戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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9話 全知は私を待ってる

 

 

 特異現象捜査部へ向かう途中、私は鞄の中の紙袋を一度だけ確認した。

 

 焼き菓子。

 

 紅茶に合いそうで、手で食べやすくて、端末の近くに置いても粉が散りにくそうで、甘すぎないもの。

 

 店先で選んでいる時は、ただ「これならヒマリさんが食べやすそう」と思っただけだった。けれど、歩きながら改めて考えると、その「食べやすそう」の中に、ヒマリさんの部屋の暗さとか、机の上の紅茶とか、車椅子の膝に置かれた端末とか、少し芝居がかった笑い方とか、そういうものがいくつも混ざっている気がした。

 

 私は足を止めないまま、紙袋の持ち手を指で押さえた。

 

 ただのお菓子だ。

 

 ただのお菓子なのに、少しだけ緊張する。

 

 扉の前に着くと、中から低い端末音が聞こえた。警報でも、爆発音でも、雷ちゃんの駆動音でもない。静かで、均一で、何かがずっと働いている音。

 

「失礼します」

 

 扉を開けると、部屋の中は少し暖かかった。

 

 いつもの薄暗い照明。壁際の機材。整っているのに、どこか生活感の少ない部屋。中央の机には、すでに紅茶が二人分置かれている。さらに、その横には空のお皿が一枚。

 

 ヒマリさんは車椅子に座り、いつものように優雅な顔でこちらを見た。

 

「来ましたね、レナさん。入室時刻、持ち物、歩幅、表情、いずれも観測価値があります。とくに本日は、あなたが右手に持つ紙袋に極めて高い注目が集まっています」

 

「注目してるの、ほぼヒマリさんだけですよね」

 

「全知の注目は重みが違います」

 

「その言い方だと、紙袋が責任感じそうです」

 

「では、紙袋の名誉のためにも中身を確認しましょう」

 

 ヒマリさんはそう言って、机の空皿を指先で示した。

 

 最初から置いてあった皿。

 

 やっぱり待っていたのだ。

 

 そう思ったけれど、言うとまた「待っていたのではなく準備です」と返ってきそうだったので、私は紙袋を机の上に置くことにした。

 

 壁際では、エイミさんが空調のリモコンを持っていた。

 

 いつも通り淡々としているけれど、少しだけ暑そうに見える。

 

「こんにちは、エイミさん」

 

「こんにちは、レナ。ヒマリ、朝から室温を上げてた」

 

「エイミ」

 

 ヒマリさんがすぐに反応した。

 

「それは来客への配慮です。病弱な美少女たる私の部屋において、寒さ対策は常に優先事項ですが、本日はレナさんが長く滞在しても不快にならないよう、温度を調整しただけです」

 

「私は暑い」

 

「あなたは常に暑がりすぎるのです」

 

「ヒマリは常に寒がりすぎる。今日は紅茶も二つ。皿もある。レナが来る前から、部屋がレナ用になってた」

 

 エイミさんは淡々と言った。

 

 からかう調子ではない。ただ、見たまま、感じたままを言っている。

 

 だから余計に、ヒマリさんが小さく咳払いする。

 

「エイミ。事実を並べればよいというものではありません」

 

「並べた方が分かりやすい」

 

「分かりやすさと優雅さは時に対立します」

 

「今日は分かりやすい方がいいと思う。レナ、お菓子持ってきたから」

 

「エイミ」

 

「ヒマリ、楽しみにしてた」

 

 ヒマリさんが黙った。

 

 私は紙袋を持ったまま、少しだけ笑ってしまった。

 

「……じゃあ、楽しみにしてもらえてたなら、よかったです」

 

「レナさん。今の発言は、少々こちらの逃げ道を塞ぐ形になっていますね」

 

「私のせいですか?」

 

「いいえ。主にエイミのせいです」

 

「ヒマリ、私は暑いから早く食べたい」

 

「暑さと糖分摂取の因果関係が毎回不明瞭です」

 

「でも食べたい」

 

「……分かりました。では、全知たる私が選定内容を確認しましょう」

 

 私は紙袋を開けて、焼き菓子の箱を取り出した。

 

 薄く焼かれたバター菓子。小さく、崩れにくく、紅茶に合いそうなもの。

 

 ヒマリさんは箱を受け取ると、すぐには食べなかった。

 

 包装を眺め、形を見て、香りを確かめる。端末の解析結果を見る時と同じくらい真剣な顔だった。

 

「なるほど。甘さは控えめ、香りは軽い。手指に油分が残りにくい個包装で、端末作業の合間にも扱いやすい。砕けにくい形状で、かつ紅茶との相性を損なわない。保存性も悪くありません」

 

「お菓子ひとつでそこまで見ます?」

 

「当然です。これは、あなたが私のために選んだものですから」

 

 その言い方が、少しだけ静かだった。

 

 私は返事の代わりに、エイミさんにも一つ渡す。

 

「エイミさんもどうぞ」

 

「ありがとう。ヒマリ、私の分もある」

 

「見れば分かります」

 

「レナは私も考えてくれた」

 

「エイミ。その言い方だと、私が独占しようとしていたように聞こえます」

 

「違うの?」

 

「違います」

 

 エイミさんは包装を開けながら、少しだけ首を傾げた。

 

「ヒマリ、紙袋が来た時、先に皿を近づけた」

 

「合理的な配置です」

 

「私の方には近づけなかった」

 

「……エイミ」

 

「でも、今もらったから大丈夫」

 

 エイミさんは一口食べて、少しだけ目を伏せた。

 

「おいしい」

 

 短いけれど、ちゃんと感想だった。

 

 ヒマリさんはまだ食べていなかった。手元の焼き菓子を見ている。

 

「ヒマリさん?」

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「あなたは、これを選ぶ時、どの程度私を思い出しましたか?」

 

 質問がまっすぐで、少し返事に迷った。

 

 ヒマリさんは冗談の顔をしていない。端末も見ていない。ただ、焼き菓子を手に、私の答えを待っている。

 

「どの程度って言われると、難しいですけど……紅茶に合いそうとか、手で食べやすそうとか、ヒマリさんならこういうの好きかなとか、それくらいです」

 

「それくらい」

 

「はい。深い分析とかじゃないです。ただ、ヒマリさんが食べるところを少し想像して、これならいいかなって」

 

 ヒマリさんの指が止まった。

 

 ほんの少しだけ、包装の端に力が入る。

 

 エイミさんがそれを見て、静かに言った。

 

「ヒマリ、割れる」

 

「……分かっています」

 

 ヒマリさんはゆっくり焼き菓子を皿に置いた。

 

 割れてはいなかった。

 

 けれど、ヒマリさんの表情は少し変わっていた。

 

「それは、困りますね」

 

「困るんですか?」

 

「ええ。非常に」

 

 ヒマリさんは目を伏せる。

 

「合理的な選択理由なら、私は容易に分類できます。味、保存性、紅茶との相性、摂取効率。そういった項目で整理し、あなたの判断基準を推測できます。しかし、“私が好きそうだから”という理由は、解析するほどに私情が混ざる」

 

 私情。

 

 ヒマリさんがその言葉を使うと、不思議な響きになる。

 

 いつものような仰々しい言い方ではない。すごく静かで、少しだけ慎重な声だった。

 

「あなたが店先で私を思い出した。私がこれを食べるところを想像した。私がどう感じるかを、あなたの時間の中に置いた。……それは、観測対象として扱うには、少々私に都合がよすぎます」

 

 私はすぐには返せなかった。

 

 空調の音が少しだけ聞こえる。

 

 エイミさんがリモコンを見た。

 

「ヒマリ、室温下げていい?」

 

「今ですか?」

 

「暑い。あと、ヒマリも体温が上がってる」

 

「エイミ」

 

「紅茶が冷める前に下げた方がいい」

 

「室温と紅茶を同時に扱わないでください」

 

「でも、どっちも温度」

 

 ヒマリさんは一度だけ目を閉じた。

 

「……一度だけ下げて構いません」

 

「分かった」

 

 エイミさんが空調を操作する。

 

 少しだけ風が変わった。

 

 甘くなりすぎた空気が、ほんの少し現実に戻る。エイミさんはたぶん、本当に暑かっただけだ。でも、その体感の正直さが、今は少しありがたかった。

 

 ヒマリさんは焼き菓子を手に取り、一口食べた。

 

 ゆっくり噛んで、紅茶を飲む。

 

「……おいしいです」

 

 短かった。

 

 でも、ちゃんと聞こえた。

 

 私は思わず顔を上げる。

 

「今、普通に言いましたね」

 

「あなたが、その方が嬉しいと言う前に言っておくべきだと判断しました」

 

「先回りされた」

 

「全知ですので」

 

「でも、ありがとうございます」

 

「いいえ。こちらこそ」

 

 ヒマリさんは皿の上の焼き菓子を見た。

 

「あなたが私のために選んだものは、私にとって非常に価値があります」

 

 また、まっすぐだった。

 

 私は少しだけ言葉を探す。

 

 けれど、その前に、部屋の端末が短く鳴った。

 

 音は小さかった。

 

 でも、ヒマリさんの表情が一瞬で変わった。

 

 柔らかかった目元が、すっと静かになる。車椅子の上で姿勢を直し、端末を引き寄せる動きに迷いがなかった。

 

「エイミ」

 

「確認する」

 

 エイミさんもすぐに機材へ向かった。

 

 さっきまでお菓子を食べていた空気が、一秒で切り替わる。

 

 私は椅子に座ったまま、何が起きたのか分からなかった。

 

「何かありました?」

 

「ミレニアム校内の一部通信ログにループが発生しています。通常の遅延ではありません。意図的な反復か、異常な反射が起きていますね」

 

 ヒマリさんの声が速い。

 

 さっきまでの、私に分かるように言葉を選んでいた話し方ではない。説明というより、思考がそのまま音になっているみたいだった。

 

「エイミ、東棟三階から中央演算室へ流れる経路を遮断。遮断ではなく迂回で構いません。完全停止させると発生源が潜ります」

 

「分かった。遮断しない。迂回」

 

「ログの時刻差は二・七秒。繰り返し幅は固定ではなく、三回目以降に揺らぎがある。模倣ではありませんね。自己増殖でもない。誰かが作ったものというより、既存システムの反応を踏み台にした誤作動に近い」

 

 ヒマリさんの指が端末の上を滑る。

 

 速い。

 

 目で追えない。

 

「レナさん、あなたの端末に通知が来ていませんか」

 

「え、私の?」

 

「確認を」

 

「はい」

 

 慌てて端末を見る。

 

 通知が一件。

 

 差出人不明。

 

『存在しない部屋番号:E-404へ移動してください』

 

 背筋が少し冷えた。

 

「……来てます。存在しない部屋番号、E-404って」

 

「開かないでください」

 

「はい」

 

「エイミ、E棟の欠番リストを確認。E-404は構造上存在しないはずです。該当番号へ誘導される生徒が他にいるかも見てください」

 

「今のところレナだけ」

 

「では誘導先は場所ではなく対象。レナさんに通知を送ったのではなく、レナさんの端末を出口に選んだ可能性があります」

 

 何を言っているのか、半分も分からない。

 

 ただ、私ではどうにもできないことだけは分かった。

 

 通知の画面が、やけに白く見える。

 

 ヒマリさんは一度だけ私を見た。

 

 その目が、さっきとはまったく違う。

 

 でも、怖いわけではなかった。

 

「レナさん、そのまま端末を机に置いてください。触れず、閉じず、電源も切らないで」

 

「分かりました」

 

「怖がる必要はありません。これはあなたを害するものではなく、あなたを経由点にしようとしているだけです」

 

「それ、安心していいのか少し迷います」

 

「迷う必要はありません。私がいます」

 

 短い言葉だった。

 

 私は端末を机に置いた。

 

 ヒマリさんはすでに別の画面を開いている。

 

「三十二秒後に再送が来ます。エイミ、空調制御系のログを一時保存。室温変更をトリガーにして、部屋内端末の応答順を見ます」

 

「室温?」

 

「ええ。先ほどあなたが室温を下げたことで、この部屋の環境ログが更新されました。異常通信がそれを拾っているなら、発生源は校内設備系にも触れている」

 

「分かった。下げる」

 

「下げすぎないように」

 

「ヒマリが寒くなるから?」

 

「レナさんが寒くなります」

 

 こんな時にまで、と思った。

 

 けれどヒマリさんは本気だった。

 

 エイミさんが空調を一段下げる。

 

 ヒマリさんの端末に、文字列が流れた。

 

「捕捉しました」

 

 声が、少しだけ低くなる。

 

「E-404は部屋ではなくエラー番号。誘導文に見せかけたログ折り返しです。発生源は東棟ではなく、この通知を受け取った端末群の同期機構。レナさんの端末が選ばれた理由は、直近で複数部署のネットワークに接続した履歴。ゲーム開発部、エンジニア部、セミナー、特異現象捜査部。なるほど、経路としては魅力的ですね」

 

「魅力的とか言わないでください……」

 

「安心してください。もう終わります」

 

 ヒマリさんは、ひとつキーを押した。

 

 画面の流れが止まった。

 

 私の端末から通知が消える。

 

 部屋の駆動音だけが残った。

 

「終わった……んですか?」

 

「ええ。誘導文を逆に利用し、発生源へ空の応答を返しました。相手が存在しない部屋番号を提示したので、こちらも存在しない経路を返しただけです。数秒後には自己矛盾で沈黙します」

 

 数秒。

 

 本当に数秒だった。

 

 エイミさんが端末を見て言う。

 

「沈黙した」

 

「よろしい」

 

 ヒマリさんは端末を閉じた。

 

 さっきまでの緊張が、嘘みたいに消える。

 

 私は机の上の端末を見て、それからヒマリさんを見た。

 

「……すごい」

 

 それしか出なかった。

 

 ヒマリさんはいつものように微笑もうとして、少しだけ目を細める。

 

「全知ですから」

 

 その言葉は、いつも聞いていたはずだった。

 

 でも、今だけ重さが違った。

 

 ヒマリさんは本当に、見えているものが違う。

 

 私が通知一つで固まっている間に、ヒマリさんは異常の経路を見て、原因を読んで、エイミさんに指示を出して、解決まで持っていった。

 

 あまりに速くて、説明を聞いている余裕もなかった。

 

 そこで、やっと気づいた。

 

 ヒマリさんは、いつも私に合わせてくれていた。

 

 段差を名言にしてくれた時も、封筒の暗号を分かりやすくしてくれた時も、お菓子をゆっくり分析してくれた時も。

 

 ヒマリさんの頭は、たぶんずっと先まで行ける。

 

 それなのに、私が言葉を返せる場所まで、歩幅を落としてくれていた。

 

 車椅子を押していたのは私だったはずなのに。

 

 会話の速度を押してくれていたのは、ヒマリさんの方だった。

 

「……ヒマリさん」

 

「はい」

 

「今まで、私に合わせて話してくれてたんですね」

 

 ヒマリさんは、すぐには答えなかった。

 

 エイミさんが空調を元の温度へ戻す。

 

 部屋の空気が少しだけ暖かくなる。

 

「あなたと話したかったので」

 

 ヒマリさんは静かに言った。

 

「私が本来の速度で話し続ければ、あなたはおそらく理解しようとしてくれるでしょう。ですが、それは会話ではなく、あなたが私を追いかける時間になります。私はそれを望みません」

 

 私は何も言えなかった。

 

「あなたには、私の隣にいてほしい。私の言葉に置いていかれるのではなく、私の言葉へ返してほしい。時に圧縮し、時に失礼なくらい普通に返し、時に私の予測を乱してほしい」

 

 ヒマリさんは机の上の焼き菓子を見る。

 

「あなたが私のために選んだお菓子も、あなたが店先で私を思い出す時間も、ここへ来るまでに少し迷うことも。私は、それを欲しいと思っています」

 

 欲しい。

 

 ヒマリさんがそう言った。

 

 観測したいではなく。

 

 検証したいではなく。

 

 欲しい、と。

 

 私は指先を軽く握った。

 

「……困ります」

 

 やっと出た声は、小さかった。

 

 ヒマリさんは私を見る。

 

「困りますか」

 

「はい。そんなふうに言われたら、次にお菓子を選ぶ時、絶対ヒマリさんのこと考えます」

 

「それが目的です」

 

「言い切るんですね」

 

「ええ」

 

 ヒマリさんは微笑んだ。

 

 優雅で、静かで、逃げ道を作っているようで、作っていない笑みだった。

 

「レナさん。私は、あなたの中に私のための時間が欲しいのです。長くなくても構いません。店先で迷う数分でも、紅茶を見て思い出す一瞬でも、帰り道に次は何がいいかと考えるだけでもいい」

 

 ヒマリさんの声は穏やかだった。

 

「あなたが私を思い出して何かを選ぶ。その事実が、私はとても欲しい」

 

 部屋が静かだった。

 

 エイミさんも、何も言わなかった。

 

 私はすぐには返せなかった。

 

 紅茶の香りが少しだけ残っている。机の上には、欠けていない焼き菓子が一つ。空調は少し暖かい。私の端末は、もう何も通知していない。

 

 さっきまでどうにもできなかったことを、ヒマリさんは一瞬で片づけた。

 

 その人が今、私の返事を待っている。

 

 速さを落として。

 

 私が追いつける場所で。

 

「……次も、選んできます」

 

 私は言った。

 

「ちゃんとヒマリさんのこと考えて、選んできます。だから、食べる前に全部分析しないで、まず一口食べてください」

 

 ヒマリさんは少しだけ目を丸くした。

 

 それから、ふふ、と笑う。

 

「条件付きですか」

 

「はい。選ぶ側からの条件です」

 

「よろしい。では、私からも条件を」

 

「まだあるんですか」

 

「ええ。あなたは、選んだ理由を一つだけ教えてください。長くなくて構いません。“好きそうだったから”でも、“紅茶に合いそうだったから”でも、“見た瞬間に思い出したから”でも」

 

 ヒマリさんは少しだけ声を落とす。

 

「私は、それを聞きたい」

 

 私は頷いた。

 

「分かりました」

 

 ヒマリさんは満足そうに目を伏せた。

 

 その時、エイミさんが机の上の焼き菓子を見て言った。

 

「最後の一つ、誰が食べる?」

 

 空気が、少しだけ戻った。

 

 私は思わず笑いそうになる。

 

 ヒマリさんは小さく息を吐いた。

 

「エイミ。今その議題を出しますか」

 

「湿気る前に決めた方がいい」

 

「現実的ですね」

 

「ヒマリが半分。レナが半分」

 

「私もですか?」

 

「レナが選んだ。最後も食べた方がいい」

 

 エイミさんはそう言って、焼き菓子を綺麗に半分に割った。

 

 片方をヒマリさんへ。

 

 片方を私へ。

 

 ヒマリさんは、それを受け取って少しだけ笑った。

 

「では、共同観測ということで」

 

「お茶会じゃないんですか?」

 

「……仮称としては、それでも構いません」

 

「まだ仮なんですね」

 

「正式名称は検討中です」

 

 私は半分の焼き菓子を食べた。

 

 さっきより少しだけ甘く感じた。

 

     ◇

 

 帰る頃には、紙袋は空になっていた。

 

 ヒマリさんは異常通信のログを保存し、エイミさんは空調を少し下げた。ヒマリさんは寒そうにしたけれど、エイミさんが「レナが帰るから戻していい?」と聞くと、少し考えてから頷いた。

 

 扉の前で、私は鞄を肩にかけ直す。

 

「じゃあ、そろそろ戻ります」

 

「ええ。今日は有意義でした」

 

「事件まで起きましたけど」

 

「些細な異常です」

 

「私には全然些細じゃなかったです」

 

「だから、私がいます」

 

 ヒマリさんは当然のように言った。

 

 私は少しだけ黙って、それから頷く。

 

「……はい。助かりました」

 

「どういたしまして」

 

 ヒマリさんは柔らかく微笑む。

 

「次は、普通に呼びます」

 

「本当ですか?」

 

「努力します」

 

「そこは言い切らないんですね」

 

「一枚だけ封筒を用意する可能性があります」

 

「一枚ならいいです」

 

「許可を得ました」

 

「今のは許可なんですね」

 

「ええ。重要な許可です」

 

 いつもの調子だった。

 

 けれど、さっきまでとは少し違う。

 

 私はもう、ヒマリさんがどれだけ速く考えられるのかを少しだけ知っている。そのうえで、今このゆっくりした会話をしてくれているのだと分かっている。

 

 そう思うと、同じ言葉が少し違って聞こえた。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「次に何かを選ぶ時、私を思い出してください」

 

「はい」

 

「そして、来てください」

 

 短かった。

 

 でも、十分だった。

 

「来ます」

 

 私は答えた。

 

 ヒマリさんは満足そうに目を細める。

 

 エイミさんが横から言う。

 

「私の分も」

 

「持ってきます」

 

「ありがとう。室温は下げすぎないようにする」

 

「お願いします」

 

「ヒマリが上げすぎたら止める」

 

「エイミ。私はそこまで極端ではありません」

 

「今日は上げすぎてた」

 

「来客への配慮です」

 

「次はお菓子への配慮もいる」

 

「お菓子は寒暖差に弱いものもありますからね」

 

「じゃあ、部屋の温度はレナとお菓子とヒマリで決める」

 

「私の部室の主導権がどんどん分散していきますね」

 

 ヒマリさんはそう言ったけれど、嫌そうではなかった。

 

 私は笑って、一礼する。

 

「また来ますね、ヒマリさん。エイミさん」

 

「ええ。待っています」

 

「待ってる」

 

 扉を閉める直前、ヒマリさんの声が聞こえた。

 

「エイミ」

 

「なに」

 

「次の紅茶を選びます」

 

「レナ用?」

 

「……ええ」

 

「分かった。お菓子に合う温度も考える」

 

「お願いします」

 

 扉が閉まる。

 

 私は廊下で少しだけ立ち止まった。

 

 鞄の中には、空になった紙袋。

 

 次は何を選ぼうか。

 

 そう考えた瞬間、もうヒマリさんの顔が浮かんでいた。

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