戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
コユキの見つけ物
「これは調査です!」
声が少し大きかったので、コユキは慌てて口を押さえた。
端末室の外は静かだった。誰かの足音はしない。ユウカの声もしない。ノアの、何も言っていないのに全部見ているような気配もしない。
よし。
大丈夫。
今のところ、完全に大丈夫。
「……これは調査です。セミナーの未来を守るための、非常に高度で、自発的で、やむを得ない調査活動です」
小声で言い直す。
机の端には、未記入の備品使用申請書。
膝の上には、開けかけのお菓子。
画面には、どう見ても怪しい掲示板。
怪しい。
かなり怪しい。
けれど、怪しいものを見つけたら、ちゃんと調べてから報告するべきだ。報告するためには、中身を確認しなければならない。中身を確認するには、ちょっとだけ奥に入らなければならない。ちょっとだけ奥に入るには、鍵を開けなければならない。
つまり鍵を開けるのは、調査に必要な手順。
完璧。
私は悪くない。
「むしろ、褒められる可能性がありますね」
コユキは頷いた。
その可能性は、たぶん、ものすごく低い。
でもゼロではない。ゼロでなければ希望はあります。ミレニアム的にも、可能性の芽は大事にすべきです。
黒い画面に、怪しい文字列が並んでいた。
違法改造ガチャの残骸。
勝手に作られたポイント交換所。
誰かが隠したつもりになっている裏口。
暗号化されているふりをした、ただの置換文字列。
こういうのは、見ていて少しだけ可愛い。
本人はものすごく隠したつもりなのだろう。けれど、三列目と七列目の数字がわざとらしい。記号の位置も素直すぎる。隠すなら、もう少し本気で隠してほしい。
「ふふん。甘いですね。コユキちゃんをなめないでいただきたいです」
一つ目の認証を抜ける。
ぱっと画面が切り替わった。
「はい、開きました」
二つ目。
少しだけ考える。
古い暗号表の流用。逆順。記号ずらし。
「はい、これも開きました」
三つ目。
偽のエラーページ。
でも、端の空白にリンクが隠れている。
「はいはい、見えていますよ。そんなところに隠れても無駄です」
開く。
楽しい。
怒られるのは嫌いだ。説教も嫌いだ。特にユウカの説教は、最初の五分で反省して、十分で心が折れて、二十分を超えると自分がなぜ生まれてきたのかまで考え始める。
でも、閉じたものを開ける瞬間だけは好きだった。
自分の頭が、ちゃんと役に立っている感じがする。
画面の向こうにあるものを、誰より先に見つけられる感じがする。
「セミナーの未来、明るいですね。主に私のおかげで」
誰も聞いていない。
だから言える。
コユキはお菓子を一つ口に入れ、スクロールを進めた。
開いた先は、思ったよりつまらなかった。
壊れたリンク。
空のフォルダ。
古いログ。
誰かが勢いだけで書いたような改造メモ。
景品らしき画像ファイルはあるけれど、開くとただの変なスタンプ。
「……ええ。まあ。こういう日もあります。調査とは、地味な積み重ねですからね」
少し残念だった。
せっかくここまで開けたのだから、もう少し秘密っぽいものがあってもいい。未公開データとか、危険な取引履歴とか、ユウカに提出したら「コユキ、これはよく見つけたわね」と言われるようなものとか。
言われたい。
ものすごく言われたい。
そのためには、もう少しだけ探す必要がある。
もう少しだけ。
コユキはスクロールを続けた。
そこで、指が止まった。
ひとつだけ、変なリンクがあった。
派手ではない。
むしろ、見逃しそうなくらい地味だった。
けれど、周囲の文字列から少し沈んでいる。隠しているというより、息を殺しているみたいだった。普通の怪しいリンクは、どこかに「見つけてほしい」感じがある。俺を見つけてみろ、みたいな安っぽい自己主張がある。
これは違う。
見つけられることを期待していない。
でも、見つけた瞬間、目が離れなくなる。
「……なんですか、これ」
コユキは画面に顔を近づけた。
形式が変だった。
ミレニアムの管理番号ではない。外部の一般的なアドレスでもない。古い。けれど死んでいない。削除済みの経路にぶら下がっているはずなのに、奥だけがまだ繋がっている。
ここで戻るべき。
そう思った。
思っただけで、指は戻らなかった。
戻るためにも確認が必要です。
確認。
確認だけ。
「……触るだけです。開くとは言ってません」
リンクに触れた。
扉が一枚、開いた。
「開きましたね」
小さく呟いた。
画面の黒が、少し濃くなった気がした。
変な話だ。画面の明るさは変わっていない。端末室の暗さも同じ。膝の上に落ちたお菓子の欠片も、机の端の未記入申請書も、さっきと何も変わらない。
でも、部屋が少し狭くなった気がした。
「……大丈夫です。まだ、ただの暗号です」
自分に言い聞かせる。
最初の層は薄い。
抜ける。
二つ目も抜ける。
三つ目で、少し時間がかかった。
問いかけのような鍵だった。答えを入力させるのではなく、こちらがどう解こうとするかを見ているような作り。少し嫌な感じがした。コユキは唇を尖らせながら、手順を残していく。
念のため。
あとで説明する時のため。
怒られた時に「ちゃんと記録していました」と言うため。
四つ目で、コユキは笑えなくなった。
読めない文字が出てきた。
コードではない。
言葉でもない。
数式みたいで、でも数式じゃない。
同じ場所に同じ記号があるはずなのに、見ていると少しずつ意味がずれていく。目で追っているのに、追っている先がほんの少し横へ逃げる。
「……何語ですか、これ」
冗談のつもりだった。
でも、声が小さかった。
解析ツールを走らせる。
不明。
別のツール。
不明。
パターン抽出。
失敗。
辞書攻撃。
無効。
「……そこまで拒否します?」
ムッとした。
怖いより先に、ちょっと腹が立った。
ここまで来て閉じるのは、負けたみたいで嫌だ。とはいえ、無理に開けるのは嫌な感じがする。ユウカに怒られるのとは別の、もっと違う種類の嫌さ。
開けるのも怖い。
閉じるのも怖い。
だから、表面だけ見ることにした。
完全には開かない。
中身には触らない。
外側を少しだけ剥がす。
ファイル構成だけ確認する。
「ここで止まれる私は、かなり偉いのでは……?」
誰も褒めてくれないので、自分で褒めた。
指はいつもより慎重だった。
画面の奥に、細い亀裂みたいなものが入る。
そこから、ファイル一覧の一部が見えた。
数字列のフォルダ。
壊れた画像。
意味のない拡張子。
そして、動画ファイルがひとつ。
ファイル名に、レナさんの名前はなかった。
そもそも、名前と呼べるようなものではなかった。ただの数字と記号。識別子。何かを隠すためではなく、最初から誰かを人として扱っていないような、冷たい並び。
なのに、息が止まった。
サムネイルが一瞬だけ表示された。
荒れた画質。
暗い床。
白いもの。
羽根。
それから、床に広がった淡い髪。
次の瞬間、画面は黒く塗り潰された。
権限不足。
再生不可。
解析不能。
冷たい文字だけが残った。
私は動けなかった。
違う。
似ているだけです。
顔は見えていません。音もありません。白い羽根のある生徒なんて、キヴォトスには他にもいます。髪だって、画質が悪かっただけかもしれません。こんなところに、レナさんの動画があるわけがありません。
「……違いますよね」
誰も答えない。
私はもう一度、黒くなったサムネイルの場所を見た。
見えない。
でも、さっき見えたものだけが頭に残っている。
白い羽根。
暗い床。
髪。
レナさん。
名前を思い浮かべた瞬間、喉の奥が冷たくなった。
お菓子の甘さが、急に気持ち悪くなる。
開けてはいけない。
でも、消してはいけない。
私一人で持っていていいものじゃない。
そう思った時には、もう椅子から立ち上がっていた。膝が机に当たって、お菓子の袋が床に落ちる。いつもなら拾う。今は拾えなかった。
画面にはまだ、三つの言葉が並んでいる。
権限不足。
再生不可。
解析不能。
私は端末を抱えて、端末室を出た。
◇
コユキちゃんが、言い訳をしなかった。
それだけで、ノアは手元の記録を閉じた。
セミナーの資料室は、夜になると音が少なくなる。書類をめくる音も、端末の駆動音も、昼間よりはっきり聞こえる。だから、扉の開き方がいつもと違うこともすぐ分かった。
いつものコユキちゃんなら、入ってくる前から何かしらの言葉を用意している。
違うんです。
これはですね。
まず落ち着いて聞いてください。
まだ何もしてません。
ほとんど。
そういう言葉が、今日はない。
扉の隙間から覗いた顔は、逃げる準備をしていなかった。
それが一番、らしくなかった。
「……ノア先輩」
「はい」
ノアは席を立たず、声だけを柔らかくした。
近づきすぎると、コユキちゃんは逃げる。けれど、今のコユキちゃんは、逃げる場所を探しているのではなく、立っているだけで精一杯に見えた。
「今日は、先に言い訳をしないんですね」
コユキちゃんの口元が、小さく歪んだ。
怒られる前の顔ではない。
叱られたくない子の顔でもない。
もっと奥で、何かを押さえている顔だった。
「見つけちゃったんです」
「何をですか?」
「分かりません」
端末を抱える手に、力が入る。
「分からないんです。でも、私だけで持ってたらだめなやつです。開けちゃいけない気がして、でも、閉じてなかったことにするのもだめな気がして……ノア先輩」
コユキちゃんが一歩だけ近づいた。
「私、今度は逃げない方がいいですよね」
ノアはそこで初めて、机の上から手を離した。
「端末を見せてください」
コユキちゃんは、少し迷ってから差し出した。
ノアは受け取る前に、まずネットワークを切った。次に隔離環境へ移す。コユキちゃんの手順は、思ったより丁寧に残っていた。どの階層を抜けたか。どこでツールを使ったか。どこから先へ進めなかったか。
怖くなったから、丁寧に残したのだ。
ノアは画面を進める。
黒い掲示板。
隠れたリンク。
未知の記述。
壊れたファイル一覧。
動画ファイル。
権限不足。
再生不可。
解析不能。
コユキちゃんが黙っている。
いつもなら、ここで何かを言う。自分の行動を少しでも軽く見せるために、笑って、誤魔化して、話題を横へずらす。
今日は何も言わない。
ノアは動画本体には触れず、プレビューの痕跡だけを復元した。
一瞬。
荒れた画面が開く。
暗い床。
白い羽根。
淡い髪。
ノアの呼吸が、短く止まった。
それはほんの少しだった。
けれど、コユキちゃんが見ているのは分かった。
画面はすぐ黒に戻る。
もう見えない。
でも、消えない。
白い羽根の角度。髪の広がり方。床の色。画面の端に映った布の皺。顔は見えない。声もない。断定してはいけない。似ているだけかもしれない。画質が悪い。情報が足りない。
そう考えるより先に、記憶は保存を終えていた。
ノアは、画面から目を離した。
「……断定はしません」
自分の声が、少し遅れて聞こえた。
「ですが、私だけで扱うべきものではありません」
「レナさん、ですか」
コユキちゃんが言った。
ノアはすぐには答えなかった。
答えれば、言葉が形を持つ。
形を持てば、もう戻せない。
「コユキちゃん」
「はい」
「動画は再生しましたか」
「してません。できませんでした。最後だけ開かなかったんです。開けようとはしました。でも……そこで、なんか、だめだって」
「そこで止まったのは、正しい判断です」
コユキちゃんの目が揺れた。
「本当ですか」
「はい」
「怒られませんか」
「怒られます」
「……やっぱり」
「ですが、それとは別です」
ノアは端末を閉じた。
「あなたが一人で再生しなかったこと、ここへ持ってきたこと。それは正しい判断です。そこは、私が証言します」
コユキちゃんは何か言いかけて、結局、小さく頷いた。
ノアは立ち上がる。
「ユウカちゃんを呼びます」
「ユウカ先輩を」
「はい」
「……今からですか」
「今からです」
コユキちゃんの肩が少し落ちた。
けれど、逃げなかった。
◇
「コユキ、あなたね――」
ユウカは、そこまで言って止まった。
ノアが端末を机へ置いた。
それだけで、空気が違うと分かった。コユキが端末を抱えて来た。ノアが冗談を挟まなかった。資料室に漂う、紙と端末の乾いた匂いの中に、いつもと違う冷たさが混ざっている。
ユウカの目が画面へ落ちる。
黒い警告。
未知の記述。
動画ファイル。
プレビューの痕跡。
白い羽根。
吸い込んだ息が、胸の中で止まった。
怒るために用意していた言葉が、喉の手前でほどける。
「……これ、どこで」
コユキが小さく答える。
「怪しい掲示板の、奥です。ポイント交換所みたいなところから、変なリンクがあって……最初は、ほんとに、普通の怪しいやつだと思って」
「普通の怪しいやつって何よ」
いつもなら、そこから説教に入れた。
でも、ユウカの声は強くならなかった。
画面の白い羽根が邪魔だった。
「再生は」
ノアが答える。
「していません。動画本体は開けていません」
「外部送信は」
「今のところ確認できません。ただ、通常の手順では見られない場所にあります」
「端末は隔離。経路は記録。閲覧権限、保存場所、ファイル形式、作成日時……」
言葉は出る。
手順も出る。
ユウカは机の上の端末へ手を伸ばした。けれど、指先が画面の手前で止まる。触れたくなかった。触れなければならないのに、触れたくなかった。
数字なら読める。
規則なら扱える。
権限なら管理できる。
でも、白い羽根は数字にならなかった。
「ユウカちゃん」
ノアの声が静かに届いた。
「これは、ヒマリさんに回すべきです」
ユウカはすぐには返事をしなかった。
セミナーで止めるべきだと思った。
コユキが見つけた。セミナーの端末を使った。自分たちの管理下で起きた。それなら、セミナーで責任を持つべきだ。
そう考えようとした。
けれど、画面の文字列は読めない。動画は開けない。ノアは断定しない。コユキは笑わない。
もし、これが本当にレナに関わるものなら。
もし。
そこまで考えて、ユウカは拳を握った。
「……分かったわ」
声が少し掠れた。
「ヒマリさんに連絡する。コユキ、一人でどこかへ行かないこと」
「はいっ」
「今は逃げる方が危ない。分かる?」
「分かります」
コユキは端末のない両手をぎゅっと握った。
「今回は、ちゃんといます」
ユウカは頷いた。
本当なら、いくらでも言いたいことはあった。どうしてそんな場所を覗いたのか。なぜ申請書が未記入なのか。どうしてセミナーの端末を使ったのか。
でも、今言うべき言葉はそれではなかった。
「本当なら、今すぐ説教よ」
「はい……」
「でも、一人で再生しなかったことは正しいわ。そこは、間違ってない」
コユキの目が大きく揺れた。
「……はい」
「だから、今は逃げないで。あなたが見つけた経路が必要になる」
「はい」
ユウカはもう一度、画面を見た。
白い羽根。
黒い警告。
開かない動画。
その奥にいるかもしれない誰かの名前を、まだ声に出せなかった。