戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
1話 空から落ちてきたゲーム機
シャーレの執務室で、先生は少し困った顔をしていた。
机の上には、いつものように書類と端末が並んでいる。シッテムの箱の画面には、私にはまだ全部を読み取れない文字や記号が流れていて、その横に置かれたマグカップからは、少し冷めかけた飲み物の匂いがしていた。窓の外は明るい。今日のキヴォトスも、どこかで誰かが走っていて、どこかで誰かが困っていて、そして先生のところには、そういう声が自然に集まってくる。
私は救護バッグの肩紐を握り直して、先生の向かいに立っていた。
「ミレニアム、ですか?」
「ええ。ミレニアムサイエンススクール。今回は、そこのゲーム開発部から私宛てに相談が来ているの」
「ゲーム開発部……」
聞いたことのない響きではなかったけれど、自分に近い言葉ではなかった。救護騎士団の部室にあるものは、包帯、消毒液、記録用紙、紅茶、毛布。ゲーム開発部にあるものは、きっとそのどれとも違う。端末や、機材や、作りかけのゲームや、私には分からない言葉がたくさん飛び交っているのだろう。
少しだけ不安になって、私は正直に言った。
「私、ゲームはあまり詳しくないです。遊んだことがないわけではないんですけど、専門的なことは全然……」
「そこは大丈夫。ゲームの評価をお願いしたいわけじゃないの」
先生は穏やかに笑った。
「今回、レナに同行してほしいのは、ゲーム開発部の子たちの様子を見てほしいから。聞いた限りだと、かなり追い詰められているみたいでね。部活の存続がかかっているらしいの」
「存続……」
言葉の重さは、学校や部活によって少しずつ違うのだと思う。けれど、誰かが大事にしている場所がなくなるかもしれない、という意味では同じだった。私はゲームのことは分からない。でも、好きなものを置いておける場所がなくなる怖さなら、少しくらいは想像できる。
「私でよければ、行きます。ゲームのことは分からなくても、体調とか、怪我とか、無理してないかとか……そういうところなら見られると思うので」
「ありがとう。きっと助かるわ」
「でも、ミレニアムって広いんですよね。迷わないでしょうか」
「そこは案内を頼んであるから大丈夫。……たぶん」
「先生、その“たぶん”は少し不安です」
「私も少し不安」
先生がまじめな顔で言うので、思わず笑ってしまった。
シャーレを出る時、私は救護バッグの中身をもう一度確認した。包帯、消毒液、冷却材、水、携帯食、予備手袋。ゲーム開発部へ行くのにここまで必要なのかは分からない。でも、何もないよりはいい。ミネ先輩なら、必要になってから足りないと気づくより、使わなくて済んだことを喜びなさいと言う気がした。
ミレニアムサイエンススクールは、最初の一歩から音が多かった。
自動ドアの開閉音、端末の通知音、遠くから聞こえる機械の駆動音、廊下を歩く生徒たちの足音。壁の案内表示は明るく、床は磨かれていて、あちこちに見たことのない装置が組み込まれている。トリニティの重厚な建物とも、救護騎士団の部室とも、シャーレともまったく違う。
未来の中にいるみたいだった。
「すごいですね……」
「ミレニアムらしいでしょう?」
「はい。どこを見ても、何か動いてます」
「初めて来ると、少し疲れるかもしれないわね」
「でも、面白いです。全部、何のためにあるのか気になります」
そう言うと、先生は少し嬉しそうにした。
「それなら、ゲーム開発部の子たちとも合うかもしれないわ。あの子たちも、好きなものの話になると止まらないから」
「私、ついていけるでしょうか」
「ついていけなくても、聞いてくれるだけで喜ぶと思う」
先生の言葉に頷いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
ゲームが分からなくても、話を聞くことはできる。相手の好きなものを、知らないからといって笑わないこともできる。専門用語が分からなくても、その人にとって大事なものだと分かれば、丁寧に扱うことはできる。
そう思った時だった。
「先生!」
上から、明るい声が降ってきた。
先生が顔を上げる。私もつられて見上げた。上階の通路から、生徒が身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。猫のような耳がぴんと立っていて、表情は遠くからでも分かるくらい明るい。その隣には、よく似た雰囲気だけれど少し落ち着いた生徒がいて、慌てたように彼女の制服の端を掴んでいる。
「あ、先生だ! 本物の先生だ! 来た! 来たよミドリ!」
「お姉ちゃん、そんなに身を乗り出したら危ないってば。あと、本物の先生って何?」
「だって本物じゃん! シャーレの先生が来てくれたんだよ! これでゲーム開発部も勝った!」
「まだ何も解決してないよ。まず落ち着いて」
「落ち着いてるって! あ、そうだ、先生にこれ見せなきゃ!」
「お姉ちゃん、それ今持つのは危ない!」
言葉の速度がすごい。
私が理解するより先に、上階の生徒が何かを抱え上げた。大きめのゲーム機のように見えた。角が丸く、でも明らかに重そうな機械。隣の生徒が止めようとした瞬間、生徒の手元が滑った。
「あ」
その声だけが、妙に軽かった。
機械が落ちてくる。
私は反射的に先生の腕を掴もうとした。でも、間に合わなかった。先生は私を庇うように一歩だけ前へ出て、その頭に機械が直撃した。
ごん、と鈍い音がした。
「先生!?」
先生は倒れなかった。けれど、肩が少し揺れた。私はすぐに救護バッグを前へ回し、先生の腕を支えて近くのベンチへ誘導した。
「座ってください。今すぐです」
「レナ、そんなに慌てなくても――」
「座って」
思ったより低い声が出た。先生は少し驚いた顔をして、それから素直に腰を下ろした。私は先生の前にしゃがみ、額と頭部を確認する。出血はない。意識もある。けれど、頭を打ったなら絶対に軽く見てはいけない。
「先生、聞こえますか。吐き気は? 視界はぼやけてませんか。頭痛は今、どのくらいですか」
「聞こえてるわ。吐き気はない。視界も大丈夫。痛みは……まあ、それなりに」
「それなり、じゃ分かりません。強くなったらすぐ言ってください」
「はい」
「はいは一回でいいです」
「一回だったわよ」
「……そうでした」
少しだけ焦っていたことに気づいて、私は息を整えた。周囲に生徒たちが集まりかけている。上階にいた二人が、ものすごい勢いで階段を下りてきた。
「ごめんなさい先生! 本当にごめんなさい! まさか落ちるとは思わなくて!」
「だから危ないって言ったよね、お姉ちゃん!」
「言われたけど! でも、先生に見せようと思って!」
「見せる前に直撃させる人がある!?」
ゲーム機を落とした生徒が、泣きそうな勢いで謝る。隣の生徒は冷静に見えるけれど、顔色はかなり悪い。私は二人に目を向けた。
「謝るのはあとで大丈夫です。今は先生の周りを少し空けてください。えっと、あなたが……」
「あ、才羽モモイ! ゲーム開発部のモモイ!」
「才羽ミドリです。本当にすみません……」
「モモイさん、近くに水があれば持ってきてください。ミドリさんは、周りの人に少し下がってもらえますか。あと、落ちた機械は誰も触らないでください。もう一度落ちたら、今度は私が泣きます」
「泣くの!?」
モモイさんが本気で驚いた顔をした。
ミドリさんはすぐに動いた。
「周囲、少し下がってください。先生の確認中です。お姉ちゃん、水!」
「分かってる! えっと、水、水……あった!」
モモイさんが水を持ってくる。走り出しそうな勢いだったので、私は思わず言った。
「モモイさん、走らない」
「まだ走ってないよ!?」
「走りそうだったから」
「見抜かれてる!」
モモイさんは大げさに驚いたけれど、足はちゃんと止めてくれた。私は水を受け取り、先生に少しずつ飲んでもらう。先生の顔色は悪くない。会話もできる。大丈夫そうではあるけれど、しばらく様子を見る必要はある。
「先生、今日は急に動かないでください。立つ時もゆっくりです」
「依頼を聞きに来たのだけれど」
「聞くのはできます。でも、無理して平気な顔をするのはだめです」
「厳しいわね」
「頭にゲーム機が落ちてきた人に優しくする方法は、厳しくすることです」
「なるほど」
先生が少し笑ったので、私も少しだけ安心した。
その時、壁際で小さな気配が動いた。ロッカーの影。誰かがこちらを見て、すぐ隠れた。私はそちらへ近づかず、声だけを柔らかくした。
「もう一人、いますか?」
モモイさんとミドリさんが同時に固まった。
「あ、えっと、いるにはいるんだけど」
「部長です」
「部長さん?」
ロッカーの扉が、ほんの少しだけ閉じる音がした。完全に隠れたつもりなのかもしれない。けれど、気配はまだそこにある。怖がっているというより、出るタイミングを失っている感じだった。
私はロッカーをじっと見ないようにして、その場に座ったまま言った。
「聞こえていたらで大丈夫です。先生は今、意識もありますし、出血もありません。すぐ危ない状態ではなさそうです」
ロッカーの中で、小さく何かが動いた。
「出てこなくてもいいです。聞こえてたら、それだけで大丈夫」
モモイさんが瞬きをした。
「レナ、ロッカーに話しかけてる……」
「お姉ちゃん、言い方」
「ご、ごめん。でも、ユズにそうやって話す人、珍しくて」
ユズ。
部長さんの名前だろうか。
私はその名前を心の中で覚えながら、先生へ向き直った。
「先生、少し落ち着いたら移動しましょう。ゲーム開発部の皆さんも、話は座れる場所でお願いします。あと、落ちた機械は……」
「あ、それはプライステーションだよ!」
モモイさんがなぜか胸を張った。
「胸を張るところじゃないよ、お姉ちゃん。先生に直撃したんだから」
「うう……でも大事なやつで……」
「大事なものなら、なおさら落としたらだめだよ、モモイさん」
自然に言葉が出た。
モモイさんがぴたりと止まる。
「だ、だよ……?」
「あ」
少し口調が柔らかくなりすぎた。初対面なのに、つい。モモイさんの勢いと、ミドリさんの慌て方と、ロッカーの中のユズさんの気配を見ていると、年下の子たちを相手にしているような気持ちになってしまった。
「すみません。失礼でしたか」
「いや、全然! むしろなんか……」
モモイさんは私をじっと見た。
「お姉ちゃんっぽい」
「お姉ちゃん?」
「うん。怒ってるけど怖くない感じ」
「怒っては……少しだけ、してます」
「してるんだ!?」
「先生にゲーム機が落ちてきたので」
「正論!」
モモイさんが頭を抱えた。ミドリさんが少しだけ笑っている。ロッカーの中の気配も、少しだけ緩んだ気がした。
私は改めて二人に向き直った。
「レナです。トリニティ総合学園、救護騎士団所属です。先生の同行で来ました。ゲームはあまり詳しくないんですけど、怪我や体調のことなら少しは見られます」
「ゲームに詳しくない……」
モモイさんが真剣な顔になった。
「つまり、完全な新規プレイヤー……!」
「お姉ちゃん、その言い方だとレナさんを布教対象として見てるみたいだよ」
「実際そうじゃない?」
「先生の救護をしてくれた人に、まず布教から入らないで」
ミドリさんのツッコミは冷静だった。けれど、どこか慣れていて、少しだけ楽しそうでもあった。
先生が水を一口飲んでから、顔を上げる。
「それで、助けてほしいという連絡だったわね。ゲーム開発部に何が起きているの?」
その言葉で、モモイさんとミドリさんの表情が変わった。
さっきまでの騒がしさが、少しだけ薄れる。
ロッカーの奥も静かになった。
「それが……」
モモイさんは、珍しく言葉を選ぶように口を開いた。
「あたしたち、廃部になりそうなんだ」
廃部。
明るい廊下の中で、その言葉だけが少し重く落ちた。
ミドリさんが続ける。
「正確には、このまま成果を出せなければ、活動継続が認められない可能性が高いんです。ゲーム開発部という名前なのに、外に出せる形のゲームを完成させられていないので」
「それで、ミレニアムプライズを目指すんだ!」
モモイさんが顔を上げた。
「すごいゲームを作って、みんなに認めさせる! ゲーム開発部はちゃんとゲームを作れるんだって! この部は必要なんだって!」
声は大きい。
けれど、少しだけ無理をしているようにも聞こえた。
私はゲームのことは分からない。プライズの価値も、ミレニアムでの評価も、まだ知らない。けれど、モモイさんが今の言葉を勢いだけで言っているのではないことは分かった。ミドリさんがその横で静かに手を握っていることも、ロッカーの中のユズさんが息を潜めていることも。
「部室、見せてもらってもいいですか?」
私が聞くと、モモイさんが目を瞬かせた。
「ゲームの相談じゃなくて?」
「ゲームの相談は先生が聞いてくれます。私はまず、部室で誰かが転ばないか、機材に飲み物がかからないか、徹夜で倒れそうな人がいないかを見ます」
「徹夜前提で見られてる!?」
「する予定ありますか?」
「……あります」
「じゃあ見ます」
「強い」
モモイさんが小さく言った。
ミドリさんは困ったように笑いながらも、少し安心したような顔をした。
その時、ロッカーの扉が、ほんの少しだけ開いた。
中から、か細い声がした。
「……部屋、汚いです」
初めて聞く声だった。小さい。けれど、ちゃんとこちらへ届いた。
私はロッカーを見すぎないようにして、少しだけ笑った。
「うん。じゃあ、少しずつ片づけようか。全部一気にじゃなくていいから」
「……怒らないんですか」
「怒る時は怒るよ。でも、汚い部屋を見ただけで怒ったら、片づける前に疲れちゃうから」
ロッカーの向こうで、小さな沈黙があった。
それから、扉の隙間がもう少しだけ広がった。
「……花岡ユズ、です」
「ユズさん」
「……はい」
「名前、教えてくれてありがとう。出てこなくてもいいよ。聞いててくれたら、それで大丈夫」
それ以上は言わなかった。
ユズさんは、まだ出てこなかった。
でも、ロッカーの扉は完全には閉まらなかった。
先生が立ち上がろうとしたので、私はすぐに見上げた。
「先生、ゆっくりです」
「はいはい」
「はいは一回でいいです」
「レナ、だんだんミネさんみたいになってきたわね」
「えっ」
思わず固まる。先生は少し笑った。私は何も言い返せず、少しだけ頬が熱くなる。ミネ先輩みたい、と言われるのは、嬉しいような、まだ早いような、背筋が伸びるような気持ちになる。
モモイさんが首を傾げた。
「ミネって誰?」
「私の師匠です」
「師匠!?」
モモイさんの目が輝いた。
「え、レナって師匠いるの!? じゃあ職業は回復役で、師匠持ちで、イベント経験ありってこと!?」
「お姉ちゃん、ゲームの職業欄みたいに人を見ないで」
「でも絶対重要キャラじゃん!」
「私は普通の救護騎士団員です……」
「普通の人は、先生にゲーム機が落ちた直後にあんなに指示出せないと思います」
ミドリさんがぽつりと言った。
私は返事に困った。
普通かどうかは分からない。ただ、目の前で誰かが怪我をしたら動く。それだけは、前より自然にできるようになった気がする。
「じゃあ、部室へ案内してください」
私は救護バッグを背負い直した。
「最初にすることは、ゲーム制作会議じゃなくて、安全確認と片づけです」
「うわ、本当にお姉ちゃんだ!」
「お姉ちゃんって呼ばれるほどしっかりしてないよ」
「じゃあ、レナお姉ちゃん?」
「モモイさん」
「はい」
「階段は走らない」
「まだ走ってないのに!?」
「走りそうだったから」
「また見抜かれた!」
モモイさんが大げさに驚く。ミドリさんが呆れながらも笑っている。ロッカーの中のユズさんは、声を出さなかったけれど、たぶん聞いている。先生は少し後ろで、楽しそうにこちらを見ていた。
ミレニアムの廊下は、相変わらず明るい。電子音が鳴り、表示が流れ、どこかで新しい何かが作られている音がする。その中で、私はゲーム開発部の三人の後を歩き始めた。
ゲームのことは、まだ分からない。
ミレニアムのことも、まだ分からない。
でも、モモイさんが落としたゲーム機を必死に拾おうとしていたことも、ミドリさんが冷静に見えて何度も手を握り直していたことも、ユズさんがロッカーの中から小さな声で名前を教えてくれたことも、今はちゃんと見えている。
それなら、最初にできることは決まっている。
転ばないように床を見る。
倒れないように顔を見る。
好きなものを続けるために、まず今日はちゃんと座って、水を飲んで、話を聞く。
私は救護バッグの紐を握り直した。
ゲーム開発部の扉は、思っていたより近くにあった。