戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
ヒマリの部屋には、光が多すぎた。
端末の画面。机に広げられた資料。壁際の補助モニター。細かい数値、経路図、仮説、接続ログ、映像ファイルに残されていた断片的な痕跡。黒幕がどう介入したのか。どの段階で映像が流通へ乗ったのか。どこで遮断できたのか。次に似た手口が使われるなら、どこを監視すべきか。
その全部が、整いすぎていた。
レナは、入口で少しだけ立ち止まった。
ヒマリは車椅子に座っていた。いつも通り、背筋は綺麗で、膝の上には小型端末。横の台には、冷めた紅茶が置かれている。香りだけが、わずかに残っていた。
「ようこそ、レナさん」
ヒマリは微笑んだ。
綺麗な声だった。
綺麗すぎる声だった。
「お待ちしていました。ちょうど、今回の一件についてある程度の整理がついたところです。黒幕の介入経路は、映像ファイルそのものよりも、流通段階での接触に重点があった可能性が高いでしょう。もちろん、ファイルに仕込まれた挙動も無視はできませんが、ミレニアム側の隔離環境をすり抜けるというより、再生前後の心理的誘導まで含めた設計思想が――」
言葉が、流れる。
ヒマリの声は滑らかだった。滑らかすぎるほどだった。
「視聴者に対する心理損傷も、いくつかの傾向が見えています。罪悪感、保護衝動、怒り、自己嫌悪。特に、レナさんの弱った瞬間だけを抽出する編集は、視聴者側に“救えなかった”という遅延性の痛みを発生させる構造になっていました。実際、ミレニアムの生徒たちにも――」
「ヒマリさん」
レナが名前を呼んでも、ヒマリは止まらなかった。
止まれないみたいだった。
「ええ、分かっています。今ここで必要なのは対策です。黒幕が同様の手段を再度用いるなら、映像そのものの隔離だけでは足りません。流通経路、閲覧権限、再生条件、心理負荷へのケア、そして何より――」
「悔しかったですよね」
その一言で、ヒマリの声が止まった。
端末の画面だけが、まだ静かに光っている。
部屋の中で動いていたものが、急に全部置き去りにされたようだった。
ヒマリは、ゆっくりとレナを見た。
微笑みは残っている。
でも、ほんの少しだけ薄かった。
「……ええ。もちろんです。黒幕に後手を取られたことは、全知の超天才美少女として、非常に――」
「違います」
レナは遮った。
大きな声ではなかった。
けれど、ヒマリの言葉の流れを正面から断ち切る声だった。
「その悔しいじゃないです」
ヒマリの指が、膝の上の端末に触れた。
逃げるように。
あるいは、もう一度いつもの場所へ戻ろうとするように。
レナは一歩、部屋の中へ入った。
「ヒマリさんは、天才だから」
ヒマリの表情が、わずかに変わる。
「自分なら、分かればどうにかできると思っていたんですよね」
レナは一歩ずつ近づく。
「仕組みが分かれば、対策が作れる。悪意の構造が分かれば、止められる。誰より早く理解できるなら、誰より早く救えるはずだって」
ヒマリは何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
「でも、できなかった」
レナの声が、少しだけ震えた。
それでも、止まらなかった。
「分かったのに、届かなかった。解析できたのに、私が怖かった時間には間に合わなかった。映像の中の私に、ヒマリさんの頭は届かなかった」
「レナさん」
ヒマリの声は、まだ整っていた。
けれど、端が少しだけ硬くなっていた。
「それ以上は、あなたにも負担が」
「天才なのに」
レナは、さらに言った。
「何でも解けるはずなのに、私のことは解決できなかった」
ヒマリの微笑みが消えた。
それは、ほんの一瞬だった。
けれど、レナには見えた。
ヒマリの奥にあるもの。いつもの言葉と、いつもの笑みと、全知の超天才美少女という飾りの奥に隠していた、痛みの中心。
ヒマリの指が、車椅子の操作部に触れる。
車椅子が、ほんの少しだけ後ろへ下がった。
「……少し、距離を」
「逃げないでください」
「逃げてはいません。会話のための適切な距離を――」
「逃げてます」
レナはすぐに追った。
ヒマリが車椅子を下げるより、レナの足の方が早かった。
乱暴な動きではない。
でも、迷いがなかった。
ヒマリが横へ逃げようとすれば、レナはその前に立つ。ヒマリが机の方へ向かおうとすれば、レナが端末との間に入る。車椅子の動きを妨げるほど近づきすぎず、それでも逃げ道だけは消していく。
「レナさん」
「はい」
「今日は、本当に容赦がありませんね」
「ヒマリさんが逃げるので」
ヒマリは返せなかった。
レナは車椅子の前に立った。
そして、ヒマリの手に触れた。
冷たかった。
思っていたよりも、ずっと。
「……手、冷たいです」
「少々、室温が」
「嘘です」
レナは即答した。
「ずっとこのままだったんですよね。端末を見て、資料を見て、対策を考えて。紅茶も飲んでない。眠ってもいない」
「私は問題ありません」
「あります」
「レナさん」
「だめです」
レナは、ヒマリの端末をそっと膝からどかした。
ヒマリが少し目を見開く。
「……おや」
「ベッドに行きます」
ヒマリが止まった。
「……はい?」
レナの頬が少し赤くなる。
それでも言い直さなかった。
「休ませます。変な意味じゃありません」
「それは、こちらが言う前に説明されると、かえって気になるものですね」
「茶化さないでください」
「車椅子なら自分で移動できますよ」
「今日は、逃げるのでだめです」
ヒマリは完全に言葉を失った。
その一瞬で、レナは決めた。
ヒマリの背中と膝の下に腕を回す。
ヒマリが息を呑んだ。
「レナさん、待っ――」
「運びます」
「それは、かなり大胆な救護ですね」
「茶化したら落とします」
「落とさないでください」
「じゃあ、黙って運ばれてください」
ヒマリの口が、そこで閉じた。
レナはヒマリを抱き上げた。
お姫様抱っこ。
言葉にすれば簡単なのに、その瞬間の空気は簡単ではなかった。
ヒマリは、普段車椅子の上から空間を支配している。座っていても弱く見えない。むしろその姿勢ごと、彼女の領域だった。そこから言葉を選び、視線を向け、相手を導く。
けれど今、その場所からレナに抱き上げられていた。
車椅子から離されたヒマリは、驚くほど軽かった。
けれど、レナの腕にかかる重みは確かにある。
人の体温。
人の呼吸。
天才という言葉では包めない、ただのヒマリの重さ。
ヒマリは、最初こそ何か言おうとした。けれど、レナの腕の中で少し体勢が揺れた瞬間、反射的にレナの服を掴んだ。
レナがそれに気づく。
「怖いですか」
「……いえ」
「嘘です」
「今日は、よく見抜きますね」
「見ます」
レナは短く言った。
「今日は、ちゃんと見ます」
それ以上、ヒマリは何も言わなかった。
ベッドまでは、数歩だった。
けれどヒマリには、その数歩が妙に長く感じられた。
レナの腕。近い声。白い羽根。救護バッグのかすかな匂い。胸の奥で、いつもならすぐに整えられるはずの言葉が、ひとつも整わない。
ベッドに下ろされても、ヒマリはすぐには起き上がれなかった。
いや、起き上がろうとした。
けれど、レナがその前に羽根を広げた。
白い羽根が、ふわりと部屋の光を受ける。
ヒマリの呼吸が止まった。
あの映像の中で見た羽根。
奪われ、触れられ、レナの恐怖として切り取られてしまった羽根。
その羽根を、レナは今、自分の意思で広げていた。
ベッドの上で、ヒマリの横へ。背中へ。逃げ道を塞ぐように、けれど少しも乱暴ではなく。白い羽根がヒマリの体の周りをやわらかく囲い、レナ自身もその内側へ入ってくる。
羽根の内側は、静かだった。
端末の光も、資料の文字も、遠くなる。
ヒマリは、目の前のレナだけを見るしかなかった。
「今の私を見てください」
レナが言った。
「映像の中の私じゃないです」
ヒマリの喉が動く。
「レナさん、これは」
「説明しないでください」
レナの声は甘かった。
でも、逃げ道を塞ぐ甘さだった。
「今、説明されたら、私は怒ります」
「……ずいぶん、強くなりましたね」
「ヒマリさんが逃げるので」
また、それ。
ヒマリは少しだけ笑いかけて、笑えなかった。
レナの羽根が、肩の近くでゆっくり動く。触れているわけではない。閉じ込めているわけでもない。けれど、逃げようと思えばすぐに分かるほど近くにある。
柔らかい檻。
守るための檻。
そして、今のレナの意志で作られた場所。
「ヒマリさんが天才なことは、充分知っています」
レナは、ゆっくり言った。
ヒマリは瞬きした。
責められると思っていた。
天才という言葉を、また逃げ道として取り上げられると思っていた。
けれど、レナの声は違った。
「誰より早く気づいて、誰より深く考えて、みんなが分からないことまで分かって。その頭で、たくさんの人を助けてきたことも知っています」
レナはヒマリを見ていた。
まっすぐに。
「ヒマリさんの天才に、私は何度も助けられました。すごいって、思ってます。本当に」
ヒマリの胸が、そこで一度痛んだ。
褒められたのに。
認められたのに。
逃げ場が消えていく。
「でも、今はそれを置いてください」
レナの声が、少し近くなる。
「天才だから泣かないでいるのは、やめてください。天才だから私を守らなきゃって、今も一人で考え続けるのはやめてください」
「レナさん」
「私、ヒマリさんの天才に助けられたいだけじゃないです」
その言葉で、ヒマリの視線が止まった。
レナは頬を赤くしながら、それでも続ける。
「ヒマリさんの弱いところも、ちゃんと見たいです。見せてほしいです」
ヒマリは、何か言おうとした。
けれど、言葉になる前にレナが続けた。
「ヒマリさんが私を見ると、対策より先に私のことを考えてしまうくらい」
ヒマリの呼吸が浅くなる。
「私の声を聞くと、全知の超天才美少女でいるより、ただのヒマリさんに戻りたくなるくらい」
羽根の内側で、レナの声だけが響く。
「私の羽根の中だと、もう何も考えられなくなるくらい」
ヒマリは、完全に動けなかった。
レナは、逃げなかった。
「あなたの弱点に、私はなりたいです」
部屋の中から、音が消えたようだった。
ヒマリは、レナを見ていた。
淡い髪。赤くなった頬。真剣な目。自分の言葉がどれだけ危険か、きっと分かっている。それでも言った。言って、ここにいる。
「……それは」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
「救護ではありません」
「救護です」
「いいえ」
ヒマリは首を横に振る。
笑おうとした。
失敗した。
「これは、ほとんど告白です」
レナの顔がさらに赤くなる。
羽根が少しだけ揺れた。
けれど、レナは逃げなかった。
「……そう聞こえても、今日は逃げません」
ヒマリは、息を吸うのを忘れた。
言葉が、胸の奥まで来る。
今まで自分が組み立てていた対策も、解析も、黒幕への怒りも、悔しさも、全部その言葉の前で形を失っていく。
レナは自分の羽根でヒマリを包みながら、自分から弱点になりたいと言った。
危険な言葉だ。
依存を許す言葉だ。
天才なら分かる。
そんなものを抱え込めば、判断は揺れる。計算は乱れる。レナのことが安全装置にもなり、同時に致命的な隙にもなる。
分かる。
分かるのに、拒めない。
「私は……」
ヒマリの声が震えた。
「悔しかったです」
レナは黙って聞いた。
「分かれば救えると思っていました。理解できれば、手が届くと思っていました。黒幕の悪意も、映像の構造も、切り取られた意図も、私は理解できました。理解、できてしまいました」
ヒマリは目を伏せる。
「でも、あなたには届かなかった」
レナの羽根が、少しだけヒマリに近づく。
「映像の中のあなたに、私は何もできませんでした。あなたが怖かった時間に、私はいませんでした。天才だと名乗っておきながら、理解しただけで、救えなかった」
「はい」
レナは頷いた。
優しく否定しなかった。
そのことが、かえってヒマリの奥に刺さった。
「それなのに」
ヒマリの声が、さらに小さくなる。
「今、あなたに抱きしめられています」
レナは少しだけ目を伏せた。
「今は、私がしたいんです」
「……ずるいです」
「今日は、ずるくします」
レナはそう言って、ヒマリの手を取った。
まだ冷たい。
さっきよりは少し温まったかもしれない。それでも、指先は冷えていた。長い時間、端末を触り続けていた手。考え続けて、止まれなかった手。
「手、まだ冷たいです」
ヒマリは、ほんの少しだけ笑った。
「この状況で、それに気づくのですか」
「気づきます」
「天才の攻略に集中しているのかと思いました」
「攻略じゃなくて救護です」
「救護と呼ぶには、かなり危険な言葉をいくつも聞いた気がしますが」
レナは目を伏せる。
頬は赤いままだった。
「……それも救護です」
「便利ですね、救護」
「便利に使います。今日は」
その言い方があまりに真剣で、ヒマリは笑いきれなかった。
レナはヒマリの手を包みながら、静かに言う。
「温まりましょう」
「紅茶ですか?」
「違います」
「……違う?」
レナは、羽根の内側で少しだけ息を吸った。
恥ずかしそうだった。
けれど、もう決めている顔だった。
「お風呂です」
ヒマリは固まった。
「……はい?」
「お風呂です」
「レナさん」
「体も冷えてますし、頭もずっと働きっぱなしです」
「いえ、それは確かにそうかもしれませんが」
「それに」
レナはヒマリを見た。
「一人にしたら、また天才に戻るでしょう」
ヒマリは、言葉を失った。
レナは羽根を少しだけ畳む。
でも、手は離さない。
「だから、近くにいます」
「……それは」
「天才じゃないヒマリさんが、ちゃんと泣けるまで」
ヒマリの目が揺れた。
逃げる言葉は、もう残っていなかった。
ヒマリはレナの手を見て、それから羽根を見て、最後にレナの顔を見た。
「レナさん」
「はい」
「本当に、今日は勝てませんね」
「今日は、私が勝ちます」
ヒマリは小さく息を吐いた。
その声は、笑いではなかった。
降伏に近かった。
「では」
ヒマリは、ようやく少しだけいつもの調子を取り戻しかけて、それでも完全には戻れない声で言った。
「勝者の救護に、従うことにします」
レナは、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、ヒマリは思った。
黒幕には、次に勝つ。
映像の悪意にも、必ず対策を立てる。
けれど今日、レナに負けたことだけは。
この羽根の内側で、弱点になりたいと言われたことだけは。
たぶん、取り返したくない。
レナはヒマリの手を握ったまま、もう一度確認するように言った。
「行きましょう、ヒマリさん」
「ええ」
ヒマリは目を閉じる。
「……天才じゃない私を、見つけられてしまいましたから」
「はい」
レナは少しだけ照れたように、それでも嬉しそうに答えた。
「ちゃんと、見ます」