戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

86 / 88
壊れた部屋

 

 

 画面は黒かった。

 

 再生終了。

 

 たった四文字が、何事もなかったように中央へ残っている。

 

 警報は鳴っていない。赤い光も消えている。端末室の照明は元に戻り、空調の低い音も、機械の駆動音も、いつも通りにそこにあった。何も壊れていない。机も、椅子も、端末も、扉も、壁も、全部そこにある。

 

 それが、ひどくおかしかった。

 

 さっきまで画面の中でレナが壊されていた。立ち上がろうとして床へ戻され、救護バッグへ伸ばした手は届かず、顔を逸らそうとして顎を掴まれ、泣きそうな目をカメラへ戻されていた。見ないで、と言った。助けてと言いかけて、音が切れた。抵抗したところも、立ち上がったところも、誰かに手を伸ばしたところも削られて、動けなかった瞬間だけが、レナという人間のすべてみたいに並べられていた。

 

 なのに、部屋は壊れていない。

 

 そこにあるものは、何も変わっていない。

 

 それが、一番理解できなかった。

 

 誰も、最初の言葉を持っていなかった。

 

 呼吸すら、どこかへ置いてきたみたいだった。

 

 ユウカの指は、停止ボタンの上にあった。

 

 もう意味がない。

 

 再生は終わっている。画面は黒い。映像は最後まで流れ、勝手に止まった。停止するべき映像は、もう存在しない。そんなことは見れば分かる。ユウカの頭のどこかは、まだそれを理解できる。理解できるからこそ、余計に分からなかった。

 

 では、自分は何を止めようとしているのか。

 

 指が動く。

 

 一度、押す。

 

 反応はない。

 

 もう一度、押す。

 

 黒い画面は黒いままだ。

 

 三度目。

 

「……止まって」

 

 声が漏れた。

 

 自分の声だと気づくのに、一拍遅れた。こんな声は自分のものではないと思った。違う、と思った。けれど、違わなかった。

 

 止まっている。画面は止まっている。再生終了の文字も出ている。ファイルとしては終わっている。処理としては完了している。だから、停止ボタンを押す意味はない。ないはずなのに、指は同じ場所へ戻る。

 

 止まってほしいのは、映像ではなかった。

 

 頭の奥で続いているレナの声だった。

 

 見ないで。

 

 やめて。

 

 たす、と言いかけて切られた音。

 

 喉の奥で崩れた息。

 

 顎を掴まれて、カメラへ戻された時の、あの小さな拒絶。

 

「止まってるよ」

 

 ハレが言った。

 

 眠そうな声ではなかった。

 

「もう、ファイルは終わってる」

 

「終わってない」

 

 ユウカは画面を見たまま言った。

 

 自分でも、声が変だと分かった。普段ならこんなふうに言わない。こんな、計算も整理もできていない声を、誰かに聞かせたりしない。

 

「終わってないの。だって、まだ聞こえるじゃない。まだ、レナさんの声が、ここに」

 

 そこで口を押さえた。

 

 言ってはいけないことを言った気がした。

 

 まだ聞こえる、と言葉にした瞬間、部屋の中にいる全員が、同じ音を思い出したように見えた。誰かの肩が小さく震える。誰かが息を詰める。コタマの指がヘッドホンの端に触れて、けれど外さないまま止まる。

 

 チヒロの手は、保存権限の画面の上で浮いていた。

 

 保存するにも、消すにも、隔離するにも、指はどこかへ下りなければならない。だが、どこにも下ろしたくなかった。下ろした瞬間に、その行為が決まってしまう。

 

 残す。

 

 消す。

 

 証拠にする。

 

 資料にする。

 

 ログとして扱う。

 

 どれも必要な言葉だ。分かっている。今ここで、この映像を完全に捨ててしまえば、誰が作ったのか、どこから流れたのか、次にどこへ出るのか、追えなくなる。二度と同じものを出させないためにも、最低限の痕跡は残さなければならない。

 

 それでも、あれをログと呼ぶのか。

 

 レナが見ないでと言ったものを、保存対象と呼ぶのか。

 

 顎を掴まれて戻された顔を、必要だからといって、もう一度どこかに閉じ込めるのか。

 

「……隔離」

 

 チヒロは、ようやく声を出した。

 

「まず、隔離する。保存じゃない。共有じゃない。最低限、触れない場所に置く」

 

 自分へ言い聞かせるようだった。

 

 そう言わなければ、指が動かない。そう言葉を分けなければ、自分が何をしているのか分からなくなる。保存ではない。共有ではない。隔離。触れない場所。必要最低限。被害拡大防止。追跡のため。二次流出防止のため。

 

 正しい言葉を並べれば並べるほど、喉の奥が苦くなった。

 

 キーに指を下ろす。

 

 一つだけ操作する。

 

 それだけで、手が震えた。

 

「消したい」

 

 チヒロは言った。

 

 誰に向けた声でもなかった。

 

 部屋の誰も、反論しない。

 

「でも、消せない」

 

 続いた声は、少し崩れていた。

 

「残したくない。でも、残さないと追えない。作った相手も、流れた経路も、分からない。分からないまま消したら、またどこかで出るかもしれない。だから残すしかない。でも、残すってことは、あれを、あの子の声を、あの顔を、どこかに置くってことで」

 

 そこで言葉が詰まった。

 

 淡々と言うつもりだった。倫理の話として。情報管理の話として。被害拡大を止めるための手順として。

 

 でも、できなかった。

 

「……最悪だね」

 

 その声は、いつものチヒロのものではなかった。

 

 ただの、苦い本音だった。

 

「残すって言ったか」

 

 ネルの声が落ちた。

 

 低かった。

 

 机の下から響いてくるような声だった。

 

 カリンがわずかにネルへ視線を向ける。アカネも、音もなく重心を変えた。止める準備だった。ネルはまだ動いていない。けれど、もう動く直前の身体をしている。

 

「おい。今、残すって言ったよな」

 

 チヒロは返事をしたくなかった。

 

 したくなかったが、黙っていればネルは端末を壊す。その拳は、理屈で止まる位置を過ぎかけている。端末を壊せば、追えるものまで失うかもしれない。そう分かっているから、チヒロは答えるしかなかった。

 

「残さないと追えない」

 

「あれをか」

 

 ネルの目が、黒い画面を見た。

 

「あいつが、見ないでって言ったやつをか」

 

 チヒロの喉が動いた。

 

 何かを飲み込んだのではない。飲み込めるものを探して、何も見つからなかっただけだった。

 

「そうだよ」

 

 その一言は、ネルではなく、チヒロ自身を刺した。

 

「そうしないと、次を止められないかもしれない」

 

「次なんかさせねぇよ!」

 

 ネルが踏み込んだ。

 

 声が部屋の壁に叩きつけられる。コユキがびくりと肩を跳ねさせ、アスナの指が空中で止まった。ユウカが止めようとして一歩目を踏み出せない。ネルの怒りは、声だけではなかった。部屋の温度を変えるような圧だった。

 

「今すぐぶっ壊せばいいだろ! これ作ったやつも、隠したやつも、見せたやつも、全部! 全部ぶっ潰せばいいだろうが!」

 

「標的がありません」

 

 カリンの口から出た言葉は、任務報告のようだった。

 

 言った瞬間、カリン自身が止まった。

 

 標的がない。

 

 射線がない。

 

 距離がない。

 

 撃てる相手がいない。

 

 守るべき相手は、画面の中にしかいなかった。過去の映像の中にしかいなかった。そこへ弾は届かない。カリンがどれほど正確に狙えても、どれほど早く撃てても、画面の中の手を弾き飛ばすことはできない。レナの髪を踏んだ足を撃ち抜くことも、顎を掴んだ手を止めることもできない。

 

 カリンの指が震えていた。

 

 銃を持つ手ではない。ネルを止めるために伸ばしかけた手の方だった。

 

 ネルはそれを見た。

 

 それでも怒りは消えない。

 

「聞こえてた」

 

 ネルが言った。

 

 低く。

 

「聞こえてたんだよ」

 

 誰も返せなかった。

 

「やめてって。見ないでって。たす、って。あいつ、助けてって言いかけてただろ。言えなかったんだろ。聞こえてただろうが、全部」

 

 ネルの拳が震えている。

 

「なのに何だよ。ここは。何でここにいんだよ、あいつは。何で画面の中なんだよ。何で、聞こえてんのに、届かねぇんだよ」

 

 最後は怒鳴り声ではなかった。

 

 怒りの奥に、もっと深くて重いものがあった。

 

 ネルは端末へ向かって動いた。

 

 速い。

 

「ネル!」

 

 カリンが腕を掴んだ。

 

 アカネが反対側へ入る。

 

 ネルの拳は端末の手前で止まった。止められたというより、三人の力がぶつかって、かろうじて止まった。

 

「離せ」

 

 ネルの声は低かった。

 

「離せよ」

 

「今壊せば追えません」

 

 カリンの声も硬い。けれど、その硬さの下で、何かが震えている。

 

「分かってる」

 

「なら」

 

「分かってても、壊してぇんだよ!」

 

 叫びが部屋に落ちた。

 

「何か壊さねぇと、どこに置けばいいんだよ、あの声を!」

 

 ネルは腕を振りほどこうとした。カリンが歯を食いしばる。アカネも力を込める。二人ともネルを傷つけないように止めている。けれど、ネルの怒りは手加減できる形をしていなかった。

 

 それでも、端末には届かなかった。

 

 ネルの拳は、端末ではなく机の端へ落ちた。

 

 鈍い音がした。

 

 誰も責めなかった。

 

 誰も止めなかった。

 

 机が揺れ、ヒマリの紅茶のカップが小さく震えた。

 

 冷めた紅茶。

 

 その隣の小さな菓子。

 

 ヒマリは、それを見ない。

 

 見たら、レナが自分のために選んだ時間と、あの映像のレナが同じ場所に並んでしまう。菓子を選んだ手。紅茶の香りを気にした声。笑った顔。それと、救護バッグへ届かなかった手。顎を掴まれ、泣きそうな目をカメラへ戻された顔。

 

 重なってしまう。

 

 それが耐えられなかった。

 

 ヒマリは言葉にしたくなかった。

 

 言葉にすれば、映像の構造を認めることになる。あの順番が、あの音声の切り方が、あの顔を映すタイミングが、偶然ではないと認めることになる。レナが壊れた瞬間だけを選び、見る者の理解と想像を傷つけるために並べられたのだと、認めることになる。

 

 けれど、分かってしまう。

 

 分かる。

 

 分かってしまう。

 

 全知という冗談が、今だけはひどく遠かった。

 

「これは」

 

 ヒマリが言った。

 

 声は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

「記録ではありません」

 

 全員の視線が、少しだけ向く。

 

「攻撃です」

 

 黒い画面を見たまま、ヒマリは続けた。

 

「レナさんへの攻撃であり、これを見る私たちへの攻撃でもある。映像の順番、音声の切り方、顔を映すタイミング、言葉を残す位置。すべて、理解と想像を傷つけるように調整されています」

 

 声は冷静だった。

 

 だからこそ、聞いている側の傷口にまっすぐ入ってくる。

 

「レナさんが立ち上がった部分が削られている。抵抗した部分が削られている。救おうとした部分が削られている。残されたのは、動けなかった瞬間、届かなかった瞬間、声が壊れた瞬間だけです」

 

「言わないで」

 

 ユウカが言った。

 

 ヒマリが口を閉じる。

 

 ユウカは顔を上げていた。目が赤い。泣いているわけではない。少なくとも、本人はそう思っている。けれど、呼吸は乱れていた。自分の声がどこから出ているのか分からないような顔だった。

 

「分かってる。言わなきゃいけないのも分かってる。でも、今それを、そんなふうに説明されたら」

 

 拳を握る。

 

「レナさんが、そういうふうに分解されていくみたいで……!」

 

 ヒマリは何も返せなかった。

 

 その通りだった。

 

 解析とは、分けることだ。構造を見ることだ。意味のある要素を拾い、並べ直し、理解できる形にすることだ。けれど今それをすると、レナの叫びが、泣き声が、手が届かなかった瞬間が、解析対象になる。

 

 ヒマリは初めて、理解すること自体を嫌悪した。

 

「……失礼しました」

 

 いつもの優雅な言い回しではなかった。

 

 本当に、謝った声だった。

 

 その静けさを破るように、コユキの椅子が軋んだ。

 

「私が」

 

 その声に、ユウカが振り向く。

 

 コユキは膝の上で両手を握っていた。爪が食い込むほど強く。涙はもう落ちていた。泣こうとして泣いているのではなく、身体が勝手にそうしているようだった。

 

「私が見つけました」

 

「違う」

 

 ユウカはすぐに言った。

 

 早すぎる否定だった。

 

 でも、言わずにはいられなかった。

 

「あなたが作ったものじゃない。あなたが撮ったものじゃない。あなたが編集したものじゃない」

 

「でも、見つけたのは私です」

 

 コユキの声が震える。

 

「私が触りました。私が奥まで行きました。私が、なんか面白いもの見つけたかもって思って……っ、私が、最初に」

 

「コユキ」

 

 ノアが静かに呼んだ。

 

 コユキは首を振った。

 

「やだ、やだ、そんな声で呼ばないでください。ノア先輩までそんな顔しないでください。怒ってください。怒られた方がいいです。ユウカ先輩も、怒ってくださいよ。勝手に危ない場所に入ったって。申請書も出さないで何してるのって。いつもみたいに、ちゃんと……ちゃんと怒ってください」

 

 ユウカの顔が歪む。

 

「今は」

 

「今じゃないって言わないでください!」

 

 コユキの声が跳ねた。

 

 怒鳴り声ではない。泣き声が、形を間違えて大きくなったような声だった。

 

「怒られたら、まだいつもの失敗にできるんです。私がまたやらかして、ユウカ先輩に叱られて、ノア先輩に見られて、反省文書いて、それで終われるんです。お願いです。そうしてください。そうじゃないと、私……私が見つけたせいで、レナさんがあんな……あんな声を」

 

 最後は声にならなかった。

 

 コユキは椅子から立ち上がりかけて、座り直した。

 

 逃げ道は分かっている。扉まで何歩か。誰の横を通ればいいか。どうすればこの部屋から出られるか。今すぐ廊下へ出て、角を曲がって、走って、どこか誰もいない場所へ隠れる手順なら、頭の中にある。

 

 分かっているのに、足が動かない。

 

「逃げたいです」

 

 コユキは泣きながら言った。

 

「でも、逃げたら、本当に私、最低になる」

 

 ノアはコユキの肩へ手を伸ばしかけた。

 

 触れなかった。

 

 触れたら、コユキが崩れてしまいそうだった。

 

 ノア自身も、崩れてしまいそうだった。

 

 記録端末には触れていない。

 

 触れていないのに、全部残っている。

 

 ノアは目を閉じた。

 

 失敗だった。

 

 閉じた瞬間、映像は画面より鮮明になった。羽根の角度。髪を踏んでいた靴底の向き。レナの唇が「見ないで」と動く前の、一瞬の震え。顎を掴まれた時の、目の揺れ。助けてと言いかけて、飲み込まれた音。切られた箇所。残された呼吸。

 

 忘れようとしているのではない。

 

 思い出そうとしているのでもない。

 

 ただ、残っている。

 

「……記録していません」

 

 ノアが言った。

 

 声は、自分でも驚くほど平らだった。

 

「でも」

 

 少しだけ間が空く。

 

「残っています」

 

 その平らさが、もう壊れていた。

 

 ユウカが顔を上げる。

 

 ノアは静かだった。

 

 静かすぎた。

 

「消す場所がありません」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 言えば、もっと正確に言えてしまうからだ。映像の順番も、声の震えも、レナの目元の赤さも、全部、言葉にできてしまう。そんな自分が、今は怖かった。

 

 コタマがヘッドホンを外した。

 

 ゆっくりと。

 

 耳から離せば、部屋の音が戻るはずだった。空調。端末。誰かの呼吸。机の軋み。ネルが机を殴った後の、まだ残っている振動。

 

 けれど、コタマの顔は変わらなかった。

 

「……外したのに」

 

 声が小さい。

 

「まだ、聞こえます」

 

 誰も、何がとは聞かなかった。

 

 聞かなくても分かる。

 

 レナの声。

 

 見ないで。

 

 やめて。

 

 助けてと言いかけて切られた音。

 

 泣き声になる前の息。

 

 コタマは耳を塞がなかった。塞いでも意味がないと、もう分かってしまっていた。音は外から来ていない。ヘッドホンの中にもない。自分の中に入ってしまっている。

 

 マキは画面を見ていなかった。

 

 見ていないのに、目がどこにも定まらない。色を探す癖が、無意識に出ている。でも、言えなかった。

 

 色を言うと、あれに色をつけることになる。

 

 あの映像を、自分の言葉でなぞってしまう。

 

「マキ」

 

 ハレが呼んだ。

 

 マキの反応は遅れた。

 

「……言いたくない」

 

「何を」

 

「色」

 

 マキは唇を噛んだ。

 

「言いたくない。嫌な色って言ったら、私がちゃんと見たみたいになる。分かったみたいになる。そんなの、やだ」

 

 ハレは何も言わなかった。

 

 眠い、とも言わなかった。

 

 椅子に深く座っている。いつもの姿勢に近い。けれど、目だけが完全に起きている。目を閉じれば、構造が浮かぶ。止めようとした操作を再生条件に組み込む仕組み。見る側を逃がさない設計。編集の順番。切られた音の位置。

 

 分かる。

 

 分かってしまう。

 

 だから、目を閉じられない。

 

「寝たいって言えばさ」

 

 ハレがぽつりと言った。

 

「いつもの感じになると思ったんだけど」

 

 誰も笑わない。

 

「言えないね、これ」

 

 アカネは動いていた。

 

 最初は、誰も気づかなかった。

 

 椅子を一つ引く。倒れた人がいた時にぶつからない位置へずらす。水のボトルを机の端へ置く。出入口の前を空ける。床のケーブルを寄せる。照明を少し落とす。

 

 安全な環境を整える。

 

 人が崩れた時、少しでも傷つかないようにする。

 

 いつものアカネの動きだった。

 

 けれど、途中で手が止まった。

 

 水のボトルを置いた手が、そのまま動かない。

 

「……ここしか」

 

 声は小さかった。

 

「整えられる場所が、ここしかありません」

 

 画面の中のレナには、何も届かなかった。

 

 水も。

 

 椅子も。

 

 上着も。

 

 退路も。

 

 照明の明るさも。

 

 アカネは顔を伏せた。

 

 その隣で、アスナが手を伸ばしていた。

 

 誰に向けた手なのか、自分でも分かっていないようだった。

 

 レナを引きたいのか。

 

 コユキを支えたいのか。

 

 ネルを止めたいのか。

 

 ユウカの手を取りたいのか。

 

 分からないまま、手だけが宙に浮いていた。

 

 アスナは笑おうとした。

 

 いつもの癖だった。怖い場所でも、重い空気でも、笑えば少しだけ進めることを知っていた。誰かの手を取って、明るい方へ引っ張れば、少なくともその場からは動ける。迷った道でも、走れば次の角には出られる。

 

 でも、口角が上がらなかった。

 

 楽しい方が、どこにもない。

 

 画面の中にも。

 

 部屋の中にも。

 

 自分の手の先にも。

 

「……どこに」

 

 アスナの声は、笑おうとして失敗した声だった。

 

「どこに連れていけばよかったのかな」

 

 誰も答えられなかった。

 

 楽しい方がない。

 

 明るい方がない。

 

 手を引いて走れば抜けられる出口がない。

 

 画面の中に、道はなかった。

 

 その時、ユウカが息を吸った。

 

 浅く。

 

 短く。

 

「ログを」

 

 また、言いかける。

 

 止まる。

 

 ログ。

 

 自分の言葉に、自分で傷つく。

 

 ユウカは机に手をついた。指先が震えている。予定なら組める。提出物なら管理できる。費用なら計算できる。被害なら報告書にできる。手順なら作れる。いつだって、そうやって事態を前へ進めてきた。

 

 でも、あれをどこに入れる。

 

 あの「見ないで」を、どの欄に入れる。

 

 あの届かなかった手を、どの分類に入れる。

 

「違う」

 

 ユウカは誰も責めていないのに、また否定した。

 

「違うの。私は、レナさんを、そんなふうに扱いたいんじゃなくて……!」

 

 声が裏返った。

 

 そこで、ようやくユウカは自分が泣いていることに気づいた。

 

 涙が落ちてから気づいた。

 

 ユウカは慌てて拭おうとした。けれど、手が止まる。泣いている場合ではない。管理しなければならない。指示を出さなければならない。流出経路を追わなければならない。先生に連絡するか決めなければならない。レナ本人へどう接するか、ゲーム開発部に見せるか、全部決めなければならない。

 

 なのに、涙が止まらない。

 

「なんで」

 

 ユウカの声が震えた。

 

「なんで、レナさんがあんなこと言わなきゃいけないの。なんで、あんな顔を、誰かに見せられなきゃいけないの。なんで、私たちは、見てしまったの」

 

 答えはなかった。

 

 誰にもなかった。

 

 チヒロが黒い画面を見た。

 

 再生終了。

 

 もう何も映していない。

 

 なのに、部屋は壊れていた。

 

 誰かが泣いていた。

 

 誰かが怒っていた。

 

 誰かが同じ操作を繰り返していた。

 

 誰かが理解できない顔で立っていた。

 

 誰かが処理しようとして失敗していた。

 

 誰かが、まだ黒い画面を見ていた。

 

 そしてその全員の前で、黒い画面だけが何も言わずに光っている。

 

 終わった映像のくせに。

 

 もう何も映していないくせに。

 

 まだ、誰もそこから動けなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。