戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
誰も、黒い画面から目を離せなかった。
見ていたいわけではない。むしろ、見たくない。もう何も映っていないのに、そこを見続けることがひどく間違っている気がした。けれど、視線を外した瞬間に、今度は頭の中であの映像が勝手に動き出す。それが分かっているから、誰も動けない。
再生終了。
その文字は消えない。
チヒロが、ゆっくり息を吸った。
隔離処理は終えた。ファイルは通常の再生環境から切り離した。複製も外部送信も止めている。最低限の安全措置は取った。そう判断できる材料は揃っている。
けれど、次に必要な言葉を口にするには、あまりにも喉が乾いていた。
「……確認しなきゃいけない」
声は小さかった。
それでも、部屋の全員に届いた。
ネルの目が、低くチヒロへ向く。
「何を」
短い問いだった。
チヒロはすぐには答えなかった。答えたくなかった。自分が今から言うことが、間違っていないと分かっている。だからこそ、言いたくなかった。
「編集点。メタ情報。音声の切れ方。映像の圧縮痕。どこで加工されたのか、どこから流れたのか、誰が触ったのか。追うためには、拾えるものを拾う必要がある」
言えば言うほど、声が自分のものではなくなっていく。
技術的には正しい。手順としても正しい。証拠保全としても、被害拡大防止としても、やらなければならない。
だが、その正しい言葉のひとつひとつが、レナの顔を切り分けていくように聞こえた。
映像。
音声。
圧縮痕。
編集点。
あの「見ないで」を、そんなふうに扱うのか。
ネルの喉が鳴った。
「もう一回見るってことか」
「全員では見ない」
チヒロはすぐに言った。
ネルが一歩出る前に、先に言葉を置かなければならなかった。
「必要な箇所だけ。映像そのものじゃなく、データとして。可能な限り画面を見ない形で、音声も分離して、手掛かりだけを拾う」
「手掛かりだけ?」
ネルが笑った。
笑い声ではなかった。
「そんな便利な分け方できんのかよ。あいつの声だけ聞かねぇで音声の切れ方を見るとか、あいつの顔だけ見ねぇで映像の加工を見るとか、そんなことできんのかよ」
チヒロは黙った。
できる、と言うべきだった。
やらなければならない、と言うべきだった。
でも、ネルの言葉は正しかった。完全に分離できるはずがない。どれほど画面を暗くしようと、音声を波形に変えようと、そこにあったものがレナの声で、レナの顔で、レナの届かなかった手だったことは消えない。
カリンがネルの肩から手を離さないまま、低く言った。
「感情で止める場面ではありません」
ネルの視線がカリンへ向く。
鋭い。
刺すような目だった。
カリンは怯まなかった。けれど、指の震えはまだ完全には止まっていない。
「追跡には情報が必要です。犯人を見つけるためにも、再拡散を防ぐためにも、必要な作業です」
「お前も見ろって言うのか」
「……言いたくありません」
カリンの返答は、思っていたより弱かった。
ネルの怒りが一瞬止まる。
カリンは黒い画面を見なかった。見る代わりに、自分の銃へ視線を落とした。銃はそこにある。手入れされている。弾もある。撃つ準備もできる。けれど、今必要なのは弾ではない。画面の中でレナの髪を踏んだ足も、顎を掴んだ手も、ここにはいない。
「言いたくありません。でも、必要だと思います」
「必要なら何でもすんのか」
「いいえ」
カリンはすぐに否定した。
その否定が、少しだけ震えた。
「だから人数を絞るべきです。見る必要のない者には見せない。聞く必要のない者には聞かせない。必要な情報だけを取り出す。そのための手順を作るべきです」
正しい。
正しい言葉だった。
だが、その正しさがまた、部屋を削った。
必要な情報だけ。
見せない。
聞かせない。
まるで、さっき見てしまったものの中に、必要なものと不要なものがあるみたいだった。
「やめて」
ユウカが言った。
声は大きくなかった。けれど、部屋の会話を止めるには十分だった。
ユウカは机に手をついていた。涙は拭ったはずなのに、目元はまだ赤い。普段なら最初に手順を整えるのはユウカだ。誰が何をするか、何を優先するか、どこに報告するか。そういうものを並べるのは、自分の役目だと思ってきた。
なのに今は、その手順の言葉が怖かった。
「分かってる。全部、分かってるの。必要なのも、追わなきゃいけないのも、誰かがやらなきゃいけないのも」
ユウカは息を吸う。
上手く吸えない。
「でも、今、必要な情報って言われたら……レナさんのあの声を、そういうふうに分けられてるみたいで、嫌なの」
カリンは何も返せなかった。
責められているわけではないと分かっていた。けれど、言葉を選んだ自分の口が、急にひどく冷たいもののように感じた。
ヒマリが静かに口を開いた。
「ユウカさんの言うことは、正しいです」
ユウカは顔を上げる。
「ですが、カリンさんの言うことも正しい」
誰も、その両方の正しさを喜べなかった。
「問題は、ここから先の作業が、すべて二次被害に近い形を持つことです。見ないために見る。残さないために残す。忘れさせるために、誰かが覚えて扱う。矛盾しています。ですが、矛盾しているからといって止めれば、相手の意図した通りになる」
ヒマリは一度、紅茶のカップへ視線を向けかけた。
やめた。
まだ見られない。
「相手は、私たちに正しい判断を嫌悪させるために、これを作っています。保存も解析も追跡も、すべてレナさんへの裏切りのように感じさせるために」
「じゃあ、どうするの」
ユウカの声は掠れていた。
「見ないでって言ったのよ。レナさんが。あれを、私たちは見たのよ。これ以上、誰に見せるの。誰に聞かせるの」
その問いは、誰か一人へ向けたものではなかった。
けれど、ノアが答えた。
「再生しなくても、私が説明できます」
空気が止まった。
ユウカがノアを見る。
ノアは静かだった。静かすぎるほどに。記録端末には触れていない。けれど、その静けさの中に、もうすべてが並んでしまっていることをユウカは知っていた。
「ノア」
「映像の順序、切り替わりのタイミング、音声が切れた箇所、画面端に出た番号。必要な範囲なら、私が言えます。再生回数を増やさずに済みます」
「だめ」
ユウカの返事は即答だった。
「まだ何も」
「だめ」
もう一度、強く。
ノアの目が少し揺れる。
「ユウカちゃん」
「だめよ。あなた一人に言わせることじゃない。あなた一人に、もう一回見させるようなものじゃない」
「私は見直すわけではありません」
「同じよ!」
ユウカの声が跳ねた。
怒りではない。
恐怖だった。
「あなたが覚えているからって、あなたに言わせたら、それで再生しなくて済むなんて、そんなの違う。ノアが覚えてしまったことを、私たちのために使わせるなんて、そんなの……!」
ノアは口を閉じた。
平気です、と言おうとしていた。
言えなかった。
平気ではなかったからだ。
覚えている。全部ではない。全部ではないと信じたい。けれど、必要なものは覚えている。必要ではないものまで覚えている。レナが顔を逸らす前に一瞬だけ目を伏せたこと。顎を戻された時、瞳がカメラではなく少し横へ逃げたこと。助けてと言いかけた唇の動き。そこから音が切れたタイミング。
言える。
言えてしまう。
それが怖かった。
「……すみません」
ノアは言った。
なぜ謝るのか、自分でも分からない。
ユウカが目を伏せる。
「謝らないで」
その声は、先ほどより小さかった。
「お願いだから、謝らないで」
コユキが、その二人を見ていた。
涙は止まっていない。けれど、泣き声は少しだけ収まっていた。代わりに、別のものが顔に浮かんでいる。
決めてしまった顔だった。
「だったら」
コユキが言う。
「私が見ます」
「コユキ」
ユウカの声が低くなる。
「私が見つけたから。私が道を見つけたから。私が最初に触ったから。だったら、私がもう一回見て、どこに何があったか、どこから来たか、ちゃんと」
「だめ」
「でも」
「だめ」
ユウカは今度こそ、はっきり止めた。
「罰として見るものじゃない」
コユキの顔が歪む。
「罰じゃないです」
「罰にしようとしてる」
「違います!」
「違わない!」
ユウカの声が部屋に響いた。
コユキが肩を震わせる。
ユウカもすぐに、自分の声の強さに気づいた。だが、引けなかった。ここで曖昧にしたら、コユキは本当に自分を罰するために映像を見る。見つけた責任という名前で、もう一度自分をあの画面の前に座らせようとする。
それだけは、させられなかった。
「あなたが見つけたことと、あなたが傷つくべきことは違う。混ぜないで」
「でも、じゃあ誰がやるんですか!」
コユキは泣きながら叫んだ。
「誰かがやるんでしょ? 誰かがまた見るんでしょ? だったら、私が――」
「それを今決めるために話してるの!」
ユウカは言った。
怒鳴った後で、息が乱れた。自分の声がまた震えている。普段なら、もっと整った言い方ができた。もっと相手を傷つけない言い方ができたはずだった。
今は、できない。
ノアが静かにコユキの前に立った。
「コユキ」
今度は、コユキは首を振らなかった。
「あなたが逃げなかったことは、消えません。見つけたことも、持ってきたことも、相談したことも、全部、必要でした」
「でも」
「でも、その必要だった行動を、罰に変えないでください」
ノアの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、少しだけ危うかった。
「罰なら、楽です。自分が悪かったと思えば、全部そこへ置ける。でもこれは、あなた一人の失敗ではありません。まして、あなたが背負えば終わるものでもありません」
コユキは唇を噛んだ。
理解している顔ではなかった。
でも、聞こえてはいた。
その横で、マキが小さく呟いた。
「もう一回、色を見るの?」
誰も、すぐには答えられない。
マキは自分の手元を見ている。普段なら、色で言える。嫌な色、濁った色、嘘をつく色、沈んだ色。そうやって世界を掴んできた。けれど、あの映像に色を与えることが怖い。色にした瞬間、あの映像を自分の感覚で受け取ったことになる。
「……必要なら」
マキは自分で言いかけて、そこで止まった。
必要なら。
また、その言葉だ。
必要なら、見るのか。
必要なら、言うのか。
必要なら、レナが見ないでと言ったものに色をつけるのか。
「やだな」
マキは笑わなかった。
「必要って言葉、やだ」
ハレが目を細める。
「分かる」
その短い同意に、マキは少しだけ息を吐いた。
ハレは画面を見なかった。見なくても、構造は頭の中に残っている。止めようとした操作を再生条件に変える仕組み。分岐する処理。見ている側の抵抗を逆に利用する設計。あれはよくできていた。よくできていたと言えてしまうことが、嫌だった。
「構造だけなら、見られると思ったんだよね」
ハレが言った。
「映像そのものじゃなくて、処理だけ。止まらなかった理由とか、再生条件とか、仕組みだけなら。そう思ったんだけど」
そこで、少し間が空く。
「仕組みだけなんて、なかったね」
コタマが小さく頷いた。
「音も同じです」
ヘッドホンは膝の上にある。もう装着していない。だが、コタマの指はずっとその縁に触れていた。
「波形として見れば、分析できると思います。切断箇所、音圧、ノイズの種類、重ねられた音。見なくても、聞かなくても、データとして扱う方法はあります」
声は小さかった。
「でも、私には、聞こえてしまいます」
誰も何も言わない。
「音に戻ってしまいます。レナさんの声に。だから、分析できますとは……まだ、言えません」
それは、コタマにとっては敗北に近い言葉だった。
聞こえるから役に立つはずだった。
聞こえるから拾えるはずだった。
なのに今は、聞こえることそのものが、足を止めている。
アカネが、置いた水のボトルを見た。
誰も飲んでいない。
喉が渇いているはずなのに、誰も手を伸ばさない。水はここにある。椅子もある。休む場所も、外へ出る道も、誰かが倒れた時のスペースも用意した。部屋の安全は整えられる。
でも、それだけだった。
「見直す方がいるなら」
アカネは言った。
声は落ち着いていたが、落ち着きすぎていた。
「別室を用意します。照明を落とし、音量を制御し、途中で離脱できるようにします。水と毛布も。必要なら、医療班の待機も」
言葉が途中で止まる。
医療班。
救護。
レナの救護バッグ。
届かなかった手。
アカネは目を伏せた。
「……すみません。今の言い方は」
「言い方じゃない」
アスナが言った。
珍しく、はっきりした声だった。
アカネが見る。
アスナは笑っていなかった。手はまだ宙に浮いたままではない。今は胸の前で握られている。誰かの手を引くための手が、自分自身を押さえるために使われている。
「アカネちゃんは、いつも通りにしようとしてるだけ。悪くないよ」
そう言ってから、アスナは少しだけ目を伏せた。
「でも、いつも通りが、今は痛いんだね」
アカネは返事ができなかった。
その通りだった。
いつものように整えることも、いつものように分析することも、いつものように記録することも、いつものように管理することも、全部がどこかでレナの映像に触れてしまう。
だから、何をしても痛い。
ヒマリが、ゆっくりと息を吐いた。
「人数を絞りましょう」
部屋の空気が、再び張った。
ネルが睨む。
「またそれか」
「全員で見る必要はありません。むしろ、これ以上人数を増やすべきではない。再確認は、必要な情報に応じて分担します。映像全体を再生しない。フレーム単位で処理し、顔が映る箇所は遮蔽する。音声は波形へ変換し、必要な箇所のみ抽出する。……可能な限り、レナさんを再び“見世物”にしない形で」
最後の言葉で、ヒマリの声がわずかに揺れた。
見世物。
誰も、その言葉を否定しなかった。
否定できなかった。
チヒロが頷く。
「私が隔離環境を作る。再生じゃなくて解析用。通常のプレイヤーでは開かない。画面はマスクする。音声も直接再生しない」
「それでも必要な人は触るんでしょう」
ユウカが言う。
「触る」
チヒロは隠さなかった。
「でも、触る人数は減らす」
「誰が?」
ネルの声。
チヒロは答える前に、部屋を見た。
ヒマリ。ハレ。コタマ。マキ。ノア。ユウカ。自分。
誰の名前を出しても、その人を傷つけることになる。
「今ここで決めきらない」
チヒロは言った。
「一度、休憩を入れる。呼吸を戻す。水を飲む。誰が作業可能か、本人の意思を確認する。強制しない。罰としてやらせない。感情だけで選ばない」
「休憩?」
ネルが低く言う。
「今、休憩って言ったか」
カリンがわずかにネルを見た。
チヒロはネルの目を見返した。
「言った」
「休んでる場合かよ」
「休まないまま触ったら、判断を間違える」
「判断なんかもう間違ってんだろ!」
ネルの声がまた荒くなる。
「見ちまったんだよ! あいつが見ないでって言ったのに! それで次は休んでからもう一回ちゃんと見ましょうってか? ふざけんな!」
チヒロは答えなかった。
答えないことが、ネルの怒りをさらに煽ると分かっていても、すぐには答えられなかった。
代わりに、ユウカが口を開いた。
「ネルさん」
ネルが振り向く。
ユウカは机から手を離した。立っている足が少し不安定だったが、それでも視線を逸らさなかった。
「私も、休憩なんて言いたくありません。今すぐ全部追いたいです。誰がやったのか、どこから出たのか、全部突き止めたい。消せるなら消したい。壊せるなら壊したい」
声が震える。
「でも、今のまま触ったら、たぶん私は間違えます。レナさんを守るためじゃなくて、私がこの気持ちから逃げるために操作します。それは、だめです」
ネルは黙った。
ユウカの涙はまだ乾いていない。
それでも、その言葉は逃げではなかった。
ネルは舌打ちした。
いつもの乱暴な音より、ずっと苦かった。
「……長くは待てねぇ」
「分かっています」
ユウカは頷いた。
「長くは止まりません。でも、今このまま次の操作へ行くのは、危ない」
チヒロが小さく息を吐く。
その判断は、たぶん正しい。
でも、正しいだけでは誰も救われない。
ノアが静かに言った。
「先生には、連絡するべきです」
その言葉で、部屋がまた沈む。
先生。
その存在は、本来なら救いに近いはずだった。大人であり、シャーレであり、レナとも関わりがある。こういう時、連絡しない選択肢はない。
けれど、それはこの映像の存在を、さらに誰かへ伝えるということでもある。
ユウカの表情が歪んだ。
「……先生に、何て言えばいいの」
誰も即答できなかった。
黒服のビデオを見つけました。
レナさんの過去の映像です。
尊厳を傷つけるように編集されています。
見ないでと言っていました。
助けてと言いかけていました。
そんな言葉を、どうやって口にすればいい。
ノアは目を伏せた。
「すべてを最初から伝える必要はありません。まずは、重大な個人被害に関わる悪意ある映像資料を発見したこと。被害者がレナさんである可能性が高いこと。外部流出や二次拡散の危険があること。先生の判断が必要であること」
ノアの声は整っていた。
整っているからこそ、聞いている側は苦しくなる。
ユウカは目を閉じた。
「そうね」
返事はした。
だが、そのすぐ後に首を横へ振る。
「でも、それだけじゃない。先生はきっと、何が映っていたのか聞く。レナさんに知らせるべきか、どう保護するべきか、判断しなきゃいけないから。私たちは、言わなきゃいけない」
「言える?」
マキが小さく言った。
その問いは、ユウカへだけ向いていなかった。
誰が言えるのか。
誰が、レナの顔を、声を、届かなかった手を、別の言葉に変えて先生へ渡せるのか。
コユキが震えた。
「私、言えません」
正直な声だった。
「私、見つけたって言うのも、まだ言えない。先生に聞かれたら、絶対、変なこと言います。私が悪いって、言います。たぶん、止まらなくなります」
「なら、今は言わなくていい」
ユウカがすぐに言った。
さっきよりも穏やかに。
「あなたに最初の説明はさせない」
コユキは泣きながら頷いた。
ネルは壁を睨んでいる。
「先生に言う前に、レナには?」
誰もが、一瞬呼吸を止めた。
レナ本人。
この映像を見たことを、レナに伝えるのか。
伝えないのか。
伝えないまま、裏で対策するのか。
伝えるなら、誰が言うのか。
どこまで言うのか。
ユウカは唇を噛んだ。
「今すぐは、無理」
その言葉は、判断というより悲鳴に近かった。
「無理よ。今の私たちでレナさんに会ったら、絶対におかしくなる。普通に話せない。レナさんが何も知らずに笑ったら、たぶん……」
そこで言葉が切れた。
想像してしまった。
何も知らないレナが、いつものように入ってくる。
ヒマリに紅茶のことを聞く。
ユウカに難しい顔をしていると言う。
コユキを見て首を傾げる。
ネルに軽く声をかける。
その普通さに、自分たちは耐えられるのか。
誰も、自信がなかった。
「会わないってのか」
ネルの声が低い。
「避けるってことかよ」
「違います」
アカネが言った。
ネルが見る。
アカネは静かに続けた。
「今の状態で会えば、私たちはレナさんを見る目を制御できません。心配も、恐怖も、怒りも、罪悪感も、すべて顔に出るでしょう。それは、レナさんをさらに傷つける可能性があります」
「じゃあ何だよ。整えてから会いましょうってか」
ネルの声には棘がある。
だが、アカネは引かなかった。
「はい」
短い返事だった。
「少なくとも、私たちがレナさんを“映像の中の姿”として見ないための準備が必要です」
ネルが言葉を失う。
その言い方は、痛かった。
だが、必要だった。
レナ本人は、あの映像ではない。
黒服が切り取った姿ではない。
届かなかった手だけの子ではない。
見ないでと震えた声だけの子ではない。
それを分かっているはずなのに、今すぐ会ったら、きっと目が揺れる。見てしまったものが一瞬顔に出る。その一瞬で、レナは何かを察してしまうかもしれない。
アスナが手を握った。
「じゃあ、会う時は」
声は小さかった。
「誰か一人で行かない方がいいよね」
ユウカが見る。
アスナは少しだけ視線を落とす。
「一人だと、たぶん、顔に出ちゃうから。誰かが言えなくなった時、別の誰かが普通にしてあげないと。でも、普通にするって、難しいね」
最後の言葉は、ほとんど独り言だった。
チヒロが画面を閉じた。
今度は、隔離環境の操作で、黒い再生画面だけを隠す。ファイルそのものは消えていない。消せない。けれど、少なくとも部屋の中央から、再生終了の文字は消えた。
画面が暗くなる。
その瞬間、何人かが同時に息を吸った。
見えなくなった。
でも、消えたわけではない。
それを全員が知っている。
「十分だけ」
ユウカが言った。
声はまだ震えていた。
「十分だけ、席を外す人は外して。水を飲んで。必要なら座って。誰も一人で廊下に出ないでください。戻ったら、先生への第一報の文面を作ります。それから、再確認作業の人数を決めます」
いつものユウカの言い方に、少しだけ戻っていた。
でも、完全ではない。
語尾が硬すぎる。呼吸が浅い。指先はまだ震えている。
ネルは何か言いかけた。
言わなかった。
カリンが腕を離す。ネルは振り払わなかった。ただ、壁の方へ歩いて、拳を握ったまま立ち止まる。今度は殴らなかった。
コユキは立てない。
ノアがそばにいた。
ヒマリは紅茶を見ないまま、膝の上で指を重ねている。
ハレは目を閉じない。
マキは色を言わない。
コタマはヘッドホンを膝に置いたまま、両手で押さえている。
アカネは水のボトルを一本、ユウカの近くへ押し出した。
アスナは誰の手も取れないまま、それでも一歩だけ部屋の中央へ近づいた。
誰も、まだ立ち直っていない。
誰も、正しい答えを持っていない。
それでも、次に何かを決めなければならなかった。
見てしまったものを、ただ傷として残すのか。
レナを守るための手掛かりに変えるのか。
その選択さえ、今はまだ、刃物みたいに痛かった。