戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ユウカは、レナの服を掴んだまま離せなかった。
廊下にいる全員の視線を感じている。先生も、ノアも、コユキも、ヒマリも、C&Cも、ヴェリタスも、誰も責めるような目はしていない。それでも、自分が今どんな顔をしているのか分かってしまうから、ユウカは顔を上げられなかった。
セミナーの会計として、人前で泣くことはできない。
そう思ってきた。思ってきたはずだった。
けれど、レナの肩に額を預けた瞬間、その線はあっけなく崩れた。昨日から張り詰めていたものが、レナの「離さなくていいです」というたった一言でほどけてしまった。ほどけたものは、もう元には戻らなかった。
「ユウカさん」
レナの声が近くで聞こえる。
昨日の映像の中ではない。黒い画面の奥ではない。今、ユウカの腕の中にいるレナの声だった。
「少し、場所を変えましょう」
ユウカは返事ができなかった。
離れたくなかったからではない。離れたくなかったのだと認めることが怖かった。けれど、レナはユウカの沈黙を責めず、片手でユウカの手を包んだまま、先生へ視線を向けた。
先生は静かに頷いた。
「仮眠室を使って。誰も入らないようにしておく」
「ありがとうございます、先生」
レナがそう言って、ユウカの手を引く。
ユウカは一歩遅れて歩き出した。自分が連れていかれる側になることに、どこか現実味がなかった。いつもなら逆だ。予定を確認し、休憩を指示し、無理をしている相手を部屋へ押し込むのはユウカの役目だった。
なのに今は、レナが前を歩いている。
小さな手が、ユウカの手を離さない。
その温度だけで、また泣きそうになる。
「レナさん、私、まだ」
「今は、まだじゃないです」
レナは振り返らずに言った。
「ここにいたら、ユウカさん、まだ管理しちゃいます。みんなのことも、先生のことも、事件のことも、私のことも」
その言い方が、優しいのに逃げ場を塞いでくる。
「だから、場所を変えます」
ユウカは何も返せなかった。
仮眠室は、端末室から少し離れた場所にあった。必要最低限の家具だけが置かれた、小さな部屋。ベッドが一つ、椅子が一つ、サイドテーブルと、薄いカーテン。窓の外にはミレニアムの整った校舎が見える。
レナは扉を閉めると、鍵をかけなかった。
その代わり、扉の前に一度だけ立ち止まり、ユウカを見た。
「鍵、かけた方がいいですか?」
「え……」
「ユウカさんが、落ち着ける方で」
ユウカはその問いに、なぜか胸が痛くなった。
レナは、逃げ道を塞がない。二人きりの部屋に入れておいて、でも閉じ込めない。ユウカが苦しくなったら出られるように、ちゃんと選ばせてくれる。
そんなところまで優しい。
「……かけないで」
「はい」
レナはすぐに頷いた。
それだけで、ユウカはまた泣きそうになった。
ベッドの端に座るよう促され、ユウカはぎこちなく腰を下ろした。レナはその前に立っている。見上げる形になったレナの顔は、いつもより少し白い。平気なわけではないのだと、ユウカにも分かる。
それなのに、レナはユウカの手を離さなかった。
「レナさん」
「はい」
「本当に、ごめんなさい」
言わないでおこうとした。
謝られたら困ると、レナはさっき言った。それでも、ユウカの口から最初に出たのは謝罪だった。
レナは少しだけ目を伏せる。
怒ったわけではない。
ただ、どう受け止めるかを考えている顔だった。
「謝るのは、あとで聞きます」
「あとで……?」
「はい。今は、先に救護します」
その言葉に、ユウカの呼吸が止まった。
救護。
レナは本気でそう言っている。
自分の傷を見られた直後に、見てしまった相手を救護すると言っている。
「そんなの、おかしいわ」
声が震えた。
「おかしいじゃない。レナさんが、私を救護するなんて。傷ついたのはレナさんでしょう。見られたのも、苦しかったのも、怖かったのも、あなたなのに」
「怖くなかったわけじゃないです」
レナは静かに言った。
その正直さが、ユウカの胸を刺した。
「でも、ユウカさんも怖かったでしょう」
「私は……」
「怖かったですよね」
否定できなかった。
レナはベッドの隣へ座る。少しだけ距離を空けて、でも手は離さない。
「ユウカさん」
「……何?」
「私を見ると、今、何が浮かびますか」
ユウカの体が強張った。
それは、優しい問いかけの形をしていた。けれど、その中身は刃物みたいだった。レナ自身がその刃を持って、自分の前に置いている。
「言えない」
「はい」
「言えるわけ、ないじゃない」
「はい」
レナは頷くだけだった。
急かさない。責めない。けれど、目を逸らさない。
その沈黙に、ユウカは追い詰められていく。逃げられないのではない。逃げてもいいのに、レナが逃げないから、自分だけ逃げることができない。
「……羽根」
声が漏れた。
レナの指が、ほんのわずかに震えた。
ユウカはすぐに気づいた。
「ごめんなさい、違う、言わなくてよかった、今のは」
「続けてください」
「でも」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
そう言いたかった。
でも、レナはユウカの手を握る力を少しだけ強くした。
「言葉にしないと、ユウカさんの中でずっと止まったままになる気がします」
ユウカは唇を噛んだ。
羽根。
髪。
届かなかった手。
止まらなかった声。
画面の中で、レナが自分の体を自分のものとして扱えなくなっていく瞬間。立とうとして、押し戻されて、何度も切り貼りされて、弱ったところだけを選ばれていく悪意。
「羽根を、掴まれたところが」
ユウカは目を伏せる。
「頭から離れないの。レナさんが、固まって、それでも動こうとして、でも……それで、私、止められなくて。映像も、私の頭も、止まらなくて」
レナは黙って聞いていた。
「ファイルを封印したのに、記録したのに、全部ちゃんと処理したはずなのに、私の中ではずっと再生されてる。消したいのに、消したら証拠がなくなる。残したら、レナさんをあそこに閉じ込めたままにしている気がする。どっちを選んでも、あなたを傷つける気がするの」
言葉がこぼれていく。
一度出たら止まらなかった。
「私は、管理できなかった。映像を止められなかった。ミレニアムの生徒が関わっていたことも、防げなかった。あなたの声を、あなたの顔を、記録の中に置いて、報告にして、証拠として扱って……そんなこと、したかったわけじゃないのに」
「分かってます」
「分からないで!」
ユウカは思わず叫んだ。
自分でも驚くほど強い声だった。
レナは瞬きする。
ユウカの目から涙が落ちる。
「分かってますなんて言わないで。そんなふうに許さないで。レナさんが優しくしてくれるたびに、私、どんどん駄目になる。許されたら安心するんじゃなくて、もっとあなたに縋りたくなる。そんなの、駄目なのに」
レナは、今度はすぐに答えなかった。
ユウカの言葉が部屋の中に落ちる。
駄目になる。
縋りたくなる。
その響きが、レナの頬を少しだけ赤くした。
けれど、目は逸らさない。
「ユウカさん」
レナは、ゆっくりと言った。
「私、消せません」
ユウカが顔を上げる。
「あの映像を、ユウカさんの中から全部消すことはできません。見なかったことにもできません。たぶん、私が何を言っても、すぐには消えません」
「……うん」
「だから」
レナはユウカの手を持ち上げた。
ユウカの指が震える。
「上書きしてください」
ユウカは、最初、意味が分からなかった。
レナは自分の手の中にあるユウカの手を見つめ、それからゆっくりと自分の背中へ誘導した。
白い羽根が、わずかに揺れた。
「レナさん?」
「ユウカさんの中に、画面の中の私だけを置いておきたくありません」
レナの声は静かだった。
でも、少しだけ震えていた。
「怖いところで止まってほしくないです。だから、上書きしてください。あの映像じゃなくて、今の私で」
ユウカの血の気が引いた。
「無理よ」
即答だった。
「そんなこと、できるわけないじゃない。私は、見てしまったのよ。レナさんが見ないでって言ったものを見たの。そんな私が、触れるわけない。触ったら、また」
「あれは、奪われたんです」
レナの声が、少し強くなった。
ユウカの言葉が止まる。
「あれは、私が嫌だって思っているのに、奪われたんです。でも今は、私がお願いしています」
レナはユウカの手を離さなかった。
けれど、無理に引き寄せもしなかった。
「嫌なら、やめます。ユウカさんが本当に無理なら、しません」
「だったら」
「でも、私は、ユウカさんにお願いしたいです」
それは、逃げ道を残したまま、真ん中へ届く言葉だった。
ユウカは息ができなくなる。
「どうして、私なの」
「ユウカさんだからです」
「私、見たのに」
「見てしまったユウカさんだからです」
レナは目を伏せる。
「怖いまま、苦しいまま、私のことを見てほしくないです。ユウカさんの中で、私の羽根が怖いもののままになるのは……嫌です」
最後の「嫌です」が、ひどく幼く聞こえた。
それで、ユウカの抵抗が崩れた。
レナは、ユウカの手をゆっくりと導いた。
羽根の根元ではない。
先の方。
柔らかく、光を含んだ白い羽根の外側。
ユウカの指が、そこに触れた。
レナの肩が、小さく震えた。
ユウカは反射的に手を引こうとする。
「ごめんなさい!」
だが、レナがその手を止めた。
「大丈夫です」
「でも、震えたじゃない!」
「怖かったからじゃないです」
「嘘」
「嘘じゃないです」
レナは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「大事に触ってくれたから、びっくりしただけです」
その言葉で、ユウカの目から涙があふれた。
羽根は温かかった。
映像の中では、そこは恐怖の場所だった。奪われ、掴まれ、レナの身体を固まらせる場所だった。けれど今、ユウカの指先にある羽根は、レナの呼吸に合わせてかすかに動いている。乱暴に扱えば傷ついてしまいそうで、けれど、触れることを拒んでいない。
ユウカの手が震える。
「私、触っていいの?」
「はい」
「見てしまった私が」
「はい」
「壊さない?」
「壊れません」
レナは言った。
「ユウカさんの手、優しいです」
ユウカはもう、何も言えなかった。
指先で羽根を撫でる。ほんの少しだけ。レナが痛がらないか、怖がらないか、何度も確認しながら。レナはそのたびに、逃げずにそこにいた。時々、くすぐったそうに肩を揺らす。ユウカが慌てて手を止めると、レナが小さく笑って「大丈夫です」と言う。
それを何度か繰り返すうちに、ユウカの中で、映像の中の羽根に別の感触が重なっていった。
掴まれていた羽根ではない。
レナが自分から預けてくれた羽根。
震えているのに、逃げなかった羽根。
ユウカの指を、怖い手だと言わなかった羽根。
「覚えてください」
レナが囁いた。
「こっちの私を」
ユウカはその言葉に耐えられなかった。
羽根を傷つけないように手を離し、代わりにレナを抱きしめようとする。けれど、腕が途中で止まった。背中に回していいのか、羽根に触れていいのか、強く抱きしめたら痛くないのか、全部が怖くなって動けない。
レナはその腕を見た。
それから、自分からユウカの腕を取って、そっと自分の背中へ回した。
「こうすれば、大丈夫です」
「レナさん……」
「痛かったら言います。怖かったら、やめてって言います。だから、ユウカさんも、怖いまま固まらないでください」
ユウカの腕が、レナを抱きしめた。
最初は、触れているだけだった。
でも、レナが自分から少し近づくと、ユウカの理性がまた崩れた。壊さないように、傷つけないように、それでも離したくないという気持ちが抑えられなくなって、ユウカはレナを抱きしめる力を少しだけ強くした。
レナは逃げなかった。
むしろ、ユウカの肩に頬を寄せた。
「……そんなの、ずるい」
ユウカが泣きながら言う。
「そんなふうにされたら、私、本当に駄目になる」
「駄目じゃないです」
「駄目よ。だって、今、離したくないって思ってる。謝らなきゃいけないのに、守らなきゃいけないのに、私、レナさんがここにいてくれることに安心してる。そんな資格ないのに」
「資格じゃなくて、今は救護です」
レナは少しだけ真面目に言った。
その言い方があまりにもレナらしくて、ユウカは泣きながら笑ってしまった。
「何よ、それ」
「救護です」
「そんな救護、知らないわよ……」
「じゃあ、今日覚えてください」
レナは本気で言っている。
その本気が、ユウカをさらに深く沈めた。
ベッドに横になったのは、どちらからともなくではなかった。レナがユウカの呼吸を見て、「横になってください」と言ったのだ。ユウカはまだ抵抗しかけたが、レナにじっと見られて、結局何も言えなくなった。
「少しは休みました」と言う準備はあった。
けれど、レナが先に言った。
「嘘は、今日はなしです」
ユウカは黙った。
レナは隣に座り、ユウカが横になるのを待った。ユウカは端に寄りすぎるくらい端に寄ったが、レナが当たり前のように近くへ来るので、結局距離はほとんど残らなかった。
「レナさんまで横にならなくていいのに」
「ユウカさん、一人にしたら起きますよね」
「……起きないわよ」
「嘘はなしです」
ユウカは何も言えなくなった。
レナは布団の上からユウカの手を取る。その手は、さっき羽根に触れていた手だった。ユウカは自分の指先を見る。まだ、感触が残っている気がした。柔らかくて、温かくて、レナが逃げなかった証拠みたいな感触。
「この手」
レナが言う。
「怖い手じゃありませんでした」
ユウカの胸が詰まる。
「ちゃんと、優しい手でした」
言いながら、レナはユウカの手を両手で包んだ。ユウカが何か言うより早く、レナはその指先へ顔を近づける。
そして、羽根に触れた指先に、そっと唇を当てた。
時間が止まった。
ユウカの呼吸も、思考も、全部止まった。
レナの唇はすぐに離れた。ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬が、ユウカの中でどうしようもなく大きく広がっていく。
「……レナさん」
声が掠れた。
「今の、は」
レナは少しだけ赤くなった。
「救護、です」
ユウカは呆然とした。
それから、泣き笑いのような顔になる。
「だから、そんな救護、知らないってば……」
「でも、効きましたか?」
レナが真面目に聞く。
ユウカは答えられなかった。
効いた。
効きすぎている。
羽根に触れた指先が、今度はレナに大事にされた。怖い手じゃないと言われた。優しい手だったと認められた。その指先に、レナが自分から唇を当てた。
それは許しよりも甘く、証明よりも重かった。
ユウカはその手を引こうとして、引けなかった。握りしめることもできない。握ったら、今の感触が消えてしまいそうだった。だから、そっと胸元へ寄せる。大切なものを落とさないように。
レナはそんなユウカを見て、柔らかく笑った。
「眠るまで、ここにいます」
「眠ったら?」
「起きるまで、います」
「……本当に、駄目になるわ」
「今日は、駄目になってもいいです」
ユウカの目がまた潤む。
レナは少しだけ困ったように笑って、布団の中でユウカの手を握り直した。
「今日だけじゃなくても、いいですけど」
「レナさん」
「ユウカさん、寝てください」
ユウカは反論しようとしたが、もう声にならなかった。
眠れるはずがないと思っていた。
目を閉じれば、映像が戻ってくると思っていた。レナの羽根が掴まれた場面、声が切られた場面、届かなかった手。自分が止められなかった再生。管理できなかった夜。
けれど、今は違うものがあった。
指先に残る羽根の温度。
レナが震えながらも逃げなかった声。
「覚えてください」と言った時の、少し恥ずかしそうな顔。
そして、その指先へ落とされた柔らかい口づけ。
映像は消えない。
消えるはずがない。
けれど、その上に、別の記憶が重なった。レナが自分から差し出してくれた今の記憶が、黒い画面の上へゆっくり広がっていく。
ユウカは、その記憶に縋るように目を閉じた。
「レナ」
眠りに落ちる直前、ユウカは初めて、敬称を落として呼んだ。
自分でも気づいたのか、少しだけ瞼が震える。
レナは驚いたように瞬きして、それから優しく返した。
「はい、ユウカさん」
「……手、離さないで」
「離しません」
その答えを聞いて、ユウカの力がようやく抜けた。
胸元に寄せた指先を大事に抱いたまま、ユウカは眠った。眠りは浅いかもしれない。途中で目を覚ますかもしれない。それでも、昨日から初めて、ユウカの呼吸はゆっくりと整っていった。
レナはその寝顔を見つめる。
少しだけ、自分の羽根を見る。
怖くなかったわけではない。
でも、ユウカの手は本当に優しかった。
レナは小さく息を吐き、眠るユウカの手を包み直す。
「ちゃんと、上書きできたかな」
返事はない。
ユウカは眠っている。
それでも、その指先はレナの手を離さなかった。
レナは困ったように、でもどこか嬉しそうに笑う。
「おやすみなさい、ユウカさん」
その声は、仮眠室の静けさに溶けていった。