やめてよね、僕が准将みたいに出来るわけないじゃないか 作:星乃 望夢
ジャンク屋の仲間たちと鉄と油にまみれていた数日間とはあまりにも対照的な、静寂と高級な調度品に満ちた空間だった。
民間ステーションの宿泊施設。案内されたのは豪奢なVIPルームだ。
深い赤のカーテン、柔らかな間接照明、そして見たこともないほど肌触りの良さそうなソファ。
「すごい場所……」
僕は自分がこの場にあまりにも浮いている気がして、思わず服の裾をぎゅっと握りしめた。
これぞまさに、プラントの最高評議会議長令嬢という格の高さ。一般人の感覚しか持たない僕には、その光景そのものが眩しすぎて、どうにも居心地が悪かった。
扉が開き、彼女が入ってきた。
「キラ!」
名前を呼ばれたのと同時に、視界がピンク色に染まった。
「ラ、ラクス!?」
僕の頭の中では、もっとこう、整然とした挨拶が始まると思っていたのだ。
『お疲れ様です、キラ。ご無事で何よりですわ』とか、あるいは『直接会うのは初めてだね、ラクス』といった、距離を保った節度ある会話をするものだと思っていた。
しかし、彼女の行動はそのすべてを無慈悲に吹き飛ばした。
柔らかくて、良い香りがした。
全身から伝わるのは、彼女の温もりと、言葉にならないほど切実な安堵の震え。ラクスが僕の背中に回した腕に力を込め、その身を僕の胸へと預けてきた。
「っ……!」
思考が真っ白に弾け飛ぶ。
抱きしめられたその瞬間、僕の脳内では猛烈な勢いでアラートが鳴り響いた。
(だ、ダメだよ。落ち着け、キラ・ヤマト……!!)
抱きしめられている。ラクス・クラインに。
この僕が、抱き返してしまって良いはずがない。そんなことをしたら、それこそ彼女の立場を危うくしてしまうし、何よりこの状況が理解できなさすぎる……!!
彼女は、アスランの婚約者だ。
プラント全土を魅了する平和の歌姫。
最高評議会議長シーゲル・クラインの娘であり、この戦争の渦中に立つ超重要人物。
そんな彼女に対する今時期の設定が頭の中でぐるぐると駆け巡り、頭の中がパニックでショートを起こしている間も、彼女の腕は僕から離れない。
僕があたふたと腕をどこに置いていいか迷い、空中で虚しく宙を彷徨っていると、ラクスは僕の首に回した腕をぐっと引き寄せた。
「──っ」
唇に、柔らかな感触。
僕の思考はそこで完全に、システムダウンを迎えた。
言葉の定義すら吹き飛んだ。それは、彼女の不安や安堵、そして何よりも隠しようのない「想い」が、物理的な熱となって流れ込んでくるような行為だった。
彼女の鼓動が、僕の胸にダイレクトに伝わってくる。アスランとか、立場とか、そんな理屈はすべて宇宙の塵になって消えた。
ただ、今この瞬間、僕を抱きしめている彼女の温かさだけが、絶対的な事実として脳に焼き付けられた。
数分が経過したのか、それとも数秒だったのか。
時空の感覚が麻痺し、ようやく「僕たちが今、キスをしている」という事実に脳が追いついた瞬間、まるでオーバーヒートした機体のように、僕の顔は沸騰するほどの熱に包まれた。
「う……あ……っ」
唇が離れても、僕はどうすることもできずに立ち尽くす。
鏡を見なくてもわかる。鏡がなくても、自分の顔が茹で上がったかのように真っ赤になっているのが、熱さで痛いほど理解できた。
心臓が口から飛び出しそうなほど強く脈打ち、指先から足の先まで、恥ずかしさと愛おしさと困惑で、まともに呼吸をすることすら忘れてしまっていた。
頭の中の回路が過熱して、ショートする音が聞こえそうだった。
豪華なシャンデリアが揺らめくVIPルームの、あまりにも静かな空気の中で、僕の鼓動だけがけたたましく鳴り響いている。
ラクスは僕の腕からそっと身を引くと、その不思議なほど澄んだ瞳で僕を見つめた。彼女の顔には、困惑する僕とは対照的に、柔らかな、慈しむような微笑みが浮かんでいる。
「……キラ。そんなに真っ赤になって……可愛らしいですね」
「か、可愛い……って、いや、ラクス! 今の、その、どういう……っ! アスランは……君の、その……!」
ようやく絞り出した言葉は、支離滅裂な言い訳にもならない問いかけだった。
自分の社会的立場、彼女の婚約者という事実、そして何より「普通の学生」である僕の身分を考えれば、こんなことは夢のまた夢だと思っていた。
いや、夢でさえこんな大胆なシナリオは描かなかった。
ラクスは僕の狼狽ぶりをまるで楽しむかのように、ふふ、と小さな笑い声を漏らすと、僕の胸元に指先を添えた。
「アスランは、アスランですわ。ですが……今は、わたくしがそうしたいと思ったから、そうしたまでですわ」
彼女の言葉は、恐ろしいほどに率直で、そして毅然としていた。
平和の歌姫としての仮面も、クライン派の若きリーダーとしての覚悟も、今の彼女にはない。
そこにあるのは、目の前の「キラ・ヤマト」という一人の少年に向ける、偽りのない感情だけだ。
「貴方はいつも、何でも一人で背負い込もうとしますね」
ラクスは僕の手を取り、彼女の頬へと導いた。彼女の肌は温かく、指先からは微かな体温が伝わってくる。
「アルテミスで、戦いの中で、貴方がどれほど傷つき、どれほど迷っているか……クロッシングを通じて、わたくしの心には痛いほど伝わってきていました。……本当は、今すぐにでも貴方の元へ飛んでいって、抱きしめてあげたかったのですわ」
彼女の言葉に、僕の思考のオーバーヒートが少しずつ収まっていくのを感じた。
そうか。彼女もまた、一人で戦っていたんだ。戦火の中、遠く離れたプラントで、誰にも言えない重圧と不安を抱えながら、僕という「繋がりの先」を探していたんだ。
「ラクス……」
「キラ。わたくしは、貴方に会いたかった。……貴方が、わたくしを見つけてくれたから。……貴方が、わたくしの『歌』を聴いてくださったから」
彼女は再び僕の首に腕を回し、今度はゆっくりと、僕の胸に頭を預けてきた。
贅沢なVIPルームの壁が、世界から僕たちを隔ててくれている。
僕は恐る恐る、震える手を伸ばし、彼女の背中にその腕を回した。
彼女の髪から漂う甘い香りが、僕の脳裏を埋め尽くしていた戦場という名の地獄を、穏やかに塗り替えていく。
……ああ、そうだ。
僕はこれまで、彼女を「守らなければならない対象」としてばかり見ていた。運命のヒロインとして、あるいは救うべき対象として。
でも、彼女は今、こうして生身の人間として、僕の胸の中で呼吸をしている。僕と同じように迷い、僕と同じように誰かを求めていたんだ。
「……僕も、会いたかった。ずっと、会いたかったんだ、ラクス」
僕の口から零れた言葉は、何一つ飾りのない、今の僕の本心だった。
唇に残る熱さと、腕の中の確かな重み。
僕は決意した。たとえ世界がどう転ぼうとも、たとえどれほど過酷な運命が待ち受けていようとも、この温もりだけは、僕の手で絶対に守り抜いてみせる。
たとえ、世界中を敵に回すことになったとしても。
僕はラクスを抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。彼女はそれを拒むことなく、さらに深く僕の胸に身を委ねてくれた。
◇◇◇
クロッシングという精神の繋がりではなく、確かな体温と柔らかさを持った生身の身体で彼女に抱き締められながら、VIPルームにある雲のようにフカフカなベッドで眠る。
前世から数えても、一体どれほどの徳を積めばこんな奇跡のようなシチュエーションに辿り着くというのだろうか。
けれども「アイツら、ロマンティクスしたんだ!」などと外野からからかわれるような、いかがわしい出来事は一切起きなかった。
ただ、ラクスは僕の背中に腕を回し、その小さな頭を僕の胸元に預け、静かな寝息を立てながら朝まで優しく添い寝をしてくれただけだ。
その密着した体温と、時折僕の服をぎゅっと握りしめる彼女の指先の力強さが、言葉以上に彼女が抱えていた孤独と重圧、そして僕への絶対的な信頼を物語っていて、僕はただ彼女の温もりに包まれる夜を過ごした。
そんな甘くも非現実的な一夜が明け、現実の宇宙へと戻った僕を待っていたのは、極めて高度で冷徹な『政治的盤上』の構築だった。
「ご紹介しますわ。こちら、これよりユニウスセブンまでの危険な暗礁宙域において、本艦の道案内と護衛を務めてくださる、ジャンク屋組合所属の傭兵の方です」
翌朝、シルバーウィンドの艦長やクルーたちの前で、ラクスは完璧な『平和の歌姫』の微笑みを浮かべながら僕を紹介した。
僕の乗る紺色のティエレン全領域対応型と、その後ろで沈黙を守る3機のビットティエレン、さらにはそのビットティエレンはアリュゼウス・ユニット一式が収められた巨大なコンテナを曳航していた。
どう見ても重武装の部隊だが、ラクスは「デブリ帯のプロフェッショナルを雇った」という、誰もが納得せざるを得ない極めて筋の通った大義名分を用意してのけたのだ。
シルバーウィンドは、プラント船籍の民間船だ。しかも、血のバレンタインの犠牲者を悼む追悼慰霊団という『平和と非戦の象徴』を乗せている。
だからこそ、この艦にはビーム砲はおろか、護衛のモビルスーツすら一機も積むことができない。もしザフトの主力機であるジンをたった一機でも載せていれば、地球連合軍の哨戒部隊に遭遇した瞬間、「軍事行動の兆候あり」という格好の口実を与え、問答無用で撃沈されてしまうからだ。
しかし、『機動戦士ガンダムSEED ASTRAY』の歴史が示している通り、丸腰で非武装の民間船であろうと、地球軍の部隊は臨検と称して平然と襲いかかっていた。
そこで絶大な効力を発揮するのが、僕の乗る『ティエレン』という存在だった。
地球軍の艦がこのシルバーウィンドを発見したとしても、その周囲を護衛しているのが「ユーラシア連邦の主力量産機」であるティエレンであれば、おいそれと攻撃の引き金を引くことはできなくなる。
もし誤って撃ち落としでもすれば、大西洋連邦とユーラシア連邦の間で取り返しのつかない深刻な外交問題(同士討ち)に発展する可能性もあるからだ。さらにパイロットの身分が「ジャンク屋組合の傭兵」となれば、地球圏最大の民間ネットワークを敵に回すことになり、前線の物資流通網を断たれるという最悪のリスクまで浮上する。
つまり、ジャンク屋組合所属のティエレンという機体そのものが、大西洋連邦の暴走を抑え込む『最上級の政治的抑止力』として機能するのだ。
僕はティエレンのコックピットの中で、シルバーウィンドの美しい船体を見つめながら、深々と嘆息を漏らした。
僕がこうした複雑な政治的打算や、陣営間のパワーバランスを利用した詭弁を思いつけるのは、種を明かせば単純な話だ。前世で数え切れないほどの『ガンダム』シリーズを観てその政治劇に触れ、『銀河英雄伝説』でヤン・ウェンリーやラインハルトの謀略を読み込んでいたという、単なる知識の蓄積があるからに過ぎない。
だが、ラクスは違う。
あの若さで、息をするように各勢力の利害関係を読み切り、僕というイレギュラーな存在とティエレンの政治的価値を瞬時に天秤にかけ、最も安全で確実な盤面を構築してのけたのだ。
(これが……プラント最高評議会議長令嬢、ラクス・クラインの真髄か……)
平和を歌い、愛を説く純真な顔の裏側で、血の一滴も流さずに敵の軍事行動を封じ込める恐るべき頭脳と政治的嗅覚。
昨夜、僕を優しく抱き締めてくれた華奢な少女が、同時に世界を動かすだけの冷徹な才覚を併せ持っているという事実。
けれども、それはそれこれはこれ。
僕にとってラクスはラクスだ。
アコードだから、物語の運命で結ばれるからなんて事は関係ない。
今この世界で生きる僕達が紡いだ絆は本物だから。
◇◇◇
漆黒の宇宙空間を、シルバーウィンドの優美な船体が滑るように進んでいく。
その周囲を警戒するように先導するのは、僕の駆るティエレン全領域対応型と、量子通信で完全に統率された3機のビットティエレン。
そして、その後方から推進器の青白い光を曳いてついてくるのは、不格好だがどこか愛嬌のある旧式の輸送艦、ジャンク屋組合所属の母艦『ホーム』だった。
彼らも「デブリベルトで極上のお宝探しをする」という名目で、たまたま──いや、半分は僕を心配して護衛に付き合うような形で──同じ航路を進んでいた。
ティエレンのコックピットで航路データをチェックしながら、僕の頭の片隅に前世の『機動戦士ガンダムSEED ASTRAY』の記憶が静かに蘇る。
原作の歴史において、ロウさんが地球に降下した後、キラ・ヤマトとの死闘の末に瀕死の重傷を負った『砂漠の虎』アンドリュー・バルトフェルドと、その副官マーチン・ダコスタの窮地を救うことになる。
その縁から、後にコロニー・メンデルに潜伏する三隻同盟のエターナルをロウさんが訪れるという展開があったはずだ。
しかし、その時でさえ、彼がエターナルの艦長であるバルトフェルドさんと会話を交わす描写はあっても、その奥にいるクライン派の象徴──ラクス・クライン本人と直接言葉を交わしたような明確な描写はなかったと記憶している。
それが今、どうだ。
『おいキラ! そっちのお姫様の船、随分と静かだけどよ、何か困ったことがあったら遠慮なく言えよな! 俺自慢のレッドフレームと、お前がくれたフライトユニットのテストも兼ねて、面倒見てやるからよ!』
僕のティエレンを中継した通信回線を通じて、ロウさんの屈託のない、裏表の全くない声がシルバーウィンドのブリッジ、ひいてはラクスの私室にまで届けられている。
『ふふっ。とても頼もしい方ですのね、ジャンク屋のロウ様。キラがいつもお世話になっているようで、わたくしからもお礼を申し上げますわ』
そして、ラクスもラクスで、プラントの歌姫としての気品と礼節を完璧に保ちながらも、どこか楽しげに、ロウさんの気さくな通信に応じているのだ。
いずれ『クライン派』を率いて世界の命運を握るラクス。
後にそのクライン派の重要な要となるバルトフェルドさんを救うことになり、世界の危機を幾度も救うジャンク屋のロウさん。
決して直接交わることのなかったはずの二つの運命の星が、同じ目的地へ向かう航海の最中、僕の『ティエレン』という異物の通信回線を中継して顔見知りになっている。
(……本当に、奇妙な縁だ)
世界の変革がもたらす変化は、何も悲劇や危機の連鎖ばかりではない。
こうして本来なら繋がるはずのなかった『善意の人々』の線と線が結びつくこともある。
『おう! 任せとけって。宇宙のトラブルならジャンク屋組合にお任せあれ、ってな!』
『ええ。心強いお言葉、感謝いたしますわ』
僕は通信越しに笑い合う彼らの声を聞きながら、コックピットの中で小さく、けれど確かな安堵の微笑みをこぼした。
歴史がどう歪もうとも、この出会いだけは絶対に間違っていない。
そんな確かな手応えを胸の奥で感じながら、僕たちは静寂と悲劇の海──ユニウスセブンのデブリ帯へと歩みを進めていった。