戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
「……何だよ」
ネルの声は、さっきより低かった。
「これ」
誰もすぐには答えなかった。
ユウカは端末の横に立っている。チヒロは画面と扉の間にいた。ノアは記録端末に触れていない。コユキは膝の上で手を握り、ハレは椅子から身体を起こしている。マキは画面から視線を外せない。コタマはヘッドホンを片耳だけずらした状態で止まっていた。ヒマリは端末から手を離していない。
答えたのは、チヒロだった。
「未確認の動画ファイル」
「あ?」
「コユキが見つけた。動画本体はまだ再生してない。サムネイルらしきものだけ、何度か表示された」
「サムネイル?」
ネルの目が、画面から離れない。
そこには今、何も映っていない。
何も映っていないからこそ、さっき見えたものを誰も消せない。
「レナさんに関係があるとは、まだ断定できない」
チヒロは、そこを最初に言った。
ネルの指が曲がった。
何かを掴む形だった。
「……まだ?」
「顔は見えていない。音声もない。名前もない。ただ、白い羽根と、髪のようなものが映った。似ている、とは言える。でも、断定できる情報は足りない」
「だったら」
ネルが一歩踏み出す。
カリンの視線が、その足元へ走る。アカネが扉を閉めた。音を立てないように、ゆっくりと。アスナはまだ動けない。
「だったら、再生すりゃいいだろ」
ネルの声は荒かった。
けれど、怒鳴りきれていなかった。
怒鳴れば済む話ではないことを、もう身体が分かっている。だから余計に、声だけが前へ出ようとして失敗していた。
「見る」
ネルは短く言った。
「今すぐ見せろ」
「待って」
チヒロが止めた。
ネルの目が鋭くなる。
「何を待つんだよ」
「再生する前に決めることがある」
「んなもん、後でいいだろ」
「後でよくない」
チヒロの声は上がらなかった。
それが逆に、部屋の中で強く響いた。
「もし本当にレナさんに関わるものだった場合、この場の勢いで見ていいものじゃない。見た人間がどうなるか分からない。保存の扱いも、共有範囲も決めていない。誰かが途中で止めるかもしれない。その時、止めた人を責めないと決める必要もある」
ネルの眉が動いた。
「責める?」
「怒りで見るものじゃない」
その一言で、ネルの足が止まった。
空気が張る。
ネルはチヒロを睨んでいる。普段なら、そのまま噛みついていたかもしれない。だが、今は違った。怒りで突っ込めば何かを間違える。そういう言葉を、ネルは知っていた。
画面の中に、まだレナはいない。
いると決まったわけではない。
それでも、ネルの手は、勝手に何かを掴む形のままだった。
「……じゃあ、どうすんだ」
ネルが言った。
チヒロは全員を見た。
「見るなら、この場にいる全員が見る」
ユウカが少しだけ息を吸った。
ノアの目がチヒロへ向く。
コユキが顔を上げる。
カリンの指が銃から離れかけて、止まる。
「本当は、人数を絞るべきだと思う」
チヒロは続けた。
「でも、もうここまで関わってる。解析した人間、見つけた人間、管理した人間、警報で来た人間。ここで誰かだけを外せば、後でさらに危険になる可能性がある。誰かが知らないまま動けば、守るべきものを間違えるかもしれない」
「先生は?」
アカネが静かに聞いた。
ユウカはすぐには答えなかった。
先生。
呼ぶべきだ。
大人として。
シャーレとして。
レナに関わる可能性があるなら、なおさら。
けれど、今この段階で呼ぶことは、まだ正体の分からない映像をさらに広げることでもある。見つかったものが何なのか、自分たちですら説明できない。もしレナに関わるものなら、本人の知らないところで、見る人間を増やすことになる。
ノアが口を開いた。
「先生には、最後に連絡します。いえ、するべきです。ただ、今はまだ、何を見つけたのかをこちらも説明できません」
「説明できる形にするために見る、か」
ハレが呟いた。
「最悪」
「最悪でも、やらなきゃいけない時はある」
チヒロが言った。
コタマはヘッドホンを外すか迷っていた。
片耳だけずらしたまま、指が止まっている。聞きたいわけではない。けれど、聞かなければならない。声があるのか。声にならなかった音があるのか。それを拾う役目は、自分に来る。
マキは画面の斜め前に立った。
色を見るため。
そういう理由をつけていた。
でも本当は、正面に立つのが怖かった。正面から見たら、違うかもしれないという余地が減ってしまう気がした。
ヒマリは、冷めた紅茶へ一度も視線を向けなかった。
カップの横にある小さな菓子もそのままだ。選ばれたもの。置かれたもの。誰かが自分のために考えてくれた時間。そういうものが、今はあまりにも画面の黒と遠かった。
「ルールを決める」
チヒロが端末の前に戻った。
「一つ。途中で停止したい人がいたら止める。止めた人を責めない」
誰も反論しない。
「二つ。再生中に誰かが部屋を出る場合、一人では出ない」
アカネが頷いた。
「私が付き添います」
「三つ。録画、複製、外部送信はしない。ログは最低限。保存範囲は私が管理する」
「こちらでも確認するわ」
ユウカが言った。
「四つ。レナさんに関わると断定できても、この場で本人に接触しない。まず先生に連絡するか、本人へどう伝えるかを決める」
ネルが舌打ちした。
「本人に言わねぇで勝手に見るのかよ」
その言葉で、何人かの視線が揺れた。
言ってはいけないことではない。
むしろ、そこから目を逸らしてはいけない。
チヒロは頷いた。
「そう。だから最悪」
ネルの眉間に皺が寄る。
「でも、見ないまま放置する方が、もっと悪いかもしれない。これが誰かに仕掛けられたものなら、本人に直接届く前に止める必要がある。本人に見せるかどうかも、今ここで決めることじゃない」
「……気に食わねぇ」
「私も」
チヒロは短く返した。
ネルはそれ以上言わなかった。
カリンが銃を下ろした。
完全には手を離さない。けれど、戦うための構えではなくなった。守る対象が画面の中にはいない。それでも、カリンの身体は射線を探してしまう。出口。端末。ヒマリ。ユウカ。コユキ。ネル。もし誰かが崩れた時、どう動くか。
アカネは扉を閉め切り、外から中が見えないようにブラインドを下ろした。照明を少し落とし、椅子を二脚だけ後ろへずらす。誰かが座り込んだ時に、ぶつからないように。
それでも、画面の中には届かない。
アスナは、部屋の端に立っていた。
いつもなら、緊張した空気を破るのは得意だった。明るく手を引いて、楽しい方へ連れていく。迷った道でも、笑えば少し軽くなる。
でも今は、どこへ連れていけばいいのか分からない。
「アスナ」
カリンが小さく呼んだ。
「うん」
「無理に笑わなくていい」
アスナは少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「……うん。今は、ちょっと無理かも」
その笑顔は、いつものものとは違っていた。
コユキが小さく手を上げた。
「私も、見ます」
ユウカがすぐに振り向く。
「コユキ」
「私が見つけました。最初に触りました。だから、見ないのは」
「だから、見るのよ」
ユウカは言った。
止める言葉ではなかった。
コユキが目を見開く。
「ただし、私の隣にいなさい。立ち上がらないこと。無理だと思ったら言うこと。逃げたいと思ったら、それも言うこと」
「……怒らないんですか」
「怒るわよ」
ユウカの声は少しだけ戻った。
「でも今じゃない。今は、あなたが勝手に消えないことの方が大事」
コユキは唇を噛んだ。
「はい」
ノアは、記録端末を閉じた。
その音は小さかった。
けれど、ユウカは気づいた。
「ノア」
「記録しません」
ノアは画面を見たまま言った。
「必要なログは、チヒロさんとユウカちゃんが管理します。私は、今ここで余分な記録を増やしません」
記録しなくても、覚える。
そのことを誰も口にしなかった。
ヒマリが、ようやく端末へ手を戻した。
「再生範囲は最初の数秒に限定します。異常な信号、音声、映像の負荷があれば即停止。コタマさん、音声に異常があれば」
「止めます」
「ハレさん、構造変化は」
「見る。変だったら止める」
「チヒロさん」
「停止権限はこっち。誰かが止めろと言ったら止める」
ユウカは深く息を吸った。
「始めましょう」
誰も返事をしなかった。
返事の代わりに、全員が画面を見た。