戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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3話 記録されない空白

 

 セミナーの記録室は、資料室よりも静かだった。

 

 資料室の静けさが「仕事の音が止まったあとの静けさ」だとしたら、記録室の静けさは、もっと深い。音そのものが、棚と棚の隙間に吸い込まれていくような場所だった。壁一面に並んだファイル。古い記録媒体。整理された端末。白い照明。誰かが声を上げることを、最初から想定していないような空気。

 

 私は入口で少し足を止めた。

 

 呼ばれた理由は、分かっている。

 

 ミレニアムプライス特別賞に関する補足記録。

 ゲーム開発部の活動に同行した外部協力者としての所感。

 TSC2制作中の状況確認。

 

 ノアさんから送られてきた連絡には、そう書かれていた。

 

 だから、これは普通の聞き取りのはずだった。

 

 普通の。

 

 たぶん。

 

「レナさん」

 

 奥から声がした。

 

 ノアさんは記録室の中央にある机のそばに立っていた。柔らかく微笑んでいる。いつもと同じ顔。穏やかで、丁寧で、こちらの緊張を解くような顔。

 

 なのに、私は少しだけ背筋を伸ばしてしまった。

 

「来てくださってありがとうございます」

 

「ううん。呼ばれたし。……えっと、所感だよね?」

 

「はい。ゲーム開発部で過ごした夜について、レナさんの言葉で残しておきたいんです」

 

「私の言葉で?」

 

「ええ。先生やゲーム開発部の皆さんの記録だけでは、残らないものがありますから」

 

 ノアさんは椅子を引いた。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 座る。

 

 机の上には、端末が一台。資料が数枚。特別賞の記録。TSC2の簡単な概要。ゲーム開発部の活動記録。

 

 おかしなものはない。

 

 普通の記録。

 

 普通の確認。

 

 だから、大丈夫。

 

 そう思ったのに、ノアさんが向かいに座った瞬間、少しだけ息が浅くなった。

 

 ノアさんは、何も急がなかった。

 

「まず、TSC2の制作中、レナさんが特に印象に残っていることを教えていただけますか?」

 

「印象に残ってることかぁ……」

 

 私は少し考える。

 

「いっぱいあるよ。モモイちゃんが締切五分前に隠しボスを入れようとしたこととか、ミドリちゃんが本気で怒ったこととか、ユズちゃんがロッカーから出てきて画面見てたこととか、アリスちゃんがパンパカパーンを保留したこととか」

 

「ふふ。ゲーム開発部らしいですね」

 

「うん。大変だったけど、楽しかった」

 

 そこまでは、普通に話せた。

 

 ノアさんは穏やかに相槌を打つ。端末へ何かを入力しているように見えるけれど、指の動きは最小限で、視線はほとんど私から離れない。

 

「大変だった、というのは?」

 

「えっと……寝不足とか、締切とか、C&Cのこととか。あと、テレビ」

 

「テレビ」

 

「モモイちゃんの罪が金額になったやつ」

 

 ノアさんが小さく笑った。

 

「あれは、ユウカちゃんも頭を抱えていましたね」

 

 ユウカさん。

 

 その名前が出た瞬間、指先が少し動いた。

 

 ほんの少し。

 

 自分でも気づくかどうかくらいの動きだった。

 

 でも、ノアさんの目がそこへ落ちた。

 

 あ、と思った。

 

 すぐに手を膝の上へ置く。

 

 遅かった。

 

「レナさん」

 

「……はい」

 

「右手、気になりますか?」

 

 声は優しかった。

 

 ただの確認みたいだった。

 

 でも、私はすぐに返事ができなかった。

 

「別に……そんなことないよ」

 

「そうですか」

 

 ノアさんは否定しない。

 

 ただ、静かに続ける。

 

「昨日から、右手を見る回数が増えています」

 

 胸が、ひやりとした。

 

「……見てたの?」

 

「はい。見ていました」

 

 当たり前みたいに言う。

 

 悪びれない。

 誤魔化さない。

 でも、責める声でもない。

 

「ノアさん、それ普通に言うと怖いよ」

 

「怖がらせたかったわけではありません」

 

「じゃあ、なんで言うの」

 

「必要だと思ったからです」

 

 必要。

 

 その言葉の置き方が、静かだった。

 

 私は笑おうとした。軽く流そうとした。

 でも、ノアさんの目が柔らかいまま、少しも揺れなかった。

 

「ユウカちゃんと、何かありましたね」

 

 息が止まった。

 

 頭の中で、すぐに答えを探した。

 

 何もない。

 ちょっと話しただけ。

 資料室で会っただけ。

 書類を片づけただけ。

 

 いくらでも言える。

 

 言えばいい。

 

「……何かって、別に」

 

 声が、思ったより小さかった。

 

 ノアさんは、微笑んだ。

 

「ユウカちゃんの名前を聞いた時だけ、呼吸が遅れました」

 

「……」

 

「袖口を気にする回数も増えています」

 

「……」

 

「先ほど、テレビ修繕費の話をした時は普通に笑えました。でも、ユウカちゃんの名前が出た時、少しだけ目が泳ぎました」

 

 やめて。

 

 そう思った。

 

 でも、声にならなかった。

 

 ノアさんは一つずつ、私の逃げ道を塞いでいく。

 大きな音を立てずに。

 命令もせずに。

 ただ、見たことを置いていくだけで。

 

「……そんなの、見なくていいのに」

 

 やっと出た言葉は、それだけだった。

 

「見えてしまいました」

 

「忘れて」

 

「できません」

 

 即答だった。

 

 胸の奥が、ぞくっとした。

 

 できません。

 

 ノアさんがそう言うと、冗談に聞こえない。

 忘れない人が、忘れないと告げる。

 それだけで、こちらがどう動けばいいのか分からなくなる。

 

「……ノアさんって、ずるい」

 

「はい」

 

「否定しないんだ」

 

「今は、否定すると嘘になりますから」

 

 ノアさんは資料を一枚めくった。

 

 その動きは落ち着いている。

 私だけが、落ち着いていない。

 

「ユウカちゃんに、どこか触れられましたか」

 

「っ」

 

 言葉が胸に刺さる。

 

 顔が熱くなるのが分かった。

 

「そんなの……」

 

「言わなくても構いません」

 

 ほっとしかけた。

 

 その瞬間、ノアさんは続けた。

 

「ただ、思い出してください」

 

 やめて。

 

 そう思った。

 

 でも、思い出してしまった。

 

 資料室。

 手首。

 袖口。

 指先。

 ユウカさんの「好きよ」という声。

 指先に触れた、短いキス。

 

 記憶が勝手に戻ってくる。

 

 私は膝の上で手を握った。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「……そういうの、意地悪だよ」

 

「そうですね」

 

 また、否定しない。

 

「今のは、少し意地悪でした」

 

 声は優しい。

 

 でも、優しいから余計に怖い。

 

 意地悪だと分かっていて、やめない。

 私が動揺することも分かっていて、聞いている。

 

 ノアさんは立ち上がった。

 

 資料棚の方へ歩く。

 私は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 距離が離れた。

 

 そう思った。

 

 でも、違った。

 

 ノアさんは棚から一冊のファイルを取り、私の横へ来た。私の隣に立ち、机の上へファイルを置く。向かい側ではなく、横。

 

 近い。

 

 動ける。

 椅子を引けばいい。

 少し身をずらせばいい。

 

 頭では分かっている。

 

 でも、体が動かなかった。

 

「レナさん」

 

「……はい」

 

「こちらを見てください」

 

 ノアさんがそう言った。

 

 ただ、それだけだった。

 

 こちらを見てください。

 

 命令というほど強くない。

 お願いというほど弱くもない。

 

 でも、その言葉の方が、私の頭の中の「目を逸らして」という声より強かった。

 

 目を逸らしたかった。

 横を向きたかった。

 笑って誤魔化したかった。

 

 なのに、私はノアさんを見た。

 

 見てしまった。

 

 ノアさんの目は、少しも揺れていなかった。

 

「……いい子ですね」

 

 背中の奥が震えた。

 

 褒められた。

 

 ただ、それだけのはずだった。

 でも、その一言で、逃げ道が一つ消えた気がした。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「今の、言い方……」

 

「嫌でしたか?」

 

 すぐに頷けなかった。

 

 嫌なら頷けばいい。

 言えばいい。

 やめて、と言えばいい。

 

 でも、口が動かない。

 

 嬉しかったから。

 

 怖いのに。

 

 嬉しかったから。

 

「……分かんない」

 

 それだけ言うと、ノアさんは少しだけ目を細めた。

 

「では、分からないままでいましょう」

 

「え?」

 

「今、無理に答えを出さなくて大丈夫です」

 

 優しい言葉だった。

 

 でも、解放された感じはしなかった。

 

 答えを出さなくていい。

 その代わり、分からないままノアさんの前にいなければならない。

 

 それが分かってしまって、胸が苦しくなる。

 

「レナさん」

 

「……はい」

 

「ユウカちゃんには、好きだと言われましたか」

 

 今度こそ、息が止まった。

 

 さっきより深いところへ、まっすぐ手を入れられた気がした。

 

「なんで……」

 

「違いますか?」

 

 違うと言えばいい。

 

 言えなかった。

 

 ノアさんは、私の沈黙を見ている。

 沈黙すら、ノアさんの手元へ持っていかれる。

 

「言われたんですね」

 

 私は、ほんの少しだけ頷いた。

 

 頷いたあとで、顔が一気に熱くなる。

 

 ノアさんは、声を荒げなかった。

 

「そうですか」

 

 それだけ。

 

 でも、その「そうですか」の中に、何かがあった。

 

 冷たくはない。

 怒ってもいない。

 けれど、静かに重い。

 

 ノアさんは、私の右手を見る。

 

「それで、レナさんは?」

 

「……私?」

 

「はい。返しましたか」

 

 返しましたか。

 

 好きだと言われて、あなたはどう返しましたか。

 

 そこまで言われたわけではないのに、全部聞こえた気がした。

 

「……言った」

 

「何を?」

 

「……好き、って」

 

 小さな声だった。

 

 ほとんど、息みたいな声。

 

 でも、ノアさんには届いた。

 

 届いてしまった。

 

 ノアさんの指先が、机の端に触れる。

 ほんの少しだけ、力が入った気がした。

 

 

 ノアは、その一言を聞いた瞬間、自分の中で何かが静かに沈むのを感じた。

 

 好き、と。

 

 レナさんは言った。

 

 ユウカちゃんに。

 

 それは記録としては、ただの事実だった。

 感情の応答。親密関係の進展。夜間、資料室での私的会話。

 

 そう整理することはできる。

 

 けれど、ノアはしなかった。

 

 できなかった、ではない。

 しなかった。

 

 今の自分がそれを記録の形へ入れたら、きっと少しだけ醜くなる。

 ユウカちゃんに嫉妬した、というほど単純ではない。

 レナさんが誰かに好意を返したことを、祝福できないわけでもない。

 

 けれど。

 

 レナさんの「好き」という声を、自分も聞きたいと思った。

 

 自分に向けられた形で。

 

 その欲を、ノアは静かに認めた。

 

 困ったことに、嫌ではなかった。

 

 

「レナさん」

 

 ノアさんの声が少し低くなった。

 

「はい」

 

「私にも、言えますか」

 

 頭が真っ白になった。

 

「……え」

 

「無理にとは言いません」

 

 無理にとは言わない。

 

 でも、ノアさんの目は逸らさせてくれない。

 

「言えないなら、言えないで構いません」

 

 構いません。

 

 でも、言えない私も見られる。

 

 どちらを選んでも、ノアさんの手の中にいる気がした。

 

 私は、膝の上で手を握る。

 

 言える?

 

 言えない。

 

 でも、言いたくないわけじゃない。

 

 ノアさんのことは、怖い。

 怖いのに、こうして呼ばれて、見られて、逃げられなくされて、どこか嬉しい。

 

 おかしい。

 

 でも、今それを考えても、答えは出ない。

 

「……ノアさんのこと」

 

 声が震えた。

 

 ノアさんは待っている。

 

 急がせない。

 

 でも、離れてもくれない。

 

「嫌いじゃ、ないよ」

 

「はい」

 

「……それだけじゃ、足りない?」

 

 聞いてしまってから、後悔した。

 

 ノアさんの目が、ほんの少し柔らかくなる。

 

「足りないと言ったら、困りますか」

 

 困る。

 

 困るに決まっている。

 

 でも。

 

「……困る」

 

 正直に言った。

 

「でも、ノアさんがそう言うなら……たぶん、考えちゃう」

 

 ノアさんが、少しだけ息を吸った。

 

 それが初めて、ノアさんの余裕が揺れたように見えた。

 

 

 レナさんは、自分が何を許したのか分かっているのだろうか。

 

 ノアは、そう思った。

 

 足りないと言えば、考えてくれる。

 ノアが望めば、レナさんはその言葉を自分の中へ入れてしまう。

 

 それは、あまりにも危うい。

 

 試してはいけない。

 

 そう思う自分がいる。

 

 けれど、もう一人の自分は、とても静かに笑っていた。

 

 試してはいけないことを知っているからこそ、どこまでなら許されるのかを確かめたくなる。

 

 レナさんがノアの言葉に従ってしまうこと。

 目を逸らせず、返事を探し、困りながらも逃げないこと。

 

 それを、可愛いと思った。

 

 そして、その可愛さを怖がらせない程度に、もう少しだけ見ていたいと思ってしまった。

 

 

「レナさん」

 

「……はい」

 

「動かないでください」

 

 優しい声だった。

 

 でも、今までで一番、強かった。

 

 動かないで。

 

 その言葉が、体に落ちる。

 

 頭の中では、動け、と声がした。

 

 今ならまだ、椅子を引ける。

 距離を取れる。

 笑って逃げられる。

 

 でも、ノアさんが動かないでと言った。

 

 その一言の方が、私の中のどの命令よりも強かった。

 

 指一本、動かせなかった。

 

「……ノアさん」

 

「はい」

 

「動けない」

 

 情けないくらい、小さな声だった。

 

 ノアさんは、少しだけ微笑んだ。

 

「はい。分かっています」

 

 分かっている。

 

 その言葉に、また背中が震える。

 

 分かっていて言ったのだ。

 

 ノアさんは。

 

 分かっていて、私に動かないでと言った。

 

 ノアさんの指が、私の髪に触れた。

 

 耳の横。

 髪を少しだけすくって、後ろへ流す。

 

 たったそれだけなのに、息が止まる。

 

「髪が、隠していました」

 

「……何を」

 

「ここです」

 

 ノアさんの指先が、襟足の近くに触れた。

 

 首筋に近い、髪の影になっていた場所。

 

 全身が固まる。

 

「待って」

 

 声が出た。

 

 でも、体は動かなかった。

 

 ノアさんは止まった。

 

「やめますか」

 

 聞かれた。

 

 やめますか。

 

 頷けばいい。

 

 頷けば、きっとノアさんはやめる。

 

 そう分かっている。

 

 分かっているのに、頷けない。

 

 嬉しい。

 

 怖い。

 

 恥ずかしい。

 

 逃げたい。

 

 逃げたくない。

 

 全部が胸の中で絡まって、声にならない。

 

「……分かんない」

 

 また、それしか言えなかった。

 

 ノアさんは、静かに頷いた。

 

「では、分からないまま、一度だけ」

 

 ずるい。

 

 そう思った。

 

 でも、言えなかった。

 

 ノアさんの唇が、髪の影に隠れていた首元へ短く触れた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 なのに、息が止まった。

 

 熱い、と思うより先に、体の奥がびくっと震える。

 声を出したら、何かを認めてしまいそうで、私は唇を噛んだ。

 

 ノアさんはすぐに離れた。

 

 近すぎる距離のまま、私を見ている。

 

「今の顔は、覚えておきます」

 

「……だめ」

 

「だめですか」

 

「だめ」

 

「では、誰にも言いません」

 

「そうじゃなくて……」

 

「はい」

 

 ノアさんは、少しだけ笑った。

 

「分かっています」

 

 分かっている。

 

 何度目かのその言葉が、今度はひどく甘く聞こえた。

 

 私は顔を上げられなかった。

 

 でも、ノアさんは急かさない。

 勝ったことを誇るような顔もしない。

 

 ただ、私が自分で息を整えるのを待っている。

 

 それもまた、ノアさんの強さだった。

 

「……ノアさん」

 

「はい」

 

「忘れて」

 

 言ってから、無理だと分かっていた。

 

 それでも、言わずにはいられなかった。

 

 ノアさんは、やっぱり優しく答える。

 

「それはできません」

 

「……だよね」

 

「はい」

 

「じゃあ、せめて……」

 

 私は顔を上げた。

 

 まだ熱い。

 

 でも、ちゃんと言いたかった。

 

「私の前でだけ、覚えてて」

 

 ノアさんの目が、初めてはっきり揺れた。

 

 小さな揺れだった。

 

 でも、確かに。

 

 ノアさんはすぐには返事をしなかった。

 

 

 その言葉は、ノアの予想になかった。

 

 忘れてほしい。

 誰にも言わないでほしい。

 そう言われると思っていた。

 

 けれど、レナさんは違うことを言った。

 

 私の前でだけ、覚えていて。

 

 それは、記録の許可ではない。

 公開の拒否でもない。

 

 ノアだけに渡された、ひどく私的な条件だった。

 

 その瞬間、ノアは自分の中の欲が、少しだけ形を変えるのを感じた。

 

 誰にも見せたくない。

 誰にも渡したくない。

 けれど、レナさんの前では覚えていていい。

 

 その許しが、甘かった。

 

 ノアは、危うく笑いそうになった。

 

 いけない。

 

 これ以上は、本当にいけない。

 

 そう思うのに、胸の奥は静かに満たされていた。

 

 

「分かりました」

 

 ノアさんは言った。

 

「レナさんの前でだけ、覚えています」

 

「……うん」

 

「ですが、ひとつだけ」

 

「何?」

 

「私が覚えていることを、レナさんも忘れないでください」

 

 また、逃げ道が消えた。

 

 でも今度は、少しだけ笑えた。

 

「ノアさん、ほんとに欲張りだね」

 

「はい」

 

「そこも否定しないんだ」

 

「今日は、あまり嘘をつかないことにしました」

 

「普段は?」

 

「必要なら」

 

「こわ……」

 

 小さく呟くと、ノアさんは楽しそうに微笑んだ。

 

 やっと少しだけ、普通に息ができた気がした。

 

 ノアさんは机に戻り、端末へ向き直る。

 

「記録には、TSC2制作中のレナさんの所感だけを残します」

 

「……今のは?」

 

「残しません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 ノアさんは、端末の画面をこちらへ見せた。

 

 そこには、ゲーム開発部での制作記録に関する短い文章だけが入力されていた。

 

 モモイちゃんの勢い。

 ミドリちゃんの調整。

 ユズちゃんの粘り。

 アリスちゃんの成長。

 先生の支え。

 レナの補助。

 

 それだけ。

 

 さっきのことは、どこにもない。

 

 私は少しだけ安心した。

 

 でも、ノアさんを見た瞬間、その安心が別のものに変わる。

 

 記録にはない。

 でも、ノアさんは覚えている。

 

 絶対に。

 

「……ノアさん」

 

「はい」

 

「やっぱりずるい」

 

「そうですね」

 

 ノアさんは笑った。

 

「でも、レナさんも少しずるいですよ」

 

「私?」

 

「はい」

 

「何が?」

 

「忘れて、と言いながら、私の前でだけ覚えていてほしいと言うところです」

 

 顔が熱くなる。

 

「……言わなきゃよかった」

 

「私は、聞けてよかったです」

 

 まっすぐ言われて、また言葉に詰まった。

 

 ノアさんは、本当にずるい。

 

 怖いくらい、優しくて。

 

 優しいのに、逆らえない。

 

 私はもう一度、膝の上で手を握った。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「今日のこと、私も覚えてる」

 

「何をですか?」

 

 聞き返される。

 

 逃げることもできた。

 

 でも、今度は逃げなかった。

 

「ノアさんが、分かってて私を困らせたこと」

 

「それだけですか?」

 

「……首のところ、恥ずかしかったこと」

 

「はい」

 

「あと」

 

 私は、少しだけ息を吸った。

 

「怖かったけど、嫌じゃなかったこと」

 

 ノアさんは、静かに目を細めた。

 

 今の言葉は、ちゃんと届いた。

 

 届いてしまった。

 

「ありがとうございます」

 

「お礼言うところ?」

 

「はい」

 

 ノアさんは、少しだけ近づいた。

 

 私はびくっとした。

 

 でも、ノアさんは触れなかった。

 

 ただ、私の目を見て言った。

 

「その言葉は、少し危ないですね」

 

「……危ない?」

 

「ええ」

 

「どうして」

 

「私が、次も期待してしまいますから」

 

 心臓が、どくんと鳴った。

 

 ノアさんは、それ以上何も言わなかった。

 

 言わないのに、全部言われた気がした。

 

 記録室の時計が、静かに時間を刻んでいる。

 

 私は立ち上がった。

 

「そろそろ行くね」

 

「はい。先生がお待ちですから」

 

「……そこも分かってるんだ」

 

「はい」

 

「ほんと、勝てないなぁ」

 

 それは、ほとんど独り言だった。

 

 でも、ノアさんには届いたらしい。

 

「勝ち負けではありませんよ」

 

 ノアさんは微笑む。

 

「ただ、今日は少し、私の方がよく覚えていただけです」

 

 違う。

 

 そうじゃない。

 

 でも、もう言い返せなかった。

 

 ノアさんは記録室の扉を開けてくれた。

 

 私は一歩外へ出る。

 

 廊下の明かりが、少し眩しい。

 

「レナさん」

 

 振り返る。

 

 ノアさんは、扉の内側に立っていた。

 

「また、お話を聞かせてください」

 

「……普通の話?」

 

「普通の話でも」

 

「でも?」

 

「普通ではない話でも」

 

 頬が熱くなる。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「そういう言い方、ほんとに……」

 

 続きが出ない。

 

 ノアさんは、待っている。

 

 私が何を言うのかを。

 

 でも私は、首を振った。

 

「またね」

 

 それだけ言った。

 

 逃げたわけじゃない。

 

 たぶん。

 

 今は、それで精一杯だった。

 

「はい。また」

 

 ノアさんは、柔らかく笑った。

 

 記録室の扉が閉まる。

 

 その瞬間、やっと息を吐けた。

 

 膝から力が抜けそうだった。

 

 頭の中では、ずっと自分の声がしていた。

 動け。

 目を逸らせ。

 答えなくていい。

 逃げてもいい。

 

 でも、そのどれよりも、ノアさんの言葉の方が強かった。

 

 こちらを見てください。

 動かないでください。

 分からないままでいましょう。

 

 それだけで、私は動けなくなった。

 

 怖かった。

 

 嬉しかった。

 

 まだ、首元に熱が残っている気がした。

 

 私は廊下を歩き出す。

 

 足音が少しだけ頼りない。

 

 でも、ちゃんと歩けている。

 

 そのことに、少し安心した。

 

 一方、記録室の中で。

 

 ノアは端末の前に戻った。

 

 記録を確認する。

 

 TSC2制作補助に関するレナさんの所感。

 ゲーム開発部の夜に関する証言。

 特別賞受賞後の補足。

 

 必要な情報は、そこにある。

 

 それ以上は、ない。

 

 ノアは、先ほどの会話を一文字も入力しなかった。

 

 レナさんの右手。

 ユウカちゃんの名前で遅れた呼吸。

 好き、と言う時の小さな声。

 動けない、と告げた時の震え。

 髪の影の首元に触れた瞬間、息を止めた顔。

 私の前でだけ、覚えていてほしいという言葉。

 

 何も、記録には残さない。

 

 けれど、忘れない。

 

 忘れられないのではない。

 

 忘れないことを、選んだ。

 

 ノアは端末を閉じた。

 

 記録室に、静けさが戻る。

 

「……少し、欲張りになってしまいましたね」

 

 小さく呟く。

 

 誰も聞いていない。

 

 だから、それは記録ではなかった。

 

 ただ、ノアだけのものだった。

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