戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
アリスは、歩けた。
廃墟の奥、白いカプセルの中から目を覚ましたばかりのその子は、最初に数度だけ瞬きをして、それから自分の手を見た。指を一本ずつ動かす。手首を曲げる。足を床につける。膝に力を入れる。その一つ一つを、自分の体が本当に動くか確かめるみたいに、ゆっくりと行った。
「歩行機能、正常」
そう言って、アリスはカプセルの縁に手を置いた。
モモイちゃんが両手を広げて、今にも支えに行きそうな顔をする。
「だ、大丈夫!? 立てる!? 転ばない!?」
「お姉ちゃん、急に近づくと驚かせるよ」
ミドリちゃんが小声で止める。
モモイちゃんはぴたりと止まった。さっきまでなら勢いで突っ込んでいたかもしれない。でも今は、ちゃんと止まった。アリスを怖がらせたくないのだと、顔に書いてあった。
アリスはモモイちゃんを見た。
「転倒可能性、低。補助、不要」
「ほ、補助不要って言われた……」
「お姉ちゃん、たぶん大丈夫って意味だよ」
「そっか! じゃあ大丈夫!」
モモイちゃんは納得が早い。
アリスはその会話を聞いていた。分かっているのか、分かっていないのか、表情だけでは判断しにくい。綺麗な顔をしている、と思った。けれど、それは人形のように整っているという意味ではなかった。何かをまだ書き込まれていない画面みたいに、目の奥が静かで、こちらの言葉をそのまま映そうとしている。美しいというより、空白が眩しい。そんな印象だった。
私はカプセルの横にしゃがみ、少しだけ距離を保った。
「アリスちゃん、足、痛くない?」
アリスは私を見た。
「痛覚反応、異常なし」
「そっか。じゃあ、気持ち悪いとか、ふらふらするとかは?」
「平衡感覚、安定。内的異常、検出なし」
「うん。えっと……つまり、大丈夫そう?」
「大丈夫。登録します」
その返事に、少しだけ笑いそうになった。
大丈夫、という言葉を今覚えたみたいだった。意味を完全に分かっているというより、こちらが求めている形に近い答えを選んでくれたのだと思う。
「ありがとう。じゃあ、ゆっくり歩こう」
「ゆっくり」
アリスは繰り返した。
「移動速度、低下」
「そう。それで大丈夫」
先生がアリスの前に立つ。
「ここから出ましょう。あなたを安全な場所へ連れていきたいの」
「安全な場所」
アリスは先生の言葉を繰り返した。
「定義、不明」
先生は少しだけ考えてから、優しく言った。
「危ないものが少なくて、話を聞けて、休める場所のこと」
「休める場所」
「ええ」
アリスはまた瞬きをした。
「登録します」
モモイちゃんが小さく拳を握った。
「よし、じゃあゲーム開発部に帰ろう! あそこは安全な場所!」
ミドリちゃんがすぐにこちらを見る。
「部室の床、昨日まで安全ではなかったけどね」
「今は片づけたから!」
「最低限ね」
「最低限でも安全!」
いつものやり取りなのに、声は少しだけ慎重だった。二人とも、アリスを驚かせないようにしている。ユズちゃんは私の少し後ろで、アリスをじっと見ていた。怖がっているのとは違う。近づきたいけれど、どう近づけばいいのか分からない顔だった。
アリスが、その視線に気づく。
「対象、反応微弱」
ユズちゃんの肩が跳ねた。
「……すみません」
「謝罪理由、不明」
「えっと……見てしまったので」
「視認、問題なし」
アリスは淡々と言った。
ユズちゃんは少し困った顔をした。
私はその横で、そっと言葉を足す。
「ユズちゃんは、びっくりさせたかなって心配したんだと思う」
アリスは私を見る。
「心配」
「うん。相手が困ってないか、怖がってないか、気にすること」
「心配。登録します」
ユズちゃんの目が少し揺れた。
「……私は、怖がらせたくなかっただけです」
「怖がらせる。否定。登録します」
モモイちゃんが小さく呟く。
「なんか、言葉を一個ずつ拾ってる……」
ミドリちゃんも頷いた。
「本当に、起きたばかりなんだと思う」
先生が静かに言う。
「だから、ゆっくり話しましょう。分からないことは、これから一つずつ覚えればいい」
アリスは先生を見た。
「一つずつ」
「そう。一つずつ」
「登録します」
廃墟から戻る道は、行きよりも静かだった。
警備ロボットは停止したままだった。赤い光はもうない。けれど、私たちは誰も走らなかった。モモイちゃんも、何度か口を開きかけては、アリスの歩幅を見て速度を落とした。ミドリちゃんは端末にログを残しながら、周囲への注意を怠らない。ユズちゃんはアリスの少し後ろ、私の近くを歩いていた。
アリスは、廃墟を見ていた。
壊れた端末。
止まった警備ロボット。
剥がれた壁。
暗い通路。
その全部を、初めて見るものとして見ているようだった。怖がっている様子はない。けれど、安心しているようにも見えない。そもそも、怖いとか安心とかいう言葉をまだ持っていないのかもしれない。
「アリスちゃん」
私が呼ぶと、アリスはすぐにこちらを見た。
「はい」
「歩きにくかったら言ってね」
「歩行、問題なし」
「問題なし、じゃなくてもいいよ。少し疲れた、とかでも」
「疲労」
アリスは少しだけ目を伏せた。
「検出、軽微」
「じゃあ、少し疲れてるんだね」
「少し疲れている」
「うん。そういう時は、少しゆっくり歩く」
「理解しました」
アリスの歩幅が、ほんの少し小さくなった。
モモイちゃんがそれに気づいて、自分の歩幅も合わせる。
「ゆっくりでいいからね、アリス! ゲーム開発部までそんな遠くないし!」
「ゲーム開発部」
「そう! 私たちの部室! ゲームを作るところ!」
「ゲーム」
アリスは、その言葉を繰り返した。
「定義、不明」
モモイちゃんが息を吸った。
説明したくてたまらない顔だった。
ミドリちゃんがすかさず言う。
「お姉ちゃん、廊下で全部説明しようとしないで。部室に戻ってから」
「で、でも! ゲームって何って聞かれたんだよ!? これは説明しないと!」
「説明はする。でも今ここで始めると、部室に着く前に日が暮れる」
「そんなに長くしないよ!」
「お姉ちゃんの“短く説明する”は信頼できない」
「ミドリがひどい!」
アリスは二人の会話を聞いていた。
「ゲーム。重要語」
「うん! 超重要!」
モモイちゃんが即答する。
「登録します」
アリスが言った。
その声を聞いた瞬間、モモイちゃんの顔が明るくなった。
「聞いた!? ゲーム、重要語だって!」
「お姉ちゃんが重要って言ったからでしょ」
「それでも嬉しい!」
部室へ戻ると、ユウカさんが先に来ていた。
ノアさんも一緒だった。ユウカさんは端末を片手に、私たちの人数を見て、一度、瞬きをした。
「……ちょっと待って」
声がとても静かだった。
「廃墟に行って、正体不明の子を連れて帰ってきたってことで合ってる?」
「言い方!」
モモイちゃんが叫ぶ。
「ユウカ、もっとこう、運命の出会いみたいな言い方あるでしょ!」
「運命で書類は通らないでしょ!」
「書類にしないで!」
ミドリちゃんが疲れたように言う。
「でも、事実としてはだいたい合っています」
「ミドリまで!?」
ユウカさんは額に手を当てた。
「ゲーム開発部に関わると、どうして毎回想定外の事態が増えるの……。昨日は先生にゲーム機、今日は廃墟から女の子。次は何? 部室から古代兵器でも出すつもり?」
「出したくて出してるわけじゃないよ!」
「そういう問題じゃないの!」
ユウカさんの口調は、昨日よりずっと砕けていた。怒っているというより、突っ込まずにはいられないという感じだった。真面目なのに、言葉の端が近い。セミナーの人というより、目の前の騒ぎに真正面から巻き込まれている同年代の子に見えた。
その横で、ノアさんはアリスを見ていた。
じっと、けれど不躾ではなく。
アリスの立ち方、視線の動き、反応の遅れ、言葉の選び方。その全部を一瞬で覚えてしまったような目だった。ノアさんは何かを書く必要がない。目の前のものを、そのままどこか深い場所へ置いておける人なのだと思う。
「こんにちは」
ノアさんが言った。
「あなたが、アリスさんですね」
アリスはノアさんを見た。
「呼称、アリス。登録済み」
「そうですか。良い名前をもらいましたね」
アリスは少しだけ首を傾げる。
「良い名前」
「はい。呼ばれた時に、誰かの方へ振り向ける名前です」
その言葉に、モモイちゃんが少し黙った。
ミドリちゃんも、ユズちゃんも。
私も、少しだけ胸に触れた。
ノアさんはアリスではなく、モモイちゃんたちを見ているようでもあった。名前をつけたことの意味を、本人たちより先にそっと照らしたみたいだった。
ユウカさんが話を戻す。
「まず確認することが多すぎるんだけど。身元、所属、健康状態、安全性、それから……」
そこで、ユウカさんはゲーム開発部の三人を見た。
「部員として迎えるつもり?」
部室の空気が、少し止まった。
モモイちゃんが一歩前へ出る。
「迎える!」
迷いのない声だった。
「だって、アリスはもうアリスだし、ここに連れて帰ってきたし、ゲームもこれから教えるし! ゲーム開発部に入れば、部員数も足りるし!」
「お姉ちゃん、最後の理由が急に現実的」
「大事でしょ!?」
「大事だけど」
ミドリちゃんはアリスを見た。
「でも、本人の意思も確認しないと」
その言葉に、モモイちゃんがはっとした顔になる。
「そ、そうだった。アリス!」
アリスはモモイちゃんを見る。
「はい」
「アリスは、ゲーム開発部に入りたい?」
アリスは、すぐには答えなかった。
「ゲーム開発部」
「うん。ここ。私たちの部活。ゲームを作ったり、遊んだり、話したりするところ」
「ゲーム、定義不明」
「あっ」
モモイちゃんが固まった。
ミドリちゃんが額に手を当てる。
「お姉ちゃん、ゲームを知らない相手にゲーム開発部に入りたいか聞いても、判断できないよ」
「たしかに!」
ユズちゃんが小さく言った。
「……まず、ゲームを見せた方がいいと思います」
部室が静かになった。
そして、モモイちゃんの目が輝いた。
「それだ!」
嫌な予感がした。
でも、今度の嫌な予感は少しだけ楽しいものだった。
「アリスにゲームをやってもらおう!」
「お姉ちゃん、いきなり難しいのはだめだよ」
「分かってる! まずは簡単なやつ! ボタンを押して、キャラが動くやつ!」
「本当に簡単なやつにしてね」
「大丈夫! たぶん!」
「たぶん禁止」
ミドリちゃんが即座に返す。
先生は微笑んでいた。
「いいと思うわ。アリスがゲームを知るところから始めましょう」
ユウカさんは少しだけ渋い顔をした。
「本来なら、先に確認しなきゃいけないことが山ほどあるんだけど……」
「ユウカちゃん」
ノアさんが静かに言った。
「目を覚ましたばかりの子に、最初に何を渡すかは、とても大事ですよ」
「……それは、分かるけど」
「書類はあとから整えられます。でも、最初の体験は一度きりです」
ユウカさんは反論しようとして、少しだけ口を閉じた。
それから、ため息をつく。
「分かった。短時間だけ。ほんとに短時間だけだからね。その後、必要な確認をするから」
「やった!」
モモイちゃんが跳ねた。
「ユウカ、ありがとう!」
「許可しただけ! あと、部室内で跳ねない!」
「はい!」
アリスはそのやり取りを見ていた。
何が起きているのか、完全には分かっていないようだった。でも、モモイちゃんの明るさや、ミドリちゃんの慎重さや、ユズちゃんの小さな提案が、自分に向いていることは感じているように見えた。
モモイちゃんは机の上からゲーム機を取り出した。
昨日先生に落ちたものとは別の、小さめの端末だった。私は一応、先生の頭を見た。先生は「大丈夫」と目で答えた。大丈夫ならいいけれど、ゲーム機を見ると少しだけ警戒してしまう。
「アリス、これがゲーム!」
モモイちゃんが宣言する。
「入力装置」
アリスが言った。
「そう! 入力装置でもある! でもそれだけじゃない!」
ミドリちゃんが横に座る。
「まず、画面の中のキャラクターを動かします。このボタンで右、このボタンで左。これはジャンプ」
「右。左。ジャンプ」
「そうです。試してみてください」
アリスは端末を受け取った。
指が、ボタンの上に置かれる。
画面の中の小さなキャラクターが、右へ動いた。
「画面内対象、移動」
「そう! 動いた!」
モモイちゃんが自分のことみたいに喜ぶ。
アリスはボタンを押す。
キャラクターがジャンプする。
「上方向へ移動」
「ジャンプ!」
「ジャンプ」
アリスが繰り返す。
最初のステージは、本当に簡単なものだった。右へ進んで、小さな段差を跳び越えて、光るアイテムを取る。アリスは最初、ただ指示された通りに動かしているだけに見えた。でも、段差に引っかかった時、ほんの少しだけ手が止まった。
「障害物」
「ジャンプで越えられるよ」
モモイちゃんが言う。
アリスはジャンプした。
失敗した。
キャラクターが段差の前に戻る。
「失敗」
「もう一回!」
モモイちゃんがすぐに言った。
「ゲームは失敗しても、もう一回できるから!」
「もう一回」
アリスはボタンを押した。
また失敗した。
今度はミドリちゃんが言う。
「少し早めに押すといいです。段差の直前ではなく、その少し前」
「少し前」
アリスはもう一度押した。
キャラクターが段差を越えた。
モモイちゃんが歓声を上げる。
「やった! できた!」
アリスは画面を見ていた。
長い沈黙。
それから、小さく言った。
「成功」
「そう! 成功!」
「もう一度」
その言葉に、部室の空気が変わった。
モモイちゃんが固まる。
ミドリちゃんが静かに目を開く。
ユズちゃんが、ロッカーの扉の向こうではなく、今日はちゃんと机の近くでその声を聞いていた。
「もう一度、実行します」
アリスは言った。
モモイちゃんが、ぱっと笑った。
「それ、もう一回やりたいってことだよ!」
ミドリちゃんも小さく笑う。
「興味はありそうですね」
ユウカさんが端末を見ながら、少しだけ表情を緩めた。
「ゲームへの反応は確認できた、ってことでいいのかな。少なくとも嫌がってはいなさそう」
「ユウカ、それ認めたってことだよね!?」
「仮! 正式な手続きは必要!」
「仮でもいい! アリス、ゲーム開発部仮入部!」
「仮入部」
アリスが繰り返す。
「登録します」
ユズちゃんが、小さく言った。
「……四人、です」
その言葉は、とても小さかった。
でも、部室の全員に届いた。
ゲーム開発部は、三人だった。
部員数が足りなくて、実績も足りなくて、廃部になるかもしれなかった。
でも今、そこにもう一人いる。
まだゲームを知らない。
まだ自分の言葉も少ない。
けれど、「もう一度」と言った子がいる。
モモイちゃんが、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「うん。四人だ」
ミドリちゃんも頷いた。
「まだ、何も解決したわけじゃないですけど」
「でも、四人だよ!」
「うん」
ミドリちゃんは、今度は否定しなかった。
先生が静かにその様子を見ている。
私は、アリスの横に置かれた端末を見た。画面の中では、小さなキャラクターが段差の前に立っている。何度失敗しても、また最初からではなく、少し前からやり直せる。アリスはそれをじっと見つめていた。
「レナ」
突然呼ばれて、私は顔を上げた。
アリスがこちらを見ていた。
「はい?」
「救護、とは」
少し間を置いて、アリスは言った。
「失敗後に、続行可能にする行為ですか」
胸の奥が、静かに鳴った。
私はすぐには答えられなかった。
ゲームの中のキャラクターは、失敗しても戻れる。もう一度跳べる。できるまで試せる。救護は、それと同じではない。現実の怪我は、ボタン一つで戻らない。痛みも、怖さも、失敗も、なかったことにはならない。
でも。
「少し、似てるかも」
私はゆっくり言った。
「失敗したことを消すんじゃなくて、その後も進めるようにすること。痛かったら手当てして、怖かったら止まって、疲れたら休んで、それから……もう一回どうするか考えること」
アリスは私の言葉を聞いていた。
「救護」
繰り返す。
「続行可能化」
「少し機械っぽいけど……うん。そんな感じ」
「理解しました」
アリスは画面に視線を戻した。
「ゲームにも、救護が必要です」
モモイちゃんが目を輝かせた。
「それ、めちゃくちゃいいこと言ってない!?」
「お姉ちゃん、たぶんアリスはまだ比喩として言ってないよ」
「でもいい言葉じゃん!」
「それは、そう」
ミドリちゃんも認めた。
ユズちゃんが、少しだけ笑った。
アリスはまたボタンを押した。
キャラクターがジャンプする。
今度は、さっきより少しきれいに段差を越えた。
部室に、小さな歓声が上がった。
廃部問題はまだ残っている。
ミレニアムプライズに出すゲームも、まだ完成どころか形になり始めたばかり。
G.BIBLEも見つかっていない。
アリスが何者なのかも、何も分かっていない。
それでも、ゲーム開発部の部室には、昨日までなかった音が増えていた。
ボタンを押す音。
アリスが言葉を繰り返す声。
モモイちゃんの歓声。
ミドリちゃんの小さな助言。
ユズちゃんの控えめな笑い。
先生の穏やかな息遣い。
私はその全部を聞きながら、机の端に置いた救護バッグへそっと手を置いた。
新しい子が来た。
何も知らない子。
これから、たくさん覚える子。
その最初の一つが、ゲームだった。
そして、そのすぐ隣に、ゲーム開発部のみんながいた。
アリスはもう一度、ボタンを押した。
「もう一度」
その声は、まだ無機質だった。
けれど、ほんの少しだけ、次を望む響きが混じっていた。
まぁ、ミレニアム編も当たり前ですけど、レナの例の動画を見せようと思うんですけど、ゲーム開発部にだけ見せるかどうか迷ってます。さすがに人を選ぶ描写になると思うんで、自分が見たい方にアンケートしてください。
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