戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
事件処理は、そこで一度止められた。
終わったわけではなかった。黒い顔の大人は捕まっていない。ブラックマーケットへ流れた経路も、すべてを潰せたわけではない。各学園で押さえた関係者の証言も、これから正式に照合しなければならない。
それでも、今夜これ以上この部屋で続ければ、見てしまった生徒たちの心を同じ場所で何度も擦ることになる。
先生はそう判断した。
ミレニアム側で押さえた生徒、ゲヘナ側で風紀委員会が確保した関係者、トリニティーで救護騎士団が押さえた見張り役や場所提供者。ばらばらだった線は、ようやく一つの形になりかけていた。
撮った者がいた。
見張った者がいた。
逃げた者がいた。
持ち出した者がいた。
加工した者がいた。
売った者がいた。
誰も、自分が中心だったとは言わなかった。自分は直接手を出していない、自分は撮っていない、自分は加工しただけ、自分は売れると聞いただけ、自分は場所を知っていただけ。そうやって責任を少しずつ薄める言葉ばかりが並んだ。
けれど、その少しずつが集まって、レナの傷を映像にした。
チヒロは、封印処理の最終確認を終えた。映像ファイル本体は隔離済み。外部送信は現時点で止められている。複製も確認されていない。閲覧には複数承認が必要で、先生の立ち会いなしには開けない形にした。
ユウカはその設定を何度も確認した。確認済みの表示を見ても、指はなかなか端末から離れなかった。
ノアは記録を保存した。記録に残すべきことと、残してはいけないことの境目を選ぶたび、指先の温度が少しずつ下がっていくようだった。
ヒマリは、冷めた紅茶に触れなかった。いつもなら何かしらの言葉で場を整える彼女が、今は沈黙を選んでいる。その沈黙だけで、十分だった。
ネルは最後まで座らなかった。扉の近くに立ち、壁に背を預けたまま、何かを噛み殺すように黙っていた。カリンも、アカネも、アスナも、何も言わない。ただ、それぞれの場所で、まだ崩れないように立っている。
ヒナとアコは、レナが来る前に退室していた。
ゲヘナ側の正式聴取が残っている。確保した生徒たちの端末解析、ブラックマーケット経路の復元、風紀委員会内部での照合。やるべきことは山ほどあった。
ヒナは最後に先生へ短く言った。
「追加の報告は、先生に直接送るわ」
「うん。ありがとう、ヒナ」
「まだ礼を言われる段階じゃない」
ヒナはそう言って、ミレニアムの生徒たちの方を見た。誰が何を見たのか、誰がどれだけ傷ついたのか、彼女は知らない。被害者の名前も知らない。それでも、この部屋に残っているものが軽い傷ではないことは分かっていた。
だから、必要以上に踏み込まなかった。
「……無理はしないで」
それだけ言って、ヒナはアコと共に部屋を出た。
アコも深く一礼した。
「ゲヘナ側の処理は、こちらで進めます。必要な情報は、先生を通して共有いたします」
扉が閉まる。
ゲヘナの二人が去ったあと、部屋には先生とミレニアムの生徒たちだけが残った。
外側の事件は、ひとまず止まった。
けれど、内側は何も終わっていなかった。
先生は全員を見渡してから、静かに言った。
「今夜は、ここまでにしよう」
誰も反論しなかった。できなかった、と言った方が近い。もう少し調べれば、もっと情報は出るかもしれない。もう少し照合すれば、誰がどこまで関わったのか分かるかもしれない。
けれど、これ以上続ければ、誰かが本当に壊れる。
そのことを、全員がどこかで分かっていた。
そして先生は、最後に言った。
「明日、レナが来る」
部屋の中の時間が、一瞬だけ止まった。
元々入っていた予定だった。ヒマリとの確認事項、セミナーへの立ち寄り、場合によってはゲーム開発部へ顔を出すかもしれない、いつものミレニアム訪問。
何もなければ、ただ少し忙しくて、少し賑やかな一日になるはずだった。
でも、もう違う。
ユウカが何か言いかける。
「延期は……」
そこまで言って、自分で止まった。
延期すれば、レナは気づく。延期しなくても、おそらく気づく。どちらにしても、隠し通せる相手ではない。レナは、そういうところに気づく子だった。
先生は首を横に振った。
「普通にしようとしなくていい」
ユウカが顔を上げる。
「ただ、逃げないで」
その言葉だけが、その夜の最後に残った。
誰も、本当の意味では眠れなかった。
朝は、何事もなかったように来た。
ミレニアムの廊下にはいつも通りの光が差している。生徒たちは行き交い、端末の通知音が鳴り、遠くで誰かが課題の話をしている。
世界は、残酷なくらい普通だった。
その普通の中を、レナが歩いてきた。
救護騎士団の制服。淡い髪。白い羽根。少し眠そうで、それでも誰かに会うための柔らかい表情。
昨日の映像の中ではない。
今、廊下を歩いてくるレナだった。
「あ、ユウカさん」
レナが手を振った。
その声を聞いた瞬間、ユウカの胸が詰まった。
何でもない声だった。いつもの、少し柔らかくて、人の様子を伺うような優しさを含んだ声。昨日、画面の中で聞いた声とは違う。それなのに、喉の奥が痛くなった。
「レナさん」
ユウカは返した。
ちゃんと返せたはずだった。
けれど、ほんの少しだけ遅れた。
その一拍を、レナは見逃さなかった。
「……ユウカさん?」
「いえ。何でもありません」
早すぎる否定だった。
レナは首を傾げる。疑うというより、心配する顔だった。その顔を見た瞬間、ユウカはさらに苦しくなる。自分が少しでも崩れれば、この子はきっと自分のことより先にこちらを心配する。先生が言っていた通りだった。
そこへノアが来た。
「レナさん、おはようございます」
「おはようございます、ノアさん」
レナは笑った。
ノアも微笑んだ。いつものように整った、穏やかな微笑みだった。けれど、レナの視線がノアの手元へ落ちる。記録端末を持つ指が、少しだけ強く握られていた。
ノアはすぐに気づき、指の力を抜こうとした。
その動きが、かえって不自然だった。
次にコユキが来た。
「レ、レナさん! お、おはようございます!」
声が高すぎた。
明るすぎた。
コユキ自身もそれに気づいたのか、すぐに顔を青くした。
レナは数秒、コユキを見た。それから、いつものように優しく笑った。
「おはようございます、コユキさん」
その声で、コユキの目に涙が浮かびかける。
レナが一歩近づこうとした瞬間、コユキは反射的に半歩下がった。下がってから、自分が何をしたのかに気づき、今度は自分で傷ついたような顔をした。
レナの足が止まる。
空気が、少しずつ変わっていく。
チヒロは廊下の端にいた。
「……おはよう」
「おはようございます、チヒロさん」
短い挨拶だった。
それだけなのに、チヒロの目が一瞬だけ揺れた。彼女は端末を抱えていた。画面は閉じられている。何も映っていない。それなのに、まるで見せてはいけないものを抱えているみたいに、腕に力が入っていた。
ヒマリもいた。
車椅子の上で、いつものように美しく座っている。
けれど、最初に出た言葉は、いつものような芝居がかった前置きではなかった。
「……おはようございます、レナさん」
レナは驚いたように瞬きをする。
「おはようございます、ヒマリさん」
ヒマリは微笑む。
完璧に見える笑みだった。
でも、いつもの余裕ある冗談がない。レナをからかうような言葉も、ゆったりと相手の反応を楽しむ間もない。
レナの胸の奥に、冷たいものが落ちた。
ネルは少し離れた壁際にいた。
レナを見る。
すぐには近づかない。
怒っているのが分かった。けれど、レナに怒っているのではない。それが分かるから、余計に怖かった。
「ネルさん」
「……よう」
低い声だった。
カリンも、アカネも、アスナもいた。みんな、レナを避けているわけではない。むしろ、避けまいとしている。目を合わせようとして、合わせすぎないようにして、声をかけようとして、言葉を選びすぎている。
その全部が、レナには分かった。
そして、先生が廊下の先に立っていた。
先生は何も隠していない顔だった。
けれど、何も言わない顔でもあった。
レナの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
気づいてしまった。
まだ、何を見られたのかまでは聞いていない。誰がどこまで知っているのかも分からない。けれど、分かる。これは、自分に関わる何かだ。そして、みんなの顔がこうなるもの。
ユウカが何か言おうとした。
「レナさん、あの」
レナは首を横に振った。
責めるためではない。
逃げるためでもない。
ただ、今は自分で言葉にしなければいけないと思った。
少しの沈黙。
廊下の遠くで、誰かの端末通知が鳴った。その音だけが、やけに普通だった。
レナは顔を上げる。
声は震えていなかった。
けれど、少しだけ柔らかすぎた。
「……見ちゃいました?」
誰も答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ユウカの顔が崩れた。
ノアが息を止める。
コユキは口元を押さえる。
ネルの拳が震える。
ヒマリが目を伏せる。
チヒロは何か言おうとして、言えなかった。
レナはそれを見て、少しだけ笑った。
悲しい笑いではない。
平気な笑いでもない。
泣きそうな相手を先に守ろうとする笑いだった。
「そっか」
短く言って、レナは一度だけ息を吸った。
胸の奥は、確かに冷たかった。
見られた。
あの映像を。
見ないで、と言ったはずのものを。
知られたくなかった姿を。
けれど、その痛みを見つめるより先に、目の前の人たちの顔が見えてしまった。ユウカの涙。ノアの止まった呼吸。コユキの震える手。ネルの噛みしめた奥歯。ヒマリの消えた余裕。チヒロの言葉にならない沈黙。
みんな、ひどい顔をしている。
レナは自分の手を握った。
震えを止めるためではない。
誰かに伸ばすために。
「皆さん」
声は静かだった。
「今、私に謝ろうとしてますか」
誰も答えない。
レナは少しだけ困ったように笑った。
「たぶん、謝られたら、私も何て言えばいいか分からなくなります」
ユウカの目から、涙が落ちた。
それを見た瞬間、レナの顔が変わる。
自分の傷ではなく、ユウカの涙を見た顔だった。
「ユウカさん」
「……ごめんなさい」
声が漏れた。
「レナさん、私、私は」
レナは一歩近づく。
ユウカは逃げなかった。
逃げられなかった。
レナはユウカの前に立つ。そして、両手でユウカの手を取った。
「ごめんなさいじゃなくて」
「でも」
「怖かったですよね」
ユウカの息が止まる。
レナの指は温かかった。
「見たくなかったですよね。苦しかったですよね。私のこと、どう見ればいいか分からなくなりましたか」
「違う!」
ユウカの声が崩れた。
「違うの、そんな、私は、レナさんをそんなふうに見たくなくて、でも見てしまって、止められなくて、管理できなくて、私が、私が」
レナはすぐに否定しなかった。
否定の言葉だけでは、ユウカの中に積もったものが消えないと分かっていたからだ。レナはユウカの手を包んだまま、彼女が言葉にならないまま震えるのを待った。
それから、少しだけ近づく。
「ユウカさん」
声は甘かった。
怒りではなく、ただの許しでもなく、もっと近い場所へ手を伸ばす声だった。
「今日は、管理しなくていいです」
ユウカの目が見開かれる。
「今は、私がいます」
「レナさん……」
「だから、泣いてもいいです」
その一言で、ユウカは完全に崩れた。
膝から力が抜ける。
レナが支える。ユウカを抱きしめる。
廊下で。
皆の前で。
それでも、ユウカはもう離れられなかった。レナの肩に顔を埋め、堪えていたものを一度に吐き出すみたいに泣いた。いつものように正しく立とうとする力がほどけて、セミナーの会計としてでも、管理者としてでもなく、ただレナの前で泣いている一人の女の子になってしまう。
「ごめんなさい、見て、ごめんなさい、レナさん、ごめんなさい」
「はい」
レナはユウカの背中を撫でる。
「聞いてます」
「嫌いにならないで」
「なりません」
「私、あんな、あんなの見たのに」
「なりません」
同じ言葉を、レナは繰り返した。
同じ言葉しか、今のユウカには届かない気がした。
レナの胸の奥にも痛みはある。見られたことが平気なわけではない。背中に冷たいものが残っているし、羽根のあたりは、思い出しただけで少し強張る。それでも、今ここで自分の痛みを先に抱えてしまえば、目の前のユウカはきっと、自分を責める場所から戻ってこられなくなる。
だからレナは、ユウカを抱いた。
逃げなかった。
震えている相手を、自分の方へ引き寄せた。
「ユウカさんが見てしまったことを、私への裏切りにはしません」
その言葉で、ユウカの体から力が抜けた。
ノアが目を伏せる。
コユキはもう泣いている。
ネルは顔を逸らし、歯を食いしばっていた。
チヒロは静かに息を吐く。
ヒマリは唇を結んだまま、何も言わない。
レナはユウカを抱いたまま、全員を見た。
怖さはある。
恥ずかしさもある。
胸の奥はまだ冷たい。
けれど、ここにいる人たちは、自分を責めることで壊れかけている。あの映像の中の自分を見たからではなく、あれを見てしまったことを、レナを傷つけた罪のように抱え込んでいる。
だから、レナはゆっくりと言った。
「私は、救護騎士団なので」
その言葉に、全員が顔を上げた。
レナは少しだけ息を吸う。
「目の前で苦しんでいる人を、そのままにはできません」
声は強くなかった。
でも、折れていなかった。
「私のことを見て、苦しくなったなら……それも、私が見ます。怖かったことも、悔しかったことも、謝りたいことも、全部ここで一度には無理ですけど」
レナはユウカの背中を撫でながら、続けた。
「一人ずつ、話しましょう」
廊下の空気が、ゆっくり動いた。
それは救いだった。
けれど、軽い救いではなかった。レナが差し出しているのは、何もなかったことにする優しさではない。見てしまった事実を消せないまま、それでも自分の隣に座っていいと言うような、あまりにも甘くて、逃げ場になってしまう優しさだった。
誰も、すぐにはその甘さの危うさに気づけなかった。
気づいたとしても、拒めなかった。
レナはユウカの服を掴む指に気づく。
ユウカは慌てて離そうとした。けれど、レナはその手に自分の手を重ねた。
「大丈夫です」
小さく囁く。
「今は、離さなくていいです」
ユウカの表情が、子どもみたいに歪んだ。
そして、また泣いた。
レナはその涙を責めなかった。泣き止ませようとも急がなかった。ただ、背中を撫で、呼吸の速さが少しずつ戻るのを待つ。
その姿を見て、誰もが思った。
レナは怒っていない。
逃げてもいない。
自分たちを、まだ見てくれている。
それがありがたくて、苦しくて、胸の奥の一番柔らかいところを握られるようだった。
先生は、少し離れた場所でその光景を見ていた。
止めなかった。
今、必要なのは説明ではない。
レナの言葉が、全員の心に届いてしまった瞬間だった。
レナはユウカを抱きしめたまま、もう一度だけ言った。
「一人ずつでいいです」
今度の声は、少しだけ甘く、少しだけ祈るようだった。
「ちゃんと、聞きますから」