戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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残っていた名前

 

 

 先生は、端末の前に立たなかった。

 

 部屋に入って最初に見たのは、画面ではなく、生徒たちの顔だった。

 

 ユウカの目元。ノアの指先。コユキの膝の上で握られた手。チヒロの硬い肩。ヒマリの触れられない紅茶。ネルの赤くなった拳。カリンのいつでも動ける姿勢。アカネが少しだけずらした椅子。アスナが笑おうとして、まだ笑えていない唇。

 

 先生は、それを一つずつ見た。

 

 それから、端末へ視線を向けた。

 

「ここから先は、私も立ち会う」

 

 声は柔らかかった。

 

 けれど、部屋の誰も、その言葉を曖昧な慰めとは受け取らなかった。

 

「見なくていいものは見ない。聞かなくていい音は聞かない。判断に迷ったら、一度止める。いいね」

 

 ユウカが頷く。

 

「はい」

 

「チヒロ。隔離環境はそのまま?」

 

「うん。通常再生は切ってる。通信も遮断済み。外部への送信は止めてる」

 

「ありがとう。ハレ、ファイル構造だけ見られる?」

 

「見れる。映像は開かない」

 

「ヒマリ、全体の判断を一緒にお願い」

 

「承知しました」

 

 いつものヒマリなら、もう少し飾った返事をしたかもしれない。けれど今は、その一言だけだった。

 

 先生は最後に、ネルを見た。

 

「ネル」

 

「あ?」

 

「怒っていていい。でも、今は私の指示で動いて」

 

 ネルの眉がわずかに動いた。

 

 止められると思っていたのだろう。怒るなと言われると思っていたのかもしれない。けれど、先生は怒りを取り上げなかった。

 

「必要になったら、あなたに頼む。だから、それまでは待って」

 

 ネルはしばらく黙っていた。

 

 それから、低く答えた。

 

「……分かった」

 

 その短い返事で、部屋の空気が少しだけ固まった。

 

 抑え込まれたのではない。

 

 向ける場所を待っている怒りだった。

 

 チヒロが作業を再開した。

 

 画面には映像ではなく、文字列が並んでいる。ファイル構造、タグ、断片化したスクリプト、埋め込まれた制御命令。色も顔も声もない。ただのデータのはずだった。

 

 それでも、誰も気楽には見られなかった。

 

 ファイルの輪郭に触れるだけで、黒い画面の向こうに残されたレナの声が、耳の奥をかすめる。

 

 チヒロは一度だけ瞬きをして、余計なものを追い出すように息を吐いた。

 

「停止操作を次セグメントへの遷移に変換してる。ここはさっき確認した通り」

 

 ハレが横から覗き込む。

 

「実行条件、まだ残ってる。こっちは再生終了後の処理……いや、違う。表示用の文字列が埋まってる」

 

「文字列?」

 

 ユウカが反応する。

 

「映像じゃない。メッセージ。たぶん解析環境でも出るようにしてる」

 

 ハレが表示領域だけを切り出した。

 

 次の瞬間、黒い小窓が開いた。

 

 映像は出ない。

 

 音も出ない。

 

 ただ、白い文字だけが中央に浮かんだ。

 

“まだ見るのですか”

 

 部屋の温度が、ほんの一瞬で落ちた。

 

 コユキが息を呑む。

 

 ユウカの指が机の端を掴む。

 

 ネルが一歩、動きかける。

 

 次の行が出た。

 

“彼女は、見ないでと言っていました”

 

「閉じて」

 

 先生の声が落ちた。

 

 怒鳴っていない。

 

 けれど、それは命令だった。

 

 チヒロが即座に表示窓を閉じる。ハレが該当領域を隔離する。画面から文字が消えた後も、誰もすぐには息をしなかった。

 

 ネルの拳が鳴る。

 

「ふざけやがって」

 

「ネル」

 

 先生が短く呼んだ。

 

 ネルは先生を見た。

 

 今にも画面を壊しそうな目だった。

 

 先生は、その怒りを正面から受けたまま、静かに言った。

 

「読まなくていい」

 

「読んじまっただろ」

 

「うん。だから、次からは読まない。保存だけして、意味は追わない」

 

 先生はチヒロへ視線を向ける。

 

「チヒロ、メッセージ領域は別に隔離。内容確認はここまで」

 

「了解」

 

「ハレ、表示条件だけ記録して。文面は再表示しない」

 

「分かった」

 

 先生はそこで初めて、画面から全員へ視線を戻した。

 

「相手の言葉に付き合わない。今やるのは、痕跡を拾うこと。誰かを責める文章を読むことじゃない」

 

 説明はそれだけだった。

 

 それだけで十分だった。

 

 ユウカは深く息を吸った。

 

 さっきの文字が、胸の中へ入り込もうとしている。まだ見るのですか。彼女は見ないでと言っていました。読まない。追わない。相手が置いた刃を、自分から握りに行かない。

 

 先生が隣にいることで、ようやくそれを選べた。

 

「続けます」

 

 チヒロが言った。

 

 声は少し掠れていたが、止まらなかった。

 

 ハレがスクリプト領域を飛ばし、別の階層へ入る。そこには編集履歴の断片が残っていた。削除され、上書きされ、偽装されている。それでも完全には消えていない。

 

「編集ソフトの痕跡」

 

 ハレが呟く。

 

「複数使ってる。外部ツールもあるけど……これ、ミレニアム製のプラグインが混じってる」

 

 ユウカの顔が固まった。

 

「ミレニアム製?」

 

「汎用の映像処理プラグイン。校内配布版。普通に課題とか研究でも使うやつ」

 

「ライセンスは?」

 

 チヒロが問う。

 

 ハレが数秒黙った。

 

 キーを叩く音だけが続く。

 

「残ってる。削ったつもりだったっぽいけど、キャッシュに断片がある」

 

「復元できますか」

 

 ユウカの声が硬くなる。

 

「やってる」

 

 ハレの返事は短かった。

 

 部屋の誰も喋らない。

 

 今度は、映像の痛みではなかった。

 

 もっと現実的な、冷たい嫌な予感が部屋の中央に落ちていた。

 

 ミレニアム製のプラグイン。

 

 校内配布版。

 

 ライセンスID。

 

 それが何を意味するのか、誰もまだ口にしなかった。口にすれば、本当になる気がした。

 

 ハレの画面に、英数字の列が復元される。

 

 チヒロがそれを別端末へ送る。

 

「ユウカ、校内端末台帳と照合できる?」

 

「できます」

 

 ユウカは答えた。

 

 答えるしかなかった。

 

 自分の学校の管理台帳を開く。生徒端末、研究端末、部活用端末、貸与品。普段なら見慣れた項目が並んでいる。所属、利用者、最終接続、端末権限。

 

 ユウカは復元されたIDを入力した。

 

 検索。

 

 結果は、すぐに出た。

 

 出てしまった。

 

 ユウカの手が止まる。

 

 ノアが隣で画面を覗き込み、ほんのわずかに目を細めた。

 

 チヒロも、ハレも、何も言わない。

 

 先生だけが、静かに問う。

 

「一致した?」

 

 ユウカは喉を動かした。

 

「……はい」

 

 声が出るまでに、時間がかかった。

 

「ミレニアムの生徒端末です」

 

 その瞬間、ネルが壁から背を離した。

 

 誰も止めなかった。

 

 まだ、止める段階ではなかった。

 

 カリンは姿勢を変える。アカネの視線が扉へ動く。アスナの顔から、わずかに残っていた柔らかさが消えた。

 

 ユウカは画面から目を逸らせない。

 

 端末台帳には、名前がある。

 

 ミレニアムの生徒。

 

 現役。

 

 所属。

 

 利用端末。

 

 最終接続。

 

 事務的な情報が並んでいる。普段なら、ただの管理情報だった。故障対応、貸与履歴、アクセス権限確認。その程度のものだった。

 

 今は、その一行一行が、重かった。

 

「関与の種類は、まだ分からない」

 

 先生が言った。

 

 部屋の空気を、早すぎる断罪へ向かわせないための声だった。

 

「編集に使われた端末なのか、データを受け渡した端末なのか、盗まれたのか、貸したのか、本人が触ったのか。まだ確認が必要」

 

「でも、関わってる」

 

 ネルの声は低かった。

 

「可能性が高い」

 

 先生は言い換えなかった。

 

 逃げなかった。

 

「だから、話を聞く」

 

 ユウカは画面の続きを確認する。

 

「対象端末、最終接続は……十五分前」

 

 ノアが息を止める。

 

「場所は」

 

「第七演習棟付近。現在も校内ネットワークに接続中です」

 

 空気が変わった。

 

 過去の映像ではなく、現在の対象がそこにいる。

 

 画面の中ではない。

 

 校内に。

 

 同じミレニアムの敷地内に。

 

 ネルが一歩前へ出た。

 

「行く」

 

 短い言葉だった。

 

 怒鳴りではない。

 

 だからこそ、危うかった。

 

 先生はネルを見た。

 

「C&Cに頼む」

 

 カリンが即座に姿勢を正す。

 

「了解しました」

 

「目的は身柄確保。暴力は禁止。端末の破壊も禁止。逃走防止と安全確保を優先」

 

 先生は一つずつ言う。

 

 その言葉は冷静だったが、決して軽くはなかった。

 

「カリン、対象が逃げた場合の経路を塞いで。アカネ、安全確保と拘束手順。アスナ、周辺に巻き込まれる生徒がいないか見て。ネル」

 

「分かってる」

 

 ネルが先に言った。

 

 しかし先生は、そこで終わらせなかった。

 

「ネル。あなたに頼む。連れてきて」

 

 ネルの目が、先生を見る。

 

「殴らずに?」

 

「殴らずに」

 

「逃げたら」

 

「止めて。怪我をさせずに」

 

「抵抗したら」

 

「それでも、必要以上に傷つけない」

 

 ネルは黙った。

 

 それは、簡単な命令ではなかった。

 

 今のネルにとって、怒りを抑えろと言われるより、怒りを抱えたまま正確に動けと言われる方が、ずっと難しい。

 

 だが先生は、ネルを外さなかった。

 

 任せた。

 

 それが分かったから、ネルはようやく短く息を吐いた。

 

「……分かった」

 

 低い声。

 

「逃がさねぇ。けど、殴らねぇ」

 

「お願い」

 

 先生が頷く。

 

 カリンがネルの横へ並ぶ。

 

「行きましょう」

 

 ネルは返事をしない。

 

 先に歩き出す。

 

 アカネは端末から簡易拘束具と証拠保全用のケースを取り出した。アスナは一度、部屋の中を見た。コユキの方を見て、何か言おうとして、やめる。

 

「行ってくるね」

 

 それだけ言った。

 

 コユキは泣きそうな顔で頷いた。

 

「……はい」

 

 扉が開く。

 

 C&Cの四人が出ていく。

 

 ネルが先頭。カリンが一歩後ろ。アカネは通路の状況を確認しながら続き、アスナは最後に一度だけ振り返ってから扉を閉めた。

 

 部屋に残った空気は、急に薄くなったようだった。

 

 ユウカはまだ画面を見ている。

 

 ミレニアム生徒端末。

 

 その文字が消えない。

 

「私たちの学校の生徒が」

 

 ユウカの声は、ほとんど独り言だった。

 

 先生が隣に立つ。

 

「まだ、何をしたかは決まっていない」

 

「はい」

 

「でも、聞かなきゃいけない」

 

「……はい」

 

 ユウカは頷いた。

 

 頷きながら、机の下で拳を握った。

 

 管理できなかった。

 

 その言葉が、また胸の奥へ伸びてくる。

 

 先生はそれを読んだように、しかし何も言わなかった。ただ、今はその言葉を否定するよりも、次の判断へ進ませる方が必要だと分かっている顔だった。

 

「チヒロ、対象端末の遠隔ロック準備」

 

「やってる」

 

「ハレ、ログの複製。改竄される前に」

 

「もう取ってる」

 

「ノア、記録をお願い。ただし、見た内容ではなく、今ここで確認した事実だけ」

 

「はい」

 

 ノアが記録端末を開く。

 

 今度は、開けた。

 

 記録するのはレナの声ではない。見たくなかった顔ではない。今、確認された事実だけ。端末ID。接続場所。最終ログ。C&C出動時刻。

 

 それでも指は重かった。

 

 ヒマリは画面の情報を見つめていた。

 

「先生」

 

「うん」

 

「この端末が単独で編集したとは思えません。痕跡が雑すぎる。おそらく、元データを受け取ったか、一部の加工だけに使われたか、あるいは販売前の中継点です」

 

「そうだね。だから、決めつけない」

 

 先生は静かに言った。

 

「ただし、軽くも扱わない」

 

「ええ」

 

 ヒマリは頷く。

 

 その時、通信が入った。

 

 カリンからだった。

 

『対象端末の接続地点に接近。第七演習棟、東側非常階段付近です』

 

 ユウカの背筋が伸びる。

 

 先生が短く返す。

 

「周辺の生徒は?」

 

『現時点で一般生徒は見当たりません。対象らしき生徒を確認。端末を所持。こちらに気づいた様子です』

 

 わずかな沈黙。

 

 次に聞こえたのは、アスナの声だった。

 

『あ、逃げるかも』

 

 先生の目が細くなる。

 

「ネル」

 

 通信の向こうで、足音がした。

 

 速い。

 

 しかし乱れてはいない。

 

 ネルの声が入る。

 

『逃がさねぇよ』

 

 場面は、第七演習棟へ移る。

 

 非常階段。

 

 昼間でも薄暗い踊り場。

 

 非常灯の緑が壁ににじみ、使われていない掲示板の端が少し剥がれている。窓の外にはミレニアムの整った校舎が見える。その整い方が、今はひどく場違いだった。

 

 階段の上に、一人の生徒がいた。

 

 端末を抱えている。

 

 顔色は悪い。

 

 C&Cを見た瞬間、背中が逃げ道を探した。

 

 しかし、下の階段にはカリンが立っている。上へ続く踊り場にはアカネ。横の通路にはアスナがいる。

 

 そして、正面。

 

 ネルが立っていた。

 

 小柄な身体。

 

 けれど、その場の空気を全部押さえ込むような圧。

 

 対象生徒が一歩下がる。

 

 ネルは踏み込まなかった。

 

 拳も握っていない。

 

 ただ、低く言った。

 

「どこ行くんだよ」

 

 対象生徒の唇が震える。

 

「わ、私は、何も」

 

「まだ何も聞いてねぇ」

 

 ネルの声は静かだった。

 

 静かすぎて、踊り場の空気が固まった。

 

「だから、話聞かせろ」

 

 カリンが銃口を下げたまま、退路だけを塞ぐ。

 

 アカネが柔らかい声で言う。

 

「抵抗しなければ、こちらも手荒なことはいたしません。端末を床に置いてください」

 

 対象生徒は動かない。

 

 端末を抱えた腕だけが、ぎゅっと強くなる。

 

 アスナが首を傾げた。

 

 いつもの軽さはない。

 

「それ、抱えて逃げると、もっと大変になると思うよ」

 

 対象生徒の目が泳いだ。

 

 ネルは一歩だけ近づく。

 

 その一歩で、対象生徒はびくりと肩を跳ねさせた。

 

「安心しろよ」

 

 ネルは言った。

 

 安心できる声ではなかった。

 

「殴らねぇって約束してきた」

 

 その言葉の方が、よほど怖かった。

 

 対象生徒の足から力が抜ける。

 

 端末が、床へ落ちた。

 

 鈍い音。

 

 アカネがすぐに証拠保全用ケースを開く。

 

 カリンが周囲を警戒する。

 

 ネルは、対象生徒から一瞬も目を逸らさなかった。

 

「歩け」

 

 短い命令。

 

「先生とユウカが待ってる」

 

 対象生徒は、何かを言おうとした。

 

 言葉にはならなかった。

 

 ネルはそれを見て、低く続けた。

 

「言い訳は、そこで聞く」

 

 非常灯の緑が、床に落ちた端末を薄く照らしていた。

 

 その中に何が残っているのかは、まだ分からない。

 

 けれど、画面の中だけだった事件は、とうとう現実の廊下へ出てきた。

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