戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
セミナーの資料室は、夜になると別の場所みたいになる。
昼間は端末の通知音や、書類を抱えた生徒たちの足音や、ユウカさんのきびきびした声で満ちている場所なのに、夜の資料室にはそれがない。棚に並んだファイルの背表紙だけが、白い照明の下で静かに並んでいる。数字も規則も予算も、眠っているような顔をしていた。
でも、奥の机だけは眠っていなかった。
明かりがついている。
資料が山になっている。
その山の真ん中に、ユウカさんがいた。
「……ユウカさん?」
声をかけると、ユウカさんの肩がほんの少しだけ跳ねた。
それでも、すぐに顔を上げた時には、もういつもの顔に戻っていた。少し眉を寄せて、端末を片手に持ち、まるで最初から全部把握していました、みたいな顔。
「レナさん? こんな時間にどうしたの?」
「ゲーム開発部に救護バッグの中身を置き忘れちゃって。先生がセミナーに寄るって言うから、ついでに一緒に来たの。……で、ユウカさんこそ何してるの?」
「見れば分かるでしょ。事務処理よ」
「確かに。見れば分かる」
私は机の上を見た。
テレビ修繕費。
ゲーム開発部廃部保留に関する手続き。
ミレニアムプライス特別賞の正式記録。
C&C任務命令ログ。
Mirror観測機関連の管理資料。
リオ先輩への照会履歴。
未返信。
未返信。
未返信。
文字が多い。
数字が多い。
そして、どれもユウカさんの顔色を少しずつ削っているように見えた。
「これ、仕事してるっていうより、仕事に襲われてない?」
思わず言うと、ユウカさんの眉がぴくりと動いた。
「襲われてないわよ。処理してるの」
「処理されてる側の顔してるけど」
「レナさん?」
「ごめん。でも今の顔、完全に“書類に一敗した人”だった」
「負けてないわよ!」
ユウカさんは即座に言い返した。
けれど、その声には少しだけ疲れが混じっていた。
私は椅子を引いて、勝手に向かい側へ座った。
「座っていいって言ったかしら」
「言われてないけど、立ったままだと私まで資料番号つけられそうだったから」
「つけないわよ」
「ほんとに?」
「……必要ならつけるかもしれないけど」
「ほら」
ユウカさんは口を閉じた。
それから、少しだけ目を逸らした。
「……冗談よ」
「知ってる」
「じゃあ言わないで」
「言ったらちょっと笑うかなって」
ユウカさんは、ほんの少しだけ息を吐いた。笑った、とまでは言えない。でも、張り詰めていた肩が一瞬だけ緩んだ。
その一瞬だけで、来てよかったと思った。
机の上には、冷めきったコーヒーが置いてある。隣には、封の開いていない栄養補助バー。たぶん食べるつもりで出して、そのまま忘れられたものだ。
「ユウカさん、これ食べた?」
「あとで食べるわ」
「それ、食べない人の言い方だよ」
「食べるわよ」
「じゃあ今」
「今は資料を――」
「はい、開けるね」
「レナさん?」
私は勝手に栄養補助バーの封を切った。
ユウカさんが抗議しようとしたけれど、私は半分に割って、片方を差し出す。
「食べながらでも資料は怒らないよ」
「資料は怒らないけど、手が塞がるでしょ」
「じゃあ私がページめくる」
「そこまでしなくていいわよ」
「でも、ユウカさんがこのまま書類に吸収されたら困るし」
「吸収されないわよ」
「テレビ修繕費の書類、ちょっと吸い込み強そうじゃない?」
ユウカさんの視線が、机の上の書類に落ちた。
そこには、壊れたテレビの修繕見積もりがあった。
「……これは本当に頭が痛いわ」
「モモイちゃんの罪が金額になってる」
「やめて。笑ったら負けな気がするから」
「負けていいじゃん。今、誰と戦ってるの?」
ユウカさんは、栄養補助バーを受け取ったまま、少しだけ黙った。
何気なく言ったつもりだった。
でも、ユウカさんの表情が少し変わる。笑いかけていた顔から、何かを隠す顔へ。
「……別に、戦ってないわ」
「うそ」
「レナさん」
「ごめん。でも、うそに見えた」
私は書類を一枚、机へ戻した。
こういう時、前なら少し遠慮して引いていたと思う。セミナーの人だし、ユウカさんは忙しいし、私が踏み込んでいい場所じゃない。そう考えていた。
でも、今は少し違う。
ゲーム開発部で一緒に夜を越えた。
特別賞の時、ユウカさんは「おめでとう」と言ってくれた。
テレビが壊れていても、最初に弁償ではなくお祝いを選んでくれた。
だから、もう少し踏み込んでもいい気がした。
「ユウカさん、ゲーム開発部が特別賞取ったの、ほんとはすごく嬉しかったでしょ」
ユウカさんは、すぐには答えなかった。
資料室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「……当然でしょ。成果が認められたんだから。部として存続するための根拠にもなるし、ミレニアムプライスの記録としても――」
「うん。でもそれ、セミナーとしてじゃなくて、ユウカさん個人としても嬉しかったんじゃない?」
言った瞬間、ユウカさんの指先が止まった。
ペン先が紙の上で小さく震える。
あ。
刺さった。
そう思った。
ユウカさんは、すぐに顔を整えようとした。けれど、その前に目が揺れた。たった一瞬。数字を見る時の目ではなく、予算表を見る時の目でもなく、ゲーム開発部の部室で「おめでとう」と言った時の、あの少し照れた目。
「……そういうことを、急に言わないで」
声が低かった。
怒っているようにも聞こえる。
でも、違う。
これは、たぶん照れている。
それから、少し困っている。
「ごめん」
私は素直に謝った。
「でも、嬉しかったって言ってもいいと思ったから」
「私はセミナーの会計よ。部活動の存続判断は規則と成果に基づいて――」
「ユウカさん」
「何よ」
「今、すごく“会計”の後ろに隠れた」
ユウカさんが固まった。
私は少しだけ笑った。
「隠れ方、上手いね。数字の後ろに入るの、慣れてる感じする」
「……からかわないで」
「からかってないよ。だって、そういうユウカさんも好きだし」
言ってから、少しだけ自分でも驚いた。
思ったより自然に出た。
ユウカさんの目が、はっきり揺れる。
「……今、何て?」
「え」
「聞こえたけど、もう一回」
「そこは聞き流してくれてもよかったんだけど」
「無理よ」
ユウカさんは、栄養補助バーを机に置いた。
「レナさん、あなた、自分が何を言ったか分かってる?」
「……好きって言った」
「そう」
「でも、変な意味じゃなくて。いや、変じゃない意味で。ユウカさんが怒るのも、心配してるのが混ざってるところも、数字の後ろに隠れるところも、ちゃんと見てると嫌じゃないっていうか……」
「待って。余計分かりにくいわ」
「ごめん。私も今、自分で言ってて迷子になってる」
ユウカさんは、しばらく私を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……あなた、本当にずるいわね」
「え、今の私が?」
「そうよ。そういうふうに、急にまっすぐ言うところ」
「ユウカさんだって、たまにまっすぐ刺してくるよ」
「私はそんなつもりないわよ」
「あるよ。特別賞の時の“おめでとう”とか、あれ、かなり効いたよ」
ユウカさんは一瞬、黙った。
「……効いた?」
「うん。みんなにも、私にも」
私は机の上の特別賞の記録へ目を落とした。
「あの時、ユウカさんが最初に弁償の話をしてたら、たぶん部室の空気が変わってた。でも、先におめでとうって言ってくれたから、みんな、やっと喜んでいいんだって分かったと思う」
「そんな、大げさなことじゃないわ」
「大げさじゃないよ」
私は首を振った。
「ユウカさんの言葉で、あの場が助かったんだよ。だから、私も嬉しかった」
ユウカさんは、返事をしなかった。
代わりに、ペンを置いた。
音が小さく響く。
「……あなたは」
ぽつりと、ユウカさんが言った。
「そうやって、人が隠しているところだけ拾うのね」
「え?」
「私は数字を見ていたの。手続きをして、資料をまとめて、保留の根拠を作って、テレビの修繕費も計算して、C&Cのログも整理して、リオ先輩への照会履歴も残して……そうやって、ちゃんと処理できるものだけを見ていたのに」
ユウカさんは、顔を上げた。
「あなたは、処理できないところを見つける」
息が止まった。
ユウカさんの目が、まっすぐ私を見ている。
いつものような、怒っているようで優しい目ではない。
もっと近い。
もっと熱い。
「それ、嫌だった?」
聞くと、ユウカさんはすぐには答えなかった。
「……嫌なら、こんなふうに話してないわ」
その声が、少しだけ柔らかかった。
だから私は、安心してしまった。
立ち上がりかけた。
「じゃあ、私、邪魔しすぎる前に――」
その瞬間。
手首を取られた。
強くはなかった。
痛くない。
逃げようと思えば、振りほどけるくらいの力。
なのに、足が止まった。
「待って」
ユウカさんの声が、低かった。
「ユウカさん?」
「今の、言い逃げするつもり?」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「あるわよ。あなた、そういうところある。人の隠したものだけ拾って、拾った本人は平気な顔で一歩下がるの」
ユウカさんが立ち上がる。
資料室の長机と本棚の間。
私の背中側には棚。
横には机。
正面にはユウカさん。
逃げ道が、綺麗に狭まった。
それは乱暴な動きではなかった。壁を強く叩かれたわけでもない。肩を押さえられたわけでもない。ただ、ユウカさんが一歩近づき、私の手首を離さないまま、もう片方の手を机の端に置いた。
それだけで、私の動ける範囲が消えた。
ぞくっとした。
背中の奥が、冷たいような熱いような感覚になる。
怖いのとは違う。
でも、笑ってごまかすには近すぎる。
ユウカさんの目が、数字を見る時みたいに正確で、でも数字を見る時よりずっと揺れていたから。
「ユウカさん……これ、管理?」
なんとか軽く言おうとした。
けれど、声は思ったより小さかった。
「そうよ」
ユウカさんは即答した。
「今のあなたを、このまま帰したら、私だけが変に取り残される。だから、管理してるの」
「すごい理由だね」
「あなたが悪いんでしょ」
「私?」
「そうよ」
ユウカさんの指が、私の手首に少しだけ力を込める。
「私に、嬉しかったんじゃないかなんて言うから。セミナーとしてじゃなくて、個人としてなんて、そんな……そんな、しまっておいたものを勝手に出してくるから」
しまっておいたもの。
その言い方が、すごくユウカさんらしくなくて、胸が少し苦しくなる。
ユウカさんは、何でも分類しようとする。予算、成果、規則、責任、支出、提出物。名前をつけて、表に入れて、管理できる形にする。
でも、嬉しいとか、寂しいとか、悔しいとか。
そういうものは、たぶん表に入れにくい。
「ユウカさん」
「何」
「私のこと、怒ってる?」
「怒ってるわよ」
「そっか」
「でも、それだけじゃない」
ユウカさんは、少しだけ目を伏せた。
そして、逃げなかった。
「好きよ」
資料室の空気が止まった。
「……え」
「好きよ、レナ」
ユウカさんは、今度はちゃんと私を見た。
「言わせないでよ、こんな時間に。しかもテレビの修繕費の横で」
「ご、ごめん。今の、私が聞き出した感じ?」
「そうよ」
「えっと……」
「冗談で聞かないで」
声が少しだけ震えていた。
「私は、冗談で答えられないから」
胸が、どきんと大きく鳴った。
ユウカさんが好意を口にした。
逃げずに。
数字の後ろにも、会計の肩書きの後ろにも、規則の後ろにも隠れずに。
真正面から。
「ユウカさん」
「何」
「……嬉しい」
言うと、ユウカさんの目が少しだけ見開かれた。
今度は私が逃げない番だった。
「びっくりしたし、心臓に悪いし、今ちょっとどういう顔したらいいか分からないけど……嬉しいよ。ユウカさんにそう言われるの、ちゃんと嬉しい」
ユウカさんの手が、私の手首を掴んだまま、少し震えた。
「レナさん、あなた本当に……」
「何?」
「そういうところよ」
「またそれ?」
「そうよ。そういうところが、好きなの」
今度は私が言葉に詰まった。
ずるい。
今のは、かなりずるい。
ユウカさんは、いつもよりずっと静かな声で続けた。
「予定に入れたいの」
「予定?」
「あなたがいつゲーム開発部に行くのか、いつ救護騎士団に戻るのか、いつ先生と動くのか。どこで誰と会って、どれくらい疲れて、いつ笑って、いつ帰るのか。そういうのを、全部知りたいと思ってしまったの」
ユウカさんは、少しだけ苦笑した。
笑おうとして、うまくできなかった顔だった。
「おかしいでしょ。会計の仕事じゃない。セミナーの管轄でもない。でも、知らないままだと落ち着かない。あなたが誰かのところへ行くのを止めたいわけじゃないのに、知らないうちに遠くへ行かれるのは嫌」
言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
怖い、とは思った。
でも、嫌ではなかった。
ユウカさんが自分でも持て余している気持ちを、そのまま私に渡してくれている。綺麗に整えた言葉ではなく、少し乱れたままの言葉で。
それが、怖いくらい嬉しかった。
「……ユウカさん」
「何?」
「そんなふうに言われたら、私、次にどこか行く時、ユウカさんの顔思い出しちゃうよ」
「思い出して」
即答だった。
私は息を詰めた。
ユウカさんは、少しだけ顔を赤くしながら、それでも目を逸らさなかった。
「思い出してほしいの。私が嫌なら、そう言って。面倒なら、面倒だって言って。でも、あなたがどこかへ行く時、少しでも私のことを思い出してくれるなら……私は、たぶんそれだけで少し安心する」
言葉が出なかった。
今度は私の方が、逃げ道を失っていた。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「……ユウカさんに、行ってきますって言うの、ちょっといいかも」
小さく言うと、ユウカさんの表情が揺れた。
「本当に?」
「うん。毎回は無理かもしれないけど。でも、ユウカさんに言ったら、ちゃんと帰ってこなきゃって思える気がする」
「……そう」
ユウカさんは、少しだけ俯いた。
手首を掴む力が緩む。
でも、離れない。
「それ、すごく困るわ」
「困るの?」
「嬉しいから」
胸がまた跳ねた。
ユウカさんは、こんなふうに好意を口にする人だっただろうか。
いや、違う。
たぶん、そうさせてしまっている。
私が。
その事実に、背中の奥がぞくっとした。
ユウカさんはようやく私の手首を離した。
触れられていた感覚だけが残る。
痛くない。
跡もない。
でも、胸の奥はまだ少しどきどきしていた。
「……レナさん」
「うん?」
「袖、曲がってる」
「え?」
ユウカさんが手を伸ばした。
私の袖口を、指先で整える。
さっきまで手首を掴んでいた手と同じ手だった。今度はずっと柔らかい。布の端を直すだけ。ほんの数秒の接触。
それなのに、また心臓が跳ねた。
「そのままだと、廊下に出た時に目立つから」
「ユウカさん、そういうのも管理?」
「そうよ」
「ほんとに?」
聞くと、ユウカさんは視線を逸らした。
「……半分は」
「残り半分は?」
「言わない」
「えー」
「言わないものは言わない」
その横顔が、少し赤い。
私は、なんだか嬉しくなってしまった。
「じゃあ、私も半分だけ覚えておく」
「全部忘れなさいとは言ってないでしょ」
「じゃあ全部覚えてる」
「そういうところよ」
「どこ?」
「……好きだって、言ったでしょ」
その返しは予想していなかった。
胸の奥が、また跳ねる。
「ユウカさん、今日ずるくない?」
「あなたほどじゃないわ」
ユウカさんは小さく息を吐いた。
でも、その手はまだ私の袖口から離れなかった。
指先が、布を整え終わっているのに、そこに留まっている。
ユウカさん自身も、それに気づいているはずだった。気づいていて、離せないでいる。数字にも予定にも書けない数秒が、資料室の白い明かりの下で、ひどく長く伸びていく。
「ユウカさん?」
呼ぶと、ユウカさんの目が揺れた。
その目を見た瞬間、私は冗談を言うタイミングを失った。
怒っている顔ではなかった。
困っている顔でもない。
どちらかと言えば、何かを決めてしまった人の顔だった。
「……ごめんなさい」
先に謝られて、胸が跳ねた。
「え?」
「今から、たぶん管理じゃないことをするから」
意味を理解するより先に、ユウカさんが少しだけ近づいた。
逃げようと思えば、逃げられたと思う。
手首はもう掴まれていない。
壁も机も、さっきほど私を閉じ込めてはいない。
でも、逃げなかった。
ユウカさんの指先が、私の袖から離れて、そっと手の甲に触れた。
その触れ方があまりに丁寧で、逆に息が止まった。
次の瞬間、ユウカさんは私の手を少しだけ持ち上げた。
そして、私の指先に、短く唇を触れさせた。
ほんの一瞬だった。
熱い、と思うより先に、胸の奥がぞくっとした。
指先から何かが伝わったわけじゃない。
ただ、ユウカさんが今、数字にも規則にも変えられない気持ちを、そこに置いたのだと分かってしまった。
資料室の空気が止まったみたいだった。
ユウカさんは顔を離したあと、私の手をすぐには離さなかった。
でも、目は合わせない。
「……今のは」
私の声は、自分でも少し頼りなかった。
「今のは、何?」
「……名前をつけないで」
ユウカさんが小さく言った。
「お願いだから、今だけは」
その言葉で、胸がぎゅっとなった。
ユウカさんが、名前をつけないでと言う。
いつもなら、名前をつけて、表に入れて、管理しようとする人が。
今だけは、それをしないでほしいと言っている。
私は、指先に残った温度を握りしめるように、そっと手を丸めた。
「……うん。じゃあ、今はつけない」
ユウカさんが、ようやくこちらを見た。
目元が少し赤い。
「忘れて、とは言わないのね」
「言われても無理だよ」
「そう」
「うん」
「……それは、困るわね」
言葉とは逆に、ユウカさんの声は少しだけ柔らかかった。
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。心臓がまだ落ち着かない。指先に触れた唇の感覚が、何度も思い出されてしまう。
「ユウカさん」
「何?」
「私も、ユウカさんのこと好きだよ」
言った瞬間、ユウカさんの目が大きく開いた。
今度は、ちゃんと私から言いたかった。
「怒るところも、心配しすぎるところも、書類に襲われてるのに負けてない顔するところも。あと、たまにすごく優しいのを隠しきれてないところも。……好きだよ」
ユウカさんは、何も言わなかった。
ただ、私の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。
「……本当に、あなたは」
「うん」
「予定に入らないことばかり言う」
「入れてよ」
「簡単に言わないで」
「でも、入れてほしいって言ったら?」
ユウカさんの呼吸が止まった。
私は少しだけ恥ずかしくなって、でも逃げなかった。
「私も、ユウカさんの予定にちょっと入ってみたい。怒られるのは怖いけど、ユウカさんに見つけてもらえるの、嬉しいから」
ユウカさんは、ゆっくり目を伏せた。
それから、小さく息を吐いた。
「……もう、今日は仕事にならないわ」
「私のせい?」
「そうよ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
ユウカさんは、ようやく私の手を離した。
「謝られたら、困るから」
しばらく、二人とも動かなかった。
けれど、いつまでもそのままではいられない。
資料室の机には、まだ山のような書類が残っている。テレビ修繕費も、廃部保留の手続きも、C&Cのログも、リオ先輩への照会履歴も、私たちが黙っていても消えてくれない。
私は、まだ少し熱の残る指先を握ったまま、机の上へ目を向けた。
「……片づけ、手伝ってもいい?」
ユウカさんは少し驚いたように私を見た。
「数字、分かるの?」
「分からない」
「でしょうね」
「でも、散らばった紙をまとめるくらいならできるよ」
ユウカさんは、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、それだけお願い」
「了解」
私は机の上の資料を少しだけ片づける。数字は分からない。予算の細かいところも分からない。けれど、散らばった紙をまとめるくらいならできる。
ユウカさんは何も言わなかった。
ただ、私が資料を重ねやすいように、空いた場所を少し作ってくれた。
それが、なんだか共犯みたいで、少しだけおかしかった。
「ユウカさん」
「何?」
「ゲーム開発部のこと、これからも怒ってあげてね」
「頼まれなくても怒るわよ」
「うん。でも、お祝いもしてあげて」
「……それも、必要なら」
「必要じゃなくても」
ユウカさんは黙った。
それから、小さく頷いた。
「……考えておく」
「やった」
「なぜあなたが嬉しそうなの」
「だって、ユウカさんがまたちょっと優しくなったから」
「元から優しいわよ」
「うん。知ってる」
そう返すと、ユウカさんは言葉に詰まった。
それから、小さくそっぽを向いた。
「……そういうところ」
「また?」
「またよ」
資料室の明かりを落とし、二人で廊下へ出る。
夜のセミナーは静かだった。窓の外にはミレニアムの光が点々と見える。ゲーム開発部の部室の方角を思い浮かべると、今ごろモモイちゃんが何か騒いでいて、ミドリちゃんが止めて、ユズちゃんが小さく笑って、アリスちゃんが「パンパカパーン」をどこかで言っている気がした。
ユウカさんは、隣を歩いている。
近すぎない。
でも、遠くもない。
さっき資料室で逃げ道を塞がれた時の距離を思い出して、少しだけ胸が跳ねた。ユウカさんはそれに気づいているのかいないのか、前を向いたまま歩いている。
「レナさん」
「うん」
「今日のこと、本当に言わないでね」
「言わないよ」
「モモイあたりに話したら、絶対に騒ぐから」
「それは確かに」
「それに……」
ユウカさんの声が少し小さくなる。
「あなたにだけ知られている方が、まだまし」
足が止まりそうになった。
でも、止めなかった。
横を見ると、ユウカさんはまっすぐ前を見ていた。顔は赤くない。いや、少し赤いかもしれない。でも、暗い廊下ではよく見えない。
私は少しだけ笑った。
「それ、結構ずるいこと言ってるよ」
「あなたほどじゃないわ」
「私そんなにずるい?」
「ずるいわよ」
即答だった。
「人の隠したものを見つけて、好きだなんて言って、私にも言わせて、覚えてるなんて言う。ずるいに決まってるでしょ」
「……そっか」
胸が温かくなる。
それから、少しだけくすぐったくなる。
「じゃあ、ユウカさんもずるいよ」
「私?」
「うん。送るとか、袖直すとか、行き先を知りたいとか言って、ちゃんと私の中に残ることばっかりするところ」
ユウカさんは黙った。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「それは、まだ計算中なの」
「答え出そう?」
「急がせないで」
「はいはい」
私は小さく笑った。
廊下の先に、先生のいる部屋の明かりが見えた。
そこで別れる。
ユウカさんは、最後にもう一度私の袖を見る。今度は直さなかった。ただ、確認しただけ。
「曲がってないわね」
「管理完了?」
「仮完了」
「仮なんだ」
「次に会う時、また確認するから」
その言葉に、また胸が跳ねた。
ユウカさんは、気づいたかもしれない。
けれど、何も言わなかった。
ただ少しだけ得意げな顔をした。
「おやすみなさい、レナさん」
「おやすみ、ユウカさん」
私は手を振った。
ユウカさんも、小さく手を上げた。
そのまま背を向ける。
でも、数歩進んでから、私は振り返った。
「ユウカさん」
「何?」
「ゲーム開発部の特別賞、嬉しかったね」
ユウカさんは、少しだけ目を見開いた。
それから、諦めたように笑った。
「……ええ」
今度は、隠れなかった。
「嬉しかったわ」
その一言を聞いて、胸の奥が静かに満たされた。
「うん」
私は頷いた。
「私も」
夜のセミナーの廊下で、ユウカさんはもう一度小さく笑った。
数字の服を着ていない、ただの嬉しさみたいな笑いだった。
その顔を、私はちゃんと覚えておこうと思った。
誰にも言わない。
でも、忘れない。
予定表にはない、二人だけの小さな共犯として。
びっくりした。キスしたのかと思った。