やめてよね、僕が准将みたいに出来るわけないじゃないか 作:星乃 望夢
先行するアークエンジェルの航跡をトレースし続けるローラシア級MS搭載艦『ガモフ』。
そのブリーフィング・ルームでは、赤服を纏った三人の若きエリートパイロットたちが、戦術モニターを囲いながら議論を交わしていた。
「このまま指を咥えて見ているつもりか!? 連合の新型艦がアルテミスに入る前に、俺たちの手で確実に仕留めるべきだ!」
銀髪を揺らし、血気盛んに机を叩いたのはイザーク・ジュールだった。彼の双眸には、先の戦闘で完全な勝利を収められなかったことへの強い焦燥感が燃え盛っていた。
「俺もイザークに賛成だぜ」
壁に寄りかかり、腕を組んでいたディアッカ・エルスマンが、浅黒い顔に獰猛な笑みを浮かべて同調する。
「アルテミスの『傘』の内側に逃げ込まれちまったら、物理的に手出し出来なくなる。隊長がヴェサリウスで本国へ戻った今、ガモフ単艦とはいえ、俺たちの奪った『G』を投入すればあの新造艦を落とすのは造作もないことだろ。ここでみすみす目の前の獲物を取り逃がして、後で隊長やアスランに笑われるのは御免だからな」
「しかし、イザーク、ディアッカ。それはあまりにも無謀です」
冷静に、しかし確固たる意志を持って慎重論を唱えたのは、緑色の髪の少年、ニコル・アマルフィだった。彼は手元のデータパッドで、先程の戦闘データを表示させる。
「現在の敵戦力は、数においてはこちらのジン部隊を凌駕、あるいは拮抗しています。ガンバレルを装備した最後の1機に加え、こちらの機動予測を完全に上回る動きを見せた『白いフレームの機体』。……そして何より、あの『紺色の新型ティエレン』です」
ニコルの言葉に、イザークとディアッカの顔からわずかに余裕が消えた。
「あのティエレンの性能は、完全に未知数です。隊長のシグーの左腕を溶断し、あのミゲル先輩の機体すら一瞬で戦闘不能に追い込んだ。そんな相手に対し、我々の機体のコンビネーションも十分に固まっていない今の状態で仕掛けるのは、戦術的にリスクが高すぎます。ここは現状のまま追尾と監視に徹するべきです」
「臆病風に吹かれたか、ニコル!」
イザークが激昂し、ニコルに詰め寄ろうとした、その時だった。
「よせイザーク。ニコルの言う通りだ。今は引くべきだな」
ブリーフィング・ルームの自動扉が開き、重苦しい声と共に一人の男が入ってきた。
「黄昏の魔弾」の二つ名を持つ、ザフトでも指折りのエースパイロットであり、彼ら赤服にとっても頼れる先輩であるミゲル・アイマンだ。
彼のその表情には、先の戦闘で舐めさせられた屈辱の苦渋が深く刻み込まれていた。
「ミゲル先輩……!」
イザークが驚いて声を上げる。
「俺だって、あの忌々しい新造艦と、あのデカブツ野郎に今すぐ仕掛けたいのは山々だ。煮え湯を飲まされたまま引っ込むなんて、俺のプライドが許さねぇ」
ミゲルは自嘲気味に笑いながら、イザークたちの間を通り抜けてメインモニターの前に立った。
「だがな、お前らはあの『紺色のティエレン』の真の恐ろしさを分かっちゃいない。俺はあの機体の真正面から、バルルスの最大出力を叩き込んだ。だが、直撃を受けたはずのあの機体は完全に無傷だったんだぞ」
「なっ……バルルス改の直撃を!? そんな馬鹿な、MSの物理装甲で耐えられるはずが……!」
ディアッカが信じられないというように目を見開く。
「俺の目がおかしくなったわけじゃねぇ。それに……問題は装甲だけじゃない」
ミゲルの顔に、得体の知れない恐怖を思い出すような陰りが落ちた。
「俺はあいつに、たったの二秒で……右腕、メインカメラ、左脚の関節を、ピンポイントで撃ち抜かれた。殺すんじゃなく、わざと戦闘能力だけを的確に奪い、俺を『生かしたまま』戦場から脱落させたんだ。……分かるか? あんな変態的な精密射撃ができる奴は、俺が知る限り、ザフトの全軍を探してもクルーゼ隊長くらいしかいねぇ」
ミゲルの言葉が、狭い室内に重く、冷たく響き渡る。
「歯痒いが、今の俺たちの手持ちの武装で、あの異常なコーティング装甲を確実にぶち抜ける保証はない。お前たちの『G』のビーム兵器が通用するかどうかも未知数だ。おまけに、パイロットはクルーゼ隊長クラスの化け物かもしれない。そんな相手に、連携も不十分な状態のお前たちが突っ込んで、確実にやれると言い切れるのか?」
普段なら、あるいはニコルが同じことを言っていたなら、イザークは「臆病者が!」と一蹴していただろう。
しかし、他でもない、彼らが尊敬し、その実力を誰よりも知るミゲル・アイマン自身が、自身の敗北と屈辱を噛み殺してまで発した重い忠告であった。
「…………チッ」
沈黙の後、イザークは忌々しげに舌打ちをし、振り上げた拳をゆっくりと下ろした。
「……分かりました。ミゲル先輩がそこまで言うのなら。今は獲物をアルテミスに預けてやることにしましょう。だが……次こそは必ず、あの艦もあのデカブツも八つ裂きにしてやります!」
「ああ。その時のための、今は雌伏の時だ」
ミゲルは頷き、イザークの肩をポンと叩いた。
こうして、ガモフ艦内での性急な追撃論は、ミゲルの実体験という強烈なストッパーによって一先ず取り下げられた。
彼らは復讐の牙を研ぎ澄ましながら、静かに、しかし確実に、アークエンジェルを死の淵へと追い詰めるための次なる好機を待ち続けるのであった。
◇◇◇
アークエンジェルのブリッジでは、緊張の糸がピリピリと張り詰めていた。
「ナスカ級の艦影が消失。……どうやら本当に帰還したようです」
その報告に、艦内には安堵の吐息が漏れた。ラウ・ル・クルーゼという、この艦を執拗に追い詰める死神が戦場を離れたという情報は、疲れ切ったクルーたちにとって、砂漠で得た一滴の冷水にも等しい僅かな朗報だった。
格納庫でグリーンフレームを組み立てながらそれを聞いていた僕は、ヴェサリウスが離脱したということは、残されたのはローラシア級の『ガモフ』だと当たりを付ける。
そして、あのガモフには、イザークとディアッカが座乗している。この頃の彼らは極めて血気盛んで、功を焦るあまり無茶な突撃を敢行することに定評のある二人だ。クルーゼという抑止力を失った今、彼らが自分たちの戦果を上げようと、無謀な追撃戦を仕掛けてくる可能性は、むしろ前よりも高いのではないかと思わずにはいられなかった。
「……油断はできない」
アルテミスへの航路へと艦首を向けるアークエンジェルに対し、背後を追尾するガモフの反応は、依然として一定の距離を保ちながらも、その鋭い牙を隠そうとはしていなかった。
いつ、どんなタイミングで、熱線の奔流が背後から襲いかかってくるか。僕のセンサーは、彼らの殺意を常に捉えていた。
アークエンジェルは、まるで薄氷の上を歩くような速度で、ユーラシア連邦が管理する宇宙要塞アルテミスの宙域へと進入していく。
アルテミスの象徴である『光波防御帯』が、遠くの宙域で淡い緑の揺らめきを見せ始めていた。あの光の中にさえ入れば、ひとまずの休息が手に入る。
しかし、その入り口に辿り着くまでのこの道のりこそが、何よりも遠く、何よりも危険な「死の回廊」であることを、僕は痛いほど理解していた。
「通信、入ります。アルテミス要塞司令部から、本艦に対する識別信号の照合と、停船命令です」
オペレーターのロメロ・パルの声が響く。
ここから先は、ザフトとの戦いとはまた別の、政治という名の泥沼が待ち構えている。
僕たちは、逃げ込んだ先のアルテミスで、果たして「味方」として迎え入れられるのか、それとも「獲物」として収容されるのか。
「頼むから、ここで何も起きないでくれ……」
願いも虚しく、僕たちの周囲には、相変わらず不穏な真空の静寂が満ちていた。
アルテミスの「光波防御帯」の揺らめく虹色の障壁を抜け、アークエンジェルが要塞のドックへとその白い巨体を滑り込ませた時、艦内には一種独特の緊張が走っていた。
アークエンジェルは極秘裏に建造されたG兵器の運用母艦である事と、予定外の出航によって未だ地球軍の艦船コードを持たない。
艦長と副長を務めるマリューさんとナタルさん、そしてパイロットのムウさんが大西洋連邦の軍籍を持っているからアルテミスへの入港許可が下りた。
けれどもそこから原作にある通りにアークエンジェルが拿捕される──という事はなかった。
「ようこそお越しくださいました。貴殿らのこれまでの奮戦、アルテミス要塞司令、ガルシアの名において心より敬意を表します!」
ドックに降り立った僕たちを出迎えたのは、銃口ではなく、これ以上ないほどの媚びへつらいと過剰なまでのVIP待遇だった。
アルテミス要塞司令ガルシアは、慇懃無礼なまでの笑顔でマリューさんに歩み寄り、両手で握手を強要するように歓待の意を示している。
なぜ、原作のような『拿捕』が起こらなかったのか。
理由は、政治的なリスク計算という名の『打算』に尽きた。
まず第一に、オーブの軍人であるアサギさん、マユラさん、ジュリさんの存在だ。
中立を掲げるオーブ連合首長国。もし彼女たちを不当に拘束し、あまつさえ銃口を向けるような真似をすれば、それは中立国に対する明白な敵対行為であり、連合内部での深刻な外交問題に発展する。
そして第二に、僕という存在だ。
僕が『TC-OS』とジャンク屋組合向けに設計したティエレン。その開発者として名前だけは載せている事実は、この要塞の司令にとっても無視できない価値を持っていた。
ユーラシア連邦は、この世界線においてすでにジャンク屋組合と技術ライセンス契約を結び、ティエレンを主力MSとして量産配備している。
その根幹にある技術を作った人間を粗略に扱うなど、彼らにとっては百害あって一利なしなのである。
「いやぁ、まさかこれほどの戦果を挙げてアルテミスまで辿り着かれるとは! あのクルーゼの鼻を明かしたその手腕、まさに地球連合の至宝ですな!」
ガルシア司令は、僕とアサギさんたちを交互に見比べながら、まるで品定めをするかのように、しかし極めて丁重な態度を崩さない。
彼の目的は、アークエンジェルを奪い取って大西洋連邦の機密を横取りすることよりも、むしろ僕たちを自らの陣営に留め、技術的な恩恵を独占することにあるようだ。
「キラ・ヤマト殿と仰いましたか。貴殿が開発されたというあのティエレンの改修案……我が軍の技術士官たちも、驚嘆しておりましたよ。もしよろしければ、この要塞の設備を自由に使っていただいて構わない。貴殿の技術、ぜひとも拝借したいのです」
「……あ、ありがとうございます」
僕はマリューさんの背後で、司令の薄ら笑いを受け流しながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
これは、銃口を向けられるよりも、遥かに立ち回りが難しい政治の罠だ。
拿捕されるのであれば「脱出」という明確な目的意識を持って戦える。だが、こうして「丁重な客」として囲い込まれては、自由を奪われたまま、気付かぬうちに彼らの政治的な駒として利用され尽くしてしまう。
「キラ君、気を引き締めて。彼らは私たちを助けたいんじゃない。利用したいだけよ」
マリューさんが僕の耳元で小さく囁いた。その声には、軍人として、そして艦長としての強い警戒心が宿っていた。
「はい。ですが今は、彼らが僕達を『保護する』という態度を取っている以上、下手に事を荒立てる事は出来ません」
僕たちはVIP待遇という名の金色の檻の中、アルテミス要塞の奥深くへと案内されていった。
だが、僕の胸には消えない違和感が残っていた。
どれほど丁重に迎えられようとも、ここは連合の要塞だ。そして、この要塞の司令ガルシアが抱いている野心は、いずれ必ず僕たちを追い詰めることになるだろう。
僕を「地球軍の貴重な資産」として囲い込もうとするユーラシアの思惑。そして、背後で虎視眈々とアークエンジェルを狙い続けるであろうザフトの魔の手。
アークエンジェルの脱出劇は、まだ終わってはいない。ここから先は、鉄の弾丸ではなく、政治という名の見えない毒針が飛び交う戦場になるのだと、僕は冷徹に理解していた。
◇◇◇
アルテミス要塞の最深部、厳重なセキュリティの先にあるVIPルーム。
そこに案内されたのは、マリューさん、ナタルさん、ムウさん、そしてオーブの三人娘であるアサギさん、マユラさん、ジュリさん。最後に僕。
まさに、現在のアークエンジェルを動かしている『首脳陣』とも言えるメンバーが、一堂に会していた。
部屋は贅沢な調度品で飾られ、出された飲み物も一級品。ガルシア司令は、大西洋連邦の最新鋭艦を実質的に「保護」しているという優越感と、僕たち技術者を抱き込めるという計算から、終始ご機嫌で鼻を鳴らしていた。
そんな最高潮に機嫌の良いガルシア司令を前に、僕は紅茶のカップを置き、いくつかの「注文」を切り出した。
「ガルシア司令。アークエンジェルを完全に整備し、次の目的地へ向かうため、アルテミスの工廠ラインと資材を一部使用させていただけないでしょうか。それと……防衛戦力の補強として、倉庫で眠っているメビウスを数機。もし配備されているのであれば、宇宙用ティエレンを1機、我が方に提供していただきたいのです」
マリューさんやナタルさんが思わず目を見開くほどの、あまりにも厚かましく、ガメつい要求。味方の基地に命からがら逃げ込んできた敗残兵が口にしていいセリフではない。
だが、僕はすかさず、用意していた端末を提示した。
そこに投影したのは、ユーラシア連邦が現在主力として運用している現行の宇宙用ティエレンの『指揮官用改造プラン』の設計データだ。
「ただで提供しろとは言いません。その見返りとして、このアルテミスに駐留するティエレン部隊の戦闘力を底上げする、最新の改修プランを提示します。これを使えば、ザフトのジンともより対等に渡り合えるはずです」
モルゲンレーテの天才がもたらした「手土産」の価値に、ガルシア司令の目が強欲に光った。ティエレンの指揮官機へのアップデートプランなど、喉から手が出るほど欲しい一品だ。
それを、型落ちのメビウスや、数あるティエレンの在庫たった1機と交換できるというのだから、彼からすれば大儲けの取引だった。
「おお、素晴らしい! 素晴らしい提案だ、ヤマト三尉! 結構、実によろしい! ドックの資材も工廠も、どうぞどうぞ、何でもお好きなだけ使ってください! メビウスもティエレンも、今すぐそちらのハンガーへ回させましょう!」
ガルシア司令は揉み手をしながら、満面の笑みで快諾してくれた。
「ありがとうございます。では、僕たちもずっと動きっぱなしで疲れているので、少し休憩をいただいてから、すぐに作業に入らせていただきます」
僕が丁寧に一礼すると、ガルシアは「ゆっくり休んでくれたまえ!」と、上機嫌で部屋を出て行った。
扉が閉まり、完全に僕たちだけの空間になった瞬間、部屋の空気がふっと緩んだ。
ソファに深く腰掛けたムウさんが、呆れたような、しかし感心しきったような目で僕を見て、ニヤニヤと笑いながら話しかけてきた。
「おいおいおい……キラ。お前さん、やっぱりただの技術官じゃねえな? あのタヌキ親父を完全に丸め込んで、合法的にティエレン1機と、メビウスまでふんだくりやがった」
「人聞きが悪いですよ、ムウさん。ふんだくったんじゃなくて、等価交換です」
「等価交換なぁ。お前、そのメビウスを何に使う気だ? ガンバレルパックの予備でも作る気か?」
ムウさんは、僕がメビウスを「そのままMAとして使う気がない」ことに、鋭く気づいていた。
そう、メビウスのフレキシブルブースターは、僕からすれば『ガンバレル』を作るための最高の材料なのだ。
「そんなことないですよ。向こうがお好きにどうぞって言うんだから、お言葉に甘えて、お好きに使わせてもらうだけですもん。使えるものは、親の仇でも使うのがジャンク屋の教えですから」
僕がすました顔で紅茶を啜ると、アサギさんたちが「もう、キラ君ってば……」とクスクス笑い出し、マリューさんも困ったような苦笑いを浮かべていた。ナタルさんだけは「軍の規律上、些か問題が……」と眉をひそめていたけれど、現状の戦力増強に繋がるため、それ以上の追及はしてこなかった。
「ま、何にせよ時間を勝ち取った上に、おもちゃまで手に入ったんだ。ありがたく数時間は泥のように眠らせてもらうさ」
ムウさんが大きく伸びをする。
僕もまた、早鐘を打っていた心臓を落ち着かせるように、温かい紅茶を飲み干した。
ガルシア司令の機嫌を取っている間に、アルテミスの傘の内部という絶対安全な環境で、僕たちは合法的なパワーアップの切符を手に入れた。
僕はコックピットのシートではない、ふかふかのソファに身を預け、短い、しかし貴重な休息へと意識を落としていった。
◇◇◇
物理的な肉体の疲労がふっと抜け落ち、意識が深い海の底へと沈んでいくような、それでいてどこまでも澄み切った温かい空間へと接続される感覚。
アルテミス要塞のVIPルームの風景が意識の端へと追いやられ、僕の精神は、遠く離れたプラントにいるはずの彼女──ラクスの精神と深く交わっていた。
『……キラ?』
精神の海に波紋が広がるように、ラクスの声が、いや、声というよりは彼女の想いそのものが直接、僕の心に響いてきた。
桜色の髪を揺らす彼女の穏やかな微笑みと、春の陽だまりのような甘く優しい波長が、冷え切っていた僕の精神をゆっくりと包み込んでいく。
あぁ、そうか。もうそんな時間なのか。
いつもなら、ヘリオポリスの自室のベッドで横になり、「今日はゼミでこんなことがあってね」「こちらは議会が少し騒がしくて」と、互いの他愛のない日常を報告し合い、心を通わせて一日を終える。僕たちにとって、この『クロッシング』はそういう平和で愛おしい時間だった。
けれども、今日は違う。
今日からはもう、あの自室のベッドで彼女の気配を感じながら眠りにつくという、当たり前だった平和な日常は二度と戻ってこないのだ。
その喪失感と寂しさが、どうしようもなく胸を締め付けた。
今日一日、アークエンジェルのみんなを守るために、ムウさんやアサギさんたちの前で気丈に振る舞い、無理やり押さえ込んでいた「ただの学生としての恐怖と絶望」が、ラクスの温もりに触れた途端に堰を切ったように溢れ出しそうになる。
『キラ……? どうしたのですか。あなたの波長が、とても……とても悲しくて、酷く疲弊しています。それに、何かひどく恐ろしいものを……』
クロッシング状態では、互いの深い感情を誤魔化すことはできない。
僕の心に渦巻く喪失感、硝煙の匂い、装甲が軋む音、そして……親友に銃口を向け、他者の四肢を撃ち抜いた時のあの吐き気と手の震えが、ラクスにもダイレクトに伝わってしまっていた。
『ごめん、ラクス……』
僕は精神の世界の中で、彼女の幻影にすがりつくように俯いた。
『ヘリオポリスが、戦場になったんだ。ザフトが……クルーゼ隊が襲撃してきて……』
ラクスの波長が、驚きと悲痛に小さく揺れたのがわかった。
『僕は、アークエンジェルと、カレッジの友達を守るために……MSに乗った。引き金を引いた。……敵の中には、アスランも居たんだ』
言葉にするたびに、自分が後戻りできない血みどろの世界に足を踏み入れてしまった現実が重くのしかかる。平和な世界で生きてきた僕の倫理観が、人殺しの道具を操った自分自身を激しく責め立てている。
『キラ……』
ラクスは何も責めなかった。
軍人でもない僕が地球軍に加担していることへの非難も、同じプラントの同胞を傷つけたことへの怒りも、彼女の波長からは微塵も感じられなかった。
代わりにあるのは、ただひたすらに深く、痛みを分かち合おうとする慈愛だけだった。
精神の世界で、彼女がそっと僕を抱きしめてくれる感覚がした。
言葉の代わりに、彼女の波長が静かな子守唄のように僕の精神を撫でる。
『あなたは、戦いたくなかったのですよね。優しいあなたが、お友達を守るために、どれほど傷つきながらその手で引き金を引いたのか……わたくしにはわかります』
その無条件の肯定と慰めが、張り詰めていた僕の心の糸を少しだけ解いてくれた。
『……もう、帰れないんだ。君と話していたあの部屋には』
『ええ。……でも、キラ。あなたの居場所が一つ失われてしまったとしても、わたくしと繋がるこの場所は、決してなくなりません。わたくしが、あなたを一人にはしませんわ』
ラクスの力強い、けれど羽毛のように柔らかい想いが、僕の精神の奥底にじんわりと染み込んでいく。
まだ、終わったわけじゃない。
アルテミスを出れば、またあの苛烈な戦場が待っている。歴史のレールは外れ、この先どうなるかもわからない。
それでも、このクロッシングで繋がる彼女の温もりだけが、今の僕が狂わずに「僕自身のまま」でいられるための、たった一つの錨だった。
◇◇◇
ラクスの精神の中に、キラの残響が染み渡る。
かつてのような、穏やかな海に陽光が降り注ぐような感覚ではない。そこにあるのは、鉄錆の匂いと、終わりなき真空の闇。そして、引き金を引くたびに削り取られていく、キラの真っ白な魂の欠片だった。
(ああ……とうとう、始まってしまったのですね)
ラクスは静かに目を閉じ、プラントの深奥で、自分の意志とは無関係に動き出してしまった運命の奔流を噛み締めていた。
ヘリオポリスという揺り籠を、キラがその手で護り抜いたこと。その事実は、彼女にとっても安堵の極みだった。少なくとも数万の命が、今この瞬間も輝いている。世界を相手に、たったひとりの少年が常識を覆し、歴史を変えるという『結果』を残したことに、誇らしさと、眩いほどの愛しさを覚える。
しかし、その喜ばしさと同じ分だけ、彼女の胸を鋭い痛みが突き刺す。
(戦いたくなどなかったはずなのに……。誰の命も奪いたくないと、あんなにも願っていたのに)
クロッシングを通じて流れ込んでくる、キラの切実な震え。
親友であるアスランと銃口を向け合い、機械の塊とはいえ、そこに人が乗っていることを知っていながら引き金を引かなければならなかった時の恐怖。
キラは自分に言い聞かせているのだ。「戦ってでも守りたいものがあるから」と。
だが、その健気で必死な決意の裏側で、彼は自分の心に深い深い傷を刻み続けている。その傷は、誰も知らない、ラクスだけが知る深い沈黙の淵となって、彼の魂を削り取っていた。
(あなたは今、どれほど心細いのでしょう。どれほど、その優しい手を汚すことに怯えているのでしょう……)
ラクスの瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
指先で触れることさえできない、精神だけの繋がり。クロッシングという奇跡のような力は、今はもう、彼を慰めるにはあまりにも無力で、残酷なほどに『距離』を強調してくる。
今、この瞬間に、彼の側に行きたい。
彼の傷ついた魂を癒すのは、精神のシンクロなどではない。冷たい服の上からでいい、その華奢で、でも誰よりも大きな重責を背負ってしまった彼の肩を、自分の手で抱き寄せたい。
「キラ……」
彼女は祈るように心の中で呟いた。
抱きしめたい。その震えを止め、彼の耳元で「あなたはもう、十分に戦いました」と告げたい。その物理的なぬくもりこそが、今彼にとって何よりも必要な救済なのだと、ラクスは痛いほど分かっていた。
(せめて、夢の中でも……。いえ、せめてこの想いが、あなたの凍えた背中を温める毛布になれますように)
ラクスはそっと守るように寄り添い続けた。
遠く離れた星空の下、明日にはまた戦場という地獄へ戻らねばならない運命を嘆きながら、彼女は少年の孤独が少しでも和らぐよう、慈しむような波長を送り続けた。
いつか必ず、この手であなたを抱きしめるために。