やめてよね、僕が准将みたいに出来るわけないじゃないか 作:星乃 望夢
「……どうしてこうなったんだろうね」
モルゲンレーテの研究室。
無数のホログラムスクリーンが青白い光を放つその中心で、オーブ連合首長国の最高軍事顧問であり、現在のコズミック・イラにおける事実上のキングメーカーとも言える白銀の英雄、キラ・ヤマトは、デスクに突っ伏して両手で頭を抱え込んでいた。
彼がここまで露骨に頭を抱え、深い疲労を滲ませることは稀である。
大西洋連邦の狂信者ロード・ジブリールが氷の要塞で蠢こうとも、得体の知れない存在がニュートロンジャマーキャンセラーの設計図という毒を世界中にばら撒こうとも、彼は常に冷徹な演算と『虚憶』に基づく絶対的な盤面支配でそれを凌いできた。
だが、今回ばかりは勝手が違った。
事の発端は、人類革新連盟――キラの技術的介入によって『ティエレン』という規格外の重装甲MSを手に入れ、それを基幹兵器として徹底的な一本化ドクトリンを敷いているあの巨大国家群が、ついにキラの『虚憶』からの技術供与が一切及んでいない、完全なる「彼ら自身のオリジナル開発による新型ティエレン」をロールアウトさせたという、本来ならば喜ばしいはずの軍事情報であった。
その新型機の名称は『ティエレン・モンソウ』。
中国語で鉄人猛獣を意味する。
人革連の技術陣が到達したその設計思想は、非常に理にかなった、そして彼ららしい泥臭くも堅実なものであった。
モンソウの最大の特徴は、上半身は従来のティエレンのまま、下半身、すなわち脚部モジュールが完全にザフトの『バクゥ』のような四足歩行型へと換装されている点である。
ただし、バクゥのような滑らかな獣的フォルムではない。
あくまでティエレンの延長線上にある、無骨で角ばった、まるで移動要塞の土台のような重厚な四足脚部である。
この四足化により、モンソウは従来の二足歩行型ティエレンを遥かに凌駕する悪路走破性と、射撃時の異常なほどの接地安定性を獲得した。
さらに、脚部が四つになったことで機体全体のペイロードは爆発的に増加。これにより二足歩行では運用不可能なほどの凶悪な重火器――連装長距離滑腔砲や、大型ミサイルコンテナなどを、その広い背部や肩部に山のように積載する余地が生まれたのだ。
それでいて、ただの固定砲台で終わるわけではない。
四本の脚部それぞれの接地面に内蔵された大出力ホバーユニットによって、その重武装と巨体に似合わぬ高速ホバー移動をも実現しているという。
現在、人革連軍は凄まじい勢いで軍の近代化を推し進めている。
従来の鈍重な歩く重戦車であった二足歩行型の地上用ティエレンを、両脚大推力スラスターを増設した『高機動B型』へと順次更新。
さらに、推進エンジンをジェットからロケットへと換装し、大気圏内外を問わず運用可能とした全領域対応型の『高機動C型』への改修も急ピッチで進んでいる。
彼らはもはや、「装甲が厚いだけの的」ではない。鉄壁の防御力を維持したまま、高機動性を獲得し、戦場を面で制圧する恐るべき機動戦力へと変貌を遂げつつあった。
そして、その人革連の軍事力とティエレン・ドクトリンの絶対的な頂点として君臨するのが、カオシュン宇宙港を奪還したあの50m級の巨神兵、歩く超大型核融合炉たる『ティエレンダーフォン』である。
ここまではいい。
軍事国家としての人革連の堅実な発展であり、ばら撒かれた「フリーダム」や「ジャスティス」といった次世代核動力MSのデータに対する、彼らなりの明確なカウンターであるからだ。
キラとしても、彼らが強大化し、AEUや大西洋連邦に対する強固な抑止力として機能してくれることは、世界のパワーバランスを保つ上で歓迎すべきことであった。
問題は、その頂点たる『鉄人大豊』が、人革連の軍事プロパガンダにおいて、いかなるバグを引き起こしたのかということだ。
「……なんで。なんで、こんな存在しないはずの幻覚が、この世界で実体化してるんだ……」
キラは、デスク上のホログラムモニターに映し出された、人革連軍の公式徴兵ポスターおよび、ティエレンシリーズのプロモーション映像を虚ろな目で見つめた。
ティエレン関係の生産や整備を大々的に引き受けている人革連の民間巨大軍産複合体『大豊核心工業集団』。
彼らが、自社のティエレンシリーズの圧倒的な性能と親しみやすさを国民および軍内部にアピールするため、謎の情熱を発揮して作り上げた「軍・企業公認の広報キャラクター」が存在した。
モニタの中で、極太の明朝体で書かれた『樹大枝細』樹は大きく枝は細い=兵器の堅牢さと美しさの意というスローガンの隣で、あざといポーズを決めている二次元キャラクター。
巨大なティエレンダーフォンや、真新しい四足のティエレン・モンソウ、各種ティエレンを背景にして、コズミック・イラという血生臭い世界観から完全に浮きまくっている、極めて二次元的なアニメ調の美少女キャラクターが、溌剌とした笑顔で敬礼を決めていたのだ。
月明かりのように滑らかで美しい『銀色の長髪』。
戦意を鼓舞するかのように情熱的に輝く『真紅の瞳』。
タイトな衣装の上からでもハッキリと分かる、常識外れにグラマラスで肉感的な『ボン・キュッ・ボン』のプロポーション。
それでいて、顔立ちはどこかあどけなさを残した、庇護欲を唆るような愛らしい『少女』の造形。
人革連軍公式プロモーションキャラクター――『
確かに、現在の人類革新連盟には、かつて極東アジアの経済とポップカルチャーの中心地であった日本市場の残滓が丸々と取り込まれている。サブカルチャーの発祥地としてのDNAは、彼らの社会構造の底辺に脈々と息づいているのだ。
だからこそ、軍の広報部が若年層の徴兵率を上げるため、あるいは軍の威圧的なイメージを軟化させるために、「オタク文化」の技術をフル稼働させ、現代の洗練されたホログラム技術で極めて質の高い二次元キャラクターを創造し、広告塔として起用すること自体は、戦略として何ら不思議ではない。むしろ逆にお手の物だろう。
だが、キラが頭を抱え、世界の法則そのものを疑っている理由はそこではない。
(……大豊娘々って、『AC6』のプレイヤーたちが、勝手に設定をでっち上げて生み出した、公式には一切存在しない『集団幻覚』の産物だったはずじゃないかっ!!)
キラの脳裏に眠る、別次元の宇宙……いや、かつて己が生きて過ごした世界。
そこでもこんな銀髪赤目のグラマラスな看板娘など、公式のゲーム内には一ミリも登場していなかった。
それは、熱狂的なプレイヤーたちのコミュニティが、二次創作という名の集団狂気の中で勝手に生み出し、いつの間にかあたかも公式設定であるかのように共有されてしまった、インターネット上の特異なミームに過ぎなかったはずなのだ。
それがなぜ。
なぜ、コズミック・イラの現実世界において。
『ティエレンダーフォン』という機体名の一致という、ほんのわずかな共通項だけで。
彼ら人革連の広報部が、あの『銀髪赤目でボンキュッボンのあどけない少女』という、完璧に一致したデザインと設定の大豊娘々を、全くのゼロから──彼らにとってはオリジナルとして偶然にも生み出してしまったというのか。
「この世界のアカシックレコードはどうなっちゃってんの……?」
キラは深く、深くため息をついた。
自分の持つ『虚憶』が、単なる知識の蓄積ではなく、このコズミック・イラという現実世界の事象そのものに、何らかの量子的な干渉を無意識に引き起こしているのではないか?
だとしたら、自分はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったのではないか。
いつか、ルビコンの火のような未知のエネルギーが発見されたり、あるいは自分の周囲にいる人間が「仕事の時間だ、621」などと話し始めたりするのではないかという、拭い去れない恐怖と疲労感が彼の背中を重くのしかかる。
「……もう、いいや。考えたら負けだ。……好きにして」
白銀の英雄は、ついに思考することを放棄し、完全に匙を投げた。
ホログラムの向こう側では、実体化してしまった集団幻覚たる大豊娘々が、ティエレンダーフォンを背景に極めてあざとく、しかし圧倒的な作画クオリティで微笑み続けている。
世界は今、核の炎と次世代兵器の開発競争という地獄の淵にあるというのに。
一部のベクトルだけが、キラの理解を超えた明後日の方向へと爆走し始めていた。
◇◇◇
「なーに見てんですか? キラさん」
疲労と混乱で完全に匙を投げ、デスクに突っ伏していたキラの背後から、不意に甘く、それでいてどこか挑発的な声が降ってきた。
同時に、背もたれ越しに柔らかな、しかし確かな質量を持った感触がキラの肩甲骨のあたりに押し付けられる。
わざとその豊満な胸部を押し付けるようにして、背後から身を乗り出し、ホログラムモニターを覗き込んできたのはルナマリア・ホークだった。
「……あぁ、ルナか。うん、ちょっとね。いろいろと世界のバグというか、因果律の狂いについて考えさせられていて……」
キラは肩に感じる明らかな感触に困惑しつつも、重い頭を上げて曖昧な返事をした。
彼が抱えている「存在しないはずの集団幻覚が現実の軍事国家のプロパガンダとして実体化した」というメタ的でオカルトじみた絶望など、ルナマリアに理解できるはずもない。
彼女の視線は、ホログラムモニターの中央で敬礼を決めている人革連の公式キャラクター『大豊娘々』へと釘付けになっていた。
銀髪赤目、そして異常なまでにグラマラスなプロポーションを持った、あどけない顔立ちの二次元美少女。
キラの複雑怪奇な心境など露知らず、ルナマリアの顔にはみるみるうちに、格好の「弄りネタ」を見つけたミーハー女子特有の、ニマニマとした意地悪な笑みが浮かび上がった。
「ふーーん? なるほどなるほど。そういうことですかぁ」
ルナマリアはわざとらしく語尾を伸ばし、キラの耳元でクスクスと笑い声を漏らした。
「世界を裏から操る白銀の英雄様でも、やっぱり中身は健全な『男の子』なんですねぇ。こういう、銀髪で胸の大きい二次元の女の子が好みだったとは意外だなぁ。……でも、そーゆーのが良いなら、わざわざそんなモニターの中の娘を見てないで、アタシに言ってくれればいいのに」
そう言うと、ルナマリアはキラの肩から身を離し、彼が振り向いたタイミングを見計らうようにして、自らの豊満な胸を両手で下から無造作に持ち上げ、グッと中央に寄せて上げてみせた。
「そんな、触ることもできない二次元の女なんかより……アタシの方が、い・つ・で・も、触らせてあげますよ? キラさん」
今の彼女の服装は、非常にラフでありながら、極めて計算高いものであった。
下半身には彼女の髪色に近い赤紫のゆったりとしたロングパンツを履いているが、上半身はシンプルな黒のTシャツ。
しかし、そのTシャツは明らかに彼女本来のサイズよりも「1サイズ小さい」ものが選ばれていた。
その結果、彼女の暴力的なまでに豊満な胸のボリュームによって生地が限界まで前方に押し上げられ、裾の部分がめくれ上がり、見事なくびれと白いお腹が完全に露出する、いわゆる「乳カーテンによるへそ出しスタイル」が完成してしまっているのだ。
下着のラインすら透けて見えそうなほど生地が張っているその姿は、15歳という年齢不相応な色気を過剰に放っていた。
全ては、極上の玉の輿たるキラ・ヤマトの視線と理性を奪うための、彼女なりの打算と計算に基づくアピールである。
「……もう。女の子が、そんな簡単に自分を安売りするような、はしたないことしちゃダメでしょ。胸元、直して」
しかし、キラの反応はルナマリアの期待するような狼狽や劣情を孕んだものではなかった。
彼は一瞬だけその扇情的な谷間に視線を落としたものの、すぐに困ったような、まるで悪戯を見つけた教師や兄のような苦笑いを浮かべ、静かに視線を逸らしてホログラムモニターへと向き直ってしまった。
(……くぅぅっ! またこれだわ!)
ルナマリアは内心でギリッと歯を噛み締め、持ち上げていた手を下ろした。
思惑通りに「ルナ」というあだ名を呼ばせることには成功し、あまつさえ『デスサイズ』という最新鋭のガンダムまで自分専用の機体としてポンと与えてくれた。
そこまでの破格の待遇を引き出しながら、いざという「肉体的な関係」や「男としての欲情」という一線には、キラは決して踏み込もうとしないのだ。
ラクスやミナといった大人たちには見せるであろう男の顔を、自分には絶対に向けてくれない。
その見えない壁が、打算で動いているはずのルナマリアの胸に、妙な歯痒さと苛立ちを募らせていた。
「ちぇっ。真面目なんだから……」
小さく唇を尖らせて不満をアピールするルナマリアに対し、キラは彼女の機嫌を直すように、スッと話題を切り替えた。
「それより、ルナ。デスサイズの調子はどう? 機体のレスポンスやOSのクセにはもう慣れたかな」
仕事の話を振られ、ルナマリアの表情は瞬時にエースパイロット候補生としての鋭いそれへと切り替わった。
「バッチシよ! ハイパージャマーのステルス機能と連動した接近タイミングも完全に掴んだわ。もう、いつでもどこでも、邪魔な敵を死角からスパッと! 切って切って、切りまくってあげられるんだから!」
彼女は右腕を大鎌に見立てて、空中で鋭く振り抜くジェスチャーをして得意げに笑った。
インファイトの申し子である彼女にとって、デスサイズという機体はまさに水を得た魚であった。
しかし、その直後に彼女は少しだけ眉を下げ、腕を組んで思案顔になった。
「……でも、やっぱり『空を飛べない』っていうのは少しネックなのよねぇ。大ジャンプで滞空することはできるけど、自由落下しながらの戦闘じゃ限界があるし」
キラがモルゲンレーテで開発した5機のガンダムのうち、『ウイングガンダム』以外の4機が単体での大気圏内飛行能力を持たないのは、彼の『虚憶』にある原点の設計思想に忠実であるがゆえだ。
もちろん、地上戦特化というわけではなく、各部のスラスターとバーニアの出力調整により、改修なしで無重力の宇宙空間でも問題なく運用できる機体には仕上がっている。
しかし、大西洋連邦のウィンダムやAEUの次期主力機、果ては自軍のアシュセイヴァーに至るまで、昨今のモビルスーツ開発トレンドは完全に「単体での大気圏内飛行能力付与」へとシフトしている。
その中で、地上からジャンプして、はるか上空を飛び回る敵を大鎌で切り裂くというのは、いかにルナマリアの腕が良くても、戦術的にかなり骨の折れる、不利を強いられる状況であった。
「……あぁ、その問題なら大丈夫だよ。ちょうどウイングガンダムの大気圏内飛行の運用データと空力計算の目処が立ったところだから……君に、新しい『プレゼント』があるんだ」
「プレゼント?」
目を丸くするルナマリアの前で、キラは手元のキーボードを叩き、モニターに映っていた大豊娘々の姿を消し去った。
代わりに表示されたのは、漆黒の死神――ガンダムデスサイズの背部に、新たな追加装備がドッキングされている三面図であった。
「これは……翼?」
ルナマリアが驚きの声を上げるのも無理はない。
デスサイズの背中には、ウイングガンダムが背負っているものと非常によく似た意匠を持つ、鋭角で巨大な『一対の翼』が堂々と広げられていたのだ。
「デスサイズ専用に開発した、高機動飛行オプション……通称『ルーセット』だよ。これを装備すれば、デスサイズは推力と空力特性を大幅に向上させ、ウイングガンダムと遜色ないレベルの空中戦闘能力と長距離巡航能力を発揮できるようになる。もちろん、ハイパージャマーとの併用も問題ないようにステルスコーティングも施してある」
キラは当然のことのように、平然とそう説明した。
「……ホント、至れり尽くせりなのね。キラさんって」
ルナマリアは、モニターに映る完成予想図と、目の前で微笑むキラの顔を交互に見比べながら、ぽつりと呟いた。
彼女は先日、オーブの三人娘たちから、更衣室でこんなアドバイスを受けていたのだ。
『キラ准将はね、自分が作った機体に乗るパイロットの命を誰よりも大切に思ってるの。だから、機体に不満点や「こうしたい」って要望があったら、遠慮せずに直接言ってみるといいわ。あの人、徹夜してでも絶対に解決策を作ってくれるから』と。
今回、それを半信半疑で、あくまで軽い愚痴のつもりで実行してみた。
その結果がこれだ。愚痴をこぼした次の瞬間には、彼女の不満を完全に解消するばかりか、機体のポテンシャルを次元の違うレベルへと引き上げる専用のオプション装備が、ポンッと目の前に提示されたのである。
(……ホントに、何から何まで規格外すぎるわ)
呆気にとられると同時に、ルナマリアの胸の奥底に、得体の知れない感情が急速に膨れ上がっていくのを感じた。
打算と計算で近づいたはずの自分。
それを見透かしているであろうにも関わらず、彼は自分を「ただの利用価値のある駒」として蔑ろに扱うのではなく、一人のパイロットとして、そして守るべき人間として、これほどまでに過保護なほどの手間と技術を注ぎ込んでくれている。
『プレゼントがあるよ』
その何気ない一言と、真っ直ぐに向けられた優しい眼差し。
打算で塗り固められたはずのルナマリアの心臓が、自分でも驚くほど大きく、ドクンと跳ねた。
胸の奥に、火傷しそうなほど猛烈な甘い痺れが広がり、それが全身の血流に乗って駆け巡る。
そして、今まで経験したことのないような、下腹部が熱を帯びて重く疼く感覚。
(……やばい。私、本気で……この人のこと……)
最初は単なる「生存戦略のための極上の玉の輿」でしかなかったはずの標的。
しかし、その計り知れない深さと底無しの優しさに触れるたび、ルナマリア・ホークという少女の打算の殻は音を立てて崩れ去り、彼女自身も気づかぬうちに、キラ・ヤマトという特異点の抗いようのない引力圏の最深部へと堕ち始めていたのであった。
「……そ、そういえば! メイリンの調子はどうなんです? あの子、ちゃんとやってます?」
ルナマリアは、突如として己の胸の奥底から湧き上がり、全身を駆け巡った熱病のような甘い痺れと、下腹部の奥深くでじんわりと広がる名状しがたい重い疼きを誤魔化すように、努めて明るい声色を取り繕いながら全く別の話題を振った。
少しでも油断すれば、顔が真っ赤に茹で上がり、声が上ずってしまいそうだった。
今の自分は、極上の玉の輿を狙う打算的な女ではなく、ただ一人の男の優しさに骨抜きにされかけている、ただの初心な少女になり下がっている。
その事実を認めることが、無性に悔しく、そして恥ずかしかった。
キラはルナマリアのわずかな動揺に気づいたのか気づいていないのか、先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたまま、ホログラムモニターから視線を外して答えた。
「うん。なんというか……水を得た魚というか、『FREEDOM』という言葉の通り、文字通り我が世の春を謳歌しているよ。オーブの情報戦略局のサイバーセキュリティ部門は、彼女の持つ天才的かつ規格外のハッキング能力と情報処理の才能を、何の制限も倫理的足枷もなく、120%肯定してフルに活かせる最高の環境だからね。毎日嬉々としてキーボードを叩いてるみたいだよ」
「あぁ……。あの子、調子に乗ってまた特大のヘマとか、やらかしてないでしょうね」
キラの報告を聞き、ルナマリアは姉として、そして運命共同体としての深い溜息を吐きながら、眉間にシワを寄せた。
メイリン・ホークという少女の情報戦における才能は、間違いなくコズミック・イラにおいてトップクラス――いや、突然変異的な次元にある。
だが、その才能の反面、倫理観や事の重大性に対する危機感が致命的に欠如しており、自分の好奇心や「やってみたい」という衝動だけで、国家機密のファイアウォールすら平気で突破してしまうという危うさを抱えていた。
ルナマリアの心配は杞憂ではない。
そもそも、自分がザフトのエリート軍人候補生としての輝かしい未来を全てパーにされ、祖国から逃げるようにしてこの遠い異国であるオーブに身を寄せるハメになったのも、全てはメイリンの「特大のやらかし」が原因なのだ。
(もし、またあの子が何か致命的なやらかし――例えば、オーブの国防システムに穴を開けたり、他国の極秘回線に痕跡を残すようなヘマでもして、この国に居られなくなるような事態になったら……)
ルナマリアの瞳に、スッと冷たい光が宿った。
いくら血を分けた愛しい妹であろうとも。
もし自分の生存圏を脅かし、このオーブという最後の楽園を失うような真似をしたならば、その時は自分が責任を持って、妹の首根っこを掴み、その小さな頭を銃で撃ち抜いて、そのまま自分も死ぬしかない。
冗談でもなんでもなく、ルナマリアは本気でそう思っていた。
彼女は決して、キラの優しさに完全に依存して思考を停止しているわけではない。
今の自分の立場が、依然として薄氷の上を歩くような「崖っぷち」の亡命者であるという自覚を、嫌というほど持っているのだ。
目の前で優しく微笑んでくれるこの男は、自分たちに救いの手を差し伸べ、ガンダムまで与えてくれた。
だが、彼は自分よりたった1つ上の、まだ16歳という年齢でありながら、世界を動かし、一国の軍隊を束ねる『最高軍事顧問』であり『准将』なのだ。
国家の安全保障の根幹に触れるような致命的なミスを犯せば、いかに彼が優しかろうと、冷徹に大局を見極め、自分たちへの庇護を解き、「損切り」という決断を下すだけの冷酷さは間違いなく持ち合わせているはずだ。
そうでなければ、アズラエルやミナといった怪物たちと渡り合い、この狂った世界で君臨し続けることなど不可能なのだから。
「……だから、アタシがしっかりしなきゃいけないのに。あの子、自分の立場をもうちょっと理解して貰わないと……」
ルナマリアが不安そうに視線を落とし、小さく唇を噛んだその時。
不意に、彼女の赤い髪に、キラの手が優しく伸びてきた。
「大丈夫だよ、ルナ」
頭を撫でるという子供扱いするような仕草ではない。
彼女の不安を溶かすように、そっと髪をすくうような、ひどく自然で、労りに満ちた手つきだった。
「メイリンの周りは、オーブ軍のその道のプロの人たち……というか、ロンド・ミナ・サハク様が息をかけている、サハク家直属の暗部の諜報員たちがガッチリと固めているんだ。彼女の才能を最大限に活かしつつ、暴走した時のフェイルセーフはちゃんと敷かれてる。だから、取り返しのつかないヘマなんて起こりようはないよ」
キラの言葉は、ただの慰めではなく、計算され尽くした絶対的な事実としての響きを持っていた。
そして、彼はルナマリアの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、この世の何よりも重く、それでいてあまりにも軽やかに、決定的な言葉を口にした。
「……それに。もし万が一、何かどうしようもない事態が起きたとしても。メイリンも、ルナも……僕が、絶対に守ってあげるから」
「…………ッ!!」
なんの衒いもない。
息をするように自然に、まるで『明日の天気は晴れだよ』とでも言うかのようにサラリと口にされたその言葉。
(なんなの、この人……! なんなのよぉ……!!)
振り払おうと必死に堪えていたルナマリアの心と下半身の疼きが、その一言を導火線にして、制御不能な業火となって燃え上がった。
『国家の不利益になれば切り捨てられる』という彼女の冷たい打算を、キラは「僕が守る」というたった四文字の圧倒的な暴力でねじ伏せてみせたのだ。
自分がどれほどの罪を犯そうと、妹がどれほどのミスをしようと、この男は自分たちを絶対に見捨てない。
世界を敵に回してでも、その翼の下で庇護してくれる。
その言葉の裏にある「本気の覚悟」と「それを成し遂げるだけの実力」が痛いほどに伝わってきた。
(ズルい。ズルすぎるわよ、このひと……!)
ルナマリアは膝がガクガクと震えそうになるのを必死に堪え、股の奥で熱く脈打つどうしようもない疼きを太ももを擦り合わせて誤魔化した。
打算で落としてやるつもりだった、玉の輿に乗るための、ただの足場のつもりだった。
それなのに、いつの間にか自分の方が完全に逃げ場を失い、彼の掌の上で、彼なしでは生きていけないほどに心を骨抜きにされている。
「……そ、そう。なら、安心ですね」
顔を真っ赤にして、声が上擦るのを抑えるのが精一杯だった。
(こんなの、もう好きにならない方が無理じゃない……! 打算とかハニートラップとか、そんなのもうどうでもいいわよ!!)
ルナマリアの胸中で、15歳の少女の生々しい情念が爆発していた。
こんなにも自分を大切にしてくれるなら。こんなにも圧倒的な安心感を与えてくれるなら。
(これだけ乳カーテンにして、へそまで出してアピールしてる『据え膳』なんだから……もう、四の五の言わずにさっさと私を貰ってよ、バカッ!!)
口に出してしまえばどれほど楽だろうか。
言葉にならない熱い吐息を漏らしながら、ルナマリアは潤んだ瞳で、ただじっと目の前の『世界で一番ズルくて、優しくて、残酷な男』を見つめ返すことしかできなかった。
彼女の生存戦略は世界のキングメーカーの無自覚な、しかし心からの想いに触れることで、一人の女としての完全に後戻りできない底なし沼への第一歩を踏み出したのであった。
「よし、今日の仕事終わり。デートしよっか、ルナ」
「はうぇ……ッ!? で、デート!?」
胸の奥で荒れ狂う情動と、下腹部を焼くような疼きを持て余し、顔を真っ赤にして悶々と思考の渦に沈みかけていたルナマリア。
そんな彼女の耳に、デスクの端末をパタンと閉じたキラから、まるでお昼ご飯のメニューでも提案するかのような、あまりにもあっけらかんとした言葉が投げかけられた。
完全に不意を突かれたルナマリアは、エースパイロット候補生らしからぬ、文字通り素っ頓狂で間の抜けた悲鳴のような声を上げて聞き返してしまった。
「で、ででで、デート!? デートって、あの、男の人と女の人が、一緒に街を歩いたり、ご飯食べたり、その……い、色々する、あのデートですか!?」
顔を真っ赤にしてパニックを起こすルナマリアの前で、キラは「大豊娘々」のデータが表示されていた端末の電源を容赦なく落とし、キラは椅子から立ち上がり、軽く背伸びをしながら、困ったように、しかしどこか悪戯っぽく微笑んだ。
「うん。だって、今日はもうなんだか、これ以上仕事する気分になれないからさ。頭もパンクしそうだし。だから気分転換に外の空気を吸いたいんだけど……せっかくだから、ルナとデートしたいなと思ったんだ。……ダメかな?」
ダメなわけがない。
むしろ、ルナマリアがオーブにやって来てからずっと、手練手管を尽くしてどうにか漕ぎ着けようと画策していた悲願そのものである。
しかし、いざこうして相手の口から何の濁りもない直球で誘われてしまうと、計算高いはずのルナマリアの思考回路は完全にショートし、あらぬ方向へと暴走し始めていた。
(で、デート……? キラさんと、二人きりで? ってことは、このままどこかでご飯食べて、夜景とか見て、良いムードになって……)
彼女の脳裏に、数多の恋愛ドラマで学習した「大人の男女のパーフェクト・デートプラン」が凄まじい速度で再生されていく。
そして、その思考の終着点は、当然のように「その日の終わり」へと到達した。
(待って、私。今日の下着……ちゃんと勝負下着だったわよね!?)
彼女の意識は、国防でもガンダムでもなく、今自分が身につけているアンダーウェアの色彩とデザインへと完全にフェイントをかけてスライドした。
朝、鏡の前で「もしかしたら、今日こそは……」と淡い期待あるいは打算を抱きながら選んだ、少し大人びた黒レースのセットアップ。上下のバランスは完璧だし、過剰に派手すぎず、かといって地味でもない。
この『乳カーテン』状態のTシャツの下に隠された最終兵器としては、これ以上ない布陣であると彼女は己の記憶を高速で確認し、安堵の息を吐いた。
(よし、クリア。……いや、そういう問題じゃないわよ!!)
心の中で自分にツッコミを入れつつも、彼女の心臓の鼓動は早鐘のように激しく鳴り続けている。
無理もない。
たった数分前、この男は自分の頭を優しく撫で、その瞳を真っ直ぐに見据えて「メイリンもルナも、僕が絶対に守ってあげるから」という、事実上のプロポーズとも受け取れる、少なくともルナマリアにはそう聞こえた殺し文句を放ったばかりなのだ。
自分の全てを肯定し、絶対的な庇護を約束してくれた直後に、仕事の放り出しとデートの誘い。
こんなの、どう考えても「そういうこと」を期待してしまっても仕方がない展開ではないか。
いや、むしろ期待しない方が失礼というものだ。
「……別に、ダメじゃないですけど……」
ルナマリアは、Tシャツの裾をギュッと握りしめ、上目遣いでキラを見つめ返した。
その声は、普段の快活な彼女からは想像もつかないほど細く、甘く、そして僅かに震えていた。
「ただ……キラさんってば、本当にズルい人ですね。そんな風に言われたら、私が断れるわけないじゃないですか」
計算高い玉の輿狙いの女。そんな初期設定の仮面は、もう彼女の顔からは完全に剥がれ落ちていた。
そこにあるのは、世界を統べる特異点の深淵に触れ、ただ一人の男に全てを預けようと覚悟を決めた、一人の恋する少女の顔であった。
(もし、このデートの終わりが……静かなホテルのベッドの上で、私にとっての『初めて』をこの人に捧げて散らすことになったとしても……)
胸の奥で、確かな決意の炎が灯る。
打算ではなく、純粋な熱情として。ルナマリア・ホークは、その甘い妄想と退路を断つような覚悟を抱いたまま、小さく頷き、キラの差し出した手を、自らの震える手でしっかりと握り返した。
◇◇◇
しかし、ルナマリアが脳内で完璧に組み上げ、微かな震えと共に覚悟を固めていた『大人のアバンチュール・デートプラン』は、開始からわずか数分で、見事に――そして文字通り物理的に、粉砕されることとなった。
「せっかくだし、先に軽く汗をかいてから行こっか」
キラのその一言を聞いた瞬間、ルナマリアの心臓は跳ね上がり、顔は瞬時に沸騰したように赤く染まった。
(さ、先に汗をかくって……えっ、嘘でしょ!? いきなり!?)
彼女の思考回路は完全に沸点を超え、あらゆるロマンチックな段階をすっ飛ばして一気に終着点へと到達した。
まさか初手からホテルへ直行なのか、あるいはどこか人気のない空き部屋で、そのまま強引に組み伏せられて、自分は今日ここで『オンナ』にされるのか。
温厚で優しげなあのキラ・ヤマトが、いざとなればこれほどまでに手順を省き、獲物を逃がさない容赦のないゴリゴリの肉食系男子であったという事実に、彼女は驚愕しながらも、強烈な期待と背徳感に胸をパンパンに膨らませていた。
鼓動がうるさいほどに鳴り響き、足元はフワフワと浮き上がっているようだった。
だが、そんな甘く火照ったルナマリアが連行された先は、ムードのある高級ホテルでも、密室のプライベートルームでもなかった。
到着したのは、オノゴロ島に広がるオーブ軍の広大な野外演習場――彼女自身が毎日デスサイズに搭乗し、文字通りその大地を踏みしめている場所の片隅にひっそりと建つ、殺風景な体育館のような施設であった。
ガラリと重い引き戸を開けたその中では、むせ返るような汗と熱気が充満していた。
視線の先では、白い道着に身を包んだ、ルナマリアにとっては少しだけ生まれが遅い、同年代の年下であるシン・アスカが、鬼気迫る表情で立ち向かっては、武術の達人であるバリー・ホーによって赤子の手をひねるようにこてんぱんにのされ、何度も何度も床に叩きつけられている凄惨な道場であった。
「はい、ルナ。着替えてきて。サイズは合うと思うから」
ポンと手渡されたのは、柔軟剤の香りなど一切しない、いかにも実用性重視の分厚い真っ白な道着。
更衣室に押し込まれ、自慢の勝負下着の上に野暮ったい道着を羽織らされたルナマリアは、完全に「騙された!!」という恨みがましい顔になるのも無理はなかった。
(な、なにが「軽く汗をかく」よ!! 意味が全然違うじゃないのよ!!)
密室で男女が絡み合い、甘い吐息と共に汗を流すという背徳的なアバンチュールを夢見ていた15歳の少女の純情は、汗と埃とむさい男たちの熱気にまみれた道場のド真ん中で、正面から無惨に粉砕されたのだ。
勝負下着の無駄遣い、計算し尽くした『乳カーテン』の努力も水の泡。
怒りと羞恥心、そして盛大な勘違いをしていた自分への情けなさから、ルナマリアは道場に戻るなり、恨み節の百や二百、言ってやろうとキラの前へとツカツカと歩み寄った。
「ちょっと、キラさん! どういうつもり……!」
だが、文句を言いかけたルナマリアの言葉は、喉の奥でピタリと止まった。
そこには、先ほどまでの穏やかで人の良さそうな青年の姿はなかった。
キラは静かに、しかし極めて鋭く、キリッとした冷徹な表情で彼女を見据えていた。
右足を引き、体を斜めにする半身の姿勢。
左手の甲をルナマリアに向けるようにスッと前に出し、彼女の視界を僅かに遮って出方を隠す。
そして右手は腰の高さで地と水平に保ち、ルナマリアがどこから、どのような角度で攻撃を仕掛けてきても、瞬時に受け止め、あるいは弾き返すことができる完璧な待受けのスタイルであった。
その構えを見た瞬間、ルナマリアの体に染み付いた軍人候補生としての闘争本能が、強制的に引きずり出された。
プラントの士官アカデミーにおいて、彼女の白兵戦成績は常にトップクラスであった。
それは決して、「ルナマリアのようなグラマラスな美少女に組み伏せられたい」という思春期の男子学生特有の不純な打算によるものではない。
もしそんな甘い考えで手加減をするような馬鹿がいれば、すぐさま鬼教官によって物理的に叩き直されるのがザフトのアカデミーという場所だ。
ルナマリアは純粋に、自らの反射神経と身体のバネ、そして格闘のセンスにおいて、同世代の屈強な男の学生たちを実力で圧倒してきた本物の猛者なのである。
だからこそ、接近戦特化のピーキーな機体であるデスサイズを任されているのだ。
(……この構え。隙がない。どこから打ち込んでも、必ず合わされる……!)
ルナマリアは息を呑み、重心を落としてジリジリと間合いを測った。
こちらから仕掛ければ、その力を利用されてカウンターの餌食になる。
待ちのスタイルを崩さず、まるで水面のように静まり返ったキラの構えに、彼女はかつてないほどの「やりにくさ」とプレッシャーを感じていた。
だが、格闘の基本は先手必勝。
意を決してルナマリアが踏み込み、鋭い右のストレートを放とうと筋肉を収縮させた、まさにその刹那――。
――ふっ、と。
彼女の意識の「間隙」を縫うように、キラの姿が視界からブレた。
「え……?」
気づいた時には、彼自身の放つ気配すら感じさせない縮地によって、キラの顔が、ルナマリアの目の前、文字通り鼻先が触れ合うほどのゼロ距離にまで迫っていた。
視界を制圧された直後、放とうとしていた右腕をいとも容易く手首から絡め取られ、力が完全に抜けるような絶妙な角度で関節を極められる。
抵抗する間も、受け身を取る判断を下す暇すらもなかった。
ルナマリアの足首を、キラの足が軽く、しかし正確無比に払い落とす。
視界が急速に反転し、彼女の体は一本背負いとも投げ技ともつかない、あまりにも自然で鮮やかな流れるような動作によって、道場の硬い畳の上へと見事に、そして綺麗に仰向けに組み伏せられていた。
「あっ……!」
背中を打つ衝撃は、不思議と全くなかった。キラが腕を引いて、彼女の身体に衝撃が走らないよう完璧にコントロールしてくれていたからだ。
だが、その事実は逆に、彼我の絶対的な実力差を残酷なまでにルナマリアに突きつけていた。
仰向けに倒れたルナマリアの上に、キラが馬乗りになるような形で膝をつき、彼女の腕を軽くホールドしている。
近すぎる距離。
道着の隙間から覗くキラの身体つきは、隣で鬼神のように立ち回っているバリー・ホーのような、いかにも武道家といった隆起した大胸筋や太い腕ではない。
服を着ていれば線の細い、知的な少年にしか見えない。
しかし、今彼女の腕を押さえ込んでいるその腕や、道着の胸元から覗く皮膚の下には、無駄な脂肪が一切削ぎ落とされ、過酷なGと死闘に耐え抜くために極限まで鍛え上げられた、高密度でぎっしりと肉の詰まった『鋼の筋肉』が隠されていることが、肌越しにハッキリと伝わってきた。
(……なんなのよ、この人)
ルナマリアは、身動き一つとれないまま、自分を見下ろすキラの顔をただ呆然と見つめることしかできなかった。
つい先ほどまで、彼の優しさと甘い言葉に完全に心を骨抜きにされ、勝手に大人のアバンチュールを妄想して一人で舞い上がっていたというのに。
草食系で平和主義の優しい青年かと思えば、いざとなれば一国の軍隊を率いる『将軍』として、生身の武術や肉体の鍛錬すらも決して怠らず、自分のような白兵戦の猛者を赤子のように一瞬で制圧してしまう、圧倒的な『男』としての絶対的な武力。
知性、権力、底なしの優しさ、そして有無を言わせぬ暴力の極致。
(こんな……こんなに細くて優しそうなのに、いざとなれば誰よりも力強くて、絶対に敵わないなんてところを見せつけられたら……)
胸の奥の疼きは、勘違いによる恥ずかしさを完全に通り越し、絶対的な強者に対する根源的な「降伏」の悦びへと変わっていた。
この状況で、この男に完全に心をへし折られ、堕ちない女がいるのならば、むしろ連れてきて紹介して欲しいくらいだ。
ルナマリアは、畳の熱と、彼から伝わる体温を感じながら、自分がもう二度と、このキラ・ヤマトという男の引力圏から抜け出せないことを、この敗北の瞬間に完全に悟ったのである。
◇◇◇
「うへぇ、エゲツな。縮地から足払いで一本って、准将ガチじゃんアレ……」
少し離れた場所で、壁を背にして座り込んでいたシン・アスカは、額を伝う汗を拭うことすら忘れ、目の前で繰り広げられた一瞬の制圧劇に息を呑んでいた。
当事者であるルナマリアには、何が起きたのかすら理解できなかっただろう。
しかし、少し離れた第三者の視点から、しかも持ち前の卓越した空間認識能力を持つシンの目を通して見れば、キラの行なったその動作の『異常なまでの合理性と精密さ』がハッキリと見て取れた。
相手の殺気、あるいは踏み込みの予備動作が完全に形になるまで、水面のように待ちに徹する。
そして、ルナマリアの右肩の筋肉が収縮し、拳を突き出そうと重心が前に傾いたまさにその「0コンマ数秒の間隙」に、縮地の歩法で彼女の懐へと滑るように潜り込む。
突き出されようとしていた右腕の勢いを一切殺さず、逆に自分の引き手として利用し、相手の体勢を崩した上で、がら空きになった足首を的確に払う。
そして倒れ込む重力に従うまま、流れるような関節技からの寝技へと移行する、ガチガチの柔道のコンボ。
機神拳──。
モビルスーツのOSのように、状況に対して最適解のモーションを瞬時に叩き出すその戦法。
あれを初手、しかも一切の躊躇いなく顔面スレスレのゼロ距離でやられた日には、日々バリーに地獄のようなしごきを受け、着実に白兵戦能力が向上しているという強い実感を持っている今のシンでさえ、まともに反応できる自信は全くなかった。
(俺なら、あそこからどう動く? 腕を取られた瞬間に体ごと回転して蹴りを……いや、ダメだ。それすらも読まれて、そのまま腕をへし折られるか、首を絞め落とされる……)
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返すほどに、自分とキラとの間にある絶望的なまでの「実力の壁」を痛感させられる。
だからこそ、シンは自分の圧倒的なモビルスーツ操縦の才能に溺れ、鼻っ柱が天狗になるのを防ぐことができていた。
上には上がいる。それも、どうしようもないほどの怪物が、すぐ目の前で自分を導いてくれているのだから。
「相手が女であろうと容赦はしない。それが『武威』というものだ、シン」
シンの横で腕を組み、静かに闘気を見つめていたバリー・ホーの口からこぼれた呟きが、シンの心に重く、そして深く波紋のように広がっていった。
「戦場において、敵が男であるか、女であるか、あるいは子供であるかなど、撃ち出される弾丸やビームにとっては何の意味も持たん。戦う意志を持ち、牙を剥いた時点で、それは『等しく排除すべき脅威』でしかないのだ」
バリーの目は、ルナマリアを組み伏せたまま油断なく彼女の様子を伺っているキラへと向けられていた。
「もしあそこで、相手が女だから、あるいは年下だからと准将が手加減をしていれば、それはデスサイズという悪魔の機体を任された彼女の『覚悟』に対する、最大の侮辱となる。手心を加えられた瞬間に生じるわずかな淀み。実戦であれば、その淀みが己のみならず、味方全員の命を奪う致命的な隙となるのだ」
「……覚悟に対する、侮辱……」
シンは、己の両手を強く握りしめた。
彼の脳裏に、自分が守ると誓った少女――ステラ・ルーシェの顔が浮かぶ。
もし自分が戦場で、敵が女だから、可哀想だからと一瞬でも攻撃を躊躇えば、その間に自分は殺され、ステラを守るという誓いも、民の「笑顔の盾」になるという理想も、全てが灰に帰してしまう。
キラ・ヤマトは、それを誰よりも知っているのだ。
過去にどれほどの血を流し、どれほどの大切な命をその手からこぼれ落としてきたのか。
その悲痛な『虚憶』の蓄積があるからこそ、彼は訓練という場であっても一切の妥協を許さない。
相手が好意を寄せてくる愛らしい少女であろうと、冷徹な『鬼』として、戦いの現実を容赦なく肉体に叩き込む。
それこそが、彼なりの不器用で、そして最も誠実な「守るための優しさ」なのだと、シンは理解した。
「……准将は、本当にすごいです。俺、まだまだ全然届かないや」
シンが自嘲気味に、しかし清々しい声でそうこぼすと、バリーは力強く頷き、シンの背中をバンッと大きく叩いた。
「当たり前だ。あのお方は、我々が束になっても敵わん本物の武神だからな。だが、届かんからと言って歩みを止める理由にはならん。立て、シン! 准将のあの動き、少しでもお前の目に焼き付いたのなら、次は私がそれを貴様の肉体に叩き込んでやろう!」
「ッ、はい!! よろしくお願いします、師匠!!」
シンの瞳から迷いが消え、再び猛烈な闘志が燃え上がった。
一方、道場の中央。
自らの覚悟と妄想を見事にへし折られ、畳の上で呆然と仰向けになっていたルナマリアは、ゆっくりと自分の上に乗るキラを見上げていた。
「……ごめんね、ルナ。怪我、してない?」
先ほどの冷徹な武神の表情はスッと消え失せ、キラはいつもの温厚で心配そうな青年の顔に戻り、ルナマリアの腕を解放してスッと立ち上がると、彼女に手を差し伸べた。
「……痛くは、ないです。綺麗に投げられたから」
ルナマリアは顔を真っ赤にしたまま、差し出されたその大きな手を取って立ち上がった。
あのアバンチュールの妄想は完全に打ち砕かれたが、代わりに胸の奥に刻み込まれたのは、この男の底知れぬ強さと、手加減なしで自分と向き合ってくれたという事実。
(……本気でかかって、遊ばれた挙句に秒殺とか。女としてのプライド、ズタボロじゃないの……)
内心でそう毒づきながらも、ルナマリアの口元には、諦めと歓喜が入り混じったような、どうしようもない笑みが浮かんでいた。
彼に守られるだけのか弱い花ではない。デスサイズを駆る死神として、そして彼に認められる一人の戦士として。
この男の隣に立つためには、自分もまた、あの『武威』に食らいついていくしかないのだと。
「よし。じゃあ、身体も温まったことだし……もう少しだけバリーさんたちに混ざって基礎訓練をしたら、シャワーを浴びて、約束のデートに行こっか。美味しいもの、ごちそうするよ」
「……っ!! は、はいっ! 基礎訓練、手抜きなしでお願いしますっ!!」
打算も下心も、今はもうどうでもよかった。
ただ純粋に、この強くて優しい特異点に惹かれ、少しでもその背中に追いつきたいと願う。
そんな真っ直ぐな恋心と闘志を抱きながら、赤紫の髪の少女は、オーブの地下演習場で、愛すべき鬼教官に向かって力強く気合いの返事をしたのだった。
◇◇◇
結果から言えば――ルナマリア・ホークの計算高くも甘い妄想は、ある意味で最高の形で、そして彼女自身の想像を遥かに絶する激しさをもって現実のものとなった。
オノゴロ島の高級レストランで目も飛び出るようなフルコースのディナーをご馳走になった後、そのまま流れるように案内されたのは、最上階の豪奢なスイートルームであった。
そして彼女は、その夜のうちに甘く啼かされ、身も心も完全にキラ・ヤマトの「オンナ」にされたのである。
翌朝、オーブ軍基地の廊下を歩くルナマリアの歩みは、誰の目にも明らかにおかしかった。
下腹部の奥底にジンジンと居座り続ける重い鈍痛、そして腰から太ももにかけての強烈な気怠さ。
どうやっても股関節に力が入らず、内股気味でぎこちないペンギン歩きになってしまう。
そんな彼女の決定的な「変化」を、数多の修羅場を潜り抜けてきた部隊の先輩たち――オーブの三人娘であるアサギ、マユラ、ジュリの鋭い観察眼が見逃すはずもなかった。
幻想を抱く世の思春期男子や純情な男性陣には極めて残酷な真実であるが、女という生き物は、男が思い描いているほど清楚で可憐な生き物では決してない。
男性の前で見せる控えめで恥じらいのある態度は、あくまで自分を魅力的に見せ、あるいは身を守るための高度な処世術に過ぎない。
女性専用の更衣室や、女だけの閉鎖的なコミュニティーにおいては、そのコーティングは完全に剥がれ落ちる。
男たちがドン引きするような生々しくえげつない下ネタも日常茶飯事で飛び交うし、性に関する価値観や会話のハードルは、頭の中がピンク色に染まった思春期男子よりも遥かにガバガバで緩いのだ。
女子更衣室にルナマリアが足を踏み入れた瞬間、彼女の歩き方と、隠しきれない肌の艶、そして首筋にうっすらと残る赤い痕を見た三人娘は、一瞬にして事態を察知した。
「……ちょっと待って。ルナ、あんた……まさか」
最初に声を上げたのはジュリだった、その目は驚愕に見開かれている。
「は、はい……その……昨日、キラさんに……」
顔から火が出るほど赤くして俯く新参者のルナマリアの肯定に、更衣室内に爆弾が落ちたような騒ぎが巻き起こった。
彼女たちにとって、ルナマリアが物凄い速さでキラに抱かれたという事実は、軍の最高機密レベルの重大ニュースであった。
「嘘でしょ!? あんた、そんな簡単に行っちゃったの!?」
頭を抱えて叫んだのはマユラだ。
彼女がキラと初めて夜を共にしたのは、ブルーコスモスの大部隊がオーブに攻め込んできて、明日死ぬかもしれないという極限の絶望状況下でのことだった。このまま死んで後悔したくない、せめて一番好きな人に抱かれたいという悲壮な覚悟をもってキラに誘いをかけたのだ。
それなのに、この新参のミーハー少女は、デートからの流れというあまりにも平和的かつ超特急のスピードでゴールインしてしまったのだから、マユラの驚きは無理もなかった。
「信じらんない! 私だって欠かさずボディタッチして、色目使って、あわよくばって猛アタックし続けてるのに! なんでポッと出のルナが先にゴールしてんのよ!」
ジュリはキーキーと声を上げながら、嫉妬と理不尽さへの怒りを爆発させた。今までずっと自分たちを大切に扱いながらも、マユラ以外とは決定的な一線を越えようとしなかったキラ。
それなのに、打算的な玉の輿狙いで近づいた、しかも身の上が不憫だからという理由もあるルナマリアが先を越したのだ。
ジュリの視線は、ルナマリアのTシャツを内側から暴力的に押し上げている、その豊満な双丘へと突き刺さった。
「わかったわ! 結局男なんて胸なのよ! 准将も例外じゃなかったってわけね! この無駄にデカい乳のせいね!!」
「ひゃあっ!? ちょ、ジュリ先輩、揉まないで、今は胸も痛いんですからぁっ!」
理不尽な怒りに任せて背後からルナマリアに襲いかかり、その豊かな胸をわしづかみにして揉みくちゃにするジュリ。
更衣室は一気に痴話喧嘩と嬌声の渦に包まれた。
しかし、襲われているルナマリアからしても、ジュリの言い分には困惑しかなかった。
今まで、あからさまに色仕掛けをしても、乳カーテンを披露しても、全く乗ってくる気配がなく、何度も何度も袖にされ続けていたのはルナマリア自身なのだ。
それがいきなり「デートしよう」からの、文字通り怒涛の超特急ゴールベッドインを果たしたことは、当の本人にとっても未だに現実感がなく、信じられない事態だったのである。
「ち、違うんです! アタシだって訳が分かんないんです! いつもみたいに軽くあしらわれると思ってたら、いきなりホテルに連れ込まれて……っ!」
ルナマリアはジュリの手から逃れながら、涙目で昨夜の惨状(?)を語り始めた。
「最初はアタシも、オンナにして貰うんだって覚悟決めてたんですけど……キラさん、ベッドの上だと全然優しくなくて……っ! アタシ、途中で本当に頭が真っ白になって、もう無理、壊れちゃうからヤメてって、泣いて喚いて懇願したのに……あの人、全然やめてくれなかったんですよぉ……っ!」
道場で見せたあの圧倒的な身体能力とスタミナ。
それがベッドの上でも一切の容赦なく発揮され、最後はルナマリアの意識が飛ぶまで徹底的に貪り尽くされたのである。
思い出すだけで腰の奥が熱くなり、ルナマリアはその場にへたり込んで顔を覆った。
その生々しい証言を聞いて、マユラは深く、そして実感を込めて何度も頷いた。
「あー……わかる。痛いほど分かるわ、ルナ」
マユラは腕を組み、遠い目をして達観したようにつぶやいた。
「キラ君って、普段はあんなに温厚で、争い事が嫌いな草食系男子みたいな顔してるじゃない? でもね、いざそっちのスイッチが入っておっぱじめると、本当に手加減ってものを知らない、めちゃくちゃエグい肉食獣になるのよねぇ……。私も最初は死ぬかと思ったもん」
「マ、マジなの!? 准将がケダモノ!? ちょっとマユラ、もっと詳しく!!」
ジュリが目を輝かせてマユラに詰め寄り、女同士のえげつなくも露骨な夜の品評会がさらにヒートアップしていく。
ルナマリアも赤面しながら、マユラの意見に全力で首を縦に振っていた。
そんな阿鼻叫喚の赤裸々なガールズトークが繰り広げられる更衣室の、一番隅のロッカーの陰。
「あ、あわわわわ……っ」
そこには、両手で耳を完全に塞ぎ、顔から首の先まで茹でダコのように真っ赤に染め上げ、ガタガタと震えながら小さく縮こまっているアサギ・コードウェルの姿があった。
普段は三人娘のリーダーとして部隊の中核を担い、男顔負けの苛烈な操縦技術でオーブ軍のエースパイロットとして前線を切り裂くしっかり者の彼女。
キラと二人きりになると、未だに気恥ずかしさが先行して仕事以外のプライベートな会話すらまともにできない彼女は、当然ながら三人娘の中で唯一、未だに「純情」であった。
戦場では誰よりも勇猛果敢なアサギだが、こと恋愛や『そっち方面』の生々しい話題になると、途端に耐性がゼロになる。まさに純情すぎるクソ雑魚ナメクジ状態であった。
「き、キラ君とルナが……っ、ケダモノで、真っ白で……っ! ひゃあああっ、私にはまだ早すぎるぅぅっ!」
耳を塞いでも容赦なく飛び込んでくる卑猥な単語の連続に、アサギは一人で限界を迎え、ロッカーの扉に頭を擦り付けながらショート寸前の脳髄を抱えて悶絶するのであった。
「ふふっ。キラは本当に優しいから……遠い異国の地で一人、崖っぷちで足掻いている不憫なルナマリアのことを、どうしても放っておけなかったのでしょうね。昨夜、何かキラに『そう』させるようなきっかけが、あなたの中にあったのではないかしら?」
嬌声と痴話喧嘩、そして赤裸々なガールズトークでカオスと化していたオーブ軍女子更衣室。その喧騒をスッと切り裂くように、凛とした、それでいて深い慈愛を帯びた声が響き渡った。
振り返ったルナマリアたちの目に映ったのは、純黒の制服に身を包み、気品ある微笑みを浮かべて立つ美しい青髪の少女――キラ・ヤマトの正式な婚約者であり、新興国家ファウンデーションの姫君たるイングリット・トラドールであった。
「あわわわわわっ! い、イングリット様っ! こ、これは、その……違うんです! 違うっていうか、あのっ、決して横取りしようとか、そういうつもりじゃなくて……!」
完全な修羅場、あるいは本妻からの恐ろしい制裁の始まりか。
まさか、婚約者という絶対的な立場の彼女がいるにも関わらず、新参者の自分が打算からキラに手を出して(結果的に出されて)、お手付きになってしまったという事実。ルナマリアは血の気が引き、頭を下げて必死に弁明の言葉を紡ごうとした。
しかし、彼女の予想に反して、イングリットの表情に嫉妬や怒りの色は微塵もなかった。
ただ、かつての自分とルナマリアを重ね合わせるように、くすくすと上品で優雅な笑い声を漏らしただけだった。
「謝る必要なんてないわ、ルナマリア。だって……最初は、私もあなたと全く同じだったもの」
「え……?」
イングリットの紡いだ予想外の言葉に、ルナマリアだけでなく、マユラもジュリも、そしてロッカーの陰で縮こまっていたアサギまでもが、一斉にポカンと口を開けた。
「私は元々、ファウンデーションから『キラ・ヤマトを精神的に篭絡し、手駒にするための道具』としてオーブに送り込まれた刺客だったの」
「なっ……!?」
「そ、それってマジ……?」
公的な報道では「平和と盟約の証である政略結婚」としか発表されておらず、軍の最深部にいる彼女たちでさえ一切知らされていなかった超特級の国家機密。
それを事も無げに語るイングリットに、その場にいる全員が「マジか」と息を呑み、言葉を失った。
「自分自身の意志なんて許されない。国と母の命令に従い、心を殺して、ただの愛人という役目を果たすためだけに惨めに彼に抱かれようとした。……でも、キラはそんな私を抱きしめて、『君のその心は綺麗だ』と……嘘偽りのない言葉で私を肯定し、ただの一人の少女として、私を愛してくれたの」
胸に両手を当て、キラから与えられた無償の愛という宝物を、今も反芻し、大切に確かめるように語るイングリットの瞳には、熱を帯びた涙が微かに滲んでいた。
「彼はね、打算や敵意、あるいは立場といった『表面的な理由』で人を見捨てることは絶対にしない。その奥にある、必死に生きようとする悲鳴や、誰かを守りたいという真実の痛みにこそ、敏感に反応する人なの。……ルナマリア。あなたは昨日、キラの前でどんな痛みを吐露したの?」
真っ直ぐに見つめてくるイングリットの蒼い瞳に射すくめられ、ルナマリアは昨日の出来事を思い返した。
妹のメイリンのこと、崖っぷちの自分の立場のこと。
そして――。
「……アタシ、もし妹がまた特大のポカをやらかして、オーブという最後の居場所を追われるような事態になったら……その時はアタシが責任を取って、妹の首根っこを掴んで頭を撃ち抜いて、そのまま自分も死んでやるって……本気で、そう思ってて……ポロッと、心の中で思ってたような物騒な感情を顔に出しちゃったのかも……」
ルナマリアがポツリと吐露したその重く、悲痛な心境を聞いて、イングリットは悲しげに、しかし深く納得したように頷いた。
「ええ、正しくそれよ。キラは、あなたの中に渦巻いていたその『孤立無援の絶望』と『自己犠牲の覚悟』を、瞬時に正確に読み取ったのよ」
「アタシの……絶望?」
「愛されることに、生まれの良さや、特別な資格、ましてや『利用価値』なんてものは必要ないの。……必要だから、能力があるから愛するんじゃないわ。ただ、愛しているから、必要なのだと。それがキラ・ヤマトという人の、絶対的なスタンスよ」
イングリットはゆっくりと歩み寄り、未だに戸惑うルナマリアの手を優しく握りしめた。
「だからキラは、あなたにも教えたかったのね。あなたがこのオーブに、彼の傍に、何の後ろ盾もなく『ただのルナマリア』として居ていいのだと。妹の罪を背負って死ぬ必要なんてないのだと……それをあなたの身も心も使って、脳髄にまで深く刻み付けるように教え込むために……きっと、手加減なしの激しい夜になったのだと思うわ」
イングリットの言葉は、自らの身体でキラの狂おしいほどの愛と執念を受け止めてきた婚約者だからこそ持つ、絶対的な説得力に満ちていた。
昨日、自分が感じたあの圧倒的な恐怖と歓喜の入り混じった夜。
それは、自分を単なる「利用価値のある女」として抱いたのではなく、自分の心に巣食う孤独と恐怖を物理的に粉砕し、「もう安心しろ、お前は俺の庇護下にある」という絶対的な所有印を刻み込むための、彼なりの不器用で、激しすぎる『救済』の儀式だったのだ。
「キラさん……」
ルナマリアの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
打算で彼に近づいた自分がどれほど浅はかだったか。
そして、彼がどれほどの深さで自分を受け入れてくれていたのかを知り、もう完全に心が降伏していた。
一方、その感動的な、そして極めて重い真実を聞かされていた三人娘たちは、ただ黙って涙を流すわけではなかった。
彼女たちの実戦経験豊富な脳内では、イングリットの証言とルナマリアの現状を統合し、すさまじい速度である一つの結論、あるいはキラ・ヤマトに対する『全く新しい評価軸』が構築されつつあったのだ。
「……ちょっと待って。つまり、話を総合するとよ?」
マユラが、信じられないものを見るような顔で口を開いた。
「ファウンデーションの刺客として送られてきて、心を殺して泣いていたイングリット様」
「うん」と頷くジュリ。
「妹のせいで帰る国を失って、いつでも無理心中する覚悟で強がってたルナマリア」
「……うんうん」と、さらに頷くジュリと、恐る恐る顔を出したアサギ。
「……もしかして、うちの最高軍事顧問殿って……」
マユラはゴクリと唾を飲み込み、更衣室の空気を震わせるような、しかし誰もが納得せざるを得ない絶対的な『仮説』を口にした。
「『不憫で、可哀想で、お労しい身の上の女の子』に、致命的にチョロいんじゃないの!?」
その瞬間、更衣室に数秒の静寂が落ち、直後に「ああっ!!」という納得の叫びが爆発した。
「た、確かに!! アタシたちの時だってそうよ! アストレイのOS開発で徹夜続きだった頃もそうだし、明日死ぬかもしれないって絶望してたアタシたちを見て、キラ君、完全に鬼神モードになって庇護してくれたじゃない!」
マユラが興奮気味に叫ぶ。
「そうよ! 毎日アタシがボディタッチして色目使っても全然なびかないのに……なんだ、元気いっぱいで明るく猛アタックしてるのが逆効果だったってわけ!? じゃあもっと、薄幸で不憫なオーラを出せばよかったの!?」
ジュリが頭を抱えて地団駄を踏む。
「そ、そんな……。じゃあ、あたしがいつまでもキラに奥手で、距離を取っちゃってるのも……逆に『自立してて可哀想じゃない』って思われてるから……? 嫌だ、私だって守られたいのにぃ……っ!」
アサギまでもが、自分のクソ雑魚ナメクジな純情さが仇となっていた可能性に気づき、半泣きになって床に突っ伏した。
「もうっ! あなたたち、何言ってるのよ! キラはそんな単純な……っ!」
イングリットが顔を赤くして反論しようとしたが、その声はもはや「不憫可愛いアピールこそがキラ・ヤマト攻略の最適解である」という真理に辿り着き、新たな作戦会議をヒートアップさせる三人娘の嬌声にかき消されてしまっていた。
世界を裏で操る白銀の英雄、冷徹なるキングメーカー、キラ・ヤマト。
しかし、彼の最も根源的な弱点――「泣いている少女、絶望している少女を絶対に放っておけない」という究極のヒーロー気質あるいは重度の救済癖は、ついにオーブの女性陣コミュニティにおいて、完全に言語化され、共有されてしまったのである。