戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
セミナーの記録室は、資料室よりも静かだった。
資料室の静けさが「仕事の音が止まったあとの静けさ」だとしたら、記録室の静けさは、もっと深い。音そのものが、棚と棚の隙間に吸い込まれていくような場所だった。壁一面に並んだファイル。古い記録媒体。整理された端末。白い照明。誰かが声を上げることを、最初から想定していないような空気。
私は入口で少し足を止めた。
呼ばれた理由は、分かっている。
ミレニアムプライス特別賞に関する補足記録。
ゲーム開発部の活動に同行した外部協力者としての所感。
TSC2制作中の状況確認。
ノアさんから送られてきた連絡には、そう書かれていた。
だから、これは普通の聞き取りのはずだった。
普通の。
たぶん。
「レナさん」
奥から声がした。
ノアさんは記録室の中央にある机のそばに立っていた。柔らかく微笑んでいる。いつもと同じ顔。穏やかで、丁寧で、こちらの緊張を解くような顔。
なのに、私は少しだけ背筋を伸ばしてしまった。
「来てくださってありがとうございます」
「ううん。呼ばれたし。……えっと、所感だよね?」
「はい。ゲーム開発部で過ごした夜について、レナさんの言葉で残しておきたいんです」
「私の言葉で?」
「ええ。先生やゲーム開発部の皆さんの記録だけでは、残らないものがありますから」
ノアさんは椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
座る。
机の上には、端末が一台。資料が数枚。特別賞の記録。TSC2の簡単な概要。ゲーム開発部の活動記録。
おかしなものはない。
普通の記録。
普通の確認。
だから、大丈夫。
そう思ったのに、ノアさんが向かいに座った瞬間、少しだけ息が浅くなった。
ノアさんは、何も急がなかった。
「まず、TSC2の制作中、レナさんが特に印象に残っていることを教えていただけますか?」
「印象に残ってることかぁ……」
私は少し考える。
「いっぱいあるよ。モモイちゃんが締切五分前に隠しボスを入れようとしたこととか、ミドリちゃんが本気で怒ったこととか、ユズちゃんがロッカーから出てきて画面見てたこととか、アリスちゃんがパンパカパーンを保留したこととか」
「ふふ。ゲーム開発部らしいですね」
「うん。大変だったけど、楽しかった」
そこまでは、普通に話せた。
ノアさんは穏やかに相槌を打つ。端末へ何かを入力しているように見えるけれど、指の動きは最小限で、視線はほとんど私から離れない。
「大変だった、というのは?」
「えっと……寝不足とか、締切とか、C&Cのこととか。あと、テレビ」
「テレビ」
「モモイちゃんの罪が金額になったやつ」
ノアさんが小さく笑った。
「あれは、ユウカちゃんも頭を抱えていましたね」
ユウカさん。
その名前が出た瞬間、指先が少し動いた。
ほんの少し。
自分でも気づくかどうかくらいの動きだった。
でも、ノアさんの目がそこへ落ちた。
あ、と思った。
すぐに手を膝の上へ置く。
遅かった。
「レナさん」
「……はい」
「右手、気になりますか?」
声は優しかった。
ただの確認みたいだった。
でも、私はすぐに返事ができなかった。
「別に……そんなことないよ」
「そうですか」
ノアさんは否定しない。
ただ、静かに続ける。
「昨日から、右手を見る回数が増えています」
胸が、ひやりとした。
「……見てたの?」
「はい。見ていました」
当たり前みたいに言う。
悪びれない。
誤魔化さない。
でも、責める声でもない。
「ノアさん、それ普通に言うと怖いよ」
「怖がらせたかったわけではありません」
「じゃあ、なんで言うの」
「必要だと思ったからです」
必要。
その言葉の置き方が、静かだった。
私は笑おうとした。軽く流そうとした。
でも、ノアさんの目が柔らかいまま、少しも揺れなかった。
「ユウカちゃんと、何かありましたね」
息が止まった。
頭の中で、すぐに答えを探した。
何もない。
ちょっと話しただけ。
資料室で会っただけ。
書類を片づけただけ。
いくらでも言える。
言えばいい。
「……何かって、別に」
声が、思ったより小さかった。
ノアさんは、微笑んだ。
「ユウカちゃんの名前を聞いた時だけ、呼吸が遅れました」
「……」
「袖口を気にする回数も増えています」
「……」
「先ほど、テレビ修繕費の話をした時は普通に笑えました。でも、ユウカちゃんの名前が出た時、少しだけ目が泳ぎました」
やめて。
そう思った。
でも、声にならなかった。
ノアさんは一つずつ、私の逃げ道を塞いでいく。
大きな音を立てずに。
命令もせずに。
ただ、見たことを置いていくだけで。
「……そんなの、見なくていいのに」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「見えてしまいました」
「忘れて」
「できません」
即答だった。
胸の奥が、ぞくっとした。
できません。
ノアさんがそう言うと、冗談に聞こえない。
忘れない人が、忘れないと告げる。
それだけで、こちらがどう動けばいいのか分からなくなる。
「……ノアさんって、ずるい」
「はい」
「否定しないんだ」
「今は、否定すると嘘になりますから」
ノアさんは資料を一枚めくった。
その動きは落ち着いている。
私だけが、落ち着いていない。
「ユウカちゃんに、どこか触れられましたか」
「っ」
言葉が胸に刺さる。
顔が熱くなるのが分かった。
「そんなの……」
「言わなくても構いません」
ほっとしかけた。
その瞬間、ノアさんは続けた。
「ただ、思い出してください」
やめて。
そう思った。
でも、思い出してしまった。
資料室。
手首。
袖口。
指先。
ユウカさんの「好きよ」という声。
指先に触れた、短いキス。
記憶が勝手に戻ってくる。
私は膝の上で手を握った。
「ノアさん」
「はい」
「……そういうの、意地悪だよ」
「そうですね」
また、否定しない。
「今のは、少し意地悪でした」
声は優しい。
でも、優しいから余計に怖い。
意地悪だと分かっていて、やめない。
私が動揺することも分かっていて、聞いている。
ノアさんは立ち上がった。
資料棚の方へ歩く。
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
距離が離れた。
そう思った。
でも、違った。
ノアさんは棚から一冊のファイルを取り、私の横へ来た。私の隣に立ち、机の上へファイルを置く。向かい側ではなく、横。
近い。
動ける。
椅子を引けばいい。
少し身をずらせばいい。
頭では分かっている。
でも、体が動かなかった。
「レナさん」
「……はい」
「こちらを見てください」
ノアさんがそう言った。
ただ、それだけだった。
こちらを見てください。
命令というほど強くない。
お願いというほど弱くもない。
でも、その言葉の方が、私の頭の中の「目を逸らして」という声より強かった。
目を逸らしたかった。
横を向きたかった。
笑って誤魔化したかった。
なのに、私はノアさんを見た。
見てしまった。
ノアさんの目は、少しも揺れていなかった。
「……いい子ですね」
背中の奥が震えた。
褒められた。
ただ、それだけのはずだった。
でも、その一言で、逃げ道が一つ消えた気がした。
「ノアさん」
「はい」
「今の、言い方……」
「嫌でしたか?」
すぐに頷けなかった。
嫌なら頷けばいい。
言えばいい。
やめて、と言えばいい。
でも、口が動かない。
嬉しかったから。
怖いのに。
嬉しかったから。
「……分かんない」
それだけ言うと、ノアさんは少しだけ目を細めた。
「では、分からないままでいましょう」
「え?」
「今、無理に答えを出さなくて大丈夫です」
優しい言葉だった。
でも、解放された感じはしなかった。
答えを出さなくていい。
その代わり、分からないままノアさんの前にいなければならない。
それが分かってしまって、胸が苦しくなる。
「レナさん」
「……はい」
「ユウカちゃんには、好きだと言われましたか」
今度こそ、息が止まった。
さっきより深いところへ、まっすぐ手を入れられた気がした。
「なんで……」
「違いますか?」
違うと言えばいい。
言えなかった。
ノアさんは、私の沈黙を見ている。
沈黙すら、ノアさんの手元へ持っていかれる。
「言われたんですね」
私は、ほんの少しだけ頷いた。
頷いたあとで、顔が一気に熱くなる。
ノアさんは、声を荒げなかった。
「そうですか」
それだけ。
でも、その「そうですか」の中に、何かがあった。
冷たくはない。
怒ってもいない。
けれど、静かに重い。
ノアさんは、私の右手を見る。
「それで、レナさんは?」
「……私?」
「はい。返しましたか」
返しましたか。
好きだと言われて、あなたはどう返しましたか。
そこまで言われたわけではないのに、全部聞こえた気がした。
「……言った」
「何を?」
「……好き、って」
小さな声だった。
ほとんど、息みたいな声。
でも、ノアさんには届いた。
届いてしまった。
ノアさんの指先が、机の端に触れる。
ほんの少しだけ、力が入った気がした。
⸻
ノアは、その一言を聞いた瞬間、自分の中で何かが静かに沈むのを感じた。
好き、と。
レナさんは言った。
ユウカちゃんに。
それは記録としては、ただの事実だった。
感情の応答。親密関係の進展。夜間、資料室での私的会話。
そう整理することはできる。
けれど、ノアはしなかった。
できなかった、ではない。
しなかった。
今の自分がそれを記録の形へ入れたら、きっと少しだけ醜くなる。
ユウカちゃんに嫉妬した、というほど単純ではない。
レナさんが誰かに好意を返したことを、祝福できないわけでもない。
けれど。
レナさんの「好き」という声を、自分も聞きたいと思った。
自分に向けられた形で。
その欲を、ノアは静かに認めた。
困ったことに、嫌ではなかった。
⸻
「レナさん」
ノアさんの声が少し低くなった。
「はい」
「私にも、言えますか」
頭が真っ白になった。
「……え」
「無理にとは言いません」
無理にとは言わない。
でも、ノアさんの目は逸らさせてくれない。
「言えないなら、言えないで構いません」
構いません。
でも、言えない私も見られる。
どちらを選んでも、ノアさんの手の中にいる気がした。
私は、膝の上で手を握る。
言える?
言えない。
でも、言いたくないわけじゃない。
ノアさんのことは、怖い。
怖いのに、こうして呼ばれて、見られて、逃げられなくされて、どこか嬉しい。
おかしい。
でも、今それを考えても、答えは出ない。
「……ノアさんのこと」
声が震えた。
ノアさんは待っている。
急がせない。
でも、離れてもくれない。
「嫌いじゃ、ないよ」
「はい」
「……それだけじゃ、足りない?」
聞いてしまってから、後悔した。
ノアさんの目が、ほんの少し柔らかくなる。
「足りないと言ったら、困りますか」
困る。
困るに決まっている。
でも。
「……困る」
正直に言った。
「でも、ノアさんがそう言うなら……たぶん、考えちゃう」
ノアさんが、少しだけ息を吸った。
それが初めて、ノアさんの余裕が揺れたように見えた。
⸻
レナさんは、自分が何を許したのか分かっているのだろうか。
ノアは、そう思った。
足りないと言えば、考えてくれる。
ノアが望めば、レナさんはその言葉を自分の中へ入れてしまう。
それは、あまりにも危うい。
試してはいけない。
そう思う自分がいる。
けれど、もう一人の自分は、とても静かに笑っていた。
試してはいけないことを知っているからこそ、どこまでなら許されるのかを確かめたくなる。
レナさんがノアの言葉に従ってしまうこと。
目を逸らせず、返事を探し、困りながらも逃げないこと。
それを、可愛いと思った。
そして、その可愛さを怖がらせない程度に、もう少しだけ見ていたいと思ってしまった。
⸻
「レナさん」
「……はい」
「動かないでください」
優しい声だった。
でも、今までで一番、強かった。
動かないで。
その言葉が、体に落ちる。
頭の中では、動け、と声がした。
今ならまだ、椅子を引ける。
距離を取れる。
笑って逃げられる。
でも、ノアさんが動かないでと言った。
その一言の方が、私の中のどの命令よりも強かった。
指一本、動かせなかった。
「……ノアさん」
「はい」
「動けない」
情けないくらい、小さな声だった。
ノアさんは、少しだけ微笑んだ。
「はい。分かっています」
分かっている。
その言葉に、また背中が震える。
分かっていて言ったのだ。
ノアさんは。
分かっていて、私に動かないでと言った。
ノアさんの指が、私の髪に触れた。
耳の横。
髪を少しだけすくって、後ろへ流す。
たったそれだけなのに、息が止まる。
「髪が、隠していました」
「……何を」
「ここです」
ノアさんの指先が、襟足の近くに触れた。
首筋に近い、髪の影になっていた場所。
全身が固まる。
「待って」
声が出た。
でも、体は動かなかった。
ノアさんは止まった。
「やめますか」
聞かれた。
やめますか。
頷けばいい。
頷けば、きっとノアさんはやめる。
そう分かっている。
分かっているのに、頷けない。
嬉しい。
怖い。
恥ずかしい。
逃げたい。
逃げたくない。
全部が胸の中で絡まって、声にならない。
「……分かんない」
また、それしか言えなかった。
ノアさんは、静かに頷いた。
「では、分からないまま、一度だけ」
ずるい。
そう思った。
でも、言えなかった。
ノアさんの唇が、髪の影に隠れていた首元へ短く触れた。
ほんの一瞬だった。
なのに、息が止まった。
熱い、と思うより先に、体の奥がびくっと震える。
声を出したら、何かを認めてしまいそうで、私は唇を噛んだ。
ノアさんはすぐに離れた。
近すぎる距離のまま、私を見ている。
「今の顔は、覚えておきます」
「……だめ」
「だめですか」
「だめ」
「では、誰にも言いません」
「そうじゃなくて……」
「はい」
ノアさんは、少しだけ笑った。
「分かっています」
分かっている。
何度目かのその言葉が、今度はひどく甘く聞こえた。
私は顔を上げられなかった。
でも、ノアさんは急かさない。
勝ったことを誇るような顔もしない。
ただ、私が自分で息を整えるのを待っている。
それもまた、ノアさんの強さだった。
「……ノアさん」
「はい」
「忘れて」
言ってから、無理だと分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
ノアさんは、やっぱり優しく答える。
「それはできません」
「……だよね」
「はい」
「じゃあ、せめて……」
私は顔を上げた。
まだ熱い。
でも、ちゃんと言いたかった。
「私の前でだけ、覚えてて」
ノアさんの目が、初めてはっきり揺れた。
小さな揺れだった。
でも、確かに。
ノアさんはすぐには返事をしなかった。
⸻
その言葉は、ノアの予想になかった。
忘れてほしい。
誰にも言わないでほしい。
そう言われると思っていた。
けれど、レナさんは違うことを言った。
私の前でだけ、覚えていて。
それは、記録の許可ではない。
公開の拒否でもない。
ノアだけに渡された、ひどく私的な条件だった。
その瞬間、ノアは自分の中の欲が、少しだけ形を変えるのを感じた。
誰にも見せたくない。
誰にも渡したくない。
けれど、レナさんの前では覚えていていい。
その許しが、甘かった。
ノアは、危うく笑いそうになった。
いけない。
これ以上は、本当にいけない。
そう思うのに、胸の奥は静かに満たされていた。
⸻
「分かりました」
ノアさんは言った。
「レナさんの前でだけ、覚えています」
「……うん」
「ですが、ひとつだけ」
「何?」
「私が覚えていることを、レナさんも忘れないでください」
また、逃げ道が消えた。
でも今度は、少しだけ笑えた。
「ノアさん、ほんとに欲張りだね」
「はい」
「そこも否定しないんだ」
「今日は、あまり嘘をつかないことにしました」
「普段は?」
「必要なら」
「こわ……」
小さく呟くと、ノアさんは楽しそうに微笑んだ。
やっと少しだけ、普通に息ができた気がした。
ノアさんは机に戻り、端末へ向き直る。
「記録には、TSC2制作中のレナさんの所感だけを残します」
「……今のは?」
「残しません」
「本当に?」
「はい」
ノアさんは、端末の画面をこちらへ見せた。
そこには、ゲーム開発部での制作記録に関する短い文章だけが入力されていた。
モモイちゃんの勢い。
ミドリちゃんの調整。
ユズちゃんの粘り。
アリスちゃんの成長。
先生の支え。
レナの補助。
それだけ。
さっきのことは、どこにもない。
私は少しだけ安心した。
でも、ノアさんを見た瞬間、その安心が別のものに変わる。
記録にはない。
でも、ノアさんは覚えている。
絶対に。
「……ノアさん」
「はい」
「やっぱりずるい」
「そうですね」
ノアさんは笑った。
「でも、レナさんも少しずるいですよ」
「私?」
「はい」
「何が?」
「忘れて、と言いながら、私の前でだけ覚えていてほしいと言うところです」
顔が熱くなる。
「……言わなきゃよかった」
「私は、聞けてよかったです」
まっすぐ言われて、また言葉に詰まった。
ノアさんは、本当にずるい。
怖いくらい、優しくて。
優しいのに、逆らえない。
私はもう一度、膝の上で手を握った。
「ノアさん」
「はい」
「今日のこと、私も覚えてる」
「何をですか?」
聞き返される。
逃げることもできた。
でも、今度は逃げなかった。
「ノアさんが、分かってて私を困らせたこと」
「それだけですか?」
「……首のところ、恥ずかしかったこと」
「はい」
「あと」
私は、少しだけ息を吸った。
「怖かったけど、嫌じゃなかったこと」
ノアさんは、静かに目を細めた。
今の言葉は、ちゃんと届いた。
届いてしまった。
「ありがとうございます」
「お礼言うところ?」
「はい」
ノアさんは、少しだけ近づいた。
私はびくっとした。
でも、ノアさんは触れなかった。
ただ、私の目を見て言った。
「その言葉は、少し危ないですね」
「……危ない?」
「ええ」
「どうして」
「私が、次も期待してしまいますから」
心臓が、どくんと鳴った。
ノアさんは、それ以上何も言わなかった。
言わないのに、全部言われた気がした。
記録室の時計が、静かに時間を刻んでいる。
私は立ち上がった。
「そろそろ行くね」
「はい。先生がお待ちですから」
「……そこも分かってるんだ」
「はい」
「ほんと、勝てないなぁ」
それは、ほとんど独り言だった。
でも、ノアさんには届いたらしい。
「勝ち負けではありませんよ」
ノアさんは微笑む。
「ただ、今日は少し、私の方がよく覚えていただけです」
違う。
そうじゃない。
でも、もう言い返せなかった。
ノアさんは記録室の扉を開けてくれた。
私は一歩外へ出る。
廊下の明かりが、少し眩しい。
「レナさん」
振り返る。
ノアさんは、扉の内側に立っていた。
「また、お話を聞かせてください」
「……普通の話?」
「普通の話でも」
「でも?」
「普通ではない話でも」
頬が熱くなる。
「ノアさん」
「はい」
「そういう言い方、ほんとに……」
続きが出ない。
ノアさんは、待っている。
私が何を言うのかを。
でも私は、首を振った。
「またね」
それだけ言った。
逃げたわけじゃない。
たぶん。
今は、それで精一杯だった。
「はい。また」
ノアさんは、柔らかく笑った。
記録室の扉が閉まる。
その瞬間、やっと息を吐けた。
膝から力が抜けそうだった。
頭の中では、ずっと自分の声がしていた。
動け。
目を逸らせ。
答えなくていい。
逃げてもいい。
でも、そのどれよりも、ノアさんの言葉の方が強かった。
こちらを見てください。
動かないでください。
分からないままでいましょう。
それだけで、私は動けなくなった。
怖かった。
嬉しかった。
まだ、首元に熱が残っている気がした。
私は廊下を歩き出す。
足音が少しだけ頼りない。
でも、ちゃんと歩けている。
そのことに、少し安心した。
一方、記録室の中で。
ノアは端末の前に戻った。
記録を確認する。
TSC2制作補助に関するレナさんの所感。
ゲーム開発部の夜に関する証言。
特別賞受賞後の補足。
必要な情報は、そこにある。
それ以上は、ない。
ノアは、先ほどの会話を一文字も入力しなかった。
レナさんの右手。
ユウカちゃんの名前で遅れた呼吸。
好き、と言う時の小さな声。
動けない、と告げた時の震え。
髪の影の首元に触れた瞬間、息を止めた顔。
私の前でだけ、覚えていてほしいという言葉。
何も、記録には残さない。
けれど、忘れない。
忘れられないのではない。
忘れないことを、選んだ。
ノアは端末を閉じた。
記録室に、静けさが戻る。
「……少し、欲張りになってしまいましたね」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
だから、それは記録ではなかった。
ただ、ノアだけのものだった。