戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
トリニティーの夜は、ミレニアムとは違う静けさを持っていた。
白い壁。整えられた中庭。遠くに見える礼拝堂の影。夜風に揺れる木々の音まで、どこか祈りの形をしているように感じられる。
けれど、その静けさの中で、救護騎士団の詰所だけは眠っていなかった。
ミネは端末の前に立っていた。
画面に映っているのは、先生から送られた情報だった。映像本体はない。レナの顔も、声も、あの悪意ある編集の中身もない。
あるのは、時刻。推定地点。証言。装備断片。ミレニアム側の解析で拾われた背景情報。ゲヘナ側の簡易聴取で出た、トリニティー方面という言葉。
ミネは、それを一つずつ見た。
表情は崩れていない。
だが、詰所にいた救護騎士団員たちは、誰も余計なことを言わなかった。
団長が怒っている時の静けさを、彼女たちは知っている。
「当時の出動記録を」
ミネが言った。
声はいつも通りだった。
いつも通りすぎて、かえって冷たく響いた。
「はい」
団員がすぐに記録を呼び出す。
レナが関わったあの日の記録。
通報時刻。現場到着時刻。制圧記録。救護記録。搬送経路。現場に残っていた生徒の拘束記録。負傷者の処置記録。
ミネは迷わず該当箇所を開いた。
そこには、当時すでに制圧された生徒たちの名前が並んでいる。
ミネが現場に到着した時、そこに残っていた者たちは逃げられなかった。逃げさせなかった。レナの救護を最優先しながらも、危険な相手を放置する選択はしなかった。
それでも。
今、映像が見つかった。
撮られていた。
持ち出されていた。
売られていた。
あの時、終わらせたと思った悪意が、別の形で生き延びていた。
「……あの場に残っていた者は、制圧しました」
ミネは静かに言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
「ですが、現場の外にいた者までは、その時点で特定できていません。私は、レナの救護を最優先しました」
団員の一人が、少しだけ顔を伏せる。
ミネは振り返らない。
「その判断を後悔はしません」
声は揺れない。
「ですが、救護は終わっていなかったということです」
詰所の空気が固まった。
救護は終わっていなかった。
その言葉は、救護騎士団にとって重すぎた。
傷は処置した。
レナは搬送された。
その場にいた者は押さえた。
それでも、レナの苦しみは映像として持ち出され、切り貼りされ、売られた。
救ったはずの傷が、誰かの手でまた開かれた。
「現場周辺の巡回記録を照合してください」
ミネは続けた。
「当時、現場の外にいた可能性がある者。現場到着前に退避した者。救護騎士団の到着を確認してから姿を消した者。特に、端末機器を所持していた者を優先」
「はい」
「正義実現委員会の巡回記録も照会します。ですが、映像は共有しません」
団員が一瞬だけ顔を上げた。
「映像は、ですか」
「はい」
ミネは即答した。
「レナの許可がありません」
それだけで十分だった。
救護騎士団の誰も、それ以上は聞かなかった。
ミネは先生から送られてきた推定地点を確認する。古い施設。現在はほとんど使われていない一角。救護騎士団の出動記録には、当時の現場周辺の簡易地図が残っている。
ミネの指が、地図の一点で止まった。
「ここです」
団員が息を呑む。
「旧西棟の補助倉庫……ですか」
「当時、私がレナを発見した位置から近い。ですが、直接の現場とはわずかにずれています」
「ずれている?」
「はい。レナが倒れていた場所と、今回の背景断片が示す場所が完全には一致しません」
ミネは地図を拡大する。
「つまり、撮影者か見張り役は、現場外から移動していた可能性があります。あるいは、複数箇所で撮影していた」
団員の表情が強張る。
ミネの声は低くなる。
「当時の制圧者リストにはない人物がいるはずです」
その時、別の端末に通知が入った。
正義実現委員会からの簡易照会結果だった。
ミネはすぐに開く。
当時、旧西棟周辺で巡回を外れていた生徒。記録上、別任務にいたはずなのに、一時的に通信が途絶えていた生徒。さらに、後日軽微な違反として処理されていた、端末破損の報告。
それらが、一つの名前の周囲に集まり始める。
ミネは目を細めた。
「この生徒を確認します」
「すぐに向かいますか」
「はい」
ミネは端末を閉じる。
「ただし、制圧ではなく確認です。逃走の可能性があれば拘束。怪我があれば処置。その後、話を聞きます」
団員は一瞬だけ迷った。
そして頷く。
「了解しました」
ミネは詰所の出口へ向かう。
足取りは速い。
しかし乱れていない。
怒りで走るのではない。
救護のために向かう。
その背中が、かえって怖かった。
旧西棟は、夜になるとほとんど人がいなかった。
古い石造りの通路。使われなくなった掲示板。閉鎖された倉庫。窓から差し込む月明かりが床の傷を薄く照らしている。
ミネは足を止めた。
そこは、よく覚えている場所だった。
正確には、その近くを。
あの日、ミネはここを通った。
レナを見つけた。
レナの状態を確認した。
呼吸を見た。意識を確認した。出血と損傷を確かめ、まず救護した。怒りはあった。だが、怒りより前に手が動いた。救護騎士団長として当然のことだった。
その時、ミネは思っていた。
間に合った。
少なくとも、これ以上は傷つけさせない。
だが今、その判断の外側に、まだ別の悪意があったことを知らされた。
足音。
倉庫の奥から、わずかに何かが動く音がした。
団員たちが身構える。
ミネは手で制した。
「出てきてください」
声は穏やかだった。
返事はない。
「あなたが怪我をしているなら、処置します。逃げるなら、止めます。話すなら、聞きます」
沈黙。
次の瞬間、倉庫の裏口が開く音がした。
逃げた。
団員が動こうとするより早く、ミネが進んでいた。
走るというほど乱暴ではない。
だが、速い。
旧西棟の裏手へ出た生徒は、数歩走ったところで足を止めた。
前に、ミネがいた。
「な……っ」
逃げようとした生徒の顔から血の気が引く。
ミネは正面から向き合う。
「確認したいことがあります」
「私は、何も」
「まだ何も聞いていません」
どこかで聞いたようなやり取りだった。
けれど、ミネの声にはネルのような荒さはない。
だからこそ、逃げ道がなかった。
「端末を床に置いてください」
「これは」
「置いてください」
声は変わらない。
生徒の手が震える。
端末を抱えたまま、数秒固まる。
ミネは一歩も詰めない。
ただ待つ。
その待ち方が、逆に耐え難かった。
やがて、端末が床に置かれた。
救護騎士団員が証拠保全用のケースへ入れる。
ミネは対象生徒を見る。
「当時、あなたは現場にいましたか」
「いません」
早すぎる否定。
ミネの目がわずかに細くなる。
「では、なぜ旧西棟周辺で通信記録が途切れているのですか」
「それは、端末の調子が」
「なぜ、事件後に端末破損を報告したのですか」
「落としただけで」
「なぜ、今逃げましたか」
対象生徒の唇が震えた。
ミネは責め立てない。
ただ、一つずつ逃げ道を塞ぐ。
「あなたが直接レナに何をしたのかは、まだ確認していません」
レナの名前が出た瞬間、対象生徒の肩が跳ねた。
ミネはそれを見逃さなかった。
「ですが、あなたは知っているようですね」
「違う、私は、ただ見張りを」
言ってから、対象生徒は自分の口を押さえた。
ミネの周囲にいた団員たちの表情が変わる。
見張り。
現場の外にいた者。
ミネが当時、制圧できなかった者。
「続けてください」
ミネは言った。
「私は、全部は知らない。撮影とか、売るとか、後から聞いただけで」
「後から?」
「ミレニアムの子が、加工できるって言ってて。ゲヘナの子が、売れる場所を知ってるって。私は、ただ場所を知ってただけで」
「場所を」
ミネの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「あなたが、この場所を使えると教えたのですか」
対象生徒は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
ミネは目を閉じる。
一秒。
二秒。
それから、静かに開いた。
「拘束してください」
「はい」
団員たちが動く。
対象生徒は抵抗しかけたが、ミネが視線を向けただけで止まった。
「怪我はありませんか」
ミネが聞く。
対象生徒は唇を震わせながら首を振る。
「では、移動します。救護騎士団詰所で話を聞きます」
「私は、暴力は」
「その話も聞きます」
ミネは遮らなかった。
許したわけでもない。
「直接手を出していないとしても、あなたが開けた場所で、誰かが傷つきました。あなたが見張った先で、誰かが逃げられなくなりました。その事実について、話してもらいます」
対象生徒は俯いた。
その時、ミネの端末に通信が入る。
先生からだった。
『ミネ。状況は?』
「トリニティー側の関与者を一名確保しました」
ミネは淡々と答える。
「当時、現場外で見張り役をしていた可能性があります。旧西棟の場所提供にも関与しているようです」
ミネは続ける。
「先生。やはり、当時現場に残っていた者だけではありませんでした」
『うん』
「あの時、私はレナの救護を優先しました。そのため、逃げた者、外にいた者、撮影や持ち出しに関わった者までは押さえられていません」
『それは、ミネの判断が間違っていたわけじゃない』
「分かっています」
ミネの返事は早かった。
「私は、あの時の判断を後悔していません」
少しだけ間が空く。
「ですが、終わっていなかったことを、今確認しました」
先生は黙っていた。
ミネの声は揺れていない。
けれど、その静けさの下にあるものを、先生は分かっていた。
『ミネ』
「はい」
『今は、見つけたものから一つずつ押さえよう』
「はい」
『映像はまだ見なくていい』
「承知しています」
ミネは短く答えた。
「レナの許可がない限り、私は見ません」
その言葉に、先生は小さく息を吐いた。
『ありがとう』
「礼を言われることではありません」
ミネは旧西棟の壁を見る。
古い石材。
冷たい床。
あの日、レナがいた場所に近い通路。
映像を見ていなくても、そこに悪意が残っているのが分かる気がした。
「ただ、必要になった時は、私は確認します」
『うん』
「レナが望み、必要であるなら」
ミネの声が少し低くなる。
「その時は、逃げません」
通信の向こうで、先生は短く答えた。
『分かった』
通話が切れる。
ミネは端末を下ろし、拘束された生徒へ視線を向けた。
対象生徒は怯えている。
ミネはその怯えを見た。
そして、言った。
「まず、体調を確認します」
対象生徒が顔を上げる。
意味が分からないという顔だった。
「過呼吸、めまい、負傷の有無。必要であれば処置します」
「……なんで」
「救護騎士団ですから」
ミネは当然のように答えた。
そして、次の言葉だけ、少し低くなった。
「その後で、あなたが傷つけたものについて、話してもらいます」
対象生徒は何も言えなかった。
救護はする。
だが、逃がさない。
その二つが、ミネの中で矛盾せずに並んでいた。
詰所へ戻る途中、さらに二つの報告が入った。
旧西棟周辺で、当時の巡回記録に不自然な空白がある生徒がもう一名。
事件後、ブラックマーケット方面の生徒と接触していたトリニティー生徒が一名。
いずれも、直接暴行の現場には残っていなかった。
だが、場所を知り、見張り、逃走を助け、映像の持ち出しに関わった可能性が高い。
ミネはすぐに指示を出した。
「二名を確認。逃走の可能性があれば拘束。ただし怪我をさせないように」
「了解しました」
「正義実現委員会にも連絡を。必要なら合同で動きます。映像の共有は不要です」
団員たちは頷く。
映像は見ない。
見ないまま、動く。
それでも、網は狭まっていく。
その夜、トリニティー側で三名の関与者が確保された。
一人は見張り。
一人は場所提供。
一人は逃走補助とデータ持ち出しへの関与疑い。
彼女たちは皆、同じようなことを言った。
自分は直接手を出していない。
撮影は別の誰かがした。
売ると言ったのはゲヘナ側だった。
加工できると言ったのはミレニアム側だった。
黒い顔の大人のことは、後から聞いただけ。
その言葉は、責任を薄めようとしているようにも聞こえた。
けれど同時に、複数学園の不良集団が本当に存在したことを裏づけてもいた。
ミネは聴取記録を見ながら、静かに手を組んだ。
怒りは消えない。
消えるはずがない。
だが、今それを表に出しても、レナの救護にはならない。
ミネは、先生へ報告を送る。
トリニティー側関与者三名を確保。
当時、現場外での見張り・場所提供・逃走補助・データ持ち出しへの関与疑い。
現場に残っていた直接実行犯は、当時すでに制圧済み。
今回の調査対象は、逃走者および映像流通関与者へ移行。
映像本体は未確認。レナ本人の許可なしには確認しません。
送信。
その後、ミネはしばらく端末の前に立っていた。
詰所の窓の外では、トリニティーの夜が静かに続いている。
あの日も、夜は静かだった。
レナを救護した後、ミネは自分の手袋に残った汚れを見た。レナの呼吸を確認し、応急処置をし、搬送を指示した。捕まえた生徒たちを引き渡し、二度と同じことが起きないようにすると誓った。
それでも、映像は持ち出されていた。
救護は終わっていなかった。
ミネは目を閉じる。
短く、深く息を吸う。
そして、静かに呟いた。
「レナ」
その名前は、誰にも向けられていない。
謝罪でもない。
誓いだった。
「今度こそ、終わらせます」
その声は小さかった。
けれど、救護騎士団の詰所にいた誰もが、聞こえないふりをした。
聞いてしまえば、自分たちも泣いてしまいそうだったから。
ミネは端末を閉じる。
次は、先生たちとの情報照合。
その先に、黒い顔の大人。
そして、まだ何も知らないレナがいる。
レナに会う時、自分はどんな顔をするべきか。
ミネはまだ答えを出さなかった。
ただ一つだけ、決めている。
レナが話すまで、こちらから傷をこじ開けない。
レナが望むなら、見る。
望まないなら、待つ。
救護とは、傷を暴くことではない。
傷ついた人が、自分で息をできる場所を守ることだから。