戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ヒナとアコは、まだミレニアムには着いていなかった。
ゲヘナからミレニアムまで、距離はある。連絡を受けてすぐに出ても、通話を切った次の瞬間に扉を開けて現れることはできない。風紀委員会の移動車両は速度を上げていたが、それでも街区を越え、境界を越え、ミレニアムの管理区域へ入るには時間が必要だった。
だから、ヒナは移動中に動いた。
車内は静かだった。
外では、キヴォトスの夜に近い光が流れている。ゲヘナの雑然とした街並みが後方へ消え、ミレニアムへ向かう道路の照明が規則正しく窓を横切っていた。
アコは隣で端末を開いている。
先生から送られてきた情報パッケージ。
映像本体はない。
音声もない。
あるのは、通信ログ、端末照合、装備断片、証言抜粋、時間帯、想定される移動経路だけだった。
普通なら、証拠映像なしの照合は精度が落ちる。
アコなら、そう言う。
実際、少し前までは言いかけていた。
けれど、今は言わなかった。
通話の向こうの沈黙を、思い出していたからだ。
先生の声は落ち着いていた。だが、妙に慎重だった。ミレニアム側からは、ほとんど音が聞こえなかった。普通なら、状況確認の声や端末操作の音がもっと混じる。誰かが急いで説明し、誰かが補足する。混乱しているなら混乱しているなりの音がある。
けれど、あの通話の向こうにあったのは、押し殺された沈黙だった。
泣き声ではない。
怒鳴り声でもない。
それより悪いもの。
全員が何かを見てしまい、まだそこから目を離せていない時の沈黙だった。
「委員長」
アコが画面を見たまま言った。
「候補者を三名まで絞れます。いずれも過去にブラックマーケット周辺への出入りが確認されています。うち一名は、トリニティー方面への無許可移動履歴があります」
「名前は」
ヒナは短く聞いた。
アコが三つの名前を読み上げる。
どれも、風紀委員会の記録に残っている生徒だった。大きな事件を起こしたわけではない。けれど、小さな違反を繰り返し、境界線の外側へ少しずつ足を出していた生徒たち。
ブラックマーケットへの出入り。
非合法装備の購入疑惑。
他校生徒との接触。
無許可移動。
それだけなら、ゲヘナでは珍しすぎる話ではない。
だからこそ、危うかった。
ありふれた違反の中に、今回の件が埋まっている。
アコは続きを読み上げようとして、一度言葉を止めた。
「……委員長」
「何?」
「この資料、意図的に余白が多いです」
ヒナは窓の外を見ていた目を、少しだけアコへ向けた。
「映像がないから?」
「それだけではありません。被害者名も伏せられています。具体的な描写も避けられている。通常の事件資料としては、かなり制限されています」
「先生がそうした」
「はい」
アコは頷く。
「そして、早河ユウカさんや各担当者の確認印も入っています。つまり、情報不足ではなく、共有しないための整理です」
ヒナは静かに目を伏せた。
「なら、そのまま扱う」
「承知しています」
アコの声は少しだけ硬かった。
それは不満ではない。
むしろ、緊張だった。
「ただ、ここまで伏せる必要がある映像ということです。先生も、ミレニアム側も、見せないためにかなり慎重になっている」
「うん」
ヒナは短く答える。
「だから、急ぐ」
アコは画面へ視線を戻した。
資料に映像はない。
だが、断片はある。
装備の一部。ゲヘナ製の改造パーツ。ブラックマーケットで流れている廉価な隠しカメラの型番。通信ログの中継地点。ゲヘナの生徒が使うスラングの断片。トリニティー方面への移動記録。
それらがつながっていく。
見たくないものを見ずに、必要なものだけを見る。
その作業は、普段よりずっと神経を使った。
「第一候補、現在位置が出ました」
アコが言った。
「ゲヘナ自治区内、旧第三区画付近。ブラックマーケット外縁です。風紀委員会の巡回範囲外ぎりぎり」
「逃げる準備?」
「可能性があります。端末の接続が断続的です。誰かと連絡を取っているか、通信を切ろうとしている可能性も」
ヒナはすぐに通信を開いた。
「風紀委員会、聞こえる?」
『はい、委員長』
「旧第三区画に部隊を回して。対象は三名。第一候補を最優先。逃走防止、端末確保。怪我はさせないで」
『了解しました。容疑は?』
ヒナは一瞬だけ黙った。
それから、短く答えた。
「悪質な映像流通事件への関与疑い。通常の違反案件として扱わないで」
通信の向こうの空気が変わった。
『了解。直ちに向かいます』
通信が切れる。
ヒナは端末を下ろした。
アコは横顔を見た。
ヒナは怒鳴っていない。声も荒げていない。けれど、アコには分かる。委員長は怒っている。静かな、深く沈んだ怒りだった。
「アコ」
「はい」
「移動しながら、第二候補と第三候補も押さえる準備をして」
「承知しました」
「それから、ミレニアムへは予定通り向かう。先生たちと合流する」
「はい」
アコはすぐに手続きを進める。
その指は速い。いつものように正確だ。けれど、心のどこかに引っかかりが残っていた。
映像がない。
ないのに、重い。
映像を見れば理解できるはずの重さが、映像を見ないことで逆に膨らんでいる。
アコは、ほんの少しだけ唇を引き結んだ。
「委員長」
「何?」
「被害者の名前を伏せる理由は、理解しました」
「うん」
「ですが、ミレニアム側のあの反応を見る限り、被害者は彼女たちと近い人物です」
ヒナは否定しなかった。
「そうだと思う」
「その場合、ミレニアム側の証言は感情に引っ張られる可能性があります」
アコは言ったあと、少しだけ自分の言葉を測った。
軽く聞こえないように。
「ただし、それを理由に軽視するべき案件ではありません」
ヒナは、そこで初めて少しだけアコを見る。
アコは続けた。
「むしろ、あれほどの反応を引き起こす映像なら、被害者本人への接触は極力避けるべきです。本人確認を急ぐより、外側の経路を押さえた方がよいかと」
「同じ考え」
ヒナは短く言った。
その一言で、アコは少しだけ肩の力を抜いた。
「では、ゲヘナ側はこちらで先に潰します」
「潰すという言い方は、報告書には書かないで」
「承知しています」
アコの返答は真面目だった。
だが、ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。
ヒナは窓の外へ視線を戻す。
車はミレニアムへ向かっている。
その間に、ゲヘナ側では部隊が動き始めていた。
旧第三区画。
そこは、ゲヘナらしい場所だった。
整っていない道。勝手に増築された足場。使われなくなった倉庫。赤黒い看板。ブラックマーケットの外縁に近く、まともな店と怪しい取引場所の境目が曖昧になっている。
風紀委員会の部隊が到着した時、第一候補の生徒は、古い階段の下にいた。
端末を持っている。
そばには、二人の不良生徒。
何かを話していた。
風紀委員会の腕章を見た瞬間、三人のうち一人が逃げようとした。
「動かないでください!」
風紀委員の声が飛ぶ。
しかし、候補生徒は止まらなかった。
路地へ逃げ込もうとする。
その瞬間、上から別の部隊が回り込んだ。
逃げ道を塞がれる。
候補生徒は舌打ちし、端末を地面へ叩きつけようとした。
その手首を、風紀委員が押さえる。
乱暴ではない。
けれど、逃がさない。
「端末を確保!」
「対象拘束!」
「周辺二名も確保します!」
通信がヒナの端末へ入る。
『委員長、第一候補を確保。端末も保全しました。周辺にいた二名も任意同行させます』
「怪我は?」
『ありません』
「よし。端末は封印。本人には、他校に関わる重大案件とだけ伝えて。詳しい内容はその場で話させないで」
『了解』
通話が切れる。
アコがすぐに記録する。
「第一候補、確保。端末保全。周辺二名同行」
「第二候補は?」
「現在、風紀委員会が校内で確認中です。第三候補は通信遮断。逃走の可能性があります」
「追って」
「はい」
ヒナは目を細めた。
事件は、動いている。
けれど、手応えは軽くなかった。
普通の違反なら、関係者を押さえれば少しは先が見える。けれど今回は、押さえれば押さえるほど、奥にもっと嫌なものがある気配が強くなる。
映像を売れば高い。
ブラックマーケットで買う大人がいる。
トリニティーで撮った。
ミレニアムの子が加工できる。
断片だけで、十分すぎた。
アコが新しい通信を受ける。
「委員長、第一候補の簡易聴取で、一つ証言が出ました」
「言って」
「『撮影はしていない。受け渡しにいただけ』とのことです。さらに、『トリニティーの方で撮った映像を、ミレニアムの生徒が加工して、ブラックマーケットに流す話だった』と」
ヒナの指が、膝の上でわずかに動いた。
「名前は」
「まだ出していません。本人は怯えており、正式聴取まで待った方がよいかと」
「分かった。無理に吐かせないで。記録と端末から先に押さえる」
「はい」
アコは報告をまとめる。
ヒナはしばらく黙っていた。
やがて、先生へ短い通信を入れる。
数秒で繋がった。
『ヒナ?』
「先生。ゲヘナ側の第一候補を押さえた」
『怪我は?』
「ない。端末も確保した」
『ありがとう』
先生の声は、ほんの少しだけ安堵を含んだ。
ヒナは続ける。
「簡易聴取で、複数学園の不良集団が関わっている線が濃くなった。トリニティー方面で撮影、ミレニアム側で加工、ブラックマーケットで流す。そういう話だったらしい」
通話の向こうで、静かな沈黙があった。
先生の背後に、ミレニアム側の気配がある。
誰も声を出さない。
それだけで、ヒナはまた理解する。
この情報は、彼女たちにとって新しい傷になる。
「先生」
『うん』
「これは、ゲヘナだけの問題ではないわ」
『そうだね』
「でも、ゲヘナの問題でもある。こちらで責任を持って調べる」
『お願い』
ヒナは一度目を伏せた。
「それから」
『何?』
「見た生徒たちに、今の証言をそのまま聞かせなくてもいい。必要な形に整えてから伝えて」
先生は一瞬だけ黙った。
それから、穏やかに答えた。
『分かった。ありがとう、ヒナ』
「感謝されることじゃない」
ヒナは短く返す。
「風紀委員会として当然のことをしているだけ」
その声はいつも通りだった。
いつも通りにしようとしていた。
だが、アコには分かった。
委員長は、通話の向こうにいる誰かを気遣っている。
名前も知らない被害者。
映像を見てしまった生徒たち。
そして、その間に立つ先生。
通話が切れた。
車は、ミレニアムへ近づいている。
アコは端末を閉じずに言った。
「委員長。到着予定まで、あと二十分ほどです」
「うん」
「その前に、第二候補の報告が来る可能性があります」
「受ける」
「ミレニアム到着後、先生たちと合流。その場でゲヘナ側の照合結果を共有します」
「映像には触れないで」
「承知しています」
アコはそこで、少しだけ間を置いた。
「……委員長」
「何?」
「この件、通常の風紀案件として処理するには、あまりにも悪質です」
ヒナは窓の外を見たまま、静かに答えた。
「分かってる」
「関与者が生徒であっても、被害者の尊厳に関わる映像の売買、複数学園を跨いだ不良集団、ブラックマーケットとの接触。相応の処分が必要です」
「うん」
「ただ」
アコは言葉を止めた。
ヒナが視線だけ向ける。
「ただ?」
「被害者本人がまだ知らないということが、引っかかります」
車内が少し静かになった。
アコは続けた。
「外側の処理が進めば進むほど、本人の知らないところで事件が大きくなっていく。それは必要なことだと理解しています。ですが……」
「本人が置いていかれる」
ヒナが言った。
アコは頷く。
「はい」
ヒナはしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「だから急ぐ」
「関与者の拘束を、ですか」
「それも。でも、それだけじゃない」
ヒナは窓の外を見る。
ミレニアムの高い建物が、遠くに見え始めていた。
「先生たちが、早く本人と向き合えるようにする。そのために、外側の邪魔を減らす」
アコは少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
その時、再び通信が入った。
『委員長、第二候補を確保しました。本人、強く否認していますが、端末からブラックマーケットとの接続履歴を確認』
「怪我は?」
『ありません』
「よし。第三候補は?」
『追跡中。ブラックマーケット外縁へ逃走しています』
ヒナの目が細くなる。
「逃がさないで。私たちはミレニアムへ向かう。現場指揮は副隊長に一時委任」
『了解』
通信が切れる。
アコが記録する。
「第二候補確保。第三候補逃走中」
「第三候補は焦ってる」
「ええ。情報が漏れたと判断した可能性があります」
「なら、何か持ってる」
ヒナの声は低い。
「端末、連絡先、取引相手。どれか」
「押さえます」
アコはすぐに風紀委員会へ追加指示を送る。
車内の空気がまた張った。
事件は終わっていない。
けれど、少しずつ外側の網が閉じている。
ヒナは端末に届いた資料をもう一度見た。
映像はない。
だが、そこに書かれていないものの重さだけは分かる。
先生が伏せた名前。
ミレニアム側の沈黙。
被害者本人がまだ知らないという事実。
ヒナは小さく息を吐いた。
「アコ」
「はい」
「到着したら、最初に先生と話す。その後、ミレニアム側の担当者と照合。余計な質問はしないで」
「はい」
「特に、被害者の詳細は聞かない」
「承知しました」
「必要になったら、先生が言う」
アコは頷いた。
それから、少しだけ声を落とす。
「委員長」
「何?」
「もし、ゲヘナの生徒が直接的に加害に関わっていた場合は」
ヒナは即答した。
「風紀委員会で拘束する。処分も、調査も、逃がさない」
「はい」
「でも、私刑にはしない」
その言葉に、アコは少しだけ驚いたようにヒナを見た。
ヒナは続ける。
「先生も、ミレニアムも、きっとそこを守っている。なら、こちらも守る」
「……承知しました」
車はミレニアムの管理区域へ入った。
整った道路。
規則的な照明。
ゲヘナとは違う、冷たいほど整備された街並み。
その先に、先生たちがいる。
映像を見てしまった生徒たちがいる。
まだ何も知らないレナがいる。
ヒナは窓の外を見たまま、静かに呟いた。
「急ぎましょう」
「はい、委員長」
アコが答える。
その声も、もう単なる事務の声ではなかった。
遠くで、ミレニアムの建物が近づいてくる。
風紀委員長は、まだ映像を見ていない。
けれど、事件の重さは、もう十分に感じ取っていた。