戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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2話 計算外の共犯

 

 セミナーの資料室は、夜になると別の場所みたいになる。

 

 昼間は端末の通知音や、書類を抱えた生徒たちの足音や、ユウカさんのきびきびした声で満ちている場所なのに、夜の資料室にはそれがない。棚に並んだファイルの背表紙だけが、白い照明の下で静かに並んでいる。数字も規則も予算も、眠っているような顔をしていた。

 

 でも、奥の机だけは眠っていなかった。

 

 明かりがついている。

 

 資料が山になっている。

 

 その山の真ん中に、ユウカさんがいた。

 

「……ユウカさん?」

 

 声をかけると、ユウカさんの肩がほんの少しだけ跳ねた。

 

 それでも、すぐに顔を上げた時には、もういつもの顔に戻っていた。少し眉を寄せて、端末を片手に持ち、まるで最初から全部把握していました、みたいな顔。

 

「レナさん? こんな時間にどうしたの?」

 

「ゲーム開発部に救護バッグの中身を置き忘れちゃって。先生がセミナーに寄るって言うから、ついでに一緒に来たの。……で、ユウカさんこそ何してるの?」

 

「見れば分かるでしょ。事務処理よ」

 

「確かに。見れば分かる」

 

 私は机の上を見た。

 

 テレビ修繕費。

 ゲーム開発部廃部保留に関する手続き。

 ミレニアムプライス特別賞の正式記録。

 C&C任務命令ログ。

 Mirror観測機関連の管理資料。

 リオ先輩への照会履歴。

 未返信。

 未返信。

 未返信。

 

 文字が多い。

 

 数字が多い。

 

 そして、どれもユウカさんの顔色を少しずつ削っているように見えた。

 

「これ、仕事してるっていうより、仕事に襲われてない?」

 

 思わず言うと、ユウカさんの眉がぴくりと動いた。

 

「襲われてないわよ。処理してるの」

 

「処理されてる側の顔してるけど」

 

「レナさん?」

 

「ごめん。でも今の顔、完全に“書類に一敗した人”だった」

 

「負けてないわよ!」

 

 ユウカさんは即座に言い返した。

 けれど、その声には少しだけ疲れが混じっていた。

 

 私は椅子を引いて、勝手に向かい側へ座った。

 

「座っていいって言ったかしら」

 

「言われてないけど、立ったままだと私まで資料番号つけられそうだったから」

 

「つけないわよ」

 

「ほんとに?」

 

「……必要ならつけるかもしれないけど」

 

「ほら」

 

 ユウカさんは口を閉じた。

 

 それから、少しだけ目を逸らした。

 

「……冗談よ」

 

「知ってる」

 

「じゃあ言わないで」

 

「言ったらちょっと笑うかなって」

 

 ユウカさんは、ほんの少しだけ息を吐いた。笑った、とまでは言えない。でも、張り詰めていた肩が一瞬だけ緩んだ。

 

 その一瞬だけで、来てよかったと思った。

 

 机の上には、冷めきったコーヒーが置いてある。隣には、封の開いていない栄養補助バー。たぶん食べるつもりで出して、そのまま忘れられたものだ。

 

「ユウカさん、これ食べた?」

 

「あとで食べるわ」

 

「それ、食べない人の言い方だよ」

 

「食べるわよ」

 

「じゃあ今」

 

「今は資料を――」

 

「はい、開けるね」

 

「レナさん?」

 

 私は勝手に栄養補助バーの封を切った。

 

 ユウカさんが抗議しようとしたけれど、私は半分に割って、片方を差し出す。

 

「食べながらでも資料は怒らないよ」

 

「資料は怒らないけど、手が塞がるでしょ」

 

「じゃあ私がページめくる」

 

「そこまでしなくていいわよ」

 

「でも、ユウカさんがこのまま書類に吸収されたら困るし」

 

「吸収されないわよ」

 

「テレビ修繕費の書類、ちょっと吸い込み強そうじゃない?」

 

 ユウカさんの視線が、机の上の書類に落ちた。

 

 そこには、壊れたテレビの修繕見積もりがあった。

 

「……これは本当に頭が痛いわ」

 

「モモイちゃんの罪が金額になってる」

 

「やめて。笑ったら負けな気がするから」

 

「負けていいじゃん。今、誰と戦ってるの?」

 

 ユウカさんは、栄養補助バーを受け取ったまま、少しだけ黙った。

 

 何気なく言ったつもりだった。

 

 でも、ユウカさんの表情が少し変わる。笑いかけていた顔から、何かを隠す顔へ。

 

「……別に、戦ってないわ」

 

「うそ」

 

「レナさん」

 

「ごめん。でも、うそに見えた」

 

 私は書類を一枚、机へ戻した。

 

 こういう時、前なら少し遠慮して引いていたと思う。セミナーの人だし、ユウカさんは忙しいし、私が踏み込んでいい場所じゃない。そう考えていた。

 

 でも、今は少し違う。

 

 ゲーム開発部で一緒に夜を越えた。

 特別賞の時、ユウカさんは「おめでとう」と言ってくれた。

 テレビが壊れていても、最初に弁償ではなくお祝いを選んでくれた。

 

 だから、もう少し踏み込んでもいい気がした。

 

「ユウカさん、ゲーム開発部が特別賞取ったの、ほんとはすごく嬉しかったでしょ」

 

 ユウカさんは、すぐには答えなかった。

 

 資料室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「……当然でしょ。成果が認められたんだから。部として存続するための根拠にもなるし、ミレニアムプライスの記録としても――」

 

「うん。でもそれ、セミナーとしてじゃなくて、ユウカさん個人としても嬉しかったんじゃない?」

 

 言った瞬間、ユウカさんの指先が止まった。

 

 ペン先が紙の上で小さく震える。

 

 あ。

 

 刺さった。

 

 そう思った。

 

 ユウカさんは、すぐに顔を整えようとした。けれど、その前に目が揺れた。たった一瞬。数字を見る時の目ではなく、予算表を見る時の目でもなく、ゲーム開発部の部室で「おめでとう」と言った時の、あの少し照れた目。

 

「……そういうことを、急に言わないで」

 

 声が低かった。

 

 怒っているようにも聞こえる。

 でも、違う。

 

 これは、たぶん照れている。

 

 それから、少し困っている。

 

「ごめん」

 

 私は素直に謝った。

 

「でも、嬉しかったって言ってもいいと思ったから」

 

「私はセミナーの会計よ。部活動の存続判断は規則と成果に基づいて――」

 

「ユウカさん」

 

「何よ」

 

「今、すごく“会計”の後ろに隠れた」

 

 ユウカさんが固まった。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「隠れ方、上手いね。数字の後ろに入るの、慣れてる感じする」

 

「……からかわないで」

 

「からかってないよ。だって、そういうユウカさんも好きだし」

 

 言ってから、少しだけ自分でも驚いた。

 

 思ったより自然に出た。

 

 ユウカさんの目が、はっきり揺れる。

 

「……今、何て?」

 

「え」

 

「聞こえたけど、もう一回」

 

「そこは聞き流してくれてもよかったんだけど」

 

「無理よ」

 

 ユウカさんは、栄養補助バーを机に置いた。

 

「レナさん、あなた、自分が何を言ったか分かってる?」

 

「……好きって言った」

 

「そう」

 

「でも、変な意味じゃなくて。いや、変じゃない意味で。ユウカさんが怒るのも、心配してるのが混ざってるところも、数字の後ろに隠れるところも、ちゃんと見てると嫌じゃないっていうか……」

 

「待って。余計分かりにくいわ」

 

「ごめん。私も今、自分で言ってて迷子になってる」

 

 ユウカさんは、しばらく私を見ていた。

 

 それから、ふっと息を吐いた。

 

「……あなた、本当にずるいわね」

 

「え、今の私が?」

 

「そうよ。そういうふうに、急にまっすぐ言うところ」

 

「ユウカさんだって、たまにまっすぐ刺してくるよ」

 

「私はそんなつもりないわよ」

 

「あるよ。特別賞の時の“おめでとう”とか、あれ、かなり効いたよ」

 

 ユウカさんは一瞬、黙った。

 

「……効いた?」

 

「うん。みんなにも、私にも」

 

 私は机の上の特別賞の記録へ目を落とした。

 

「あの時、ユウカさんが最初に弁償の話をしてたら、たぶん部室の空気が変わってた。でも、先におめでとうって言ってくれたから、みんな、やっと喜んでいいんだって分かったと思う」

 

「そんな、大げさなことじゃないわ」

 

「大げさじゃないよ」

 

 私は首を振った。

 

「ユウカさんの言葉で、あの場が助かったんだよ。だから、私も嬉しかった」

 

 ユウカさんは、返事をしなかった。

 

 代わりに、ペンを置いた。

 

 音が小さく響く。

 

「……あなたは」

 

 ぽつりと、ユウカさんが言った。

 

「そうやって、人が隠しているところだけ拾うのね」

 

「え?」

 

「私は数字を見ていたの。手続きをして、資料をまとめて、保留の根拠を作って、テレビの修繕費も計算して、C&Cのログも整理して、リオ先輩への照会履歴も残して……そうやって、ちゃんと処理できるものだけを見ていたのに」

 

 ユウカさんは、顔を上げた。

 

「あなたは、処理できないところを見つける」

 

 息が止まった。

 

 ユウカさんの目が、まっすぐ私を見ている。

 

 いつものような、怒っているようで優しい目ではない。

 もっと近い。

 もっと熱い。

 

「それ、嫌だった?」

 

 聞くと、ユウカさんはすぐには答えなかった。

 

「……嫌なら、こんなふうに話してないわ」

 

 その声が、少しだけ柔らかかった。

 

 だから私は、安心してしまった。

 

 立ち上がりかけた。

 

「じゃあ、私、邪魔しすぎる前に――」

 

 その瞬間。

 

 手首を取られた。

 

 強くはなかった。

 

 痛くない。

 逃げようと思えば、振りほどけるくらいの力。

 

 なのに、足が止まった。

 

「待って」

 

 ユウカさんの声が、低かった。

 

「ユウカさん?」

 

「今の、言い逃げするつもり?」

 

「いや、そんなつもりじゃ……」

 

「あるわよ。あなた、そういうところある。人の隠したものだけ拾って、拾った本人は平気な顔で一歩下がるの」

 

 ユウカさんが立ち上がる。

 

 資料室の長机と本棚の間。

 私の背中側には棚。

 横には机。

 正面にはユウカさん。

 

 逃げ道が、綺麗に狭まった。

 

 それは乱暴な動きではなかった。壁を強く叩かれたわけでもない。肩を押さえられたわけでもない。ただ、ユウカさんが一歩近づき、私の手首を離さないまま、もう片方の手を机の端に置いた。

 

 それだけで、私の動ける範囲が消えた。

 

 ぞくっとした。

 

 背中の奥が、冷たいような熱いような感覚になる。

 

 怖いのとは違う。

 

 でも、笑ってごまかすには近すぎる。

 

 ユウカさんの目が、数字を見る時みたいに正確で、でも数字を見る時よりずっと揺れていたから。

 

「ユウカさん……これ、管理?」

 

 なんとか軽く言おうとした。

 

 けれど、声は思ったより小さかった。

 

「そうよ」

 

 ユウカさんは即答した。

 

「今のあなたを、このまま帰したら、私だけが変に取り残される。だから、管理してるの」

 

「すごい理由だね」

 

「あなたが悪いんでしょ」

 

「私?」

 

「そうよ」

 

 ユウカさんの指が、私の手首に少しだけ力を込める。

 

「私に、嬉しかったんじゃないかなんて言うから。セミナーとしてじゃなくて、個人としてなんて、そんな……そんな、しまっておいたものを勝手に出してくるから」

 

 しまっておいたもの。

 

 その言い方が、すごくユウカさんらしくなくて、胸が少し苦しくなる。

 

 ユウカさんは、何でも分類しようとする。予算、成果、規則、責任、支出、提出物。名前をつけて、表に入れて、管理できる形にする。

 

 でも、嬉しいとか、寂しいとか、悔しいとか。

 

 そういうものは、たぶん表に入れにくい。

 

「ユウカさん」

 

「何」

 

「私のこと、怒ってる?」

 

「怒ってるわよ」

 

「そっか」

 

「でも、それだけじゃない」

 

 ユウカさんは、少しだけ目を伏せた。

 

 そして、逃げなかった。

 

「好きよ」

 

 資料室の空気が止まった。

 

「……え」

 

「好きよ、レナ」

 

 ユウカさんは、今度はちゃんと私を見た。

 

「言わせないでよ、こんな時間に。しかもテレビの修繕費の横で」

 

「ご、ごめん。今の、私が聞き出した感じ?」

 

「そうよ」

 

「えっと……」

 

「冗談で聞かないで」

 

 声が少しだけ震えていた。

 

「私は、冗談で答えられないから」

 

 胸が、どきんと大きく鳴った。

 

 ユウカさんが好意を口にした。

 

 逃げずに。

 

 数字の後ろにも、会計の肩書きの後ろにも、規則の後ろにも隠れずに。

 

 真正面から。

 

「ユウカさん」

 

「何」

 

「……嬉しい」

 

 言うと、ユウカさんの目が少しだけ見開かれた。

 

 今度は私が逃げない番だった。

 

「びっくりしたし、心臓に悪いし、今ちょっとどういう顔したらいいか分からないけど……嬉しいよ。ユウカさんにそう言われるの、ちゃんと嬉しい」

 

 ユウカさんの手が、私の手首を掴んだまま、少し震えた。

 

「レナさん、あなた本当に……」

 

「何?」

 

「そういうところよ」

 

「またそれ?」

 

「そうよ。そういうところが、好きなの」

 

 今度は私が言葉に詰まった。

 

 ずるい。

 

 今のは、かなりずるい。

 

 ユウカさんは、いつもよりずっと静かな声で続けた。

 

「予定に入れたいの」

 

「予定?」

 

「あなたがいつゲーム開発部に行くのか、いつ救護騎士団に戻るのか、いつ先生と動くのか。どこで誰と会って、どれくらい疲れて、いつ笑って、いつ帰るのか。そういうのを、全部知りたいと思ってしまったの」

 

 ユウカさんは、少しだけ苦笑した。

 

 笑おうとして、うまくできなかった顔だった。

 

「おかしいでしょ。会計の仕事じゃない。セミナーの管轄でもない。でも、知らないままだと落ち着かない。あなたが誰かのところへ行くのを止めたいわけじゃないのに、知らないうちに遠くへ行かれるのは嫌」

 

 言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。

 

 怖い、とは思った。

 

 でも、嫌ではなかった。

 

 ユウカさんが自分でも持て余している気持ちを、そのまま私に渡してくれている。綺麗に整えた言葉ではなく、少し乱れたままの言葉で。

 

 それが、怖いくらい嬉しかった。

 

「……ユウカさん」

 

「何?」

 

「そんなふうに言われたら、私、次にどこか行く時、ユウカさんの顔思い出しちゃうよ」

 

「思い出して」

 

 即答だった。

 

 私は息を詰めた。

 

 ユウカさんは、少しだけ顔を赤くしながら、それでも目を逸らさなかった。

 

「思い出してほしいの。私が嫌なら、そう言って。面倒なら、面倒だって言って。でも、あなたがどこかへ行く時、少しでも私のことを思い出してくれるなら……私は、たぶんそれだけで少し安心する」

 

 言葉が出なかった。

 

 今度は私の方が、逃げ道を失っていた。

 

 でも、逃げたいとは思わなかった。

 

「……ユウカさんに、行ってきますって言うの、ちょっといいかも」

 

 小さく言うと、ユウカさんの表情が揺れた。

 

「本当に?」

 

「うん。毎回は無理かもしれないけど。でも、ユウカさんに言ったら、ちゃんと帰ってこなきゃって思える気がする」

 

「……そう」

 

 ユウカさんは、少しだけ俯いた。

 

 手首を掴む力が緩む。

 

 でも、離れない。

 

「それ、すごく困るわ」

 

「困るの?」

 

「嬉しいから」

 

 胸がまた跳ねた。

 

 ユウカさんは、こんなふうに好意を口にする人だっただろうか。

 

 いや、違う。

 

 たぶん、そうさせてしまっている。

 

 私が。

 

 その事実に、背中の奥がぞくっとした。

 

 ユウカさんはようやく私の手首を離した。

 

 触れられていた感覚だけが残る。

 

 痛くない。

 跡もない。

 でも、胸の奥はまだ少しどきどきしていた。

 

「……レナさん」

 

「うん?」

 

「袖、曲がってる」

 

「え?」

 

 ユウカさんが手を伸ばした。

 

 私の袖口を、指先で整える。

 

 さっきまで手首を掴んでいた手と同じ手だった。今度はずっと柔らかい。布の端を直すだけ。ほんの数秒の接触。

 

 それなのに、また心臓が跳ねた。

 

「そのままだと、廊下に出た時に目立つから」

 

「ユウカさん、そういうのも管理?」

 

「そうよ」

 

「ほんとに?」

 

 聞くと、ユウカさんは視線を逸らした。

 

「……半分は」

 

「残り半分は?」

 

「言わない」

 

「えー」

 

「言わないものは言わない」

 

 その横顔が、少し赤い。

 

 私は、なんだか嬉しくなってしまった。

 

「じゃあ、私も半分だけ覚えておく」

 

「全部忘れなさいとは言ってないでしょ」

 

「じゃあ全部覚えてる」

 

「そういうところよ」

 

「どこ?」

 

「……好きだって、言ったでしょ」

 

 その返しは予想していなかった。

 

 胸の奥が、また跳ねる。

 

「ユウカさん、今日ずるくない?」

 

「あなたほどじゃないわ」

 

 ユウカさんは小さく息を吐いた。

 

 でも、その手はまだ私の袖口から離れなかった。

 

 指先が、布を整え終わっているのに、そこに留まっている。

 ユウカさん自身も、それに気づいているはずだった。気づいていて、離せないでいる。数字にも予定にも書けない数秒が、資料室の白い明かりの下で、ひどく長く伸びていく。

 

「ユウカさん?」

 

 呼ぶと、ユウカさんの目が揺れた。

 

 その目を見た瞬間、私は冗談を言うタイミングを失った。

 

 怒っている顔ではなかった。

 困っている顔でもない。

 どちらかと言えば、何かを決めてしまった人の顔だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 先に謝られて、胸が跳ねた。

 

「え?」

 

「今から、たぶん管理じゃないことをするから」

 

 意味を理解するより先に、ユウカさんが少しだけ近づいた。

 

 逃げようと思えば、逃げられたと思う。

 手首はもう掴まれていない。

 壁も机も、さっきほど私を閉じ込めてはいない。

 

 でも、逃げなかった。

 

 ユウカさんの指先が、私の袖から離れて、そっと手の甲に触れた。

 その触れ方があまりに丁寧で、逆に息が止まった。

 

 次の瞬間、ユウカさんは私の手を少しだけ持ち上げた。

 

 そして、私の指先に、短く唇を触れさせた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 熱い、と思うより先に、胸の奥がぞくっとした。

 指先から何かが伝わったわけじゃない。

 ただ、ユウカさんが今、数字にも規則にも変えられない気持ちを、そこに置いたのだと分かってしまった。

 

 資料室の空気が止まったみたいだった。

 

 ユウカさんは顔を離したあと、私の手をすぐには離さなかった。

 でも、目は合わせない。

 

「……今のは」

 

 私の声は、自分でも少し頼りなかった。

 

「今のは、何?」

 

「……名前をつけないで」

 

 ユウカさんが小さく言った。

 

「お願いだから、今だけは」

 

 その言葉で、胸がぎゅっとなった。

 

 ユウカさんが、名前をつけないでと言う。

 

 いつもなら、名前をつけて、表に入れて、管理しようとする人が。

 今だけは、それをしないでほしいと言っている。

 

 私は、指先に残った温度を握りしめるように、そっと手を丸めた。

 

「……うん。じゃあ、今はつけない」

 

 ユウカさんが、ようやくこちらを見た。

 

 目元が少し赤い。

 

「忘れて、とは言わないのね」

 

「言われても無理だよ」

 

「そう」

 

「うん」

 

「……それは、困るわね」

 

 言葉とは逆に、ユウカさんの声は少しだけ柔らかかった。

 

 私は笑おうとして、うまく笑えなかった。心臓がまだ落ち着かない。指先に触れた唇の感覚が、何度も思い出されてしまう。

 

「ユウカさん」

 

「何?」

 

「私も、ユウカさんのこと好きだよ」

 

 言った瞬間、ユウカさんの目が大きく開いた。

 

 今度は、ちゃんと私から言いたかった。

 

「怒るところも、心配しすぎるところも、書類に襲われてるのに負けてない顔するところも。あと、たまにすごく優しいのを隠しきれてないところも。……好きだよ」

 

 ユウカさんは、何も言わなかった。

 

 ただ、私の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。

 

「……本当に、あなたは」

 

「うん」

 

「予定に入らないことばかり言う」

 

「入れてよ」

 

「簡単に言わないで」

 

「でも、入れてほしいって言ったら?」

 

 ユウカさんの呼吸が止まった。

 

 私は少しだけ恥ずかしくなって、でも逃げなかった。

 

「私も、ユウカさんの予定にちょっと入ってみたい。怒られるのは怖いけど、ユウカさんに見つけてもらえるの、嬉しいから」

 

 ユウカさんは、ゆっくり目を伏せた。

 

 それから、小さく息を吐いた。

 

「……もう、今日は仕事にならないわ」

 

「私のせい?」

 

「そうよ」

 

「ごめん」

 

「謝らなくていい」

 

 ユウカさんは、ようやく私の手を離した。

 

「謝られたら、困るから」

 

 しばらく、二人とも動かなかった。

 

 けれど、いつまでもそのままではいられない。

 資料室の机には、まだ山のような書類が残っている。テレビ修繕費も、廃部保留の手続きも、C&Cのログも、リオ先輩への照会履歴も、私たちが黙っていても消えてくれない。

 

 私は、まだ少し熱の残る指先を握ったまま、机の上へ目を向けた。

 

「……片づけ、手伝ってもいい?」

 

 ユウカさんは少し驚いたように私を見た。

 

「数字、分かるの?」

 

「分からない」

 

「でしょうね」

 

「でも、散らばった紙をまとめるくらいならできるよ」

 

 ユウカさんは、ほんの少しだけ笑った。

 

「じゃあ、それだけお願い」

 

「了解」

 

 私は机の上の資料を少しだけ片づける。数字は分からない。予算の細かいところも分からない。けれど、散らばった紙をまとめるくらいならできる。

 

 ユウカさんは何も言わなかった。

 

 ただ、私が資料を重ねやすいように、空いた場所を少し作ってくれた。

 

 それが、なんだか共犯みたいで、少しだけおかしかった。

 

「ユウカさん」

 

「何?」

 

「ゲーム開発部のこと、これからも怒ってあげてね」

 

「頼まれなくても怒るわよ」

 

「うん。でも、お祝いもしてあげて」

 

「……それも、必要なら」

 

「必要じゃなくても」

 

 ユウカさんは黙った。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……考えておく」

 

「やった」

 

「なぜあなたが嬉しそうなの」

 

「だって、ユウカさんがまたちょっと優しくなったから」

 

「元から優しいわよ」

 

「うん。知ってる」

 

 そう返すと、ユウカさんは言葉に詰まった。

 

 それから、小さくそっぽを向いた。

 

「……そういうところ」

 

「また?」

 

「またよ」

 

 資料室の明かりを落とし、二人で廊下へ出る。

 

 夜のセミナーは静かだった。窓の外にはミレニアムの光が点々と見える。ゲーム開発部の部室の方角を思い浮かべると、今ごろモモイちゃんが何か騒いでいて、ミドリちゃんが止めて、ユズちゃんが小さく笑って、アリスちゃんが「パンパカパーン」をどこかで言っている気がした。

 

 ユウカさんは、隣を歩いている。

 

 近すぎない。

 

 でも、遠くもない。

 

 さっき資料室で逃げ道を塞がれた時の距離を思い出して、少しだけ胸が跳ねた。ユウカさんはそれに気づいているのかいないのか、前を向いたまま歩いている。

 

「レナさん」

 

「うん」

 

「今日のこと、本当に言わないでね」

 

「言わないよ」

 

「モモイあたりに話したら、絶対に騒ぐから」

 

「それは確かに」

 

「それに……」

 

 ユウカさんの声が少し小さくなる。

 

「あなたにだけ知られている方が、まだまし」

 

 足が止まりそうになった。

 

 でも、止めなかった。

 

 横を見ると、ユウカさんはまっすぐ前を見ていた。顔は赤くない。いや、少し赤いかもしれない。でも、暗い廊下ではよく見えない。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「それ、結構ずるいこと言ってるよ」

 

「あなたほどじゃないわ」

 

「私そんなにずるい?」

 

「ずるいわよ」

 

 即答だった。

 

「人の隠したものを見つけて、好きだなんて言って、私にも言わせて、覚えてるなんて言う。ずるいに決まってるでしょ」

 

「……そっか」

 

 胸が温かくなる。

 

 それから、少しだけくすぐったくなる。

 

「じゃあ、ユウカさんもずるいよ」

 

「私?」

 

「うん。送るとか、袖直すとか、行き先を知りたいとか言って、ちゃんと私の中に残ることばっかりするところ」

 

 ユウカさんは黙った。

 

 そして、ほんの少しだけ笑った。

 

「それは、まだ計算中なの」

 

「答え出そう?」

 

「急がせないで」

 

「はいはい」

 

 私は小さく笑った。

 

 廊下の先に、先生のいる部屋の明かりが見えた。

 

 そこで別れる。

 

 ユウカさんは、最後にもう一度私の袖を見る。今度は直さなかった。ただ、確認しただけ。

 

「曲がってないわね」

 

「管理完了?」

 

「仮完了」

 

「仮なんだ」

 

「次に会う時、また確認するから」

 

 その言葉に、また胸が跳ねた。

 

 ユウカさんは、気づいたかもしれない。

 

 けれど、何も言わなかった。

 

 ただ少しだけ得意げな顔をした。

 

「おやすみなさい、レナさん」

 

「おやすみ、ユウカさん」

 

 私は手を振った。

 

 ユウカさんも、小さく手を上げた。

 

 そのまま背を向ける。

 

 でも、数歩進んでから、私は振り返った。

 

「ユウカさん」

 

「何?」

 

「ゲーム開発部の特別賞、嬉しかったね」

 

 ユウカさんは、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、諦めたように笑った。

 

「……ええ」

 

 今度は、隠れなかった。

 

「嬉しかったわ」

 

 その一言を聞いて、胸の奥が静かに満たされた。

 

「うん」

 

 私は頷いた。

 

「私も」

 

 夜のセミナーの廊下で、ユウカさんはもう一度小さく笑った。

 

 数字の服を着ていない、ただの嬉しさみたいな笑いだった。

 

 その顔を、私はちゃんと覚えておこうと思った。

 

 誰にも言わない。

 

 でも、忘れない。

 

 予定表にはない、二人だけの小さな共犯として。




びっくりした。キスしたのかと思った。
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