戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ホシノ先輩に屋上へ誘われた時、私は少しだけ迷った。
夕方のアビドスは、昼間の熱がゆっくり抜けていく時間だった。校舎の壁に残った日差しは薄くなっていて、廊下を抜ける風には砂の匂いが混じっている。救護バッグの中身を確認し終えて、そろそろ帰る準備をしようと思っていたところで、ホシノ先輩は眠そうな顔のまま、けれど眠気だけではない目で私を見た。
「レナちゃん、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
いつもの軽い声だった。
けれど、その「ちょっとだけ」が本当に少しだけで済んだことは、あまりない気がする。
「……どこにですか?」
「屋上。風が気持ちいい時間だからさぁ。別に難しい話をするつもりはないよ。ただ、今日はレナちゃんに見せたいものがあるっていうか……まあ、おじさんの秘密基地みたいなものかな」
「秘密基地って言い方、ちょっと怪しいです。ホシノ先輩がそういう言い方をする時って、大体なにか隠してますよね」
「うへぇ、信用ないなぁ。前ならもう少し素直についてきてくれた気がするんだけど」
「前よりホシノ先輩のことを知ったからです」
そう返すと、ホシノ先輩は少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「そっかぁ。それは困ったねぇ。じゃあ、隠してることがあったら、レナちゃんにはすぐ見つかっちゃうわけだ」
「見つけます。少なくとも、一人でどこかへ行こうとしてる時は」
言った瞬間、少しだけ空気が静かになった。
ホシノ先輩の笑みが消えたわけではない。でも、まぶたの奥の眠そうな色が、ほんの少しだけ深くなる。
「……うん。じゃあ今日は、ちゃんと見つかる場所にいるよ」
その言葉を聞いて、私は救護バッグを机の上に置いた。
「分かりました。行きます」
屋上へ向かう階段は、思っていたより静かだった。
ホシノ先輩は私の少し前を歩く。遠すぎない距離。けれど、並んで歩くには少しだけ前。私はその背中を見ながら階段を上った。
前は、この背中を見るのが怖かった。
どこかへ行ってしまいそうで。声をかけても、届かない場所へ進んでしまいそうで。手を伸ばしても、届く前に砂の向こうへ消えてしまいそうで。
でも今は、ホシノ先輩が時々振り返る。
「足元、大丈夫? ここの段差、ちょっと欠けてるから気をつけてねぇ」
「平気です。ホシノ先輩こそ、階段で寝ないでください」
「さすがに寝ないよぉ。……まあ、ちょっと眠いけど」
「ちょっとで済んでます?」
「五割くらい」
「半分寝てるじゃないですか」
「でも残り半分はちゃんと起きてるから、優秀じゃない?」
「基準が低いです」
こういうやり取りができるだけで、胸の奥が少し温かくなる。
ホシノ先輩が遠くない。
それを、階段を一段上がるたびに確かめているみたいだった。
屋上の扉を開けると、風が一気に入ってきた。
アビドスの風は、どこにいても少し砂の匂いがする。けれど夕方の屋上の風は、昼間ほど乾いていなくて、ほんの少しだけ冷たかった。空はまだ完全に夜ではない。西の方に薄い橙色が残っていて、反対側の空には青が深く沈み始めている。
屋上の隅に、古いベンチがあった。
その横に、古びたラジオが置かれている。
「これが秘密基地ですか?」
「秘密基地の一部、かなぁ。屋上と、ラジオと、ちょっとだけ見える星。昔からあるものばっかりだけど、こういうのも悪くないでしょ」
「ホシノ先輩、本当におじさんみたいなこと言いますよね」
「おじさんだからねぇ」
「学生ですよね?」
「そのあたりは、まあ、細かいことってことで」
「細かくないです」
ホシノ先輩はベンチに腰を下ろして、ラジオのつまみを回した。
ざ、ざざ、と雑音が鳴る。少しだけ耳に刺さる音。けれど、屋上の風と混ざると、不思議と嫌ではなかった。しばらくして、遠い音楽が聞こえ始める。古い曲だった。歌詞はうまく聞き取れないけれど、誰かがどこかで歌っていることだけは分かった。
ホシノ先輩は、ベンチの隣を軽く叩いた。
「座る?」
「……失礼します」
「そんなにかしこまらなくてもいいよぉ。ここ、別に偉い人の席じゃないし」
「ホシノ先輩の秘密基地の席なので」
「それはちょっと嬉しい言い方だねぇ」
私は隣に座った。
近すぎないように、と思った。
けれど、ベンチは思ったより広くない。肩が触れるほどではないけれど、少し動けば袖が触れそうな距離だった。風が吹くたびに、ホシノ先輩の髪が揺れる。ほんの少し、私の方へ匂いが流れてきた。
砂と、日差しと、古い布みたいな匂い。
それから、かすかに甘い、眠る前の毛布みたいな匂い。
ホシノ先輩の匂いだ、と思ってしまった瞬間、胸が変なふうに跳ねた。
私は慌てて空を見る。
まだ星は出ていない。
それなのに、星を探すふりをした。
「どうしたの、レナちゃん」
「いえ、星を」
「まだちょっと早いねぇ」
「早くても、探すことはできます」
「ふぅん。……顔、赤いけど」
「夕日のせいです」
「夕日、反対側だよ」
「風のせいです」
「風で赤くなるんだ」
「なります」
ホシノ先輩が、くすっと笑った。
からかわれている。
分かっている。
でも、いつものように怒れなかった。
近いから。
隣にいるから。
さっきの匂いを、まだ少し意識しているから。
ホシノ先輩は普段、だらっとしていて、眠そうで、頼りなさそうに見える時もある。なのに、こうして夕方の屋上で隣に座っていると、ふとした横顔が驚くほど静かで、胸が困る。
かっこいい、と思ってしまう。
その言葉を心の中で持つだけで、さらに顔が熱くなった。
「レナちゃん、今日は分かりやすいねぇ」
「ホシノ先輩が変なこと言うからです」
「おじさん、まだ何も変なこと言ってないと思うけどなぁ」
「存在がちょっとずるいです」
言ってから、しまったと思った。
ホシノ先輩が黙った。
私は視線を空から戻せなくなる。
「……レナちゃん」
「今のは忘れてください」
「忘れるには、ちょっと効きすぎたかなぁ」
「効かないでください」
「無理だねぇ。おじさん、そういうのには弱いから」
ホシノ先輩の声は、いつも通り軽い。
けれど、その軽さに少しだけ熱が混じっていた。
私は膝の上で指を握った。
ラジオから流れる曲が、知らない間奏に入る。歌詞がない分、沈黙が余計に目立つ。私はその沈黙を埋めたくて、口を開いた。
「ホシノ先輩は、ここによく来るんですか?」
「前はね。夜に眠れない時とか、ちょっと一人になりたい時とか。部屋にいると、みんなの気配が近くてさ。それが嫌ってわけじゃないんだけど、たまに、自分がちゃんとここにいるのか分からなくなる時があったんだよねぇ」
私はホシノ先輩を見た。
ホシノ先輩は空を見ている。
「ここにいるのか、ですか」
「うん。変でしょ。自分の学校なのに、自分の居場所のはずなのに、静かすぎるとさ、なんか置いていかれたみたいに感じる時があって。だから、ラジオをつけるんだよねぇ。知らない誰かの声でも、遠くの歌でも、何か聞こえると、まだ世界が動いてるって分かるから」
声は軽かった。
でも、その中身は軽くなかった。
ホシノ先輩は、こういう話を本当に何でもない顔で言う。自分がどれだけ寂しいことを言っているのか、分かっているのか分からないくらい自然に。
「……今日は、ラジオがなくても大丈夫ですか」
聞くと、ホシノ先輩は少しだけ私を見た。
「今日は、レナちゃんがいるからねぇ」
また、胸が跳ねた。
今度は、言い訳ができなかった。
「ホシノ先輩」
「うん?」
「そういうの、心臓に悪いです」
「嫌?」
「嫌じゃないです。でも、困ります」
「そっかぁ。じゃあ、おじさんも困ってるからお揃いだねぇ」
「何に困ってるんですか」
「レナちゃんが隣にいると、静かな屋上が静かじゃなくなることかな。風の音も、ラジオの音も同じなのに、レナちゃんがいるだけで、ここが少し違う場所になる」
ホシノ先輩は、空を見たまま言った。
「前はここ、一人でいるための場所だったんだけどねぇ。今日は、誰かといる場所になった。そういうの、おじさんには少し眩しいんだよ」
言葉が長い。
それなのに、ホシノ先輩の声は静かだった。
私は返事ができなかった。
胸がいっぱいになる。
重い。
でも、優しい。
その優しさが、少し寂しい。
「ホシノ先輩、そういうことを言う時だけ、急にちゃんとしてますよね」
「普段もちゃんとしてるつもりなんだけどなぁ」
「普段はだいぶゆるいです」
「じゃあ、今日は特別ってことで」
「特別……」
その言葉を繰り返してしまって、また恥ずかしくなる。
ホシノ先輩は笑ったけれど、今度はからかわなかった。
その代わり、ラジオの音量を少しだけ下げる。
風の音が戻ってくる。
空に、一つ目の星が見えた。
「あ」
私は思わず声を出した。
「見えました。星」
「見えたねぇ」
「ホシノ先輩、本当に星を見る気あったんですね」
「だから言ったでしょ。今日は風と星の日だって」
「風と星の日なんて言ってました?」
「今決めた」
「適当です」
「でも、悪くないでしょ」
「……悪くないです」
空に小さな光が一つ。
それだけなのに、なぜか嬉しかった。
私は空を見上げる。
でも、すぐ横にいるホシノ先輩の気配が濃くて、どうしても意識がそちらに引っ張られる。袖の擦れる音。ラジオを押さえる指。時々小さく息を吐く気配。隣から漂う、砂と日差しと眠そうな毛布みたいな匂い。
私は、もう一度膝の上で指を握った。
「レナちゃん」
「はい」
「さっきから、星よりこっち見てない?」
「見てません」
「即答だねぇ」
「星を見てます」
「星、一つしか出てないけど」
「一つを集中して見ています」
「うへぇ、頑張るねぇ」
「ホシノ先輩が悪いんです」
「おじさん、何かしたかなぁ」
「……何もしてないのが、困ります」
そう言うと、ホシノ先輩は少しだけ黙った。
私はしまった、と思った。
でも、もう遅い。
ホシノ先輩は、ゆっくり笑う。
「レナちゃん、それはなかなか強いねぇ」
「忘れてください」
「今日のレナちゃん、忘れてほしいことばっかり言うねぇ」
「言わせてるのはホシノ先輩です」
「じゃあ、責任取らないとねぇ」
「何の責任ですか」
「レナちゃんが困るくらい、今日はここにいる責任」
軽く言われたのに、胸に重く落ちた。
ここにいる。
ホシノ先輩が、ここにいる。
その言葉は、前の私なら泣きそうになるくらい欲しかったものだ。
今でも、欲しい。
ずっと。
私は星を見たまま、聞いた。
「ホシノ先輩は、今日、ここにいたいですか」
ホシノ先輩はすぐに答えなかった。
ラジオの曲が終わる。
少しだけ雑音が入る。
次の曲が始まる前の短い隙間に、ホシノ先輩の声が落ちた。
「いたいよ」
短い言葉だった。
でも、軽くなかった。
「前はさ、ここにいる理由なんて、もうほとんど義務みたいなものだと思ってたんだよねぇ。守らなきゃいけないからいる。残ってるからいる。いなくなった人たちの分まで、何とかしなきゃいけないからいる。そういう理由は、重くて、正しくて、でも時々息が詰まる」
私は何も言わなかった。
「でも最近は、少し違うんだよ。レナちゃんが廊下でこっちを見つけるとか、救護バッグを抱えて困った顔してるとか、おじさんに寝るなって怒るとか、そういう小さいことが増えてきた。そうするとねぇ、朝になったらレナちゃんに会えるかもしれないから、今日はここにいようかなって思える」
ホシノ先輩の横顔は、夜に近づく空の色の中で、いつもより大人びて見えた。
でも、声は少しだけ寂しかった。
「レナちゃんがここにいると、おじさんは、ここにいる理由を思い出せる」
胸が、苦しくなる。
重い。
信じられないくらい重い。
でも、ホシノ先輩は私に押しつけようとしているわけではない。むしろ、押しつけないように、いつもの軽さで薄めようとしている。けれど、薄めきれなかったものが、夜の風の中で見えてしまっている。
「だからね」
ホシノ先輩は、少しだけ笑った。
「レナちゃん、あんまり遠くで泣かないで。おじさんがここにいる理由が、こっちに戻れなくなるから」
風が吹いた。
私は、息を吸うのが遅れた。
遠くで泣かないで。
それは、優しい言葉だった。
同時に、怖いくらい深い言葉だった。
私が遠くで泣くと、ホシノ先輩の理由が遠くへ引っ張られてしまう。私の痛みを、自分がここに残る理由ごと連れていかれそうになる。そんなふうに言われた気がした。
「……ホシノ先輩」
「重かった?」
「重いです」
「だよねぇ」
「でも、嫌じゃないです」
言いながら、私はホシノ先輩を見た。
「ただ、私も言います。ホシノ先輩も、遠くで一人で苦しまないでください。理由が分からなくなったら、私に聞いてください。ここにいていい理由くらい、何回でも言います」
ホシノ先輩の目が、少しだけ開いた。
「レナちゃんに、そんなこと聞いていいの?」
「いいです。でも、一人で決めるのはだめです」
「おじさん、重いよ?」
「知ってます」
「知ってて言ってるんだ」
「はい」
私は、少しだけ笑った。
「私も、けっこう重くなってきたかもしれないので」
ホシノ先輩が、完全に黙った。
珍しい。
いつもなら、うへぇ、とか、困ったねぇ、とか言って逃げるはずなのに、今は言わなかった。
ラジオの音だけが、静かに鳴っている。
「……レナちゃん」
「はい」
「今のは、本当に効いた」
「効くんですか」
「効くよぉ。おじさん、そういうの弱いから」
「じゃあ、覚えておいてください」
「忘れられないと思うなぁ」
そう言われて、胸がまた跳ねた。
私は視線を逸らす。
星は増えていた。
一つだった光が、いつの間にか三つになっている。暗くなるほど、見えなかったものが見えるようになる。私はそれを見ながら、少しだけ息を整えた。
ベンチの上で、ホシノ先輩の手が近くにあった。
触れるほどではない。
けれど、さっきより近い。
指先。
袖口。
ほんの少し動けば届く距離。
私は、その距離を見てしまった。
意識した瞬間、心臓がうるさくなる。
「レナちゃん、どうしたの?」
「何でもないです」
「手、見てた?」
「見てません」
「即答が多いねぇ」
「ホシノ先輩が気づくからです」
「気づいちゃうねぇ」
「気づかないでください」
「無理かなぁ。レナちゃんが隣にいると、気になっちゃうから」
また。
また、さらっと言う。
私はもう、少し怒りたくなった。
恥ずかしくて。
胸が騒いで。
でも、嫌じゃなくて。
「ホシノ先輩」
「ん?」
「そういうの、私ばっかりドキドキするからずるいです」
言った瞬間、自分でも驚いた。
ホシノ先輩も固まった。
私は顔が熱くなる。
「今のは忘れてください」
「無理だねぇ」
「無理って言わないでください」
「だって、レナちゃんがそんなこと言うの、ずるいのはそっちだよ」
ホシノ先輩の声が、少しだけ低くなった。
「おじさんだって、平気なわけじゃないんだよ」
胸が止まりそうになった。
ホシノ先輩は、困ったように笑っている。
でも、その笑みは少しだけ崩れていた。
「レナちゃんが隣で赤くなって、星見てるふりして、おじさんの袖ばっかり気にしてるの、気づかないふりするのも大変なんだから」
「気づいてたんですか……」
「そりゃあねぇ」
「言わないでください」
「ごめんごめん。でも、ちょっと嬉しかったから」
嬉しかった。
その言葉で、もう何も言えなくなる。
私は、少しだけ手を動かした。
触れる勇気はなかった。
だから、ホシノ先輩の袖に、指先だけをそっと重ねた。
本当に少しだけ。
布越し。
それだけ。
でも、ホシノ先輩の呼吸が一瞬だけ止まったのが分かった。
「……レナちゃん?」
「寒いので」
「今日は、そんなに寒くないよ」
「風が冷たいです」
「そっかぁ」
ホシノ先輩は、それ以上言わなかった。
手を引かなかった。
私の指先が袖に触れている。それだけなのに、屋上の空気が少し変わった気がした。怖くない。けれど、落ち着かない。落ち着かないのに、離したくない。
これが何なのか、まだよく分からない。
でも、ただの安心だけではなかった。
私は隣にいるホシノ先輩を、少しだけ特別に意識している。
それを認めるのは、恥ずかしい。
でも、もう知らないふりはできなかった。
「レナちゃんがここにいると、おじさん、本当に困るねぇ」
「また困るんですか」
「うん。残りたくなる」
「それは、困ってください」
「強いなぁ」
「アビドスに来たので」
「責任重大だねぇ」
ホシノ先輩は、袖に触れた私の指を見ていた。
そして、少しだけ目を細める。
「レナちゃん」
「はい」
「おじさん、ここにいてもいい理由、また一つ増えたよ」
私は返事ができなかった。
ただ、袖を掴む指に少しだけ力が入った。
ホシノ先輩は、静かに続けた。
「明日の朝、またレナちゃんに会えるかもしれない。次に屋上へ来た時、また隣に座ってくれるかもしれない。星が見える前に、星を見るふりしてこっちを見てるかもしれない。そういう理由、思ったより強いんだよねぇ」
「ホシノ先輩」
「ん?」
「それ、私も困ります」
「どうして?」
「また、ドキドキするので」
ホシノ先輩は、今度こそ声を出さずに笑った。
笑っているのに、少しだけ泣きそうにも見えた。
「じゃあ、お互い困ったねぇ」
「はい」
「でも、嫌じゃない?」
「嫌じゃないです」
「おじさんも」
星が増えていく。
ラジオの音は、もうほとんど背景になっていた。
私たちはしばらく、何も言わずに座っていた。
袖越しの温度だけが、妙にはっきりしていた。
夜が深くなる前に、ホシノ先輩が立ち上がった。
「そろそろ戻ろっか。レナちゃん、眠そう」
「ホシノ先輩ほどじゃないです」
「おじさんはいつも眠そうだからねぇ」
「そこは直す気ないんですね」
「努力はするよぉ」
「努力じゃなくて、してください」
「レナちゃん、どんどん厳しくなるねぇ」
「ホシノ先輩が逃げるからです」
「逃げないって言ったでしょ」
「今日は?」
「明日も」
「明後日は?」
「……明後日も」
「その次は?」
「うへぇ、詰めるねぇ」
「詰めます」
ホシノ先輩は笑った。
けれど、ちゃんと私の方を見ていた。
「分かった。忘れそうになったら、レナちゃんに聞くよ。おじさんがここにいていい理由」
「その時は言います」
「何て?」
私は少しだけ考えた。
そして、胸が鳴るのを感じながら言った。
「私が、ホシノ先輩に会いたいから」
ホシノ先輩が、黙った。
屋上の風が流れる。
ラジオの雑音が小さく揺れる。
私は顔が熱くて、でも撤回したくなかった。
ホシノ先輩は、ゆっくり息を吐いた。
「……それは、ずるいなぁ」
「さっきのお返しです」
「お返しが強すぎるよぉ」
「効きましたか?」
「すごく」
ホシノ先輩は、帽子のつばを少しだけ下げた。
顔を隠すみたいに。
でも、口元だけは笑っていた。
「じゃあ、おじさん、明日もここにいるよ。明後日も、その次も。約束って言うと少し怖いけど、レナちゃんに会いたいって言われたら、逃げるのがもったいなくなる」
私は、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
「それなら、たくさん言います」
「うへぇ。おじさん、どんどん逃げられなくなるねぇ」
「逃げないでください」
「うん」
短い返事。
でも、ちゃんと届いた。
階段を下りる時、ホシノ先輩は前ではなく横を歩いた。
私はもう袖を掴んでいなかったけれど、距離は近かった。時々、ホシノ先輩の匂いがふわっと届く。砂と日差しと、眠そうな毛布みたいな匂い。
それに気づくたび、胸が小さく跳ねた。
対策委員会室の灯りが見えてきた頃、ホシノ先輩が小さく言った。
「レナちゃん」
「はい」
「今日のこと、大事にしていい?」
私は少しだけ驚いた。
でも、すぐに頷いた。
「はい。私も、大事にします」
「そっかぁ」
ホシノ先輩は、とても安心したみたいに笑った。
その笑顔を見て、私はまた困った。
好き、という言葉にはまだ早いのかもしれない。
でも、胸が鳴る。
隣にいたいと思う。
遠くへ行かないでほしいと思う。
それはもう、ただの心配だけではない気がした。
扉の前で、私は立ち止まる。
「ホシノ先輩」
「ん?」
「おやすみなさい」
「おやすみ、レナちゃん」
それだけの挨拶。
でも、今日は少し違って聞こえた。
屋上で見た星も、古いラジオの音も、袖越しの温度も、ホシノ先輩の匂いも、全部が私の中に残っている。
それは、ただの夜更かし。
ただの屋上。
ただの、星を見る時間。
でも、その奥には、私を自分がここにいる理由にしてしまう、信じられないくらい重くて、寂しくて、優しい愛情があった。
そして私は、その重さに少しだけ胸を鳴らしながら、扉を閉めた。
ifストーリーを投稿しようと思っています。ある程度全部投稿する予定ですが、真っ先にどれが見たいですか?
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レナが最強格の世界線
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甘え上手で小悪魔な世界線
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物理的に食べられる世界線
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好かれすぎて殺されそうになる世界線