戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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見つけてくれてありがとう

 

 

 コユキは、いなくなっていた。

 

 逃げた、というほど大げさなものではない。誰かが呼び止めれば、きっと戻ってくる。先生が探せば、すぐに見つかる。ミレニアムの校内から出たわけでもない。

 

 ただ、レナが次に話そうとした時、さっきまで近くで泣きそうな顔をしていたコユキの姿が、いつの間にか廊下から消えていた。

 

 ユウカが気づいた時には、もう遅かった。

 

「コユキ……?」

 

 ノアが静かに辺りを見る。

 

 チヒロは端末を確認しかけて、手を止めた。追跡するようなことをしていいのか迷ったのだろう。今のコユキを、位置情報だけで捕まえるのは、少し違う気がした。

 

 先生がレナを見る。

 

 レナは、少しだけ困ったように笑った。

 

「大丈夫です。探してきます」

 

「一人で?」

 

 ユウカが反射的に聞いた。

 

 レナは頷いた。

 

「はい。コユキさん、たぶん今、たくさん人がいるところだと余計に逃げちゃうと思うので」

 

 逃げちゃう。

 

 その言い方が優しくて、ユウカは何も言えなくなった。

 

 レナは廊下を歩き出した。急がない。けれど、迷ってはいなかった。

 

 コユキがどこに行ったのか、正確に分かっているわけではない。それでも、なんとなく分かる気がした。人の多い場所ではない。明るすぎる場所でもない。誰かに見つけてほしい気持ちと、見つけられたくない気持ちが半分ずつある場所。

 

 階段の踊り場。

 

 使われていない自販機の横。

 

 資料室の裏。

 

 そういう場所を一つずつ見ていく。

 

 そして、三つ目の廊下を曲がった先で、レナは足を止めた。

 

 非常階段へ続く扉の前。

 

 半分だけ開いた扉の向こうで、誰かが小さく鼻をすすった。

 

「コユキさん」

 

 扉の向こうで、音が止まった。

 

 返事はない。

 

 レナは無理に開けなかった。扉の前に立ち、声だけをかける。

 

「入ってもいいですか?」

 

 沈黙。

 

 それから、ずいぶん小さな声がした。

 

「……だめって言ったら、帰りますか」

 

「帰りません」

 

「じゃあ聞かないでくださいよぉ……」

 

 少しだけ、いつものコユキらしい言い方だった。

 

 でも、声の底はぐしゃぐしゃだった。

 

 レナは扉をそっと開けた。

 

 非常階段の踊り場は、冷たい空気が溜まっていた。壁際に膝を抱えて座っているコユキがいる。顔を伏せ、帽子の影で表情を隠しているけれど、肩が小さく震えていた。

 

 レナは近づきすぎない距離でしゃがんだ。

 

「見つけました」

 

 コユキの肩が跳ねる。

 

「……見つけるの、上手すぎません?」

 

「コユキさんが、見つけてほしそうな場所にいたので」

 

「そんなことないです」

 

「そうですか?」

 

「そうです」

 

 言い張る声が、途中で震えた。

 

 コユキは顔を上げない。

 

「私は、逃げたんです」

 

「はい」

 

「悪い子なので」

 

「それは違います」

 

 レナの返事は早かった。

 

 コユキが少しだけ顔を上げる。

 

 目の周りが赤い。

 

「違わないです。私、逃げました。みんなの前からも、レナさんの前からも。だって、無理じゃないですか。あんな顔、されて。レナさんが優しくて、怒らなくて、ユウカ先輩もノア先輩も、みんな苦しそうで、それで私……私が、見つけたから」

 

 最後の言葉だけ、ひどく小さくなった。

 

 レナは黙って聞いた。

 

 コユキは膝を抱える手に力を込める。

 

「私が、見つけたんです」

 

「はい」

 

「私が触ったんです。ファイルを見つけて、開いて、変なものだって思って、でも止まらなくて、みんなが見て、レナさんのあんな……あんな、見ちゃいけないものを」

 

 喉が詰まる。

 

 それでも、コユキは吐き出すように続けた。

 

「私が見つけなかったら、みんな見なかったかもしれないじゃないですか。レナさんが知らないところで隠されてたかもしれないけど、少なくとも、みんなはあんな顔しなかった。ユウカ先輩も、ノア先輩も、チヒロ先輩も、ネル先輩たちも、あんなふうにならなかった」

 

 自分で言いながら、コユキの顔が歪んでいく。

 

「私、余計なことしたんです。いつもみたいに、また、余計なもの見つけて、余計なところ触って、余計なことして、みんなを困らせて……今度は、レナさんを」

 

「コユキさん」

 

「怒ってくださいよ!」

 

 コユキが、ほとんど叫ぶように言った。

 

「私が悪いって言ってください! 余計なことしたって、また変なもの見つけてみんなを困らせたって、ちゃんと怒ってくださいよ! その方が、まだ楽なんです!」

 

 レナは黙った。

 

 その沈黙に、コユキの肩が震える。ようやく罰が来ると思ったのかもしれない。悪い子として叱られて、そこで少しだけ安心できると思ったのかもしれない。

 

 けれど、レナは少しだけ目を伏せたあと、静かに顔を上げた。

 

「……分かりました」

 

 コユキの息が止まる。

 

「怒ります」

 

「え」

 

 レナの声は荒くなかった。

 

 ただ、さっきまでの甘い声ではなかった。背筋を伸ばし、コユキの目をまっすぐ見る。その立ち方も、声の置き方も、いつものレナより少しだけ硬い。

 

 救護騎士団の制服が、その瞬間だけ、ただの服ではなくなったように見えた。

 

「コユキさん」

 

「は、はい……」

 

「自分を悪い子にするのは、やめてください」

 

 コユキは、何を言われたのか分からない顔をした。

 

「……え?」

 

「私が怒っているのは、そこです。ファイルを見つけたことではありません。開いてしまったことでもありません。コユキさんが、私のことを理由にして、自分を一人で罰しようとしていることです」

 

「そ、それ怒るところ違いません……?」

 

「違いません」

 

 レナは一歩近づいた。

 

「救護対象が、自分の傷を自分で広げようとしている。私は救護騎士団です。見逃す理由がありません」

 

 コユキの唇が震えた。

 

「で、でも、私、余計なことして、見つけて、みんなに」

 

「そこは怒りません」

 

「なんでですかぁ……!」

 

「怒る場所は、私が決めます」

 

 その言い方は、ひどく静かだった。

 

 なのに、逃げ道がなかった。

 

「コユキさんが自分を悪者にしたら、私は助けられなくなります。悪い子だから仕方ない、罰を受けるべきだ、そう言って私の手が届かないところへ行こうとするでしょう」

 

 レナは、コユキの震える手を見た。

 

「それは、許可しません」

 

 コユキの目から、ぽろりと涙が落ちた。

 

「許可って……」

 

「許可しません」

 

 レナはもう一度言った。

 

「私の前で、自分を傷つける言葉を使わないでください。コユキさんを悪い子だと決めつける言葉も、罰だから一人で苦しむべきだという言葉も、今は全部禁止です」

 

「禁止……」

 

「はい。禁止です」

 

「な、なんか……救護騎士団の団長さんみたいですぅ……」

 

 コユキが泣きながら言う。

 

 レナはそこで、ほんの少しだけ頬を赤くした。

 

「……ミネ先輩に、怒り方まで似てきたかもしれません」

 

「怖いですぅ……」

 

「怖がっていいです。でも、逃げるのはだめです」

 

「厳しいですぅ……」

 

「怒っているので」

 

 レナはそう言ってから、少しだけ表情を柔らかくした。

 

「怒りました」

 

「……はい」

 

「次は救護します」

 

「え」

 

 コユキが目を丸くする。

 

「怒ったのに、甘やかすんですか」

 

「はい」

 

 レナは頷いた。

 

「怒ったので、もう逃げる理由は終わりです。ここからは救護です」

 

「ずるいです……そんなの、ずるいですぅ……」

 

「ずるくてもいいです」

 

 レナは、ようやくいつものように少し困った笑みを浮かべた。

 

「こっちに来てください、コユキさん」

 

 そして、両腕を広げる。

 

「逃げたいなら、私のところに逃げてください」

 

 コユキは動けなかった。

 

 怒られた。

 

 確かに怒られた。

 

 けれど、思っていた怒られ方ではなかった。悪い子だと決めつけられて、罰を与えられて、これで自分は悪かったのだと安心するための怒りではない。

 

 レナは、コユキが自分を悪者にして隠れようとすることに怒った。

 

 自分を罰することで、レナの手の届かない場所へ行こうとすることを、許可しないと言った。

 

 その言葉は、叱責というより、救助みたいだった。

 

 逃げ道を塞がれたのに、逃げ場を差し出されている。

 

 コユキには、それがずるくて、ひどくて、優しすぎて、もうどうすればいいか分からなかった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「私、ほんとに行っていいんですか」

 

「はい」

 

「泣きますよ」

 

「はい」

 

「めちゃくちゃ泣きますよ」

 

「はい」

 

「服、掴んじゃいますよ」

 

「はい」

 

「重いですよ」

 

「ちょっとなら大丈夫です」

 

「そこは否定してくださいよぉ……!」

 

 コユキが泣きながら抗議する。

 

 レナは少しだけ笑った。

 

「でも、抱えられます」

 

 その言葉で、コユキの顔が崩れた。

 

 軽いと言われるより、ずっと効いた。重くないと誤魔化されるより、少し重くても抱えられると言われる方が、本当に受け止められている気がした。

 

 コユキは、膝を抱える力を失った。

 

 ふらりと、レナの方へ倒れ込む。

 

 レナはそれを受け止めた。

 

 コユキは最初、レナに触れることすらためらっていた。けれど、レナが背中に手を回すと、もう駄目だった。小さな子どもみたいに、レナの制服を掴む。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、私、見つけて、でも、怖くて、みんなが、レナさんが、私、どうしたらいいか分からなくて」

 

「はい」

 

 レナは背中を撫でる。

 

「聞いてます」

 

「私、逃げました」

 

「見つけました」

 

「また逃げるかもしれません」

 

「また見つけます」

 

「迷惑です」

 

「迷惑じゃありません」

 

「私、すぐ変なことします」

 

「知ってます」

 

 コユキが泣きながら少しだけ顔を上げる。

 

「そこは否定してくださいよぉ……」

 

「変なことはすると思います」

 

「ひどいです!」

 

「でも、悪い子じゃありません」

 

 レナは笑わなかった。

 

 真面目に、そう言った。

 

「変なことをして、失敗して、怖くなって、逃げちゃうことがあっても、コユキさんは悪い子じゃありません」

 

 コユキの顔がまた歪む。

 

 レナはその頭をそっと撫でた。

 

「大丈夫です」

 

「何がですか」

 

「分からないけど、大丈夫です」

 

「雑ですぅ……」

 

「でも、今はそれくらいがいいかなって」

 

 レナの手が、ゆっくり髪を撫でる。

 

 コユキは抵抗しなかった。

 

 むしろ、少しずつレナの方へ体を預けていった。最初は肩だけ。次に腕。最後には、ほとんどレナにしがみつくような形になる。

 

 レナはそれを全部受け止めた。

 

 非常階段の踊り場は冷たい。

 

 けれど、レナの腕の中だけは温かかった。

 

「コユキさん」

 

「……はい」

 

「お腹、空いてませんか」

 

 唐突な問いに、コユキが涙の残る顔で固まった。

 

「この流れでそれ聞きます?」

 

「救護なので」

 

「またそれですか」

 

「はい」

 

 レナは救護バッグから小さな包みを取り出した。

 

 飴と、個包装の小さなお菓子。

 

「泣いた後って、少し甘いもの食べた方がいいです」

 

「そんな……私、食べる資格なんて」

 

「資格じゃなくて、糖分です」

 

 コユキは一瞬、ぽかんとした。

 

 それから、泣きながら笑ってしまった。

 

「レナさん、たまにすごく雑です」

 

「コユキさんには、ちょっと雑な方がいいかなって」

 

「ひどいですぅ……」

 

 でも、差し出されたお菓子は受け取った。

 

 指先はまだ震えている。袋をうまく開けられずにいると、レナが自然に手を伸ばし、半分だけ開けて渡してくれた。

 

「はい」

 

「……甘やかしすぎです」

 

「今日は甘やかすって言いました」

 

「本当にやるんですね」

 

「やります」

 

 コユキは小さくお菓子を口に入れた。

 

 甘さが広がる。

 

 それだけで、また泣きそうになった。

 

 自分は罰を受けるべきだと思っていた。怒られて、距離を置かれて、悪い子として扱われるべきだと思っていた。なのにレナは、お菓子の袋を開けて、涙を拭いて、頭を撫でてくる。

 

 罰ではなく、甘やかしが来る。

 

 怒りではなく、ありがとうが来る。

 

 コユキには、それが一番苦しかった。

 

 そして、一番離れがたかった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「私、また泣きそうです」

 

「泣いていいです」

 

「お菓子食べながら泣くの、変じゃないですか」

 

「変です」

 

「だから否定してくださいってばぁ……」

 

「でも、コユキさんらしいです」

 

 コユキはまた泣いた。

 

 今度は、さっきより少しだけ力の抜けた泣き方だった。

 

 レナはその涙を拭いながら、もう一度コユキの手を取った。さっきまで「見つけてしまった手」と呼ばれていた手。自分を罰する理由にされていた手。

 

 コユキは反射的に手を引こうとした。

 

 けれど、レナは離さなかった。

 

「コユキさん」

 

「はい……」

 

「この手、見せてください」

 

「嫌です」

 

「見ます」

 

「さっき怒った時みたいになってますぅ……」

 

「少しだけです」

 

 レナは、コユキの手を両手で包む。

 

 小さく震えている手。

 

 ファイルを見つけた手。

 

 開いてしまった手。

 

 自分を責め続けていた手。

 

「この手は、隠されていたものを見つけてくれた手です」

 

「違う……」

 

「違いません」

 

「だって、レナさんを傷つけた」

 

「私を傷つけたのは、あれを撮って、切って、売った人たちです」

 

 レナはコユキの手を握り直した。

 

「コユキさんじゃありません」

 

 コユキは首を振った。

 

「でも、私が見つけなかったら」

 

「隠されたままでした」

 

 レナの声が、少しだけ低くなる。

 

「隠されたまま、誰かの手元にあったかもしれません。売られたまま、また使われたかもしれません。誰かが、私の知らないところで、私の声を、私の顔を、勝手に持っていたかもしれません」

 

 コユキの目が見開かれる。

 

 レナは、少しだけ息を吸った。

 

「それは、怖いです」

 

 その言葉は、小さかった。

 

 けれど、コユキには十分すぎるほど届いた。

 

「見られたのも怖いです。知られたのも、平気じゃないです。でも……隠されたまま、ずっと誰かに持たれていたかもしれないって思う方が、私はもっと怖いです」

 

 レナはコユキの手を握り直した。

 

「だから、見つけてくれて、ありがとうございます」

 

 コユキの顔がぐしゃりと歪んだ。

 

「やだ……」

 

「ありがとうございます」

 

「やだ、そんなの、言わないで」

 

「言います」

 

「私、ありがとうって言われるようなことしてないです」

 

「しました」

 

 レナは逃がさない。

 

「コユキさんが見つけてくれたから、止められました。封印できました。先生たちも、ユウカさんたちも、動けました。あれを、誰かがまた勝手に使う前に止められました」

 

「でも、みんな傷ついた……!」

 

「はい」

 

 レナは否定しなかった。

 

「みんな傷つきました。コユキさんも傷つきました」

 

 それを聞いて、コユキは固まった。

 

 自分も。

 

 その言葉を、自分に向けられると思っていなかった。

 

「だから、救護します」

 

 レナは言った。

 

「コユキさんも、救護対象です」

 

「私が?」

 

「はい」

 

「私、悪い子なのに」

 

「悪い子じゃありません」

 

「悪い子です」

 

「違います」

 

「悪い子です!」

 

「違います」

 

 同じ言葉を、レナは何度でも返した。

 

 コユキが泣きながら首を振るたびに、レナはその手を離さず、同じ温度で否定した。強く叱るわけではない。優しく甘やかすだけでもない。コユキが自分を悪い子だと言うたびに、それをレナが一つずつ拾って、違う場所へ置き直していく。

 

 そして、レナはコユキの手を、自分の救護バッグの留め具にそっと触れさせた。

 

「レナさん?」

 

「これ、私がいつも持ってるものです」

 

「はい」

 

「誰かを助けるためのものです」

 

 レナは、コユキの指を留め具の上に重ねた。

 

「コユキさんの手も、こっちで覚えてください」

 

「こっち……?」

 

「見つけてしまった手じゃなくて、見つけてくれた手。隠されたままにしなかった手。私を、また勝手に使われる場所から引っ張り出してくれた手」

 

 コユキの唇が震える。

 

「そんな、きれいな手じゃないです」

 

「きれいじゃなくてもいいです」

 

 レナは言った。

 

「震えてても、失敗してても、怖がってても、ちゃんと見つけてくれた手です」

 

 コユキはその手を見る。

 

 レナの救護バッグに触れている自分の指。

 

 ファイルを見つけた手。

 

 開いてしまった手。

 

 けれど、レナはその手を、救護バッグに触れさせてくれた。

 

 誰かを傷つけた手ではなく、誰かを助けるものに触れていい手として。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「私、ほんとに悪い子じゃないですか」

 

「はい」

 

「また、変なことしても?」

 

「怒る時は怒ります」

 

「そこは甘くないんですね」

 

「でも、悪い子にはしません」

 

 コユキは、もう言葉を返せなかった。

 

 レナの肩に額を押しつける。

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「もうちょっとだけ、逃げてもいいですか」

 

「どこにですか」

 

「ここ」

 

 コユキは、レナの制服を小さく掴んだ。

 

「ここなら、いいですか」

 

 レナは少しだけ目を細める。

 

 それから、コユキの頭を撫でた。

 

「はい」

 

「怒らないですか」

 

「怒りません」

 

「迷惑じゃないですか」

 

「迷惑じゃありません」

 

「重くないですか」

 

「ちょっとだけ」

 

「そこも否定してくださいよぉ……!」

 

 コユキが泣きながら抗議する。

 

 レナはふっと笑った。

 

「でも、抱えられます」

 

 コユキは、もう抵抗しなかった。

 

 レナの肩に顔を埋めたまま、小さく頷く。

 

「眠くなってきましたか?」

 

「……少し」

 

「泣きましたし、お菓子も食べましたし」

 

「子ども扱いしてません?」

 

「してます」

 

「レナさん!」

 

「今日はします」

 

 コユキは文句を言おうとしたが、眠気と涙でうまく言葉にならなかった。非常階段の冷たい空気の中で、レナの腕の中だけがやけに温かい。ここにいると、自分を責める声が少しだけ遠くなる。

 

 眠ってしまったら、また逃げたことになる気がした。

 

 そう言おうとしたら、レナが先に言った。

 

「逃げてません」

 

 コユキが顔を上げる。

 

「まだ何も言ってないです」

 

「言いそうだったので」

 

「レナさん、今日は強いです……」

 

「今日は強い日です」

 

 レナは真面目に答える。

 

「コユキさんは、逃げてません。私の隣にいます」

 

「……はい」

 

「眠くなったら、少し眠っていいです。私、ここにいますから」

 

「また、見つけてくれますか」

 

「はい」

 

「隠れても?」

 

「見つけます」

 

「すごく変なところにいても?」

 

「たぶん見つけます」

 

「たぶん」

 

「絶対って言ったら、コユキさんが本気で変なところに行きそうなので」

 

「信用がないですぅ……」

 

「あります。だから、見つけます」

 

 コユキは笑った。

 

 泣き疲れた、ぐしゃぐしゃの笑顔だった。

 

 それでも、確かに笑った。

 

 レナはそれを見て、ほっと息を吐く。

 

 コユキはレナの袖を掴んだまま、少しずつ目を閉じていった。完全に眠るには、まだ少し怖いのかもしれない。それでも、レナの肩に額を預け、救護バッグに触れた手を胸元へ寄せて、浅くうとうとし始める。

 

 レナはその頭を撫で続けた。

 

 見つけてしまった手。

 

 逃げようとした足。

 

 悪い子だと言い張った声。

 

 その全部を、レナは一つずつ拾って、違う名前をつけていく。

 

 見つけてくれた手。

 

 戻ってこられる足。

 

 助けを求められる声。

 

「コユキさん」

 

 レナは小さく呼んだ。

 

 返事はない。

 

 眠ったのか、眠るふりなのか分からない。

 

 それでも、レナは続けた。

 

「見つけてくれて、ありがとうございます」

 

 コユキの指が、レナの袖をきゅっと握った。

 

 返事の代わりだった。

 

 レナはその手に自分の手を重ねる。

 

「悪い子じゃないです」

 

 もう一度、囁く。

 

 コユキは何も言わなかった。

 

 けれど、その頬に残っていた涙の跡は、少しだけ乾き始めていた。

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