戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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風紀委員長が見た部屋

 

 

 ミレニアムの建物は、夜の中でも明るかった。

 

 壁面の光は整っていて、道路も、案内表示も、ゲヘナとは違う種類の静けさを持っている。計算され、管理され、無駄が削られた場所。そこへ風紀委員会の車両が入ってくると、ほんの少しだけ空気が変わったように見えた。

 

 アコは到着直前まで端末を見ていた。

 

 第一候補、確保。端末保全済み。

 第二候補、確保。ブラックマーケット接続履歴あり。

 第三候補、逃走中。風紀委員会が追跡継続。逃走先はブラックマーケット外縁方面。

 

 報告は増えている。

 

 だが、肝心なものはまだ見えていない。

 

 誰が撮ったのか。

 誰が最初に売ろうと言い出したのか。

 黒い顔の大人と、誰が接触したのか。

 そして、被害者本人が今どこまで知らされているのか。

 

 アコは画面を閉じた。

 

「委員長、到着しました」

 

「うん」

 

 ヒナは短く答え、車から降りる。

 

 ミレニアムの空気は静かだった。

 

 だが、その静けさは校舎全体のものではない。先生たちがいる建物の方角だけ、わずかに重い。実際に音が違うわけではない。けれど、ヒナにはそう感じられた。

 

 何かが起きた後の空気。

 

 それも、騒ぎが終わった後ではない。

 

 まだ終わっていない事件の中で、全員が声を低くしている時の空気だった。

 

 アコも気づいたのか、普段より少しだけ姿勢を正した。

 

「案内は不要ですか」

 

「先生の位置は共有されている」

 

「では、急ぎましょう」

 

 二人は歩き出した。

 

 廊下は整っている。壁の表示も見やすく、照明も一定だ。ゲヘナなら、どこかしらで爆発音や言い争いが混じってもおかしくない時間だったが、ここにはそれがない。

 

 だからこそ、端末室に近づくにつれて、周囲の音が薄くなっていくように感じられた。

 

 端末室の前まで来ると、ヒナは足を止めた。

 

 扉は閉じている。

 

 中から、声はほとんど聞こえない。

 

 けれど、それがかえって異様だった。

 

 普通、重大案件の対応室にはもっと音がある。端末操作、報告、指示、連絡。焦りの混じった声。怒鳴り声。資料を確認する音。そういうものがある。

 

 ここには、沈黙が多すぎる。

 

「委員長?」

 

 アコが小さく呼ぶ。

 

「入るわ」

 

 ヒナが扉を開ける。

 

 部屋の中にいた全員が、こちらを見た。

 

 先生。

 

 ミレニアムの生徒たち。

 

 セミナー、ヴェリタス、C&C。名前や役職だけなら、ヒナもいくつかは知っている。ミレニアムで中心的に動く生徒たち。実力者。問題解決に慣れている者たち。

 

 だが、深く知っているわけではない。

 

 誰が普段どのように笑い、誰がどんな声で話し、誰がどういう癖を持つのかまでは知らない。

 

 それでも、部屋に入った瞬間、分かった。

 

 これは、ただの違反処理の部屋ではない。

 

 端末の前に立つ生徒は、背筋を伸ばしているのに、指先だけが硬い。

 記録端末を持つ生徒は、必要な文字だけを拾おうとするように視線を落としている。

 別の生徒は画面の方を見ているのに、時折ほんのわずかに目を逸らす。

 扉の近くに立つ小柄な生徒からは、押し殺された怒りが見えた。

 

 誰も騒いでいない。

 

 誰も泣き崩れていない。

 

 だからこそ、重かった。

 

 全員が、崩れないようにしている部屋だった。

 

 ヒナは、映像を見ていない。

 

 そこに何が映っていたのかも知らない。

 

 それでも、この場に残っているものだけで十分だった。ここでは、単なる証拠品が扱われたわけではない。見た者の中に、何かが残されている。

 

「先生」

 

 ヒナは静かに呼んだ。

 

「来てくれてありがとう、ヒナ。アコも」

 

「状況を確認するわ」

 

 ヒナはいつも通り短く言った。

 

 いつも通りに聞こえるように。

 

 先生は頷く。

 

「お願い。こちらも、ゲヘナ側の報告を聞きたい」

 

 アコが一歩前へ出た。

 

「風紀委員会行政官、天雨アコです。ゲヘナ側の照合結果を共有します」

 

 ユウカが軽く頭を下げる。

 

「ミレニアムセミナー、早瀬ユウカです。よろしくお願いします」

 

「生塩ノアです。記録を担当します」

 

 丁寧な挨拶。

 

 形式は整っている。

 

 だが、その整い方の中に、全員が無理に足場を作っているような緊張があった。

 

 アコは一度だけ、呼吸を整える。

 

「現時点で、ゲヘナ側の候補者三名を確認しました。第一候補、第二候補はすでに確保済み。第三候補は逃走中ですが、風紀委員会が追跡しています」

 

 ユウカが記録へ視線を落とす。

 

「確保時の怪我は?」

 

「ありません」

 

 アコは即答した。

 

「委員長の指示により、端末保全を優先。拘束時の損傷もありません」

 

 扉側にいたC&Cの生徒が、小さく鼻を鳴らした。

 

「ちゃんとやるじゃねぇか」

 

 ヒナはそちらを見る。

 

 美甘ネル。

 

 その名前は知っている。ミレニアムのC&Cの一員であり、実力者として有名な生徒。だが、知っているのはそれくらいだ。

 

 それでも、今の一言に含まれたものは分かった。

 

 拘束時に怪我をさせなかったこと。

 

 端末を壊さなかったこと。

 

 その確認が、この部屋では必要だったのだ。

 

「そちらも、対象生徒の確保をしたと聞いている」

 

「ああ」

 

 ネルは短く答えた。

 

「殴ってねぇよ」

 

 その返しに、アコが一瞬だけ眉を動かす。

 

 普通なら、軽口のようにも聞こえるかもしれない。

 

 けれど、この部屋では違った。

 

 殴らなかった、という報告が必要になるほど、怒りがあったということだ。

 

 ヒナは何も言わず、視線をアコへ戻した。

 

「続けて」

 

「はい」

 

 アコは資料を開く。

 

「第一候補の簡易聴取では、撮影には直接関与していないと主張しています。ただし、映像データの受け渡し、ブラックマーケット側への接触については関与を認めかけています」

 

「認めかけている?」

 

 チヒロが問う。

 

「はい。正式聴取前のため断定は避けますが、発言に複数の矛盾があります。『撮影はしていない』『ただ持っていただけ』『売るつもりはなかった』『高く買う相手がいると聞いた』と」

 

 高く買う相手。

 

 その言葉が出た瞬間、ミレニアム側の空気が動いた。

 

 ユウカの指が止まる。

 

 部屋の端で、誰かが口元を押さえる。

 

 音声機材を持つ生徒が、手元のヘッドホンを握る。

 

 アコはそこで、言葉を続ける速度を落とした。

 

 今、自分が読み上げているのはただの証言ではない。

 

 誰かの傷に値段がついたという話だ。

 

 アコは一度、視線を下げた。

 

「……失礼しました。必要な部分だけ、続けます」

 

 ヒナは横から何も言わなかった。

 

 だが、アコが自分で言葉を選び直したことを、静かに見ていた。

 

 アコは続ける。

 

「第一候補の証言では、複数学園の生徒が関与していた可能性があります。トリニティー方面で撮影されたデータを、ミレニアム側で加工し、ゲヘナ側の生徒がブラックマーケットへの接触を補助した。本人はそう聞いていた、と」

 

 ユウカは顔を上げない。

 

 ただ、記録する手だけがわずかに遅くなった。

 

「第二候補の端末からは、ブラックマーケット外縁への接続履歴が見つかっています。第三候補は逃走中ですが、取引相手の連絡先を持っている可能性があります」

 

「黒い顔の大人については」

 

 先生が聞く。

 

 アコは頷く。

 

「第一候補の発言に、『顔が黒い大人』『変な大人』『高く買う』という表現が含まれています。詳細は未確認です」

 

 ヒナが、そこで初めて先生を見る。

 

 先生の表情は大きく変わっていない。

 

 だが、ヒナには分かった。

 

 その言葉に、先生は心当たりがある。

 

 すでにミレニアム側にも、最低限は話したのだろう。ユウカやチヒロの表情が、単なる疑問ではなく、怖さを含んだものになっていた。

 

「先生」

 

 ヒナは静かに言った。

 

「その大人について、後で別に確認させて」

 

「分かった」

 

 先生は頷く。

 

「ただ、今は関与生徒の確保を優先しよう」

 

「同意するわ」

 

 ヒナは短く返した。

 

 部屋の中で、ほんの少しだけ空気が動く。

 

 ヒナはミレニアム側へ視線を移した。

 

「ゲヘナ側の関与者はこちらで押さえる。証言と端末は、正式な手続きで共有する。あなたたちに、何度も同じ説明を求めるつもりはない」

 

 ユウカが顔を上げる。

 

 ヒナは続けた。

 

「ただ、確認が必要な時は先生を通す。こちらから直接、被害者本人や映像を見た生徒へ不用意に接触しない」

 

 それは、単なる配慮ではなかった。

 

 風紀委員長としての線引きだった。

 

 ユウカは一瞬言葉を失い、それから小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言われることじゃない」

 

 ヒナは言った。

 

「ゲヘナの生徒が関わっているなら、こちらの責任でもある」

 

 ネルが壁際から言う。

 

「庇うつもりはねぇってことでいいんだな」

 

「ない」

 

 ヒナは即答した。

 

 短い。

 

 迷いがない。

 

 ネルの目が少しだけ細くなる。

 

「ただし」

 

 ヒナは続けた。

 

「あなたに渡すつもりもない。こちらで拘束して、こちらで調べる」

 

 ネルが低く笑う。

 

 今度は少しだけ、ほんの少しだけ、本当に笑いに近かった。

 

「分かってんじゃねぇか」

 

「分かるわ」

 

 ヒナは疲れたように目を伏せた。

 

「怒りで処理したら、証言が残らない。証言が残らなければ、次を止められない」

 

 その言葉に、部屋の中の何人かが反応した。

 

 次を止める。

 

 それは、今全員が必死に掴もうとしているものだった。

 

 ヒナは、映像を見ていない。

 

 それでも、同じ方向を見ている。

 

 先生が静かに言った。

 

「ヒナ、ミレニアムへ着く前にここまで押さえてくれて助かった」

 

「まだ終わっていないわ」

 

「うん」

 

「第三候補を押さえれば、取引相手の線がもう少し見えるはず」

 

 その時、アコの端末が震えた。

 

 アコが画面を見る。

 

 表情が変わる。

 

「委員長」

 

「何?」

 

「第三候補、確保されました」

 

 部屋の空気が一段詰まった。

 

「場所は?」

 

「ブラックマーケット外縁、廃倉庫付近。端末を破棄しようとしたところを風紀委員会が確保。端末は一部破損していますが、記録媒体は保全できたとのことです」

 

「怪我は」

 

「ありません」

 

 ヒナは小さく頷く。

 

「証言は?」

 

「まだ混乱しています。ただ、確保時にこう言ったそうです」

 

 アコは一度、読む前に止まった。

 

 この部屋で、どういう言葉をそのまま出すべきか、ほんの短い間考えた。

 

 そして、必要な分だけに削る。

 

「『売った相手は自分たちの仲間ではない』『黒い顔の大人に渡せば、もう戻ってこない』と」

 

 先生の目が、静かに細くなった。

 

 ヒナも、それを見る。

 

 黒い顔の大人。

 

 その名のない存在が、また部屋の中央へ浮かび上がる。

 

「それ以上は、正式聴取で確認します」

 

 アコが言った。

 

「現時点では、ゲヘナ側三名の身柄を確保。端末二台保全、一台一部破損。ブラックマーケット経路の一部を確認。風紀委員会が周辺を封鎖中です」

 

「ありがとう、アコ」

 

 ヒナが言う。

 

「いえ」

 

 アコは短く答えた。

 

 だが、その返事にはわずかに疲れが滲んでいた。

 

 映像を見ていないアコでさえ、ここまで来れば分かる。

 

 これは、ただの違反ではない。

 

 ただの売買でもない。

 

 誰かが誰かを傷つけた映像を、別の誰かが金に換え、さらにその奥で正体の分からない大人が待っていた。

 

 アコは、資料の空白を見ていた。

 

 そこに本当は何があるのか、想像しすぎないようにしながら。

 

 ユウカが静かに言った。

 

「ゲヘナ側の情報、受け取りました。こちらのミレニアム関与者の証言と照合します」

 

「お願いするわ」

 

 ヒナは答える。

 

「こちらでも正式聴取を進める。必要な情報は先生を通して共有する」

 

 先生が頷いた。

 

「次は、トリニティー側だね」

 

 その名前で、空気がまた変わる。

 

 ヒナも、アコも、その変化を見逃さなかった。

 

 ゲヘナの時とは違う。

 

 ミレニアム側の痛みが、さらに別の方向へ伸びたような空気。

 

 先生は言った。

 

「ミネにはすでに連絡している。映像は共有していない。救護騎士団側で、場所候補と関与者の確認を進めてもらう」

 

「ミネ?」

 

 ヒナが短く反応する。

 

 名前は知っている。

 

 トリニティー総合学園、救護騎士団長。

 

 あの生徒もまた、軽く動く相手ではない。

 

 先生は頷く。

 

「ゲヘナ側はありがとう。到着したばかりで悪いけど、少し休んで。必要なら別室を用意する」

 

「いらないわ」

 

 ヒナは即答した。

 

 それから、少しだけ間を置く。

 

「……でも、アコには水を」

 

「委員長?」

 

 アコが驚いたように見る。

 

「あなたも移動中ずっと作業していたでしょう」

 

「私は問題ありません」

 

「問題が出る前に飲んで」

 

 アコは一瞬反論しようとして、やめた。

 

「……承知しました」

 

 その短いやり取りで、部屋にほんの少しだけ呼吸の隙間が生まれた。

 

 先生はそれを見て、静かに息を吐いた。

 

 外側の網は、少しずつ閉じている。

 

 ゲヘナ側の関与者は押さえた。

 

 ミレニアム側も押さえた。

 

 次はトリニティー。

 

 そして、その先に、黒い顔の大人。

 

 だが、先生の視線はふと、部屋にいる生徒たちへ戻った。

 

 外側の事件が進むほど、内側の傷は置き去りになる。

 

 早く終わらせなければならない。

 

 この子たちが、被害者と向き合えるところまで。

 

 そのために、今は手続きを進める。

 

 先生は端末へ向き直った。

 

「ミネからの報告を待とう」

 

 窓の外では、ミレニアムの夜が静かに明るかった。

 

 その静けさの向こうで、トリニティーの救護騎士団が動き始めていた。

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