戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ハレは、端末の前でしばらく黙っていた。
眠そうな目はいつもと同じだった。椅子に沈み込む姿勢も変わらない。けれど、指だけが眠っていなかった。キーボードの上を滑り、止まり、ひとつ戻って、また別の場所へ移る。乱暴には触らない。試すたびに、画面の奥で何かがこちらを見返してくるような沈み方をするからだ。
「これ、やっぱり普通の暗号じゃないね」
ハレの声は低かった。
ユウカは隣で権限画面を開いている。隔離環境は三重。外部回線は物理的に切断済み。記録領域はチヒロの指定した範囲だけ。手順としては、できることを積み上げている。
積み上げているのに、足場が柔らかい。
「どう違うの」
ユウカが聞く。
「普通の暗号は、正しい鍵を入れれば開く。間違えれば開かない。これは、入れた鍵の形を覚えて、次の鍵穴を変える。こっちが慎重に触るほど、慎重に触ったって情報まで持っていかれる」
「対策は?」
「食わせる情報を絞る。こっちが何を怖がってるか、できるだけ渡さない。まあ、もうだいぶ渡ってるけど」
コユキの肩が小さく跳ねた。
椅子に座ったまま、両手を膝の上で握っている。逃げ道の位置は、たぶん把握している。扉まで何歩か、誰の横を抜ければいいか、どうすれば廊下へ出られるか。コユキはそういうものを見つけるのが得意だ。
それでも立たなかった。
椅子の脚は床にきちんと揃ったまま。靴先だけが、ときどき内側へ引っ込む。
「コユキ」
チヒロが呼んだ。
「はい」
「最初に見つけた経路、もう一度。急がなくていい。覚えている順で」
「はい……最初は、ポイント交換所っぽい掲示板でした。違法改造ガチャの残骸みたいなのがあって、でも中身はほとんど空で。三つ目の偽装エラーのあと、戻るリンクに見える場所があったんです。でも、普通の戻るリンクじゃなくて、ほんの少しだけ沈んでて……」
「沈んでた」
マキが繰り返す。
「うん。それ、こっちでも分かる。見える場所に置いてあるのに、見つけた人だけ足を取られる色してる」
「色で言われても分かんないけど、まあ挙動は合ってる」
ハレが画面を指す。
「ここ。コユキが“戻る”と思って触った場所。実際は戻り先じゃなくて、別層への誘導だった。しかも、戻ろうとした人間だけが気づくタイプの誘導」
ユウカの眉が寄る。
「つまり、奥へ進もうとした人だけじゃなくて、戻ろうとした人も拾う?」
「そう。悪趣味」
ハレは短く言った。
ヒマリは黙って画面を見ている。
さっきまで少し冷めかけていた紅茶は、端末の横に置かれたままだった。カップの隣には、手をつけていない小さな菓子がある。誰が置いたものか、ここにいる何人かは知っている。ヒマリはそれを見ないようにしていた。
見ないようにしていることが、かえって目立った。
「ヒマリ」
エイミが低く呼ぶ。
「大丈夫です」
ヒマリはすぐ答えた。
「まだ、という意味ですが」
「まだ、ね」
「ええ。便利な言葉でしょう」
軽口の形だけはある。けれど、声は笑っていなかった。
コタマがヘッドホンの位置を直した。
「無音部分、変わりました」
全員の視線がそちらへ向く。
「再生はしてないわよ」
ユウカが確認するように言った。
「はい。音声データはまだありません。ですが、先ほどより欠け方が浅くなっています」
「安全になったってこと?」
マキが聞く。
「分かりません。ただ、声が入るはずだった場所から、少し手前に戻っています。何かを聞かせる方向ではなく、聞かせない方向へずれたように感じます」
「感じる、でいい」
チヒロが言った。
「今は全部、感覚でも拾って。後で照合する」
コタマは小さく頷いた。
「了解しました」
チヒロは保存先の権限制限を確認する。保存するもの。保存しないもの。残すべきログ。残してはいけない痕跡。指が迷わないように見えるのは、迷いを先に全部奥へ押し込めているからだった。
画面の奥には、動画がある。
まだ本体は再生されていない。
それでも、ここにいる全員がもう少しずつ削られていた。
「もう一段いきます」
ヒマリが言った。
ユウカがすぐに権限を切り替える。
「隔離三層目、閉じました。外部出力なし。ログはチヒロ指定範囲のみ」
「ハレさん」
「構造変化見てる」
「マキさん」
「色、見てる。今は濁ってるけど、まだ流れてない」
「コタマさん」
「無音、聞いています」
「チヒロさん」
「保存範囲固定。変なものが出たら止める」
ヒマリは頷いた。
「では」
指が触れる。
画面の文字列が沈んだ。
沈む、という言葉が一番近かった。消えたのではない。流れたのでもない。黒い画面の奥へ、意味だけが一段落ちる。落ちた場所から別の文字列が浮かび上がり、今度は斜めに崩れた。
「変化」
ハレが言う。
「右じゃない。下にずれた。こっちの“開けない手順”を食ったけど、まだ噛み切れてない」
「色、薄くなった」
マキがすぐ続ける。
「さっきより嫌な色が減った。でも、奥に残ってる。表面だけきれいにしてる感じ」
「無音の欠け、短くなりました」
コタマの声。
「声に近づいてる?」
「いいえ。逆です。声から離れています。ですが、離れたことで、空白の輪郭がはっきりしました」
ノアは何も書いていない。
記録端末は手の届くところにある。画面も開ける。手順を記録することはできる。けれど、ノアの指はそこへ伸びなかった。
触れなくても、意味がないことは分かっていた。
覚えるつもりのないものほど、輪郭だけが鮮明になる。
白い羽根の角度。
荒れた床の色。
髪の広がり方。
黒く塗り潰される直前の、画面端の布の皺。
まだ一瞬しか見ていない。
それでも、忘れる前提で扱えるものではなかった。
「ノア」
ユウカが小さく呼んだ。
「はい」
「大丈夫?」
ノアはすぐには答えなかった。
大丈夫、という言葉を使えば、その言葉の形も記憶に残る。今はそれすら少し重い。
「……見ています」
答えになっていない。
ユウカはそれ以上聞かなかった。
画面の変化は続いている。
ハレが構造を拾い、ヒマリが次の触り方を決める。マキが色の変化を見て、コタマが無音の欠けを追う。チヒロが保存の境界を削り、ユウカが権限を閉じ直す。
コユキは、自分の手元を見ていた。
端末室に落としてきたお菓子のことを、さっきから何度も思い出す。あんなに軽かった。あんなにくだらない言い訳をしていた。セミナーの未来だとか、調査だとか、褒められる可能性だとか。
怒られたい、と思った。
今すぐユウカにいつもの声で怒られたかった。
コユキ、あなたね。
申請書は。
どうして勝手に。
何度言えば分かるの。
そうやって怒られたら、まだいつもの失敗に戻れる気がした。
けれど、ユウカは怒らない。
怒らないまま、画面を見ている。
それが怖かった。
「ユウカ先輩」
声が出た。
ユウカは画面から目を離さずに返事をする。
「何」
「怒ってください」
ユウカの指が止まった。
ノアがコユキを見る。
ヒマリも、ほんの少しだけ視線を動かした。
「今は違うわ」
「違わないです。私、変なところを見つけて、勝手に開けようとして、みんなを呼ぶことになって、たぶん……たぶん、レナさんかもしれないものまで」
「コユキ」
ユウカの声が強くなる。
けれど、いつもの説教の強さではなかった。
止めるための声だった。
「今は、あなたを怒って楽になる場面じゃない」
コユキの唇が震える。
「でも、怒られた方がまだ……」
「楽になりたいなら、後でいくらでも叱ってあげる」
ユウカは画面から目を離して、コユキを見た。
「でも今は、ここにいて。あなたが見つけた場所を、あなたが覚えている順番を、今は使わせて」
コユキは泣かなかった。
泣く寸前の顔で、こくりと頷いた。
「……はい」
チヒロが視線を戻す。
「続ける」
その一言で、作業が再開した。
次の層は、なかなか剥がれなかった。
ヒマリが触れる。
ハレが止める。
ユウカが権限を閉じ直す。
チヒロが保存先を削る。
マキが「濁った」と言う。
コタマが「近づきすぎです」と言う。
ヒマリが手順を戻す。
一度、画面全体が真っ黒になった。
全員が止まる。
黒が深すぎて、端末が落ちたのかと思った。
その中に、細い線が浮く。
数字列。
動画ファイル名。
再生時間らしき表示。
ハレが息を吸った。
「来る」
「止める準備」
チヒロが言った。
「押さないでください」
ヒマリの声。
画面の中央に、サムネイル枠が現れる。
最初は黒。
次に、ざらついた灰色。
そして、一瞬ではなく、数秒。
白い羽根が映った。
床に触れている。
乱れている。
羽根の端に、薄い汚れのようなものがある。
その横に、淡い髪。
顔は見えない。
映っていない。
見えないからこそ、全員が息を止めた。
顔が映らなければ違うと言える。
音がなければ違うと言える。
名前がなければ違うと言える。
そういう逃げ道だけが、まだぎりぎり残っている。
サムネイルが黒に戻る。
誰も動かなかった。
最初に動いたのは、チヒロだった。
カーソルが再生ボタンへ近づきかけた瞬間、彼女は自分の手で止めた。
「ここまで」
「まだ中身は」
ユウカの声は掠れていた。
「分かってる」
「でも、ここまで来て」
「ここまで」
チヒロは繰り返した。
静かな声だった。
でも、誰にも押し返せない硬さがあった。
「ここから先は、流れで押していいものじゃない。誰が見るのか決める。どう保存するのか決める。見た後に誰が一人にならないようにするか決める。もし本当にレナさんに関わるものだったら、今の勢いで再生していいものじゃない」
コユキが下を向く。
ハレが目を閉じる。
「賛成。見てから考えればいい、って感じじゃなさそう」
「私も」
コタマが言う。
「聞く準備ができていません。まだ、何を聞くことになるのかも分からないので」
マキは何も言わなかった。
ただ、画面の黒い枠を見たまま、唇を噛んでいる。
「違うかもしれないじゃん」
小さく、マキが言った。
誰かに反論する声ではなかった。
自分の中に無理やり置くための声だった。
「白い羽根の子なんて、他にもいるし。画質だって悪いし。顔、見えてないし」
言いながら、マキの声は少しずつ弱くなった。
「……違うかもしれないじゃん」
二度目は、ほとんど願いだった。
ヒマリは指を膝の上に戻した。
「ええ。ここで止めましょう」
ユウカはすぐには頷かなかった。
見たくない。
でも、見なければならないかもしれない。
その二つが、ユウカの中で引っかかっている。管理すべきものなら、開いて分類し、危険度をつけ、処理しなければならない。けれど、今ここで分類してしまったら、違っていてほしいという余地まで消してしまう気がした。
「……本当に」
ユウカが言いかける。
言葉が止まる。
本当に、レナさんなの。
最後まで言えなかった。
ノアが静かに口を開く。
「断定は、まだしません」
誰も、その言葉に救われなかった。
ノアは、断定という言葉を選んだ。
否定、とは言えなかった。
まだ違うと言える材料を探しているのに、探しているものが証拠ではなく逃げ道なのだと、もう気づいていた。
「ただ」
ノアの声が、ほんの少しだけ遅れる。
「私は、見間違えたとは言えません」
コユキの目から、涙が落ちた。
泣こうとしていなかった。
顔を歪めたわけでもない。
ただ、目に溜まっていたものが、耐えられずに落ちた。
ユウカが一歩動こうとした。
その時だった。
警報が鳴った。
赤い光が、部屋の壁を横切る。
コユキが肩を跳ねさせる。ユウカは反射的に端末へ手を伸ばす。ノアが入口を見る。ハレが椅子から体を起こす。マキが端末の前に半歩出る。コタマがヘッドホンを片耳だけずらす。チヒロが画面と扉の間に立つ。
ヒマリは、端末から手を離さなかった。
「外部?」
ユウカが聞く。
エイミが別端末を見る。
「違う。ミレニアム側の警備。危険ファイル解除検知」
「C&Cが来ます」
ヒマリが言った。
足音が近づいてくる。
速い。
迷いがない。
扉が開いた。
「何やってんだ、てめぇら!」
ネルの声が飛び込んでくる。
その後ろで、カリンが銃口を下げきらないまま室内を見た。アカネは扉の脇へ半歩ずれ、廊下側を一度確認してから視線だけを戻す。アスナは、いつものように明るく名前を呼ぼうとしたのかもしれない。唇が少し開いて、それきり声にはならなかった。
ネルが画面を見た。
止まった。
怒鳴った勢いが、そのままどこかで切れたみたいに、肩だけがわずかに上下している。
黒く戻ったサムネイル枠。
警報の赤い光。
白い羽根はもう映っていない。
それでも、ネルの指が曲がった。
何かを掴む形だった。
画面の中に手を伸ばせるわけでもないのに。
カリンの指が、引き金の手前で固まる。銃口を下げる理由を探しているのに、命令が指まで届いていないようだった。アカネは扉を閉める手を止めた。閉めれば安全になる場面ではなかった。アスナは一歩だけ前に出て、それから、足を下ろす場所が分からなくなったみたいに止まった。
誰も再生ボタンに触れていない。
警報だけが鳴っている。
赤い光が、黒い画面の上を何度も横切った。