戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
黒いケースが、隔離台の上に置かれた。
コユキが両手を離したあとも、ケースはしばらくそこに残っているだけだった。端末一つ分の重さしかないはずなのに、誰もすぐには蓋を開けなかった。
ユウカは腕を組んでいた。
ただ、右手の指だけが落ち着かず、左腕の袖を何度も押さえている。ノアはケースではなく、コユキの顔を見ていた。コユキは何か言おうとして、結局、口を閉じる。椅子に座るでもなく、立っているでもなく、半端な姿勢のまま固まっていた。
ヒマリはその全員を一度ずつ見てから、車椅子の上で軽く息を吐いた。
「さて」
声は、いつもの調子に近かった。
「セミナーが、ノアさんの判断を経由して、ユウカさんの管理を越えて、私のところへ端末を持ち込んだ。しかもコユキさんが逃げずに同席している。これを異常事態と呼ばずして、何を異常事態と呼ぶべきか悩むところですね」
「茶化している場合ではありません」
ユウカの返事は早かった。
怒っているというより、早く何か言わないと自分の中の別のものが出てきそうな声だった。
ヒマリは微笑んだまま、目だけを少し細める。
「茶化してはいません。確認です」
それだけで、部屋の空気が少し沈んだ。
コユキが小さく肩を揺らす。
「コユキさん」
「は、はいっ」
「あなたが見つけ、ここまで持ってきた。動画本体は再生していない。間違いありませんね」
「はい。再生はしてません。できませんでした。最後だけ、どうしても開かなくて……でも、一瞬だけ、サムネイルみたいなのが」
そこで言葉が止まった。
続きは言えない。
白い羽根。
暗い床。
淡い髪。
その単語を口に出すだけで、何かが近づいてくる気がする。
ノアが代わりに静かに言った。
「プレビューの痕跡は確認しました。顔は見えていません。音声もありません。断定できる情報は不足しています」
ノアはそこで一度、目を伏せた。
「ただ、見間違いだとは言い切れません」
ユウカの指が袖を握った。
ヒマリは頷き、ケースへ手を伸ばした。
エイミがその横で、隔離台の配線を確認する。
「外部回線、切ってある」
「非常用回線は?」
「手動で切った。物理側も確認済み」
「室温は?」
「端末にはちょうどいい。ヒマリには少し寒いかも」
「私と端末を同列に管理する姿勢には少々思うところがありますが、今は許しましょう」
いつもの軽口。
けれど、誰も笑わなかった。
ヒマリ自身も、笑わせようとはしていなかった。
ケースが開く。
端末が隔離台に接続される。
画面が立ち上がった。
黒。
警告。
意味を持たないように並べられた数字列。
コユキが突破した最初の経路。
ノアが復元したプレビュー痕跡。
ユウカが封じた接続履歴。
順番に表示されるたび、コユキの顔が少しずつ下がっていった。
「顔を上げてください」
ヒマリが言った。
コユキがびくっとする。
「責めているのではありません。あなたが残した手順がなければ、もっと危険な触り方をしていた可能性があります」
「……はい」
「もちろん、後でユウカさんからは怒られるでしょうが」
「はい……」
「それと、今あなたがここにいる意味は別です。分かりますか」
コユキはすぐには答えなかった。
ユウカが少しだけ目を閉じる。
ヒマリは待った。
「……私が、見つけたから」
「それもあります」
「私が、どこから入ったか覚えてるから」
「それもあります」
「……一人で開けようとしたから」
声が小さくなる。
ヒマリは、そこでは頷かなかった。
「一人で開けようとして、最後に止まったからです」
コユキが顔を上げる。
「止まれたことを、今は事実として扱います。反省や後悔は、作業後でも可能です。ですが事実は、今ここで使えます」
その言い方は優しくはなかった。
でも、コユキの膝から少しだけ力が抜けた。
ヒマリは端末へ視線を戻す。
「では、始めましょう」
指が動く。
最初は速かった。
認証履歴。
経路の再現。
コユキが開けた層。
ノアが見た瞬間のログ。
ユウカが隔離した痕跡。
それらがヒマリの前で、順番に並び替えられていく。彼女は見えている文字を読むのではなく、文字の後ろにある作り手の癖を拾っているようだった。
「一層目は見せかけですね。開けられることを前提にしている。二層目も同様。三層目から少し変わります」
「三層目で、変なエラーが出ました」
コユキが言う。
「エラーではありませんね。こちらの反応を待つための間です。普通の生徒なら、そこで戻る。少し自信のある生徒なら、気になって触る。コユキさんのように開けることが得意な生徒なら、手順を残しながら進む」
「それ、私が選ばれたってことですか?」
「そこまでは分かりません。ただ、あなたのような相手が来ても機能するようには作られています」
コユキが黙った。
ユウカが言う。
「つまり、誰かに見つけられることを想定していた?」
「完全に隠したいなら、もっと単純に閉じればいい。壊したいなら、踏んだ瞬間に壊せばいい。ですがこれは、見つけた相手に手間をかけさせています」
ヒマリの指が止まらない。
けれど、声だけが少し低くなる。
「手間をかけさせ、関係者を増やし、開く過程そのものを記録する。そういう設計です」
ノアが画面を見る。
「記録する」
短い言葉だった。
けれど、その響きが少しだけ変わった。
ノアにとって記録は、ただの作業ではない。覚えること。残すこと。忘れないこと。これまで穏やかに使ってきた言葉が、今は冷たい金属片のように聞こえた。
ヒマリは四層目の記述へ触れた。
画面に、文字列が開く。
記号。
数式のような並び。
言葉のような断片。
どの方向から読めばいいのか分からない。見ていると、意味が少しずつずれていく。同じ記号が同じ場所にあるはずなのに、さっきとは違う顔をしているように見える。
コユキが小さく言った。
「そこで、分からなくなりました」
「分からなくなって正解です」
ヒマリはすぐに返した。
「これは、分かったと思わせるためのものですから」
「……え?」
「読めそうだと思わせる。読んだと思わせる。こちらが選んだ読み方を採取する。単純なパスワードではありません。鍵穴に鍵を差すのではなく、鍵穴に指を入れさせ、指の形を覚えさせる仕組みです」
ユウカの表情が硬くなる。
「解析者の癖を取っている、ということですか」
「近いですね」
「近い?」
「癖だけではありません。どこで急ぐか。どこで戻るか。どこまで見たがるか。何を怖がるか。そうした手順の選択を、次の層へ混ぜています」
ヒマリはそこまで言って、初めて指を止めた。
ほんの数秒。
いつもなら、その数秒には軽口が入る。全知の余裕を示す言葉や、難しいものほど私に相応しいというような、優雅な自負。
何もなかった。
沈黙だけがあった。
エイミが、車椅子の後ろに手を置く。
「ヒマリ」
「続けます」
「一人で?」
エイミの問いは短かった。
ヒマリは画面から目を離さずに答える。
「今は、まだ」
その「まだ」を聞いて、ユウカが息を止めた。
コユキは膝の上で両手を握り直す。
ノアは瞬きをしない。
ヒマリの指が再び動いた。
隔離環境内で、さらに小さな仮想領域が立ち上がる。ユウカが権限を確認する。エイミが外部線を見直す。ノアは何も入力していない。ただ、画面に出た変化の順番を目で追っている。
コユキは、見ているだけで胸の奥が狭くなった。
自分が最初に触ったものが、今、ヒマリの前で別の顔をしている。さっきまで自分の遊び場みたいに見えていた暗号の奥に、触ってはいけない冷たいものがあったのだと、遅れて分かっていく。
「……私が触った時も」
声が出てしまった。
ヒマリは手を止めずに答える。
「断定はしません」
優しい言い方ではなかった。
だから怖かった。
「ただし、触った可能性を前提に進めます」
「それ、怖いやつですよね」
「はい」
ヒマリはそこで初めて、コユキを見た。
「怖いものです」
コユキの顔から、冗談を言う余裕が完全に消えた。
ユウカが一歩寄る。
「コユキ、座って」
「でも」
「座って。今は立っていても何も増えないわ」
「……はい」
コユキは椅子に座った。
ユウカの言い方はいつも通りに近かった。近かっただけで、いつも通りではなかった。叱る声ではなく、倒れないように位置を決める声だった。
ヒマリの解析がさらに深くなる。
外層を一枚剥がす。
その内側が、すぐ形を変える。
触れた手順に合わせて変わる。ヒマリはそれを読んで、次に触れる場所を変える。変えた途端、また構造がずれる。まるで、画面の向こうにいる誰かが、こちらの手元を覗いているようだった。
いや。
誰かがいるわけではない。
そう言い切れるほど、誰も安心できなかった。
「……鍵ではありませんね」
ヒマリが言った。
ユウカが顔を上げる。
「先ほどの話ですか」
「訂正です」
ヒマリの声は低い。
「鍵ではない。箱でもない。これは、保存庫の形をした罠です」
エイミが目を細める。
「罠」
「中身を守るためだけなら、もっと単純に閉じればよい。見つけた者を害したいだけなら、踏んだ瞬間に破壊すればよい。ですがこれは違う」
ヒマリは画面の文字列を指す。
「見つけた者に、開けるべきか迷わせる。開けるために誰かを呼ばせる。呼ばれた者がさらに誰かを呼ぶ。そうやって、関係者が増えるほど、戻れなくなる」
ノアが静かに言った。
「見つけさせるためのもの」
「その可能性があります」
ヒマリは認めた。
「少なくとも、完全に隠すためのものではありません。見つかった後に、見つけた側を巻き込むよう設計されています」
ユウカは端末の権限画面を見た。
数字がある。ログがある。接続時刻がある。管理できるものが並んでいる。
それでも、画面の奥にあるものは管理できていない。
その事実が、指先を冷たくした。
「ヒマリ」
エイミがもう一度呼んだ。
今度は問いではなかった。
止めるなら、今だ。
そんな響き。
ヒマリは目を閉じなかった。
ただ、指を止めた。
画面の前で、静止する。
「開けるだけなら、いずれ可能です」
ヒマリの声が、部屋の中に落ちる。
誰も「やっぱり」とは言わなかった。
「ですが、開け方を誤れば映像本体が壊れる可能性があります。あるいは、こちらの隔離環境に意味のある痕跡を残す可能性もあります。もっと厄介なのは、開けた事実そのものが、どこかへ伝わる可能性です」
「外部回線は切っています」
ユウカが言う。
「物理的な通信だけなら」
その返答で、ユウカの表情が固まった。
「通信線以外?」
「未知の言語体系、と言うと乱暴ですが、既存のコードと通信だけで説明するには形が悪い。文字列であり、記述であり、何らかの意味構造でもある。読む者の手順を食うなら、通常の線以外を使う可能性も考えるべきです」
コユキが、膝の上の手を見た。
さっきまでその手で開けていた。
楽しかった。
褒められるかもと思った。
正義の調査だと自分に言い聞かせた。
その指が、今は自分のものではないみたいに見える。
「私、何か……持ってきちゃったんですか」
ユウカがすぐに言おうとした。
違う、と。
けれど、言葉は出なかった。
簡単に否定できる状況ではなかった。否定したいだけならできる。でも、その場しのぎの否定は、あとでコユキをもっと傷つける。
ノアがコユキの横へ移動した。
「コユキ」
呼び方が、いつもより少しだけ近かった。
「あなたは持ってきました。だから、今ここで扱えています」
コユキが顔を上げる。
「それ以上も、それ以下も、今は決めません」
コユキは唇を噛んだ。
小さく頷く。
ヒマリが、そこで端末から手を離した。
完全に止めたわけではない。
でも、進める手を止めた。
「急ぎたい気持ちはあります」
ヒマリは言った。
誰のために、と言わなかった。
言わなくても、全員分かっていた。
「ですが、急いで壊しては意味がありません」
「ヒマリさん」
ユウカの声が、少しだけ掠れる。
「ヴェリタスを呼びましょう」
部屋の中で、空気が一段重くなった。
ヒマリが自分からそう言った。
それだけで、この端末がただの難しいファイルではなくなった。
「私一人で解けない、という意味ではありません」
ヒマリは少しだけ、いつもの調子を戻そうとした。
戻りきらなかった。
「ただ、これは一人で開けるべきものではありません。速度より安全を取ります。見つけた人間を傷つける類のファイルなら、なおさらです」
ノアの目が伏せられる。
見つけた人間。
コユキ。
ノア。
ユウカ。
ヒマリ。
そして、サムネイルの奥にいるかもしれないレナ。
エイミが短く聞いた。
「誰を呼ぶ?」
「チヒロさんを中心に。ハレさん、マキさん、コタマさんも必要です」
「分かった」
エイミが通信を入れる。
簡潔な連絡。
余計な説明はない。
その間、誰も端末を見なかった。
見ないようにした。
けれど、黒い画面の奥にあるものは、もう部屋のどこにも消えてくれなかった。
◇
ヴェリタスが到着するまで、時間はそれほどかからなかった。
ただ、その数分は長かった。
ユウカは端末の接続記録を何度も見直した。
同じ項目を二度、三度と見る。
数字は変わらない。
変わらないことを確認しても、安心にはならない。
ノアは何も書いていなかった。
記録用の端末は近くにある。指を伸ばせば届く。けれど、触れない。記録しなかったからといって、忘れられるわけではない。むしろ、記録していないという事実だけが、ノアの中で静かに形を持っていく。
コユキは自分の膝を見ている。
端末室に落としてきたお菓子のことを、一度だけ思い出した。あのまま床に転がっている。いつもなら、それだけで少し気になる。今は、遠い場所の話みたいだった。
ヒマリは紅茶に手を伸ばさなかった。
カップの湯気は、いつの間にか薄くなっている。
扉が開いた。
「うわ。空気重」
ハレの第一声は、それだった。
普段なら少しだけ部屋の空気が緩む言い方だった。
今回は、誰も緩まなかった。
ハレも、二秒後にはそれを理解した顔になる。
「セミナー組にヒマリ、エイミ。しかもコユキが逃げてない。帰っていい?」
「帰ったら後でもっと面倒になります」
チヒロが後ろから入ってくる。
「だよね。じゃあ座る」
ハレは椅子を引いた。
マキは軽く手を上げかけて、途中で止めた。コタマはヘッドホンを片耳だけ外して、部屋の音を聞くように首を傾ける。
チヒロは画面を見る前に、ユウカを見た。
「状況は?」
「コユキが怪しい経路から発見。動画本体は未再生。ノアがプレビュー痕跡を確認。私が端末を隔離して、ヒマリさんが解析。単独続行は危険と判断」
ユウカの説明は整っていた。
整いすぎていた。
チヒロは頷く。
「分かった。まず見ます」
画面が開かれる。
黒い警告。
未知の記述。
開かない動画ファイル。
白い羽根は、今は表示されていない。
けれど、それがあったことを全員が知っている。
ハレが端末に触れる前に、眉を寄せた。
「これ、開けたら終わりじゃないね」
ヒマリが頷く。
「同意見です」
「開けた人の手順を食ってる。コユキがどこから入ったか、ノアがどうプレビューを復元したか、ヒマリがどの読み方で触ったか。全部、次の層に混ざってる。普通の暗号作る人間はやらないよ。面倒だし、悪趣味だし、保守性が最悪」
「作った者に、保守する気がないのでしょう」
「だろうね。見つけた後に嫌な気分にさせるところまで目的に入ってる」
コユキが小さく息を止める。
マキは画面を覗き込み、しばらく黙った。
「……色が変」
「まだ何も表示してないわよ」
ユウカが言う。
マキは首を横に振る。
「そういう色じゃない。閉じてるところの色。普通、隠したいものって奥へ沈むんだよ。でもこれは、閉じてるのに外側へ滲んでる。踏んだら靴の裏につく汚れみたい」
マキの声が少し低くなる。
「好きじゃない」
コタマはヘッドホンを両耳に戻した。
再生前の動画に、音はない。
それでも、コタマは静かに耳を澄ませる。
数秒。
「……音はありません」
当たり前の言葉。
でも、コタマは続けた。
「けれど、無音ではありません」
チヒロが振り向く。
「再生してない」
「はい。音声データはありません。ただ、音が入るはずだった場所に、不自然な欠け方があります」
「欠け方?」
「声を出す前に止まった跡に近いです」
部屋の温度が、一段下がった気がした。
コユキが両手で口元を押さえる。
ユウカが端末から目を逸らしそうになって、逸らさなかった。
ノアは、瞬きを忘れたように立っている。
チヒロは画面の前で、一度だけ深く息を吸った。
「開ける前に決める」
その声は落ち着いていた。
「興味本位では再生しない。必要な人間以外は見ない。開いた後の保存範囲、共有範囲、削除の可否を先に決める。これは、見た人間を傷つける可能性がある」
誰も反論しなかった。
チヒロは続ける。
「でも、開けないと守れない可能性もある」
逃げ道が、ひとつ閉じた。
ハレが椅子の背にもたれたまま、画面を見る。
「じゃ、やるか。寝たいけど、これ放置した方が寝られなさそう」
マキが端末を立ち上げる。
「色、分ける。変なところ触ったらすぐ言う」
コタマがヘッドホンの位置を直す。
「無音部分を拾います。声が残っていなくても、切れ方は追えます」
チヒロが保存先の権限を閉じる。
ユウカがそれを確認し、さらに二重に隔離する。
ノアは、何も書かないまま見ている。
ヒマリが、もう一度端末に指を置いた。
「では、全知だけでなく、総力で参りましょう」
いつもの言い方に近かった。
でも、誰も笑わなかった。
画面の黒は、まだ開かない。
けれど部屋の誰もが、もう戻れない場所まで足を入れてしまったことだけは分かっていた。