やめてよね、僕が准将みたいに出来るわけないじゃないか 作:星乃 望夢
シン・アスカには、最近どうしても頭を抱えたくなるような、誰にも言えない切実な悩みがあった。
それは、妹であるマユ・アスカとの『物理的な距離感』が、以前にも増して異常なほど近くなっていることだ。
誤解のないように言っておくが、シンにとってたった一人の妹であるマユは、目に入れても痛くないほど大切で、何よりも守るべき存在だ。二人は幼い頃から、周囲が呆れるほど仲の良い兄妹だった。
その一因の一つにシンが密かに抱え続けている一つの暗いトラウマがある。
家族でキャンプに行って川遊びをしていた際、マユが深みに嵌まって溺れかけたことがあった。
その時、すぐ近くにいたはずのシンは、川へ飛び込むことへの本能的な恐怖で足が竦み、咄嗟に妹を助けるために飛び込むことができなかったのだ。
結果としてマユは大人に救助され事なきを得たが、川縁で咳き込んで泣きじゃくる妹の姿を見た時、シンは己の不甲斐なさをひどく呪った。
『今度こそ、絶対に俺がマユを守る。何があっても、どんなに怖い思いをしてでも、兄貴としてこの手を離さない』
その日、密かに胸に刻んだ強烈な誓いと自責の念が、マユに対する彼の保護欲を過剰なまでに膨らませ、結果として、普通の兄妹よりも遥かに密着した距離感を許容する下地となってしまっていたのである。
事実、彼らはこの歳になるまで――つい今年の頭くらいまでは、平然と一緒にお風呂に入っていた。
シン自身、マユはいつまで経っても『守るべき小さな妹』のままであり、そこに他意など微塵もなかったのだ。
だが、平和な日常の中で、思春期という抗いがたい波は突然彼を襲った。
文学少年でもあったシンが、ふとした気まぐれで少し大人びたジュブナイル小説に手を出してしまったのがすべての始まりだった。
活字から流れ込んできた『異性』という未知の概念。
それを理解してしまった途端、彼の脳内で何かのスイッチが切り替わった。
それまで何とも思っていなかったはずの、湯気の中で無邪気に笑う妹の裸体が、明確に『自分とは違う、女性の身体』として強烈に意識され始めてしまったのだ。
(……いや、これはヤバい。色んな意味で、絶対にヤバい!)
思春期真っ只中の己の身体の正直な反応に、シンは生命の危機にも似た焦燥感を覚えた。
もし、妹と一緒の風呂で万が一の生理現象を起こしてしまえば、兄としての尊厳は崩壊し、人として終わる。
その常識的な良識と危機感から、シンは「もう一緒には入らない」と、マユの猛抗議に対して珍しく断固たる拒絶の意志を貫き通したのである。
それで、兄妹の距離感は適切なものに落ち着くはずだった。
あの悪夢のような戦争が起きるまでは。
オーブ攻防戦。
降り注ぐ戦火によって彼らの家は無惨にも瓦礫の山と化し、アスカ一家はプレハブの仮設住宅へと移り住むことになった。
住む場所があるだけありがたいとはいえ、限られたスペースの仮設住宅に、個人のプライバシーを守れるような立派な自室を持てる余裕などあるはずもない。
一応、パーソナルスペースとして親と子の就寝区画は分けられたものの、シンとマユの寝床は必然的に隣り合わせになった。
そして、夜が来る。
シンにとって、それは文字通り『地獄』の幕開けであった。
「……んぅ、お兄ちゃん……」
これ見よがしにシンの布団へ潜り込んできたマユは、甘えるようにすり寄ると、細い腕をシンの首にしっかりと回し、さらに彼の脚に自分の脚を絡ませてくるのだ。
薄着のパジャマ越しに伝わってくる、妹の柔らかい身体の感触と、規則正しい温かな寝息。
シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐるたびに、シンの心拍数は跳ね上がり、思春期の暴走を必死に理性の鎖で押さえつけるという、血の滲むような苦行を強いられていた。
「おい、マユ……ちょっと離れろって。暑いし、重い……」
シンは天井を睨みつけたまま、どうにか平静を装って妹の腕を引き剥がそうとする。
しかし、マユはシンの胸に顔を埋めたまま、ふるふると首を横に振った。
「……ヤ。怖いもん」
その震える声を聞かされると、シンはそれ以上強く引き剥がすことができなくなってしまう。
無理もない。
オーブの民草である彼らは、大西洋連邦の巨大艦隊に包囲され、世界中から敵に回されたのだ。
ブルーコスモスの狂信者たちが、『魔女の国の住人など、一人残らず焼き払ってやる』という呪詛を五日間にもわたって延々と聞かされた。
それは軍の何も包み隠さないことの配慮であり、アレによってシェルターの中でも恐怖に立ち向かうことが出来た。
けれどもその絶望的な恐怖は、銃を持たない一般市民の少女の心に、どれほど深いトラウマを植え付けたか。
それを知っているからこそ、あの日の川の記憶が蘇り、「お前を守る」と誓った兄として、怯える妹を突き放すことなど絶対にできなかった。
「……分かった、分かったから。でも、せめてもう少し腕を緩めて……」
妥協案を提示しようとするシンに対し、マユはさらにとどめの一撃を放つ。
「それにさ、カガリ様とキラ様だって、双子の姉弟ですっごく仲良しだよね? キラ様も、いつもカガリ様を守ってるし。……お兄ちゃんと私が仲良しでも、全然普通だもん」
「……っ」
その言葉を出されてしまうと、いよいよオーブ国民としてのシンには、反論の余地が完全に消滅する。
この国を絶望の淵から救い、世界を平和へと導いたオーブの絶対的象徴、若獅子カガリ・ユラ・アスハと、白銀の英雄キラ・ヤマト。
誰もが知るあの麗しき双子の姉弟の仲の良さと強い絆を『免罪符』として掲げられれば、それに異を唱えることなど不敬罪にも等しい。
「……あー、もう……」
八方塞がりとなったシンは、妹の柔らかい温もりに包まれながら、ただ深く、諦めの溜息を吐くしかなかった。
プレハブの薄い屋根越しに、南太平洋の星空を恨めしそうに睨みつけながら、明日こそはもう少し平和に眠れますようにと、若き少年は終わりの見えない思春期の煩悩と兄としての使命感の狭間で、果てしない夜を明かすのだった。
◇◇◇
シン・アスカには、ちょっとした夢――いや、彼自身の言葉を借りるならば『大望』、あるいは『野望』と呼ぶべき、胸に秘めた確固たる目標がある。
それは、オーブ連合首長国国防軍に入隊すること。
そしていつの日か、あの白銀の英雄、キラ・ヤマト准将が直接指揮する部隊のモビルスーツパイロットとして抜擢され、この手で国を、家族を、そして大切な妹を守り抜くことだ。
現在のオーブ軍は、志願兵の年齢制限を以前の「18歳」から「15歳」へと大幅に引き下げている。
その異例とも言える軍制改革の裏には、あの過酷を極めた『オーブ攻防戦』の記憶が深く結びついていた。
大西洋連邦の正規軍を名乗りながら、その実態は狂気に満ちたブルーコスモスの狂信者たちであった侵攻部隊。
オーブの指導者であるカガリを「魔女」と呼び、アークエンジェルを「堕天使の売女」、そしてオーブの国民すべてを「魔女の国の住人」として焼き払えと叫ぶ異常な光景。
文学少年であったシンの感性からすれば、それはまるで中世の魔女裁判の狂気をそのまま現代に蘇らせたような、到底、先進国の軍隊とは思えないおぞましい妄言であり、ドン引きするほどの嫌悪感を抱かせるものだった。
だが、その狂気の艦隊を、オーブ軍は「犠牲者ゼロ」という奇跡的な戦果で完全壊滅させたのだ。
攻防戦の前日、シンの網膜にはっきりと焼き付いた二機の機体がある。
オーブの理念を体現する並び立つ黄金の意志『アカツキ』と、そして白銀の理想『シロガネ』。
その神々しい姿を見た時、シンは理屈抜きに「この国の守り神だ」と直感した。
そして戦乱の最中、姉であるカガリや、大切な仲間たち、そして何よりオーブの民草を侮蔑され、徹底的に馬鹿にされたことで、普段は温厚なはずの『白銀の英雄』の堪忍袋の緒が完全に切れた瞬間の、あの凄まじい怒りの咆哮。
『僕が誇るべき部下たちを! 慈しむべき民草を! オーブ連合首長国を!!』
全軍の通信帯域を震わせたその声と共に、シロガネは燃え盛るブルーコスモス艦隊の残骸を眼下に、再び天空へと舞い上がった。
その圧倒的な機動と、敵を無力化していく美しくも恐ろしい殺戮の舞は、もはやモビルスーツという機械の限界を遥かに超越していた。
『貴様らごときが滅ぼすことなど、断じて許されないと知れッ!!』
『僕は、オーブ連合首長国国防軍最高軍事顧問、キラ・ヤマト准将────!!』
戦場のすべてを支配する、苛烈にして悲痛なまでの決意。そして、彼は世界へ向けて堂々と宣言したのだ。
『あらゆる邪悪を打ち砕く……笑顔の盾と成る者だっ!!』
その瞬間、シン・アスカの魂は激しく震えた。
胸の奥で燻っていた恐怖と無力感が、強烈な熱量を持った憧憬へと焼き焦がされていくのを感じた。
(絶対にオーブ軍に入って……あの人の役に立ちたい。あの人の思い描く平和の盾に、俺もなりたい!)
そう強く願ったのは、決してシン一人ではなかった。
あの戦いを目撃し、白銀の英雄の言葉に胸を焦がした数多くの若き少年少女たちが、戦後、競うようにオーブ軍の門戸を叩いたのだ。
その圧倒的な志願者の波を受け、新政権代表首長であるカガリ・ユラ・アスハは軍の門戸を広く開き、特例として15歳への年齢引き下げを決断した。
ちなみに、プラントのザフト軍を参考に「14歳まで下げる案」も一度は議会で浮上したらしいが、それは最高軍事顧問にして双子の弟であるキラ自身が反対して止めさせた、というオーブ国民に広く愛される裏話もある
シンが15歳の誕生日を迎えるまで、あともう少し。数ヶ月の我慢だ。
その日に向けて、シンは今日もモルゲンレーテの復興事業現場に出向き、土埃の舞う中で作業用モビルスーツ『ティエレン』の操縦桿を握っている。
後部座席には、兄から離れようとしない妹のマユを乗せ、息を合わせて瓦礫の撤去や資材の運搬といった復興作業に汗を流していた。
彼がただの瓦礫撤去のボランティアではなく、重機扱いであるティエレンの運用事業に志願して参加した理由は一つ。
軍に入隊するよりも早く、一日でも早くモビルスーツという存在に触れ、操縦技術を身体に叩き込みたかったからだ。
少しでも、モビルスーツという強大な力でこの国の役に立つこと。
それが、泥に塗れながらも平和を創り出そうとしているあの人と同じ目線で、この世界を見つめるための第一歩になると、少年は固く信じているのだ。
「右舷のセンサー、クリア! お兄ちゃん、アーム下ろしていいよ!」
「おう、分かった! しっかり掴まってろよ、マユ!」
ティエレンの武骨なモーター音が響く中、シンは額の汗を拭い、照りつける南太平洋の太陽を見上げた。
白銀の英雄が守り抜いたこの青空の下で、若き『盾』の原石は、憧れの背中を真っ直ぐに見据えながら、己の技と決意を静かに、そして熱く磨き続けていた。
◇◇◇
世界中のメディア、名だたる巨大通信社や百戦錬磨のジャーナリストたちが、いかなるコネクションや莫大な資金を積んでも決して辿り着くことのできなかった領域。
オーブの最高軍事顧問であり、停戦協定の最大の立役者、「白銀の英雄」ことキラ・ヤマト准将への単独取材。
その奇跡のような特権を、この世界で唯一許された若きフリーランスのフォトジャーナリストがいた。
彼の名は、ジェス・リブル。
「自分が見た真実しか報道しない」「どんな圧力があろうとも、決して嘘は書かない」という、時に身を滅ぼしかねないほど愚直な信条を貫き通す彼の姿勢は、結果として、世界で最も影響力を持つ16歳の英雄の心を動かした。
ジェスが書き上げた、キラ・ヤマトの素顔――神でも悪魔でもない、血を流し、友と殺し合った過去に傷つき、大切な者を守るために自ら修羅道を歩むことを選んだ、心優しくも不器用な少年の真実の姿――を綴ったルポルタージュは、発表と同時に電光石火の如く世界中を駆け巡った。
それは、コーディネイターとナチュラルという枠組みを超え、戦争に疲弊した無数の人々の魂を揺さぶり、大きな感動の渦を巻き起こした。
しかし、その圧倒的な反響は、ジェス・リブルという一介のジャーナリストを一夜にして世界的な有名人に押し上げると同時に、彼を途方もない危険の渦中へと放り込むことにもなった。
真実を恐れる者、英雄の弱みを握ろうと企む者、あるいは単なる好奇心と狂気に駆られた者たち。
各国の諜報機関やブルーコスモスの残党、裏社会のシンジケートに至るまで、様々な勢力の思惑が彼に向けられたのだ。
「まったく、君は本当に想像以上の火薬庫に火をつけてくれたものね。最高にスリリングで、最高に厄介。……しばらくほとぼりが冷めるまで、君はあの安全なオーブの地で大人しくしていなさいな」
彼のパトロンであり、常に莫大な情報と資金を提供してくれる謎の大富豪、マティアスからは、呆れ半分、面白さ半分のトーンでそう告げられた。
だが、ジェスにとって、マティアスからそんな警告を受けるまでもなく、しばらくの間このオーブ連合首長国から離れるつもりなど毛頭なかった。
それは決して、己の命が惜しいという我が身可愛さからの逃避ではない。
むしろ、ジャーナリストとしての彼の血が、この島国に留まることを強烈に求めていたのだ。
現在のオーブは、間違いなく「世界の明日」が最も激しく、最も熱量を持って作られている最前線であった。
昨日まで自分たちを焼き尽くそうとしていた大西洋連邦の戦艦の残骸を引き揚げ、それを溶かして新たな平和の島を造り上げようとする『アーカディアンプロジェクト』の凄まじい活気。
悲壮感を微塵も感じさせず、プレハブの仮設住宅から笑顔で復興事業へと向かうオーブの人々の逞しさ。
かつての敵国の技術者たちが肩を並べて最先端の技術を語り合う酒場。
街の角を曲がるたびに、歴史の教科書に載るような特ダネが転がっている、まさに「特ダネのインフレ状態」。
こんな途方もない激動の中心地から、自ら離れようとするジャーナリストがどこにいるというのか。
同業者から半ば呆れを込めて「野次馬ジェス」と揶揄されることもある彼は、今日も愛機と共に現場の最前線に立っていた。
彼が搭乗するのは、キラ・ヤマト本人から直々に託された非武装の取材用モビルスーツ、『アストレイ アウトフレーム』。
巨大なガンカメラを構え、ジェスはファインダー越しに、復興工事やアーカディアンプロジェクトの基礎部分となる人工島を建設するために、所狭しと稼働する無数の作業用モビルスーツ『ティエレン』の群れを撮影し続けていた。
土煙を上げ、巨大な鋼材を運び、海の底をさらう鉄の巨人たち。
その力強い躍動は、戦争のための兵器から、平和を創り出すための道具へと生まれ変わった、人類の確かな一歩を象徴しているようにジェスには思えた。
そんな途方もない熱気と喧騒に包まれた工事現場の一角で、ジェスはふと、一機のティエレンに目を奪われた。
周囲で稼働しているベテランのジャンク屋組合や軍の工兵たちが操るティエレンと比べても、その一機の動きは明らかに異質であった。
無駄を極限まで削ぎ落とした作業の速さ、巨大なアームをまるで自分の指先のように扱う正確さ、そして何より、資材や周囲の環境への配慮が行き届いた「丁寧さ」。
それは、単なる熟練度を超えた、モビルスーツという機械と完全に同調しているかのような、天性の空間認識能力と操縦センスを感じさせる動きだった。
(……なんだ、あれは。正規軍のエースパイロットがお忍びで作業でもしているのか?)
ジェスは興味を惹かれ、アウトフレームのガンカメラの望遠レンズをそのティエレンへと向けた。
しかし、作業の合間の休憩時間、コクピットハッチが開いて降りてきたのは、歴戦の猛者などではなかった。
そこにいたのは、まだあどけなさを残す黒髪の少年と、その彼に満面の笑みでしがみつく、よく似た顔立ちの少女だった。
彼らは、この復興現場の作業員たちの間で、ちょっとした有名人となっている兄妹であった。
「15歳になったら絶対にオーブ軍に入って、あの白銀の英雄の役に立つんだ」と公言してはばからない、驚異的な操縦センスを持つ兄。
そして、そんな兄を誰よりも誇りに思い、ナビゲーター席から一時も離れようとしない、少しばかり兄離れができていない妹。
シン・アスカと、マユ・アスカ。
戦争によって家を失い、仮設住宅暮らしを強いられながらも、彼らの眼差しには絶望の色など微塵もなかった。
ただ真っ直ぐに明日を見据え、自分たちの手で未来を創り出そうとする、強烈な生命の輝きに満ちていた。
「……いい顔してるじゃないか」
ジェスは、ヘルメットを脱いで妹と水筒の水を分け合い、屈託なく笑うシンの姿をファインダーのど真ん中に捉えた。
そして、シャッターを静かに切る。
カシャリ、という小気味良い音がコクピットに響く。
それは、白銀の英雄が自らの血を流して守り抜いた「世界」の中で、新たに芽吹き始めた「未来の英雄」の姿を、稀代のフォトジャーナリストが初めて歴史のフィルムに刻み込んだ瞬間であった。
◇◇◇
巨大なガンカメラを背負い、白と青に彩られた見慣れないアストレイタイプのモビルスーツが、土埃を立てながらシンの乗るティエレンのすぐ傍へと着地した。
「……なんだ、あの機体? オーブ軍の新型じゃないよな。アストレイのフレームに似てるけど、武器の代わりにカメラ……?」
休憩のためにコクピットから降り、ヘルメットを小脇に抱えていたシンは、目を丸くしてその奇妙な機体を見上げた。
背中に隠れるようにひっついているマユも、「おっきなカメラだねぇ」と不思議そうに首を傾げている。
「やあ、お疲れさん! 凄くいい動きをしてたな、君たち。少し話を聞かせてもらえないかな?」
アウトフレームのコクピットハッチが開き、ラフなジャケット姿の青年が身軽にワイヤーで降りてきた。彼は気さくな笑顔を浮かべ、警戒気味のシンに向かって右手を差し出した。
「俺はジェス・リブル。フリーランスのジャーナリストをやってる」
「ジェス……リブル?」
シンは差し出された手を握り返しながら、その名前に強烈な既視感を覚え、そして数秒後に雷に打たれたように目を見開いた。
「えっ……ジェス・リブルって、あのジェス・リブルですか!? 『白銀の英雄』の素顔を書いて、世界中に発表したあの記事の!?」
「えーっ! お兄ちゃんが毎晩ボロボロになるまで読んでる、あの記事を書いた人!?」
マユがシンの背中から飛び出し、目をキラキラさせて身を乗り出した。
「こ、こらマユ! ばらすなよ!」
シンは顔を真っ赤にして妹を慌てて制止するが、ジェスは嬉しそうに腹を抱えて笑った。
「ははは! そりゃあ光栄だな。書いた甲斐があったよ。……どうだい、熱心な読者君。未来のオーブを担う若きパイロットに、少しだけ取材させてもらっても?」
憧れの英雄の真実を世界に伝えたジャーナリストからの直々の取材打診。
シンは二つ返事で快諾し、瓦礫を片付けた即席の休憩スペースで、ジェスのレコーダーに向かって熱を帯びた声で語り始めた。
先の攻防戦で家を焼かれ、どれほど恐ろしい思いをしたか。
それでも誰も死ななかった奇跡への感謝。
そして、復興作業に志願したのは、あと数ヶ月で15歳になり、年齢制限が引き下げられたオーブ軍へ入隊するための操縦訓練を兼ねていること。
すべては、あの白銀の英雄の様な笑顔の盾となるためだということ――。
ジェスは相槌を打ちながら、シンの真っ直ぐな瞳に、かつて自分が追い求めた「真実の光」に似たものを感じていた。
「なるほど。だからあんなに気迫の籠もった、丁寧な操縦だったんだな。君ならきっと、立派なパイロットになれるさ」
ジェスが取材の手応えを感じてペンを置こうとしたその時、シンがふと、ひどく真剣な、食い入るような視線でジェスを見つめ返した。
「あの、ジェスさん。……俺からも、一つ訊いてもいいですか?」
「ん? なんだい? 俺のサインなら喜んで書くぞ?」
「あ、いえ、そうじゃなくて……教えてください。キラ・ヤマト准将って……本当は、どんな人なんですか?」
シンのその問いには、単なるファンとしての好奇心を超えた、切実な渇望が滲んでいた。
無理もない。
シンにとって、キラ・ヤマトはたった「2歳年上」の少年に過ぎないのだ。
自分とたった2年しか生きた時間が変わらない少年が、世界中を敵に回し、大国を手玉に取り、一年半続いた血塗られた戦争を力尽くで終わらせてしまった。
ジェスの記事には、彼が「悪魔」と呼ばれ、「死の商人」として阿修羅の如く泥に塗れる道を選びながらも、根底には誰よりも深い優しさと悲しみを抱えた「ただの少年」であると書かれていた。
世界を平和にした怪物が、自分と同じように悩み、涙を流す人間だなんて。
それが本当に真実なのか、シンには知りたいことが山ほどあったのだ。
ジェスはシンの真っ直ぐな問いを受け止め、フッと優しい笑みを浮かべた。
そして、遠くで響く復興の槌音に目を向けながら、ゆっくりと口を開く。
「……記事に書いた通りさ、シン君。彼は神様でも、感情を持たない怪物でもない。君と同じように笑って、悩んで、大切な人が傷つけば本気で怒って、自分の無力さに絶望して泣き崩れる……ただの、不器用で優しすぎる少年だよ」
「ただの……少年……」
「あぁ。でもね」
ジェスは振り返り、シンの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「彼は、その自分の『弱さ』から絶対に逃げなかった。誰かが泥を被らなきゃならないなら、自分がその死の商人の泥を被るって、震える足で立ち上がったんだ。……強さっていうのは、決して傷つかないことじゃない。傷ついて、血を流してでも、守りたいもののために前に進めることだ。だから彼は、『白銀の英雄』になれたんだと思うよ」
その言葉は、シンの胸の奥に燻っていた炎に、確かな酸素を送り込んだ。
かつて川で妹を助けられず、水際に立ち竦んでしまった自分の弱さ。大西洋連邦の艦隊に怯え、震えることしかできなかった夜。
でも、あの人も同じように震えながら、それでもこの国を守るために戦ってくれたのだとしたら。
「……俺も、なれますかね」
シンは、傍らで不思議そうに自分を見上げているマユの小さな頭を撫でながら、力強く前を見据えた。
「俺も……あの人みたいに、自分の弱さから逃げずに、誰かを守れる本当の『盾』に……!」
「なれるさ。君のそのティエレンの操縦を見れば分かる」
ジェスは立ち上がり、シンの肩をポンと叩いた。
「俺が保証する。君は間違いなく、彼が創り出したこの『明日』を真っ直ぐに守り抜く、最高のパイロットになる。……その時は、一番に俺に単独取材をさせてくれよな」
「はいっ……! 約束します!」
シンは満面の笑みで立ち上がり、深く頭を下げた。
マユも一緒になって「よろしくお願いします!」とぺこりと頭を下げる。
照りつけるオーブの太陽の下、ジェス・リブルは未来の英雄の始まりの姿をその目にしかと焼き付けた。
彼が書いた真実は、ただ世界に消費されるだけのニュースではない。
こうして一人の少年の魂に火を灯し、次代の平和を支えるための確かな礎となって、この島国で力強く芽吹き始めていたのである。
◇◇◇
その日の復興作業を終えたシンは、借り受けていたレンタル仕様のティエレンをモルゲンレーテの臨時格納庫へと返却し、マユを連れ立って仮設住宅への帰途についていた。
夕陽が南太平洋を茜色に染め上げ、心地よい潮風が吹き抜ける穏やかな時間。
ふと顔を上げたシンの視線の先。
海沿いにある切り立った崖の上で、まるで妖精のようにくるくると軽やかなステップを踏んで踊る、一人の少女を見つけた。
風に揺れる金糸のような髪と、夕陽を背にして舞う無邪気な姿。
一目見て「可愛い」と純粋に思いながらも、シンの頭の片隅には「あんな崖の縁じゃ、足を滑らせたら危ないよなぁ」という現実的な懸念が浮かび、ついつい立ち止まってその姿に視線を向けてしまっていた。
「ちょっとお兄ちゃん、なーに鼻の下伸ばしてるの?」
背後からひょっこりと顔を出したマユが、ジト目で兄の脇腹をツンツンと小突く。
「そ、そんなんじゃねーよ! ただ、ちょっと危ないなって──」
シンが顔を赤くして言い訳がましく言いかけた、まさにその瞬間だった。
――ザバンッ!!
シンの耳に、重たい質量が水面に激突するような、嫌な水しぶきの音が鼓膜を強く叩いた。
「……落ちちゃった……」
マユが間の抜けた声でポツリと呟く。
「うぇあ!?」
慌てて視線を崖の上に戻すと、つい数秒前までそこで踊っていたはずの少女の姿が、忽然と消え失せていた。
血の気が引き、シンは弾かれたように崖の縁へと駆け出した。
恐る恐る下を覗き込むと、茜色から群青へと変わりつつある波間で、バシャバシャと激しく藻掻き、沈みかけている少女の姿が見えた。
「ど、どうしよう、お兄ちゃん!」
パニックを起こしたマユが、悲鳴のような声を上げてシンの袖を強く引く。
波打つ暗い海面。足がすくむような崖の高さ。
その光景を見た瞬間、シンの脳裏に、かつて川で溺れたマユを前にして恐怖で身体が固まり、どうしても飛び込めなかったあの日のトラウマがフラッシュバックした。
暗い水底に引きずり込まれるような恐怖。
高い場所から身を投げることへの本能的な生存本能。
シンの膝が、微かに震え始める。
(……怖い。でも!)
シンは強く奥歯を噛み締めた。
同じオーブの民が、今まさに目の前で溺れているのだ。
あのオーブ攻防戦の空で、『笑顔の盾と成る』と世界に向けて高らかに宣言した英雄に憧れ、自らもそうならんと志した自分が、ここで恐怖に負けて行かなくてどうする!
かつて、恐怖に竦んで妹を救えなかった情けない自分は、もうここには居ないのだ!
「────、やってやるさ、こんちくしょーーー!!」
シンは、己の足に絡みつく恐怖という名の呪縛を、魂の咆哮と共に力強く蹴り飛ばした。
あの日見た、あらゆる邪悪を打ち砕くために空へ舞い上がったシロガネの雄姿が、震える少年の背中を力強く、そして優しく押してくれた。
「っ!!」
シン・アスカは一切の躊躇いを捨て去り、溺れる少女をその腕に抱き留めるため、夕陽に照らされた切り立った崖の上から、眼下の荒波へと真っ直ぐに身を躍らせた。
◇◇◇
「ちょ、こら、暴れんなって! 落ち着けってば!」
「いや、いや、いやあああーーー!!」
波打つ暗い海面で、溺れる恐怖によるパニックなのか、見ず知らずの他人に強く抱きすくめられることへの抵抗なのか、あるいはその両方なのか、金髪の少女は錯乱したように激しく手足を振り乱した。
彼女が暴れるたびに、容赦なく波が二人の頭から被り、容赦なく口や鼻に塩辛い水が流れ込んでくる。
しかし、シンは決してその手を離さなかった。
かつて川で妹を助けられなかったというトラウマの呪縛を断ち切るために、そして何より、目の前の失われようとしている命を己の手で繋ぎ止めるために、渾身の力を込めて少女の華奢な身体を引き寄せた。
塩水を咽せながらも必死に水を掻き、波のうねりと格闘すること数分。
シンはどうにか、崖の真下の波によって削られてできた、小さな海食洞窟の浅瀬へと少女を引っ張り上げることに成功した。
ゴツゴツとした岩肌と濡れた砂地に、二人は重なり合うようにして倒れ込む。
シンは肩で荒い息をしながら、無我夢中で水を吐き出した。
「おにーちゃーん!! だいじょーーぶーー!?」
遥か上の崖の上から、心配で泣きそうになっているマユの声が響いてきた。
「ああ!! 俺たちは無事だ! 悪いマユ!! 誰か大人を、助けを呼んできてくれ!!」
「わかったーー!! 待っててね!!」
パタパタと走り去る妹の足音を聞き、シンは深い安堵の息を吐き出した。
一人ではなく、マユが居てくれて本当に助かった。
シンは重い身体を起こし、隣で蹲ってブルブルと震えている金髪の少女へと視線を向けた。
びしょ濡れの薄いドレスが肌に張り付き、その華奢な肩が小刻みに揺れている。
「……ったく。あんな崖の縁で踊ってちゃ、バランス崩して落ちるってことくらい、少しは考えろよなぁ」
助けた安堵感からか、つい普段の調子で小言が口をついて出た。
「俺たちがたまたま通りかかってなかったら、お前、本当に死んでたかもしれないんだぞ?」
それは、命の尊さを教えるための、兄としての、あるいはオーブの民としての、ごく当たり前の忠告のつもりだった。
だが、その「死」という単語を聞いた瞬間、少女の様子が劇的に、そして異様に変化した。
「しぬ……? ステラ、しぬの……?」
焦点の合わない紫色の瞳が、虚空を見つめて大きく見開かれる。
彼女の口から漏れる息が、ヒュッ、ヒュッと痙攣したような異常なリズムを刻み始めた。
「いやぁ……死ぬのは、いやああああああああ!!!!」
「あ、おいちょっと!! 待てって!!」
錯乱したように絶叫を上げた少女――ステラが、狂ったように立ち上がり、先ほどまで溺れかけていたはずの暗い海へと自ら再び飛び込もうと駆け出したのだ。
シンは慌ててその後ろ姿に食らいつき、その細い腰を背後から力強く抱き寄せて引き止めようとした。
しかし、どういうわけか、身体は明らかにシンより一回りも小柄で細いにもかかわらず、彼女の腕力と脚力は異常なほど強かった。
必死に抵抗する彼女の力に、オーブでの復興作業でティエレンの操縦や瓦礫撤去でそれなりに鍛えられているはずのシンの身体が、ズルズルと海の方へと引き摺られていく。
「くそっ、なんだコイツ、すげぇ力……っ!」
暴れるステラの肘がシンの胸を打ち、足元の濡れた砂地が崩れ、てんで踏ん張りがきかない。
このままでは、二人とも再び暗い波に飲み込まれてしまう。
「ステラ、死ぬのいやっ! 暗いの、こわい!!」
「大丈夫だから! 落ち着け! 君は死なないから!!」
シンの必死の叫びも、恐怖に支配された彼女の耳には届かない。
だからシンは、言葉で説得するのを止め、自らの身体のすべてを使って彼女を拘束し、包み込んだ。
波打ち際で転がりながら、ステラの華奢な身体を己の胸の中にきつく抱きしめ、彼女の異常な恐怖を封じ込めるように、ただひたすらに、安心させるように強い力を込めた。
「…ステラ……しなない……?」
シンの温もりと、決して離そうとしない強い腕の力に、ステラの抵抗がわずかに弱まる。
彼女は震える声で、縋るようにシンの胸元で呟いた。
「ああ。君は絶対に死なない。俺が……、俺が、守ってあげるからっ!」
それは、咄嗟に口から出たその場しのぎの慰めや、安心させるためだけの方便ではなかった。
オーブの空で、誰も死なせないと宣言したあの白銀の英雄のように。
かつて妹の手を引けず、己の無力さを呪ったあの日の弱い自分への決別として。
今、シンの腕の中にいる、理由もわからず死の恐怖に怯えるこの小さな少女を、シンは魂の底から「絶対に守り抜く」と、確かな覚悟を持って決意していた。
「……ステラ、守る……?」
「ああ。ステラは……俺が守る。絶対に、俺が守るから……」
ステラの身体から、ふっと力が抜けた。
彼女は濡れたシンの胸に顔を埋め、まるで幼い子供のように小さくしゃくり上げ始めた。
寄せては返す波の音が響く洞窟の中。
シンは、自身の腕の中で震える少女――過酷な運命を背負わされ、「死」という言葉を極限まで恐れるように洗脳された哀しき兵器、ステラ・ルーシェの温もりを感じながら、救助が来るまでの長い間、彼女の背中を優しく撫で、ただ静かに抱きしめ続けていた。
◇◇◇
『ずぶ濡れの服を着たままだと、気化熱で急激に体温を奪われ、最悪の場合は低体温症で死に至る』
文学少年であるシンは、そうしたサバイバル知識も愛読する本の中からしっかりと得ていた。
波の音が反響する薄暗い海食洞窟の中。
まずは自分の上着を脱ぎ、力任せに捻って海水を絞り落としたシンだったが、隣で座り込むステラの格好を見て、ひどく頭を抱え込んでしまった。
彼女が着ているのは、白い薄手のレースがあしらわれた上着と、青いドレススカートだ。
海水をごっぷりと吸い込んだドレスはひどく重そうで、なにより薄手のレースが濡れた肌にべったりと張り付いている。
このままだと、容赦なく彼女の体力を奪ってしまうだろう。
本からの知識によれば、「女性は男性以上に身体を冷やすのは良くない」とあったはずだ。
「なぁ、とりあえず服を脱いで、海水を絞った方が良い。そのままだと風邪ひくからさ」
シンがそう提案すると、ステラは「わかった」と短く頷き、一切の躊躇なく、ぱっぱと服を脱ぎ始めた。
「……え?」
シンは、危うく目玉を飛び出させそうになった。
なんとステラは、薄手のドレスと一緒に、下着のブラジャーまでもすっぽりと一緒に脱ぎ捨ててしまったのだ。
拘束から解き放たれ、重力に従ってふわりと揺れたのは、つんと上を向いた綺麗なおわん型の胸。
そして、その中央には海水で冷やされてピンと自己主張している、桜色の──。
「ちょ、おまっ……そこまで脱げって言ってないっ!!」
シンは顔から火が出るほどの勢いで叫び、慌てて両手で目を覆い隠した。
「でも、シン。脱げって言った」
ステラは悪びれる様子もなく、不思議そうに小首を傾げた。
そして、あろうことかそのまま残るショーツにまで指を掛け、無造作に引きずり下ろそうとする。
「わかった! わかったから! そこまで脱がなくていいから! もうマジ頼むから……っ!」
シンは悲鳴を上げながら半眼で飛びつき、ショーツを下ろそうとする彼女の両手をガシッと掴んで必死に制止した。
「???」
両手を握られたまま、ステラはきょとんとした顔でシンを見上げている。
その情緒は、ついこの間まで一緒にお風呂に入っていた妹のマユよりも遥かに幼く、何も知らない無垢な子供のようだった。
だが、その実、目の前にある身体は、間違いなくシンと同年代の「少女と女の中間点」にある成熟を見せている。
胸の膨らみに至っては、学校で一番発育の良い同級生の女子よりも間違いなく大きい。
おまけに、顔立ちは反則級の美少女なのだ。
そんな彼女の半裸を至近距離で見せつけられ、触れてしまっているシンの頬は、もはや誤魔化しきれないほどに熱く沸騰していた。
「……くしゅっ。シン、さむい……」
ステラが身震いし、小さな可愛らしいくしゃみをした。
濡れた素肌が粟立ち、小刻みに震えている。
「あ、あぁ。えーっと、……あーーー、しょうがないよなぁ。うん、これはしょうがない」
一体何がしょうがなくて、誰に向けて弁明しているのか。
自分でも訳が分からない言い訳を虚空に向かって呟きながら、シンは意を決し、震えるステラの身体を自らの胸の中へと強く抱き寄せた。
素肌の胸板に押し当てられる、冷えて硬くなった突起の感触と、それを包み込む暴力的なまでの柔らかさ。
思春期真っ只中の男子にとっては致死量に至るその刺激は、今は全神経を動員して『完全無視』することに決めた。
「シン、あったかい……」
ステラは嫌がるどころか、シンの体温を求めて、まるで親に甘える幼い子供のようにすり寄ってきた。
シンの背中に細い腕を回し、安心しきったように顔を胸元に埋めてくる。
(……なんだよ、コイツ。本当に、小さな子供みたいじゃないか……)
そのあまりにも無防備で、疑うことを知らない純粋な温もりを抱きしめているうちに。
シンの心の中に渦巻いていた思春期特有の毒気や、少なからず感じ始めていた男としての性欲、気恥ずかしさは、波が引くようにスッと消え去っていった。
代わりにシンの胸を満たしたのは、目の前の不器用で危なっかしい命を「絶対に守らなければならない」という、燃えるような強烈な庇護欲だった。
「……すぐ温かくなるから。もう少しの辛抱だからな、ステラ」
シンは、腕の中のステラが安心できるように、そして自分自身の高鳴る鼓動を落ち着かせるように、彼女の濡れた金髪を不器用な手つきで優しく、何度も撫で続けた。
◇◇◇
どれくらい、そうして互いの体温を分け合っていただろうか。
波の音と二人の静かな呼吸だけが満ちていた洞窟の空気が、ふいに微かな振動を帯びた。
ズシン、ズシン……。
濡れた砂地に座り込むシンの脚から、一定のリズムを刻む地響きのような重い震動が伝わってくる。
それは間違いなく、数十トンクラスのモビルスーツが歩行する際の足音だった。
『おーーーい、シーーン! そこにいるのかー? 無事かあーー?』
岩壁に反響して届いたのは、モビルスーツの外部スピーカーから発せられた大人の男の声。
聞き覚えのあるその声に、シンはパッと顔を上げた。
「ジェスさんの声だ……! マユの奴、あの人を呼んできてくれたのか」
助けが来た。
その事実に安堵の息を吐き出したシンだったが、直後、ハッと我に返って腕の中を見た。
自分の胸に顔を埋めているステラは、ドレスと下着を丸ごと脱ぎ捨てた、見事なまでの半裸状態である。
「お、おいステラ、助けが来た! とりあえず服を着るぞ」
「え……?」
シンが慌てて腕の力を緩めようとすると、ステラは不満げに眉をひ寄せ、逆にシンの身体にしがみつく力を強めた。
「ステラ、離れるの、や。シン、あったかい」
「いや、気持ちは分かるけど! このままだとマズいんだって!」
「や……」
首を振ってさらにすり寄ってくるステラを前に、シンは内心で冷や汗を流した。
マユが連れてきたジェス・リブルは、真実を追究する本物のジャーナリストだ。
先ほどの取材で彼の人となりを知ったシンは、ジェスがこんな状況を見て「あくどいゴシップ記事にしてやろう」などと考えるような下世話な大人ではないことは十分に理解していた。
だが、それはそれ、これはこれである。
思春期真っ只中の健全な男子にとって、美少女と半裸で抱き合っている現場を大人に見つかるというのは、社会的・精神的死活問題なのだ。
学校で彼女持ちの同級生が、ちょっと手を繋いで歩いていただけで翌日クラス中から猛烈に冷やかされ、顔を真っ赤にして苛立っている光景など、日常茶飯事に見ている。
ましてや今の自分は、「そういう次元」を遥かに超越したデンジャラスな状況にある。
こんなところを見られようものなら、ジェスにニヤニヤと揶揄われるのは目に見えているし、何よりマユの奴になんて説明すればいいのか分からない。
「分かった! 服着たら、またくっついてていいから! な?」
背に腹は代えられず、シンは子供をあやすような必死の交渉カードを切った。
「……また、くっつく?」
「あぁ、くっつく! ずっとくっついててやるから、とりあえず今は服を着てくれ! 頼む!」
「……うん。わかった」
ステラはようやく納得したように頷き、シンの胸から名残惜しそうに身を離した。
シンはこれ以上余計なものを見ないように必死に視線を泳がせながら、絞って水気を切ったドレスとレースの上着を手探りで彼女に押し付けた。
下着まで着けさせる余裕(とシンの精神力)はないため、せめてドレスだけでも被らせようという算段だ。
「ほら、急いで! 音が近くなってるから!」
「ん……シン、手伝って」
「なんでそうなるんだよぉ!」
モビルスーツの駆動音とジェスの呼び声が刻一刻と近づいてくる中、洞窟の暗がりでは、顔を真っ赤にして目を逸らしながらステラの服の袖を通そうと悪戦苦闘する、若き少年の情けない悲鳴が響いていた。
◇◇◇
シンの必死の説得という名の懇願により、どうにかドレスだけは身に着けたステラ。
彼女とシン、そして合流したマユの三人を救助したジェスは、愛機アストレイ アウトフレームを歩かせ、モルゲンレーテ本社の地下深くにある巨大格納庫へと向かった。
そこは軍の最重要機密エリアの一つであったが、ジェスにとっては何の障害にもならなかった。
何せ、今の彼には「世界唯一の、キラ・ヤマト准将の専属ルポライター」という、オーブ国内においては最強のフリーパスとも言える特権がある。
医療設備から居住スペースに至るまで、あらゆる設備が最も整っており、かつ事情を説明して様々な融通を利かせるには、この場所が最適だったからだ。
「やあジェスさん、お疲れ様。……あれ? その子たちは?」
格納庫のオフィスブロックで彼らを出迎えたのは、白の軍装に身を包んだキラ・ヤマトその人だった。
だが、笑顔で歩み寄ってきたキラは、ジェスの背後に続くずぶ濡れの子供たち三人を見た瞬間――文字通り、彫像のようにその場に固まった。
シンとマユの二人はいい。彼らはオーブの逞しい民間人の兄妹だ。
問題は、シンの腕にぴったりとしがみつき、怯えたように周囲をキョロキョロと見回している金髪の少女だった。
(ステラ!? ステラナンデ!?!?)
キラの脳裏に、あの血塗られた『虚憶』の断片がフラッシュバックする。
大西洋連邦の非道な人体実験によって生み出された生体CPU。
そして、狂気の暗躍者ロード・ジブリールの私兵である特殊部隊『ファントムペイン』の構成員。
本来の歴史において、シンと悲劇的な出会いを果たし、最終的に巨大MS「デストロイ」に乗って惨劇を引き起こすはずの少女が、なぜか今、濡れ鼠の状態でシンの腕の中にいる。
彼女が単独でこのオーブに観光旅行に来るはずがない。
つまりそれは、ジブリールの手下である凶悪な特殊部隊が、すでに武装中立国であるオーブの国内へと極秘裏に潜入しているという、決定的な証拠に他ならなかった。
(ジブリール……停戦協定の裏で、もうそんな動きを……!)
「准将? どうかしたのかい?」
ジェスが訝しげに声をかけると、キラの纏っていた温和な空気が、一瞬にして極限まで研ぎ澄まされた氷の刃のような「最高軍事顧問」のそれへと変貌した。
「……ジェスさん、救助ありがとうございます。少しだけ待っててください」
キラは懐から携帯端末を取り出すと、即座にオーブの『影』を司るトップ、ロンド・ミナ・サハクへと直通通信を繋いだ。
『……珍しいな、キラ。お前から直々に通信とは』
「ミナ様、至急のお願いです。オーブ国内、特にモルゲンレーテ周辺と沿岸部に、諜報部の最高レベルの厳重警戒態勢を敷いてください」
『……何があった?』
「大西洋連邦の非正規部隊……『ファントムペイン』が入り込んでいる明確な証拠を見つけました。……おそらく、彼らの母艦か潜入艇が近くに潜伏しています」
『……承知した。すぐに猟犬たちを放とう。一匹たりとも逃がしはせん』
わずか数十秒の、冷徹で的確な軍事的指示。
そのあまりに手慣れた為政者としての顔に、シンはゴクリと息を呑んだ。
憧れの英雄が垣間見せた「将軍」としての凄み。
それにステラもまた、本能的に怯えたのか、シンの背中にさらに深く隠れようとする。
通信を切ったキラは、ふっと息を吐き出すと、氷のような気配を完全に霧散させ、いつもの「優しい少年」の顔へと戻った。
「怖い思いをさせてごめんね。……もう大丈夫だよ」
キラはシンと、その後ろで震えているステラ、そして不安そうなマユの目線に合わせるように、優しくしゃがみ込んだ。
「シン、君が彼女を助けてくれたんだね。立派だったよ。……でも、すっかり冷え切っちゃってるね。まずは、三人とも温かいお風呂に入ろう。ここは設備が整ってるから、着替えも温かい飲み物もすぐに用意させるから」
その慈愛に満ちた声に、シンの中にあった極度の緊張が、ふわりと解けていく。
「……はいっ。ありがとうございます、キラ准将!」
背後に国家の存亡を懸けた影の戦争の気配を漂わせながらも、目の前の震える子供たちにはただ温かい風呂と着替えを用意する。
白銀の英雄のあまりにも鮮やかな二面性を目の当たりにしながら、シンはステラの手をしっかりと引いて、案内されたモルゲンレーテの居住区画へと歩き出した。
◇◇◇
シン、マユ、そしてステラ――三人の子供たちが、案内された温かい風呂と着替えのために居住区画へと消えていくのを、キラ・ヤマトは静かに見送った。
彼らの足音が完全に聞こえなくなるのを見届けると、キラの瞳から先ほどまでの温もりは綺麗に消え去り、代わりに冷徹な『死の商人』としての計算と決断の光が宿った。
(……ステラ・ルーシェ。あの子の身体は、そう長くは保たない)
『虚憶』の知識が、キラの脳裏に警鐘を鳴らしていた。
彼女は大西洋連邦の非道な兵器開発によって生み出された生体CPU――「エクステンデッド」と呼ばれる強化人間だ。
投薬と洗脳、そして度重なる記憶操作によって極限まで戦闘能力を引き上げられている代償として、定期的に専用の調整カプセル、通称『ゆりかご』に入らなければ、肉体の機能を維持できず、最悪の場合は死に至る。
ファントムペインの部隊から逸れてしまった今のステラには、その猶予がいつまでもない。
彼女の命をオーブで救い、繋ぎ止めるためには、大西洋連邦の軍事機密である『ゆりかご』と、エクステンデッドの調整に関する詳細な医療データが絶対に必要不可欠であった。
キラは踵を返し、モルゲンレーテ地下の最深部に位置する最高機密通信室へと向かった。
厳重な生体認証をパスして防音扉の奥へ入り、コンソールを操作して、オーブと直接の軍事パイプを持つ「ある男」のプライベート回線を呼び出す。
通信の相手は、大西洋連邦におけるもう一つの巨大な派閥を束ねる男であり、キラの最も厄介で、かつ最も利害が一致するビジネスパートナー。
パナマ基地に駐留する地球連合軍の首魁の一人、ムルタ・アズラエルである。
数回のコール音の後、モニターにあの特徴的な金髪と、いけ好かないがどこか愛嬌のある笑みを浮かべた男の顔が映し出された。
『やあやあ、これは珍しい。白銀の英雄にして、我が良きビジネスパートナーであるヤマト准将から直々のホットラインとはね。……どうしました? また何か、僕を喜ばせるような極上の“ビジネス”でもお持ちで?』
アズラエルは、手元のワイングラスを軽く揺らしながら、余裕たっぷりの態度で問いかけてきた。キラからこの回線で連絡が来るということは、単なる政治的挨拶などではなく、必ず彼自身に莫大な利益をもたらす『取引』の提案であることを、アズラエルは熟知しているのだ。
「ええ、アズラエル理事。今日は少し急ぎの用件でして。……そちらに、一つ要求したいものがあります」
キラは一切の前置きを省略し、単刀直入に切り出した。
「大西洋連邦の特殊部隊が使用している生体CPU……『エクステンデッド』の調整および生体維持用の医療カプセル、通称『ゆりかご』の現物。それと、彼らに使用されている投薬データとメンテナンスに関する全資料を、大至急、オーブへ送っていただきたい」
その要求を聞いた瞬間、アズラエルの表情がわずかに引き締まった。
エクステンデッド計画は、ロード・ジブリール率いるロゴス内の一派が極秘裏に進めている非人道的なプロジェクトであり、大西洋連邦の最高軍事機密の一つだ。
それを「よこせ」というのだから、普通の軍人であれば即座に通信を切るか、反逆を疑うレベルの要求である。
『……ふぅむ。また随分と物騒で、おかしなものを要求しますね、准将。我が国の最高機密をそう簡単にホイホイと渡せと? 第一、オーブのようなクリーンな国で、あんな悪趣味なオモチャを何に使うおつもりです?』
「ジブリールの飼い犬たちが、オーブの庭に迷い込んできましてね」
キラは冷ややかな声で告げた。
「その中の一匹、哀れな少女を保護しました。彼女の命を繋ぐために必要です。……もちろん、タダでとは言いません。アズラエル理事にとって、絶対に損はさせない対価を用意しています」
『ほう? 対価、ですか』
アズラエルの目が、商人のそれのように鋭く光った。
「そちらで現在、大気圏内での完全空中戦に対応させるため、『エールストライカー』の改良・再設計を進めていることは存じています。……ですが、ロケットエンジン主体のエールでは、大気圏内での燃費と空力特性に限界があるでしょう」
キラは手元のコンソールを操作し、アズラエルのモニターへ一枚の設計図面を暗号化して送信した。
「オーブのモルゲンレーテが独自に開発した、大気圏内用完全飛行ストライカーパック――『ジェットストライカー』の基本設計図と、実証試験データです。航空力学に基づいた空力フォルムと、高出力ジェットエンジンを搭載しており、エールストライクを遥かに凌ぐ滞空時間とドッグファイト性能を約束します。……どうです? ロケットエンジンを無理やり弄るより、こちらに乗り換えた方が、国防産業連盟の株主たちも喜ぶのではありませんか?」
送信された図面を一瞥した瞬間、アズラエルの口角が三日月のように吊り上がった。
アズラエルにとって、この取引はまさに「棚から牡丹餅」であった。
現在、大西洋連邦内でジブリール率いるヘブンズベース派閥と水面下の暗闘を繰り広げているアズラエルにとって、ジブリールの私兵がオーブでドジを踏み、勝手に兵士を紛失したという事実だけでも、政敵の失態を突く絶好のカードになる。
その上、こちらの懐を一切痛めることなく、オーブ製の新型ストライカーパックという莫大な軍事的利益を生み出す「金の卵」が実質タダで手に入るのだ。
こんなボロ儲けの取引に応じないビジネスマンは、バカを通り越して論外である。
『……くくっ、あははは! いやはや、キラ君。君は本当に恐ろしい子だ。ジブリールの馬鹿がオーブで勝手にドジを踏んだ尻拭いを、僕にさせようというわけだ。しかも、こんな魅力的なプレゼントまで添えて』
アズラエルはワイングラスをデスクに置き、大げさに両手を広げてみせた。
『交渉成立です、准将。喜んで協力させていただきましょう。……エクステンデッドのメンテナンスに関する全資料と投薬データは、僕の権限で纏め上げ、一時間後には暗号化してオーブのサーバーへ送信します。そして『ゆりかご』の現物については、明日の朝一の便で、偽装した民間輸送機を使って速達でモルゲンレーテへお届けしましょう』
「感謝します、アズラエル理事。これで、一つの命が繋がります」
『お気になさらず。これも世界の平和と、我が大西洋連邦の健全な発展のためですからね』
通信の最後、アズラエルは意味深なウインクをして見せた。
『それにしても。君は本当に、悪魔のような手腕を持った聖者だ。……ジブリールがこの取引を知ったら、怒りで血を吐いて倒れるでしょうね。せいぜい、オーブの庭の掃除は徹底することをお勧めしますよ』
「ええ。オーブの地を汚す者は、誰であろうと容赦するつもりはありません」
キラは静かにそう返し、通信を切った。
暗い通信室の中、モニターの光だけがキラの横顔を照らしている。
『死の商人』としての冷酷な取引は終わった。
これで、ステラの命を繋ぐための物理的な準備は整う。
そして同時に、オーブに潜入しているファントムペインの部隊に対し、ミナの率いる影の部隊がすでに包囲網を敷きつつあるはずだ。
「……世界を変えるには、綺麗な手だけじゃ駄目なんだ」
キラは小さく呟き、通信室を後にした。
彼の向かう先は、温かい風呂から上がり、シンのそばで震えているであろうステラたちの待つ居住区画である。
修羅の道で大国を手玉に取りながらも、その手で救い上げた小さな命だけは、何があっても守り抜く。
それが、白銀の英雄が背負い込んだ、重く、そして譲れない「明日への責任」であった。
◇◇◇
オノゴロ島の繁華街。
復興の熱気に包まれ、多くの人々が平和な日常を謳歌して行き交うその喧騒の只中で、スティング・オークレーは隣を歩く青髪の少年、アウル・ニーダの肩を引き寄せ、周囲に溶け込むような低い声でそっと囁いた。
「ズラかるぞ、アウル」
「えー? なんでさ」
買い食いしていたスナックを片手に、アウルは退屈そうに唇を尖らせた。
まるで遊びを途中で取り上げられた子供のような、無邪気で不満げな反応だった。
「……空気が変わった。さっきから定時連絡も完全に途絶えている。どうやら、オーブの猟犬たちに嗅ぎつけられたらしいな」
スティングの鋭い視線が、人混みの奥や建物の屋上に微かに見え隠れする不自然な気配――ロンド・ミナ・サハクが放ったオーブの影の諜報部隊の動きを正確に捉えていた。
彼らはブルーコスモスの盟主ロード・ジブリールの特命を受け、極秘裏にこのオーブへと潜入した地球連合軍の非正規特殊部隊『ファントムペイン』の構成員である。
あわよくば、世界を震撼させた『白銀の英雄』キラ・ヤマトの首か、あるいはその身柄。
それが無理でも、ニュートロンジャマーキャンセラーの設計図か実機の奪取という、あまりにも無謀でハイリスクな命令を帯びていたのだ。
「ちぇっ。遠路遥々、こんな島国まで来てやったってのにさ。なんにも遊べないで帰るの?」
アウルはつまらなそうに手元のスナックをゴミ箱へ放り投げた。
「文句は上に言え。このままここに居たら、俺たちまで狩られるぞ」
スティングは足早に歩き出そうと踵を返した。
だが、アウルがふと思い出したように首を傾げた。
「んで? ステラは?」
その無邪気な問いかけに、スティングの足がピタリと止まった。
ステラ・ルーシェ。
自分たちと同じ部隊に所属し、共に過酷な訓練と投薬を生き抜いてきた金髪の少女。
いつの間にかはぐれていた彼女。
今から彼女を探しに戻れば、確実にオーブの包囲網に引っかかり、自分たちは全滅する。
生きて帰るためには、選択肢は一つしかなかった。
「…………置いていく」
沈黙の末、スティングは奥歯を噛み砕かんばかりの力で食い縛り、断腸の思いでその一言を絞り出した。
強化人間として感情をすり減らされてきた彼であっても、共に戦ってきた仲間を敵地に切り捨てるという決断は、胸を深く抉るような痛みがあった。
「あーあ。ま、仕方ないか。あいつ、いっつもドジでどんくさいし。すぐ迷子になるしさ」
対照的に、アウルはあっけらかんとした声で笑った。
仲間の死や喪失に対する悲しみなど、彼の心には最初から欠落しているかのようだった。
「……いくぞ、アウル」
「オッケー」
スティングは深く帽子を被り直し、アウルと共に夕暮れが近づくオノゴロの繁華街の人混みへと、その姿を溶け込ませていく。
彼らがステラという少女の安否を案じ、思いを馳せるのは、おそらくこれが最後になるだろう。
帰還したラボで、彼らは『ゆりかご』へと入れられる。
そしてその際、彼らの脳髄からは「ステラ・ルーシェ」という仲間が存在したという記憶そのものが、冷酷なデータ処理によって綺麗に消去されてしまうのだから。
次に彼らが目覚める時、ステラのことは欠片も覚えていないだろう。
昨日まで共に笑い、共に戦ったはずの少女の存在は、初めからいなかったこととして彼らの心から永遠に抹消される。
それが、大西洋連邦によって生み出され、使い捨てられる『エクステンデッド』という生体兵器に課せられた、あまりにも残酷で悲しい宿命であった。
◇◇◇
絶対的な静寂と、凍りつくような虚空が支配する宇宙の何処か。
表の歴史には決して記されることのない、隠匿された巨大な軍事ステーションの最深部で、幾十ものホログラム・モニターが放つ冷たい青白光に照らされながら、世界の蠢動を冷徹に見下ろしている一人の少年が居た。
「……本当に、傲慢だよ。母と慕う人を失って、こんなにも憎しみが覆い尽くす世界で『悪魔』と罵られて、泥を被って……それでもまだ、どうして人を信じられるんだろうね」
乾いた、感情の抜け落ちた声。
その声帯から紡がれる音色は、今まさに地上で新たな平和の象徴として世界を席巻している『白銀の英雄』──キラ・ヤマトの声と、おぞましいまでに寸分違わず似ていた。
声だけではない。モニターの明かりに浮かび上がるその端正な顔立ちも、色素の薄い髪も、まるで鏡写しのように彼と同じ形をしている。
だが、その瞳の奥に宿る光だけが決定的に違っていた。あちらが全てを受け入れる深淵な海であるならば、こちらの少年は、すべての希望を焼き尽くし、何もかもを無に還そうとする底なしの虚無そのものだ。
少年の指先がコンソールを滑ると、モニターの一つにブルーコスモスの盟主、ロード・ジブリールの狼狽える姿が隠しカメラの視点から映し出された。
オーブへのファントムペイン極秘潜入作戦が失敗し、手駒を失ったことで苛立ちを隠せないでいるその醜悪な顔。
「ジブリール……また酷いミスをしてくれる。自分の足元がオーブの影にすくわれていることにも気づかないとは、本当に救いようのない愚か者だ」
少年は吐き捨てるように呟くと、傍らに控える暗号通信機を起動した。
「……マティスに繋げ。ジブリールには、これ以上余計なことはさせるなと伝えろ。だが、泳がせておけ。必要なら、月の裏側──ダイダロス基地に上げる用意がある、とね」
どうせあのジブリールの事だ。地球上での居場所を失い、ザフトやオーブ、あるいは自国内の政敵であるアズラエルたちから完全に追い詰められれば、一目散に宇宙へと逃げ出すに決まっている。
彼の思考回路はあまりにも単調で、ひたすらに自己の生存と復讐のみで構成されているのだから。
でも、あの滑稽な道化にはまだ『価値』がある。
それこそ、世界中の憎しみを極限まで燃え上がらせ、月面から放たれる『鎮魂歌』の凄惨な調べを奏でるという、破滅の引き金を引くための極上の生贄としての役目が。
少年はモニターを切り替え、今度はオーブの空で圧倒的な力を見せつける『シロガネ』と、そのコックピットで民衆に向けて叫ぶキラ・ヤマトの姿を大写しにした。
『あらゆる邪悪を打ち砕く、笑顔の盾と成る者だ──!!』
その気高く、悲壮なまでの決意の言葉を聞いて、少年は酷く歪んだ、嘲りの笑みを浮かべた。
「本当に、世界は愚かだ。誰も彼もが光に焼かれて狂っている。君という強烈な『光』にすがりつき、自分で考えることを放棄して、ただ救済を待つだけの依存者たち。……そんな光狂いの殉教者たちなんて、遺伝子を憎悪して神に祈るブルーコスモスの狂信者と、一体なにが違うっていうんだ?」
白銀の英雄、キラ・ヤマト。
世界中の人々は彼を救世主だと崇め、あるいは畏怖しているが、この少年から言わせれば、アレは自分一人ですべての業を背負い込み、周囲の人間から『自分の足で歩く力』を無自覚に奪い去っている、最悪の『白き闇』だ。
強すぎる光は、時として深い闇よりも残酷に人の目を潰す。
平和を与えられることに慣れきった世界は、いずれその光が消えた時、自重に耐えきれず完全に崩壊するだろう。
「君がすべてを闇を蹴散らす白き闇だと言うのなら……」
少年は、自分の顔と同じ造形をしたモニターの中の英雄を見つめながら、自らを呪うように、そして世界そのものを呪うように低く囁いた。
「なら、僕はすべてを消し去る『黒き光』、なのかな」
その呟きの奥には、造物主の身勝手なエゴによって生み出された果てしない絶望と怒りが渦巻いていた。
「誰が産んでくれと頼んだ。誰が作ってくれと頼んだ。……勝手に作って、その力に縋り付く。こんな醜い世界、希望だの明日だのという甘い毒で延命させるより、全部纏めてスッキリと消し去ってしまったほうが、よっぽど手っ取り早いし、優しいだろうに」
少年はそう吐き捨てるように言い放ち、画面の中で光り輝く白銀の英雄を、親の仇よりも深い怨嗟を込めて睨みつけた。
作られた存在である自分の、唯一の存在証明。
それは、あの『成功作』が守ろうとしているこの愚かな世界を、彼ごと完全に破壊し尽くすことだけなのだから。
キラが戦略的立場になったから、1個人として世界と向き合えるシンの存在が有難すぎる。
それでいて、若さって良いなぁと、書きながら思ってニヤニヤしてました。
あとジェスが接着剤として便利過ぎる。
そんでもって兄妹イチャラブヨスガ秒読みカウントダウンあと5くらいだったのに、横から私でも見逃す剛速球でダイナミックエントリーして来たステラ。
哀れ妹よ、お兄ちゃんは守りたい女の子を見つけてしまった。
しかしこの妹ならステラを妹扱いしてツインドッグで飛鳥先輩をいてこますからたぶん大丈夫。
飛鳥先輩、強く生きてください……。
そんでもってこの世界で蝶☆サイコーなアガリしてるのは多分アズにゃんだろうなぁ。
ほんと今、人生楽しくて楽しくて仕方ないだろな〜。
最後のはね、ほら、キラの歩んだ半生が全世界規模で配信されたワケやん?
あとはお察しの通りさ。