戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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今の私を覚えて

 

 

 ノアの部屋は、静かだった。

 

 いつもなら整っていると感じるはずの空間が、今日はどこか息を潜めているように見えた。本棚にはきちんと並べられた資料と本があり、机の上には端末が置かれている。けれど、端末は閉じられていた。紙のメモも、ペンも、何も開かれていない。

 

 記録するための場所ではなく、記録しないために整えられた場所。

 

 レナには、そんなふうに見えた。

 

 机の上には紅茶が二つ置かれていた。白いカップの中で、湯気がゆっくり揺れている。紅茶の香りはやわらかく、部屋の空気に馴染んでいた。けれど、その香りの奥に、どこか緊張がある。

 

 ノアは、いつものように微笑んでいた。

 

 綺麗な微笑みだった。

 

 けれど、レナはもう、その綺麗さだけで安心しなかった。

 

「今日は、記録しないんですか」

 

 レナがそう聞くと、ノアは少しだけ目を細めた。

 

「必要ありません」

 

「どうしてですか」

 

「私は、忘れられませんから」

 

 それは穏やかな声だった。

 

 穏やかすぎて、レナはすぐに返事ができなかった。

 

 ノアは椅子を勧めるように手を動かしたが、レナは座らなかった。部屋の中央で、ノアの方を見たまま立っている。

 

 ノアはその様子を見て、小さく笑った。

 

「レナさん?」

 

「座ったら、ノアさんがいつものペースに戻りそうなので」

 

 ノアの微笑みが、ほんの少し止まる。

 

「私のペース、ですか」

 

「はい」

 

 レナは頷いた。

 

「ノアさんは、座って、紅茶を飲んで、落ち着いた声で話して、私が困るようなことを少しずつ言うのが上手です」

 

「……それは、褒められているのでしょうか」

 

「今日は褒めてません」

 

 ノアは、今度こそ言葉を止めた。

 

 レナは一歩、近づく。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「大丈夫です、って言うつもりですか」

 

 ノアは微笑もうとした。

 

 けれど、レナが続ける。

 

「言う前にやめてください」

 

 声は強くなかった。

 

 でも、まっすぐだった。

 

「説明じゃなくて、ノアさんが苦しいかどうかを聞きに来ました」

 

 部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

 ノアの部屋は、ノアの場所だった。整えられた記録と、静かな記憶の場所。普段なら、ノアが相手を迎え入れ、言葉の位置を決め、相手が落ち着ける距離を測る。

 

 けれど今日は、レナがその真ん中へ歩いてきた。

 

 ノアの許した距離より、少し近く。

 

 ノアが微笑みで整えるより、少し早く。

 

「……困りましたね」

 

 ノアは、ゆっくりと言った。

 

「レナさんは、今日はずいぶん強いです」

 

「ノアさんが逃げようとするからです」

 

 即答だった。

 

 ノアは目を伏せかけた。

 

「逃げているように見えますか」

 

「見えます」

 

 レナはノアの手元を見た。

 

 端末は閉じられている。紙もない。記録しないと決めている。それなのに、ノアは何かを整えようとしていた。言葉の順番、表情の角度、レナに心配させないための声の高さ。

 

 そういうものを全部。

 

「ノアさんは、綺麗に苦しもうとしてます」

 

 ノアの指が、わずかに動いた。

 

「それは……なかなか厳しい言い方ですね」

 

「綺麗じゃなくていいです」

 

 レナは言った。

 

「今日は、私に負けてください」

 

 その一言で、ノアは完全に黙った。

 

 レナは、言ってから少しだけ頬を赤くした。自分でもかなり踏み込んだことを言ったと分かったのだろう。それでも、視線は逸らさない。

 

 ノアは、しばらくレナを見つめていた。

 

 そして、ようやく微笑みを薄くした。

 

「苦しいです」

 

 レナの表情が、少しだけ揺れた。

 

「私は、忘れられません。比喩ではなく、本当に。時間が経てば曖昧になるとか、細部が薄れていくとか、そういう救いが、私には少し少ないんです」

 

 ノアは自分の胸元へ手を置いた。

 

 そこに何かが書かれているわけではない。

 

 それでも、レナには分かった。

 

 ノアの中には、もう記録がある。

 

「あの映像のレナさんが、私の中に残っています。顔も、声も、息の乱れ方も、視線を逸らした瞬間も。切られた場面も、切られなかった音も。映像がどこを選んで、どこを残し、どこを見せつけようとしていたのかまで、私は覚えてしまいました」

 

 レナの羽根が、小さく強張った。

 

 ノアはそれを見て、口を閉じかける。

 

 けれど、レナが先に言った。

 

「続けてください」

 

「レナさん」

 

「ノアさんが一人で持ってる方が嫌です」

 

 それは、残酷な優しさだった。

 

 ノアはそう思った。

 

 自分が覚えてしまったから。忘れられないから。レナ本人に、その記憶の話をさせている。なのにレナは、自分の痛みを抱えながら、ノアの痛みを見ようとしている。

 

 これでは、勝てるはずがない。

 

「私は、あの映像の悪意を理解してしまいました」

 

 ノアは言った。

 

「ただ傷つけるだけではないんです。見た人間の中に残るように作られていました。レナさんの弱った瞬間、声が途切れた瞬間、抵抗が届かなかったように見える瞬間。そういうものだけを選んで、見た側の記憶に刺さるように」

 

 レナは黙って聞いていた。

 

 顔色は少し白い。

 

 それでも、逃げない。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「私を見てください」

 

 ノアの言葉が止まった。

 

 レナは一歩近づく。

 

「説明している間、少しだけ私を見ないようにしてました」

 

「……見れば、残りますから」

 

「知ってます」

 

「なら」

 

「だから、見てください」

 

 ノアの胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。

 

 忘れられないから見られない。

 

 それは、ノアにとって最後の防御だった。

 

 けれど、レナはそれを許さなかった。

 

「覚えてしまうから見られない、なんて言わないでください」

 

 普段なら、ノアが言う側だった。

 

 逃げ道を柔らかく塞ぎ、相手が自分で選んだと思える形で、本当に見てほしいものを見せる。そんなふうに、ノアは言葉を使う。

 

 そのノアが今、レナの言葉に追い込まれている。

 

 レナは、ノアの部屋の中央に立っていた。

 

 少し怖がっている。

 

 少し恥ずかしがっている。

 

 それでも、逃げない。

 

「まず、見てください」

 

「見ていますよ」

 

「違います」

 

 レナは首を横に振った。

 

「観察じゃなくて、五感全てで私を見てください。映像の中の私じゃなくて、今ここにいる私を。少し怖いけど、ノアさんから逃げてない私を、ちゃんと見てください」

 

 ノアは、ゆっくりとレナを見た。

 

 淡い髪。柔らかい頬。少し緊張した唇。真っ直ぐこちらを見上げる目。救護騎士団の制服。肩の力を抜こうとして、まだ少しだけ抜けきっていない姿勢。白い羽根は落ち着いているように見えて、時折小さく震える。

 

 今のレナ。

 

 昨日の映像の中ではない、今ここにいるレナ。

 

 ノアが見つめるほど、レナの頬が赤くなっていく。

 

「……そんなに見るんですか」

 

「レナさんが、ちゃんと見てくださいと仰ったので」

 

「言いましたけど」

 

「一度見たら忘れませんよ」

 

「忘れないでください」

 

 レナはまた、逃げなかった。

 

「でも、怖い私だけじゃなくて、今の私も」

 

 その言葉が、ノアの中に落ちる。

 

 視覚。

 

 まず一つ目。

 

 レナは少し息を整えた。それから、今度は声を出す。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「ノアさん」

 

「……二度呼ぶのは、ずるいですね」

 

 ノアがそう言うと、レナはほんの少しだけ眉を下げた。

 

「まだ足りません」

 

 ノアの目が揺れる。

 

「怖い声が残ってるなら、私が何度でも呼びます」

 

 それは、救護の言葉なのだろう。

 

 レナはきっと、本気でそう思っている。ノアの中に残った怖い記憶を、今の声で少しでも薄めたい。そう考えているだけなのだろう。

 

 けれどノアには、ほとんど告白のように聞こえた。

 

「ノアさん」

 

 三度目は、少し近かった。

 

「ノアさん」

 

 四度目は、少し柔らかかった。

 

「ノアさん」

 

 五度目は、名前の最後が小さく揺れていた。

 

 そのたびに、ノアの中で、映像の中に残っていた声の隣へ別の声が置かれていく。怖がっている声だけではない。苦しむ声だけではない。今、ノアを呼ぶレナの声。

 

 ノアは、目を伏せそうになった。

 

「逃げないでください」

 

 レナが言う。

 

 ノアは目を戻した。

 

「……はい」

 

 負けている。

 

 ノアは、自分で分かった。

 

 それでも嫌ではなかった。むしろ、レナに負けていくことが、ひどく甘く、ひどく危うく感じられた。

 

「次は、触覚です」

 

 レナは少し緊張したように、自分の手を見た。

 

「随分、計画的ですね」

 

「ノアさんが覚えちゃうなら、こっちもちゃんとしないといけないので」

 

「かわいらしい対抗策です」

 

「からかわないでください」

 

「すみません」

 

 ノアが謝ると、レナはじっと見た。

 

「本気で反省してない顔です」

 

「よく見ていますね」

 

「今日は私が見る番です」

 

 その返しに、ノアはまた言葉を失いかけた。

 

 レナはノアの手を取る。ノアの指は冷えていた。自分では気づいていなかったのか、ノアが少しだけ目を見開く。

 

「冷たいです」

 

「そうですね」

 

「大丈夫じゃない手です」

 

「手で分かるものですか?」

 

「分かります」

 

 レナは当然のように答えた。

 

「救護騎士団なので」

 

「便利な言葉ですね」

 

「便利じゃなくて、本当です」

 

 レナはノアの手を、自分の頬へ導いた。

 

 ノアの指先が触れる。

 

 柔らかい。

 

 温かい。

 

 ほんの少しだけ、レナが息を止めたのが分かった。

 

「レナさん」

 

「大丈夫です」

 

「まだ何も言っていませんよ」

 

「ノアさんが、言う前に心配しました」

 

 ノアの指先が、レナの頬に触れている。

 

 映像の中で歪められた表情ではない。勝手に切り取られた顔ではない。今、ノアの手の中にある、レナ本人の顔。

 

「今の私です」

 

 レナが言った。

 

「ここにいます」

 

 ノアの指が震えた。

 

 レナはその手を離さない。

 

「次は、髪」

 

 その言葉に、ノアの表情が変わった。

 

「それは、本当にいいんですか」

 

「はい」

 

 レナの声も、少しだけ硬くなった。

 

 怖くないわけではないのだと、ノアには分かる。

 

「髪も、怖い記憶だけじゃなくしてください」

 

 ノアは、すぐには動けなかった。

 

 髪。

 

 映像の中で見てしまった。床に広がり、踏まれ、レナの動きを止めていたもの。ノアの記憶の中では、そこは痛みと屈辱の場所として残っている。

 

 そこに、今、触れていいと言われている。

 

「ノアさん」

 

 レナが見上げる。

 

「今日は、私が決めます」

 

 ノアの息が止まった。

 

「頬。髪。手。ここまでです。それ以上は、今はだめです」

 

 ノアは、反射的に言いそうになった。

 

 今は、ですか。

 

 けれど、レナに見られて黙った。

 

 レナは少しだけ赤くなりながら、それでも逃げなかった。

 

「ここまでは、ちゃんと覚えてください」

 

「……はい」

 

 ノアは、レナの髪に触れた。

 

 指先で、慎重に。

 

 レナの淡い髪は、思っていたより柔らかかった。映像の中では床に広がっていた髪が、今はノアの指にすくわれて、部屋の灯りを含んで揺れている。レナの肩が少し震えるたび、その髪も小さく動いた。

 

 ノアは、ただ撫でることしかできなかった。

 

 丁寧に。

 

 丁寧にしすぎて、手放したくなくなるくらいに。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「泣きそうですか」

 

 ノアは一瞬、答えられなかった。

 

「……どうでしょう」

 

「笑ってごまかさないでください」

 

「困りましたね」

 

 ノアは息を吐く。

 

「本当に、困りました」

 

 レナは、今度は自分から近づいた。

 

 ノアの手から髪が離れる前に、そのままノアの胸元へそっと体を寄せる。

 

 ノアの腕が宙で止まった。

 

「レナさん?」

 

「ノアさんは匂いも覚えるんですよね」

 

 ノアの余裕が、明らかに崩れた。

 

「……それは」

 

「なら、逃げないでください」

 

 レナが先に抱きしめた。

 

 ノアの制服に、レナの額が触れる。白い羽根が近くで揺れる。ノアの部屋にあった紅茶と紙の匂いの中へ、救護バッグの消毒薬の匂いと、少し甘い飴のような匂い、石鹸と、風に触れた髪の匂いが混ざる。

 

 映像にはなかった、今のレナの匂い。

 

「変な匂いしないですか」

 

 レナが少し不安そうに聞く。

 

 ノアは腕を下ろせないまま、答えた。

 

「します」

 

「えっ」

 

「救護バッグの消毒薬と、少し甘い匂いがします」

 

「それ、変じゃないですか」

 

「いいえ」

 

 ノアの声が、少しだけ低くなった。

 

「レナさんの匂いです」

 

 レナの耳が赤くなった。

 

「……そういう言い方、恥ずかしいです」

 

「覚えてしまいました」

 

「言わなくていいです……」

 

「レナさんが覚えてくださいと言ったので」

 

「そこまでは言ってないです」

 

「五感全部、と始めたのはレナさんです」

 

「そうですけど」

 

 レナは少し拗ねたように言った。

 

 その表情まで、ノアは覚えてしまう。

 

 かわいい、と思った。

 

 同時に、苦しいと思った。

 

 こんなふうに思っていいのか分からなかった。あの映像を見てしまった自分が、今のレナをかわいいと思うこと。それは許されるのか。けれど、レナが自分から今の私を覚えてと言った。逃げないでと言った。なら、この感情もどこかへ置いていいのだろうか。

 

 ノアが迷っていると、レナはそっと離れた。

 

 そして救護バッグから、小さな飴を取り出した。

 

「これ、落ち着くので」

 

「レナさんがいつも持っているものですか?」

 

「はい。救護のあととか、少し落ち着きたい時に」

 

 レナは一つをノアへ渡し、もう一つを自分で取る。

 

「味覚です」

 

「本当に全部するんですね」

 

「途中でやめたら、ノアさんがまた逃げそうなので」

 

「私は、そんなに信用がありませんか」

 

「あります。だから逃げ方も上手だと思ってます」

 

 ノアは、飴を受け取る手を止めた。

 

 負けている。

 

 完全に。

 

 レナは飴を口に入れる。ノアもそれに倣う。

 

 甘い味が広がった。

 

 強すぎない、少し懐かしい甘さ。落ち着くための味という説明が、すぐに分かるような味だった。ノアの部屋にある紅茶の香りとは違う。これは、レナが自分を戻すために持っている味だった。

 

「同じ味、です」

 

 レナが言う。

 

「はい」

 

 ノアは静かに答えた。

 

「では、これも覚えます」

 

「何でも覚えますね」

 

「あなたがくれるものなので」

 

 レナが黙った。

 

 今度は、レナが押される番だった。

 

 けれど、今日のレナはそこで逃げなかった。

 

「……ノアさん」

 

「はい」

 

「そんなふうに言われたら、私も勘違いします」

 

 ノアの目が見開かれる。

 

 レナは赤くなりながらも、視線を逸らさなかった。

 

「だから、ノアさんも勘違いって言わないでください」

 

 ノアの喉が震えた。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「そんなふうにされたら、私は本当に勘違いしますよ」

 

 普段なら、軽く微笑みながら言えたはずだった。

 

 けれど今の声は、少し揺れていた。

 

 レナは、その揺れを見逃さなかった。

 

「勘違いじゃないです」

 

 ノアの呼吸が止まる。

 

 レナは一度だけ目を伏せた。

 

 けれど、すぐにまたノアを見た。

 

「ノアさんに、あの映像だけを覚えていてほしくないです。ノアさんの中に、今の私を置きたいです」

 

 言ってから、レナの頬がさらに赤くなる。

 

「それは、私がそうしたいんです」

 

 ノアは何も言えなかった。

 

 言葉が、出てこない。

 

 こんなことは滅多にない。

 

 自分の中に誰かを置きたい、と言われた。しかも、その相手はレナだ。昨日、見てしまった映像の中にいたレナではなく、今ここで頬を赤くして、救護だと言い張りながら、まるで告白みたいなことを言っているレナ。

 

「ノアさん」

 

 レナは、もう一歩近づいた。

 

「綺麗に泣かないでください」

 

 そこで初めて、ノアは自分が泣いていることに気づいた。

 

 涙は静かに落ちていた。

 

 声も乱れていない。表情も大きく崩れていない。きっと他の人が見れば、泣き方まで整っていると言うかもしれない。

 

 でも、レナはそれを許さなかった。

 

「今は、私に負けてください」

 

 その言葉で、ノアの中の最後の支えが折れた。

 

「……負けました」

 

 小さな声だった。

 

 笑おうとして、笑えなかった。

 

「レナさんには、勝てません」

 

 レナは少しだけ困ったように笑う。

 

「今日は、私が勝ちます」

 

「今日だけですか?」

 

「今日は、です」

 

「では、覚えておきます」

 

「それは、少しずるいです」

 

「私は負けたので、このくらいは」

 

 ノアの声に、ようやく少しだけいつもの響きが戻る。

 

 けれど、その奥はもう隠せていなかった。

 

 レナは背伸びをした。

 

 ノアが何か言う前に、レナの手がノアの頬に添えられる。

 

「ここに」

 

 レナは、ノアの額へ視線を向けた。

 

「今の私も置いてください」

 

 そして、ノアの額にそっと唇を当てた。

 

 柔らかい、短い口づけだった。

 

 けれど、ノアにとってはそれで十分すぎた。

 

 完全記憶というものが、今ほど恐ろしく、今ほど幸福だったことはない。忘れられない。今の温度も、レナの近さも、額に触れた唇の感触も、少し震えていた指も、全部残ってしまう。

 

 ノアは、ゆっくりとレナを抱きしめた。

 

 今度はレナが逃げなかった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「これは、記録ではありません」

 

「はい」

 

「誰にも見せません」

 

「はい」

 

「私の中に置きます」

 

 レナは、ノアの胸元で少しだけ息を吸った。

 

「はい」

 

「でも」

 

 ノアは、レナを抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。

 

「一度置いたら、返せませんよ」

 

 レナの肩が小さく揺れる。

 

 怖がったのだと、ノアには分かった。

 

 それでも、レナは逃げなかった。

 

「返さなくていいです」

 

 ノアの腕の中で、レナが言う。

 

「その代わり、苦しくなったら、私に見せてください」

 

 ノアは目を閉じた。

 

 返さなくていいと言われたのに、独り占めにしていいわけではない。苦しくなったら見せて、と言われた。ノアの中に置かれたレナの鍵を、結局レナ本人が持っている。

 

「……本当に、今日は勝てませんね」

 

「今日は、私が決める日なので」

 

「ええ」

 

 ノアは静かに笑った。

 

 涙はまだ止まっていない。

 

 けれど、もう綺麗に整えようとは思わなかった。

 

 レナはそんなノアを見上げて、少し安心したように笑う。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

「今の私、覚えられましたか」

 

「はい」

 

 ノアは答える。

 

「目も、声も、頬の温度も、髪の手触りも、匂いも、飴の味も」

 

 レナが赤くなる。

 

「全部言わなくていいです」

 

「そして、額の口づけも」

 

「ノアさん」

 

「忘れません」

 

 その言葉は、もう怖いだけではなかった。

 

 あの映像は消えない。

 

 ノアの中では、きっと薄れもしない。

 

 けれど、その隣に置かれるものが増えた。レナが自分から見せた顔。名前を呼ぶ声。頬の温度。髪を撫でさせた時の小さな震え。抱きしめた時の消毒薬と甘い匂い。同じ飴の味。額に落とされた口づけ。

 

 それらは、映像を消すためのものではなかった。

 

 消えないものの中で、レナを終わらせないためのものだった。

 

 ノアはそれを、紙にも端末にも残さない。

 

 誰にも見せない場所へしまった。

 

 そして、その場所を開ける鍵を、たぶんもうレナに渡してしまった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「私は、今日のあなたも忘れません」

 

「はい」

 

「だから、また上書きが必要になったら」

 

 ノアは少しだけ笑う。

 

 まだ涙の残る顔で。

 

「呼んでもいいですか」

 

 レナは一瞬、言葉に詰まった。

 

 それから、照れたように目を伏せて、小さく頷いた。

 

「……救護が必要なら」

 

「救護です」

 

「即答しないでください」

 

「必要ですから」

 

 レナは困ったように笑った。

 

 けれど、その笑みは嫌がっていなかった。

 

 ノアは、その笑顔も覚えた。

 

 今度は、苦しくなるためではなく。

 

 自分の中で、今のレナがちゃんと息をできるように。

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