戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第一報

 

 

 休憩としての十分、という時間は短かった。

 

 けれど、その十分がなければ、誰かが本当に壊れていたかもしれない。

 

 誰も、ちゃんと休めてはいなかった。水を飲んだ者はいる。椅子に座った者もいる。廊下へ出て、壁に背を預け、息を整えようとした者もいる。けれど、それは休憩ではなかった。倒れないための応急処置だった。

 

 コユキはノアの隣に座っている。泣き声は止まっているが、指先は落ち着かない。膝の上で組んだ手が、何度もほどけてはまた握られる。

 

 ネルは壁際に立ったまま、一度も座らなかった。机を殴った拳は赤くなっている。カリンが視線だけで確認すると、ネルは短く舌打ちして顔を逸らした。手当てを拒むというより、今その拳が痛むことを、自分に許したくないようだった。

 

 ヒマリは紅茶に触れなかった。冷め切ったカップは、誰も片づけられないままそこにある。エイミは車椅子の後ろに立っていた。いつものように淡々としているようで、けれど視線だけはずっとヒマリの手元を見ていた。

 

 ユウカは端末の前に戻った。

 

 戻らなければならなかった。

 

 戻りたいからではない。

 

 誰かが第一報を送らなければならない。先生へ。シャーレへ。レナに関わる重大な被害について、大人である先生へ連絡しなければならない。

 

 それは正しい。

 

 正しいことなのに、キーボードの前に立っただけで、喉が締めつけられるようだった。

 

「文面、私が作ります」

 

 ユウカは言った。

 

 普段なら当然のように言える言葉だった。今は、その当然さにすがるみたいな声になった。

 

「ユウカちゃん」

 

 ノアが呼ぶ。

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫じゃないわ」

 

 ユウカは即答した。

 

 自分でも少し驚いた。

 

 いつもなら、まず「大丈夫」と言っていた。大丈夫ではなくても、そう言ってから整える。状況を進めるために、自分の状態を後回しにする。それが癖になっていた。

 

 でも、今それを言えば、きっと崩れる。

 

「大丈夫じゃない。でも、やるわ」

 

 ノアはそれ以上止めなかった。

 

 ただ、ユウカの隣に立った。

 

 ユウカは新しい連絡画面を開く。

 

 宛先。

 

 先生。

 

 それだけで、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

 先生に連絡する。

 

 本来なら、救いに近い行動のはずだった。困った時、判断に迷った時、子どもだけでは抱えきれないものに触れてしまった時、先生に連絡する。それは正しい。誰も異論を挟まない。

 

 けれど同時に、この映像の存在を、もう一人に渡すことでもある。

 

 ユウカは文章を打ち始めた。

 

先生。

重大な映像ファイルを発見しました。

 

 そこまで打って、手が止まる。

 

 重大な映像ファイル。

 

 違う。

 

 重大なのは映像ではない。映像になってしまったレナの傷だ。けれど、そう書けば、あの顔を、あの声を、先生へ差し出すことになる。

 

 ユウカは文字を消した。

 

先生。

悪意ある映像ファイルを発見しました。

 

 また止まる。

 

 悪意ある。

 

 それは正しい。けれど、足りない。足りなさすぎる。あれを「悪意ある映像」とまとめてしまうことが、あまりにも簡単すぎる。

 

「……書けない」

 

 ユウカの声が漏れた。

 

「どう書けばいいの。あれを、何て書けばいいの」

 

 誰もすぐには答えない。

 

 チヒロが少し前へ出た。

 

「事実だけでいい」

 

 いつものように聞こえた。

 

 しかし、チヒロの声にも薄い傷があった。

 

「発見したこと。外部流出の可能性があること。被害者がレナであること。先生の判断が必要なこと」

 

「被害者がレナさんであること」

 

 ユウカはその言葉を繰り返した。

 

 それは正しい。

 

 でも、正しいからこそ苦しかった。

 

 被害者。

 

 レナ。

 

 その二つを同じ文の中に並べるだけで、あの映像がまた黒い画面の奥から出てくる気がした。レナの顔が戻る。カメラへ戻される目。届かない手。見ないで、という声。

 

 ノアが静かに言った。

 

「言葉を柔らかくしすぎると、危険性が伝わりません。ですが、事務的にしすぎると、私たちが耐えられない」

 

「じゃあ、どうすればいいの」

 

 ユウカの声は、誰かを責めているようで、誰も責めていなかった。

 

 ノアは少しだけ目を伏せた。

 

「先生なら、必要以上に説明しなくても、こちらの異常は汲み取ってくださると思います」

 

 先生なら。

 

 その言葉だけで、部屋の誰かが小さく息を吐いた。

 

 先生がこの映像を知っているのかどうか、誰も知らない。レナの過去にどこまで関わっているのかも知らない。けれど、先生なら、少なくともこの場にいる生徒たちが普通ではないことは察してくれる。

 

 それだけで、少しだけ文面が短くても許される気がした。

 

 ユウカはもう一度、キーボードへ向かう。

 

先生。

レナさんに関わる、悪意ある映像ファイルを発見しました。

現在、外部流出防止のため隔離しています。

閲覧範囲には慎重な判断が必要です。

早急に相談させてください。

 

 短い。

 

 短すぎる。

 

 だが、今はこれ以上書けなかった。

 

 ユウカは送信ボタンの上に指を置いた。

 

 押せない。

 

 これを押せば、先生に伝わる。

 

 伝えなければいけない。

 

 けれど、押した瞬間、この部屋の中だけにあった痛みが、また外へ出ていく。必要なことだと分かっている。それでも、送信という操作が、ほんの少しだけ裏切りに似て感じられた。

 

 ノアが横からそっと言った。

 

「ユウカちゃん」

 

「分かってる」

 

 ユウカは答える。

 

「分かってるわ」

 

 そして、押した。

 

 送信済み。

 

 その表示が出た瞬間、ユウカは力が抜けそうになった。机に手をつく。倒れたわけではない。けれど、立ち続けるために支えが必要だった。

 

「送ったか」

 

 ネルが聞く。

 

「ええ」

 

 ユウカは頷く。

 

「先生に連絡しました」

 

「返事は」

 

「まだ」

 

 返事が来るまでの時間が、長かった。

 

 一分にも満たなかったはずだ。

 

 それでも、部屋の誰もが画面を見ていた。

 

 着信音が鳴った。

 

 文章ではなく、通話だった。

 

 ユウカが息を呑む。

 

 先生からだった。

 

 誰も、すぐには出ろと言わなかった。

 

 出なければならない。

 でも、出るのが怖い。

 

 ユウカは通話ボタンへ指を伸ばした。

 

 押す前に、一度だけ部屋を見た。

 

 ノアが頷く。

 チヒロも。

 ヒマリは静かに目を伏せた。

 カリンは姿勢を正した。

 ネルは壁から背を離した。

 コユキは泣き腫らした目で画面を見ている。

 

 ユウカは通話を繋いだ。

 

「先生」

 

 声が震えなかったのは、奇跡に近かった。

 

『ユウカ。連絡、読んだよ』

 

 先生の声は落ち着いていた。

 

 落ち着きすぎているわけではない。冷たくもない。けれど、こちらが予想していたような混乱はなかった。

 

 その落ち着きが、部屋にいる全員へ静かに広がる。

 

 先生は続けた。

 

『まず確認させて。今、その映像は隔離できている?』

 

「はい。チヒロさんが隔離環境に移しました。外部送信は止めています」

 

『分かった。複製や、外部への拡散は?』

 

 チヒロがユウカへ小さく頷く。

 

「現時点では確認されていません。ただ、元の経路はこれから追う必要があります」

 

『うん。再生した人数は?』

 

 ユウカの喉が詰まる。

 

 人数。

 

 正しい確認だった。

 

 でも、その言葉だけで、部屋の中にいる一人ひとりの顔が浮かぶ。見てしまった人数。傷ついた人数。レナの「見ないで」を聞いてしまった人数。

 

「この場にいた全員です」

 

 ユウカは答えた。

 

『分かった』

 

 先生の声は、そこで少しだけ柔らかくなった。

 

『ユウカ、スピーカーにできる? みんなにも聞いてほしい』

 

「……はい」

 

 ユウカはスピーカーに切り替えた。

 

 先生の声が部屋へ広がる。

 

『みんな、聞こえてる?』

 

 誰も返事をしなかった。

 

 けれど、全員が聞いていた。

 

『まず、これだけは先に言わせて。見てしまったことを、自分の罪にしないで』

 

 その一言で、コユキが顔を伏せた。

 

 ユウカの指が机の端を掴む。

 

 ネルの眉が動く。

 

 先生は、急がなかった。

 

『私は、まだその映像を見ていない。だから、内容を分かったようには言えない。……でも、あなたたちの声を聞けば分かる。見た人が、自分を責めてしまうようなものだったんだね』

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ揺れた。

 

 先生は何も見ていない。

 

 見ていないのに、分かろうとしている。

 

 分かったように語るのではなく、今この部屋にいる生徒たちの声から、息の詰まり方から、沈黙の重さから、その映像がどれほど深く刺さったのかを受け止めようとしている。

 

『見てしまった自分が悪いんじゃないか。助けられなかった自分が悪いんじゃないか。そう思わせるようなものだったなら、それはレナだけじゃなく、レナを大切に思う人たちまで傷つけるためのものだと思う』

 

 ヒマリが、静かに目を伏せた。

 

 先生は断定していない。

 

 けれど、その言葉は外れていなかった。

 

 誰が作ったのか、まだ分からない。少なくとも、生徒たちは知らない。先生も、今この瞬間に映像の中身を確認したわけではない。それでも、見た者たちの壊れ方は、その映像の悪質さを物語っていた。

 

『だから、先に言うね。あなたたちは悪くない』

 

 その言葉は、簡単すぎるように聞こえた。

 

 悪くない。

 

 そんな一言で、救われるわけがない。

 

 そう思った者もいた。

 

 けれど、先生はそこで止めなかった。

 

『……でも、そう言われたからって、すぐ楽になれるわけじゃないよね。見てしまったことも、聞いてしまった声も、消えないと思う。怒っている子もいるかもしれない。気持ち悪さが残っている子も、何もできなかったって自分を責めている子もいると思う』

 

 ノアが目を伏せた。

 

 コタマがヘッドホンを握る手に力を込める。

 

『それでいいの。残ってしまうことまで、自分のせいにしなくていい。泣いてもいい。怒ってもいい。しばらく普通に話せなくてもいい』

 

 そこで、先生は一拍置いた。

 

『……ただ、その痛みをレナにぶつけないであげて。あなたたちが見せられた姿だけを、今のレナだと思わないであげて』

 

 ユウカの呼吸が止まりかけた。

 

 先生の言葉は、まっすぐだった。

 

『私は、その映像の中のレナをまだ見ていない。でも、今のレナを知っている。だから言える。レナは、あなたたちが見せられたその姿だけの子じゃないよ』

 

 部屋の誰も、声を出さない。

 

 でも、その言葉は落ちた。

 

 静かに。

 

 深く。

 

『もちろん、見られたことを知れば傷つくと思う。恥ずかしいとも思うだろうし、怖くなるかもしれない。でも、レナはその姿だけで壊される子じゃない。だから、今のレナを見失わないで』

 

 ネルの拳が、少しだけ緩んだ。

 

 アカネが小さく息を吸う。

 

 アスナは、ようやく目を伏せた。

 

『それと、今すぐレナに伝えに行くのは待って。会いに行きたい子もいると思う。でも、今は少しだけ待ってほしい』

 

 ネルが反応しかけた。

 

 先生は、それも分かっていたように続ける。

 

『避けるためじゃない。隠して逃げるためでもないよ。ただ、今のまま会ったら、きっと顔に出る。レナはそういうところに気づく子だから。そうしたら、あの子は自分のことより、あなたたちの心配をしてしまう』

 

 その通りだった。

 

 誰も否定できなかった。

 

『だから、まずあなたたちが呼吸を戻して。レナに会う時は、その映像を見る目じゃなくて、今のレナを見る目で会ってあげて』

 

 ユウカは唇を噛んだ。

 

「先生」

 

『うん』

 

「先生は……」

 

 そこまで言って、ユウカは止まった。

 

 何を聞こうとしているのか、自分でもうまく分からなかった。

 

 先生はどうしてそんなに落ち着いているのか。

 どうして、見ていないのに、見た側の痛みをこんなふうに受け止められるのか。

 どうして、レナはその姿だけの子じゃないと、あんなに迷いなく言えたのか。

 

 聞きたい。

 

 けれど、今それを聞いたら、先生が抱えている何かまでこじ開けてしまう気がした。

 

 ユウカは言葉を変えた。

 

「先生は、レナさんにどう接すればいいか、分かるんですか」

 

 通話の向こうで、少しだけ沈黙があった。

 

 長い沈黙ではない。

 

 けれど、先生が言葉を選んでいるのは分かった。

 

『全部は分からない』

 

 先生は言った。

 

『でも、ひとつだけ分かる。レナを、その映像の中に閉じ込めないこと』

 

「映像の中に」

 

『うん。もし、あなたたちが見たものが、レナの弱ったところや傷ついたところばかりを切り取ったものなら、それはレナの全部じゃない。怖かった過去をなかったことにはしない。でも、そこだけを全部みたいに受け取らないで』

 

 ユウカは目を伏せた。

 

 それができるだろうか。

 

 自信はなかった。

 

 先生は、その不安ごと受け止めるように続けた。

 

『できない日もあると思う。顔に出ることもあると思う。その時は、無理に普通を装わなくていい。ただ、レナを見て傷ついた顔をしてしまった時は、それがレナへの嫌悪じゃなくて、レナを大切に思っているからだって、ちゃんと言葉にできる準備をしておいて』

 

 その言葉は、ミレニアムの全員に向けられていた。

 

『今は、あなたたちが壊れないことも大事だよ』

 

 先生の声が、少し低くなる。

 

『次に、ゲーム開発部には見せないで』

 

 ユウカはすぐに頷いた。

 

「そのつもりです」

 

『詳細も、今は伏せていい。危険な映像が存在すること、もし不審なファイルやリンクが届いたら絶対に開かないこと。それだけ共有すればいい。あの子たちに映像そのものを背負わせる必要はない』

 

 ゲーム開発部。

 

 アリス、モモイ、ミドリ、ユズ。

 

 レナをお姉ちゃんのように慕うあの子たち。

 

 ユウカは、彼女たちがこの映像を見る場面を想像しかけて、すぐに思考を止めた。

 

 見せてはいけない。

 

 今は、絶対に。

 

「分かりました」

 

 ユウカの声は、少しだけ強くなった。

 

「ゲーム開発部には、映像は見せません。危険情報だけ共有します」

 

『ありがとう』

 

 先生の声は柔らかかった。

 

『次に、解析について。必要な確認はしていい。ただし、無理をしないこと。罰として触らないこと。誰か一人に背負わせないこと。気分が悪くなったら中断すること。これは、私との約束にして』

 

 チヒロが目を伏せる。

 

「了解」

 

 短く答えた。

 

『チヒロ』

 

「何」

 

『保存することに罪悪感があると思う』

 

 チヒロの表情が固まった。

 

『でも、これ以上見せないために封じる保存もある。誰かを傷つけるためじゃなく、広げないために残す方法もある。そこを間違えないで』

 

 チヒロはすぐには返事できなかった。

 

 喉が詰まった。

 

「……分かった」

 

 それだけ言う。

 

『ヒマリ』

 

 ヒマリがわずかに顔を上げる。

 

「はい」

 

『あなたは、構造を理解してしまうと思う。分かることが苦しいかもしれない。でも、その理解はレナを映像の中に閉じ込めるためじゃなく、作った相手の悪意から切り離すために使ってほしい』

 

 ヒマリは目を伏せた。

 

「……ええ」

 

 いつものような大仰な返しはなかった。

 

「心得ました」

 

『ユウカ』

 

「はい」

 

『全部を一人で管理しようとしなくていい。みんなを支えようとする前に、あなた自身も傷ついた一人だって、忘れないで』

 

 ユウカの視界が滲む。

 

 さっき止めたはずの涙が、また戻りそうになる。

 

「でも、私は」

 

『うん。やらなきゃいけないことはある。でも、泣きながらやっていい。震えながらでもいい。完璧に立っていなくていい』

 

 ユウカは返事ができなかった。

 

 できない代わりに、強く頷いた。

 

 先生は続けた。

 

『ネル』

 

 ネルは顔を上げる。

 

『怒っていいよ。怒って当然だと思う。でも、端末は壊さないで。レナを守るために、まだ必要だから』

 

「……分かってる」

 

 ネルは低く言った。

 

『聞こえたのに届かなかったって、思っているかもしれない。でも、あなたの手が足りなかったわけじゃない。届かない場所から見せられたなら、それはあなたが弱かったからじゃない』

 

 ネルの喉が小さく動いた。

 

 何か言い返そうとして、やめた。

 

「……次は届かせる。絶対にだ」

 

『うん。そのために、今は壊さずに残して』

 

 ネルは舌打ちした。

 

 けれど、今度は壁も机も殴らなかった。

 

『コユキ』

 

 コユキがびくりと肩を跳ねさせる。

 

『見つけてしまったことを、自分への罰に変えないで』

 

 コユキの目から、また涙が落ちた。

 

『見つけたことは、あなたの罪じゃない。むしろ、隠され続けるはずだったものを止める入口になったかもしれない。もちろん苦しいと思う。でも、自分を傷つけるためにもう一度見ようとしないで』

 

「……はい」

 

 声は小さかった。

 

『ノア』

 

「はい」

 

『覚えてしまったことを、一人で使おうとしないで。必要になったら、誰かと一緒に扱って。覚えているから大丈夫、なんて言わなくていい』

 

 ノアは少しだけ目を伏せる。

 

「……分かりました」

 

『みんな』

 

 先生の声が、また部屋全体へ向いた。

 

『このあと、必要な確認をしたら、必ず一度休んで。できれば温かいものを飲んで。誰か一人にならないで。今日は、通常業務に戻らなくていい』

 

 その言葉に、何人かがようやく息を吐いた。

 

 通常業務に戻らなくていい。

 

 そんな当たり前の許可が、今は必要だった。

 

『私は今からそちらへ向かう。到着するまで、無理な再生はしないこと。解析を始めるなら、少しでも危ないと思ったら止めること。いい?』

 

「分かりました」

 

 ユウカは言った。

 

 今度は、さっきより少しだけ声が戻っていた。

 

「先生、来てくれるんですね」

 

『もちろん』

 

 先生は即答した。

 

『あなたたちだけで抱える話じゃない』

 

 その言葉で、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。

 

 解決したわけではない。

 

 映像が消えたわけでもない。

 

 レナが見られた事実も、見てしまった事実も、なかったことにはならない。

 

 それでも、少なくとも今、ここにいる全員が、完全に置き去りにされたわけではないと分かった。

 

 通話が切れたあと、しばらく誰も動かなかった。

 

 先生の声が消えた部屋は、また静かになる。

 

 けれど、さっきの静けさとは少し違った。

 

 ユウカがゆっくり息を吸う。

 

「先生が来るまで、無理な再生はしません」

 

 誰も反論しない。

 

「ただし、解析環境の準備だけは進めます。確認する担当は、本人の同意を取る。コユキは再視聴禁止。ノアも記憶だけで説明しようとしない。チヒロさん、環境構築をお願いします。ヒマリさん、構造確認の手順を。ハレさんはファイル処理。マキさん、必要になったら映像加工の痕跡だけ。コタマさんは音声データの確認。ただし直接音声を聞く必要がある場合は、必ず事前に止めてください」

 

 言いながら、ユウカは気づいていた。

 

 まだ声は震えている。

 

 でも、さっきよりは前に進んでいる。

 

 チヒロが頷く。

 

「了解」

 

 ヒマリも静かに頷いた。

 

「先生が到着する前に、無理のない範囲で準備だけ整えましょう」

 

 ネルは何も言わなかった。

 

 ただ、壁から離れて、部屋の端へ移動した。端末を壊すためではない。出入口の近くに立つためだった。誰かが外へ飛び出さないように。誰かが入ってきた時、すぐ対応できるように。

 

 カリンはそれを見て、黙って隣に立つ。

 

 アカネは水を配り直した。

 

 アスナはコユキの近くに座った。笑ってはいない。けれど、さっきより少しだけ柔らかい顔だった。

 

 ノアは記録端末を開かないまま、ユウカの隣に立った。

 

 コユキはまだ泣いている。

 

 でも、もう「私が見ます」とは言わなかった。

 

 黒い画面は閉じられている。

 

 ファイルは消えていない。

 

 隔離されたまま、そこにある。

 

 見てしまったものは、誰の中からも消えていない。

 

 それでも、部屋の全員が、ほんの少しだけ同じ方向を向き始めていた。

 

 作った相手が何者なのかは、まだ分からない。

 

 なぜレナの傷をこんな形で残したのかも、まだ分からない。

 

 けれど、ひとつだけ決めた。

 

 あの映像を、レナのすべてにはしない。

 

 次にレナに会った時、画面の中ではなく、今ここにいるレナを見るために。

 

 そのために、まずは自分たちが、立っていなければならなかった。

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