗う」

 

「じゃあ、救護バッグに入れておきます」

 

「腕でもいい」

 

「今から帰るだけですよ?」

 

「見える」

 

「シロコさんの安心用ですね」

 

「うん」

 

 私は笑って、バンドを腕につけたままにした。

 

 帰り際、校門のところでシロコさんが立ち止まる。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「また乗る?」

 

「自転車ですか?」

 

「うん」

 

「……怖いですけど、少し楽しかったです」

 

「じゃあ、また」

 

「はい。でも次は事前に言ってくださいね」

 

「善処する」

 

「それ、絶対急に準備してるやつです」

 

「少しだけ」

 

「少しだけって何ですか」

 

 シロコさんは、そこでほんの少しだけ目を細めた。

 

「次は、校庭じゃなくて、外」

 

「えっ」

 

「砂漠の手前まで」

 

「急に段階が上がりすぎです!」

 

「大丈夫。私がいる」

 

「それで全部押し切ろうとしてません?」

 

「うん」

 

「認めた」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 

 シロコさんも、ほんの少しだけ笑ったように見えた。

 

 腕には青いバンド。

 

 頭には、さっきまでヘルメットがあった感覚。

 

 身体には、まだ自転車の揺れが残っている。

 

 今日、私は少しだけ速く進めた。

 

 転ばなかった。

 

 転びそうにはなったけれど、シロコさんがいた。

 

 シロコさんは、私が倒れる未来まで自分の方へ引き寄せようとする。怖いくらいに、深く。静かに。何でもない顔で。

 

 でも、それは私を縛るためではなく、間に合う場所にいたいという願いだった。

 

 私は腕のバンドを指で確かめる。

 

「シロコさん」

 

「ん」

 

「次、外に行くなら、ゆっくりでお願いします」

 

「ゆっくり」

 

「本当にですよ」

 

「レナの速度で行く」

 

 シロコさんは言った。

 

 その声は、いつもの短い声だった。

 

 でも、少しだけ違って聞こえた。

 

 私が前を見られるなら、後ろにいる。

 

 私が転ぶなら、自分の方へ。

 

 私の速度で行く。

 

 その全部が、シロコさんの愛情の形なのだと思った。

 

 重い。

 

 静かで、深くて、少し怖い。

 

 でも、私はその重さを腕につけたまま、アビドスの校門を出た。

 

 背中で、自転車のベルが小さく鳴った。

 

「レナ」

 

 振り返ると、シロコさんが自転車の横に立っていた。

 

「次も、転ばせない」

 

 私は少しだけ笑った。

 

「転ばないようにします」

 

「それが一番」

 

「やっと意見が合いましたね」

 

「ん」

 

 砂の風が、青いバンドを少しだけ揺らした。

 

 それはただの安全装備。

 

 ただの訓練の目印。

 

 ただの、シロコさんが用意したもの。

 

 でも、その奥には、私がどこへ倒れても必ず受け止めたいという、信じられないくらい静かで重い願いが結ばれていた。

ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?

  • レナが最強格の世界線
  • 甘え上手で小悪魔な世界線
  • 物理的に食べられる世界線
  • 好かれすぎて殺されそうになる世界線
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