戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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14話 聞こえるまで叫べ

 

 

 屋上の扉を開けた瞬間、風がぶつかった。

 

 思っていたより強い。

 

 髪が頬に貼りついて、私は思わず片手で押さえた。ミレニアムの夜景は明るい。地上の光が星みたいに散っていて、遠くの校舎にはまだいくつも窓明かりが残っている。けれど、足元から吹き上げてくる風のせいで、その光は綺麗というより、少しだけ遠く感じた。

 

 C&Cの任務は、まだ終わっていなかった。

 

 下の階ではアカネさんが退避経路を整え、カリンさんが別棟側の射線を押さえている。アスナさんは回り込んだ相手を追っているらしい。私は安全な場所で待機しているはずだったけれど、通信端末に一時的な不具合が出て、屋上側の中継機を確認しに来たC&Cの補助員と一緒に上がることになった。

 

 それ自体は危険なことではない、と聞いていた。

 

 屋上にはネルさんがいる。

 

 そう言われた時、少しだけ安心したのも事実だった。

 

 けれど、扉の向こうに出た私は、すぐにその安心が少し甘かったことを知った。

 

 屋上の中央より少し先、空調設備と給水タンクの間で、ネルさんが戦っていた。

 

 小柄な身体が、風の中を跳ねる。

 

 いや、跳ねるというより、飛ぶ。空調設備の縁に片足をかけ、そこから斜めに蹴り出して、敵の小型ドローンを一機叩き落とす。床に着地したと思った瞬間にはもう身体が低く沈んでいて、次の攻撃を紙一重でかわしていた。

 

 屋上の端が近い。

 

 フェンスも、段差も、滑りそうな金属板も、壊れた機材の残骸もある。私の目には、全部が危ないものに見えた。なのにネルさんは、その危ないものの間を当たり前みたいに走る。

 

 足元を見ていないようで、全部見ている。

 

 風に煽られているようで、風の向きまで使っている。

 

 屋上が危険な場所ではなく、ネルさんの足場になっている。

 

「ネルさん……!」

 

 声を出した瞬間、ネルさんの視線が一瞬だけこちらへ走った。

 

「そこにいろ!」

 

 怒鳴られた。

 

 でも、怒っているというより指示だった。

 

「動くな! 下がってろ!」

 

「は、はい!」

 

 私は扉の近くで止まった。

 

 止まったつもりだった。

 

 ネルさんはもう私を見ていない。見ていないのに、私がいる場所まで分かっているようだった。飛び込んできたドローンの一機を蹴り飛ばし、銃口を向けるより早く距離を詰める。敵が屋上の縁へ逃げる。ネルさんが追う。

 

 危ない。

 

 そう思った。

 

 ネルさんの背後に、もう一機いた。

 

 壊れかけのドローン。羽根が片方欠けていて、軌道がふらついている。けれど、そのせいで逆に読みづらい。ネルさんが前の敵へ踏み込んだ瞬間、背後から低く滑るように寄っていく。

 

 ネルさんは、気づいていないように見えた。

 

 いや、今考えれば、気づいていたのだと思う。

 

 ネルさんは屋上での戦いに慣れている。敵が後ろへ回ることも、風で軌道がずれることも、足場がどこで滑るかも、たぶん全部分かっていた。

 

 でも、その時の私には見えなかった。

 

 ネルさんが危ない。

 

 それだけが先に来た。

 

「ネルさん、後ろ!」

 

 叫んだ。

 

 ネルさんの口が動いた。

 

 たぶん、動くな、と言った。

 

 でも、その声が届く前に、私は一歩踏み出していた。

 

 落ちていた破損パネルが足元にあった。薄い金属片。ドローンの軌道に少し引っかかる位置。これを蹴れば、軌道が逸れるかもしれない。ほんの少しでもネルさんの方へ行くのを遅らせられるかもしれない。

 

 そう思った。

 

 思ってしまった。

 

 足が出た。

 

 蹴る。

 

 金属片が跳ねる。

 

 ドローンの軌道がわずかに揺れる。

 

 その瞬間、靴底の下で床が逃げた。

 

 かん、と硬い音がした。

 

 何かを踏んだ、と思った。

 

 その次にはもう、床がなかった。

 

 違う。

 

 床はある。

 

 屋上はある。灰色の床も、白い空調設備も、フェンスも、ネルさんの背中も、全部視界の中にある。

 

 なのに、私の足だけがそこに乗っていない。

 

 膝が勝手に折れた。身体が横へ流れる。蹴った勢いが戻ってこない。踏み込んだ力が、どこにも返ってこない。手が出る。掴むものを探して、指が開く。

 

 指先に触れたのは風だった。

 

 風が硬い。

 

 一瞬、そんな変なことを思った。

 

 すぐに消えた。

 

 視界が傾く。フェンスが上へ逃げる。いや、私が下へ行っている。分からない。分かりたくない。胃が持ち上がって、喉が塞がる。息を吸おうとしても、胸の奥が固まって、空気が入らない。

 

 街の明かりが見えた。

 

 遠い。

 

 遠すぎる。

 

 下を見たくないのに、目が勝手に拾ってしまう。光の粒。道路。小さすぎる影。そこまでの距離を、頭が数えようとして、途中で拒んだ。

 

 違う。

 

 まだ違う。

 

 まだ戻れる。

 

 まだ手が届く。

 

 まだ、ネルさんが。

 

 届かない。

 

 落ちてる。

 

 その言葉を、頭が嫌がった。

 

 違う。

 まだ。

 いやだ。

 いやだ。

 

 死ぬ、と思ったのは、そのあとだった。

 

 でも、その言葉も途中で壊れた。

 

 死ぬ、じゃない。

 

 いやだ。

 

 死にたくない。

 

 その時になって、やっと息が動いた。

 

 声にはならなかった。

 

 胸の奥だけが、ぐしゃっと潰れた。

 

 右腕に、焼けるような痛みが走った。

 

 落下が止まる。

 

 止まった、というより、何かに無理やり引き裂かれたみたいだった。腕が抜けると思った。肩が痛い。手首が痛い。痛い。痛いのに、その痛みがあまりにも確かで、私はまだ落ちていないのだと分かった。

 

「ッ、ざけんな……!」

 

 ネルさんの声だった。

 

 低くて、潰れていた。

 

 私の腕を掴んでいる。

 

 片手で、信じられないくらい強く。

 

 身体はまだ屋上の外に出ている。足が何も踏んでいない。風が下から吹き上げる。私はネルさんの腕だけにぶら下がっている。

 

 ネルさんの靴が床を削る音がした。

 

 フェンスに身体をぶつけて、もう片方の腕で縁を掴んでいる。敵のドローンが背後で火花を散らして墜ちた。ネルさんが私を掴む前に、あれも片づけたのだと、遅れて分かった。

 

 全部見えていた。

 

 全部、ネルさんには見えていた。

 

「上げるぞ、歯ぁ食いしばれ!」

 

 言葉の意味を理解する前に、身体が引き上げられた。

 

 乱暴だった。

 

 肩が悲鳴を上げる。腕が痛い。フェンスの内側へ引き戻される時、膝が床にぶつかった。息が詰まる。身体が転がるように屋上へ戻る。

 

 床。

 

 硬い。

 

 冷たい。

 

 床がある。

 

 私は床にいる。

 

 息ができない。

 

 喉がひゅっと鳴って、肺が遅れて空気を思い出す。手が震えている。足も震えている。膝が私のものじゃない。視界の端が白くて、耳の奥で心臓がめちゃくちゃに鳴っていた。

 

 ばくばく、じゃない。

 

 もっと嫌な音。

 

 胸の中で何かが暴れて、骨を内側から叩いているみたいだった。

 

 ネルさんは、何も言わなかった。

 

 それが怖かった。

 

 肩を掴む手がまだ離れない。掴む力が強い。痛い。でも、離してほしくなかった。離されたら、また床がなくなる気がした。

 

 私は顔を上げようとした。

 

 ネルさんの目を見て、声が止まった。

 

 いつもの苛立ちじゃなかった。

 

 不機嫌そうな顔でもない。

 

 怒っている。

 でも、その奥に、見てはいけないものがある。

 

 ネルさんは私を見ているのに、私の向こう側も見ているみたいだった。さっき私が落ちかけた空間。フェンスの外。もう少しで私がいなくなっていた場所。

 

 そこにまだ、何かが残っているみたいに。

 

「……今」

 

 声が低かった。

 

 風の音より低い。

 

「どこにいた」

 

 私は答えられなかった。

 

 喉が動かない。

 

「屋上か?」

 

 ネルさんが一歩近づく。

 

 近づいたというより、逃げ道がなくなった。

 

「違ぇよな」

 

 肩を掴む手に力が入る。

 

「外だよな」

 

 息が止まる。

 

「フェンスの外に、体半分出てたよな」

 

「ネル、さ……」

 

「聞いてんだよ」

 

 声が少しだけ落ちた。

 

 落ちたのに、もっと怖くなった。

 

「今、どこにいた」

 

 口が震えた。

 

「……外、です」

 

「そうだ」

 

 ネルさんの目が細くなる。

 

「落ちてた」

 

 私は頷けなかった。

 

 頷いたら、本当に認めることになる気がした。

 

 まだ体が拒んでいる。

 

 さっきの風を、下の明かりを、足元が消えた瞬間を、なかったことにしたがっている。

 

「ごめ――」

 

 乾いた音がした。

 

 頬が熱い。

 

 遅れて、痛い。

 

 叩かれた、と分かった時には、顔が横を向いていた。

 

 耳の奥で音が残っている。頬がじんじんする。涙が出たのは痛みのせいか、怖さのせいか分からない。でも、さっきまでばらばらだった息が、その一発で無理やり胸に戻ってきた。

 

 私は床にいた。

 

 屋上にいた。

 

 落ちていない。

 

 頬の痛みで、それが分かった。

 

「謝んな」

 

 ネルさんの声が、すぐ近くにあった。

 

「まだ謝るな」

 

 怖い。

 

 声が。

 

 顔が。

 

 叩いた手が。

 

 でも、その手はさっき、私を掴んだ手だった。

 

「分かってねぇ顔で謝るな」

 

 ネルさんの肩が上下している。

 

 呼吸が荒い。

 

 怒っている。

 

 本当に怒っている。

 

「死ぬとこだったんだぞ!」

 

 声が爆発した。

 

 屋上の空気が震えた。

 

 私は肩を跳ねさせた。耳が痛い。心臓がさらに暴れる。ネルさんの声が、逃げようとする頭を壁に叩きつけるみたいに響く。

 

「あたしが掴んでなかったら、今ごろ下だ! 落ちたら終わりなんだよ! 分かってんのか、てめぇ!」

 

「……っ」

 

「助かったからいい? 間に合ったからいい? ふざけんな!」

 

 ネルさんが一歩踏み込む。

 

 私は動けなかった。

 

「あたしが危なそうに見えたか」

 

 息が詰まった。

 

「……見え、ました」

 

「見えたから何だ」

 

 ネルさんの声が低くなる。

 

「てめぇが入って、どうにかなる場所だったか?」

 

 何も言えない。

 

「屋上の足場も、風も、射線も、敵の動きも、何も分かってねぇやつが、何で出てくんだよ」

 

 胸が痛い。

 

 その通りだった。

 

 私は見えていなかった。

 

 ネルさんが何を見て、どこに立って、どう動くつもりだったのか、何も分かっていなかった。ただ危ないと思って、助けなきゃと思って、足を出した。

 

 その結果がこれだ。

 

「助けたいなら、まず見ろ」

 

 ネルさんの言葉が刺さる。

 

「見えねぇなら聞け。分かんねぇなら止まれ。それができねぇで前に出たら、助ける側じゃねぇ」

 

 静かだった。

 

 静かなのに、怒鳴られるより痛かった。

 

「助けられる荷物になる」

 

 その一言で、涙が落ちた。

 

 言い返せなかった。

 

 言い返せるわけがなかった。

 

 私が今ここにいるのは、ネルさんが掴んでくれたからだ。ネルさんを助けようとして、私はネルさんに助けさせた。

 

 しかも、命を。

 

「……強く、なりたいんです」

 

 声が変だった。

 

 泣いているせいで、言葉の端がうまく出ない。喉が詰まって、息が混ざって、聞き苦しい声になる。

 

 それでも止まらなかった。

 

「助けようと、したんです。ネルさんが危ないと思って……でも、全然見えてなかった。ネルさんが何を見て、どこに立って、どう動こうとしてたのか、私には何も分かってなくて」

 

 ネルさんは黙っていた。

 

 怖い目のまま。

 

 でも、遮らなかった。

 

「それなのに、勝手に前に出て……助けるつもりで、ネルさんに助けさせた」

 

 頬が熱い。

 

 叩かれた痛みと、涙の熱が混ざって、どこが痛いのか分からない。

 

「私、こういうのばっかりで……」

 

 言葉が崩れる。

 

 でも、もう止められない。

 

「助けたいって思うのに、届かなくて。届いたと思ったら、間違えてて。前よりは動けるようになったって、思いたくて。ミネさんに教えてもらって、救護騎士団で、ちゃんと……ちゃんと誰かの前に立てるようになりたくて」

 

 落ちる感覚が戻ってくる。

 

 足の裏がなくなる。指が空を掴む。風が硬い。街の明かりが遠い。頭が違うと叫んでいるのに、体だけが先に理解してしまう。

 

 いやだ。

 

 死にたくない。

 

 その言葉が、また胸の奥からせり上がる。

 

「でも、さっき、何もできませんでした。足も、手も、全然……何も」

 

 涙が床に落ちる。

 

「落ちるって、分かった時……違う、分かりたくなかったんです。頭が、ずっと違うって言ってて。でも体が先に、もうだめだって」

 

 喉が詰まる。

 

 それでも言う。

 

「死にたくないって、思いました」

 

 その言葉を出した瞬間、涙がもっと出た。

 

 情けないとか、恥ずかしいとか、そういう考えが追いつく前に、声が出ていた。

 

「助けたいのに」

 

 手を握る。

 

 震えている。

 

「誰かの前に立てるようになりたいのに」

 

 ネルさんの靴が視界に入る。

 

 動かない。

 

「私、最後はいつも、誰かの手に掴まれてる」

 

 助けられるのが嫌なわけじゃない。

 

 カリンさんが見てくれたことも、アカネさんが休ませてくれたことも、アスナさんが楽しい方へ引いてくれたことも、ヒマリさんが通知を消してくれたことも、ヴェリタスが痕跡を閉じてくれたことも。

 

 全部、ありがたかった。

 

 助けられてよかったと、本当に思っている。

 

 今だってそうだ。

 

 ネルさんが助けてくれなかったら、私はここにいない。

 

 それなのに。

 

「助けられるのが嫌なんじゃないです。ネルさんが助けてくれて、本当に、よかったって思ってます。怖かったけど、ネルさんの手が来て、痛くて、でも……生きてるって分かって」

 

 声が震える。

 

「でも、私……強くなれてるのか、分からない」

 

 最後は、ほとんど声にならなかった。

 

 風の音に消えそうだった。

 

 でも、ネルさんには届いた。

 

 ネルさんはしばらく何も言わなかった。

 

 怖い沈黙だった。

 

 けれど、さっきとは少し違った。

 

 ネルさんは私を睨んでいた。まだ怒っている。頬は痛い。腕も痛い。けれど、その怒りが私の上に振り下ろされるのを待つような怖さではなくなっていた。

 

 ネルさんはしゃがんだ。

 

 目線が近くなる。

 

「強くなりてぇなら、生きてろ」

 

 低い声だった。

 

 でも、さっきみたいに私を押し潰す声ではなかった。

 

「死んだら終わりだろうが」

 

 ネルさんは私の腕を見る。

 

 さっき掴まれたところが赤くなっている。指の形が残っていた。

 

 ネルさんの眉が、ほんの少し歪む。

 

「……痛ぇか」

 

 私は頷いた。

 

 泣きながら、正直に。

 

「痛いです」

 

 ネルさんは舌打ちした。

 

 でも、それは私に向けた音ではなかった。

 

「悪ぃ」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで、また涙が出た。

 

「でもな」

 

 ネルさんは、すぐに声を戻した。

 

「痛くても、ここにいろ。死ぬよりマシだ」

 

「……はい」

 

「怖かったなら覚えとけ。忘れたふりして、また同じことすんな。手が動かなかったなら、次にどう動かすか考えろ。足が止まったなら、どこに立つか覚えろ」

 

 言葉は荒い。

 

 でも、逃げ道を奪うためではなかった。

 

「助けたいなら、助ける場所を間違えんな。あたしを助けようとした? だったらまず、あたしが見てるもんを見ろ。見えねぇなら呼べ。聞け。止まれ。それができるようになってから、前に出ろ」

 

 私は唇を噛んだ。

 

「……はい」

 

「けど」

 

 ネルさんが少しだけ息を吐いた。

 

「助けようとしたことまで、なかったことにすんな」

 

 私は顔を上げた。

 

 ネルさんはまだ怖い顔をしている。

 

 でも、その目はさっきより少しだけ違った。

 

「そこまで捨てたら、てめぇが何のために救護騎士団やってんのか分かんなくなるだろ」

 

 胸の奥が、ぐっと詰まった。

 

 怒られた。

 

 叩かれた。

 

 怖かった。

 

 でも、ネルさんは私の「助けたい」まで折らなかった。

 

 間違えたことは間違えたと言う。死にかけたことは許さない。けれど、助けようとした気持ちまで捨てろとは言わない。

 

 この人は、怖い。

 

 本当に怖い。

 

 でも、この人は私を守る人だ。

 

 それだけじゃない。

 

 私が助けたいと思うことまで、雑に潰さない人だ。

 

「あたしはな」

 

 ネルさんの声が、さらに低くなる。

 

「さっき、てめぇが落ちるところ見た」

 

 心臓が跳ねた。

 

「ほんの一瞬だ。けど見た。腕が届かなかったら、どうなってたかも見えた」

 

 ネルさんの目が、また少し怖くなった。

 

 でも、今度は逸らさなかった。

 

「二度と見せんな」

 

 息が止まる。

 

「……はい」

 

「聞こえねぇ」

 

「はい」

 

「次、危ねぇと思ったら?」

 

「呼びます」

 

「いつ」

 

「落ちる前に」

 

「そうだ」

 

 ネルさんの手が伸びてきた。

 

 一瞬、頬が強張った。

 

 さっき叩かれたから。

 

 その反応に、ネルさんも気づいたと思う。

 

 手が一度止まった。

 

 それから、少し乱暴に、私の頭に乗った。

 

 ぐしゃっと撫でられる。

 

 髪が乱れる。優しい手つきではない。けれど、痛くはなかった。

 

「泣くなら泣け」

 

 ネルさんが言った。

 

「今日は落ちなかった」

 

 頭の上の手が、一度だけ弱くなる。

 

「次も落ちる前に呼べ」

 

 私は泣きながら、少しだけ笑った。

 

「……聞こえますか」

 

「聞こえるまで叫べ」

 

「ネルさんが、遠かったら?」

 

「近くにいたら行く」

 

「近くにいなかったら?」

 

「近くまで来させろ」

 

「無茶です」

 

「てめぇが落ちるよりマシだろ」

 

 それは、あまりにもネルさんらしい答えだった。

 

 怖い。

 

 さっきまで本当に怖かった。

 

 今もまだ、頬が痛いし、腕も痛い。ネルさんの怒鳴り声は耳の奥に残っている。あの目を思い出すだけで、背中が震える。

 

 でも、頭の上の手は離れなかった。

 

 荒くて、乱暴で、不器用で。

 

 それでも、私をここに留める手だった。

 

「……ネルさん」

 

「あ?」

 

「私、強くなりたいです」

 

「知ってる」

 

「でも、また怖くなると思います」

 

「だろうな」

 

「また、足が動かないかもしれません」

 

「そん時は、動かし方を覚えろ」

 

「すぐには無理かもしれません」

 

「すぐできるなら悩んでねぇだろ」

 

 ネルさんは私の頭をもう一度、今度は少しだけ軽く叩いた。

 

 ぽん、と。

 

「生きてりゃ鍛えられる」

 

 私は唇を噛んだ。

 

 また涙が落ちる。

 

「死んだら、次はねぇ」

 

 風が吹いた。

 

 屋上の風はまだ強い。

 

 でも、さっきのように足元を奪うものではなかった。

 

 ネルさんが立ち上がり、私に手を差し出した。

 

「立てるか」

 

 その手を見た。

 

 さっき私を掴んだ手。

 

 叩いた手。

 

 頭を撫でた手。

 

 怖い手。

 

 でも、落とさなかった手。

 

 私はその手を取った。

 

「……はい」

 

 ネルさんが引き上げる。

 

 力強い。

 

 でも、さっきとは違って、私が立つ速度に合わせてくれていた。

 

 膝はまだ震えていた。立ち上がっても、足の裏が少し信用できない。屋上の床があることを、何度も確かめたくなる。

 

 ネルさんはそれを見て、短く言った。

 

「今日は下りるぞ」

 

「はい」

 

「あたしの後ろ歩け。勝手に横に出んな」

 

「はい」

 

「足元見ろ」

 

「はい」

 

「返事だけよくても意味ねぇからな」

 

「……はい」

 

 少しだけ、いつもの会話に戻った気がした。

 

 ネルさんが先に歩く。

 

 私はその後ろを歩いた。

 

 フェンスの外は見ない。見られない。まだ、下を見ると胃が冷える。

 

 でも、ネルさんの背中は見えた。

 

 小さくて、荒くて、怖くて、強い背中。

 

 この人は、私を守る人だ。

 

 そう思うと、さっきまで痛かった腕の跡が、少しだけ違うものに感じた。

 

 落ちかけた証拠。

 

 そして、落とされなかった証拠。

 

 階段へ続く扉の前で、ネルさんが一度だけ振り返った。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「次、怖ぇって思ったら、黙んな」

 

 私は少しだけ息を吸った。

 

「……言っていいんですか」

 

「言え」

 

「泣いてても?」

 

「言え」

 

「うまく言えなくても?」

 

「聞く」

 

 ネルさんは面倒くさそうに顔を背けた。

 

「聞くくらいならしてやる」

 

 それが、ネルさんの慰めだった。

 

 綺麗ではない。

 

 優しい言葉でもない。

 

 でも、逃げない言葉だった。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はいい。階段で転ぶなよ」

 

「そこまで弱ってないです」

 

「さっき屋上から落ちかけたやつが言うな」

 

「……はい」

 

 ネルさんが扉を開ける。

 

 階段の明かりが差し込んだ。

 

 屋上の風が、背中から抜けていく。

 

 私は最後に一度だけ、振り返らずに思った。

 

 死にたくない。

 

 その言葉は、まだ胸の奥に残っている。

 

 でも今は、それが恥ずかしいだけのものではなかった。

 

 生きていたい。

 

 強くなりたい。

 

 落ちる前に、呼べるようになりたい。

 

 ネルさんの背中を追いながら、私は震える足で、一段目の階段を下りた。

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