戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
共有する情報は、短くまとめられた。
映像本体は渡さない。
渡すのは、端末ログ、通信経路、証言の抜粋、制服と装備の断片、撮影場所の推定だけ。レナの顔も、声も、あの「見ないで」も、誰かの端末へ送らない。
それだけを決めるのに、誰も軽く頷けなかった。
必要な相手へ情報を渡す。
けれど、必要以上には広げない。
それは、簡単な判断ではなかった。映像を見せれば説明は早い。映像を見せれば、相手は一瞬で事件の重さを理解する。だが、その一瞬の理解のために、レナが隠したかった顔をまた誰かの前へ置くことはできない。
ユウカは共有用のデータを確認した。
何度見ても、映像ファイル本体は含まれていない。
それでも確認を繰り返す。
一度。
二度。
三度。
「含まれていません」
チヒロが横から言った。
「映像本体も、音声も、添付されてない。ハッシュ値とログだけ」
「……分かっています」
ユウカは答えた。
分かっている。
けれど、確認せずにはいられなかった。
ノアは何も言わず、共有文面を最終確認している。ヒマリは、ゲヘナ向けに必要な情報だけを切り出していた。ネルは壁際にいる。怒りは消えていない。ただ、さっきよりも深い場所へ沈んでいる。
先生は端末の前に立った。
「まず、ゲヘナに連絡する」
その声に、部屋の空気が変わった。
ユウカが頷く。
チヒロが送付用パッケージを待機状態にする。
先生は少しだけ息を整え、通話を繋いだ。
相手は、すぐに出た。
『先生?』
短い声。
眠そうでも、慌ててもいない。ただ、突然の連絡に対して、即座に仕事へ切り替わる声だった。
空崎ヒナ。
『緊急?』
「うん。急ぎで相談したいことがある」
先生の声は落ち着いていた。
けれど、ヒナはその奥にあるものを聞き逃さなかったらしい。
通話の向こうで、ほんのわずかに空気が変わる。
『……何があったの?』
「ゲヘナの生徒が関わっている可能性がある事件が起きた」
『抗争? 校外での問題?』
「それだけじゃない」
先生はそこで一拍置いた。
部屋にいる誰もが、その沈黙を聞いていた。
「被害者の尊厳に関わる、悪質な映像が絡んでいる。映像そのものは見せられない。けれど、ゲヘナ所属と思われる生徒の装備断片と、通信ログの一部が出ている」
通話の向こうが静かになった。
ヒナはすぐに返事をしなかった。
先生の言葉は多くない。映像の内容も言っていない。被害者の名前すらまだ出していない。
それでも、沈黙が重くなった。
『……映像は、送らなくていい』
最初に言ったのは、ヒナの方だった。
ユウカがわずかに目を見開く。
チヒロの指が止まる。
『先生が見せられないと言うなら、私は見ない。必要な情報だけ送って』
先生は静かに頷いた。
「ありがとう」
『ただし、ゲヘナの生徒が関わっているなら、こちらで必ず押さえる。装備断片とログ、送れる?』
「今送る。映像本体は含めない」
『それでいい』
そこで、別の声が通話に割り込んだ。
『委員長、少々お待ちください。映像資料なしでは、照合精度に問題が出る可能性が――』
アコの声だった。
いつものように、まず実務が先に出た声。
それは間違っていない。
事件処理としては当然の確認だった。
けれど、ヒナは短く遮った。
『アコ』
『はい』
『見せられない資料を、要求しないで』
その声は強くなかった。
だが、アコの言葉は止まった。
通話の向こうで、沈黙が落ちる。
その沈黙の間に、アコも気づいたのだろう。
先生が見せないと言った。
映像そのものを共有しないと言った。
ミレニアム側から誰の声も聞こえない。
ただの証拠映像なら、こうはならない。
『……失礼しました』
アコの声は、さっきより低かった。
『必要情報のみで照合します。装備断片、通信ログ、時間帯、想定地点を送ってください。風紀委員会側で該当者を絞ります』
「お願い」
先生は答えた。
ヒナが続ける。
『被害者は?』
部屋の空気が、さらに固まった。
先生は少しだけ目を伏せた。
「今は、名前を通話では出さない。共有資料にも入れない」
『……分かった』
ヒナは、それ以上聞かなかった。
聞かないことで、理解した。
アコも黙っている。
いつもの彼女なら、情報不足を指摘したかもしれない。けれど今は違った。通話の向こうから、書類を用意する音だけが小さく聞こえる。
『先生』
ヒナが言った。
「うん」
『その場に、映像を見た生徒はいる?』
ユウカの指が止まった。
ノアが視線を下げる。
ネルの肩がわずかに動く。
先生は答えた。
「いる」
『……そう』
ヒナの声が、ほんの少しだけ低くなった。
『なら、私が着くまで無理に話を進めないで。関与者の確保は必要だけど、見た子たちに説明を繰り返させないで』
その言葉に、ユウカは息を詰めた。
ヒナは、映像を見ていない。
ミレニアム側の顔も見ていない。
それでも、そこまで察した。
「分かった」
『こちらはアコと向かう。ゲヘナ側の照合は移動中に始める』
そこで、アコがもう一度口を開いた。
『先生』
「うん」
『映像資料を確認しないまま動く以上、こちらで確保した生徒が否認する可能性があります。その場合でも、映像の提示はしない、ということでよろしいですか』
今度の声は、さっきと違った。
事務的ではある。
しかし、無神経ではない。
線を確認している声だった。
「うん。しない」
『承知しました。では、ログと証言で押さえます』
短い返答。
その中に、アコなりの切り替えがあった。
ヒナが最後に言う。
『先生』
「何?」
『その映像、被害者本人は知っているの?』
部屋の誰も、息をした音を立てなかった。
「まだ」
『……分かった』
その一言に、ヒナの怒りが滲んだ。
怒鳴らない。
声を荒げない。
けれど、確かに空気が変わった。
『急ぐ』
通話が切れた。
画面が暗くなる。
しばらく、誰も動かなかった。
「映像を、見ないって」
マキが小さく言った。
「すぐ言ったね」
「ヒナは、そういう子だよ」
先生は言った。
その声には、静かな信頼があった。
ユウカは共有資料の送信ログを確認する。
送ったのは、断片だけ。
映像ではない。
それでも、ゲヘナは動く。
見せなくても、動く人がいる。
それは、小さな救いに似ていた。
けれど、次に連絡しなければならない相手を思うと、その救いはすぐに重さへ変わった。
先生は端末を切り替える。
「次は、トリニティー」
部屋の空気が、また変わる。
ゲヘナとは違う重さだった。
トリニティー。
撮影場所の可能性が高い学園。
そして、レナが今、救護騎士団の一員として所属する場所。
先生は少しだけ目を閉じ、それから通話を繋いだ。
相手は、すぐには出なかった。
数秒。
長く感じる数秒だった。
やがて、通話が繋がる。
『先生?』
ミネの声だった。
凛としている。
乱れていない。
だが、先生がこの時間に直接連絡してきたことだけで、すでに何かを察した声だった。
『緊急の救護要請でしょうか』
「ミネ。落ち着いて聞いてほしい」
先生の一言で、部屋の温度が下がった。
それは、ミネの声が変わったからではない。
むしろ逆だった。
ミネの声は、さらに静かになった。
『はい』
「レナに関わる、悪意ある映像が見つかった」
通話の向こうで、沈黙。
長くはない。
けれど、はっきりと分かる沈黙だった。
先生は続ける。
「撮影場所が、トリニティー敷地内である可能性が高い。関与した生徒の中に、複数学園の不良生徒が含まれている可能性もある。今、ミレニアムで初期解析と聴取をしている」
『……レナは』
ミネの声は、まだ静かだった。
『今、無事ですか』
最初に聞いたのは、それだった。
映像ではない。
犯人でもない。
レナが今どうしているか。
先生は答える。
「今のレナに、直接危険が及んでいる状況ではない。少なくとも、現在進行形の拘束や襲撃ではない」
『そうですか』
ほんのわずかに、息が抜ける気配。
しかし、それは安堵で終わらなかった。
『映像は、現在のものではないのですね』
「うん。過去のものだと思われる」
『……分かりました』
声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
ユウカは、思わず背筋を伸ばした。
ミネは、怒鳴らない。
問い詰めない。
ただ、声の温度だけが下がっていく。
「ミネ。事件そのものについて、あなたは最後に現場へ来ている。だから、何かがあったことは知っていると思う」
『はい』
その一言は短かった。
けれど、含まれているものは重かった。
ミネは現場を知っている。
レナがどんな状態だったかを、全部ではなくても見ている。
そして今、その時のレナが悪意ある映像にされていたと知らされた。
「ただ、今回見つかった映像そのものは、まだあなたには見せられない」
『理由を伺っても?』
「レナ本人の許可がないから」
先生ははっきり言った。
「映像には、レナが見られたくないものが含まれている可能性が高い。守るための共有であっても、本人の許可なしに広げることはできない」
通話の向こうで、また沈黙が落ちた。
ミネが何を考えているのか、声だけでは分からない。
けれど、次の返事は早かった。
『承知しました』
部屋の誰かが、小さく息を吸った。
ミネは続ける。
『映像は要求しません。レナ本人の許可がないのであれば、私が見る理由にはなりません』
静かな言葉。
だが、その中に強い線があった。
『ただし、トリニティー敷地内で撮影された可能性がある以上、救護騎士団として調査には協力します。必要な地点情報、時間帯、関与生徒の特徴を送ってください』
「ありがとう」
『先生』
「うん」
『その映像を見た生徒は、どれほどいますか』
ミレニアム側の空気が、わずかに揺れる。
「この場にいたミレニアムの生徒たちが見ている」
『……そうですか』
たったそれだけ。
けれど、そこに怒りがあった。
ヒナとは違う怒り。
ネルとも違う怒り。
救護騎士団長として、そしてレナの師匠としての怒りだった。
『では、その生徒たちも救護対象です』
誰も、すぐには反応できなかった。
ミネは当たり前のように言った。
『映像を見せられた者が受ける傷も、軽視してよいものではありません。先生、ミレニアムの皆さんにお伝えください。動悸、吐き気、過呼吸、睡眠障害、罪悪感の増幅。いずれも起こり得ます。無理に平常業務へ戻らないでください』
チヒロが一瞬、目を伏せた。
コタマがヘッドホンを握る手を緩める。
ユウカは唇を噛んだ。
先生が答える。
「伝えるよ。今も、できるだけ休ませるようにしている」
『ありがとうございます』
その声は、礼儀正しかった。
礼儀正しすぎて、怖かった。
『それから、レナには今すぐこの件を伝えない方針ですか』
「うん。今はまだ。こちらから急いで突きつけるつもりはない」
『妥当だと思います』
ミネは即答した。
『あの子は、自分の傷よりも、周囲の苦しみを優先することがあります。見た側が崩れている状態で会えば、レナは自分を後回しにするでしょう』
ミレニアムの誰もが、言葉を失った。
先生がさっき言っていたことと同じだった。
ミネも、それを知っている。
レナを知っているから。
『ですが、隠し続けることもできないはずです』
「うん」
『その時は、レナが話せる相手を選べるようにしてください。先生、あなたでも、ミレニアムの誰かでも、私でも。あの子が自分の言葉で確認できるように』
「分かった」
先生は頷く。
「ミネにも、その時は来てもらうかもしれない」
『いつでも』
即答だった。
『レナが望むなら、私は行きます。望まないなら、待ちます』
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
待つ。
ミネなら、すぐに駆けつけてもおかしくない。
救護のために、調査のために、師匠として、今すぐレナの元へ行きたいはずだった。
でも、待つと言った。
レナが望むまで。
レナが話せるまで。
その線を、ミネは迷わず引いた。
「ミネ」
先生が静かに言う。
「今送る情報には、映像は含めない。場所の推定と、関与者の断片だけ」
『はい』
「それから、映像は……後で、レナ本人の許可があれば、あなたに確認を頼むかもしれない」
少しだけ間が空いた。
『分かりました』
ミネの声は変わらない。
『その時は、先生の立ち会いをお願いします。そして、レナの前では見ません』
ユウカは、思わずミネの声に集中した。
『私の反応が、あの子を傷つける可能性があります。確認が必要であれば、私が整えた状態で見ます。見た後、レナに会う前にも時間を置きます』
先生は目を伏せた。
「ありがとう」
『礼を言われることではありません』
ミネは言った。
『救護とは、傷を見ることではなく、傷ついた人を守ることです』
その一言が、部屋に静かに落ちた。
ネルが壁にもたれたまま、ほんの少しだけ目を伏せる。
カリンも、アカネも、アスナも、黙って聞いていた。
ミネは最後に、少しだけ声を低くした。
『先生』
「うん」
『私が知っているレナは、その映像だけで語れる子ではありません』
先生は答えなかった。
答えなくてもよかった。
部屋の中で、誰かが小さく息を吐いた。
その言葉は、映像を見ていない者の慰めではなかった。
現場に来た者。
レナの師匠。
レナがその後も立ち上がったことを知っている者の言葉だった。
『必要情報を送ってください。救護騎士団で確認します。関係者がトリニティー内にいるなら、私が動きます』
「分かった。送る」
『お待ちしています』
通話は切れた。
先生は端末から手を離した。
少しの間、誰も話さなかった。
ヒナは映像を見ずに動くと言った。
ミネは映像を要求しなかった。
どちらも、まだ何も見ていない。
それでも、動こうとしている。
見ないまま、守るために。
ユウカはゆっくり息を吸った。
情報は広がっている。
けれど、映像は広げていない。
その違いを、今は信じるしかなかった。
「ゲヘナとトリニティーへ、必要情報を送ります」
ユウカは言った。
声はまだ硬い。
でも、折れてはいない。
「映像本体は、送信しません」
チヒロが頷く。
「確認済み」
ヒマリが静かに目を伏せた。
「では、次は照合結果を待ちましょう。ゲヘナ側、トリニティー側、それぞれから戻る情報で、関与者の網が見えてくるはずです」
ネルが扉を見る。
「待つのは嫌いなんだよ」
「知ってる」
先生が言った。
「でも、今は待つのも仕事」
「……分かってる」
ネルは短く答えた。
部屋の外では、まだ何も起きていない。
けれど、確かに何かが動き出していた。
ゲヘナで、風紀委員長が席を立つ。
トリニティーで、救護騎士団長が静かに情報を待つ。
ミレニアムでは、見てしまった生徒たちが、それでも映像を広げないために端末へ向かう。
そしてレナは、まだ何も知らない。
その事実が、部屋の全員の胸に重く残った。