戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
午後のミレニアムは、朝より少しだけ音が硬かった。
校舎の壁を走る光の線、通路の案内音、遠くで動く機械の駆動音。どれも同じはずなのに、向かう場所が変わるだけで、聞こえ方まで変わる。ゲーム開発部へ向かう時は、あの部室の騒がしさを思い出して、廊下の音まで少し柔らかく感じた。けれど、ヴェリタスへ向かう今は違う。
見えないところで、何かがこちらを見ている。
そんな気がした。
「レナお姉ちゃん、緊張してる?」
モモイちゃんが、こちらを覗き込んだ。
「少しだけ」
「大丈夫! ヴェリタスは変な人たちだけど、悪い人たちじゃないから!」
「お姉ちゃん、その紹介はどうなの」
ミドリちゃんがすぐに言う。
「でも間違ってないでしょ?」
「間違ってはいないけど、初対面前に言うことじゃないよ」
アリスが真剣な顔で頷いた。
「ヴェリタス。変な人たち。悪い人たちではない。登録済み」
「アリス、今の登録しなくていいから!」
「パンパカパーン。不要登録を削除します」
「削除できるんだ……」
ユズちゃんが小さく呟いた。
アリスは朝からずっと元気だった。元気、というより、覚えた言葉を使いたくてたまらないのだと思う。ゲーム開発部の部室で一晩中ゲームをした結果、昨日までの無機質な言葉はかなり薄れていた。まだ少しずれているけれど、そのずれ方まで含めてアリスらしくなりつつある。
「目的地、ヴェリタス。クエスト内容、G.BIBLE関連ログの解析依頼」
「そう!」
モモイちゃんが胸を張る。
「伝説の書を探すためには、情報系ダンジョンを攻略しないと!」
「だからダンジョンじゃないってば」
ミドリちゃんが呆れたように返す。
先生は少し後ろで、みんなのやり取りを見守っていた。私はその隣を歩きながら、鞄の紐を握り直した。救護バッグは今日も持っている。でも、今日必要になるのは包帯や冷却材ではない気がしていた。
もっと別のところに触れられる。
そんな予感があった。
ヴェリタスの部室前に着くと、モモイちゃんが勢いよく扉を叩こうとした。
その直前、扉が開いた。
「うわっ!?」
モモイちゃんが手を上げたまま固まる。
扉の向こうには、眼鏡をかけた生徒が立っていた。各務チヒロさん。先生から名前は聞いていた。ヴェリタスの部長で、情報解析に強い人だと。
「ノックする前に開けた……」
モモイちゃんが呟く。
チヒロさんは、少しだけ肩をすくめた。
「廊下の足音と声で分かったから。先生とゲーム開発部、それから外部協力者が一人。あと、アリス」
「もうバレてる!」
「声が大きいんだよ、モモイは」
チヒロさんの声は落ち着いていた。低すぎず、高すぎず、無駄が少ない。責める感じではないのに、言われたことを否定する隙があまりない。
モモイちゃんがこちらを見る。
「レナお姉ちゃん、やっぱりヴェリタス怖くない?」
「少しだけ」
「そこは否定してほしかった!」
チヒロさんの視線が私に向いた。
「あなたがレナさん?」
「はい。トリニティ総合学園、救護騎士団のレナです。今日は先生の同行で来ました」
「救護騎士団」
チヒロさんは一度だけ頷いた。
「なるほど。廃墟探索に救護担当を連れていく判断は悪くないね」
「ありがとうございます」
「でも、あなたは解析対象じゃないから安心していいよ。今日はログを見るだけ」
そう言われたのに、安心はできなかった。
解析対象ではない。
その言い方が、もう少し怖い。
対象にしようと思えばできる、という意味が、言葉の裏側に薄く残っているように聞こえた。
「入って。ハレたちもいる」
チヒロさんに促されて、私たちは部室に入った。
ヴェリタスの部室は、ゲーム開発部とはまるで違っていた。
散らかっていないわけではない。むしろ、ケーブルや端末や部品はたくさんある。けれど、散らかり方が違う。ゲーム開発部の部室は、熱と勢いが積もっている場所だった。こちらは、情報が重なっている場所だ。机の上の端末、壁に並んだモニター、暗い画面に流れる文字列。どこに何があるのか、私には分からない。でも、ここにいる人たちにはきっと分かっている。
部屋の奥で、気だるそうな生徒が椅子に沈んでいた。
「来たんだ」
ハレさんだと思う。声は眠そうなのに、こちらを見る目は思ったよりはっきりしていた。画面の光を受けて、表情が少し青白く見える。
その近くで、明るい色の髪の生徒が手を振る。
「おー、ゲーム開発部じゃん。で、そっちが噂のレナっち?」
「レナっち」
思わず繰り返してしまった。
「うん、レナっち。呼びやすいし」
マキさんは笑っていた。軽い。けれど、その軽さが逆に読みにくい。壁に絵を描く前に、どこへ線を置けば一番目立つか見ているような目だった。
そして、もう一人。
「……こんにちは」
声は、すぐ近くでした。
耳の横ではない。けれど、思ったより近い。振り向くと、コタマさんが端末を持って立っていた。いつの間にそこに来たのか、全然分からなかった。
「ひゃっ……」
変な声が出た。
モモイちゃんがすぐに反応する。
「レナお姉ちゃんが変な声出した!」
「モモイちゃん、言わなくていいよ」
「すみません」
コタマさんは淡々と言った。
「驚かせるつもりは、少しだけありました」
「少しだけ?」
「はい。反応を確認したかったので」
謝罪の形をしているのに、内容はまったく謝っていない。
私は返事に困った。
コタマさんは私の顔ではなく、喉元のあたりを見ているように感じた。声を聞く人の視線だと思った。目を見るのではなく、音が生まれる場所を見ている。
「レナさんの声は、驚くと少し上に跳ねるんですね」
「……そういうの、分かるんですか」
「分かります」
即答だった。
「救護指示の時は、もっと低くなると聞いています」
「誰から……」
言いかけて、チヒロさんの方を見る。
チヒロさんは画面を起動しながら言った。
「廃墟の帰還ログに、少し音声が残ってた。あなたがユズに歩数を数えていたところ」
「それ、聞いたんですか」
「解析に必要な部分だけね」
チヒロさんは何でもないように言う。
けれど、その一言で、胸の奥が少しだけ縮んだ。
私が誰かにかけた声。
私がその時、どういう声で、どういう速さで、どういう言葉を選んだのか。
自分ではもう忘れかけていたものが、この人たちの前ではデータとして残っている。
「レナさん」
コタマさんが、少しだけ近づいた。
近い、と感じるより先に、声が耳に入る。
「救護指示の声は、聞いていて迷いにくいです。言葉の端が固くなって、音が前へ出ます」
「それは……たぶん、聞いている人が迷わないように」
「はい。だから面白いです」
面白い。
その言葉に、少しだけ指先が止まった。
「面白い、ですか」
「はい」
コタマさんは表情を変えない。
「レナさんは、相手のために声を変える。でも、自分が見られている時の声は、まだ作れていません」
部屋の音が、一瞬遠くなった。
モモイちゃんたちはログの準備で騒いでいる。アリスが「新規NPC、個性豊富です」と言って、ミドリちゃんに「NPCじゃないよ」と訂正されている。先生がチヒロさんと話している。
でも、私の耳にはコタマさんの声だけが残った。
「……意地悪ですね」
「はい」
コタマさんは淡々と頷いた。
「少しだけ」
その「少しだけ」が、全然少しだけに聞こえなかった。
「コタマ、レナさんで遊ばない」
チヒロさんが画面の前から言った。
「遊んでいません。聴いています」
「もっと悪い言い方になってるよ」
ハレさんが椅子に沈んだまま呟いた。
マキさんが笑う。
「レナっち、もう捕まってるじゃん」
「捕まって……?」
「ヴェリタスってそういうとこあるんだよね。見つけたら、つい解析したくなる」
「私はログじゃないです」
「うん。ログじゃない」
マキさんは軽く言った。
「でも、跡は残るよ。歩いたあととか、言った言葉とか、困った顔とか」
困った顔。
また言われた。
私は思わず頬に触れそうになって、やめた。触れたら、それも見られそうだった。
「ほら、今」
ハレさんが言った。
「顔を隠そうとして、途中でやめた」
「……見てたんですか」
「見えた」
ハレさんは悪びれない。
「画面より分かりやすいよ、レナ」
呼び捨てだった。
その距離の詰め方に、一瞬だけ呼吸が遅れる。ゲーム開発部の子たちが私を「お姉ちゃん」と呼ぶ時とは違う。守られる側でも、世話を焼く側でもない。ただ、私という一人の人間を、近い距離で覗き込まれている感じがした。
私は、救護バッグの紐を握った。
チヒロさんが、その動きだけを見て言う。
「そこ。迷った時にバッグの紐を探すんだね」
今度こそ、返事ができなかった。
チヒロさんは責めていない。
でも、並べられる。
声。
間。
視線。
手の動き。
救護バッグ。
私が自分のものだと思っていた反応が、ひとつずつ机の上に置かれていく。
「やめた方がいい?」
チヒロさんが聞いた。
優しい確認のようで、そうではなかった。
やめてほしい、と言えば止めるのかもしれない。けれど、止めてほしいと思ったことまで、もう知られている。そういう聞き方だった。
「……今日は、ログの解析をしに来ました」
私は少しだけ声を整えた。
「私の解析ではなく」
チヒロさんの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「うん。いい切り返し」
「褒められてますか」
「半分くらい」
「半分」
「もう半分は、今の声も少し低くなったなって思ってる」
「やっぱり解析してるじゃないですか」
「癖だから」
さらりと言われて、怒るタイミングを失った。
ヴェリタスは、ゲーム開発部とは全然違う。
モモイちゃんたちは、私を頼ってくれる。お姉ちゃんみたいに呼んで、褒めると笑って、困るとこちらを見る。
でも、ヴェリタスは違う。
こちらを見る。
頼る前に、読む。
守られる前に、剥がされる。
それが嫌かと聞かれると、すぐに嫌とは言えなかった。
少し怖い。
でも、その怖さの中に、知らない熱がある。
「さて」
チヒロさんが端末を操作した。
「本題に入ろうか。廃墟で拾ったログ、見せて」
ミドリちゃんが端末を差し出す。
「これです。破損している部分が多くて、通常の復元では読めませんでした」
「ふーん」
チヒロさんは画面を見た。
ハレさんが椅子ごと少し寄ってくる。マキさんは机の反対側から覗き込み、コタマさんは音声ファイルの部分だけ別に開いた。
数秒。
部屋の空気が変わった。
さっきまで私をからかっていた雰囲気が、すっと引く。ヴェリタスの四人の目が、画面へ沈んだ。冗談でも、遊びでもない。情報を読む人たちの顔だった。
チヒロさんが短く言う。
「これ、ただの廃墟ログじゃないね」
モモイちゃんが身を乗り出す。
「えっ、じゃあG.BIBLE!?」
「まだ分からない」
ハレさんが答える。
「でも、古いシステムログの中に、外部から差し込まれた形跡がある。自然に壊れたんじゃなくて、壊したあとに何かを残してる」
「壊したあとに残す?」
ユズちゃんが小さく聞いた。
「見つけさせたいものがある時に、そういう壊し方をする人もいる」
チヒロさんの声は淡々としていた。
けれど、私はその言葉にひっかかった。
見つけさせたいもの。
壊したあとに残す。
それは、少し嫌な言葉だった。
「Divi:Sion」
アリスが呟いた。
画面の端に、その文字が浮かんでいた。昨日、廃墟の扉で見たものと同じだ。
「アリス、覚えてるの?」
モモイちゃんが聞く。
「はい。廃墟の扉に表示されていました。重要語の可能性があります」
「重要語かぁ……」
マキさんが画面を見ながら言った。
「これ、見た目は古いけど、奥に隠れてる圧縮形式はちょっと変だね。誰かが上から塗ってる」
「塗ってる?」
私が聞くと、マキさんが楽しそうにこちらを見る。
「壁に古い落書きがあるとしてさ、その上から別の色で薄く描いてある感じ。遠くから見ると古い汚れに見えるけど、近くで見ると意図がある」
「マキの説明、分かりやすいね」
ハレさんが眠そうに言った。
「でしょ?」
マキさんは少し得意そうだった。
「つまり、これ描いた人、性格悪い」
「そこまで分かるんですか」
「分かるよ」
マキさんは笑う。
「見つけた人に“見つけた”って思わせたい描き方してるもん」
背中に、薄い冷たさが走った。
先生も少しだけ表情を硬くしている。
「復元できる?」
先生が聞いた。
チヒロさんは迷わず答えた。
「できる。全部は無理でも、方向は見える」
「方向?」
「G.BIBLEそのものじゃないかもしれない。でも、G.BIBLEに繋がる何か。あるいは、それを探していた別の誰かの痕跡」
ミドリちゃんが息を飲む。
「別の誰か……」
「そう」
チヒロさんは端末を操作しながら続けた。
「それと、Mirrorという単語が断片的に出てる」
「Mirror?」
モモイちゃんが首を傾げた。
「鏡?」
「名前だけならね」
ハレさんが画面を覗き込みながら言う。
「でも、このログの中だと、ただの単語じゃない。システム名か、プロジェクト名か、認証キーかも」
「新規クエストです」
アリスが真面目に言った。
「目的、Mirrorの正体確認」
「アリス、すっかりクエストで整理するようになったね」
ミドリちゃんが少し笑う。
「はい。アリスはクエスト管理能力を獲得しました」
「パンパカパーン?」
モモイちゃんが期待する。
「パンパカパーン」
アリスが小さく言った。
緊張していた部屋に、少しだけ笑いが戻る。
けれど、ヴェリタスの四人は完全には緩まなかった。
チヒロさんが、画面の一部を拡大する。
「ここ。壊れているけど、復元すれば座標かアクセス経路が出ると思う」
「どれくらいかかりますか?」
ミドリちゃんが聞く。
「急げば今日中に断片は出せる。ただ、深く掘るなら時間がいる」
ハレさんが椅子に沈む。
「あと、触ると向こうに気づかれる可能性もある」
「向こう?」
先生が聞いた。
「このログを残した誰か」
チヒロさんが答える。
「今も見てるとは限らない。でも、こういうのは不用意に掘ると、掘った側の情報も返すことがある」
返す。
情報が返る。
こちらが見ているつもりで、こちらも見られる。
私は無意識に息を止めていた。
「レナさん」
コタマさんが言った。
声は近くなかった。けれど、まっすぐ耳に届いた。
「今、息を止めました」
「……言わなくていいです」
「はい。でも、分かりました」
少しだけ、意地悪な沈黙があった。
「レナさんは、“見られる”という言葉に反応します」
部屋の温度が、私だけ少し変わった。
ゲーム開発部の方へ視線を向ける。モモイちゃんは心配そうに私を見ていた。ミドリちゃんも、ユズちゃんも。アリスだけは、意味を整理しようとしている顔だった。
私は笑おうとした。
でも、その前にチヒロさんが言った。
「コタマ」
「はい」
「そこまで」
「了解しました」
コタマさんは素直に引いた。
けれど、引かれた後も、言葉は残る。
見られる、という言葉に反応する。
そうなのかもしれない。
ノアさんにも、ヴェリタスにも、見られる。
自分が見せたいと思っていない場所まで。
でも今日は、その怖さから逃げる日ではない。
「……すみません。続けてください」
私が言うと、チヒロさんが少しだけ私を見た。
「無理してる?」
「少しだけ」
「正直だね」
「さっきから、嘘をついても分かりそうなので」
「うん。たぶん分かる」
否定してくれない。
でも、その方がかえって少し楽だった。
チヒロさんは画面へ戻った。
「復元する。ハレ、圧縮形式の推定。マキ、視覚データのノイズ除去。コタマ、音声断片の分離。ただし、開く前に先生へ確認」
「了解」
「はーい」
「了解しました」
三人の返事が重なる。
ヴェリタスの空気が一気に動いた。ハレさんは気だるげなまま指だけ速い。マキさんは鼻歌でも歌いそうな顔でノイズの層を剥がしていく。コタマさんは音声波形をじっと見ている。チヒロさんは全体を見ながら、必要なところだけ短く指示を出す。
格好いい、と思った。
ゲーム開発部の熱とは違う。こちらは、静かな集中だ。誰かが大声を出すわけでもないのに、部屋全体が一つの機械みたいに動いている。
モモイちゃんも、ぽかんと見ていた。
「すご……」
「お姉ちゃん、邪魔しないでね」
「分かってる。今は静かにする」
モモイちゃんが本当に静かになった。
ミドリちゃんが少し驚いた顔をする。
アリスが小さく言った。
「ヴェリタス、解析パーティー」
「いい表現だね」
ハレさんが画面を見たまま言う。
「アリス、センスある」
「センス」
「褒め言葉」
「理解しました。アリスはセンスを獲得しました」
「獲得が早いね」
ハレさんの声が、少しだけ柔らかくなる。
数分後、画面に断片的な文字列が浮かんだ。
G.BIBLE。
Mirror。
そして、読み取れない座標の一部。
モモイちゃんが小さく息を吸った。
「出た……!」
ミドリちゃんも、端末を握る手に力を入れる。
「本当に、手がかりが……」
チヒロさんは頷いた。
「まだ断片。でも、追える」
「どこに繋がるの?」
先生が聞いた。
ハレさんが画面を見ながら答える。
「ミレニアム内部の古い研究棟……かな。今は一般生徒は入れない区画。アクセス権限が必要」
「つまり?」
モモイちゃんが聞く。
マキさんがにっと笑う。
「つまり、普通に行くと怒られる」
「えー!」
「でも、手がかりはそこにある」
チヒロさんが言った。
「先生、これはセミナーか、もしくはC&Cを通した方がいいかもしれない。区画の管理が特殊だし、警備系が絡むなら私たちだけで開けるのは面倒」
「C&C……」
私は小さく繰り返した。
また、知らない名前。
けれど、先生はすぐに頷いた。
「分かった。ユウカさんにも確認して、必要ならC&Cにも協力をお願いしましょう」
「メイドさんのパーティー加入ですか?」
アリスが目を輝かせた。
「C&Cはメイド部隊だから、まあ……そうかも?」
モモイちゃんが答える。
「メイドさん! アリス、メイドさんを知っています。ゲームにも登場します」
「アリス、情報が偏ってる」
ミドリちゃんが言う。
部屋にまた少し笑いが戻った。
けれど、私は画面の文字から目が離せなかった。
G.BIBLE。
Mirror。
特殊管理区画。
C&C。
話は、確かに進んだ。
進んでしまった。
「レナっち」
マキさんの声がした。
顔を上げると、彼女はいつの間にか私の横に立っていた。手には小さな付箋のようなものを持っている。
「これ、貼っていい?」
「何ですか」
「迷子防止」
「迷子にはなりません」
「でもレナっち、さっきから部屋の中で少しずつ後ろに下がってるよ」
言われて、足元を見る。
本当に、最初にいた場所より半歩ほど後ろだった。
マキさんは笑っていた。
「だから、印」
「印……」
「冗談だよ。半分」
「半分が多いですね」
「うん。だってレナっち、誰かの場所になりやすそうだから」
胸の奥が、また変なふうに揺れた。
「誰かの場所って、どういう意味ですか」
「言葉のまま」
マキさんは、付箋を私ではなく、近くの机にぺたりと貼った。
そこには、簡単な顔の落書きが描かれていた。
「ここ、レナっち避難ポイント」
「避難ポイント?」
「怖くなったらここ。ヴェリタスは怖いからね」
「自覚あるんですか」
「あるよ」
マキさんは楽しそうに言った。
「でも、怖いって思われるのも嫌いじゃない」
軽い声だった。
でも、その言葉は軽くなかった。
私は返事を探す。
その前に、チヒロさんが立ち上がった。
「今日はここまで。これ以上掘るなら、こっちでも準備がいる。先生、復元した断片は送る」
「ありがとう、チヒロさん」
「それと」
チヒロさんは私を見た。
「レナさん」
「はい」
「次に来る時、怖いなら怖いって言っていいよ」
「……はい」
「でも、言わなくてもたぶん分かる」
優しくない。
でも、突き放してもいない。
チヒロさんは少しだけ笑った。
「だから、隠すならもう少し上手く隠して」
ずるい人だと思った。
怖がっていいと言いながら、隠すことを許す。けれど、隠しても分かると言う。逃げ道を塞がれているのに、なぜか責められている気はしない。
むしろ。
もう少し見られてみたい、と思ってしまうのが怖かった。
「……努力します」
「うん。期待してる」
ヴェリタスの部室を出る時、アリスは振り返って言った。
「ヴェリタス、解析パーティー。クエスト進行に貢献しました」
チヒロさんが軽く手を上げる。
「またどうぞ」
ハレさんは椅子に沈んだまま手を振った。
「次はもう少し眠い時以外に来て」
「ハレ、いつも眠いでしょ」
マキさんが笑う。
コタマさんは私の方を見て、静かに言った。
「レナさん」
「はい」
「次は、救護指示以外の声も聞かせてください」
私は固まった。
コタマさんは表情を変えない。
「今日の声は、少し抑え気味でした」
「……本当に意地悪ですね」
「はい」
短い返事。
「少しだけ」
扉が閉まる直前、マキさんの声が聞こえた。
「レナっち、避難ポイント忘れないでねー」
廊下に出ると、空気が少し軽くなった。
でも、胸の奥は落ち着かなかった。
ゲーム開発部の部室へ向かう時とは違う疲れ方をしている。怖い。けれど、嫌ではない。知らない人たちに、自分の知らない自分を見つけられるのは、こんなにも落ち着かない。
「レナお姉ちゃん、大丈夫?」
モモイちゃんが聞いてくる。
その声に、少しだけ安心した。
ここでは、私はお姉ちゃんに戻れる。
「うん。大丈夫」
「ヴェリタス、やっぱり怖かった?」
「少し」
「だよね!」
モモイちゃんが力強く頷く。
ミドリちゃんが静かに言う。
「でも、手がかりは見つかりました」
「うん!」
アリスが両手でゲーム機を抱えたまま言った。
「クエスト更新。次の目的地、特殊管理区画。協力候補、C&C」
ユズちゃんが少し不安そうに呟く。
「……C&C」
先生が前を向く。
「まずはユウカさんに確認しましょう。それから、必要ならC&Cに協力をお願いする」
物語が進んでいる。
その実感があった。
G.BIBLEを探すだけだったはずの道は、Mirrorへ繋がり、特殊管理区画へ繋がり、C&Cへ繋がろうとしている。
そして私は、ヴェリタスの部室に、自分の知らない跡を少し置いてきてしまった気がした。
声。
間。
困った顔。
避難ポイント。
それらを思い出すと、胸の奥がまた少しだけざわついた。
アリスがこちらを見上げる。
「レナ」
「何?」
「レナは、ヴェリタスでレベルアップしましたか」
私は少し考えた。
「……したかもしれない」
「パンパカパーン?」
「それは、もう少し後で」
「了解しました。パンパカパーン、保留します」
モモイちゃんが笑い、ミドリちゃんがため息をつき、ユズちゃんが少しだけ口元を緩める。
私はその中で、もう一度前を向いた。
次は、C&C。
メイドさんは敵ですか、味方ですか。
アリスなら、きっとそう聞くだろう。
でも私は、少し違うことを考えていた。
守る人たちに見つめられた時、私はどこへ立てばいいのだろう。
救護係として。
外部協力者として。
それとも、ただのレナとして。