戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

76 / 82
10話 消えないログの夜

 

 

 ヴェリタスの部室へ向かう途中、私は端末の通知履歴を何度も見返していた。

 

 何も残っていない。

 

 通知は消えている。

 差出人不明のメッセージも、存在しない部屋番号も、もう画面のどこにもない。

 

 それなのに、消えたはずのものが、まだ端末の裏側に薄く貼りついているような感じがした。

 

 気のせいだと言えば、それまでだ。私はシステムにも通信にも詳しくない。画面に表示されるものならまだしも、その奥のログとか経路とか、そういうものはほとんど分からない。

 

 でも、分からないからこそ、少し気になる。

 

 あの時、私の端末は勝手に通知を受け取った。

 

 ヒマリさんがすぐに処理してくれた。何が起きたのか、私は半分も追いつけなかった。けれど、あの人が「もう終わります」と言ったあと、本当に通知は消えた。

 

 なら、終わったのだと思う。

 

 そう思っていた。

 

 ヴェリタスから呼び出しが来るまでは。

 

『少し見たいログがある。

 君の端末を持って、ヴェリタスまで来て。

 急ぎではないけど、放置すると面倒かも。

 ――チヒロ』

 

 文章は短かった。

 

 ヒマリさんみたいに遠回りではない。

 エンジニア部みたいに危険の匂いもしない。

 

 ただ、「放置すると面倒かも」という一文が、妙に怖かった。

 

 ミレニアムで「面倒」は、たぶん本当に面倒なのだ。

 

 私はヴェリタスの部室前で足を止め、軽く息を整えた。

 

 扉の向こうからは、かすかなキーボード音と、誰かの笑い声、それから低い電子音が聞こえる。

 

 賑やかというほどではない。

 でも、静かでもない。

 

 この部屋もまた、外から見ただけではよく分からない場所なのだと思った。

 

「失礼します」

 

 扉を開けると、最初に見えたのは、壁一面のモニターだった。

 

 画面。

 ログ。

 コード。

 色分けされた線。

 どこかの通信経路らしい図。

 

 机の上には空き缶とケーブルが混ざっていて、椅子の背にはパーカーが引っかかっている。部屋の隅には謎の機材が積まれ、その横でマキさんがスプレー缶みたいなものを振っていた。

 

 ハレさんはソファに沈んでいる。

 

 いや、座っているというより、沈んでいる。片手に端末、もう片方の手にエナジードリンク。目は半分閉じているのに、画面のログだけはちゃんと追っているようだった。

 

 コタマさんはヘッドホンをつけ、モニターの前で音声波形のようなものを見ている。こちらに気づいたのか、ヘッドホンを片耳だけずらした。

 

 そしてチヒロさんが、部屋の中央の端末から顔を上げた。

 

「来たね、レナさん」

 

「はい。えっと……私の端末、持ってきました」

 

「助かる。そこに座って。別に怖いことするわけじゃないから」

 

「その言い方、少し怖いです」

 

「怖いことする時は、もう少し真面目に言うよ」

 

「それはそれで怖いですね……」

 

 チヒロさんは少しだけ笑った。

 

 落ち着いた笑い方だった。

 他の三人が散らばっている分、この人が部屋の重心みたいに見える。

 

「レナっち、いらっしゃーい!」

 

 マキさんが椅子ごとくるりと回って、明るく手を振った。

 

「レナっち?」

 

「うん、レナっち。ダメ?」

 

「ダメではないですけど、急に距離が近い呼び方ですね」

 

「ログ見てたらもうちょっと知り合いみたいな気分になってさー」

 

「それ、どういう意味ですか?」

 

「言い方」

 

 チヒロさんがすぐに口を挟む。

 

「マキ、本人の前でそういう言い方すると不審者っぽい」

 

「えー、でもログって足跡じゃん? 足跡見てると、その人の歩き方ちょっと分かるっていうか」

 

「それも十分不審者寄りだよ」

 

「違うって! そういうのじゃなくて、色の話!」

 

「色?」

 

 私が聞き返すと、マキさんはモニターを指差した。

 

 そこには、複数の線が重なった図が表示されていた。青、黄色、赤、緑。ネットワーク経路らしいけれど、私にはほとんど分からない。

 

「このへんがゲーム開発部、こっちがセミナー、こっちがエンジニア部で、こっちが特異現象捜査部。レナっち、最近いろんなところに顔出してるから、ログの色がちょっと混ざってるんだよね」

 

「私、そんなつもりは……」

 

「普通に歩いてるだけでも、端末はけっこう喋るんだよ」

 

 ハレさんがソファの上で、だるそうに言った。

 

 声は眠そうなのに、言葉だけはやけにはっきりしている。

 

「どこに繋いだか、どの認証を通ったか、誰の端末と近くにいたか。全部じゃないけど、跡は残る。君の場合、その跡の残り方がちょっと騒がしい」

 

「騒がしい……」

 

「別に悪口じゃないよ。ログが静かな人もいるし、うるさい人もいる。君は後者。しかも、君自身がうるさいっていうより、周りのログが君に寄ってきてる感じ」

 

「えっと……それは、良いことですか?」

 

「面倒なこと」

 

 ハレさんは即答した。

 

 チヒロさんが肩をすくめる。

 

「まあ、ハレの言い方はこうだけど、要するに最近のレナさんの接続履歴を使って、誰かが経路をなぞろうとした可能性があるってこと」

 

「私の接続履歴を?」

 

「うん。ゲーム開発部、エンジニア部、セミナー、特異現象捜査部。普通の生徒ならあまり短期間で行き来しない場所に、レナさんは自然に入ってる。それ自体は悪くない。でも、それを外から見ると、けっこう便利な線に見える」

 

 便利な線。

 

 その言い方に、少しだけ背中が冷えた。

 

 私はただ、人に会いに行っていただけだ。

 呼ばれて、話して、手伝って、笑って、時々巻き込まれて。

 

 その全部が、画面の向こうでは線になる。

 

 誰かに辿られる線に。

 

「……それって、危ないんですか?」

 

「危ないかどうかを見るために呼んだ」

 

 チヒロさんは私の前に椅子を引いた。

 

「端末、預かってもいい?」

 

「はい。お願いします」

 

 私は端末を差し出した。

 

 チヒロさんは受け取る前に、一度だけ私を見た。

 

「中身を勝手に見ることはしない。見るのは通信ログと、異常通知が通った痕跡だけ。必要なところだけ確認する」

 

「……ありがとうございます」

 

「そこは大事だからね」

 

 そう言って、チヒロさんは端末を受け取った。

 

 その手つきは丁寧だった。

 

 ただ機械を扱っているというより、人の持ち物を預かる手つきだった。

 

 私は少しだけ安心して、椅子に座った。

 

     ◇

 

 調査は、思ったより静かに始まった。

 

 キーボードを叩く音。

 マキさんがモニターへ色を重ねる音。

 ハレさんが缶を開ける音。

 コタマさんのヘッドホンから漏れる、かすかなノイズ。

 

 チヒロさんがメインの端末に私の端末を接続すると、複数の画面が一斉に更新された。

 

「ハレ、直近の認証ログを見て」

 

「見てる。うーん……やっぱり変な跳ね方してる。普通は一回で済むところを、二回確認しに行ってるね。誰かが後ろから“本当にそこ通った?”って聞き直したみたいな感じ」

 

「マキ、視覚化できる?」

 

「できるよー。ちょっと待って、今色分けする。正常なアクセスを青、異常な確認を赤、よく分かんないけど気持ち悪いやつを紫にするね」

 

「気持ち悪いやつって分類名、あとで直して」

 

「仮名だよ仮名。こういうのは最初の感覚も大事なんだって」

 

 マキさんの指が動くたび、画面の線に色が乗っていく。

 

 青い線はまっすぐだった。赤い線はところどころで折り返している。紫の線は、細くて、薄くて、でも確かに青と赤の間に混ざっていた。

 

 私は画面を見ても、やっぱりほとんど分からない。

 

 けれど、気持ち悪い、というマキさんの言葉だけは少し分かった。

 

 線の形が、こちらを見ているみたいだった。

 

「コタマ、音は?」

 

 チヒロさんが聞くと、コタマさんがヘッドホンを少し押さえた。

 

「通信そのものに音があるわけではありませんが、変換すると妙な空白があります」

 

「空白?」

 

「はい。通常のログなら、接続、応答、確認、切断の間には一定のリズムがあります。ですがここだけ、応答の直前に不自然な無音が挟まっています。音がないのではなく、音を出す前に誰かが息を止めたような間です」

 

 コタマさんの声は静かだった。

 

 でも、妙に耳に残る。

 

「喋った痕跡ではありません。喋らせないようにした痕跡です」

 

 部屋の中の空気が、少し変わった。

 

 ハレさんがソファから少しだけ身体を起こす。

 

「それ、ログの欠落じゃなくて?」

 

「欠落ならもっと雑です。これは、残さないように整えた結果、整いすぎて聞こえる沈黙です」

 

「……へえ」

 

 ハレさんの目が少し開いた。

 

「面倒なやつだ」

 

「ハレが起きた」

 

 マキさんが言う。

 

「起きてない。面倒だから目が開いただけ」

 

「それ起きてるって言わない?」

 

「言わない」

 

 チヒロさんが画面を見ながら、少し低い声で言った。

 

「遊びじゃないね」

 

「はい」

 

 コタマさんが頷く。

 

「これは、通った場所を確認するためのアクセスではありません。どこまで残っているか、どこを消せるか、試しているように聞こえます」

 

 試している。

 

 その言葉が、胸のあたりに引っかかった。

 

 私は思わず、自分の端末を見る。

 

 そこには画面の上で、私の知らない線が何本も伸びている。私が歩いた場所。私が会った人。私が通った接続。

 

 それを、誰かが触ったのかもしれない。

 

「……私、何かしたんでしょうか」

 

 口に出してから、少し後悔した。

 

 何かしたのか、と聞かれても、ここにいる人たちが困るだけだ。

 

 でも、チヒロさんはすぐに首を振った。

 

「レナさんが悪いわけじゃないよ。むしろ逆。いろんな場所にちゃんと受け入れられてるから、線ができた。その線を勝手に使おうとしたやつがいる。それだけ」

 

「……はい」

 

「それと、これはまだ“攻撃”とは言い切れない。覗き見、下見、経路確認。その辺りに近い。だから今のうちに潰す」

 

 チヒロさんの声は落ち着いていた。

 

 怖がらせないように言っているのではなく、事実としてそう判断している声だった。

 

 マキさんが椅子を寄せ、モニターの紫の線を拡大する。

 

「この線、消しちゃうの?」

 

「危険なら消す」

 

「うーん……分かってるけど、ちょっともったいないな」

 

「もったいない?」

 

 私が聞くと、マキさんは少しだけ困ったように笑った。

 

「いや、変な意味じゃないよ。レナっちのログってさ、色がきれいなんだよね。いろんなところ通ってるのに、ぐちゃぐちゃじゃなくて、ちゃんと人のところで止まってる感じがする。ゲーム開発部なら部室で濃くなって、エンジニア部なら作業場で跳ねて、セミナーなら書類のところで曲がって、特異現象捜査部なら……ちょっと迷路っぽいけど」

 

「迷路」

 

「でも、そこに変な紫が混ざると、急に落書きされてるみたいになる。だから消したい。でも、きれいな線まで消えるのはちょっと嫌」

 

 マキさんは画面を見たまま言った。

 

 明るい声なのに、目は真剣だった。

 

「私は、残すならちゃんと残したいんだよ。誰かが勝手に汚した跡じゃなくて、レナっちが歩いた色として」

 

 私は何も言えなかった。

 

 ログの色なんて、私には見えない。

 けれど、マキさんには見えている。

 

 私が何気なく歩いた場所が、誰かには線に見えていて、色に見えていて、それを消すのが少しもったいないと思われている。

 

 それは少し不思議で、少し照れくさかった。

 

「マキ」

 

 チヒロさんが静かに言う。

 

「気持ちは分かる。でも、残す形は選ばないといけない」

 

「うん。分かってる」

 

「そのまま残したら、辿れる」

 

「だから、絵にするなら下描きだけ残して線は変える、みたいなやつだよね」

 

「たとえは合ってる」

 

「やった」

 

 マキさんが少しだけ笑う。

 

 ハレさんが端末を見ながら言った。

 

「なら、危ない経路だけ切って、正常ログは要約にする。詳細は残さない。必要な特徴だけローカルに隔離。外からは見えない場所に置く」

 

「ハレ、それでいける?」

 

「いけるけど、めんどい」

 

「めんどいのは知ってる」

 

「じゃあ聞かないでよ」

 

「やってくれるでしょ」

 

「まあね。もう見ちゃったし」

 

 ハレさんはそう言って、だるそうにキーボードへ手を伸ばした。

 

 だるそうなのに、指は速かった。

 

 部屋の空気が動き出す。

 

 チヒロさんが全体を見る。

 ハレさんが経路を切る。

 マキさんが色を分ける。

 コタマさんが無音の部分を拾う。

 

 同じ画面を見ているはずなのに、それぞれ見ているものが違う。

 

 私は、ただ座っているだけだった。

 

 何もできない。

 

 でも、何もできないことが悔しいというより、今はただ圧倒されていた。

 

 ここにいる人たちは、画面の向こう側を歩ける人たちなんだ。

 

 私が触れない場所に手を伸ばして、私には見えない線を掴んで、私には聞こえない沈黙を聞いている。

 

「レナさん」

 

 チヒロさんが私を呼んだ。

 

「はい」

 

「端末、一回だけ認証してもらえる? こっちで勝手に通したくない」

 

「分かりました」

 

 私は端末を受け取り、認証する。

 

 画面に自分の指を置く瞬間、少しだけ緊張した。

 

 私の端末なのに、今は少しだけ知らないものみたいに見える。

 

 認証が通る。

 

 チヒロさんはそれを確認して、すぐに端末を戻した。

 

「ありがとう。これで危ない部分は切れる」

 

「……消すんですか?」

 

「消す」

 

 チヒロさんは迷わなかった。

 

「必要な情報は、こっちで要約して残す。何が起きたか、どこが危なかったか、次に見つけるための特徴。それだけ。レナさんの動線をそのまま辿れる形では残さない」

 

「でも、残しておいた方が、あとで役に立つこともあるんじゃ……」

 

「あるよ」

 

 チヒロさんは言った。

 

「でも、残しちゃいけないものもある」

 

 その声が、少しだけ深くなった。

 

「ログは便利だけど、何でも残せばいいわけじゃない。誰がどこへ行ったか、誰と会ったか、何に触れたか。そういうものは、後から見れば情報になる。悪用する人間が見れば、道具になる」

 

 チヒロさんは画面を見た。

 

「これは、残すべきログじゃない」

 

 私はすぐには返事ができなかった。

 

 残すべきではないもの。

 

 その言葉が、妙に胸の奥で沈んだ。

 

 理由は、まだ分からない。

 

 ただ、チヒロさんの横顔が真剣で、これはただの技術判断だけではないのだと分かった。

 

「……お願いします」

 

 私が言うと、チヒロさんは頷いた。

 

「任せて」

 

 キーボードの音が少し速くなる。

 

 ハレさんが細い声で「切るよ」と言う。

 

 マキさんが「紫、剥がすね」と言う。

 

 コタマさんが「無音、閉じます」と言う。

 

 チヒロさんが最後に一つだけキーを押した。

 

 画面上の紫の線が、細くなって、途切れて、消える。

 

 完全に何もなかったようには見えなかった。

 

 青い線も、赤い警告も、整理された小さな記録として残っている。

 

 でも、私の歩いた場所をそのまま辿れる道は、もう消えていた。

 

「終わり」

 

 チヒロさんが言った。

 

 部屋の空気が少しだけ緩む。

 

 ハレさんはソファに沈み直し、マキさんは背伸びをして、コタマさんはヘッドホンを外した。

 

 私は端末を返してもらい、画面を見る。

 

 何も変わっていない。

 

 ただの端末だ。

 

 でも、その裏側で何かが消されて、守られたことは分かった。

 

「ありがとうございます」

 

 私は頭を下げた。

 

 チヒロさんは少し困ったように笑う。

 

「そこまで大げさじゃないよ。こっちとしても、変なログを放っておきたくなかったし」

 

「でも、助かりました。私だけじゃ、何も分からなかったので」

 

「分からないものは、分かる人に見せればいい。変に一人で抱えないこと」

 

「はい」

 

「それと」

 

 チヒロさんは少しだけ私を見た。

 

「何か変な通知が来たら、開く前に誰かに見せて。先生でも、セミナーでも、うちでもいい。好奇心で開くのはだめ」

 

「開きません」

 

「ほんとに?」

 

「……たぶん」

 

「たぶんは不安だな」

 

 チヒロさんが苦笑する。

 

 マキさんが横から身を乗り出した。

 

「じゃあ、レナっちが変な通知来たら、うちにスクショ送るってことで!」

 

「スクショでいいんですか?」

 

「本文開かずに通知だけね。あと、変な色してたらすぐ分かるかも」

 

「通知の色?」

 

「マキの感覚はたまに説明が難しいから、そこは気にしなくていい」

 

 チヒロさんが言う。

 

 マキさんが少し不満そうにする。

 

「えー、色って大事だよ。レナっちのログ、ほんとに面白い色してるのに」

 

「面白いって言われても、私には見えないので……」

 

「今度、見えるようにしてあげる! 危なくない範囲で。ちゃんとチヒロが怒らないやつ」

 

「最初から怒られないやつにして」

 

「はーい」

 

 ハレさんが缶を持ち上げながら言った。

 

「君、変な惹きつけ方するよね」

 

「私ですか?」

 

「うん。自分で動き回ってるっていうより、あちこちの人が君を中継点にしてる。君が中心っていうより、君の周りに勝手に線が集まってる感じ。見てる分には面白いけど、管理する側からすると眠気が増す」

 

「すみません……?」

 

「謝るところじゃないよ。たぶん。まあ、面倒が増えたらチヒロが起きるし、マキが色つけるし、コタマが聞くから、私は寝る」

 

「ハレ、寝る前に隔離ログの確認」

 

「……はいはい」

 

 ハレさんは嫌そうに返事をしながら、ちゃんと端末を開いた。

 

 コタマさんが、外したヘッドホンを机に置く。

 

「レナさんのログは、沈黙まで少し賑やかでした」

 

「沈黙が賑やかって、どういうことですか?」

 

「言葉がない部分にも、誰かが待った痕跡があります。接続が切れる直前、すぐに閉じずに少し残る。誰かの返事を待つ時の間に似ています」

 

 コタマさんは静かに言った。

 

「今回の異常は、その間を利用しようとしていました。ですから、少し嫌でした」

 

「嫌……」

 

「はい。沈黙は、何でも置いていい場所ではありません」

 

 その言葉に、私は少しだけ息を止めた。

 

 コタマさんは淡々としている。けれど、その声には不思議な確かさがあった。

 

 沈黙。

 

 何もないところ。

 

 何も残っていないように見える場所。

 

 そこにも、コタマさんには何かが聞こえている。

 

「……ありがとうございます、コタマさん」

 

「いえ」

 

 コタマさんは少しだけ目を伏せた。

 

「次は、変な沈黙があれば先に拾います」

 

「次がない方がいいですけど」

 

「それは、そうですね」

 

 小さく笑う。

 

 ようやく、部屋の空気が少し軽くなった。

 

     ◇

 

 調査が終わったあとも、私は少しだけヴェリタスの部室に残った。

 

 帰るタイミングを逃した、というのもある。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 さっきまで私の端末の裏側を見ていた人たちが、今はそれぞれ別のことをしている。ハレさんは半分寝ながら確認作業をしているし、マキさんはログの色を別画面で整えている。コタマさんはヘッドホンを戻して、また何かを聞いている。チヒロさんは私の端末に残った不要な接続設定を確認してくれている。

 

 みんな自由に見える。

 

 でも、勝手ではない。

 

 誰かが危ないところに触れた時、ちゃんと全員が同じ方向を向く。

 

「レナさん」

 

 チヒロさんが端末を返してくれた。

 

「これで大丈夫。念のため、しばらくは変な通知に気をつけて」

 

「はい。本当にありがとうございました」

 

「気にしないで。……って言っても、気にするか」

 

「少しは」

 

「じゃあ、少しだけ気にして。気にしすぎると、今度は普通の通知まで怖くなるから」

 

「分かりました」

 

「あと、うちに来る時は連絡してくれればいいよ。いきなり来ても誰かはいるけど、ハレが寝てる可能性が高い」

 

「それ、連絡しても寝てるんじゃないですか?」

 

「まあね」

 

 ハレさんがソファから片手だけ上げた。

 

「寝てても起きるよ。たぶん。面白そうなら」

 

「面白くない普通の用事だったら?」

 

「チヒロに任せる」

 

「堂々としてるなぁ……」

 

 マキさんが笑いながら、私の方へ振り返る。

 

「レナっち、今度は怖くないやつで呼ぶね。ログの色、ちゃんと見せたいし。あ、もちろん危なくないようにしてから!」

 

「それなら……見てみたいです」

 

「ほんと? やった。じゃあ今度、レナっち用に分かりやすくする。ゲームっぽくした方が見やすいかな。線が伸びて、ポイントで光って、危ないところは紫じゃなくてドクロとか」

 

「ドクロは怖いです」

 

「じゃあ黒い星」

 

「それも少し怖いです」

 

「注文が多いなー」

 

「安全表示なので、怖すぎない方がいいと思います」

 

 マキさんは楽しそうに笑った。

 

 コタマさんが小さく言う。

 

「音もつけられます」

 

「音?」

 

「安全な接続は低い音。危ない接続は高い音。沈黙は……沈黙のままで」

 

「それ、私に分かりますか?」

 

「分かるようにします」

 

 コタマさんは、少しだけこちらを見た。

 

「レナさんが怖くならない範囲で」

 

 その言い方が静かで、私は小さく頷いた。

 

「お願いします」

 

 チヒロさんがまとめるように言った。

 

「じゃあ、その辺は安全な教材として作ろうか。レナさんに見せるためっていう名目なら、危険ログの扱い方の確認にもなるし」

 

「チヒロさん、結局仕事にするんですね」

 

「仕事じゃないと、ハレが寝るから」

 

「寝るよ」

 

「ほら」

 

 部屋に笑いが落ちた。

 

 私は端末を鞄にしまう。

 

 さっきまで少し怖かった端末が、今は少しだけ軽く感じた。

 

 何かが消えたからかもしれない。

 あるいは、何かあったら見てくれる人たちがいると分かったからかもしれない。

 

 扉の前まで行くと、マキさんがもう一度声をかけてきた。

 

「レナっち」

 

「はい」

 

「さっきの線、危ないとこは消したけど、全部なくしたわけじゃないからね」

 

「え?」

 

「レナっちがちゃんと歩いたところは、ちゃんと残ってる。誰かに辿られない形にしただけ」

 

 マキさんは少しだけ笑った。

 

「だから、安心してまた変なところ歩いていいよ」

 

「変なところ前提なんですね」

 

「だってレナっち、普通に歩いても変なところに着きそうだし」

 

「否定しきれないのが嫌ですね……」

 

 ハレさんが眠そうに言う。

 

「まあ、次に変なところ着いたら、ログだけ投げて。起きてたら見る」

 

「寝てたら?」

 

「チヒロが見る」

 

「ハレ」

 

「冗談だって。半分くらい」

 

 チヒロさんがため息をつく。

 

 コタマさんはヘッドホンを直しながら、小さく付け加えた。

 

「変な音がしたら、私も聞きます」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 私は一礼した。

 

「また来ます。今度は、変な通知なしで」

 

「それが一番だね」

 

 チヒロさんが笑う。

 

 私は部屋を出た。

 

 扉が閉まる直前、マキさんの声が聞こえた。

 

「でも、レナっちのログ色、やっぱちょっと残したいなー」

 

「マキ、危なくない形ならね」

 

「分かってるって!」

 

「コタマ、変な通信が戻ったら教えて」

 

「はい」

 

「ハレ、寝ない」

 

「まだ寝てない」

 

「目、閉じてる」

 

「考えてるだけ」

 

「それ寝る前のやつ」

 

 賑やかな声が、扉の向こうに残る。

 

 私は廊下で少しだけ立ち止まった。

 

 画面の向こう側を歩ける人たち。

 

 色で見る人。

 音のない場所を聞く人。

 面倒くさそうにしながら線を切る人。

 残すべきものと消すべきものを選ぶ人。

 

 ヴェリタス。

 

 情報の中で、私の知らない私の跡を見つけて、守ってくれた人たち。

 

 私は端末を軽く握り直して、歩き出した。

 

 通知は鳴らない。

 

 画面は静かだった。

 

 でもその静けさの奥に、さっき閉じてもらった沈黙がある気がした。

 

 もう、誰かに勝手に使われる場所ではない。

 

 少なくとも今は。

 

 そう思うと、少しだけ息がしやすかった。




もうしよかったらコメントを評価の方お願いいたします。
 また評価で低評価をつけるのは構わないのですが、できればその理由を教えていただけると今後の改善につなげますのでよろしくお願いします。
もちろん高評価くれると、嬉しいしやる気が出ますです!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。