戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
赤い光が、暗がりの中で揺れていた。
最初は、壊れかけの警告灯かと思った。古い工場の奥、埃をかぶった端末の向こう側。天井から垂れたケーブルの影に隠れるようにして、二つの小さな赤が、こちらを見ていた。けれど、それはすぐに間違いだと分かった。光が左右にずれる。金属が軋む。何かが床を踏む音がする。
動いている。
「……イベント、始まった?」
モモイちゃんが小さく呟いた。
「現実だよ、モモイ」
ユズちゃんの声が、私の少し後ろから聞こえた。
小さいけれど、ちゃんと届いた。そのことに、モモイちゃんが一瞬だけ目を丸くする。けれど、すぐに口元を引き締めた。今は驚いている場合ではないと分かっている顔だった。
ミドリちゃんが端末を握り直す。
「接近してきます。先生、戦闘許可は?」
「必要なら迎撃。ただし、まずは安全確保と退路の確認。無理に前へ出ないで」
「了解!」
「分かりました」
モモイちゃんとミドリちゃんの返事が重なった。
暗がりから出てきたのは、古い警備ロボットだった。装甲の一部は錆び、片側の腕は少し歪んでいる。もう長い間、誰にも整備されていないはずなのに、動きは鈍くなかった。剥がれかけた識別表示、赤いセンサー、床を踏む重い音。昔の命令だけを、今でも律儀に守っているみたいだった。
機械の目は、迷わない。
それが少し怖かった。
私はすぐに周囲を見た。右側の床は浮いている。下がるなら左。入口までの道はまだ見えている。天井のパネルが外れかけている場所には立たない。先生、モモイちゃん、ミドリちゃん、ユズちゃん。全員の位置を頭に置く。
「ユズちゃん、半歩だけ左。そこ、床の割れ目がある」
「……はい」
足音が小さく動いた。
ちゃんと動けている。
それだけ確認して、私は救護バッグを体の前に回した。戦うための鞄ではない。でも、怪我をした時に手が届く場所にいることはできる。
警備ロボットの腕が上がった。
「来る!」
モモイちゃんの声と同時に、射撃音が響いた。
廃墟の空気が震える。モモイちゃんとミドリちゃんの弾が、警備ロボットの肩と脚部に当たった。装甲の欠片が散り、赤い光が一瞬ぶれる。けれど、止まらない。古いのに硬い。動きは少し乱れただけで、またこちらへ踏み込んでくる。
「ちょっと待って! 最初の敵にしては硬くない!?」
「だから最初の敵じゃないってば!」
ミドリちゃんが撃ちながら返す。
「でも廃墟探索の初戦闘だよ!? 普通はもう少し優しくするところでしょ!」
「現実に難易度調整を求めないで!」
弾がもう一度当たる。
警備ロボットの腕が逸れた。古い警棒のようなものが床を叩き、埃が舞い上がる。モモイちゃんはぎりぎりで避けたけれど、勢い余って足元の小さな部品を踏みかけた。
「モモイちゃん、足!」
「わっ!」
モモイちゃんが片足で跳ねる。
ミドリちゃんが即座に支援射撃を入れた。先生が短く指示を出す。
「モモイ、右へ。ミドリ、膝関節を狙って」
「了解!」
「はい!」
二人の動きが変わった。
モモイちゃんは勢いをそのままに、でも前へ出すぎない。ミドリちゃんはロボットの脚部へ狙いを絞る。赤い光が揺れ、金属の膝が火花を散らした。機械の体が片側へ傾く。それでも腕はまだ動いている。
狙いは、ミドリちゃんだった。
「ミドリちゃん!」
呼ぶと同時に、ミドリちゃんが気づいた。けれど、足元のケーブルに靴が引っかかる。体勢が崩れる。ほんの少しだけ、避けるのが遅れる。
私は考えるより先に動いていた。
強く引くと転ぶ。だから腕ではなく、肩の後ろに手を添えて、体の向きだけを変えた。ミネ先輩ほど正確ではない。でも、ぶつかる場所を変えるくらいならできる。
警備ロボットの腕が、ミドリちゃんのいた場所を掠めた。
古い金属が壁に当たり、鈍い音がした。
「っ……ありがとうございます」
ミドリちゃんの声が、少し遅れて震えた。
「怪我は?」
「大丈夫です。少し驚いただけで」
「ならよかった。次は左に逃げて。右はケーブルが多い」
「はい」
ミドリちゃんはすぐに体勢を立て直した。顔色は少し悪い。でも目は逸れていない。怖かったはずなのに、その怖さを短く息で押し込めて、次の射線を探している。
「モモイ、今!」
「任せて!」
モモイちゃんが撃つ。
ミドリちゃんが脚を止める。
先生の指示が入り、二人の弾が警備ロボットの脚部に集中した。今度こそ、機械の体が大きく傾く。赤い光がぶれて、床に膝をついた。
「そこまで。これ以上近づかないで」
先生が言う。
モモイちゃんは、ぴたりと止まった。
「今、私すごくなかった!?」
「すごかった。でも近づかない」
「はい!」
モモイちゃんは両手を上げて、その場で止まった。
警備ロボットは数秒ほど腕を動かそうとして、やがて力尽きたように沈黙した。赤い光が一度だけ瞬き、消える。廃墟に、さっきまでより重い静けさが戻ってきた。
誰も、すぐには動かなかった。
先生が周囲を確認する。
「みんな、怪我は?」
「私は平気!」
「私も大丈夫です」
ミドリちゃんが答える。
少し後ろから、ユズちゃんの声がした。
「……私も、大丈夫です」
私は振り返った。
ユズちゃんは壁際に立っていた。鞄の紐を強く握っている。顔色は白い。けれど、足はちゃんと床についている。逃げ出してはいない。目も閉じていない。怖くて、震えて、それでも今ここにいる。
「ユズちゃん、今の怖さは?」
「……八、です」
「上がったね」
「はい」
「でも、言えた」
ユズちゃんが、少しだけ目を上げた。
「八って言えたから、今は大丈夫。九になったら止まろう。十になる前に戻る。それでいい?」
ユズちゃんは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
モモイちゃんが何か言いたそうにしていた。
たぶん、「大丈夫だよ」とか「怖くないよ」とか、元気づける言葉を探していたのだと思う。でも、モモイちゃんは飲み込んだ。代わりに、少しだけ不器用に親指を立てる。
「ユズ、八でも立ってるの、すごいと思う」
ユズちゃんが目を瞬かせる。
ミドリちゃんも頷いた。
「うん。無理してないのも、ちゃんと言えたのも、すごい」
ユズちゃんは何も言わなかった。
けれど、鞄の紐を握る手が、ほんの少しだけ緩んだ。
私はそれを見て、胸の奥が温かくなる。
この子たちは、ちゃんと見ている。
モモイちゃんは勢いで進むけれど、ちゃんと立ち止まれる。ミドリちゃんは現実を見すぎるけれど、相手の小さな頑張りを見落とさない。ユズちゃんは隠れるけれど、自分の怖さを言葉にできる。
ゲーム開発部は、片づいていない部室みたいだと思った。
散らかっている。
危なっかしい。
時々、何かが落ちてくる。
でも、その中に大事なものがちゃんと置いてある。
「レナ」
先生に呼ばれて、私は顔を上げた。
「警備ロボット、近づいて確認できそう?」
「動かないか確認してからなら。モモイちゃんは触らないでね」
「なぜ名指し!?」
「触りそうだから」
「否定できない!」
モモイちゃんが悔しそうに言う。
私は先生と一緒に少し近づいた。警備ロボットは完全に停止しているように見える。けれど、念のため距離を保ったままライトを当てた。胸部の装甲に、古い識別番号が残っている。ところどころ擦り切れて読みにくいが、ミレニアムの一般的な警備機材とは少し違う気がした。
ミドリちゃんも近づきすぎない位置から端末を向ける。
「この型番、かなり古いです。現行の警備ロボットとは規格が違います。施設側の自律警備システムに接続されていたものかもしれません」
「つまり?」
モモイちゃんが聞く。
「奥にもいる可能性があるってこと」
「ええ……」
モモイちゃんが少し嫌そうな声を出した。
「チュートリアルにしては硬すぎるのが複数いるの?」
「だからチュートリアルじゃないよ」
「でも一体倒したから、経験値は入ったはず!」
「現実では入らない」
「入ってほしい!」
先生が少し笑った。
その笑いで、緊張がほんの少しほどける。
けれど、完全には消えない。
廃墟の奥には、まだ何かがある。G.BIBLEの手がかりかもしれない。もっと古い機械かもしれない。あるいは、何もないかもしれない。それでも、今の警備ロボットがただの偶然ではないことは分かった。ここは本当に、手付かずで残された場所なのだ。
「先生」
ミドリちゃんが端末を見ながら言う。
「奥の通路に、まだ微弱な電源反応があります。警備ロボットがそこから来たなら、施設の中枢に近い設備が残っている可能性があります」
「G.BIBLEもそこにあるかも!」
モモイちゃんの目がまた輝く。
「行こう先生! 今の戦闘で分かったけど、ちゃんと注意すれば進める!」
「その“ちゃんと注意”が大事ね」
先生はモモイちゃんを見て言った。
「進む前に、一度確認しましょう。みんな、続けられる?」
「私はいける!」
モモイちゃんが即答する。
「私も大丈夫です。ただ、同じ型が複数出るなら、通路の狭い場所は避けたいです」
ミドリちゃんが答える。
ユズちゃんは少しだけ沈黙した。
私は何も言わずに待った。
「……行けます」
やがて、ユズちゃんが言った。
「怖いです。でも、さっきみたいに、先に止まれるなら……行けます」
先生が頷く。
「分かった。じゃあ、無理をしない範囲で進みましょう」
私は確認表に小さく印をつけた。
警備ロボット一体。停止。怪我なし。怖さ、ユズちゃん八。継続可。
書きながら、少しだけ変な気分になった。ゲーム開発部の探索なのに、まるで救護記録みたいになっている。でも、今の私にはこれが必要だった。記録するためではなく、戻る判断を見失わないために。
奥へ進む通路は、思ったより狭かった。
壁のパネルはところどころ剥がれ、古い配線がむき出しになっている。足元には小さな部品が散らばっていて、踏むと乾いた音がした。遠くから、まだ微かな機械音が聞こえる。さっきの警備ロボットのものとは違う。もっと低く、もっと奥から響く音。
モモイちゃんは、今度はちゃんと速度を落としていた。
ただ、目はずっと輝いている。
「こういうの、ゲームだったら絶対隠し部屋あるよね」
「現実で隠し部屋を見つけても、勝手に入ったら危ないよ」
ミドリちゃんが返す。
「でもG.BIBLEは隠し部屋にありそうじゃない?」
「それは……少し分かる」
「分かるんだ!」
「分かるけど、だからって壁を叩いて回らないで」
「まだ叩いてない!」
「叩きそうだったから」
「みんな私の未来行動を予測しすぎじゃない!?」
モモイちゃんの抗議に、先生が笑う。
「それだけ分かりやすいということね」
「先生まで!」
そのやり取りを聞いていたユズちゃんが、小さく言った。
「……でも、モモイは、分かりやすい方がいいです」
モモイちゃんが振り返る。
「え、そう?」
「……はい。怖い場所だと、何を考えてるか分からない人より、何をしたいか分かる人の方が、少し安心します」
モモイちゃんが固まった。
ミドリちゃんも少し驚いたようにユズちゃんを見る。
ユズちゃんはすぐに視線を下げた。
「……すみません」
「なんで謝るの!?」
モモイちゃんが慌てる。
「今の、めちゃくちゃ良いこと言ってたよ! ユズ、もっと言って!」
「それは、無理です……」
「そっか! じゃあ今の一回で大事にする!」
モモイちゃんは本気で嬉しそうだった。
ユズちゃんの耳元が、少しだけ赤くなる。
私はその光景を見て、余計なことを言わないようにした。ここは私が褒めるより、モモイちゃんが受け取ったことの方が大事だと思ったから。
通路の先で、また赤い光が点いた。
今度は二つではなく、四つ。
「……追加エネミー」
モモイちゃんが小声で言った。
「だから現実です」
ミドリちゃんが返す。
けれど、声はさっきより落ち着いていた。
警備ロボットが二体、通路の奥にいた。こちらに気づいたらしく、ゆっくり動き出す。狭い通路では、二体同時に相手をするのは危ない。下がる場所も限られている。
私はすぐに周囲を確認した。
「この通路は狭いです。後ろの部屋まで戻れば、左右に避けられる場所があります」
先生が頷く。
「一度戻りましょう。モモイ、ミドリ、牽制しながら後退」
「了解!」
「はい!」
二人は今度、迷わず動いた。
前へ出すぎない。撃ちながら下がる。モモイちゃんは勢いを抑え、ミドリちゃんは射線をずらす。先生の指示が短く入るたび、二人の位置が少しずつ整っていく。さっきより動きがいい。最初の戦闘が、本当に経験値みたいになっているのかもしれない。
ユズちゃんは私の後ろをついてくる。
少し足音が速い。
「ユズちゃん、急がなくていい。こっち見なくても、私の声がする方に来て」
「……はい」
「段差。右足から」
「はい」
「今は六歩。あと六歩で広い部屋」
「……はい」
数えると、ユズちゃんの足音が少し整った。
恐怖でいっぱいになると、先が見えなくなる。一歩先も、三歩先も、全部が同じくらい遠く感じる。だから、数える。あと何歩。どこで止まる。どこまで行けば少し広い。私はそういうことを、たぶん救護騎士団で覚えた。
後ろの部屋へ戻った瞬間、先生が指示を出す。
「ここで迎撃。左右に散って」
モモイちゃんとミドリちゃんが動く。
二体の警備ロボットが部屋へ入ってくる。一体目の脚部にミドリちゃんの弾が当たり、動きが鈍る。二体目が腕を上げる前に、モモイちゃんが肩を撃った。火花が散る。部屋の壁に赤い光が乱反射した。
「今度はちょっと分かってきた!」
モモイちゃんが言う。
「調子に乗らない!」
「乗らない! でもちょっと分かった!」
「そのくらいならいい!」
二人の声が重なる。
先生が小さく笑った。
「いい連携ね」
その言葉に、二人の動きがさらに少し良くなる。
戦闘は長くは続かなかった。最初よりもずっと落ち着いていた。ミドリちゃんが脚を止め、モモイちゃんが腕を逸らし、先生がタイミングを見て指示を出す。私はユズちゃんの近くで、戻る道を確保しながら、落ちた金属片を足元からどかした。
最後の一体が沈黙した時、モモイちゃんは大きく息を吐いた。
「勝った!」
「声大きい」
ミドリちゃんが言う。
「でも勝った!」
「うん。勝った」
ミドリちゃんの声にも、少しだけ嬉しさがあった。
ユズちゃんが、小さく呟く。
「……すごい」
モモイちゃんがすぐに振り返った。
「すごかった!? ユズ、今すごかった!?」
「……はい。二人とも」
その言葉で、モモイちゃんは一瞬、本当に嬉しそうな顔をした。さっきまでの戦闘の高揚とは違う。仲間に褒められた時の、少し照れた、でも隠しきれない顔。
ミドリちゃんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
私は、その表情を見て思った。
この三人が作るゲームは、きっとこの三人の形になる。
勢いよく進みたいモモイちゃん。
形を整えたいミドリちゃん。
怖くても少しずつ進みたいユズちゃん。
できなかったことが、できるようになるゲーム。
失敗しても、もう一度やってみたくなるゲーム。
怖い場所でも、少しずつ進めるゲーム。
今、廃墟の中で三人がしていることが、そのままゲームの中心になっている気がした。
「先生」
ミドリちゃんが、停止した警備ロボットの近くで端末を見た。
「このロボット、同じ場所から出てきています。奥に制御端末があるかもしれません」
「そこにG.BIBLEの手がかりがあるかも!」
モモイちゃんの目がまた輝く。
「行こう!」
「その前に」
私は言った。
モモイちゃんがぴたりと止まる。
「怖さ確認と、怪我確認」
「はい!」
今度は素直だった。
モモイちゃんは両手を上げて見せる。ミドリちゃんも頷く。ユズちゃんは少し考えてから言った。
「……七、です」
「さっきより下がったね」
「はい。まだ怖いです。でも、二人がどう動くか、少し分かったので」
モモイちゃんとミドリちゃんが同時にユズちゃんを見た。
ユズちゃんはすぐに視線を落とす。
でも、言葉は消えなかった。
「……だから、少しだけ、大丈夫です」
その声は小さかった。
けれど、廃墟の中ではっきり聞こえた。
先生が微笑む。
「じゃあ、もう少し進みましょう」
奥の通路へ向かう前に、私は一度だけ後ろを振り返った。入口の方向はまだ分かる。戻る道も見えている。けれど、ここから先は少し深くなる。空気が変わる。機械音が近い。壁の奥で、何かがまだ動いている。
モモイちゃんは期待で前を見ている。
ミドリちゃんは端末と通路を見比べている。
ユズちゃんは怖がりながら、それでも足を出そうとしている。
先生は、その全部を見ている。
私は救護バッグの紐を握り直した。
回復役は、前衛に出る必要はない。
でも、パーティーが進む道を、少しだけ安全にすることはできる。
「行こう」
先生の声で、私たちは奥へ進んだ。
通路の先には、重い扉があった。
錆びた金属の扉。中央には古い認証装置。画面は暗い。けれど、近づくと、微かに光が走った。まだ生きている。
ミドリちゃんが息を飲む。
「電源が残ってる……」
モモイちゃんが、今度は触る前にちゃんと手を止めた。
「先生、これ、調べてもいい?」
「ミドリ、確認できる?」
「やってみます」
ミドリちゃんが端末を接続する。数秒、静かな時間が流れた。廃墟の奥の機械音だけが聞こえる。
そして、暗かった画面に文字が浮かんだ。
古い文字列。
読めない記号。
その中に、ひとつだけ、はっきりとした単語が混じっていた。
Divi:Sion。
「……何、これ」
モモイちゃんの声が低くなる。
ミドリちゃんの指が止まった。
「分かりません。でも、ただの倉庫ではなさそうです」
その時、認証装置の奥で、低い音が鳴った。
画面の文字が乱れる。
読めない記号が流れ、次の瞬間、部屋全体に合成音声のような声が響いた。
『未登録対象、確認』
ユズちゃんが小さく息を飲む。
モモイちゃんが一歩下がる。
先生が静かに前へ出た。
『アクセス権限照合中』
「先生、これ……」
ミドリちゃんの声が緊張していた。
先生は認証装置を見つめたまま、落ち着いた声で言った。
「みんな、少し下がって」
私はユズちゃんの位置を確認しながら、半歩だけ後ろへ誘導した。けれど、先生から目を離せなかった。認証装置の光が、先生の手元をなぞるように走る。画面に、見たことのない文字列が浮かんでは消えた。
『照合完了』
音声が言った。
『連邦生徒会長権限、確認』
空気が止まった。
「……連邦生徒会長?」
モモイちゃんが呟く。
ミドリちゃんは何も言わなかった。先生も、一瞬だけ表情を変えた気がした。けれど、それはすぐに消えた。
重い扉の奥で、錆びた機構が動き出す。
金属が擦れる音。
埃が落ちる音。
長い間閉じていたものが、無理やり目を覚ますような音。
扉が、ゆっくりと開いた。
奥は暗かった。
けれど、完全な闇ではない。床に沿って、細い光が走っている。壁の中で、まだ生きている機械が小さく脈打っていた。廃墟というより、眠っていた施設の腹の中に入っていくようだった。
「……進む?」
モモイちゃんが、小さく聞いた。
さっきまでの勢いは少し引いている。
先生は扉の奥を見てから、私たちを振り返った。
「無理はしない。でも、ここまで開いたなら、確認しましょう。全員、離れすぎないで」
「はい」
私は頷いた。
ユズちゃんを見る。
「ユズちゃん、今は?」
「……八、です。でも、行けます」
「分かった。九になったら教えて」
「はい」
私たちは奥へ入った。
通路は思ったより長かった。左右には古いカプセルのような設備が並び、どれも停止している。中身は空だったり、割れていたり、曇って見えなかったりした。モモイちゃんは何度も声を出しかけて、そのたびに自分で飲み込んでいた。ミドリちゃんは端末でログを拾おうとしている。先生は前を歩き、私はユズちゃんの少し斜め前にいた。
奥へ進むほど、機械音がはっきりしてきた。
低く、一定で、眠っている誰かの呼吸みたいな音。
そして、最後の部屋に着いた。
そこだけは、他の場所と違っていた。
埃が少ない。
床の光がまだ生きている。
中央に、大きな装置がある。卵のような、棺のような、でもどちらとも言い切れない白いカプセル。表面には細い線が走り、淡い光が内側から漏れている。
モモイちゃんが、息を止めた。
「……何、これ」
ミドリちゃんが端末を向ける。
「反応があります。内部に……何か、います」
「何かって」
先生がカプセルへ近づく。
私は反射的に言った。
「先生、近づきすぎないでください」
「分かってるわ」
先生は慎重に、カプセルの表示を確認した。
画面に、文字が浮かんでいた。
AL-1S。
その下に、読み取れないデータが流れている。
「えーえる……わん、えす?」
モモイちゃんが首を傾げる。
「アリス……?」
ミドリちゃんが小さく読んだ。
その瞬間、カプセルの光が強くなった。
ユズちゃんが私の袖をつかんだ。
私はその手を見て、振り払わなかった。大丈夫、と言う代わりに、少しだけ袖の位置をそのままにする。
カプセルから、空気の抜ける音がした。
蓋がゆっくり開く。
白い蒸気のようなものが床へ流れ、淡い光が部屋に広がった。
中にいたのは、女の子だった。
長い髪。
閉じられた目。
眠っているような顔。
機械の中にいたのに、機械には見えなかった。人形のように整いすぎている、という言い方も違う。冷たい装置の中で、ひとりだけ温度を持っているように見えた。私は息をするのを忘れかけて、慌てて吸った。
この子は、生きている。
そう思った。
根拠は分からない。救護騎士団として見た呼吸の気配かもしれない。肌の色かもしれない。閉じた瞼のかすかな動きかもしれない。でも、私はその子を、ただの発見物とは思えなかった。
モモイちゃんが、小さく呟く。
「女の子……?」
ミドリちゃんの声も震えていた。
「どうして、こんなところに……」
先生が静かに近づいた。
女の子の瞼が、わずかに動く。
次の瞬間、目が開いた。
淡い光を受けて、何も知らない目がこちらを見た。
長い沈黙。
それから、その子はゆっくり口を開いた。
「……起動、確認」
声は澄んでいた。
けれど、感情の形はまだ薄かった。
「周辺環境、不明。対象、複数。敵性反応……確認不可」
モモイちゃんが、目を見開いた。
「しゃ、喋った……!」
女の子の視線が、ゆっくり先生へ向く。
「質問」
短い間。
「ここは、どこですか」
誰もすぐには答えられなかった。
私も、声が出なかった。
廃墟の奥で、G.BIBLEを探していたはずだった。
警備ロボットを避けて、暗い通路を進んで、古い扉を開けて。
その先にいたのは、本でも資料でもなく、目を覚ましたばかりの女の子だった。
その子はもう一度、私たちを見た。
何も知らない目で。
「識別要求」
静かな声。
「あなたたちは、誰ですか」
モモイちゃんが息を吸った。
ミドリちゃんが端末を下ろした。
ユズちゃんが、私の袖を握る手に少しだけ力を込めた。
先生は、その子の前で膝を折るようにして目線を合わせた。
「私は、先生。あなたを傷つけるつもりはないわ」
女の子は、先生の言葉を理解しようとするように、ほんの少しだけ首を傾げた。
「先生」
初めて覚える言葉のように、その子は繰り返した。
「登録します」
私は、その声を聞きながら、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。
この子は、まだ何も持っていない。
名前も。
怖さも。
好きなものも。
自分がどこへ行きたいのかも。
たぶん、これから覚えていく。
誰かの声で。
誰かの手で。
誰かが一緒に遊んで、一緒に歩いて、一緒に笑って。
モモイちゃんが、震える声で言った。
「先生、この子……連れて帰ろう」
ミドリちゃんが驚いたようにモモイちゃんを見る。
「お姉ちゃん」
「だって、ここに置いていけないよ」
モモイちゃんの声は、いつもの勢いとは違った。
もっとまっすぐで、もっと単純で、だからこそ強かった。
「G.BIBLEじゃないかもしれない。でも、この子、ここに一人でいたんだよ。起きたばっかりなんだよ。置いていけない」
ユズちゃんが、小さく頷いた。
「……私も、そう思います」
ミドリちゃんは少しだけ黙った。
そして、先生を見た。
「先生」
先生は静かに頷く。
「そうね。まずは安全な場所へ移しましょう。詳しいことは、その後に調べればいい」
女の子は、私たちの言葉を聞いていた。
理解しているのか、していないのかは分からない。ただ、目だけがゆっくり動いて、最後に私の方を見た。
「対象」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
「あなたは、修復担当ですか」
「修復……」
私は少し迷ってから、ゆっくり答えた。
「私は、救護係だよ。怪我をした人を診たり、倒れないように手伝ったりするの」
「救護」
女の子は、その言葉を繰り返した。
「登録します」
その声には、まだ温度が少ない。
でも、確かに私の言葉を受け取った。
私は小さく頷いた。
「うん。よろしくね」
モモイちゃんが、女の子の横に立って、カプセルの表示をもう一度見た。
「AL-1S……アリス、って読めるよね」
「お姉ちゃん、勝手に名前を決めるのは」
「でも、名前ないと呼べないよ」
モモイちゃんは女の子を見た。
「ねえ、あなた、アリスって呼んでもいい?」
女の子は、しばらく黙っていた。
「アリス」
繰り返す。
「識別名、AL-1S。呼称、アリス」
ほんの少しだけ、間が空いた。
「登録します」
モモイちゃんの顔が明るくなった。
「よし! じゃあアリス!」
女の子――アリスは、モモイちゃんを見た。
「アリス」
もう一度、自分で確かめるように言った。
その声を聞いた時、私は思った。
G.BIBLEは、まだ見つかっていない。
ゲーム開発部の廃部問題も、何も解決していない。
でも、今日この場所で、何かが始まってしまった。
作りかけのゲームよりずっと大きくて、伝説の資料よりずっと分からないもの。
ひとりの女の子が、今、名前を持った。
廃墟の奥で。
光の中で。
私たちは、アリスを見つけた。
まぁ、ミレニアム編も当たり前ですけど、レナの例の動画を見せようと思うんですけど、ゲーム開発部にだけ見せるかどうか迷ってます。さすがに人を選ぶ描写になると思うんで、自分が見たい方にアンケートしてください。
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見せる
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見せない